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'''マルコ・ポーロ'''({{lang-it-short|Marco Polo}}、[[1254年]] - [[1324年]][[1月9日]])は、[[ヴェネツィア共和国]]の[[商人]]であり、[[ヨーロッパ]]へ[[中央アジア]]や[[中国]]を紹介した『[[東方見聞録]]』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』)<ref name="meiji">{{cite web|url= http://www.lib.meiji.ac.jp/about/exhibition/gallery/32/32_pdf/pamph.pdf |format=PDF|language=日本語|title=図書の文化史|author=阪田蓉子|publisher=[[明治大学]]|accessdate=2010-07-17}}</ref>
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'''マルコ・ポーロ'''({{lang-it-short|Marco Polo}}、[[1254年]] - [[1324年]][[1月9日]])
<ref name="seiji">{{cite web|url= http://www.seijo.ac.jp/pdf/graduate/gslit/azur/06/0602.pdf|format=PDF|language=日本語|title=マルコ・ポーロ『世界の記述』における「ジパング」|author=片山幹生|publisher=[[成城大学]]フランス語フランス文化研究会|accessdate=2010-07-17}}</ref>を口述した[[冒険家]]でもある。
 
 
 
== 概略 ==
 
商取引を父{{仮リンク|ニッコロー・ポーロ|it|Niccolò Polo}}と叔父{{仮リンク|マッフェーオ・ポーロ|en|Niccolò and Maffeo Polo}}に学んだ。1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。帰国後、[[ジェノヴァ]]との戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが<ref name="KobeCuf">{{cite web|url= http://www.kobe-cufs.ac.jp/president/essay/200812.html |language=日本語|title=風の頼りⅡ(第24回)|author=木村榮一|publisher=[[神戸市外国語大学]] |accessdate=2010-07-17}}</ref>、そこで[[囚人]]仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。1299年に釈放された後は豪商になり、[[結婚]]して<ref name="ILS377" />3人の子供に恵まれた。1324年に没し、{{仮リンク|サン・ロレンツォ教会 (ベネツィア)|label=サン・ロレンツォ教会|it|Chiesa di San Lorenzo (Venezia)}}に埋葬された。
 
 
 
彼の先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、[[フラ・マウロの世界図]]が作成された。また[[クリストファー・コロンブス]]<ref name="Landström 1967 27">[[#Landström|Landström, 1967, p=27]]</ref>など多くの人物に刺激を与えた。マルコ・ポーロの名は[[ヴェネツィア・テッセラ空港|マルコ・ポーロ国際空港]]や{{仮リンク|マルコポーロヒツジ|en|Marco Polo sheep}}にも使われ、彼の生涯をテーマにした[[小説]]や[[映画]]なども製作された。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 幼少時 ===
 
マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっておらず、現代の説明はほとんどが推測である。その中で最も引用される情報は[[1254年]]生まれというものである<ref group="注">ほとんどの出典がこの年を採用しており、[[ブリタニカ百科事典]](2002年、p571)でも「1254年前後生まれ。(これは、彼の人生における主要な出来事のほとんどと同じく推測の域を出ない)」と書かれている。</ref>。
 
生誕地は一般に[[ヴェネツィア共和国]]だったと受け取られており、これも正しい場所は不明ながら多くの伝記にて同様に書かれている<ref name="Bergreen25">[[#Bergreen|Bergreen, 2007, p=25]]</ref><ref group="注">他の説を紹介する文献もあり、例えば[[#Burgan|Burgan, 2002, p=7]]では生誕地を現在の[[クロアチア]]である[[ダルマチア]]の島[[コルチュラ島]]だったとしている。[http://www.korculainfo.com/marco_polo_korcula.htm Korcula info]でも「完全なる証拠が揃っているわけではないが、(マルコ)ポーロがコルチュラ島で生まれたという評判がある」と述べ、同島には「マルコ・ポーロ生誕の地」が存在する。[http://www.korcula.net/mpolo/ ウェブサイト]</ref>。
 
生家は代々続く商家で<ref name="Kuf">{{cite web|url= http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/data55.htm |language=日本語|title=マルコ・ポーロ『東方見聞録』|publisher=[[京都外国語大学]]付属図書館|accessdate=2010-07-17}}</ref>、彼の父親ニコーロは[[中東]]貿易に従事する商人として活躍し、財と地位を成しつつあった<ref name="Britannica571"/><ref name="WB">[[#Parker|Parker, 2004, pp=648–649]]</ref>。
 
ニコーロとマフェオの兄弟はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発し<ref name="WB"/>、[[コンスタンティノープル]]に住み着いた<ref name="ILS374">[[#ラルース|ラルース、p374]]</ref>。
 
政変が起こると予測した彼らは、[[1260年]]に財産をすべて[[宝石]]に換えてその地を離れ<ref name="Britannica571">[[#Britannica| Britannica , 2002, p=571]]</ref>、毛皮貿易で栄える[[クリミア]]へ向かった<ref name="ILS374" />。『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東へ向かい、[[クビライ]]とも謁見しているという<ref>{{Harvnb|Yule|Cordier|1923|loc=ch.1–9}}</ref>。
 
この間、マルコの母親は亡くなり、彼は叔父と叔母に養育された<ref name="WB"/>。マルコはしっかりした教育を受け、外貨や貨物船の評価や取り扱いなど商業についても教わった<ref name="WB"/>が、[[ラテン語]]を履修する機会は持てなかった<ref name="Britannica571"/>。
 
 
 
=== 旅 ===
 
[[File:Travels of Marco Polo.png|250px|thumb|旅の行程]]
 
[[1269年]]、ニコーロとマフィオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会った。そして[[1271年]]後半<ref name="seiji" />に兄弟は17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発した。一行が富と宝を得て戻ってきたのは24年後の[[1295年]]、全行程15,000kmの旅であった<ref name="WB"/>。
 
 
 
彼らが帰還してから3年後、ヴェネツィアは敵対していた[[ジェノヴァ]]と交戦状態に入った。マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられた<ref name="KobeCuf" /><ref name="Housou">{{cite web|url= http://lib.u-air.ac.jp/seiyou_nihon/tohokenbunroku.html|language=日本語|title=40.マル・ポーロ『東方見聞録』英訳・1818年|publisher=[[放送大学]]付属図書館|accessdate=2010-07-17}}</ref>。
 
数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた職業的著述家の[[ルスティケロ・ダ・ピサ]]であった<ref name="seiji" /><ref name="WB"/>。しかしピサは、ここに彼自身が聞きかじった物事や他の[[逸話]]や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えてしまった。この記録は、マルコがアジアを旅したことを記録した『東方見聞録』 (The Travels of Marco Polo) として有名になり、中国、[[インド]]、[[日本]]を含む[[極東]]の内実に関する包括的な視点に立った情報を初めてヨーロッパにもたらした<ref>[[#Bram|Bram, 1983]]</ref>。
 
マルコは[[1299年]]8月に釈放され<ref name="WB"/>、父と叔父がヴェネツィア市内の中心部に購入した広大な屋敷「contrada San Giovanni Crisostomo」に戻れた。事業は活動を継続しており、マルコはすぐに豪商の仲間入りを果たした。ただし、その後マルコは遠征への出資こそするも、彼自身はヴェネツィアを離れなかった。[[1300年]]、マルコは商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚し<ref>[[#Bergreen|Bergreen, 2007, p=532]]</ref>、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタと名づけた3人の娘に恵まれた<ref>[[#Power|Power, 2007, p=87]]</ref>。
 
 
 
=== 死去 ===
 
[[File:Chiesa di San Lorenzo.jpg|250px|thumb|ベネツィアのカステロ地区 ([[:en:sestiere|en]]) にあるサン・ロレンツォ・ディ・ヴェネツィア教会。マルコ・ポーロが埋葬されている。写真は再建されたもの。]]
 
[[1323年]]、病気になったマルコ・ポーロは枕も上がらなくなった。翌年1月8日、医師の努力も空しく死期が迫ったマルコは財産分与を認め、亡くなった。[[遺言]]の公認を聖プロコロ教会の司祭ジョバンニ・ジュスティニアーニから得た妻と娘たちは正式に共同[[遺言執行者]] ([[:en:Executor|en]]) となった。遺言に基づいて教会も一部の地権を受け、さらに多くの遺産分与をサン・ロレンツォ教会に行なって遺体を埋葬された<ref name="DeathBergeen">[[#Bergreen|Bergreen, 2007, pp=339–342]]</ref>。
 
また、遺言にはマルコがアジアから連れてきた[[タタール|タタール人]]の[[奴隷]]を解放するよう指示されていた<ref>[[#Britannica|Britannica, 2002, p=573]]</ref>。
 
 
 
マルコは残りの遺産についても、個人や宗教団体、彼が属した[[ギルド]]や組織などへの配分を決めていた。さらに、彼は義理の姉妹が負っていた300[[リラ (通貨)|リラ]]の借金や、サン・ジョバンニ修道院、聖ドミニコ修道会のサン・パウロ教会または[[托鉢修道士]] ([[:en:Friar|en]]) のベンヴェヌートら聖職者が持つ負債の肩代わりもした。ジョバンニ・ジュスティニアーニには[[公証人]]役への報酬、また信者からとして200[[ソリドゥス金貨|ソリドゥス]]が贈られた<ref name="DeathBergeen"/>。マルコの署名は無かったが、「signum manus」の規則が適用され有効なものとされた遺言状は、日付が1324年1月9日になっていた。規則により遺言状に触れる者は遺言者だけと決められていたため<ref>[[国立マルチャーナ図書館]]。マルコの遺書原本を保管している。[http://marciana.venezia.sbn.it/admin/filemanager/file/UserFiles/File/testamento-polo.txt Venezia.sbn.it]</ref>、マルコの没日は9日ではないかとの疑問も生じたが、当時の1日は日没で日付が変わっていたため、現在で言う8日深夜であった可能性もある<ref name="DeathBergeen"/>。
 
 
 
== マルコ・ポーロの旅 ==
 
{{wikisourcelang|fr|Marco Polo}}
 
{{wikisourcelang|de|Marco Polo}}
 
{{wikisourcelang|it|Autore:Marco Polo}}
 
{{wikisourcelang|en|Author:Marco Polo}}
 
[[File:Marco Polo traveling.JPG|200px|thumb|『イル・ミリオーネ』 (Il Milione) の[[ミニアチュール]]]]
 
[[File:Marco Polo, Il Milione, Chapter CXXIII and CXXIV Cropped.jpg|200px|thumb|マルコ・ポーロ存命中に発刊された『イル・ミリオーネ』の一ページ]]
 
{{See|東方見聞録}}
 
 
 
マルコ・ポーロの口述を記した原本は早くから失われ<ref name="Kuf" />、140種類を超える<ref name="meiji" /><ref name="Kuf" />写本間にも有意な差が見られる。初期はフランス語で書かれていたと考えられる本は1477年に[[ドイツ語]]で初めて活字化され、1488年には[[ラテン語]]および[[イタリア語]]で出版された<ref name="Housou" />。しかし、これらにおいても、単独の筋書きに拠るもの、複数の版を統合したり、[[ヘンリー・ユール]]による英語翻訳版のように一部を加えたりしたものがある。同じ英語翻訳でもA.C.ムールと[[ポール・ペリオ]]が訳し1938年に出版された本では、1932年に[[トレド大聖堂]]で発見されたラテン語本を元にしているが、他の版よりも5割も長い<ref name="book">[[#Bergreen|Bergreen, 2007, pp=367–368]]</ref>。
 
このように、さまざまな言語にまたがる異本が知られている<ref name="meiji" />。印刷機([[:en:printing press|en]])の発明以前に行なわれた筆写と翻訳に起因して多くの誤りが生じ、版ごとの食い違いが非常に多い<ref name="NAG p.1">[[#Edwards|Edwards, p=1]]</ref>。これらのうち、14世紀初頭に作られた、「F写本」と呼ばれるイタリア語の影響が残るフランス語写本が最も原本に近いと思われている<ref name="seiji" />。
 
 
 
=== 内容 ===
 
本は、ニコーロとマフィオが[[キプチャク・ハン国]]の[[ベルケ]]王子が住む[[ボルガール]] ([[:en:Bolghar|en]])<ref name="ILS374" />へ向かう旅の記述から始まる。1年後、彼らは[[ウケク]] ([[:en:Ukek|en]]) に行き<ref name="YuleCH2">[[#Yule|Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 2]]</ref>、さらに[[ブハラ]]へ向かった。そこで[[レバント]]の使者が兄弟を招き、ヨーロッパに行ったことがない[[クビライ]]と面会する機会を設けた<ref>[[#Yule|Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 3]]</ref>。
 
これは[[1266年]]に[[大都]](現在の[[北京]])で実現した。クビライは兄弟を大いにもてなし、ヨーロッパの法や政治体制について多くの質問を投げ<ref>[[#Yule|Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 5]]</ref>、また[[ローマ]]の[[教皇]]や教会についても聞いた<ref>[[#Yule|Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 6]] </ref>。兄弟が質問に答えるとクビライは、[[リベラル・アーツ]](文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学)に通じた100人の[[キリスト教徒]]派遣を求めた教皇に宛てた書簡を託した。さらに[[クリスム]]([[:en:Chrism|Chrism]], [[エルサレム]]の、[[イエス・キリスト]]墓前に灯る[[ランプ (照明器具)|ランプ]]の[[油]]<ref name="ILS375">[[#ラルース|ラルース、p375]]</ref>)も持ってくるよう求めた<ref>[[#Yule|Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 7]]</ref>。
 
 
 
ローマ教会では[[1268年]]に[[クレメンス4世 (ローマ教皇)|クレメンス4世]]が没して以来、[[使徒座空位]]にあり、クビライの要請に応える教皇は不在のままだった。ニコーロとマフェオは[[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|テオバルド・ヴィスコンティ]]、次いで[[エジプト]]駐留の教皇使節から助言を受け、ヴェネツィアに戻り次期教皇の即位を待つことにした。彼らがヴェネツィアに着いたのは[[1269年]]もしくは[[1270年]]であり、ここで当時16歳か17歳だったマルコと初めて会うことになった<ref name="YuleCH9">[[#Yule|Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 9]]</ref>。
 
 
 
次期教皇はなかなか決まらず、1271年にニコーロとマフィオそしてマルコの3人はクビライへの説明のために旅に出発した<ref name="ILS376">[[#ラルース|ラルース、p376]]</ref>。彼らが[[キリキア・アルメニア王国|小アルメニア]]のライアスに到着した時、新教皇決定の知らせが届いた<ref name="ILS376" />。彼らに、2人の宣教師ニコロ・ディ・ヴィツェンツァとグリエルモ・ディ・トリボリが同行することになったが、宣教師らは旅の困難さに直面し早々に逃亡してしまう<ref name="ILS376" />。
 
 
 
[[File:Marco Polo - costume tartare.jpg|200px|thumb|left|タタールの[[衣装]]を纏うマルコ・ポーロ]]
 
マルコ一行はまず[[アッコ]]まで船で往き、ペルシャの[[ホルモズガーン州]]で[[ラクダ]]に乗り換えた。彼らは船で中国まで行きたかったが当地の船は航海に適さず、[[パミール高原]]や[[ゴビ砂漠]]を越える<ref name="Housou" />陸路でクビライの夏の都・[[上都]](現在の[[張家口市]]近郊)を目指した。ヴェネツィアを出て3年半後、21歳前後まで成長したマルコを含む一行は目的地に到着し、カーンは彼らを歓迎した<ref name="WB"/>。マルコらが到着した正確な日付は不明だが、研究者によると[[1271年]]から[[1275年]]の間だと見なされている<ref group="注">[[チベット]]の僧侶にして[[クビライ]]に仕えた[[パクパ]]が残した[[日記]]によると、1271年にハーンの異邦の友人が訪れたことが記されている。これがマルコ・ポーロ一行だった可能性はあるが、そこに来訪者の名前は無い。この一件がマルコらを示していないとすれば、彼らが到着した年は1275年([[愛宕松男]]の説によれば1274年)ではないかと考えられる。[[#Britannica|Britannica, 2002, p=571]]</ref>。
 
宮廷にて、一行はエルサレムから持参した神聖なる油と、教皇からの手紙をクビライに渡した<ref name="Britannica571"/>。
 
 
 
一行は元の政治官に任命され、マルコは中国南西部の[[雲南省|雲南]]や[[蘇州市|蘇州]]・[[楊州市|楊州]]で[[徴税]]実務に就いたり、また使節として<ref name="Housou" />帝国の南部や東部、また南の遠方や[[ミャンマー|ビルマ]]、[[スリランカ]]や[[チャンパ王国]](現在の[[ベトナム]])<ref name="ILS376" />など各所を訪れ、それを記録した<ref>{{cite web|url=http://web.soas.ac.uk/burma/pdf/Polo.pdf|title=The Travels pf Marco Polo, The Venetian (1298)|format=PDF|accessdate=2009-07-14|author=W. Marsden|editor=Thomas Wright|date=2004年|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090219141709/http://web.soas.ac.uk/burma/pdf/Polo.pdf|archivedate=2009年2月19日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
 
マルコはイタリア語の他に、[[フランス語]]、[[トルコ語]]、[[モンゴル語]]、[[中国語]]<ref group="注">[[陳舜臣]]『中国の歴史』(五)p361-362では、マルコ・ポーロは[[ペルシャ語]]は理解できたが「漢語」には通じていなかったとある。クビライの臣下には「色目人」と呼ばれる西域人(ヨーロッパ人のマルコもこの中に入る)が多数おり、彼らは本俗法という出身地の習俗を維持することが認められていたため、必ずしも中国語に精通する必要性が無かった。</ref>の4言語に通じ<ref name="Meisei">{{cite web|url= http://www.hino.meisei-u.ac.jp/nihonbun/column/vol-04.html|language=日本語|title=ヨーロッパから見た「最初の日本人像」|author=佐佐木茂美|publisher=[[明星大学]] |accessdate=2010-07-17}}</ref>、一行はクビライにとって有用な知識や経験を数多く持っていたこともあり、マルコの役人登用は不自然ではない<ref name="WB"/>。
 
 
 
17年間中国に滞在した<ref name="Nag132">[[#長澤|長澤、p132-134 マルコ・ポーロの大旅行]]</ref>
 
マルコら一行は元の政治腐敗を危惧し、中国を去りたいという申し出をしたがクビライは認めなかった<ref name="ILS377">[[#ラルース|ラルース、p377]]</ref>。
 
しかし彼らは、もしクビライが亡くなれば重用された自分たちは政敵に狙われ無事にヨーロッパに戻れなくなるのでは、と危惧していた。[[1292年]]、[[イル・ハン国]]の[[アルグン|アルグン・ハン]]の妃に内定したコカチンを迎えに来た使節団が、[[カイドゥ|ハイドゥの乱]]のために陸路を取れず南海航路で帰国することになった際、航路に詳しいマルコらに同行を求めた<ref name="ILS377" /><ref name="Nag132" />。この許可を得た一行は同年に[[泉州市]]から14隻の[[ジャンク (船)|ジャンク]]船団を組んで南へ出航した<ref name="Nag132" />。彼らは[[シンガポール]]に寄港し、[[スマトラ島]]では5ヶ月風待ちして過ごし<ref name="Nag134">[[#長澤|長澤、p134-135 十三世紀の南海路]]</ref>、[[セイロン島]]を経由して<ref name="Housou" />[[インド]]南岸を通過し、[[マラバール]]や<ref name="Kuf" /> [[アラビア海]]を通って1293年2月頃に[[オルムス]]([[:en:Ormus|Ormus]], [[ホルムズ]]とも)に至った<ref name="Nag134" />。2年間にわたる船旅は決して平穏ではなく、水夫を除くと600人いた乗組員は到着時には18人にまで減ったが、コカチンやマルコら3人は無事に生き残った<ref name="Housou" /><ref>Boyle, J. A. (1971). Marco Polo and his Description of the World. ''History Today''. Vol. 21, No. 11. [http://www.historytoday.com/MainArticle.aspx?m=33372&amid=30283909 Historyoftoday.com]</ref>。
 
オルムスに到着し行われた結婚の祝賀会が終わると、マルコらは出発し、陸路で山を超え[[黒海]]の現在では[[トラブゾン]]に当たる港へ向かった<ref group="注">[[#Parker|Parker, 2004, pp=648–649]]の表記に倣うが、[[#ラルース|ラルース、p377]]では[[アルグン|アルグン・ハン]]は妃到着の直前に死去したとある。</ref>。
 
マルコらがヴェネツィアに戻ったのは[[1295年]]、通算24年間の旅を終えた<ref name="ILS377" />。
 
 
 
=== 評価 ===
 
[[画像:Lire 1000 (Marco Polo).jpg|thumb|200px|マルコの肖像が描かれた旧1000リレ紙幣]]
 
* マルコには『イル・ミリオーネ(Il Milione、百万男)』というあだ名がついていた<ref name="TamaMori">{{cite web|url=http://www.tude.tamagawa.ac.jp/joinus/info/forum/forum10/ |language=日本語|title=マルコ・ポーロの謎|author=森良和|publisher=[[玉川大学]]文学部 |accessdate=2010-07-17}}</ref>。『東方見聞録』でルスティケロは「それらはすべて賢明にして尊敬すべきヴェニスの市民、《ミリオーネ》と称せられたマルコ・ポーロ氏が親しく自ら目睹したところを、彼の語るがままに記述したものである。」と述べている。<br />このあだ名の由来には諸説あるがはっきりしたことは分からない。中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたという説、またそれを大風呂敷だとして当時の人がからかい、そのように呼んだという説、またアジアから持ち帰った商品によって「百万長者」になったことを表すという説などがある<ref name="TamaMori" />。
 
* [[大英図書館]]中国部主任の[[フランシス・ウッド]]は『東方見聞録』には実在した中国風俗の多くが紹介されていないことなどを理由に、マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示し、彼は[[黒海]]近辺で収集した情報を語ったと推測している<ref name="TamaMori" /><ref>『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』([[1995年]]、訳、栗野真紀子 草思社、1997年11月、ISBN 4794207891)</ref>。
 
* 日本の[[モンゴル]]史学者の[[杉山正明]]はマルコ・ポーロの実在そのものに疑問を投げかけている。その理由として、『東方見聞録』の[[写本]]における内容の異同が激しすぎること、モンゴル・元の記録の中にマルコを表す記録が皆無なことなどを挙げている。但しモンゴル宮廷についての記述が他の資料と一致する、つまり宮廷内に出入りした人物で無いと描けないということから、マルコ・ポーロらしき人がいたことは否定していない。(杉山正明「世界史を変貌させたモンゴル」、「クビライの挑戦」など参照)
 
* 2010年1月[[イラン]]のハミード・バガーイー文化遺産観光庁長官は、国際シルクロード・シンポジウムにてマルコ・ポーロの旅には西洋が東洋の情報を収集して対抗するための諜報活動という側面があったという説を述べた。これは、単に交易の道だけに止まらないシルクロードが持つ機能を端的に表現したもので、この道が古来から文化や社会的な交流を生む場であり、マルコの旅を例に挙げて示したものである<ref name="tufs">{{cite web|url= http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20100125_154402.html |language=日本語|title=文化遺産観光庁長官「マルコ・ポーロはスパイ目的でシルクロードを旅した」|author=Mardomsalari紙、翻訳:斎藤正道|publisher=[[東京外国語大学]]中東イスラーム研究教育プロジェクト|accessdate=2010-07-17}}</ref>。
 
* [[1981年]]から[[1990年]]まで発行された1000[[イタリア・リラ|イタリア・リレ]]([[リラ (通貨)|リラ]]の複数形)紙幣に肖像が採用されていた。
 
 
 
== 影響 ==
 
[[File:FraMauroDetailedMapInverted.jpg|200px|thumb|1450年にヴェネツィアの僧侶フラ・マウロが作成した地図]]
 
 
 
=== 黄金の国ジパング ===
 
マルコ・ポーロ(Marco Polo)は、自らは渡航しなかったが [[日本]]のことを[[ジパング]] (Zipangu)の名でヨーロッパに初めて紹介した。バデルが校正したB4写本では、三章に亘って日本の地理・民族・宗教を説明しており、それによると中国大陸から1,500海里(約2,500km)に王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島があり、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い[[真珠]]類などを紹介している<ref name="KobeCuf" />。1274年、1281年の[[元寇]]についても触れているが、史実を反映した部分もあれば、元軍が日本の首都である[[京都]]<ref name="Meisei" />まで攻め込んだという記述や日本兵が武器にしていた奇跡の石など、空想的な箇所もある<ref name="seiji" />。
 
 
 
「黄金の国」伝説は、[[奥州平泉]]の[[中尊寺金色堂]]についての話<ref>{{cite web|url=https://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/70833/1/18804330_59_07.pdf |format=PDF|language=日本語|title=砂金の成長についての一考察|publisher=[[東京学芸大学]]|author=本間久英|accessdate=2010-07-17}}</ref>や[[遣唐使]]時代の留学生の持参金および[[日宋貿易]]の日本側支払いに[[金]]が使われていた事<ref name="TamaMori" />によって、広く「日本は金の国」という認識が中国側にあったとも考えられる。また、[[イスラム]]社会にはやはり黄金の国を指す「[[ワクワク]]伝説」があり、これも[[倭国]]「Wa-quo」が元にあると思われ、マルコ・ポーロの黄金の国はこれら中国やイスラムが持っていた日本に対する幻想の影響を受けたと考えられる<ref name="seiji" />。
 
 
 
日本では、[[偶像崇拝]](仏教)が信仰されていることや、埋葬の風習などに触れているが<ref name="Meisei" />、これはジパングと周辺の島々について概説的に述べられており、その範囲は中国の南北地域から[[東南アジア]]および[[インド]]までに及ぶ。また、これらはフリーセックス的な[[性風俗]]ともども[[十字軍]]遠征以来ヨーロッパ人が持っていた「富」および「グロテスク」という言葉で彩られるアジア観の典型をなぞったものと考えられる<ref name="seiji" />。
 
 
 
当時の日中貿易は[[杭州市|杭州]]を拠点に行われていた。しかし1500海里という表現は泉州から[[九州]]北部までの距離と符合し、ここからマルコは日本の情報を泉州で得たと想像される。「ジパング」の呼称も中国南部の「日本国」の発音「ji-pen-quo」が由来と思われる点がこれを裏付ける。この泉州は一方でインド航路の起点でもあり、マルコの日本情報はイスラム商人らから聞いたものである可能性が高い<ref name="seiji" />。
 
 
 
=== ユーラシア情報 ===
 
マルコ・ポーロは旅の往復路や元の使節として訪れた土地の情報を多く記録し、『東方見聞録』は元代の中国に止まらず東方世界の情報を豊富に含み、近代以前の[[ユーラシア大陸]]の姿を現在に伝える<ref>{{cite web|url=http://image.yz.yamagata-u.ac.jp/archive/2002/syllabus/html/000024C9.htm |language=日本語|title=マルコ・ポーロの『東方見聞録』を読む|author=新宮学|publisher=[[山形大学]] |accessdate=2010-07-17}}</ref>。
 
それらは異文化の[[風習]]を記した単なる見聞に止まらず、重さや寸法または[[貨幣]]などの[[単位]]、道路や橋などの[[交通]]、さらには[[言語]]等にも及び、それは[[社会科学]]や[[民俗学]]的観察に比される<ref name="ILS378-379">[[#ラルース|ラルース、p378-379]]</ref>。
 
その中で、マルコはアジアの「富と繁栄」を多く伝えた。世界最大の海港と称賛した泉州<ref>{{cite web|url=http://www.bukkyo-u.ac.jp/bu/guide/symposium/2009/0601/index.html |language=日本語|title=海を越えた陶磁器と茶の文化‐海のシルクロードの出発点 福建|publisher=[[佛教大学]] |accessdate=2010-07-17}}</ref>や杭州<ref>{{cite web|url=http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/hangzhou_miao.html |language=日本語|title=杭州の寺廟について|author=二階堂善弘|publisher=[[関西大学]]文学部|accessdate=2010-07-17}}</ref>の繁栄ぶりに驚嘆し、大都の都市計画の整然さや庭園なども美しさを記している。また、ヨーロッパには無かった[[紙幣]]に驚き、クビライを「[[錬金術師]]」と評した<ref>{{cite web|url=http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/moji.html |language=日本語|title=文字と日本人|author=金川欣二|publisher=[[富山工業高等専門学校]] |accessdate=2010-07-17}}</ref>。
 
なお、彼は元の成立を[[プレスター・ジョン]]と関連づけた記述を残している<ref>{{Cite book|和書|author=笈川博一|date=1992年|edition=第一刷|title=コロンブスは何を「発見」したか|pages=178|publisher=[[講談社]]現代新書|isbn-=4-06-149100-8}}</ref>。
 
 
 
往路では[[シルクロード]]を通り、伝えた中央アジアの情報について探険家の[[スヴェン・ヘディン]]は、その正確さに感嘆した<ref name="TamaMori" />。1271年に[[パミール高原]](かつては[[:en:Mount Imeon|Imeon]]山と呼ばれた)を通過した際に見た大柄な[[ヒツジ]]についても詳細な報告を残しており<ref group="注">[[#Yule|Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 18]] Then there are sheep here as big as asses; and their tails are so large and fat, that one tail shall weigh some 30&nbsp;lb. They are fine fat beasts, and afford capital mutton. 訳:次に、ここには[[ロバ]]と同じ程度の大きさのヒツジがいる。その長く太い尾は1本で30[[ポンド (質量)|ポンド]](約13.6[[キログラム]])はあろう。すばらしく太ったその家畜は、良質な[[マトン]]の供給源となる。</ref>、この羊には彼の名を取りマルコポーロヒツジとの名称がついた<ref>[[#Bergreen|Bergreen, 2007年, p=74]]</ref>。
 
 
 
復路の船旅についても、南海航路の詳細や東南アジアやインドなどの地方やイスラム文化等の詳細を伝え<ref name="Nag134" />、さらに中国やアラブの船の構造についても詳細を記した<ref name="Nag135">[[#長澤|長澤、p135-141 アラブ船の構造、中国船の構造]]</ref>。
 
1292年にインドを通った時の記録には、[[トマス (使徒)|聖トマス]]の墓が当地にあると記している<ref>{{cite web|url=http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/3263/1/KH_027_4_001.pdf |format=PDF |language=日本語|title=国立民族学博物館研究報告27(4) 儀礼の受難‐楞伽島綺‐|author=杉本良男|pages=622|publisher=[[国立民族学博物館]]学術情報リポジトリ|accessdate=2010-07-17}}</ref>。
 
また、イスラムの[[楽器]]についても記録した<ref>{{cite web|url=http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~5jimu/reports/991218-j.html |language=日本語|title=第7回「サライ・アルバム」研究会報告|author=小柴はるみ/[[東海大学]] |publisher=[[東京大学]]東洋文化研究所 |accessdate=2010-07-17}}</ref>。
 
 
 
マルコは宝石の産地を初めて具体的にヨーロッパに知らせた。[[セイロン島]]では良質な[[ルビー]]や[[サファイア]]が採れ、また[[コロマンデル海岸]]の川では雨の後で[[ダイヤモンド]]が拾えるが、渓谷に登って採掘するには[[毒蛇]]を避けねばならないと記した<ref>{{Cite book|和書|author=パトリック・ヴォワイヨ|date=2006年|edition=第一刷|title=宝石の歴史|pages=102-104|publisher=[[創元社]]|isbn-=4-422-21187-0}}</ref>。
 
 
 
=== 世界観への影響 ===
 
* 『東方見聞録』は、[[中世]]におけるヨーロッパ人のアジア観に変化を与えた、キリスト教的世界観である[[普遍史]]は[[エルサレム]]を世界の中心とする[[マッパ・ムンディ]]で図案化されてきたが、マルコ・ポーロの報告は[[パクス・モンゴリカ]]の成立によるアジアの新情報ともども変更を迫られた。[[イシドールス]]の『語源』以来ヨーロッパ人が持っていた怪物や化け物的人類が闊歩する遠方アジア観「化物世界史」<ref group="2-" >[[増田義郎]] 『新世界のユートピア』 [[研究社]]、1971年/中公文庫、1989年</ref>の誤りを数多く指摘した<ref>{{Cite book|和書|author=[[岡崎勝世]]|date=1996|title=聖書vs.世界史|publisher=[[講談社]]現代新書|edition=第一刷|pages=87-93|id=ISBN 4-06-149321-3}}</ref>。
 
* マルコ・ポーロ以降も極東の島・日本はまだ見ぬ憧憬の国であり<ref>{{cite web|url=http://www.library.tohoku.ac.jp/main/exhibit/sp/rec/sp-073.html |language=日本語|title=日欧関係展目録|publisher=[[東北大学]]付属図書館|accessdate=2010-07-17}}</ref>、様々な形で想像され、世界地図に反映されることになった<ref>{{cite web|url= http://library.tsurumi-u.ac.jp/library/tenji/95-200207chizu.html|language=日本語|title=第95回展示 西洋古版日本地図展「西洋古版日本地図展」開催にあたって |author=石田千尋|publisher=[[鶴見大学]]図書館|accessdate=2010-07-17}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.clib.kindai.ac.jp/kikoHR/maps.htm |language=日本語|title=西洋古版日本・アジア地図|publisher=[[近畿大学]]中央図書館|accessdate=2010-07-17}}</ref>。
 
* マルコの報告が[[大航海時代]]を開く端緒のひとつになったという考えもある<ref name="Falchetta">{{Harvnb|Falchetta|2006|p=592}}</ref>。1453年に作成された[[フラ・マウロの世界図]]に対して、ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ[[:en:Giovanni Battista Ramusio|(en)]]は以下のコメントを寄せている<ref name="Falchetta"/>。
 
{{Quotation|That fine illuminated world map on parchment, which can still be seen in a large cabinet alongside the choir of their monastery (the Camaldolese monastery of San Michele di Murano) was by one of the brothers of the monastery, who took great delight in the study of cosmography, diligently drawn and copied from a most beautiful and very old nautical map and a world map that had been brought from Cathay by the most honourable Messer Marco Polo and his father. <br/>この[[羊皮紙]]に描かれたすばらしい世界地図は、[[宇宙誌]]を学ぼうとする者に偉大なる光を与えたもう僧院のひとつである([[ムラーノ]]のサン・ミッシェル、カマルドレセ)修道院の聖歌隊席の横にある大きな飾り棚に見ることができる。克明に写され描かれた至上の美しさといにしえの知を伝える[[海図]]と世界地図は、最も高貴なる伝達者マルコ・ポーロとその父がキャセイ(中国)より伝えしものである。<!-- 注:私家訳 -->|ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ}}
 
 
 
=== 持ち帰ったもの ===
 
* マルコ・ポーロは中国で、住民が細長い食べ物を茹でている光景を見た。この[[料理]]の作り方を教わったマルコはイタリアに伝え、これが発達して[[パスタ]]になったという説がある。この説によると、「[[スパゲッティ]]」(Spaghetti)とはマルコに同行していた船乗りの名が由来だという<ref name="Ibaraki">{{cite web|url= http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/LecRep/01/IntroHum/kokubu.htm |language=日本語|title=PASTAの歴史|author=国分理都子|publisher=[[茨城大学]]|accessdate=2010-07-17}}</ref>。<br />別な俗説では、マルコ一行のある船員と恋仲になった中国娘が、帰国の途に就く男との別れに悲しむ余り倒れ、その時に持っていた[[パン]]の生地を平らに潰してしまった。この生地がやがて乾いてミェヌ(麺)状になったというものもある<ref name="Ibaraki" />。<br />ただし、これには否定論もあり、16世紀に『世界の叙述』をラムージオが校訂した際に紛れ込んだ誤りのひとつで、イタリアのパスタと中国に麺類に関連性は無いとも言われる<ref name="ILS379">[[#ラルース|ラルース、p379]]</ref>。
 
* [[陶磁器]]も持ち帰った。中国の陶磁器はセラミック・ロードと呼ばれる南海ルートでイスラム商人が8 - 9世紀頃からヨーロッパへ持ち込んでいたが、マルコは製造工程も見聞している。しかし、これは西欧での陶磁器製造には結びつかなかった<ref>{{cite web|url= http://fs1.law.keio.ac.jp/~yakusemi/old/yokomichi.html |language=日本語|title=陶磁器の技術移転と国際政治|author=横道千枝|publisher=[[慶應義塾大学]]法学部|accessdate=2010-07-17}}</ref>。
 
* [[方位磁石]]もまた、マルコが中国から持ち帰った一品である。これは[[羅針盤]]へ発展し、[[大航海時代]]を支える道具となった<ref>{{cite web|url= http://www.ecs.shimane-u.ac.jp/~nawate/ssh/node1.html |language=日本語|title=磁石の歴史|author=縄手雅彦|publisher=[[島根大学]]総合理工学部電子制御システム工学科|accessdate=2010-07-17}}</ref><ref group="注">ただし、マルコ・ポーロの方位磁石が地中海の羅針盤に直接繋がったとは言いがたい。ヨーロッパの羅針盤は1302年にフラビオ・ジョイアが発明したという伝説があるが、これも実際は他の地域から導入されたものである。応地利明著『「地図世界」の誕生』(日本経済新聞社、ISBN 978-4-532-16583-3、p197)では、この導入ルートを中国から受容したアラブ世界という説と、バルト海域のノルマン人航海者からの伝播という説を紹介している。</ref>。
 
 
 
=== 中国を目指した他の人々 ===
 
[[File:ColombusNotesToMarcoPolo.jpg|250px|thumb|[[クリストファー・コロンブス]]が手書きの注釈を加えた『東方見聞録』写本]]
 
{{See also|大航海時代}}
 
 
 
マルコ・ポーロ以前にヨーロッパ人が中国を旅した他の例には[[プラノ・カルピニ]]がいる。しかし、彼の旅行の詳細は一般に広く知られることは無く、この点からマルコが先陣を切ったと思われている。[[クリストファー・コロンブス]]はマルコが描写した極東の情報に強く影響を受け、航海に乗り出す動機となった。コロンブスが所蔵した『東方見聞録』が残っており、ここには彼の手書き注釈が加えられている<ref name="Landström 1967 27"/>。[[ベント・デ・ゴイス]]も「東洋で君臨するキリスト教の王」についてマルコが口述した部分に影響され、中央アジアを3年間かけて4,000kmにわたり旅をした。彼は王国を見つけられなかったが、1605年には[[万里の長城]]に至り、[[マテオ・リッチ]](1552年 - 1610年)が呼んだ「China」が、「Cathay」と同一の国家を指していることを立証した<ref>[[#Winchester|Winchester, 2008年, p=264]]</ref>。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|author=Lubbock Basil |date=2008年 |title=The Colonial Clippers |chapter= |pages= |publisher=Read Books |isbn=9781443771191|ref= Basil }}
 
*{{Cite book|author= R. G:son Berg , V. Söderberg |date=1915年 |title=[[:en:Nordisk familjebok|Nordisk familjebok]] (en. Nordic familybook) |edition = Uggleupplagan||chapter= |pages= |publisher=プロジェクト・ルーンバーグ[[:en:Project Runeberg|(en)]]|location=ストックホルム|url=http://runeberg.org/nfca/0687.html|language = [[スウェーデン語]] |isbn=|ref= Berg }}
 
*{{Cite book|author=Laurence Bergreen |date=2007年 |title=Marco Polo: From Venice to Xanadu |chapter= |pages= |publisher= Quercus|location=ロンドン|isbn=9781847243454|ref= Bergreen}}
 
*{{Cite book|author=Leon L. Bram , Robert S. Phillips , Norma Dickey |date=1983 年|title= Funk & Wagnalls New Encyclopedia |chapter= |pages= |publisher=[[:en:Funk & Wagnalls|Funk & Wagnalls]]|location=ニューヨーク|isbn=9780834300514|ref= Bram }}(本書は2006年にWorld Almanac Booksからオンラインで公開された。[https://web.archive.org/web/20090412181453/http://www.history.com/encyclopedia.do?articleId=219550 History.com])
 
*{{Cite book|author= Britannica Editors |date=2002年 |title= The New Encyclopædia Britannica Macropedia|edition=15 |volume=9 |contribution=Marco Polo |chapter= |pages= |publisher=[[ブリタニカ百科事典]] |isbn=9780852297872|ref= Britannica}}
 
*{{Cite book|author=Michael Burgan |date=2002年 |title= Marco Polo: Marco Polo and the silk road to China |chapter= |pages= |url=http://books.google.com/?id=3aPF0rgdslUC&dq=Marco+Polo:+Marco+Polo+and+the+silk+road+to+China&printsec=frontcover&q=Korcula |publisher= Compass Point Books |location=マンケートー[[:en:Mankato, Minnesota|(en)]]|isbn=9780756501808|ref= Burgan}}
 
*{{Cite book|author=Mike Edwards|date=2005年 |title=Marco Polo, Part 1 |chapter= |pages= |location=ワシントンD.C.|publisher=[[ナショナルジオグラフィック協会]] |isbn=|url=http://ngm.nationalgeographic.com/ngm/0105/feature1/index.html|ref=Edwards}}
 
*{{Cite book|author=Piero Falchetta|date=2006年 |title= Fra Mauro's World Map |chapter= |pages= |publisher=Brepols | location = Turnhout|isbn=|ref= Falchetta }}
 
*{{Cite book|author=Björn Landström |date=1967年 |title= Columbus: the story of Don Cristóbal Colón, Admiral of the Ocean |chapter= |pages= |publisher= Macmillan |isbn=|location=ニューヨーク|ref= Landström }}
 
*{{Cite book|author=John McKay, Bennet Hill, John Buckler |date=2006年 |title= A History of Western Society |edition=8版 |chapter= |pages= |publisher=Houghton Mifflin Company |isbn=0618522662|page=506|ref= McKay }}
 
*{{Cite book|author= John Parker |date=2004年 |title=The World Book Encyclopedia|Volume=15|edition=illustrated |contribution=Marco Polo |chapter= |pages= |publisher= World Book, Inc. |location=アメリカ合衆国|isbn=9780716601043|ref= Parker }}
 
*{{Cite book|author=Eileen Edna Power |date=2007年 |title= Medieval People |chapter= |pages= |publisher= BiblioBazaar |isbn=9781426467776|ref= Power }}
 
*{{Cite book|author= Simon Winchester |date=2008年 |title= The Man Who Loved China: Joseph Needham and the Making of a Masterpiece |chapter= |pages= |publisher=[[HarperCollins]] |location=ニューヨーク|isbn=9780060884598|ref= Winchester }}
 
*{{Cite book|author=Frances Wood |date=1998年 |title= Did Marco Polo Go To China? |chapter= |pages= |publisher= Westview Press |isbn=0813389992|url=http://books.google.com/?id=yMRVjwNIqW0C&printsec=frontcover&dq=Did+Marco+Polo+Go+to+China%3F&q=|ref= Wood }}
 
*{{Cite book|author= Henry Yule, Henri Cordie|date=1923年 |title= The Travels Of Marco Polo |chapter= |pages= |publisher= Dover Publications|location=ミネオラ、ニューヨーク|isbn=9780486275864|url=http://en.wikisource.org/wiki/The_Travels_of_Marco_Polo||ref= Yule}}
 
*{{Cite book|author=フランシス・ウッド 粟野真紀子訳|date=1997年 |title=マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか|edition=|chapter=|pages=|publisher=[[草思社]]|isbn=|ref=}}
 
*{{Cite book|author=フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・シン|date=2004年 |title=ラルース 図説 世界史人物百科Ⅰ古代‐中世|edition=第1版|chapter=マルコ・ポーロ|pages=374-379|publisher=原書房|isbn=4-562-03728-8|ref=ラルース}}
 
*{{Cite book|author=長澤和俊|date=1989年 |title=海のシルクロード史|edition=第1版|chapter=マルコ・ポーロの大航海|pages=131-150|publisher=中公新書|isbn=4-12-100915-0|ref=長澤}}
 
 
 
== 読書案内==
 
*『マルコ・ポーロと世界の発見』 ジョン・ラーナー 野崎嘉信・立崎秀和訳 
 
:叢書ウニベルシタス・[[法政大学出版局]]、2008年 大著
 
*『再見マルコ・ポーロ「東方見聞録」』 マイケル・ヤマシタほか、井上暁子ほか訳
 
:日経[[ナショナルジオグラフィック]]社、2002年、写真による記録大著
 
*『[[ヴェネツィア]]の冒険家 マルコ・ポーロ伝』 ヘンリー・ハート、幸田礼雅訳 [[新評論]]、1994年 古典的著作
 
*{{citation|last=Daftary|first=Farhad|title=The Assassin legends: myths of the Ismaʻilis|edition=2|publisher=[[I.B. Tauris]]|date=1994|pages=213|isbn=9781850437055|ref=CITEREFDaftary1994}}
 
*{{citation|last=Hart|first=H. Henry|authorlink=Henry Hart (author)|title=Marco Polo, Venetian Adventurer|publisher=Kessinger Publishing|date=1948|ref=CITEREFHart1948}}
 
*{{Citation|last=Otfinoski|first=Steven|author=Steven Otfinoski|title=Marco Polo: to China and back|date=2003|publisher=Benchmark Books|location=New York|isbn=0761414800|ref=CITEREFOtfinoski2003}}
 
 
 
== 映像作品 ==
 
;映画
 
*[[マルコ・ポーロの冒険 (映画)|マルコ・ポーロの冒険]](1938年、アメリカ合衆国)
 
*[[マルコ・ポーロ 大冒険]](1965年、フランス・イタリア・ユーゴスラヴィア・アフガニスタン)
 
*[[カンフー東方見聞録]](1975年、香港)
 
;テレビドラマ
 
*[[恋のマルコ・ポーロ]](1959年、日本)
 
*[[マルコ・ポーロ シルクロードの冒険]](1982年、日本・イタリア・アメリカ合衆国・西ドイツ・中国)
 
*[[マルコ・ポーロ 東方見聞録]](2008年、アメリカ合衆国)
 
;アニメ
 
*[[アニメーション紀行 マルコ・ポーロの冒険]](1979年~1980年、日本)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[盧溝橋]](別名「マルコポーロ橋」)<ref>{{cite web|url= http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nityuusennsou.htm|language=日本語|title=日中戦争(支那事変・日華事変)|author=田村譲|publisher=[[松山大学]]法学部 |accessdate=2010-07-17}}</ref><ref>[http://www.china.org.cn/english/features/beijng/31253.htm www.china.org] 盧溝橋の解説(英語)</ref>
 
*[[ヴェネツィア・テッセラ空港]](別名「マルコ・ポーロ空港」)
 
  
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イタリア,ベネチアの旅行家。生地はベネチアあるいはダルマチア沿岸のコルチュラ島。東方貿易商人の家に生れ,1271年父ニコロ・ポーロ,叔父マッフェオ・ポーロに従って東方への旅に出た。ローマ教皇グレゴリウス 10世から元朝皇帝あての信任状を得て,ペルシアからタクラマカン砂漠南側の天山南路を通って粛州に到着,そこにしばらく滞在してからおそらく74年 (75年説もある) に元朝宮廷に達した。一行は[[フビライ・ハン]]に教皇信任状とエルサレムの聖油を差出し,その後 90年まで 16~17年間元朝のもとにとどまることになった。3人は元朝宮廷とともに夏の首都の上都 (現ドロンノール) と冬の首都の大都 (現北京) の間を行き来し,また各地を歴訪して過した。 90年イル・ハン国にとつぐ元朝の王女に随行することとなり,92年泉州を出帆してマライ,セイロン (現スリランカ) ,インド西岸を経て,94年ペルシアのオルムズに上陸した。一行は王女をペルシアに残して陸路帰国の旅につき,95年にベネチアに戻った。その後ベネチア艦隊のガレー船の指揮官となり,98年ベネチア軍とジェノバ軍のコルチューラの戦いで,ジェノバ軍に捕えられ投獄された。獄中で物語作者ルスティケッロ・ダ・ピサに東方での経験談,見聞談を筆録させ,イタリア,フランス混合語でできあがったのが『[[東方見聞録]]』として知られる旅行記の原本である。ここにはチパンゴ Cipangoないしジパング Zipanguとして日本についての記述もあるが,当時の東方の社会,経済,文化だけではなく,イタリア人商人の知的・精神的態度を知るうえでも貴重な資料である。釈放されてからのマルコについては不明な点が多いが,結婚して3人の子をもうけている。
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== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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{{脚注ヘルプ}}
 
<div class= "references-small">
 
<references group="注"/>
 
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=== 脚注 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
=== 脚注2 ===
 
本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。
 
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== 外部リンク ==
 
{{Commons&cat|Marco Polo}}
 
*[http://ngm.nationalgeographic.com/ngm/data/2001/07/01/sights_n_sounds/media.2.2.html ナショナル・ジオグラフィック:マルコ・ポーロ ヴェネツィアから中国への旅]
 
*[http://www.metmuseum.org/explore/marco/index.html In the Footsteps of Marco Polo: A Journey through the Met to the Land of the Great Khan]
 
*{{dmoz|Society/History/By_Topic/Exploration/Explorers/Polo,_Marco/|Marco Polo}}
 
*{{gutenberg author| id=Marco+Polo | name=Marco Polo}}
 
*{{CathEncy|wstitle=Marco Polo}}
 
*{{Imdb character|0026847}}
 
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+
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[[Category:マルコ・ポーロ|*]]
 
[[Category:マルコ・ポーロ|*]]

2018/10/4/ (木) 00:11時点における版

Marco Polo
生誕 1254年
Flag of Most Serene Republic of Venice.svg.png ヴェネツィア共和国
死没 1324年1月8日
Flag of Most Serene Republic of Venice.svg.png ヴェネツィア共和国 ヴェネツィア
墓地 サン・ロレンツォ教会(en)
東経12度20分43.79秒北緯45.4372917度 東経12.3454972度45.4372917; 12.3454972
職業 商人、冒険家
著名な実績東方見聞録
配偶者 ドナータ・バドエル
子供 ファンティーナ、ベレーラ、
父:ニコーロ・ポーロ
母:不詳

マルコ・ポーロ: Marco Polo1254年 - 1324年1月9日

イタリア,ベネチアの旅行家。生地はベネチアあるいはダルマチア沿岸のコルチュラ島。東方貿易商人の家に生れ,1271年父ニコロ・ポーロ,叔父マッフェオ・ポーロに従って東方への旅に出た。ローマ教皇グレゴリウス 10世から元朝皇帝あての信任状を得て,ペルシアからタクラマカン砂漠南側の天山南路を通って粛州に到着,そこにしばらく滞在してからおそらく74年 (75年説もある) に元朝宮廷に達した。一行はフビライ・ハンに教皇信任状とエルサレムの聖油を差出し,その後 90年まで 16~17年間元朝のもとにとどまることになった。3人は元朝宮廷とともに夏の首都の上都 (現ドロンノール) と冬の首都の大都 (現北京) の間を行き来し,また各地を歴訪して過した。 90年イル・ハン国にとつぐ元朝の王女に随行することとなり,92年泉州を出帆してマライ,セイロン (現スリランカ) ,インド西岸を経て,94年ペルシアのオルムズに上陸した。一行は王女をペルシアに残して陸路帰国の旅につき,95年にベネチアに戻った。その後ベネチア艦隊のガレー船の指揮官となり,98年ベネチア軍とジェノバ軍のコルチューラの戦いで,ジェノバ軍に捕えられ投獄された。獄中で物語作者ルスティケッロ・ダ・ピサに東方での経験談,見聞談を筆録させ,イタリア,フランス混合語でできあがったのが『東方見聞録』として知られる旅行記の原本である。ここにはチパンゴ Cipangoないしジパング Zipanguとして日本についての記述もあるが,当時の東方の社会,経済,文化だけではなく,イタリア人商人の知的・精神的態度を知るうえでも貴重な資料である。釈放されてからのマルコについては不明な点が多いが,結婚して3人の子をもうけている。

脚注



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