[[江戸時代]]には命婦は4・5名で、[[女蔵人]](にょくろうど)・[[御差]](おさし)とともに構成した'''御下'''(おしも)と呼ばれる下級女房層を構成した三職を合わせると定員7名となった。命婦の上首は「伊予」の名称で呼ばれ、命婦のみならず御下全体を統括する役目を担い、江戸時代には[[壬生家#壬生家(小槻姓)|壬生官務家]]出身者が選ばれる例となり、次第に形式的な地位となっていった。次席は「大御乳人(おおおちのひと)」と呼ばれ、本来は当代の天皇の[[乳母]]を務めた人に対する待遇であったが、後には熟練の[[女官]]として[[掌侍]]の上首である[[勾当内侍]]を補佐して、宮廷内外と勾当内侍との間の取次や事務処理を行った。このため、次第に大御乳人の出身も[[局務家]]である[[押小路家#地下の押小路家(中原氏流)|押小路家]]、[[北面武士|上北面]]である[[松室家]]、[[下鴨神社|下鴨社]][[社司]]である[[梨木家]]の3家出身者が占めるようになっていった<ref>ただし、[[仁孝天皇]]の時の[[鴨脚増子]]のように、親王時代の御乳人(乳母)経験者が天皇[[即位]]によって昇進する例も依然として存在していた。</ref>。大御乳人は当代の天皇との関係で任命されたため、天皇が代替わりをすると伊予は職に留まるが、大御乳人は職を退く例であった。それ以外の命婦は上野・越後・能登といった[[令制国|国名]]で呼ばれ、伊予や大御乳人を補佐するとともに、当時の命婦の職務であった朝の天皇御座所の清掃、天皇の食事の補助、夕方の天皇[[皇后]]の入浴補助を行った<ref>高橋博「近世の命婦について」(初出:『日本歴史』676号(日本歴史学会 編/[[吉川弘文館]]、[[2004年]])/所収:高橋『近世の朝廷と女官制度』([[吉川弘文館]]、[[2009年]]) ISBN 978-4-642-03439-5 第五章)</ref>。