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{{大統領
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'''アルベルト・ケンヤ・フジモリ・フジモリ'''('''Alberto Kenya Fujimori Fujimori'''、現日本名:'''片岡 謙也'''(かたおか けんや)旧姓・藤森 [[1938年]][[7月28日]] -
| 人名=アルベルト・ケンヤ・フジモリ・フジモリ
 
| 各国語表記=Alberto Kenya Fujimori Fujimori
 
| 画像=Al Fujimori.jpg
 
| 画像サイズ=235px
 
| 代数=第91
 
| 職名=[[ペルーの大統領|大統領]]
 
| 国名={{flagicon|PER}} [[ペルー|ペルー共和国]]
 
| 副大統領職=
 
| 副大統領=
 
| 就任日=[[1990年]]7月28日
 
| 退任日=[[2000年]]11月22日
 
| 出生日={{生年月日と年齢|1938|7|28}}
 
| 生地={{PER}}、[[リマ]]
 
| 生死=
 
| 死亡日=
 
| 没地=
 
| 配偶者=[[スサーナ・ヒグチ]](離婚)<br />[[片岡都美]]
 
| 政党='''{{PER}}'''<br />変革90([[1990年]] - [[1999年]])<br />ペルー2000([[2000年]])<br />[[未来同盟]]([[2006年]])<br />[[フエルサ2011]]([[2010年]] - 現在)<br />'''{{JPN}}'''<br />[[国民新党]]([[2007年]])
 
}}
 
'''アルベルト・ケンヤ・フジモリ・フジモリ'''('''Alberto Kenya Fujimori Fujimori'''、現日本名:'''片岡 謙也'''(かたおか けんや)旧姓・藤森 [[1938年]][[7月28日]] - )は、[[ペルー]]の[[学者]]、[[政治家]]、第91代[[ペルーの大統領|大統領]](在職:[[1990年]]7月28日 - [[2000年]]11月17日)。
 
  
[[学位]]は農業工学修士(ラ・モリーナ国立農科大学)、数学修士([[ウィスコンシン大学ミルウォーキー校]])。
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[[ペルー]]の政治家。熊本県出身の日本人移民夫妻の長男に生れる。ペルー国立農科大学卒業後アメリカ,フランスに留学。 1971年同農科大学数学科教授。 84~89年学長。 88年新政党「カンビオ (変革) 90」を結成して 90年大統領選挙に出馬,6月決選投票で最有力候補[[バルガス・リョサ]]を破る。同年7月就任後はきびしい緊縮政策でインフレを抑制するとともに,ゲリラ組織[[センデロ・ルミノソ]]との対決姿勢を明確にした。少数与党のため議会対策が思うにまかせず,92年4月軍の支持を得て議会を解散,全権を掌握し,国内外の非難を浴びたが同年 11月の憲法制定議会選挙には勝利を収めた。 95年に再選。 2000年5月に3選を果したが,「倫理面で不適格」として
 +
11月に罷免された。
  
== 来歴 ==
 
=== 生い立ち ===
 
[[1938年]]、ペルーの首都[[リマ]]の[[ミラフロレス区]]で[[wikt:したてや|仕立物屋]]を営む父・直一と母・ムツエの間に生まれる<ref>[http://www.elmundo.es/1997/07/26/internacional/26N0045.html エル・ムンド 1997年7月26日]</ref>。両親は日本の[[熊本県]][[飽託郡]][[河内町 (熊本県)|河内村]](現・[[熊本市]][[西区 (熊本市)|西区]]河内町)出身{{Sfn|外務省,1996}}であり、[[1934年]]にペルーへ移住した[[移民]]である。彼が誕生すると両親はリマの日本[[公使館]]に[[出生届]]を提出して日本国籍留保の意志を表したため、フジモリは[[日本国籍]]を保有{{Sfn|衆議院,2001}}することになった。遵って、血統上はペルー人の血を持たない純粋な日本人である。
 
  
なお、フジモリの出生地について疑う意見も出たことがあり、政界向け雑誌「[[カレタス]]」の1997年7月号は、フジモリは実際は日本生まれで、ペルーの出生証明書が捏造されたもので、フジモリの母親は移民の際二人の子の母であると記載した、と書いた<ref name="Caretas">{{cite magazine|last=Valenzuela|first=Cecilia|title=Buscando La Cuna De Fujimori|url=http://www.caretas.com.pe/1475/fujimori/fujimori.htm|work=Caretas|year=1997|issue=1475|page=27}}</ref>。これが事実の場合、大統領職をペルー生まれに限定しているペルー憲法に違反していたことになる<ref>{{cite news|last=Dartnell|first=Michael York|title=Insurgency Online: Web Activism and Global Conflict|year=2006|publisher=University of Toronto Press|location=Toronto|page=77|isbn=0802087477}}</ref>。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
後にフジモリは''{{Lang|es|Colegio Nuestra Señora de la Merced}}''、''{{lang|es|La Rectora}}''で教育を受け、リマの''{{lang|es|La gran unidad escolar Alfonso Ugarte}}''を卒業した。その後、[[1957年]]にはラ・モリーナ国立農科大学の[[大学院]]に進学し、[[1961年]][[農業工学]]専攻をクラス1位の成績で卒業した。
 
 
 
=== 学者へ ===
 
[[1962年]]<!--翌年-->にはラ・モリーナ国立農科大学で[[数学]]の講師に就き、[[1968年]]に[[助教授]]、[[1971年]]に[[教授]]へと昇進していく。この間、[[1964年]]に[[フランス]]の[[ストラスブール大学]]へ留学、さらに[[フォード奨学金]]を得て[[アメリカ合衆国]]の[[ウィスコンシン大学ミルウォーキー校]]大学院に留学する。一般数学と[[物理学]]の[[修士号]]を取得している。その後、母校である国立農業大学の理学部長に就任し、[[1984年]]には同大学[[総長]]に任命された。ペルー大学評議会の議長を二期務めている。<!--[[1987年]]から[[1989年]]にはTV番組"Concertando"の司会-->また、ペルー国有テレビの討論番組「オンセルタンド」において、約一年半([[1987年]]-[[1988年]])に渡って司会を務めた{{Sfn|外務省,1996}}。
 
 
 
=== 大統領選挙へ出馬 ===
 
{{仮リンク|1990年ペルー総選挙|label=1990年の大統領選挙|en|Peruvian general election, 1990}}に新党''{{仮リンク|変革90|es|Cambio 90}}''(カンビオ・ノベンタ、“cambio”は「変革」の意)を結成して出馬したフジモリは、当初ダークホース的存在であったが、対立候補の世界的作家[[マリオ・バルガス=リョサ]]を破り[[当選]]した。国民は前大統領[[アラン・ガルシア]]政権に対し失望感を抱いており、それと同時に、有力候補であったバルガスの提唱した政策“[[新自由主義]]経済”を疑いの目で見ていた[[エスタブリッシュメント]]層を味方につけることにも成功した。
 
 
 
選挙期間中、フジモリには''el chino''(エル・チノ、''[[中国人]]''という意味だが、ペルーではかつての[[フアン・ベラスコ・アルバラード]]<ref>Orin Starn、 Carlos Iván Kirk、 Carlos Iván Degregori(2009年)『The Peru Reader: History, Culture, Politics』Part V 270頁</ref><ref>Stefano Varese(2004年)『Salt of the Mountain: Campa Asháninka History and Resistance in the Peruvian Jungle』xxix</ref><ref>Stefano Varese, ‎Alberto Chirif(2006年)『Witness to Sovereignty: Essays on the Indian Movement in Latin America』63頁</ref>もそうだったように親しみを込めて使われる)というニックネームがつけられた<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/world/news/171227/wor1712270029-n1.html| title=左派離反で窮地のペルー政権 存在感増すフジモリ元大統領|publisher=[[産経ニュース]]|date=2017-12-27|accessdate=2018-07-16}}</ref>。選挙中は「仕事、科学技術、勤勉」というスローガンを掲げていた。[[東アジア]]出身者、またはその子で初めて[[ラテンアメリカ]]諸国の[[国家元首]]になったのは[[1977年]]に[[ガイアナ]]で中国系の[[アーサー・チュン]]だが、当時のガイアナ大統領は[[名誉職]]的な存在であった。ペルーの大統領では初めて[[中華人民共和国]]を訪問<ref>Alex E. Fernández Jilberto、 Barbara Hogenboom 『Latin America Facing China: South-South Relations beyond the Washington Consensus』137頁 CEDLA Latin America Studies</ref>してアジア外交を展開した他、日系人がペルーの大統領になったことにより日本との[[外交]]も積極的に行われるようになり、日本からの[[融資]]なども多く引き入れることに成功した。
 
 
 
=== 大統領職(1990年 - 1992年) ===
 
フジモリは、大統領に就任すると大規模な経済改革を実行した。[[国際通貨基金]] (IMF) による詳細な指導を基に、様々な[[国有財産]]の売却、[[国内法]]の改正、外国資本の[[石油]]、[[天然ガス]]、鉱物資源への[[投資]]を積極的に誘致した。これらの政策によってペルーの[[マクロ経済学|マクロ経済]]は安定を取り戻し、ガルシア政権下で落ち込んでいた外国との[[貿易]]額も劇的に改善した。のちに、この改革は「フジショック」と呼ばれた{{Sfn|外務省,1996}}。
 
 
 
これらの政策を円滑に進めるため、鉱物・石油資源の開発計画を指導する部局を政府内に設置した。それまでは[[環境法]]により一元的に決定されていた化学物質の排出規制、廃棄物の処理手続きなどは、この組織によって開発プロジェクトごとに決定された。同時に国立公園、[[アンデス山脈]]地域、[[アマゾン川]]流域など保護地区での開発規制を撤廃した。
 
 
 
=== 1992年のセルフクーデター ===
 
フジモリは大統領に就任したものの、[[ペルー共和国議会|ペルー議会]]は[[アメリカ革命人民同盟]]と[[右派連合・民主戦線]]の二政党が上・下院ともに支配していた。自身の政策を円滑に進めるための新法立法を望んだフジモリは、1992年4月5日に「自己クーデター」([[:en:self-coup]]、スペイン語では「[[アウトゴルペ]]」)を実行した。フジモリの目的は大統領の権限を強化し、政府と国会の改革を断行することにあった。
 
 
 
フジモリは議会を[[解散 (議会)|解散]]し、新たに設けた民主憲法議会の[[選挙]]を招集した。翌年、議会により1993年憲法<ref>{{Interlang|en|Constitution of Peru}}</ref>が制定される。同時に[[国家非常事態宣言]]と[[戒厳令]]をしき、裁判所と憲法下の権利を制限し、[[テロリズム]]に対処するために"severe emergency laws(特別非常事態法)"を制定した。
 
 
 
;反応
 
自己クーデターに反対する動きがわずかにあったものの、国民の大多数はこれを歓迎した。直後に行われた調査では、フジモリによる国会解散と司法制度の改革を国民の73%が支持した<ref group="注">{{要出典範囲|date=2016年10月16日|一方で、フジモリの支持者の一部など、これはクーデターではなく政府業務の効率化のための[[改革]]にすぎない、とした者もいた。他方で、急進的で[[権威主義]]的なクーデターである、とした者もいた}}。</ref>。
 
 
 
しかし、自己クーデターに対する国外の反応はこれとは異なっていた。[[世界銀行]]などの国際組織は貸し付け計画を延期し、[[アメリカ合衆国]]はペルーに対する援助を人道的なもの以外は中止、[[ドイツ]]、[[スペイン]]もこれに続いた。[[ベネズエラ]]はペルーとの外交関係を停止し、[[アルゼンチン]]は大使館員をリマから引き上げさせた。[[チリ]]はアルゼンチンと共に、ペルーが[[米州機構]]から脱退するように求めた。
 
 
 
クーデター以前から、ペルーと米国の関係は良好とは言えない状態であった。アメリカは麻薬組織に対処するための軍事協力を求めていたが、フジモリはこの協定に積極的でなく、経済援助を見返りとして1991年5月にようやく調印した(一般的に南米では、麻薬はアメリカ合衆国の問題である、と見なす傾向がある)。両国間の関係には "しこり" が残っており、これに加えて[[センデロ・ルミノソ]]、[[トゥパク・アマル革命運動|MRTA]]の活動、[[コレラ]]の流行による食料品の輸入停止によってペルーの孤立化が懸念された。
 
 
 
しかし自己クーデターから2週間後、米国の[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]政権はフジモリをペルーの[[元首]]として認めた。[[米州機構]]と米国は、今回のクーデターは急進的にすぎるとしつつも、ペルーが以前のような混乱へと回帰することは欲しないことで一致した。
 
 
 
フジモリ自身は、ガルシア政権に端を発するペルーのカオス的混乱を収束させるためには自己クーデターが必要であった、と述べた。{{誰範囲|[[評論家]]|date=2013年7月}}たちは、クーデタによる国会解散がなければ、その後の更なる改革は不可能であっただろう、と見なしている。
 
 
 
=== 大統領職(1992年 - 2000年) ===
 
[[1995年]]4月の大統領選挙で圧勝したが、この頃からフジモリ大統領の人気は陰りを見せ、[[1996年]]12月17日には[[トゥパク・アマル革命運動]]による[[ペルー日本大使公邸占拠事件|日本大使公邸人質事件]]が発生した。この事件は[[1997年]][[4月22日]]、[[ペルー軍]][[コマンド]]部隊が公邸に突入して解決したが、フジモリ大統領の独裁的権力に対する批判は次第に高まっていった。
 
 
 
1993年に改正された[[ペルー憲法]]では大統領の三選を禁止していたが、フジモリ大統領は第一期は旧憲法体制下のため、自身の三選は可能であるとの憲法[[解釈]]をし、国会で[[承認]]させた。[[憲法裁判所]]はこれを違憲としたが、最終的に[[最高裁判所|最高裁]]で三選出馬支持する[[判決]]が下り、フジモリの三選が可能となった。
 
 
 
1996年から2000年にかけて、ペルー極貧地域の出生率低下を目的に強制避妊策を推し進め、30万人以上の女性に不当な不妊手術が行われた<ref>[http://www.news.janjan.jp/world/0607/0607167939/1.php フジモリ大統領の強制避妊策の責任を追及する女性議員]</ref>。このための資金は主に、[[アメリカ合衆国国際開発庁|米国際開発局]] (USAID) や[[国連人口基金]] (UNFPA) から出ていたが、[[曽野綾子]]が当時会長を務めていた[[日本財団]]も、この計画を支援した<ref>[http://www.diplo.jp/articles04/0405-3.html ペルー先住民が強制された不妊手術の実態 ル・モンド・ディプロマティーク2004年5月号]</ref><ref>[http://web.archive.org/web/20010125033300/www.nippon-foundation.or.jp/wn/web_r/peru.html ペルーへの支援実績について(1974年~2000年)]</ref><ref>[http://nippon.zaidan.info/kinenkan/moyo/0000266/moyo_item.html フジモリ氏への宿提供? 私は運命に従っただけ(毎日新聞 2000年12月3日付)] [[日本財団]]</ref>。
 
 
 
2000年、三選目の大統領選挙に立候補する。4月初めの投票ではフジモリ候補も他の候補も過半数に届かず、5月に決選投票を行うということになった。第1回目の投票で開票作業に不正操作があったことを、選挙の監視に来ていた[[OAS]]、ペルー国内の[[オンブズマン]]、トレド陣営から指摘され、5月28日に予定されていた決選投票を延期し、その間に透明性のある開票方法をとるように要請が出された。フジモリ大統領は開票作業の透明性に問題はないとして、内外の要請を拒否した。予定通り5月末の選挙を強行するとしたので、OASは選挙監視の意味がなくなったとしてペルーを引き上げ、2位の候補も大統領に抗議する形で決選投票をボイコットすると発表した。実質的には大統領信任投票となった決選投票では、フジモリ大統領が過半数を獲得し、三選を果たした。
 
 
 
=== 日本への亡命、そして突然の離日 ===
 
2000年9月、フジモリ大統領の側近である[[ウラジミロ・モンテシノス]]国家情報局顧問が国会議員の一人に現金を手渡している映像が映されているビデオを、別の[[野党]]議員たちが公開した。この側近の問題をきっかけにフジモリ大統領の疑惑も浮上し、[[ペルー国会]]は反フジモリに傾いていった。
 
 
 
11月13日、フジモリ大統領は[[ブルネイ]]で開催される[[アジア太平洋経済協力|APEC]]首脳会議に出席のためペルーを出国し、[[11月16日]]に渡日した。翌17日に[[東京都|東京]]から、ペルー政府宛て、大統領[[辞任]]の申し出を[[ファックス]]で送付し、事実上[[亡命]]した。ペルー国会は辞任を受理せず、「精神的無能力」を理由に[[罷免]]をした。[[日本国政府|日本政府]]は、フジモリ元大統領は日本国籍保持者である{{Sfn|衆議院,2001}}ため、日本滞在には何の問題もないとした。
 
 
 
[[2001年]]9月にはペルーの司法長官がフジモリを殺人罪で起訴し、[[2003年]]3月には[[国際刑事警察機構|ICPO]]を通じ人道犯罪の罪で国際手配の依頼が行われた。日本大使公邸事件の際、投降したゲリラを射殺した容疑である。ペルー政府はその他の権力乱用罪でも日本に身柄引渡しをたびたび求めたが、これに関して日本政府は引き渡しを拒否し続けた。
 
 
 
フジモリは[[日系人]]であり、ペルーと日本の[[多重国籍|二重国籍]]者である。日本政府はフジモリが日本人夫婦の元に生まれ、出生時に日本国籍を留保していることを理由に彼が現在も日本国籍を保有していることを認めており、フジモリの二重国籍を事実上容認している(1984年以前から日本国籍と外国籍の双方を保持している者は1985年1月1日の改正[[国籍法 (日本)|国籍法]]施行の日に外国籍を取得したものと見なされるので、成人の場合2年以内(1986年12月31日まで)に国籍の選択をしなければ自動的に日本国籍の選択の宣言をしたとみなされる<ref>昭和59年5月25日法律第45号[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO147.html 国籍法]附則第3条(国籍の選択に関する経過措置)。</ref>。同法第16条には、国籍の選択宣言をした日本国民が自己の志望で外国の国籍の必要な公務員になった場合に、その就任が日本の国籍を選択した趣旨に著しく反すると認めるときは、法務大臣は聴聞を経て日本国籍を喪失させることができる旨の規定があるが、フジモリは「みなし選択宣言者」で「実際に選択宣言を届け出た者」とは区別されるため、この第16条は適用されない)<ref>[[国籍法 (日本)#多重国籍者の国籍選択制度]]</ref>。
 
 
 
ただ、「一国の[[国家元首]]が二重国籍者であることを隠していた」という点はペルーで大きな批判の対象になった。ペルーの法律は二重国籍者が大統領になることを禁じており(ただし過去にスペインの植民地であったことからスペインとの二重国籍であれば容認される)、フジモリは大統領選挙運動中に「日本国籍を持っていない」と宣言していたという。フジモリは大統領当時に資金援助のために訪日の際も、日本人ではなくペルー人であるからとして日本語を話すことを拒否し、スペイン語のみで会見していた。
 
 
 
2005年6月、フジモリ元大統領はペルー国営テレビの政見放送を通じて次期大統領選挙への出馬の意向を表明した。現職の[[アレハンドロ・トレド]]大統領を始めとする次期大統領候補の不人気もあり、1990年代の景気好転の時期の大統領であったフジモリ元大統領は、特に貧困層の国民から非常に高い支持を受けているとされた。ただ、フジモリ自身がチリで逮捕され本人の出馬が不可能となったこともあり、フジモリ派大統領候補者の得票率は低いものに終わった。しかし同時に行われた国会議員選挙([[非拘束名簿式]][[比例代表制]])において、娘の[[ケイコ・フジモリ]]が60万票以上の個人票を獲得して全国トップで当選し、支持の根強さも見せた。
 
 
 
=== チリ政府による拘束 ===
 
2005年10月、彼は[[2006年]]に行われる大統領選挙に出馬するために日本を離れ、まず[[チリ]]に向かったが、11月7日チリの警察に逮捕された。2006年1月、ペルー中央選管は大統領選出馬を認めない旨最終決定する。また、同年4月には支援者である女性[[実業家]]で、株式会社ホテルプリンセスガーデン社長及び文筆家である片岡都美との結婚を発表した。片岡都美が経営する目黒プリンセスガーデンホテルはフジモリが日本に滞在中宿泊した場所である。フジモリはのちに保釈され、チリの首都[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]にある自宅で暮らした。チリ国内から政治活動を行おうとし、これに対しチリ政府は「利用するな」と苦言を呈した。
 
 
 
なお、公金横領罪容疑については、[[2005年]]10月にペルー最高裁が[[証拠不十分]]として[[無罪]]判決を出した。
 
 
 
=== 日本政界への意欲 ===
 
[[2007年]]6月18日、日本の[[国民新党]]が[[第21回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]に同党の[[比例代表]]公認候補として出馬するよう要請<ref>{{Cite news | url = http://www.asahi.com/senkyo2007/news/TKY200706190060.html | title = フジモリ氏に「参院選出馬を」 国民新党 | work = asahi.com | publisher = [[朝日新聞]] | date = 2007-06-19 | accessdate = 2016-10-16 }}</ref>し、[[6月27日]]、立候補を表明した<ref>{{Cite news | url = http://www.asahi.com/senkyo2007/news/TKY200706280119.html | title = フジモリ氏、参院選比例区出馬の声明 国民新党も発表 | work = asahi.com | publisher = [[朝日新聞]] | date = 2007-06-28 | accessdate = 2016-10-16 }}</ref>。また、フジモリは[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]に立候補を打診し断られていたという{{refnest|group="注"|フジモリ側は、民主党が嘘をついていると反論した<ref>『[[週刊新潮]]』2007年7月12日号</ref>。}}。6月28日、フジモリはサイトで立候補表明すると共に、将来のペルー政界復帰も約束した。
 
 
 
その動きについてのペルー国内での反応としては、ペルーの[[アラン・ガルシア|ガルシア]]大統領は同日、「国民がどう思うか。大いに失望した」と日本での立候補を批判。ペルーの有力紙『[[レプブリカ]]』は「引き渡し逃れは明らか」と非難し、『コメルシオ』紙も[[芸妓|芸者]]姿のフジモリを載せるなど、ペルーの[[マスメディア|マスコミ]]は相次いで反発した。中には、「卑怯者」「SAYONARA!」など、日本語の見出しで批判した新聞もあった。
 
 
 
7月5日には国民新党の[[亀井静香]]代表代行が[[麻生太郎]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に対し、選挙運動が可能になるようにフジモリを釈放するようペルー政府に働きかけるよう要請したが、麻生に「(釈放、帰国要請は)[[独立国家]]として無理がある」として断られている。この結果、フジモリの選挙運動は候補者不在の中行なわれ、政見放送にも参加できなかった。
 
 
 
選挙の投票の結果、[[国民新党]]は当選枠1人との結果となり、フジモリは国民新党4位であったため落選した。
 
 
 
=== 送還と逮捕 ===
 
2007年9月21日、チリ最高裁はペルー政府より2006年からなされていた身柄引き渡し要請について認める旨決定。嫌疑は軍による民間人殺害への関与など2件の人権侵害と汚職5件の計7件。引渡し後は、刑事被告人として裁かれる、ということになった。23日、チリを離れ、ペルーの首都[[リマ]]へ到着し、そのまま[[ペルーの軍事#国家警察|国家警察]]の施設へ収容された。
 
 
 
10月5日、ペルー最高裁は7件の容疑について3つに統合した上で11月26日から審理を開始することを決めた。
 
 
 
12月10日の初公判でペルー検察は[[禁錮]]30年を求刑し、フジモリ被告は無罪を主張した。さらに大統領時代の功績にも熱弁を振るったため、裁判長から注意を受けた。2008年4月15日、ペルー最高裁は、令状なしでモンテシノス元国家情報部顧問関係先への家宅捜索を命じた容疑で、禁錮6年と2年間の[[公民権剥奪]]と40万[[ソル]](約1500万円)の[[罰金]]を命じた有罪判決を下した。
 
 
 
2009年4月7日、1990年代にペルーで起きた軍[[特殊部隊]](コリーナ部隊)による民間人殺害事件の「[[ラ・カントゥタ事件]]」「[[バリオス・アルトス事件]]」について、[[一審]]であるペルーの最高裁特別法廷はフジモリ被告を有罪として禁錮25年の判決を下した。
 
 
 
2010年1月3日、最高裁刑事法廷は、禁錮25年と被害者遺族への賠償金支払いを命じた一審の判断を支持する判決を下した、と発表した。裁判は[[二審制]]で、これにより同事件での[[実刑]]が確定した<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201001/2010010300095&rel=j&g=int200911/2009112600800&rel=j&g=int フジモリ被告、禁固25年が確定=市民虐殺で最高裁判決-ペルー]</ref>。
 
 
 
2017年6月頃より[[ペドロ・パブロ・クチンスキ]]大統領がフジモリの獄死を回避するため、医師団が健康上問題ないと判断すれば恩赦を実施する意向を表明。12月23日にフジモリは急激な血圧の低下と心拍異常によりリマ市内の病院に入院し、翌12月24日にクチンスキはフジモリを含む8人の恩赦を決定した<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2017122500115&g=int|title=フジモリ氏に恩赦=12年ぶり自由の身へ-ペルー|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2017-12-25|accessdate=2017-12-25}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/171225/wor1712250013-n1.html|title=ペルーのフジモリ元大統領への恩赦、年内発表も 罷免回避へ取引か 野党からの反発必至|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2017-12-25|accessdate=2017-12-25}}</ref><ref name=bbc20171226>{{Cite news|url=http://www.bbc.com/japanese/42482638|title=フジモリ元大統領恩赦でデモと衝突続く 催涙ガスも|work=BBC News|agency=[[英国放送協会|BBC]]|date=2017-12-26|accessdate=2017-12-27}}</ref>。同年11月にはクチンスキの汚職疑惑を受けて罷免決議案が野党[[フエルサ2011|フエルサ・ポプラル]](フジモリ派)によって議会に上程されたが、フジモリの次男ケンジによって反対票が取りまとめられ11月21日の採決では決議案は否決、クチンスキの首がつながったという経緯があったため、恩赦に否定的な勢力からは野党議員に対し罷免反対票とフジモリ恩赦の取引が行われたと非難が巻き起こり、恩赦に反対するデモも発生した<ref name=bbc20171226 />。恩赦後、フジモリは病床からビデオメッセージをフェイスブックに投稿し、今後は政界には戻らずクチンスキ政権へ協力することと、自らの大統領時代に強権を行使したことへの謝罪の言葉を口にした<ref name=bbc20171226 />。2018年1月4日、リマ市内の病院を退院し、約10年ぶりに自由の身となった<ref>{{Cite news|url=https://r.nikkei.com/article/DGXMZO25353300V00C18A1FF8000|title=フジモリ元大統領が退院ペルー、10年ぶり自由の身|newspaper=日本経済新聞|date=2018-01-05|accessdate=2018-01-05}}</ref>。
 
 
 
== 人物 ==
 
フジモリはアラン・ガルシア政権時代に混迷を深めたペルー経済を立て直し、麻薬組織および左翼ゲリラを中心としたペルー国内の混乱に一定の歯止めをかけた実績が評価されている。しかし、1993年の自己クーデター以後に顕著となった権威主義的な統治を批判する者も多い。
 
 
 
日本においては、[[曽野綾子|曾野綾子]]、[[石原慎太郎]]、[[徳田虎雄]]、[[須田慎一郎]]と親交があることで知られる。
 
 
 
[[日本語]]が非常に堪能であることも知られているが、時折、スペイン語が混じることがある。
 
 
 
== 日本語の著作 ==
 
* [[岸田秀]] 訳『アルベルト・フジモリ、テロと闘う』(中公新書ラクレ、2002年) ISBN 4-12-150035-0
 
* 『30世紀へのメッセージ <small>世界と日本の架け橋となる科学技術</small>』(三和書籍、2002年) ISBN 4-916037-46-4 高嶋康豪との共著
 
* 『日本はテロと戦えるか』([[扶桑社]]、2003年) ISBN 4-594-03856-5 [[菅沼光弘]]との共著
 
* 岸田秀 訳『大統領への道 <small>アルベルト・フジモリ回想録</small>』([[中央公論新社]]、2003年) ISBN 4-12-003453-4
 
 
 
== 関連人物 ==
 
* [[ケイコ・フジモリ]]:娘、実業家・政治家
 
* [[ケンジ・フジモリ]]:息子、実業家・政治家
 
* [[サンチアゴ・フジモリ]]:弟、ペルーの法律家
 
* [[スサーナ・ヒグチ]]:前夫人
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{reflist|group="注"}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite web |url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/kiroku/s_hashi/arc_96/nanbei/profile/fuji_pro.html |work=[http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/kiroku/s_hashi/arc_96/nanbei/index.html 橋本総理大臣 首脳会談記録 中南米訪問] |title=フジモリ大統領の横顔  |publisher=[[外務省|外務省(日本)]] |accessdate=2015-01-30|ref={{SfnRef|外務省,1996}}}}
 
* {{Cite web |date=2001-03-30 |url=http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b151039.htm |title=衆議院議員辻元清美君提出ペルー共和国前大統領アルベルト・フジモリ氏に関する質問に対する答弁書 |publisher=[[衆議院]] |accessdate=2015-01-30|ref={{SfnRef|衆議院,2001}}}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Alberto Fujimori}}
 
* [http://www.fujimorialberto.com/jp/ Desde Tokyo(東京より)] (fujimorialberto.com) フジモリ氏が日本に居た時に自身で運営していた公式サイト(最終更新2005年9月。2014年現在も閲覧可)
 
* [http://ai152hannah.world.coocan.jp/pddhh.htm ペルーの人権問題とフジモリ元大統領の責任を考える会] アムネスティ内グループ
 
* [http://www.ngy1.1st.ne.jp/~ieg/struggle/japan/2002/fujimori.htm フジモリにペルーでの法的裁きを求める国際連帯行動を!] フジモリ氏を批判する左派系市民団体の活動報告
 
* [http://tanakanews.com/b0827peru.htm フジモリと日本](「田中宇の国際ニュース解説」論評)
 
 
 
{{ペルー大統領|1990-2000}}
 
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[[カテゴリ:ペルーの政治家]]
 
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アルベルト・フジモリ.jpg

アルベルト・ケンヤ・フジモリ・フジモリAlberto Kenya Fujimori Fujimori、現日本名:片岡 謙也(かたおか けんや)旧姓・藤森 1938年7月28日 - )

ペルーの政治家。熊本県出身の日本人移民夫妻の長男に生れる。ペルー国立農科大学卒業後アメリカ,フランスに留学。 1971年同農科大学数学科教授。 84~89年学長。 88年新政党「カンビオ (変革) 90」を結成して 90年大統領選挙に出馬,6月決選投票で最有力候補バルガス・リョサを破る。同年7月就任後はきびしい緊縮政策でインフレを抑制するとともに,ゲリラ組織センデロ・ルミノソとの対決姿勢を明確にした。少数与党のため議会対策が思うにまかせず,92年4月軍の支持を得て議会を解散,全権を掌握し,国内外の非難を浴びたが同年 11月の憲法制定議会選挙には勝利を収めた。 95年に再選。 2000年5月に3選を果したが,「倫理面で不適格」として 11月に罷免された。




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