ロシア帝国

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ロシア帝国(ロシアていこく、ロシア語Российская империя ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランドリボニアリトアニアベラルーシウクライナポーランドカフカーズ中央アジアシベリア外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。

概要と呼称

君主がツァーリを名乗ったそれ以前のロシア・ツァーリ国においても「ロシア帝国」と翻訳されることがある[n 1][n 2]が、ロシア語では「ツァーリ」[1](本来は東ローマ皇帝を指したが、やがて一部の国のハーンなどを指す語となった)と「インペラートル」(西欧に倣った皇帝を指す語)[2][3]は異なる称号であるため、留意を要する[3]

帝政は1721年にツァーリ・ピョートル1世皇帝インペラートル)を宣言したことに始まり、第一次世界大戦中の1917年に起こった二月革命でのニコライ2世の退位によって終焉する。

領土は、19世紀末の時点において、のちのソヴィエト連邦の領域にフィンランドポーランドの一部を加えたものとほぼ一致する面積2000万km2超の広域に及び、1億を越える人口を支配した。首都は、1712年まで伝統的にモスクワ国家の首府であったモスクワからサンクトペテルブルクに移され、以降帝国の終末まで帝都となった[n 3]

政治体制は皇帝による専制政治であったが、帝政末期には国家基本法(憲法)が公布され、国家評議会ドゥーマからなる二院制議会が設けられて立憲君主制に移行した。

宗教はキリスト教正教会ロシア正教会)が国教ではあるが、領土の拡大に伴い大規模なムスリム社会を内包するようになった。そのほかフィンランドやバルト地方のルター派、旧ポーランド・リトアニアカトリックそしてユダヤ人コミュニティも存在した。

ロシア帝国の臣民は貴族聖職者名誉市民商人・町人・職人カザークそして農民といった身分に分けられていた。貴族領地の農民は人格的な隷属を強いられる農奴であり、ロシアの農奴制は1861年まで維持された。シベリア先住民中央アジアのムスリムそしてユダヤ人は異族人に区分されていた。

ロシア帝国ではロシア暦(ユリウス暦)が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい[4]

脚注

  1. "Царство"に「Царьの国」「帝国」「治世」などの訳語を当て、"Царь"に「帝王」「皇帝」「国王」「ロシヤ皇帝」「第一人者」「王」などの訳語を当てている出典:八杉貞利著『岩波ロシヤ語辞典 増訂版』岩波書店(1465頁、第9刷、1970年11月20日発行)
  2. "Царство"に「帝国」「王国」「治世」などの訳語を当て、"Царь"に「(ロシア)皇帝」「ツァーリ」「帝王」「国王」「第一人者」などの訳語を当てている出典:共編『ロシア語ミニ辞典』白水社(414頁、第8刷、2008年2月10日発行)
  3. ピョートル2世の治世に2年間(1728年-1730年)だけモスクワに還都している。


関連項目