煬帝
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世祖 楊広 | |
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隋 | |
第2代皇帝 | |
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王朝 | 隋 |
在位期間 | 604年8月21日 - 618年4月11日 |
姓・諱 | 楊広 |
諡号 |
明皇帝(楊侗より) 煬皇帝(李淵より) 閔皇帝(竇建徳より) |
廟号 | 世祖(楊侗より) |
生年 | 天和4年(569年) |
没年 |
大業14年3月11日 (618年4月11日) |
父 | 楊堅(第2子) |
母 | 独孤皇后 |
后妃 | 蕭皇后 |
陵墓 | 雷塘 |
年号 | 大業 : 605年 - 618年 |
中国,隋の第2代皇帝 (在位 604~618) 。亡国の君主,悪帝として著名。本名は楊広。高祖楊堅 (文帝) の第2子。隋朝が成立すると晋王に封じられ,開皇8 (588) 年元帥として陳の遠征を指揮してこれを滅ぼした。楊素と結んで兄の太子勇を失脚させ,同 20年太子となった。即位すると「大業律令」を制定し洛陽に東都を造営,通済渠,永済渠,江南河を開き,大運河を完成させて,江南の物資を華北に大量輸送する体制を整え,みずから竜舟に乗って豪奢な巡遊を行なった。遠く吐谷渾 (とよくこん) やチャンパ (林邑) ,流求 (台湾) を征し,四方に使節を派遣して入貢を促した。日本から小野妹子が派遣されたのは煬帝の時代であった。晩年は高句麗遠征に大敗,江都の離宮で侍衛の宇文化及らに殺害された。
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