デメトリオ・アルベルティーニ
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デメトリオ・アルベルティーニ(Demetrio Albertini, 1971年8月23日-)はイタリア・ロンバルディア州出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはMF(レジスタ)。1990年代のACミランとイタリア代表のレギュラーを務め[1]、セリエA制覇と2度のUEFAチャンピオンズリーグなど、多くのタイトルを獲得した。また、キャリア終盤にはスペインのFCバルセロナに移籍し、最終シーズンにはリーガ・エスパニョーラを制覇した。
イタリア代表では、FIFAワールドカップとUEFA欧州選手権にそれぞれ2度出場し、共に1度決勝に進出した。2005年12月引退し、2006年7月にイタリアサッカー連盟(FIGC)副会長に就任した。
Contents
経歴
クラブ
ACミラン
モンツァ・エ・ブリアンツァ県のベザーナ・イン・ブリアンツァで生まれ、10歳でイタリアのACミランの入団テストに合格。1989年1月15日のホームのコモ戦で、わずか17歳でセリエAデビューを果たした。しかしその後は出場機会に恵まれず、1990年からセリエBのパドヴァにレンタルで移籍した。パドヴァでは28試合に出場して5得点を挙げ、最も有望な若手イタリア人選手に送られるディアドラ賞を獲得した[2]。その活躍が認められて翌シーズンにミランに復帰すると、その年から中盤のレギュラーの地位を確立した[3][4]。
アルベルティーニはミランで、1992年からの3連覇を含むセリエAを5度、公式戦出場406試合(セリエA293試合、コッパ・イタリア46試合、ヨーロッパ・カップ戦67試合)28得点(セリエA21得点、コパ・イタリア2得点、UEFAチャンピオンズリーグ5得点)の記録を残し、イタリア・スーパーカップを3度、UEFAチャンピオンズリーグとUEFAスーパーカップをそれぞれ1度ずつ獲得している[3][4]。ミランでの406試合出場は歴代8位の記録である。
ミラン退団後
2002年からは、スペインの強豪アトレティコ・マドリードに移籍し、28試合に出場して2得点を挙げた。しかし1年後の2003年、ジュゼッペ・パンカロがミランへ去った母国イタリアのSSラツィオに移籍した[5]。このシーズン、アルベルティーニは28試合に出場して2得点を挙げ、ラツィオのコッパ・イタリアでの優勝に貢献した。2004年からはアタランタBCに移籍し14試合に出場した後、2005年、元チームメイトのフランク・ライカールトが指揮するスペインの名門FCバルセロナに移籍[4]し、5試合に出場した後に引退した[4]。
代表
代表では、サッカーイタリア代表として1991年12月21日にイタリアのフォッジャで行われたキプロス戦でデビューし、2-1で勝利を飾った。その後、2002年まで歴代8位の79試合に出場して3得点を挙げた他[6]、6試合でキャプテンを務めた。1992年にはUEFA U-21欧州選手権1992とバルセロナオリンピックにそれぞれ出場し、U-21欧州選手権ではチームの優勝に貢献した。1994年と1998年のワールドカップ、1996年と2000年のUEFA欧州選手権に出場した。2002年のワールドカップにも出場する予定だったが、直前にイギリスのリーズで行われたイングランドとの親善試合で負傷したため、出場できなかった。
1994 FIFAワールドカップ
1994年、アルベルティーニは初のメジャー大会となる1994 FIFAワールドカップに出場した。彼はロベルト・ドナドーニやディノ・バッジョらと共に「エンジン・ルーム」と呼ばれる強固な中盤を形成し、グループリーグ第3戦のメキシコ戦ではマッサーロの決勝ゴールをアシストし、チームのグループリーグ敗退の危機を救った[7]。また、準決勝のブルガリア戦では、ロベルト・バッジョの決勝ゴールをアシストし、チームを決勝に導いた[8]。決勝のブラジル戦では、バランスのとれたプレーでブラジルを無得点に抑えたが、PK戦の末に敗れた[9][10]。
UEFA EURO '96
1996年に出場したUEFA EURO '96では、イタリア代表は準世界チャンピオンとしてドイツと共に本命視され、アルベルティーニは背番号10番を付けていた。しかし、初戦のロシア戦には勝利したものの、2戦目のチェコとの試合で敗れると、3戦目のドイツ戦で引き分けたため、グループリーグ敗退が決まった。アルベルティーニ自身も良いプレーができず、大会後のインタビューで、監督のアリーゴ・サッキは「このチームは今までで最高のチームだったが、アルベルティーニの復帰を急がせたことはミスだった」と話した[11]。
1998 FIFAワールドカップ
1998年、アルベルティーニはチェーザレ・マルディーニの下、再びワールドカップに出場した。チームはベスト8まで進出し、準々決勝ではフランスと対戦したが、PK戦でアルベルティーニはPKを外し、チームは敗れた[12]。その後、フランス代表は大会で優勝した。
UEFA EURO 2000
2000年、アルベルティーニはディノ・ゾフの下で4度目のメジャー大会であるUEFA EURO 2000に出場した。アルベルティーニは中盤の明確なリーダーと位置付けられ、ルイジ・ディ・ビアジョの隣、ステファノ・フィオーレやフランチェスコ・トッティの後ろでプレーした。彼の攻撃のテンポのコントロールとチャンスの創出、イタリアの中盤を制御する上での創造的な役割は、イタリアにとってとても重要な役割だった[13]。アルベルティーニはグループリーグのベルギー戦ではトッティの先制点を[14]、準々決勝のルーマニア戦ではフィリッポ・インザーギの2得点目を[15]それぞれアシストし、最終的には決勝でフランスに敗れて準優勝に終わった[16]ものの、チームの中で「創造者」として高い評価を得て[17]、大会選定のベストチームにも選ばれた。
引退後
2005年12月5日、アルベルティーニは現役引退を表明し、指導者としての道に進む意志があることを伝えた。2006年3月15日には、ACミランの選手とFCバルセロナの選手による引退試合が行われた。試合はアルベルティーニが直接フリーキックを決めたACミランが3-2で勝利した。試合後、アルベルティーニはファンから万雷の拍手を受けた[18]。
2006年には、ベルガモのセルヴィーノに彼の名前からとったサッカーアカデミー「“スクオーラ・カルチョ・デメトリオ・アルベルティーニ」の創設にも携わった。ミラノとレッチェで開催された第1回のアカデミーには、1000以上の若い選手達が参加した[19]。9月19日
2006年5月18日、イタリアサッカー界の相次ぐスキャンダルによる混乱を防ぐために、アルベルティーニはイタリアサッカー連盟の副会長に就任した。9月19日に、臨時会長のグイド・ロッシが辞任すると、アルベルティーニも辞任を発表した。その後彼は、会長に就任したジャンカルロ・アベーテによって再び副会長に任命され、2013年に再選された[20]。
2016年、アルベルティーニは破産したパルマFCの経営面でのサポートを請け負い、2015-16シーズンにセリエBへの降格にとどまるようにするために、新たな受け皿となるスポンサーや選手の確保などの最善策を講じる考えを示していた[21]が、6月22日午後2時の締め切り時刻までオファーがなく破産が確定し、パルマFCは消滅した[22]。しかしその後もアルベルティーニはアドバイザーとして、パルマFCの後身であるSSDパルマ・カルチョ1913に留まり、クラブをサポートする意志を表明した[23]。
また、アルベルティーニは、サッカー指導者の研究者でもあり、サッカー経営シミュレーションゲームのフランチャイズでもある[24]。
個人成績
クラブ
シーズン | 所属クラブ | 所属リーグ | リーグ戦 | カップ戦 | ヨーロッパ戦 | その他 | 合計 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 得点 | Goals | |||
1988–89 | ミラン | セリエA | 1 | 0 | - | - | - | - | - | - | 1 | 0 |
1989-90 | 1 | 0 | - | - | - | - | - | - | 1 | 0 | ||
1990-91 | - | - | 2 | 0 | - | - | - | - | 2 | 0 | ||
1990-91 | パトヴァ | セリエB | 28 | 5 | - | - | - | - | - | - | 28 | 5 |
1991-92 | ミラン | セリエA | 28 | 3 | 5 | 0 | - | - | - | - | 33 | 3 |
1992-93 | 29 | 2 | 6 | 0 | 7 | 1 | 1 | 0 | 43 | 3 | ||
1993-94 | 26 | 3 | 0 | 0 | 13 | 1 | 2 | 0 | 41 | 4 | ||
1994-95 | 30 | 2 | 4 | 0 | 11 | 0 | 2 | 0 | 47 | 2 | ||
1995-96 | 30 | 0 | 3 | 0 | 5 | 0 | - | - | 38 | 0 | ||
1996-97 | 29 | 8 | 2 | 0 | 5 | 1 | 1 | 0 | 37 | 9 | ||
1997-98 | 28 | 0 | 9 | 2 | - | - | - | - | 37 | 2 | ||
1998-99 | 29 | 2 | 3 | 0 | - | - | - | - | 32 | 2 | ||
1999-00 | 26 | 1 | 1 | 0 | 5 | 0 | 1 | 0 | 33 | 1 | ||
2000-01 | 12 | 0 | 2 | 0 | 11 | 2 | - | - | 25 | 2 | ||
2001-02 | 24 | 0 | 4 | 0 | 8 | 0 | - | - | 36 | 0 | ||
2002-03 | アトレティコ・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 28 | 2 | 2 | 1 | - | - | - | - | 30 | 3 |
2003-04 | ラツィオ | セリエA | 23 | 2 | 4 | 0 | 8 | 0 | - | - | 35 | 2 |
2004-05 | アタランタ | 14 | 1 | 2 | 1 | - | - | - | - | 16 | 2 | |
2004-05 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 5 | 0 | - | - | 1 | 0 | - | - | 6 | 0 |
ミランでの通算 | 293 | 21 | 41 | 2 | 65 | 5 | 7 | 0 | 406 | 28 | ||
キャリア通算 | 391 | 31 | 49 | 4 | 74 | 5 | 7 | 0 | 521 | 40 |
※ヨーロッパ戦は、UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAカップ、UEFAスーパーカップを含む。
代表
イタリア代表[25] | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1991 | 1 | 0 |
1992 | 4 | 0 |
1993 | 6 | 0 |
1994 | 14 | 0 |
1995 | 8 | 2 |
1996 | 7 | 0 |
1997 | 9 | 0 |
1998 | 10 | 0 |
1999 | 6 | 0 |
2000 | 11 | 0 |
2001 | 2 | 0 |
2002 | 1 | 0 |
Total | 79 | 2 |
タイトル
クラブ
- セリエA(5) :1991-92、1992-93、1993-94、1995-96、1998-99
- スーペルコッパ・イタリアーナ(3) :1992、1993、1994
- UEFAチャンピオンズカップ/UEFAチャンピオンズリーグ(2) :1989-90, 1993-94
- UEFAスーパーカップ(2) : 1989、1994
- インターコンチネンタルカップ(1) :1989
- コッパ・イタリア(1) :2003-2004
- リーガ・エスパニョーラ(1) :2004-05
代表
- UEFA U-21欧州選手権(1) :1992
個人
- UEFA EURO 2000 大会ベストチーム[26]
- ACミランの殿堂[3]
脚注
- ↑ “AC Milan bid farewell to legend Albertini”. ESPN FC. . 4 August 2013閲覧.
- ↑ “demetrio albertini” (Italian). . 2014閲覧.
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 “AC Milan Hall of Fame: Demetrio Albertini” (Italian). acmilan.com. . 19 March 2015閲覧.
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 “Demetrio ALBERTINI: "Metronomo"” (Italian). magliarossonera.it. . 19 March 2015閲覧.
- ↑ “Albertini addio al veleno "Milan sei stato ingrato". Parigi vende Ronaldinho”. . 2014閲覧.
- ↑ “Nazionale in cifre: Convocazioni e presenze in campo (Albertini, Demetrio)” (Italian). figc.it. FIGC. . 9 April 2015閲覧.
- ↑ “Massaro, nove minuti di felicità” [Massaro, nine minutes of happiness] (Italian). Il Corriere della Sera (1994年6月29日). . 18 May 2015閲覧.
- ↑ “Roby Baggio ci porta in Paradiso” [Roby Baggio leads us to Paradise] (Italian). Il Corriere della Sera (1994年7月14日). . 1 August 2014閲覧.
- ↑ “Sconfitti, a testa alta” [Defeated, with our heads held high] (Italian). La Repubblica (1994年7月18日). . 18 May 2015閲覧.
- ↑ “Even great players can miss penalties”. . 7 January 2016閲覧.
- ↑ Ferrato, Luca. “Interview with Arrigo Sacchi”. World Socer. . 2 August 2013閲覧.
- ↑ “Match Report”. FIFA.com. 2013年10月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 3 August 2013閲覧.
- ↑ “Gli Azzurri non sbagliano contro la Romania”. . 29 January 2015閲覧.
- ↑ “L'Italia non si ferma Totti illumina, chiude Fiore”. repubblica.it. La Repubblica. . 29 January 2015閲覧.
- ↑ “Gli Azzurri non sbagliano contro la Romania”. . 29 January 2015閲覧.
- ↑ Abilash Nalapat (2012年6月8日). “Blast from the past: Euro 2000 Final: France-Italy 2-1”. goal.com. . 4 August 2013閲覧.
- ↑ “Euro 2000 Goals & Assists”. soccer-europe.com. . 12 January 2015閲覧.
- ↑ “Addio Albertini, vincono le stelle”. . 2014閲覧.
- ↑ “Scuola Calcio Albertini, buona la prima settimana a Moggio” (Italian). leccosportweb.it (2011年8月3日). . 6 April 2015閲覧.
- ↑ “Figc:Tavecchio-Albertini vicepresidenti” (Italian). tuttomercatoweb.com (2013年4月5日). . 2016閲覧.
- ↑ “アルベルティーニ氏、パルマ支援に尽力「セリエBからの再出発に全力尽くす」”. サンケイスポーツ. (2015年4月4日) . 2015閲覧.
- ↑ “パルマが破産発表。来季からアマリーグの4部へ”. フットボールチャンネル. (2015年6月22日) . 2015閲覧.
- ↑ “Albertini explains Parma role”. football-italia.net. Football Italia (2015年4月3日). . 6 April 2015閲覧.
- ↑ “7 things we learned from the Football Manager film”. Redbull UK (2014年10月13日). . 12 November 2015閲覧.
- ↑ “Demetrio Albertini - International Appearances”. Rsssf.com. . 2016閲覧.
- ↑ “UEFA Euro 2000 team of the tournament”. uefa.com. UEFA (2011年1月1日). . 31 March 2015閲覧.
外部リンク
- デメトリオ・アルベルティーニ - FIGCによる統計 (イタリア語)
- デメトリオ・アルベルティーニ - National-Football-Teamsによる統計 (英語)
イタリア代表 - 出場大会 |
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テンプレート:UEFA U-21欧州選手権1992イタリア代表
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