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|略名 = 西晋
 
|日本語国名 = 西晋
 
|公式国名 = 晋
 
|建国時期 = [[265年]]
 
|亡国時期 = [[316年]]
 
|先代1 = 魏 (三国)
 
|先旗1 = blank.png
 
|先代2 = 呉 (三国)
 
|先旗2 = blank.png
 
|次代1 = 前涼
 
|次旗1 = blank.png
 
|次代2 = 前趙
 
|次旗2 = blank.png
 
|次代3 = 成漢
 
|次旗3 = blank.png
 
|次代4 = 東晋
 
|次旗4 = blank.png
 
|位置画像 = Western_Jeun_Dynasty_280_CE.png
 
|位置画像説明 = 西晋の領域。
 
|公用語 = 漢語([[中国語]])
 
|首都 = [[洛陽]]
 
|元首等肩書    = [[皇帝]]
 
|元首等年代始1 = [[265年]]
 
|元首等年代終1 = [[290年]]
 
|元首等氏名1 = [[司馬炎|武帝]]
 
|元首等年代始2 = 290年
 
|元首等年代終2 = [[306年]]
 
|元首等氏名2 = [[恵帝 (西晋)|孝恵帝]]
 
|元首等年代始3 = 306年
 
|元首等年代終3 = [[311年]]
 
|元首等氏名3 = [[懐帝 (西晋)|孝懐帝]]
 
|元首等年代始4 = [[313年]]
 
|元首等年代終4 = [[316年]]
 
|元首等氏名4 = [[愍帝 (西晋)|孝愍帝]]
 
|変遷1 = 魏の禅譲により建国
 
|変遷年月日1 = [[265年]]
 
|変遷2 = [[前趙|漢]]によって滅亡
 
|変遷年月日2 = [[316年]]
 
}}
 
[[Image:Jindestroywu.png|290px|thumb|西晋の[[呉 (三国)|孫呉]]攻略。]]
 
[[Image:China Western Jin.PNG|290px|thumb|西晋の領域。]]
 
[[Image:西晉時期北方各族分布圖.png|290px|thumb|西晋時代の異民族の分布。]]
 
{{中国の歴史}}
 
'''西晋'''(せいしん、{{ピン音|Xījìn}})は、[[司馬炎]]によって建てられた[[中国]]の[[王朝]]([[265年]] - [[316年]])。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、[[後漢]]末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に'''[[晋 (王朝)|晋]]'''だが、[[南京市|建康]]に遷都した後の政権([[東晋]])に対して西晋と呼ばれる。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 司馬氏の台頭 ===
 
[[Image:SimaYi.jpg|200px|thumb|晋の基礎を築いた司馬懿]]
 
司馬氏は[[河内郡 (河南省)|河内郡]]の名族で[[秦]]の滅亡後に[[項籍|項羽]]や[[劉邦]]と共に活躍した[[殷]]王[[司馬ゴウ|司馬卬]]の子孫を称し、後漢時代には既に歴代に郡の長官を輩出していた<ref name="中華の崩壊36">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P36</ref>。[[司馬防]]は後漢末期の争乱から台頭した曹操に接近して関係を持ち<ref name="中華の崩壊36"/>、その長男[[司馬朗]]は曹操の重臣として仕えた。司馬防の次男である[[司馬懿]]は[[208年]]、[[赤壁の戦い]]が発生した年から曹操に仕え、曹操の参謀、そしてその嫡子[[曹丕]]の世話役として曹操の丞相府で地位を確立していく<ref name="中華の崩壊36"/>。[[220年]]に曹操が死去すると司馬懿は丞相府の司馬としてその葬儀を取り仕切り、曹丕を後漢の丞相・魏王に、そして魏皇帝に上り詰めさせる過程で大きな役割を果たしたことから<ref name="中華の崩壊36"/>、曹丕(文帝)の信任を得た<ref name="中華の崩壊37">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P37</ref>。[[226年]]に文帝曹丕が崩御する直前には、皇太子[[曹叡]](明帝)の後事を託される<ref name="中華の崩壊37"/>。
 
 
 
曹丕の崩御で政情に不安を抱いた[[孟達]]に[[蜀]]の[[諸葛亮]]から帰順を勧める使者が遣わされて孟達が魏に反逆した際、司馬懿は鮮やかな戦略でこれを鎮圧して蜀の北進を防いだ<ref name="中華の崩壊37"/>。やがて魏の軍事最高責任者として諸葛亮の率いる蜀軍と対峙し、敗戦もあったが最終的に[[234年]]には五丈原で諸葛亮の死を受けて蜀の勢威を挫いた<ref name="中華の崩壊37"/><ref name="河出中国92">山本『中国の歴史』、P92</ref>。[[238年]]には[[呉 (三国)|呉]]と連動して反魏的行動をとっていた遼東の[[公孫淵]]を討ち、魏における勢威を不動のものとした<ref name="中華の崩壊37"/>。直後に明帝曹叡も崩御し、その直前に幼い[[曹芳]]を魏宗室の[[曹爽]]と共に託された<ref name="中華の崩壊38">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P38</ref>。しかし、曹爽との間に確執が生じ、司馬懿は一時的にその実権を奪われた<ref name="中華の崩壊38"/>。
 
 
 
[[249年]]に司馬懿はクーデターを起こし、[[曹爽]]一派を誅滅した([[高平陵の変]])<ref name="中華の崩壊38"/>。これにより司馬一族は魏の権力を完全に掌握する。2年後の[[251年]]8月、司馬懿は死去した<ref name="中華の崩壊40">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P40</ref>。
 
 
 
=== 覇権の確立 ===
 
[[Image:SimaZhao.jpg|right|thumb|250px|司馬昭 (左は司馬攸)]]
 
司馬懿の死後、その実権は正妻[[張春華]]との息子である長男の[[司馬師]]が継承した<ref name="中華の崩壊40"/>。[[252年]]には[[孫権]]の死に乗じて[[諸葛誕]]を呉に侵攻させるが、[[諸葛誕|東興の戦い]]で大敗を喫した<ref name="中華の崩壊40"/>。しかし司馬師はこの敗戦で諸将を不問としたため<ref name="中華の崩壊40"/>、かえって人心を得ることになった<ref name="中華の崩壊41">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P41</ref>。[[254年]]2月、[[宰相]]の[[李豊]]による反司馬師の密謀が露見し、関係者が処刑され、さらに皇帝曹芳をも皇太后の命令と称して廃位を実行した<ref name="中華の崩壊41"/>。新たな皇帝には文帝の孫[[曹髦]]が傀儡として立てられた<ref name="中華の崩壊41"/>。しかし255年2月、この強引な廃立に対呉戦線の重鎮にあった[[カン丘倹|毌丘倹]]と[[文欽]]ら宿将らが反発して乱を起こし、司馬師自ら鎮圧に赴く<ref name="中華の崩壊41"/>。反乱は鎮圧されたが、司馬師も病状が悪化して死亡した<ref name="中華の崩壊41"/>。
 
 
 
司馬師の死後、同母弟の[[司馬昭]](司馬懿の次男)が後継者となり、大将軍・録尚書事に就任した<ref name="中華の崩壊42">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P42</ref>。[[257年]]5月には対呉戦線で強大な勢力を誇っていた諸葛誕を皇帝や皇太后を奉じて[[258年]]2月までに滅ぼした<ref name="中華の崩壊42"/>。[[260年]]5月には傀儡曹髦のクーデターを鎮圧して殺害した<ref name="中華の崩壊43">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P43</ref>。
 
 
 
この頃になると諸葛亮亡き後の蜀では退潮の色が濃くなっており<ref name="中華の崩壊43"/>、[[263年]]5月に司馬昭は新たな傀儡[[曹奐|元帝]]から蜀征討の詔を出させ、8月に18万の大軍を[[トウ艾|鄧艾]]・[[鍾会]]らに預けて11月に滅ぼした<ref name="中華の崩壊44">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P44</ref>([[蜀漢の滅亡]])。蜀平定前の10月から司馬昭に対して晋公就任の詔が出され、司馬昭は晋公となった<ref name="中華の崩壊45">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P45</ref>。[[264年]]3月には晋王に進み<ref name="河出中国92"/>、5月には司馬懿を晋国の宣王、司馬師に景王を追贈し、10月に嫡子[[司馬炎]]を晋国の世子と定めた<ref name="中華の崩壊45"/>。その後も魏臣に対して本領安堵を成すなど、着実な魏から晋への禅譲の準備が進められていくが、[[265年]]8月に司馬昭は急死した<ref name="中華の崩壊45"/>。
 
 
 
=== 晋の成立 ===
 
[[Image:Jin Wu Di.jpg|thumb|250px|司馬炎]]
 
司馬昭の死後は嫡男の司馬炎が継いで晋王・相国となった<ref name="中華の崩壊47">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P47</ref>。そして265年12月には魏の元帝から禅譲を受けて即位し、年号を泰始と改めた<ref name="中華の崩壊47"/><ref name="河出中国92"/>。
 
 
 
[[270年]]、[[鮮卑]]の{{仮リンク|禿髪樹機能|zh|禿髮樹機能}}が反乱を起こし、秦州[[刺史]]の[[胡烈]]や[[涼州]]刺史の[[牽弘]]を破った。[[277年]]、[[文鴦]]が禿髪樹機能を降伏させた。
 
 
 
[[279年]]、禿髪樹機能は再び反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の[[馬隆]]に大敗し部下の[[没骨能]]に殺害された([[禿髪樹機能の乱]])。
 
 
 
この頃、三国最後の呉は[[孫皓]]の暴政により乱れていたので、[[279年]]11月に武帝は東西から20万余の大軍を[[賈充]]・[[杜預]]・[[王濬]]・[[王渾]]らを大将にして派兵した<ref name="中華の崩壊50">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P50</ref>。晋軍は[[280年]]2月に[[荊州区|江陵]]を攻略し、3月には石頭城を落として呉都の[[建康 (都城)|建業]]に侵攻し、[[呉の滅亡 (三国)|孫皓は降伏して中国は晋によって再び統一された]]<ref name="中華の崩壊50"/><ref name="河出中国92"/>。
 
 
 
=== 乱れた武帝 ===
 
武帝は統一事業を完成させると急に堕落した。それまでの英主が愚君に変貌して女と酒に溺れて朝政を顧みなくなった。また武帝の[[皇太子]]司馬衷が暗愚なため、衆望は武帝の12歳年下の同母弟で優秀だった斉王[[司馬攸]]の後継を期待していた<ref name="中華の崩壊53">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P53</ref>。ところが統一を果たした司馬炎は司馬攸に対して斉への赴任命令を出し、周囲の諫言を封殺した上に司馬攸を支持する派閥を徹底的に粛清して強行した<ref name="中華の崩壊53"/>。司馬攸はこの命令に憂憤して発病し、[[283年]]に死去した。これにより晋宗室を支える人材はいなくなり、武帝の晩年には皇后楊氏の父[[楊駿]]が朝政を掌握して、西晋はかつての[[後漢]]と同じように外戚が国を専権する様相が再現された<ref name="中華の崩壊54">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P54</ref>。
 
 
 
=== 八王の乱 ===
 
{{Main|八王の乱}}
 
武帝は[[290年]]4月に崩御し、皇太子の司馬衷([[恵帝 (西晋)|恵帝]])が第2代皇帝として即位した<ref name="中華の崩壊57">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P57</ref><ref name="民族大移動47">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P47</ref><ref name="河出中国93">山本『中国の歴史』、P93</ref>。しかしこの皇太子は暗愚で知られた人物で、司馬昭からも太子を取り替えるべきと言われ、武帝も一時は真剣に廃太子を検討したことがあった<ref name="新十八史略54">駒田『新十八史略4』、P54</ref>。その前評判どおり、即位した恵帝は政治を放り出し、実権は武帝の晩年から朝政を掌握していた楊[[皇太后]]の父[[楊駿]]が輔政の形で壟断した<ref name="中華の崩壊57"/><ref name="民族大移動47"/><ref name="新十八史略55">駒田『新十八史略4』、P55</ref>。これが後に西晋の根幹を揺るがした[[八王の乱]]の始まりである。
 
 
 
楊駿は2人の弟を要職に就けて一族で専横した<ref name="民族大移動47"/>。だが恵帝の皇后の[[賈南風|賈后]]([[賈充]]の娘)は楊氏の専横を憎み、禁軍の中にも楊氏一族に対する不満が高まり、[[291年]]に汝南王[[司馬亮]]・楚王[[司馬イ|司馬瑋]]と結託して楊駿を殺害した<ref name="新十八史略55">駒田『新十八史略4』、P55</ref>。さらに司馬亮は聡明で人望もあったため<ref name="新十八史略55">駒田『新十八史略4』、P55</ref>、賈后は次第に疎みだして司馬瑋を扇動して司馬亮を殺させ、その罪を全て司馬瑋に負わせて彼も殺害し、こうして結託したはずの2人も殺害して実権を掌握した<ref name="新十八史略56">駒田『新十八史略4』、P56</ref><ref name="中華の崩壊57"/><ref name="民族大移動47"/><ref name="河出中国93"/>。その後は賈后と甥の[[賈謐]]による10年弱の専横が続くが<ref name="中華の崩壊57"/><ref name="民族大移動47"/>、政治そのものは名士の[[張華]]らが見たためかろうじて西晋は安定が保たれた<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref><ref name="民族大移動48">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48</ref>。
 
 
 
だが賈后は美少年を宮中に入れて淫行を繰り返し<ref name="新十八史略57">駒田『新十八史略4』、P57</ref>、[[299年]]12月、賈后は自らの実子ではない[[皇太子]][[司馬イツ|司馬遹]]を廃し、300年[[3月]]に殺害し、これにより西晋全土で賈后に対する専横に反発が生まれ、[[300年]]4月に[[趙]]王[[司馬倫]]は斉王司馬冏と語らって賈后とその一派を殺して首都[[洛陽]]を制圧し、[[301年]]1月に恵帝を廃して自ら即位した<ref name="新十八史略58">駒田『新十八史略4』、P58</ref><ref name="中華の崩壊58"/><ref name="民族大移動48"/>。厳密にはこれが[[八王の乱]]の始まりである。
 
 
 
司馬倫の簒奪は諸王の反発を招き、また司馬倫は皇帝の虚名に酔いしれて一味徒党の誰彼に見境なく官爵を濫発したため朝廷は乱脈政治が展開され、[[301年]]に司馬倫は斉王[[司馬冏]]、河間王[[司馬顒]]、成都王[[司馬穎]]により殺害されて恵帝は復位したが<ref name="新十八史略58"/><ref name="河出中国93"/>、これ以後皇族同士による血を血で洗う争いが続き国内は荒廃した<ref name="民族大移動48"/>。このような争いに嫌気が差した知識人たちは権力から離れ、隠者になり[[清談]]や詩作にふけるようになった。その中でも有名な者が[[竹林の七賢]]である。八王の乱は最終的に[[306年]][[11月]]に東海王[[司馬越]]によって恵帝が毒殺され(病死説もあるが、毒殺の可能性も示唆されている)、12月にその異母弟である[[懐帝 (西晋)|懐帝]]司馬熾が第3代皇帝に擁立される事で終焉した<ref name="中華の崩壊58"/><ref name="民族大移動48"/><ref name="新十八史略59">駒田『新十八史略4』、P59</ref><ref name="河出中国93"/>。
 
 
 
=== 永嘉の乱と西晋の実質的な滅亡 ===
 
{{Main|永嘉の乱}}
 
八王の乱による混乱を見た[[匈奴]]の大首長[[劉淵]]は、[[304年]]に晋より自立して匈奴大単于を称する。この時をもって[[五胡十六国時代]]の始まりとされる。劉淵は更に[[308年]]には皇帝を名乗って匈奴[[単于]]氏族たる[[攣テイ氏|攣鞮氏]]と[[漢|漢室]][[劉氏]]の通婚関係の歴史を背景に国号を漢(後継者で中興の祖となる[[劉曜]]の代にこれを廃して[[趙]]を名乗り、後世からは[[前趙]]と呼ばれる)とした。また[[四川省|四川]]で[[テイ (民族)|氐]]族の[[李雄_(成漢)|李雄]]による[[成漢]](当初大成を、後に漢を称す)が自立するなどした。こうして八王の乱で中央の威令は大きく失墜し、中国には西晋に反抗する諸勢力が各地に割拠する状況に陥った<ref name="中華の崩壊58"/>。それでも東海王司馬越の存在により各地に割拠する勢力は辛うじて抑えられていた。
 
 
 
だが、西晋朝廷内部では実権を握っていた司馬越が詔と称して丞相を称するなどして懐帝との対立が発生<ref name="民族大移動48"/>。[[311年]]には懐帝が遂に司馬越討伐の勅命を発するに至る。司馬越は逃亡先で3月に憂憤のうちに病死した。司馬越の死を好機と見て匈奴による漢朝の武将[[石勒]]は4月に司馬越の跡を継いで晋軍元帥となっていた[[王衍 (西晋)|王衍]]の軍勢10万余を現在の河南省[[苦県]]において殺害・捕虜にした<ref name="新十八史略60">駒田『新十八史略4』、P60</ref><ref name="新十八史略79">駒田『新十八史略4』、P79</ref><ref name="中華の崩壊58"/>。これにより西晋は完全に統治能力と抵抗力を喪失、劉淵はすでに先年死去していたが、その息子[[劉聡]]は劉曜と[[王弥]]そして石勒に大挙して311年6月に西晋の首都洛陽を攻めさせ、略奪暴行の限りを尽くした<ref name="中華の崩壊58"/><ref name="民族大移動48"/>。
 
 
 
この一連の動乱は時の年号をとって[[永嘉の乱]]と呼ぶが、西晋側から見て異民族の反乱であり、実質は匈奴後裔国家に敗戦し国が滅ぼされたに等しかった。洛陽は破壊され何万人もが殺害され、懐帝は玉璽と共に漢の都[[堯都区|平陽]]に拉致され<ref name="新十八史略60"/>、さらに前帝=恵帝の皇后(『恵皇后』)[[羊献容|羊氏]]に至っては劉曜の妻とされた<ref name="中華の崩壊58"/>。懐帝は生かされたものの、劉聡により奴僕の服装をさせられ、酒宴で酒を注ぐ役をさせられ、杯洗いをさせられ、劉聡外出の際には日除けの傘の持ち役にされたりという屈辱を与えられ<ref name="新十八史略60"/>、人々からは晋皇帝のなれの果てと嘲り笑われて屈辱を嘗めつくした後の[[313年]]1月に処刑された<ref name="民族大移動49">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49</ref><ref name="新十八史略61">駒田『新十八史略4』、P61</ref><ref name="河出中国94">山本『中国の歴史』、P94</ref>。こうして西晋は事実上滅亡した<ref name="中華の崩壊58"/><ref name="民族大移動48"/><ref name="新十八史略61"/>。
 
 
 
=== 完全な滅亡 ===
 
懐帝が処刑されたことを聞いて[[長安]]にいた懐帝の甥の司馬鄴([[愍帝 (西晋)|愍帝]])は313年4月に即位して漢(前趙)に抵抗した<ref name="新十八史略61"/>。しかし長安も漢の劉曜により攻撃され、晋軍は抵抗するが連敗した。またこの愍帝の政権は華北に残存していた西晋の残党により建てられた極めて脆弱な政権で支配力は長安周辺にしか及ばない関中地域政権でしかなく、その長安は八王の乱で既に荒廃していたために統治力も無く、さらに西晋の諸王も援軍に現れなかったため、[[316年]]に長安が陥落して洛陽と同じく略奪殺戮の巷となり、愍帝は漢に降伏し、平陽に拉致された<ref name="中華の崩壊58"/><ref name="民族大移動49"/><ref name="新十八史略61"/>。こうして西晋は完全に滅亡した<ref name="民族大移動49"/><ref name="新十八史略61"/>。
 
 
 
愍帝は生かされたが、懐帝同様の扱いを受けた後の[[317年]]12月に漢の劉聡により殺された<ref name="中華の崩壊58"/><ref name="民族大移動49"/><ref name="新十八史略61"/><ref name="河出中国94"/>。ここに司馬昭・司馬炎系の皇統は断絶した。
 
 
 
これより先、司馬越の命令で江南の方面軍司令官として安東将軍・都督[[揚州 (古代)|揚州]]諸軍事として統治に当たっていた琅邪王・司馬睿([[元帝 (東晋)|元帝]]。司馬懿の四男[[司馬伷]]の孫)は<ref name="中華の崩壊119">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P119</ref>、愍帝が降伏すると317年3月に晋王を称して建武と改元した<ref name="民族大移動49"/>。そして殺されたことを受けると、318年3月に即位して[[建康 (都城)|建康]]に都して[[東晋]]を建国した<ref name="中華の崩壊121">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P121</ref><ref name="民族大移動49"/>。
 
 
 
== 社会 ==
 
短命に終わった西晋だが、政治・文化において重要なものが少なくなく、その後の[[魏晋南北朝時代]]の特徴を形作ることになる。
 
 
 
=== 軍隊 ===
 
西晋は曹魏をそのまま乗っ取った形で成立したため、高い軍事力を持っていた。しかしこれは三国時代という戦時体制のために成立していたためであり、統一後は軍備は必要ないとして武帝は若干を例外として州郡に所属していた兵士を帰農させて平時体制に移行し、有事の場合には洛陽など要衝に展開する中央軍を派遣するという形をとった<ref name="中華の崩壊51">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P51</ref>。これは後漢末期に地方における分権的な軍事状況を放置した結果、群雄割拠が成立した事を恐れての処置であったが、このために有事すなわち異民族の反乱が起こると地方は無力で対応できず、逆に永嘉の乱で西晋が滅亡する契機となった。
 
 
 
また八王の乱で東海王司馬越が自軍に鮮卑を、成都王[[司馬穎]]が匈奴など諸王が少数異民族を軍事力として利用したため、少数民族が中国内地に流入する事になった<ref name="民族大移動49"/><ref name="河出中国93"/>。
 
 
 
=== 農民 ===
 
武帝は280年に『戸調式』の発布によって[[占田・課田制]]と呼ばれる全国的な田地制度と徴税制度を推し進めた<ref name="中華の崩壊51"/>。占田とは世襲が認められた私有地のことで、課田とは農民に貸し与えられる国有地の事である。農民は国より課田を貸し与えられ、そこからの収穫の一部を税として納めると言うものであり、これは[[均田制]]の前身として歴史家からは大いに注目される。ただ、西晋が短命に終わったためにこの制度の実施期間も短く、その成果がどれほど上がったのかは判然としない。
 
 
 
もともと魏は[[曹操]]時代の[[196年]]に[[許昌]]で[[屯田]]制度を施行し、これはやがて洛陽や長安など主要都市でも展開して<ref name="中華の崩壊51"/>、中央の司農卿の管轄下において農産に勤めていた<ref name="中華の崩壊52">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P52</ref>。だがこの制度における収益、すなわち典農部民や屯田客といわれる屯田兵は官牛を給される者が収穫の6割、私牛は5割を国家に納税する事が義務付けられるなど国力充実で大きく貢献したのは事実だが大変厳しいものであったため、この制度は西晋禅譲時に大半が廃止され、残りも呉の滅亡を契機に完全に廃止されて屯田兵は一般州郡に組み入れられて負担も一般民並に軽減された<ref name="中華の崩壊52"/>。これも三国時代という戦時体制から統一後の平時体制に移行するために実施された制度であり、西晋から一定の土地を与えられて再生産を保証された農民は戸ごとに国家に対して耕作地から生産される穀物(田租)と絹(調)を納税する事を義務付けられていく事になる<ref name="中華の崩壊52"/>。
 
 
 
ただ西晋時代は豪族の権力が強く、土地占有制限は表向きの事で現実にはほとんど法的強制力はなく、西晋は簒奪した経緯から新しい経済制度を発布する事で新王朝のあるべき姿を示しただけ、とする見解もある<ref name="河出中国93"/>。
 
 
 
=== 皇族 ===
 
魏は文帝の時代に弟の[[曹植]]が皇位継承をめぐって激しい暗闘が起こった事例から、文帝の命令により宗室の人々は官職への就任が許されず、絶えず国家の監視下に置かれていた<ref name="中華の崩壊48">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P48</ref>。だがこの政策は宗室の内紛を抑えたが、かえって皇族の権力を弱体化させて司馬氏の台頭を抑えきれなかったという欠点を持っていた。武帝はこれとは逆に宗室に対して高位高官をはじめとする官職に就任する事を許し、それ以外にも宗室を優遇している<ref name="中華の崩壊48"/>。これは皇帝権力の孤立化を防ぐためであり<ref name="河出中国93"/>、武帝が即位した直後には司馬一族から27人が郡王として封じられるなどして皇族の力が極めて強かったが<ref name="中華の崩壊48"/>、これが逆に八王の乱を成した一因にもなったのは事実であり、逆に諸王に権力を分散したために晋の権力基盤そのものが揺らぎ、八王の乱で有力者がほとんど死んで権力を支える者が誰もいなくなるという事態になった<ref name="河出中国93"/>。
 
 
 
=== 制度 ===
 
政治においては前代の魏によって作られた[[九品官人法]]が、司馬懿によって中央へ大きく人事権のウェイトがかかるよう改められ、さらに晋になって血筋が重要視されるようになり、貴族制が形成され始める。この傾向は東晋になってさらに顕著になり、六朝貴族政治へと繋がる。また統一前の[[264年]]には司馬昭により、新しい法の編纂が命じられ、[[268年]]に完成する。これは当時の[[元号]]・[[泰始 (晋)|泰始]]を取って『[[泰始律令]]』と呼ばれる。これ以前は律令という区分は存在せず、この泰始律令は律と令とを分けた中国史上初めての制度とされる。この律令は魏晋南北朝時代を通じて基本的に踏襲され、[[唐]]律令へと繋がっていく。
 
 
 
ただし武帝自身は極めて寛大であり、魏の宗室の[[禁錮]]([[公職追放]])を265年のうちに解き、[[266年]]には魏代より続いていた後漢宗室の[[禁錮]]も解除した<ref name="中華の崩壊48"/>。これにより曹植の遺児[[曹志]]や諸葛亮の子孫が任用されるなど<ref name="中華の崩壊48"/>、極めて多くの人材が任用されている。
 
 
 
=== 地方 ===
 
華北は武帝の生存時から遊牧騎馬民族の侵入を受けた。またその規模は定かでないが、後漢末から三国時代にかけて起きた大陸の人口減やそれへの対策も兼ねて曹操以来、継続された匈奴等周辺諸民族の華北移住政策も、その構図的な主因を作ったと言える。ただし武帝時代はこれらの騎馬民族に対する対応は何とか機能しており、華北は万全に統治されていた。だが武帝が崩御し八王の乱が起こると、諸王の中には遊牧民族の助力を得る者も現れ、これが結果的に永嘉の乱と異民族による華北での建国、そして西晋の滅亡へとつながり、華北では漢族の殺戮と都市の破壊、飢饉と略奪なども相次いで荒廃した。
 
 
 
四川すなわち三国時代の蜀では、華北の混乱で大量の流民が発生したが、この流民を利用した蛮族の[[李特]]によって[[成都]]が落とされ、その息子[[李雄]]によって[[成漢]]を建国して帝号を自称するなどされた<ref name="中華の崩壊117">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P117</ref>。
 
 
 
湖北では蜀で自立した李雄に対抗するために西晋は兵を徴発しようとしたが、民衆はこぞってこれを拒否して西晋に対し反乱を起こした<ref name="中華の崩壊118">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P118</ref>。当時、湖北は八王の乱からの荒廃を免れて豊作であり、華北の難民は蜀の他に湖北に逃れる者も多かった<ref name="中華の崩壊118"/>。これを背景にして義陽蛮の[[張昌]]は西晋に対して反乱を起こした<ref name="中華の崩壊118"/>。この反乱は呉が滅亡した後は西晋により比較的平穏が保たれていた華南にまで波及し、華南方面の豪族は脅威を抱いた<ref name="中華の崩壊118"/>。ただし華南方面の豪族は西晋に反抗はせず、むしろ彼らと手を結んで反乱を平定し、当面の安定を手に入れている<ref name="中華の崩壊118"/>。だが、華北で八王の乱と永嘉の乱が激しさを増して華北の難民が華南に流れ込むようになると、華南も動乱に否応なしに巻き込まれた<ref name="中華の崩壊118"/>。この混乱の波及を見た西晋の下級官吏の[[陳敏 (西晋)|陳敏]]は華南で西晋からの離反と自立を目論むも<ref name="中華の崩壊118"/>、華南の豪族はこぞって協力を拒否、逆に[[寿春]]に駐屯していた西晋軍と呼応して[[307年]]に陳敏を滅ぼしている<ref name="中華の崩壊119"/>。このように華南、特に江南は比較的安定が保たれており、また社会の安定と繁栄を求めて江南の豪族は西晋に忠実であり、これが後に西晋滅亡後の東晋建国へとつながっていく。
 
 
 
== 文化 ==
 
前述したように西晋では[[老荘思想]]が流行し、[[竹林の七賢]]と呼ばれる人物たちがいた。ただしこの七賢とは後世の人物が並べただけのことであって、この7人がグループを作っていたわけではない。この七賢のエピソードは[[宋 (南朝)|宋]]期に纏められた『[[世説新語]]』に数多く載っている。「ケチのあまり、果実を売るのに種をくり貫いて売った」などという小話のようなエピソードが多い。また戦乱の時代の中で[[仏教]]が飛躍的にその勢力を伸ばした。
 
 
 
ただ八王の乱や永嘉の乱のような動乱期にこのような文人が西晋の中枢にいたことは不幸な事で軍事力の弱体化や政治の退廃を招いたことは否めず、[[太尉]]・[[太傅]]と重職にあった王衍が清談にふけった事を処刑直前に後悔したり<ref name="新十八史略80">駒田『新十八史略4』、P80</ref>、西晋朝廷の官府が清談の道場になり清談が立身出世の手立てになるなどの流行を来たした事がそれを如実に示し<ref name="新十八史略77">駒田『新十八史略4』、P77</ref>、西晋滅亡の一因を成した(清談亡国)<ref name="新十八史略80"/>。
 
 
 
== 異民族対策 ==
 
武帝は曹魏の時代に異民族対策のために置かれていた統御官を継承してさらに多くの統御官を設置した<ref name="民族大移動20">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P20</ref>。南蛮校尉([[襄州区|襄陽]])、南夷校尉([[寧州]])、西戎校尉(長安)、平越中郎将([[広州 (広東省)|広州]])などである<ref name="民族大移動21">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P21</ref>。恵帝の時代になるとこれらの校尉は[[刺史]]を兼任するようになった<ref name="民族大移動21"/>。
 
 
 
西晋時代は多くの異民族統御官が新設されているが、これらは少数民族対策に重要な役割を果たす事になり、東晋時代にも受け継がれる事になる<ref name="民族大移動21"/>。また西晋の首都洛陽や長安など中心部は山西省に根を張っていた匈奴に近く、あるいはそれまでの動乱期に移民して洛陽付近に居住する少数民族などが根を張っていたため、武帝時代には[[郭欽]]が、恵帝時代には[[江統]]がそれぞれの民族を原住地に帰して防備を厳しくすることを提言したが、いずれも採用されずに逆に少数民族の中国内地移住が進行していくことになった<ref name="民族大移動23">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P23</ref>。
 
 
 
== 西晋の皇帝 ==
 
[[画像:司馬晋系図.png|right|thumb|晋系図(丸囲み数字は西晋の即位順、ローマ数字は東晋の即位順)]]
 
* [[司馬懿]]は、司馬炎によって、高祖宣帝と追号された。
 
* [[司馬師]]は、司馬炎によって、世宗景帝と追号された。
 
* [[司馬昭]]は、司馬炎によって、太祖文帝と追号された。
 
 
 
# 世祖[[司馬炎|武帝]](司馬炎、在位[[265年]] - [[290年]]) 司馬昭の長男
 
# [[恵帝 (西晋)|孝恵帝]](司馬衷、在位290年 - [[306年]]) 先代の次男
 
#* 建始帝([[司馬倫]]、在位(僭称)[[301年]]) 司馬懿の九男
 
# [[懐帝 (西晋)|孝懐帝]](司馬熾、在位306年 - [[311年]]) 先代の異母弟
 
# [[愍帝 (西晋)|孝愍帝]](司馬鄴、在位[[313年]] - [[316年]]) 先代の甥
 
 
 
=== 系図 ===
 
{{familytree/start}}
 
{{familytree|border=1| AAA |v| BBB | | | | | |,| CCC | AAA=[[司馬懿|高祖宣帝懿]] |BBB=[[司馬師|世宗景帝師]] |CCC=<sup>2</sup>'''[[恵帝 (西晋)|恵帝衷]]'''}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| | | | | | | | |!| }}
 
{{familytree|border=1| | | |)| DDD |-| EEE |-|+| FFF |-| GGG | DDD=[[司馬昭|太祖文帝昭]] |EEE=<sup>1</sup>'''[[司馬炎|世祖武帝炎]]''' |FFF=[[司馬晏|呉孝王晏]] |GGG=<sup>4</sup>'''[[愍帝 (西晋)|愍帝鄴]]'''}}
 
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{{familytree|border=1| | | |)| HHH |-| III |.|`| JJJ | HHH=[[司馬チュウ|琅邪武王伷]] |III=[[司馬覲|琅邪恭王覲]] |JJJ=<sup>3</sup>'''[[懐帝 (西晋)|懐帝熾]]'''}}
 
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{{familytree|border=1| | | |`| LLL | | | | |!| | LLL=[[司馬倫|趙王倫(建始帝)]]}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | KKK | KKK=[[東晋]]の[[元帝 (東晋)|元帝]]に続く}}
 
{{familytree/end}}
 
 
 
== 西晋の元号 ==
 
# [[泰始 (晋)|泰始]]([[265年]]-[[274年]])
 
# [[咸寧 ()|咸寧]]([[275年]]-[[280年]])
 
# [[太康 (晋)|太康]](280年-[[289年]])
 
# [[太熙]]([[290年]])
 
# [[永熙 (晋)|永熙]](290年-[[291年]])
 
# [[永平 (晋)|永平]](291年)
 
# [[元康 (晋)|元康]](291年-[[299年]])
 
# [[永康 (晋)|永康]]([[300年]]-[[301年]])
 
# [[永寧 (晋)|永寧]](301年-[[302年]])
 
# [[太安 (晋)|太安]](302年-[[303年]])
 
# [[永安 (晋)|永安]]([[304年]])
 
# [[建武 (西晋)|建武]](304年)
 
# [[永興 (晋)|永興]](304年-[[306年]])
 
# [[光熙]](306年)
 
# [[永嘉 (晋)|永嘉]]([[307年]]-[[313年]])
 
# [[建興 (晋)|建興]](313年-[[316年]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
<references group="注釈"/>
 
=== 引用元 ===
 
<references/>
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[川本芳昭]]『中国の歴史05、中華の崩壊と拡大。魏晋南北朝』([[講談社]]、[[2005年]][[2月]])
 
* [[三崎良章]]『五胡十六国、中国史上の民族大移動』([[東方書店]]、[[2002年]]2月)
 
* [[山本英史]]『中国の歴史』([[河出書房]]新社、[[2010年]][[10月]])
 
* [[駒田信二]]ほか『新十八史略4』([[河出書房]]新社、[[1997年]][[7月]])
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[魏晋南北朝表]]
 
 
 
{{Commons|Jin Dynasty (265-420)}}
 
 
 
{{先代次代|[[中国の歴史]]||[[三国時代_(中国)|三国時代]]|[[東晋]]<br />[[五胡十六国時代]]}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:せいしん}}
 
[[Category:晋朝|*せいしん]]
 
[[Category:魏晋南北朝時代の王朝]]
 

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