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'''イギリスの歴史'''(イギリスのれきし)は、[[イングランド]]、[[ウェールズ]]、[[スコットランド]]、[[アイルランド]](現在では[[北アイルランド]]のみ)より成る連合王国([[イギリス]])の歴史である。
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イングランドはまずウェールズを併合し、アイルランドを植民地化し、スコットランドと連合した。さらにアイルランドを併合するも、その大部分が独立して現在の形になった。
 
 
 
== 変遷 ==
 
* [[1282年]] - [[イングランド王国]]が[[ウェールズ公国]]を併合する。以降イングランド王室次期王位継承者に対して[[プリンス・オブ・ウェールズ]](ウェールズ大公)の称号を用いる。
 
* [[1541年]] - イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]がアイルランド王を自称する。
 
* [[1603年]] - スコットランド王ジェームス6世がイングランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]として即位し、[[イングランド王国]]と[[スコットランド王国]]が[[同君連合]]となる。
 
* [[1707年]] - [[合同法 (1707年)|合同法]]により、イングランド王国とスコットランド王国が合併して[[グレートブリテン王国]]が成立する。
 
* [[1801年]] - [[合同法 (1800年)|合同法]]により、アイルランド全域を正式に併合して[[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国]]となる。
 
* [[1922年]] - [[英愛条約]]により、現在のアイルランド共和国部分がアイルランド自由国として分離独立して現在の統治体制となり、グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国となる。
 
 
 
== グレートブリテン王国成立までの概略 ==
 
=== 先史時代 ===
 
{{main|ブリテンの先史時代}}
 
 
 
=== 古代 ===
 
グレートブリテン島には[[紀元前9世紀]]ころから[[紀元前5世紀]]ころにかけて[[ケルト人|ケルト]]系民族が侵入してきた。これによってグレートブリテン島における[[鉄器時代]]が始まり、ブリテン島各地にケルト系の部族国家が成立した。
 
 
 
[[紀元前55年]][[古代ローマ|ローマ]]の[[ユリウス・カエサル]]がグレートブリテン島に侵入し、西暦[[43年]]ローマ皇帝[[クラウディウス]]がブリテン島の大部分を征服した。ローマ帝国時代の[[ブリタンニア|ブリタニア]]はケルト系住民の上にローマ人が支配層として君臨した。
 
 
 
ただしローマの支配はブリテン島北部のスコットランドとアイルランド島には浸透せず、ケルト系住民の部族社会が続いた。[[5世紀]]になって西ローマ帝国が[[ゲルマン]]系諸集団の侵入で混乱すると、ローマ人はブリタニアを放棄した。ローマの軍団が去ったブリタニアはゲルマン人の侵入にさらされることになっている。
 
 
 
=== 中世 ===
 
[[File:British kingdoms c 800.svg|thumb|200px|[[七王国]]時代の[[グレートブリテン島]]]]
 
[[ゲルマン人]]の[[アングロ・サクソン人|アングロ・サクソン諸部族]]がブリタニアに侵入し、グレート・ブリテン島南部を征服した。この結果、この地域には後世[[七王国|アングロサクソン七王国]]と呼ばれるようになる小国家群が成立した。5-7世紀にブリテン島南部の[[ピクト人]]はアングロ・サクソンによって吸収・消滅してしまう。このブリテン島南部の小国家割拠状態の中から次第に[[イングランド]]地方が形成されていった。イングランドの名称はアングロ・サクソン諸部族の中の[[アングル人]]に由来する。一方、ウェールズにはゲルマンは浸透せず、ローマから取り残されたケルト系の住民が中世的世界に入った。スコットランドとアイルランドもゲルマンに征服されることなく、ケルト系部族国家が継続した。それぞれの地域はこの頃から次第に独自の歴史性をもって分離していくことになる。
 
 
 
以降の各地域の詳細に関しては
 
* [[イングランドの歴史]]
 
* [[ウェールズの歴史]]
 
* [[スコットランドの歴史]]
 
* [[アイルランドの歴史]]
 
を参照のこと。
 
 
 
==== イングランド ====
 
民族的なアイデンティティーの確立においてイングランドには大々的にゲルマン系のアングロサクソン人が大陸から侵攻してきたことに大きな特徴を有している。これらアングロサクソン人は、5世紀から9世紀にかけて[[七王国]]と呼ばれる国家群を建設した。アングロサクソン人の王国は9世紀の初めにこの中の一つである[[ウェセックス]]王国の[[アルフレッド大王]]によって政治的に統一された。この統一とほぼ同時に[[デーン人]]の侵攻が活発になった。1013年には[[デンマーク]]の[[クヌート1世 (イングランド王)|カヌート大王]](クヌート)によってイングランドは[[北海帝国]]の領域に組み込まれ1042年まで支配された。この後一時的にアングロサクソンの王が復活するが1066年にフランスの[[ノルマンディー公]]ギヨーム(即位して[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]])によって[[ノルマン・コンクエスト|征服]]され、イングランドの支配層はノルマン系フランス貴族に交代した。その結果イングランドはフランス文化の影響を強く受けることになった。
 
 
 
[[ノルマン朝]]とその後を次いだ[[プランタジネット朝]]の歴史的な経緯によって、フランスとイングランドの関係は非常に複雑なものになった。これを遠因とする[[百年戦争]]の過程においてイングランドは大陸の領土を喪失し、基本的にブリテン島に完結する王国に再編成された。対フランスという視点から見ればこの一連の出来事はイングランドという大きなまとまりでの自意識を持つようになった。これは後にイングランドの国民的アイデンティティーを成立させる一因になった。
 
 
 
==== スコットランド ====
 
スコットランドには、スコットランドに残存したケルト系といわれる[[ピクト人]]の他に5世紀から8世紀にかけて、アイルランドから渡ってきた[[ゲール人]]、イングランドから流れてきたアングロサクソン人、スカンジナビアから渡ってきた[[ヴァイキング]]等が次々に渡来し混在し混ざり合うことになった。イングランドと比較してアイルランドからやってきたグループと北欧の政治権力の影響をより多く受けたことにスコットランド独自の特徴を有している。
 
 
 
スコットランドでは11世紀初頭にようやく政治的な統一がみられるようになった。現在とほぼ同じ領域でスコットランドが統一されるのは15世紀になってからである。政治的に統一しかけたスコットランドに対してしばしばイングランドが軍事的に侵攻してくることが多かった。最大のものは[[1292年]]のイングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]による侵攻で、スコットランドは一時的にイングランドの隷属下に置かれたが、[[ウィリアム・ウォレス]]の反乱などスコットランドはイングランドに対抗し、14世紀初めまでにスコットランドは再びイングランドからの独立を果たした。このようにスコットランドはしばしばイングランドに対抗する措置を迫られたため、フランスと同盟を結ぶ事が多かった。これは中世を通じて一定的にみられる傾向であった。
 
 
 
==== ウェールズ ====
 
ウェールズではケルト系の分裂した小国家が13世紀まで存続していた。これらの国家群は他との政治的関係から一時はイングランドと結んで他の国家群と対決したり、あるいはウェールズで団結してイングランドに対抗するということを繰り返していた。このような状況で1280年頃に[[ルウェリン・アプ・グリフィズ]]がウェールズに政治的な統一をもたらそうと試みた。彼はウェールズの第一人者として[[プリンス・オブ・ウェールズ]](ウェールズ大公)を名乗ったが、イングランドのエドワード1世に攻め込まれ敗死した。グリフィスを屈服させたエドワードは身重の王妃をウェールズに呼び寄せてここで息子[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード]]を出産させた。王はウェールズ生まれの王子にウェールズの支配者たる「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を与えた。これは現在に至るまで英王室次期王位継承者の称号として存続している。このようにしてウェールズはイングランドの政治的支配下に入ることになったが、文化的なアイデンティティーはその後も存続し現在まで至っている。
 
 
 
==== アイルランド ====
 
アイルランドもケルト系の民族によって幾つかの小王国が分裂する状態が12世紀ごろまで続いた。12世紀中頃にノルマン人の侵入を契機として[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]が軍を率いてアイルランドに上陸した。ヘンリーは息子の[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]にアイルランドの支配権を与え、ジョンはアイルランド卿を名乗った。「アイルランド卿」の称号はイングランド王によって継承され続けていくことになる。しかし、このイングランドによる支配権は完全なものではなかった。この後在地の貴族はイングランドの支配から徐々に脱しイングランドで[[薔薇戦争]]が終わる頃には、アイルランドはイングランドの支配から完全に脱していた。以降イングランド王がアイルランドに干渉する場合には在地貴族の好意に甘えることが必要になった。
 
 
 
=== 近世 ===
 
[[File:Europa 1600 en kairyou.JPG|thumb|300px|17世紀ヨーロッパ]]
 
==== 宗教改革 ====
 
大陸で15世紀初頭に始まった[[宗教改革]]運動はブリテン島にも伝播し大きな影響を与えた。これまでの民族的相異、歴史的相異、文化的相違の他に宗教的な相異も加わって後に「イギリス」を形成する各地域の特色を形成することになった。またこれらの宗教的差異は「イギリス」が形成される一つの要因になった。
 
 
 
イングランドの宗教改革は[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の離婚問題という全く非宗教的な理由で始まったが、これによって成立した[[イングランド国教会]]はイングランドでの王権の強化を図る一助になった。その後[[カトリック教会|カトリック]]のリバイバルが試みられるものの[[エリザベス1世]]の統治に及んで国教会の優位は確定的になった。
 
 
 
スコットランドには16世紀になって[[カルヴァン派]]が持ち込まれた。スコットランドでの宗教改革は貴族や王の権力を押さえ込むことが目標の一つであったので、イングランドにおけるそれは全く異なった方向性を示すことになった。
 
 
 
アイルランドはカトリック世界に残留することになった。このため宗教的にはフランスやスペインと近しい関係になることになった。
 
 
 
==== アイルランド占領 ====
 
1536年にヘンリー8世はアイルランドへの再侵入を試みた。アイルランドはイングランド王位僭称者[[ランバート・シムネル]]を担いで反抗したが、王位僭称者を担いだ事はヘンリーに相当の危機感を持たせアイルランドの植民地化を決意させるに至った。[[1541年]]ヘンリーは在地貴族の支持を得られないまま、従来の「アイルランド卿」に代えて「アイルランド王」を自称した。この後もアイルランドへの出兵は断続的に継続されジェームズ1世の統治下でアイルランド全島の支配が確立した。
 
 
 
前述の通り、アイルランドでは宗教改革でもカトリックを守り通したため、プロテスタントに切り替わったイングランドとの間で宗教的な差異性が存在していた。イングランドは支配層である[[イングランド人]]の優位性を確定させるために{{仮リンク|カトリック刑罰法|en|Penal Laws (Ireland)}}を規定しカトリックの元支配層の失落とカトリックに対する差別が画策されることになった。
 
 
 
==== イングランド・スコットランド同君連合 ====
 
[[File:Articles of Union 1707.jpg|thumb|200px|left|『スコットランドとの連合に関する記事』]]
 
スコットランド王[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]は、イングランド王[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]の娘[[マーガレット・テューダー]]と婚姻した。これによってスコットランドとイングランドはそれまでの対立的関係から同盟的な関係へと移行することになった。又彼等の子息[[ジェームズ5世 (スコットランド王)|ジェームズ5世]]の子孫にはイングランド王位の継承権が発生した。
 
 
 
女王エリザベスが独身のまま死去すると、上記の婚姻関係からスコットランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]]が王位継承者に指名された。これによってスコットランド、イングランド両国は[[同君連合]]に発展した。イングランド王ジェームズ1世とその息子[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]は、イングランド、とりわけ王権を伸張する国教会のシステムを気に入りスコットランドにも持ち込もうとした。これによってスコットランドでは[[主教戦争]]が起きるがチャールズはこの戦費を賄う財源を求めて議会を開催した。しかし王の要求は受け入れられず国王と議会が軍事的に対立することになった。これが[[清教徒革命]]の始まりである。この対立は[[オリバー・クロムウェル]]率いる鉄騎兵によりチャールズが捕らえられ、[[1649年]]に処刑されることでイングランドにおいては一定の決着が図られた。
 
 
 
王位継承者である[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]はフランスに亡命した。ここで[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の好意からカトリックの影響を受けた。これによってカトリック世界に残留したアイルランドとの接点が生まれた。さらにイングランドによって勝手に自国の王を処刑されたスコットランドはチャールズ2世の即位を認める方針を示したのでチャールズはスコットランドやアイルランドを足場に[[イングランド王政復古|王政復古]]の運動を行うことができた。イングランド共和国を率いるクロムウェルは王党派を弾圧するためにスコットランド、アイルランドに対して出兵し両地域の王党派やアイルランドのカトリックに対して大弾圧を加えた。
 
 
 
その後イングランドではクロムウェル亡き後の混乱からチャールズ2世の[[イングランド王政復古|王政復古]]を認めるがチャールズ2世の後を継いだ[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の後継者問題を巡って再び紛糾し、ジェームズ2世はイングランドを追い出された。これがイングランドにおける[[名誉革命]]であるが、スコットランドやアイルランドでは[[ジャコバイト|ジャコバイト反乱]]として反映されることになった。ジェームズはカトリックであったのでアイルランドの支持を受けやすかった。またスコットランドは再び勝手に自国の王を挿げ替えたことにたいして反発した。結果としてジャコバイトのリバイバルは成功せず、むしろこの2回の抵抗によって両地域におけるイングランドによる支配権が増す結果になった。
 
 
 
結局スコットランドは[[合同法 (1707年)|1707年の合同法]]によってイングランドと一体化することになり、またアイルランドはイングランドの植民地化が徹底されることになった。
 
 
 
== グレートブリテン王国 ==
 
=== グレートブリテン王国の成立 ===
 
[[アン (イギリス女王)|アン女王]]の治世の1707年にイングランドとスコットランドの[[合同法 (1707年)|合同法]]が成立し、両王国はそれまでの同君連合からさらに統合を進め、[[グレートブリテン王国]]として一体化した。このためアン女王は、最後のイングランド王位とスコットランド王位の保持者となり、またグレートブリテン王国の最初の君主となった。なお、アイルランド王位はその後も18世紀の間は依然として分離されていた。
 
 
 
すでに清教徒革命と名誉革命の[[市民革命]]を経験していたイギリス史においては、この頃から[[近代]]史として扱うのが一般的である。
 
 
 
=== ハノーヴァー朝の成立と議院内閣制の成立 ===
 
[[File:Robertwalpole.jpg|thumb|150px|初代[[イギリスの首相|首相]][[ロバート・ウォルポール]]]]
 
[[1701年王位継承法|王位継承法]]を制定したイギリス議会は、アン女王の後、ドイツからステュアート家の血を引く[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]]ゲオルク・ルートヴィヒを王位継承者として招いた。これがイギリス王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]であり、現在の[[ウィンザー朝]]に連なる[[ハノーヴァー朝]]の始まりとなる。
 
 
 
ジョージ1世はあくまでもドイツの[[領邦]]国家のひとつであるハノーファー(ハノーヴァー)の君主であり、ドイツもしくは大陸ヨーロッパの政治には積極的に加担した反面、イギリスの政治に対してはあまり興味を持たなかった。ジョージ1世は即位時、既に50歳を過ぎていた上に、当時のヨーロッパにおける国際語はフランス語であったので、英語の理解には限界があった。次代の[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]も[[プリンス・オブ・ウェールズ]]叙任時に30歳を過ぎており、既にハノーファーの軍事や政務を担っていたのでその政治姿勢には大差がなかった。加えてこの2代の王は、即位後もしばしばドイツに滞在し、イギリスを留守にすることが多かった。このため、イギリスの政治は王の手から離れ、議会勢力の大小に反映された[[内閣]]の手に委ねられることになった。
 
 
 
当時の[[第一大蔵卿]]であった[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]のリーダー・[[ロバート・ウォルポール]]は、この2代の王の下で、事実上の首相として21年間政権の座にあり、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]の支持を失ったことを理由に辞任した。これを機に、内閣が議会に対して責任を持つ[[議院内閣制]]の基礎が築かれた。また、このウォルポールがイギリスにおける実質的な初代[[イギリスの首相|首相]]とされることになった。
 
 
 
ジョージ2世の孫で後継者である[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が、ハノーヴァー朝で最初のイギリス生まれの王になった。ジョージ3世はしばしば議会への干渉を試み、この政治姿勢は程度の差はあるものの、息子の[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]と[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]にも引き継がれた。ウィリアムは議会の意思に関係なく首相を任命した最後の王になった。
 
 
 
=== 植民地の拡大 ===
 
{{see|第2次百年戦争}}
 
イギリスは[[ポルトガル王国|ポルトガル]]、[[スペイン]]に遅れること1世紀、17世紀初頭に[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]とともに[[大航海時代]]に乗り出した。[[イギリス東インド会社|東インド会社]]はアジアに進出し、主にインドに拠点を確保する一方、北米大陸にも多数の植民者を送り出した。
 
 
 
また当時、ヨーロッパでの戦争に呼応したインドや北米などの植民地における戦争にも積極的であった。これら植民地での戦争として、[[スペイン継承戦争]]に呼応した[[アン女王戦争]]、[[オーストリア継承戦争]]に呼応した[[ジョージ王戦争]]、[[七年戦争]]に呼応した[[フレンチ・インディアン戦争]]などがある。特にフレンチ・インディアン戦争では、北米の[[13植民地]]の背後に広大な[[ミシシッピ川]]以東の[[フランス領ルイジアナ|ルイジアナ]]を手に入れた。イギリス政府はルイジアナを維持するため、北米植民地にイギリス軍を常駐させ、その財源を北米植民地に対する課税で賄おうとしたが、植民地人にとっては戦争の終結によって脅威が遠退いたにもかかわらず課税が強化された形となり、本国と植民地の意識に差が生じることとなった。これが後に、アメリカ合衆国の独立を引き起こすきっかけとなった。
 
 
 
=== アメリカ合衆国の独立 ===
 
[[File:Surrender of Lord Cornwallis.jpg|thumb|left|[[ヨークタウンの戦い]]で降伏する英軍指揮官[[チャールズ・コーンウォリス]]]]
 
フレンチ・インディアン戦争の結果、イギリスは広大なルイジアナ地域をフランスから獲得したが、戦費によって膨らんだ国家債務の償還、および植民地維持のために送られた軍隊の費用を13植民地への増税で賄う方針を採り、[[1764年]]に[[砂糖法]]を、翌[[1765年]]には[[印紙法]]を適用した。
 
 
 
この増税に対して植民地では不満の声が高まり、間もなくこの2つの税法は廃止に追い込まれたが、イギリス本国政府は植民地に対しての課税を諦めず、[[1767年]]には[[茶法]]を制定し、植民地での[[イギリス東インド会社]]による[[茶]]の独占と、茶に対しての課税を行った。これに対して不満を持った植民地人は[[1773年]]、[[ボストン茶会事件]]を起こし、イギリス本国政府とアメリカ植民地との相互不信感がいっそう高まる結果となった。
 
 
 
[[1775年]]に[[レキシントン (マサチューセッツ州)|レキシントン]]で、イギリス軍と植民地軍との間の武力衝突が起こった。これが植民地全域にまで拡大し、[[アメリカ独立戦争]]に発展した。植民地軍は[[ジョージ・ワシントン]]を司令官として粘り強く対抗、翌[[1776年]]には[[アメリカ独立宣言|独立宣言]]を発した。イギリスを除く他のヨーロッパ列強は、当初事件の推移を傍観していたが、[[1778年]]に[[ベンジャミン・フランクリン]]の説得によって、新大陸での利権回復の好機と見た[[フランス王国|フランス]]が対英宣戦した。[[1780年]]には[[ロシア帝国|ロシア]]の[[エカチェリーナ2世]]の提唱によって[[武装中立同盟]]が成立し、ヨーロッパの中でも孤立したイギリスは苦戦を強いられた。
 
 
 
[[1783年]]の[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]によって、イギリスは[[アメリカ合衆国の独立|13植民地の独立]]に加えて、ミシシッピ川以東のルイジアナをアメリカに、以西の地域をフランスに割譲し、これによって新大陸でのイギリスの支配地域は[[カナダ]]と[[西インド諸島]]のいくつかの島々に限定されることになった。
 
 
 
この戦争で対英宣戦したフランスの財政的な持ち出しは極めて大きく、財政が極度に悪化したため、免税特権を持っていた貴族、聖職者に対しての課税に踏み切ることになった。これに対して[[三部会]]の開催が要請されたのが[[フランス革命]]の遠因である。フランス革命は、イギリス史にも次のエポックを作り出すことになった。内政的には、ウォルポール以来のホイッグの優位がアメリカ独立運動の対応に躓いたことによって縮小し、一連の対応で国王や国民の支持を得た[[トーリー党|トーリー]]優位に変わっていった。
 
 
 
== グレートブリテン及びアイルランド連合王国 ==
 
=== グレートブリテン及びアイルランド連合王国の成立 ===
 
[[File:Flags of the Union Jack jp.png|thumb|250px|イングランド、スコットランド及びアイルランドの国旗を基にした[[イギリスの国旗]]]]
 
アイルランドは中世以来、イングランドがしばしば征服し、植民を行ってきたが、アイルランドのケルト系住民は文化的、宗教的にイングランドに同化されることはなかった。イングランドはイングランド系住民のアイルランドでの優位性を保つために、{{仮リンク|カトリック刑罰法|en|Penal Laws (Ireland)}}を制定して、在地アイルランド人と支持層であるイングランド人の差別化を図った。カトリック系のアイルランド人は16世紀のジャコバイト反乱を通じてカトリックに理解を示すジャコバイトに加担することでアイルランドの地位向上を図ったが、これは結果としてイングランドのアイルランド支配の強化に繋がった。
 
 
 
18世紀にアメリカ独立戦争が起こるとイギリスは北米対策に翻弄され、アイルランド対策に隙が生まれることになり、この間[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]の地位は著しく向上した。続くフランス革命では、これに呼応することによってアイルランドの地位を向上させようとする政治運動が活発になった。これに危機感を持ったイギリスは、[[カトリック解放]]とバーターで[[合同法 (1800年)|1800年の合同法]]を成立させ、アイルランド議会をウェストミンスター議会に併合させることにした。これが'''[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]'''の成立である。
 
 
 
本来ウェストミンスター議会との併合とバーターであったはずのカトリック解放が実現するのは、1829年の{{仮リンク|カトリック解放令 (1829年)|label=カトリック解放令|en|Roman Catholic Relief Act 1829}}の成立を待たなければならなかった。また、アイルランドの爵位を持っている場合でも、他の地域における爵位を併せ持たない場合は上院に議席を認められないなど、他の地域と比べ低い扱いを受けていた。
 
 
 
=== ナポレオン戦争 ===
 
==== 革命戦争 ====
 
アメリカ独立戦争の影響は、ヨーロッパ各国にも波及した。その最たるものが[[フランス革命]]である。イギリスは[[フランス革命戦争|革命戦争]]に対して[[第一次対仏大同盟|第一次]]、[[第二次対仏大同盟]]に参加したものの[[大陸]]の大変動に対する干渉は比較的限定されたものになった。フランスの軍港[[トゥーロン]]を攻撃し、[[亡命]][[貴族]]を受け入れた程度である。これは経済的には[[アメリカ独立戦争]]の敗戦からの回復期にあたること、政治的にイギリス政権内部でも革命に対して理解を示す層がある程度存在したためである。
 
 
 
フランスと地続きで王を処刑されたことに恐怖を感じていたオーストリア、プロイセンなどの大陸諸国と、海を隔てた上に市民革命において王を処刑した経験を持つイギリスでは温度差があった。思想的にイギリス革命で[[王権神授説]]を否定し、これを論理的に肯定した[[ジョン・ロック]]の思想はフランス革命の思想に影響した[[ジャン=ジャック・ルソー]]や[[シャルル・ド・モンテスキュー|シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー]]と言った[[啓蒙思想]]家に一定以上の影響を及ぼしていた。このように思想的にフランス革命を肯定できる下地がイギリスには存在した。
 
 
 
==== エジプト・シリア戦役 ====
 
こうした状況の大きな転換点となるのが[[ナポレオン・ボナパルト]]の登場である。ナポレオンの登場は大陸のミリタリー・バランスを大きく崩し、第一次イタリア遠征を終え[[オーストリア帝国]]を打ち破ると、当時のフランス[[総裁政府]]も軍事上の次の軍事的脅威をイギリスと捉え、ナポレオンを対英方面司令官に任命した。といっても当時のフランスにとって[[ドーバー海峡]]を渡ってイギリスに直接侵攻するということは非現実的な議論であり、この職への就任は事実上の左遷であった。しかしイギリスの脅威に対抗することも又必要であったため、ナポレオンはイギリスと、イギリスの[[植民地]]であった[[インド]]の連絡を絶ち、イギリスを経済的に疲弊させることを目的として[[エジプト遠征]]を決意した。これがイギリスにとってのナポレオンとのはじめての直接対決であり、以降17年間続く[[ナポレオン戦争]]の実質的な幕開けであった。
 
 
 
[[1798年]]、ナポレオンはエジプトに上陸し、[[ピラミッドの戦い]]で[[カイロ]]を陥落させると、シリア方面に転じ[[ヤッファ]]、[[アレクサンドリア]]でイギリス陸軍を打ち負かした。しかし[[アッコ|アッカ]]の戦いでイギリス・オスマン連合軍に敗れ、次いで[[ナイルの海戦]]で補給を担当するフランス艦隊が、[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]率いるイギリス艦隊に大敗、遠征の維持に補給の不安を抱えたため、当初の目的であるイギリスとインドの遮断は達成できなかった。一方大陸においてフランス軍が劣勢に立たされ、[[総裁政府]]への支持が急落したため、ナポレオンは遠征を中止してフランスへ帰国した。
 
 
 
==== ヨーロッパ戦役 ====
 
[[File:Trafalgar-Auguste Mayer.jpg|thumb|left|[[トラファルガーの海戦]]]]
 
フランスへ帰国したナポレオンは、[[ブリュメールのクーデタ|ブリュメール18日のクーデタ]]で政権を掌握、[[統領政府]]を発足させ、フランス共和国第一統領に就任した。ナポレオンはその後、第二次イタリア遠征を行い、再びオーストリアを屈服させ、次の矛先を再びイギリスに向けた。この後英仏関係は、講和へ向かい[[1802年]]に[[アミアン]]において一時的な和約([[アミアンの和約]])が成立した。一時的に平和が訪れたかと思われたが、早くも翌年には相互にアミアンの和約が遵守されていないと非難しあう事態となり、早々にこの和約は破棄されてしまった。
 
 
 
更に翌[[1804年]]にナポレオンが[[フランス皇帝]]に即位すると、ヨーロッパ各国はこれを危険視し、再び[[第三次対仏大同盟|対仏大同盟]]を結成した。以降ナポレオン戦争の性格はフランス王政を復活させ、[[アンシャン・レジーム]]に戻す事から、次第にナポレオンを追放することを最終的な目標とする方向へと変わって行った。イギリスではナポレオンが皇帝に即位した事からフランス革命に共感する対仏穏健派の勢力が後退し、1804年に対仏強硬派の[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]](小ピット)が政権に立ち反ナポレオン色を鮮明にしていった。[[1805年]]、ナポレオンの[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]は[[アウステルリッツの戦い]]においてオーストリア、[[ロシア帝国]]を打ち負かしたもの、[[海軍]]は[[トラファルガーの海戦]]で、ネルソン率いるイギリス海軍に壊滅させられた。以降フランスの[[覇権]]は大陸に限定されたものとなり、ついにナポレオンはイギリス本土に攻撃の手を加えることは不可能となった。
 
 
 
[[1806年]]、[[イエナの戦い]]、[[アウエルシュテットの戦い]]で[[プロイセン王国]]軍を、翌年[[フリートラントの戦い]]でロシア軍を大敗させると、フランスは次の手としてイギリスをヨーロッパから孤立させるべく[[大陸封鎖令]]を発動し、イギリスの経済的孤立を画策したが、これは全くの逆効果で、かえってイギリスとの経済交流の場を喪失した大陸諸国の方が疲弊する結果となった。一方イギリスは反ナポレオン闘争に積極的に加担するようになり、[[ポルトガル]]、[[スペイン]]における対仏ゲリラ戦を援助することになった。
 
 
 
[[File:Sadler, Battle of Waterloo.jpg|thumb|250px|[[ワーテルローの戦い]]]]
 
こうした中で[[1812年]]の[[ロシア遠征]]が失敗に終わると、大陸各国は一斉にナポレオンに対して反抗に転じた。[[イベリア半島戦争]]でも[[1813年]]、初代[[ウェリントン公爵]][[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]率いるイギリス陸軍が[[ヴィットーリアの戦い]]に勝利し、最終的にイギリスの勝利で幕を閉じた。東では同年[[ライプツィヒの戦い]]でフランス軍が大敗、[[1814年]]には連合軍が[[パリ]]に入城し、ナポレオンを[[エルバ島]]へ追放した。
 
 
 
ナポレオン戦争後のヨーロッパの枠組みを話し合うべく[[ウィーン会議]]が開かれたが、この会議は「会議は踊る、されど進まず。」と言われる状況であり、各国の利害が対立して会談が終結する見通しすら立たなかった。こうしたヨーロッパ各国の対立の空白を狙って、エルバ島からナポレオンが脱出。瞬く間にパリに駆け上がり、帝位に返り咲いた。ヨーロッパ各国は一旦対立の矛先を収め、ナポレオンを再びヨーロッパから追放することで結束。オーストリア軍は[[北イタリア]]、及び[[ライン川]]方面に、プロイセン軍とイギリス軍は[[ベルギー]]に展開を始めた。この時ベルギーでイギリス陸軍を率いていたのが、[[イベリア半島]]からフランスを追い出したウェリントンである。フランス軍と会敵したウェリントンは、後退させられながらもプロイセン軍の合流を受け、フランス軍を敗走させることに成功した。これが[[ワーテルローの戦い]]である。ナポレオンは再び退位させられ、イギリス領[[セントヘレナ島]]へと追放された。
 
 
 
=== ウィーン体制 ===
 
ナポレオン追放後のヨーロッパは、[[自由主義]]や[[民族主義]]を抑圧して旧秩序の維持を目的とした反動的な[[ウィーン体制]]下でスタートした。これを[[国際関係]]下で維持するべく[[四国同盟]]とこれを補助する[[神聖同盟]]が締結され、イギリスはオーストリア、プロイセン、ロシアと共にこの体制維持に努力した。又ウィーン体制下では各国の[[勢力均衡]]を図るために領土の交換が行われ、イギリスはオランダから[[セイロン島]]と[[ケープ植民地]]を得、又ナポレオン戦争中維持した、[[マルタ島]]の[[領有]]を認められた。この反動的な体制は国際的には[[1848年革命]]まで維持されたと理解される。
 
 
 
一方で、この期間(1816年 - 1848年)にも自由主義的、民族主義的運動を支持し、ウィーン体制とは一線を画そうとした動きも見られた。この最たるものはイギリスの外相[[ジョージ・カニング]]による外交政策である。先ず第一点はフランス革命の思想的影響を受け、ナポレオン戦争でヨーロッパ本国の影響が薄れたのを期に相次いで起こった[[ラテンアメリカ]]、[[カリブ海]]諸国の独立をイギリスの市場拡大を狙って支持したことである。第二点が[[ギリシャ独立戦争]]を支持したことである。特にギリシャの独立運動が活発化した1830年代はウィーン体制が動揺した時期であり、イギリスは外交的な自由主義政策ばかりではなく、内政でも穀物法の緩和やカトリック解放令の公布など自由主義的な政策を実施した。
 
 
 
=== 産業革命の発展 ===
 
[[File:Maquina vapor Watt ETSIIM.jpg|thumb|left|世界初の[[産業革命]]をもたらした[[ジェームズ・ワット]]の[[蒸気機関]]]]
 
<!--イギリスにおける産業革命の始まりは18世紀からのことであるが、産業革命の発達はイギリスにおける議会政治と帝国主義の発達を呼び起こしたのでここに置く-->
 
イギリスでは世界に先駆けて18世紀から[[蒸気機関]]の開発、改良を契機にして[[工場制機械工業]]の発達が促され18世紀の中ごろから[[産業革命]]が進展した。
 
 
 
最初に[[工業化]]したのは[[軽工業]]である[[綿織物]]の分野で、これは元々イギリスの主要産業の一つであった。蒸気機関を動力とした[[織機]]や[[紡績]]機の機械化と[[イノベーション]]が促され、工場での大量生産が可能になった。軽工業段階では資金はそれほど必要としなかったものの資本の一つとして安価な[[労働力]]を必要とした。又動力源となる[[石炭]]を採掘する[[炭鉱]]や、これを運び出す積出港、綿布の原料となる綿花を引き受ける貿易港でも、労働力を集中させるだけの需要が生まれた。このように労働力が集中した工業都市は中世都市をベースにして近代都市に発展した。一方でこうした都市間を結んで原料を大量に流通させるシステムが必要とされるようになった。こうして生み出されたのが[[鉄道]]で1825年に最初の鉄道がリバプール - マンチェスター間に施設された。
 
 
 
こうした社会的な変動は、社会制度そのものに大きな変化をもたらした。資本家が欲した安価な労働力はかねてから進行していた[[囲い込み]]と連動して従来の農村のコミュニティを崩し、その余剰人口を引き受けることによって生み出された。こうして都市では[[労働者]]という新しい社会階層を生み出すことになった。こうした労働者が大量に工業都市に集中することによって都市化が進展した。こうして人口が爆発的に増加した都市として、イングランドの[[リバプール]]、[[マンチェスター]]、[[バーミンガム]]、スコットランドの[[グラスゴー]]、ウェールズの[[カーディフ]]などがある。また労働者の集中によって引き起こされた都市化は、農村コミュニティに代わって、職場や学校を中心とする新しい都市のコミュニティを形成させることになった。
 
 
 
経済的には[[資本家]]による[[資本蓄積|資本の蓄積]]が始まって、初期の資本主義形態は[[産業資本主義]]に進展した。[[拡大再生産]]を継続する産業資本主義はイギリスの外に新しい[[市場]]と、原料の供給地を求めることになった。これに刺激され19世紀イギリスでは[[帝国主義]]の発展が見られるようになった。
 
 
 
労働の変遷と都市化によって、社会形態は劇的に変化した。資本家と労働者は分化し、双方の間には[[労働]]問題が発生した。1810年代には機械化そのものに反発する[[ラッダイト運動]]がイギリス各地で発生した。19世紀半ばには労働者の地位向上を実践した[[ロバート・オウエン]]が現れた。これと同時期には更に急進的な主張が表れた。[[カール・マルクス]]や[[フリードリヒ・エンゲルス]]は1848年にロンドンで生産手段の国有化を謳う[[共産党宣言]]を発表した。
 
 
 
=== 議会政治と民主主義の発達 ===
 
==== チャーティズム ====
 
ナポレオン戦争での勝利は、イギリス国内ではフランス革命に共感していた知識人と産業革命で勃興しつつあった資本家と労働者たちへの反動政権の勝利でもあった。この内政的な反動体制は[[1832年]]まで続いた。
 
 
 
{{仮リンク|1832年の選挙法改正|label=この年の選挙法改正|en|Reform Act 1832}}によって小売店主の線まで拡大したが、依然として懸案であった[[腐敗選挙区]]はほとんど野放しのままで、法改正の恩恵からもれた大多数の勤労者たちはさらなる選挙権拡大をめざし、政治運動を展開することになった。これが[[チャーティズム]]運動である。チャーティズム運動は政治参加への要求だけではなく、飢餓にさらされていた労働者たちの熱望をかき立てることに成功した。彼等の運動は男子普選や腐敗選挙区の解消を骨子とした[[1838年]]の「{{仮リンク|人民憲章|en|People's Charter<!-- 曖昧さ回避ページ -->|FIXME=1}}」の策定に結実し、以降[[1842年]]、[[1848年]]の大規模なデモンストレーションに発展した。
 
 
 
既成政党であった[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]と[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]は、1832年の改正でほぼ満足した資産家・中産階級を味方にしてチャーティズムを押さえようと試みた。この試みは成功し。チャーティズムの運動は、[[1848年革命]]に呼応した最後の大規模なデモンストレーションの後に沈静化した。
 
 
 
==== 自由党・保守党の誕生 ====
 
1830年代まで、ホィッグは中産階級の急進派、産業資本家を支持基盤としており自由貿易に対して積極的であった。一方のトーリーは農業や土地に基礎をおいた貴族や地主層に支持基盤を置いていて、保護貿易を志向していた。ホィッグもトーリーもこの時点までは、これらの支持基盤や政策的志向を一定度共有する議員グループ以上の存在にはならなかった。
 
 
 
[[1835年]]に行われた{{仮リンク|1835年イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, 1835}}で、トーリーの有力議員であった[[ロバート・ピール]]は自身の選挙区の有権者に対して{{仮リンク|タムワース・マニフェスト|en|Tamworth Manifesto}}を示した。これは政権公約という意味での最初の[[マニフェスト]]であった。タムワース・マニフェストがこれ以上に重要なのは、このマニフェストが同年にトーリーの綱領として採択された事にある。これによってトーリーはそれまでの議員グループから脱却して近代的な政党である[[保守党 (イギリス)|保守党]]へ脱皮した。
 
 
 
ピールは1841年に首相に就任し、[[1846年]]に[[穀物法]]を廃止した。続くホイッグの首相[[初代ラッセル伯ジョン・ラッセル|ジョン・ラッセル]]の下で、[[1849年]]には[[航海法]]が廃止され産業資本家が求める自由貿易が実現した。このようにピールは保守党議員でありながら自由貿易に積極的な姿勢を示した。ピールに同調する議員をピール派と呼ぶ。ピールが議員を辞すると、ピール派は次第に保守党から離れホイッグに合流した。このときまでにホイッグには同じくトーリー出身で自由主義外交を志向したカニング派も合流していてこれらの連合体として[[自由党 (イギリス)|自由党]]が成立した。
 
 
 
この後、自由党と保守党、自由貿易派と保護貿易派の政治闘争を中心にしてイギリス議会政治が発展した。この間の自由党の最有力政治家は[[ウィリアム・グラッドストン]]であり、保守党のそれは[[ベンジャミン・ディズレーリ]]であった。彼ら有力な政党政治家たちが自由・保守両党をリードして定期的な政権交代を繰り返しながら国政を指導し、民主主義の理念を充実させた。
 
 
 
この議会政治と平行して、選挙法の改正が[[1867年]]、[[1884年]]、[[1918年]]、[[1928年]]と行われた。{{仮リンク|1867年の選挙法改正|en|Reform Act 1867}}では都市部労働者に対して選挙権が付与され、有権者の総数は200万人程度まで増えた。{{仮リンク|1884年の選挙法改正|en|Representation of the People Act 1884}}では地方の労働者に対して選挙権が与えられ、有権者は440万人まで増えた。
 
 
 
==== 労働党の誕生 ====
 
67年と84年の選挙法改正によって、選挙権は労働者まで拡大した。これによって従来の既成政党である自由・保守以外でこれら労働者の支持の受け皿として労働者政党を結成しようとする運動が19世紀末に起こった。1884年に結成された[[フェビアン協会]]を母体として[[1906年]]に「[[労働党 (イギリス)|労働党]]」が成立された。労働党は同年緒総選挙で26議席を獲得し議会勢力に足場を築いた。続く1910年の総選挙ではアイルランド問題の解決に取り組む自由党と連立し政権入りを果たした。
 
 
 
=== 帝国の最盛期 ===
 
[[File:The British Empire.png|thumb|300px|[[イギリス帝国]]統治下の経験を有する国・地域。現在の[[イギリスの海外領土]]は赤い下線が引いてある。]]
 
対仏戦争終了後、[[ヨーロッパ]]のみではなく各国[[植民地]]の地図は一変した。[[フランス]]は当面の間、[[四国同盟]]によって封じ込められ、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]の植民地は程なく独立し、[[オランダ]]も[[ケープ植民地]]をイギリスに奪われた。[[産業革命]]によって得た経済的優位性を得ていたイギリスは[[ナポレオン戦争]]勝利によって[[覇権]]を確たるものとしたのである。
 
 
 
==== 中南米 ====
 
アメリカ合衆国大統領[[ジェームズ・モンロー|モンロー]]の「[[モンロー宣言|宣言]]」とともに[[ラテンアメリカ]]諸国の独立を支えた外相カニングの不干渉政策は宗主国と切り離した植民地を衛星経済化しようとの意図に基づいたものであったが、新世界の[[ミドルクラス]]たる[[クリオーリョ]]たちは旧弊な元宗主国よりも、イギリスの[[自由主義]]に引きつけられた。そのため、独立後のラテン・アメリカ諸国はイギリスへの依存を強めていった。独立当初の[[奴隷制]]や[[独裁]]など、前近代的な要素を残した現地社会はイギリスにとって必ずしも市場としての条件を揃えていた訳ではないが、イギリス人の移入とともに徐々に生活のイギリス化が進行し、19世紀後半までにはラテンアメリカ諸国は総じて良い市場へと成長したのであった。
 
 
 
==== アジア ====
 
[[三角貿易]]の要であった[[インド]]は[[シパーヒーの乱|インド大反乱]]を期に、[[イギリス東インド会社|東インド会社]]の手からイギリス政府の手へと取り戻され、インド帝国として生まれ変わった。運営自体が本国植民地省と[[総督]]の手に委ねられたことによって、インドは名実ともにイギリス帝国の最重要植民地となった。
 
 
 
この後、19世紀末から20世紀前半にかけて、[[列強]]間の植民地獲得競争が激しさを増し、それに伴い帝国のコストは重くイギリスにのし掛かるようになった。これをインドの阿片栽培で賄いイギリス帝国全体の赤字を相殺し財政を健全化した。こうしてインドはいわば帝国の維持機関としての役割を担うことになった。
 
 
 
インドの阿片は主に中国で売買され、これは[[1840年]]に[[清]]との間で起こった[[阿片戦争]]のきっかけになった。阿片戦争とこれに続く[[1857年]]の[[アロー戦争]]によって、イギリスは極東の中継貿易地である[[香港]]を手に入れ、さらに[[中国大陸]]の経済的利権も獲得して中国の半植民地化に先鞭を付けた。
 
 
 
==== アフリカ ====
 
18世紀末のナポレオンのエジプト遠征や、19世紀前半のギリシャの独立運動は[[オスマン帝国]]に動揺をもたらし、この結果属領であった[[エジプト]]の独立運動を促すことになった。1830年代にエジプトは[[ムハンマド・アリー]]の指導の下に実質的な独立を果たした。新興エジプトは近代化を画策してフランスとともに[[スエズ運河]]の建設に乗り出すが、膨大な建設費によって財政は破綻し、経済的にイギリスの支配を受けることになった。[[1882年]]に[[アフマド・アラービー]]の対英反乱である[[ウラービー革命]]が鎮圧されるとイギリスはエジプトを保護国化した。
 
 
 
==== 帝国主義の対立 ====
 
[[ファイル:Queen Victoria -Golden Jubilee -3a cropped.JPG|thumb|200px|「[[ヴィクトリア朝]]」と呼ばれる治世を築いたヴィクトリア女王]]
 
19世紀半ばから19世紀末にかけてのヨーロッパはイギリスのヘゲモニー下にあり、概ね平穏であった。そのため、古代のパクス・ロマーナに習い、この時期を称して[[パクス・ブリタニカ]](Pax Britanica:イギリスの平和)と呼ぶ事がある。[[五賢帝]]時代のように、この時期のイギリス帝国はまさに最盛期を迎えていた。[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の統治の下、[[科学技術]]は発展し、選挙法改正により労働者は国民となり、シティには世界中から資本が集まり「[[パクス・ブリタニカ]]」と呼ばれるほど平和裏に各国に影響力を行使することができた。(1872年当時のイギリスの様子は日本の[[岩倉使節団]]の記録である「米欧回覧実記」にも詳しく記されている<ref>久米邦武 編『米欧回覧実記・2』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年</ref>。)しかし、フランスとのアフリカに場所を移した植民地競争、新興国ドイツ、アメリカの追い上げ等、水面下では次の時代に向けた動きが活発化していたのもまたこの時代である。
 
 
 
[[1901年]][[1月22日]]のヴィクトリア女王死去後、[[ハノーヴァー朝]]から[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家|サクス=コバーグ=ゴータ朝]]となり、[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]国王が即位した。この後、外交面では[[1902年]][[1月30日]]に、ロシアの南下政策に対抗するため利害関係の一致による目的により日本と[[日英同盟]]を締結した。この後、日本はロシアとの[[日露戦争]]において[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]([[共和党 (アメリカ)|共和党]][[セオドア・ルーズベルト]]大統領)の仲介も貢献した講和成立により勝利を果たした。その後、日本との軍事同盟は第二次([[1905年]])、第三次(1911年)と継続更新された。
 
 
 
[[1910年]][[5月6日]]にエドワード7世が死去し、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]国王が即位した。
 
 
 
=== 第一次世界大戦 ===
 
==== 端緒 ====
 
[[File:3goku kyosho & 3goku domei.png|thumb|300px|[[三国協商]]と[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]]]
 
19世紀後半になるとドイツの[[産業革命]]が急激に進展し、工業力でイギリスに追いつく勢いを見せた。国内産業の発達したドイツは海外に新しい植民地を欲し、すでにイギリス、フランスによって色分けが成されていた植民地の再分割を主張するようになった。このためドイツとの対立が激化した。イギリスは対ドイツの安全保障策としてフランスと[[英仏協商]]を、[[ロシア帝国|ロシア]]と[[英露協商]]を結んで[[三国協商]]とし、[[ドイツ帝国|ドイツ]]、[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア]]、[[イタリア王国|イタリア]]の[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]に対抗しようと試みた。[[1914年]]、[[サラエヴォ事件]]によってオーストリア・ハンガリー帝国次期皇位継承者[[フランツ・フェルディナント大公|フランツ・フェルディナント]]が暗殺されたことを契機にして、ヨーロッパの大国同士が争う[[第一次世界大戦]]に突入した。
 
 
 
当時の首相の[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]はドイツが中立国[[ベルギー]]を侵略したことに対して対独宣戦することを決意した。イギリスはフランスに大陸遠征軍を派遣、フランス、ベルギー軍と共に[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]でドイツ軍と対峙した。当初イギリスでもこの戦争は比較的短期間で終了すると予測されていたが、緒戦の[[マルヌ会戦]]でドイツ主導の短期決戦計画が破綻すると両軍とも[[北海]]から[[アルプス山脈|アルプス]]まで至る[[塹壕]]を掘ってにらみ合い、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]は膠着状態に陥った。
 
 
 
また、[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家|サクス=コバーグ=ゴータ朝]]であった王室は、敵国となった[[ドイツ語]]由来の名称を嫌悪し、[[ウィンザー朝]]と改称し在位中のジョージ5世が初代君主となった。
 
 
 
==== 初期 ====
 
膠着した戦線で連合軍、中央同盟軍は互いにしばしば攻勢をかけ戦線の突破を企てたが、これらの企みはほぼ全てが多数の死傷者を出しただけで終わり、全く前線を前進させることは無かった。
 
 
 
イギリスが担当する[[イーペル]]では大戦中イギリスとドイツでイープルの取り合いを数度繰り返した挙句、双方で50万人以上の死傷者を出した。しかし[[イープルの戦い]]は街を廃墟にしただけでイギリスにもドイツにも何ももたらすものが無かった。また、1916年の[[ソンムの戦い]]ではフランス軍と共同し、新兵器の[[戦車]]を投入するなどしてドイツ軍の前線に攻勢をかけ戦線突破を図ったが、攻勢を開始した7月1日だけでもイギリス軍は2万人近い戦死者を出した。
 
 
 
こうした前線の失敗は西部戦線だけでなく[[トルコ]]でも起こった。1915年イギリス軍は[[ANZAC]]や[[カナダ軍]]と共同でトルコ上陸を目指したが作戦は見事な失敗に終わった。これが[[ガリポリの戦い]]でイギリス軍を主力とする連合軍は4万人以上の戦死者と倍近い負傷者を生み出したがトルコを陥落させることはできなかった。
 
 
 
ガリポリやソンムでの戦いが多大なる犠牲を出しながらも何も得ることが無かったということが判明するとイギリス本国では政変となった。首相のアスキスはその座を引きずり下ろされ、代わって陸相の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]がその後を襲った。この時の政変が戦後の[[クーポン選挙]]の遠因になっている。
 
 
 
==== 総力戦 ====
 
第一次大戦は人類史上初の世界的規模で展開した未曾有の[[国家総力戦|総力戦]]となった。この経験はイギリスに限らず、ヨーロッパ全土に歴史的な影響を残した。総力戦では国家の持てる軍事力以外にも、工業力、経済力、外交能力などあらゆる能力が全て戦争に動員される。
 
 
 
外交面ではドイツの背後にある同盟国[[オスマン帝国|トルコ]]を倒すために、戦後の中東地域の枠組みに関する約束手形を乱発した。そのうち将来[[パレスチナ]]地域に[[ユダヤ人]]国家の設立を約束したのが、[[バルフォア宣言]]、[[アラブ人]]のトルコからの独立を約束したのが、[[フサイン・マクマホン協定]]、ロシア、フランスとの間で中東利権のドイツの排除と再分割を約したのが[[サイクス・ピコ協定]]である。これらの協定は戦後の中東地域の混乱を増大させる要因ともなった(イギリスの[[三枚舌外交]]と呼ばれる)。
 
 
 
==== 終結 ====
 
この戦争は、イギリス・フランスの敗北によって対英仏債務の回収ができなくなることを恐れた[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が、長い[[孤立主義]]を破ってヨーロッパの戦争に参加するということで軍事的には解消された。結果として戦争には勝利したものの長期間に及ぶ総力戦によって国力が疲弊したイギリスにも影が落ち始めた。特に[[新大陸]]の若年国アメリカの助けなしで戦争を終えることはできなかったということは、19世紀から20世紀のはじめまで、ヨーロッパはもとより世界的規模でリーダーシップを発揮し続けたイギリスが、その座から落ちていくことを示していた。
 
 
 
== グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 ==
 
=== アイルランドの独立 ===
 
[[ファイル:Flag of Ireland.svg|thumb|200px|独立後、現在の[[アイルランドの国旗|アイルランド共和国の国旗]]]]
 
[[ファイル:Flag of the United Kingdom.svg|thumb|200px|イギリスからの独立以前、[[1801年]]から[[1922年]]までの旗、現在の[[イギリスの国旗]]]]
 
19世紀末から20世紀初頭にかけてのアイルランド自治を要求する運動により、アイルランドの地位はしばしば政治的な問題として取り上げられていた。19世紀末に提案された2度のアイルランド自治法案はいずれも廃案となったが、1914年にようやく自治法案が可決された。しかしこの自治法は欧州大戦([[第一次世界大戦]])の勃発を理由に施行されずに凍結されることになった。戦争の長期化が予測されなかったためアイルランド側にも一定の了承があったが戦争が長期化することでこの目論見は外れた。戦中を通してイギリスに対する不満は増大し、ドイツの裏工作によって1916年に大規模な対英反乱とアイルランド独立の宣言が行われた。イギリスはこれに対し軍の投入と、反乱首謀者の処刑で応えたためイギリスに対する不信感は一層増した。
 
 
 
このような背景により、戦後のイギリスにとってアイルランド問題は緊急的な政治課題となっていた。18年の総選挙で大勝したロイド・ジョージは[[アルスター]]6州を[[北アイルランド]]として分離し、北アイルランドのイギリス残留を条件にアイルランドの独立を認めることを公約に掲げた。一方で独立急進派はイギリスに対してゲリラ戦を展開しこれに応えた([[アイルランド独立戦争]])。これによってアイルランド問題の緊急性が増したイギリスでは1920年に[[アイルランド統治法 (1920年)|アイルランド統治法]]が制定された。独立戦争が収拾されるに及んで統治法の枠組みの中でのアイルランド自治を英愛間で確認する[[英愛条約]]が締結され英王冠に忠誠を誓う[[アイルランド自由国]]の成立が確認された。一方アイルランドではこの条約に対しての賛成派と反対派の意見が集約できず、[[アイルランド内戦]]が勃発した。
 
 
 
その後アイルランドは1937年の[[アイルランド憲法]]の施行に伴い、国名を[[アイルランド語]]の「エール」に変更した。第二次世界大戦後の[[1949年]]には[[アイルランド共和国]]となって[[1949年]]に[[イギリス連邦|英連邦]]を離脱した。クロムウェルのアイルランド征服以来の入植により[[プロテスタント]]系住民が多くなっていた[[北アイルランド]]は、[[カトリック]]系が多数を占める[[南アイルランド]]とは袂を分かち、連合王国に残る途を選んだ。しかしそのために北アイルランドでは少数派となったカトリック系住民と多数派のプロテスタント系住民の間に対立の火種を残すこととなり、又アイルランドが統一されていないという不満も残ることになった。
 
 
 
{{see also|北アイルランド問題}}
 
 
 
=== 両大戦間期 ===
 
==== 戦後協調体制 ====
 
第一次大戦後のイギリスの国際政治は戦後協調体制の確立から始まった。[[ドイツ]]([[ドイツ帝国|帝政]]崩壊後、[[ヴァイマル共和政]])に対する処分は[[ヴェルサイユ条約]]によって決定したが、ドイツの植民地剥奪、一部領土の縮小、軍備の制限、巨額の賠償金の要求を骨子とするヴェルサイユ体制は結果として安定しなかった。一方[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]で決定されたアジア・太平洋地域での戦後協調体制([[戦間期]]における)のワシントン体制では、完全にこの地域のメインプレーヤーがアメリカと日本に取って代わられたことを明確にした。[[ワシントン海軍軍縮条約]]、[[ロンドン海軍軍縮会議]]で決定した海軍軍拡競争の防止は一定期間以上の役割を果たすことはできなかった。これらの中で[[四カ国条約]]が締結され[[1923年]][[8月17日]]に[[日英同盟]]も解消となった。アジアでは中国軍との間で[[1926年]]に[[万県事件]]、[[1927年]]には[[南京事件 (1927年)|南京事件]]が勃発したが武力で断固として処断した。
 
 
 
==== 議会勢力の変化 ====
 
[[File:Big four.jpg|250px|thumb|[[1919年]][[5月27日]]、[[パリ講和会議]]の際の四ヶ国首脳。左からロイド・ジョージ英首相、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]伊首相、[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]仏首相、[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]米大統領。]]
 
イギリスの国内政治では[[ロイド・ジョージ]]は第一次大戦終了後直ちに議会を解散し、8年ぶりになる総選挙を実施した。この選挙は戦中イギリスをリードしてきた保守党と自由党の連立派とそれを率いるロイド・ジョージに対する信任選挙となった。この選挙でロイド・ジョージは自分を支持する自由党候補に対しては保守党党首の[[連署・副署|副署]]の付いた公認証書(Coupon)を発行したもの、公認証書を得られなかったアスキス派自由党候補の選挙区には公認証書を持った対立候補を送って徹底的に反対派を叩き潰した。このためこの選挙をクーポン選挙という。ロイド・ジョージの連立派が勝利し、保守党、自由党の非連立派が大敗した。連立政権が崩壊した後の1922年の総選挙では、前回選挙以来の分裂を引きずった自由党に対して、保守党が大勝した。自由党の議席数はアスキス派とロイド・ジョージ派を足しても労働党のそれをはるかに下回った。
 
 
 
翌1923年の総選挙で、労働党は191議席と大躍進した。労働党は自由党と連立を組んで、初の労働党首を首班とする[[ラムゼイ・マクドナルド]]内閣が成立した。この連立政権は翌24年の総選挙で労働党の党勢に陰りがみられたために解消されたが、1929年の総選挙で、労働党が初めて議会内第一党となったことによって第二次マクドナルド内閣が議会の過半数を占めていないながらも発足した。
 
 
 
==== 恐慌への対策 ====
 
[[File:Commonwealth of Nations.svg|thumb|300px|[[イギリス連邦]]加盟国]]
 
1929年の総選挙によって誕生した労働党政権最大の弱点は、それが少数内閣であり議会内で過半数を維持していないということにあった。[[1929年]]にアメリカの[[ニューヨーク]]から発した[[世界恐慌]]はイギリスにも襲来した。これが労働党少数内閣を襲う。緊縮財政を強いられたマクドナルドは[[失業保険]]の削除など福祉政策に回す予算を削減せざるを得なかったが、これは労働党の存在意義に大きく関わるものであった。事実労働者の権利向上を謳う労働党はこの政策を放棄したとみられ1931年の総選挙で200以上の議席を減らして大敗した。
 
 
 
この選挙結果を受けて労働党内で責任論が噴出し、マクドナルドにそれを求める意見が多かった。[[1931年]]にマクドナルドは党を除名され、労働党は従来から掲げてきた労働政策を維持するグループと、マクドナルド派に分裂した。マクドナルド派は保守党、自由党と連立政権を組織し、これを「国民政府」と銘打った。国民政府は[[金本位制]]の放棄、[[イギリス連邦]]の形成とそれをベースにした{{仮リンク|スターリングエリア|en|Sterling area}}の形成など矢継ぎ早に経済政策の刷新を行った。イギリスの経済不振は31-32年で底を打ち、以降回復傾向を見せるものの、広大な[[イギリス帝国]]の[[植民地]]を維持するだけの経済的基盤がもはやイギリスに存在しない事は隠し通せない事実となってしまった。
 
 
 
[[1935年]]に総選挙が実施され、労働党国民政府派が退潮し国民政府の首班は保守党党首の[[スタンリー・ボールドウィン]]に移行した。一方で野党労働党はこの選挙で党勢を大きく回復させた。以降も保守、自由、労働党国民政府派による国民政府は維持され続けるが国民政府の重要課題は、経済政策からヨーロッパ情勢へとシフトしていく。
 
 
 
また、[[1936年]][[1月20日]]にはジョージ5世が死去し、[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]国王が即位した。しかし、離婚歴のある平民のアメリカ人女性[[ウォリス・シンプソン]]と結婚するために「王冠をかけた恋」と謳われたほど[[グレートブリテン王国]]成立以降のイギリス国王としては歴代最短の在任期間わずか325日で退位し、[[1936年]][[12月11日]]に王位継承権第1位だった長弟に譲位することで、[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]国王が即位した。
 
 
 
==== ヨーロッパ情勢の変化 ====
 
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1970-052-24, Münchener Abkommen, Mussolini, Hitler, Chamberlain.jpg|thumb|220px|right|[[1938年]][[9月29日]]、[[ミュンヘン会談]]において[[ベニート・ムッソリーニ]]、[[アドルフ・ヒトラー]]とともに行うチェンバレン首相(一番右)]]
 
[[ファイル:MunichAgreement.jpg|thumb|220px|right|[[1938年]][[9月30日]]、ミュンヘン会談からの帰国後に会見するチェンバレン首相]]
 
第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、その戦後処理に対して不満を持つ国内勢力が少なくなく、[[ファシズム]]の台頭に反映された。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]を率いる[[アドルフ・ヒトラー]]は戦後協調体制であるヴェルサイユ体制に対してこれの破壊を目指した。イギリスでは第一次大戦の反省からヨーロッパ全土を巻き込む戦争の可能性について強い拒否反応があった。また経済的にも既にイギリス帝国が斜陽しつつあるのは明らかであった。首相の[[ネヴィル・チェンバレン]]は、これらを背景に[[ナチス・ドイツ]]への[[宥和政策]]を採り続け、再軍備宣言の容認、ザール併合、オーストリア併合の容認などヴェルサイユ体制の崩壊に加担した。
 
 
 
最大の戦争の危機に発展した[[ズデーテン]]の帰属問題では、[[1938年]]の[[ミュンヘン会談]]においてこれ以上の領土の拡張を行わないことを条件にズデーテンの併合を認めたが、ドイツはズデーテンの併合を皮切りに、チェコの併合、スロバキアでの傀儡政権の樹立など英仏との了解を反故にして領土拡張を続けた。これによって宥和政策を採り続けてきたネヴィル・チェンバレンの評価は下がり、代わって宥和政策に対して警鐘を鳴らし続けていた[[ウィンストン・チャーチル]]への待望論が高まりだした。
 
 
 
=== 第二次世界大戦 ===
 
[[ファイル:LondonBombedWWII full.jpg|thumb|200px|[[バトル・オブ・ブリテン]]の[[ザ・ブリッツ]]、空襲を受けたロンドン]]
 
[[File:Into the Jaws of Death 23-0455M edit.jpg|thumb|left|200px|[[ノルマンディー上陸作戦]]]]
 
[[ファイル:Prince of Wales-5.jpg|thumb|200px|チャーチル首相(最前列右)、[[大西洋会談]]において戦艦上でルーズベルト米大統領と共に]]
 
[[ファイル:Special Film Project 186 - Buckingham Palace 2.jpg|thumb|left|200px|[[1945年]][[5月8日]]の[[ヨーロッパ戦勝記念日]]をうけて、[[バッキンガム宮殿]]のバルコニーに立つ国王[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]一家とチャーチル首相]]
 
 
 
==== ヨーロッパ ====
 
[[ファイル:HMS Prince of Wales and HMS Repulse underway with a destroyer on 10 December 1941 (80-G-413520).jpg|thumb|200px|[[1941年]][[12月10日]]、[[マレー沖海戦]]において日本軍機の攻撃を受ける[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]](左手前)、[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]](左奥)、エレクトラ(右手前)。]]
 
[[1939年]][[9月1日]]に[[ナチス・ドイツ]]が[[ポーランド侵攻|ポーランドへの侵攻]]を始めるとイギリスは[[フランス]]と共に対独宣戦布告を行った。これが[[第二次世界大戦]]の勃発である。ネヴィル・チェンバレンは失脚し、代わって首相に[[ウィンストン・チャーチル]]が就いた。国民政府は解体され、[[二大政党制]]の[[保守党 (イギリス)|保守党]]、[[労働党 (イギリス)|労働党]]による戦時内閣([[挙国一致内閣]])として[[第1次チャーチル内閣]]が形成された。
 
 
 
宣戦布告直後にイギリスは再び大陸に遠征軍を派遣し、[[フランス軍]]、[[ベルギー軍]]と共に共同で[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の西進を阻むことは確認されたもの、[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]は一向に戦端が開かれる気配が見られず、西からの援護を受けられない[[ポーランド]]は結局見殺しにされる格好になった。結局西部戦線は翌年5月からドイツの主導で戦端が開かれることになった。[[オランダ]]、[[ベルギー]]から国境を突破したドイツ軍はあっという間に連合軍を[[イギリス海峡]]沿岸まで追い詰めた。海まで追い詰められたイギリス軍は[[ダンケルクの戦い]]で部隊をイギリスに帰還させることに成功するが、首都[[パリ]]に追い詰められたフランス軍はドイツに降伏するしか道が残されていなかった。こうして早々に大陸に味方がいなくなったイギリスは[[島国]]であるために早々とドイツ軍の侵入を許すことはないものの、ヨーロッパで唯一、[[枢軸国]]に対峙することを迫られた。
 
 
 
フランスに続いてイギリスへの上陸を狙うドイツと大陸への足がかりをなくしたイギリスとの戦いは、イギリスの地理的な条件と両軍の軍事ドクトリンを背景として大規模な空戦へと移行した。これが[[バトル・オブ・ブリテン]]である。当初は[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]のイギリスへの一方的な攻撃で、首都[[ロンドン]]をはじめ大都市は大きな打撃を蒙った。ドイツ軍の攻撃目標がイギリス海峡沿岸に近いところから内陸部へと拡大すると航続距離の短いドイツ軍機に対してイギリスにも反撃のチャンスが巡ってきた。8月末には初めて独首都[[ベルリン]]を空襲した。以降ドイツとイギリスの爆撃の応酬になったが、[[独ソ戦]]の開始により東にも戦線が開かれるとドイツは早々にイギリス上陸作戦を諦めざるを得なかった。
 
 
 
[[1941年]][[8月9日]]から[[8月12日]]に行われた[[大西洋会談]]において、チャーチルはアメリカの[[民主党 (アメリカ)|民主党]][[フランクリン・ルーズベルト]]大統領と共同で調印し、「[[大西洋憲章]]」を発表した。
 
 
 
==== アジア ====
 
[[ファイル:Singaporesurrender.jpg|thumb|200px|[[1942年]][[2月15日]]、[[シンガポールの戦い]]において[[日本軍]]に対して降伏する[[イギリス軍]]]]
 
[[ファイル:Potsdam conference 1945-8.jpg|thumb|200px|[[ポツダム会談]]に集まった3ヶ国首脳。前列左から[[クレメント・アトリー]]首相、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]米大統領、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]ソ連首相。]]
 
[[1941年]][[12月8日]]に日本が対米英宣戦布告を行うことによって[[アジア]]、[[太平洋]]地域での戦線が開かれることになった([[太平洋戦争]]/[[大東亜戦争]])。日本軍は早々に[[香港の戦い|香港]]、[[マレー作戦|マレー半島]]、[[シンガポールの戦い|シンガポール]]といったアジアにおけるイギリスの拠点を陥落させ、ビルマに侵攻し、インドを窺う姿勢をとったことは大きな打撃となった。海戦でも[[マレー沖海戦]]では[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の航空機部隊に対して東洋艦隊が壊滅したのは[[イギリス海軍|イギリスの海軍力]]の斜陽を示すことになった。
 
 
 
第一次大戦の主要戦線が[[ヨーロッパ]]に限定されたのに対し、第二次大戦では[[東アジア]]、[[東南アジア]]、[[南アジア]]でも大規模な戦線が開かれた。これは[[イギリス軍|イギリスの用兵]]に大きく影響した。第一次大戦では多数の[[英印軍]]、[[オーストラリア軍]]及び[[ニュージーランド軍]]からなる[[ANZAC]]が大規模にヨーロッパ戦線に投下された。一方、第二次大戦では、[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]に英印軍を投下することを余儀なくされ、又[[イギリス領インド帝国|インド]]の離反の備えも必要とした。[[オーストラリア]]も開戦初期に[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)|ダーウィン]]を[[日本のオーストラリア空襲|空襲]]されると危機感が煽られ結局オーストラリア軍の大部分をオーストラリアに帰還させなければならなかった。
 
 
 
ただしこのようにしてイギリスがアジア戦線に投下した兵力も[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の主力になり得ることは無かった。この方面の反撃は専ら[[アメリカ軍]]に委ねられることになった。
 
 
 
==== アメリカの参戦・大戦での勝利 ====
 
チャーチルは[[真珠湾攻撃]]以前から米国の大戦参加を要求していたが、米国の当時[[民主党 (アメリカ)|民主党]][[フランクリン・ルーズベルト]]大統領は大戦への参加には終始及び腰であった。
 
 
 
しかし、日本の対米英蘭宣戦布告に伴って、独伊も対米宣戦布告をしたことはイギリスにとって渡りに船であった。これによってアメリカはヨーロッパ戦線への参戦が可能になりイギリスは直接支援を得ることができる相手を見つけることができた。目下の目標は[[北アフリカ戦線]]の攻略であり、将来的な目標は西部戦線の復活であった。
 
 
 
1943年5月までに北アフリカ戦線は終結し、8月には地中海を越えて[[シチリア]]に上陸、9月にはイタリア半島本土に取り付くことに成功した。本土への連合軍上陸を許したイタリアは9月8日に無条件降伏した。但し[[ベニート・ムッソリーニ]]は北部に逃れたため、ドイツ軍の支援によって[[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]]は継続された。
 
 
 
続いて西部戦線の復活が具体的に検討され始めた。1942年から1943年にかけて予備的な上陸作戦が行われた後、[[1944年]][[6月6日]]に英米軍を主体とした[[ノルマンディー]]への大規模な[[ノルマンディー上陸作戦|上陸作戦]]が実施された。これによって西部戦線が復活し、ドイツを劣勢に追い込み東西両方から挟み込む体制が確立した。以降戦争は急激に連合軍優位に進展していくことになった。8月末にはパリを開放、9月初めには[[アントウェルペン]]を解放しヨーロッパ西部の戦線は急激に拡大していった。[[1945年]][[4月]]には[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が[[ベルリンの戦い|ベルリンに侵攻]]、[[5月8日]]にドイツは連合軍に対し[[無条件降伏]]した。
 
 
 
太平洋戦線でも、物資、工業力に勝るアメリカが優位に戦線を展開し、[[1945年]][[9月2日]]には[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対する[[ポツダム宣言]]受諾の調印がなされ、日本も無条件降伏した([[日本の降伏]])。
 
 
 
==第二次世界大戦後==
 
 
 
=== 戦後国内政治の体制 ===
 
イギリスでは第二次世界大戦終了直後に保守党と労働党の挙国一致内閣が解消され、チャーチル率いる保守党政権は選挙管理内閣となった。[[1945年]]7月に行われた戦後初の総選挙において[[クレメント・アトリー]]率いる労働党が勝利した。イギリスの憲政史上初めて労働党が議席の過半数を占有し、アトリーはこれを背景にして安定した労働党単独政権を組織することができた。自由党はこの選挙において決定的に失落し、以降イギリスの二大政党制は、保守、自由の二大政党制から保守、労働の二大政党制へ完全に移行した。なおこの政権交代はポツダム会議の会期中に行われたため、アトリーはチャーチルに代わってポツダム会議に参加することになった。
 
 
 
労働党による戦後再建策は大きく分けて2つあり、1つは「[[ゆりかごから墓場まで]]」と言われる「[[大きな政府]]」による[[福祉国家]]政策と、[[石炭]]、[[鉄道]]、[[通信]]など基幹産業の国有化であった。これらの政策は、この時点では第二次世界大戦において壊滅的な打撃を蒙ったイギリスの復興に対して、一定の効果を持っていたと評価される。また労働党政権は[[インド]]、[[ビルマ]]、[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]]などの独立が容認され植民地帝国が崩壊する契機になった。
 
 
 
=== 帝国の崩壊 ===
 
[[ファイル:Coronation of Queen Elizabeth II Couronnement de la Reine Elizabeth II.jpg|thumb|200px|[[1953年]][[6月2日]]、[[ウェストミンスター寺院]]での[[エリザベス2世]]女王の戴冠式]]
 
第二次大戦中イギリスは帝国内で最大規模の人口を誇るインドに対して、ヨーロッパ、太平洋で複数の戦線を維持し、又城内平和を維持するため戦後[[インド]]の地位に対して大幅な譲歩をせざるを得なかった。イギリス政府は1947年に{{仮リンク|1947年インド独立法|en|Indian Independence Act 1947|label=インド独立法}}を承認し、[[印パ分離独立|インドとパキスタンの独立]]を、翌[[1948年]]にはセイロン([[スリランカ]])の独立を承認した。又大戦中に日本の支配下にあったビルマ、マレーでもイギリス支配下に復することに混乱が見られ、1948年に[[ビルマ]](ミャンマー)の1957年に[[マレーシア]]の独立を承認した。
 
 
 
[[1951年]][[10月26日]]にアトリーが失脚し、労働党から保守党へ政権交代され、チャーチルが首相に再任した。
 
 
 
またこの間、[[1952年]][[2月6日]]に[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]が病弱にして満56歳で死去し、長女のエリザベス王女が[[エリザベス2世]]女王として[[イギリスの君主|イギリス国王]]に即位した。
 
 
 
1960年代に入るとフランス領西アフリカの独立要求を期にアフリカ諸国の独立運動が活発化し、[[1960年]]に[[ナイジェリア]]が、[[1962年]]に[[ウガンダ]]が、[[1963年]]に[[ケニア]]が、[[1964年]]に[[マラウイ]]と[[ザンビア]]がイギリスから独立を宣言した。又1961年に[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]が、[[1966年]]に[[ローデシア]]が[[アパルトヘイト]]維持のためイギリスからの独立を宣言した。
 
 
 
[[1955年]][[4月6日]]にチャーチルが失脚し、彼の政権下で外相を務めた[[アンソニー・イーデン]]が首相に就任した。
 
 
 
[[1956年]]には[[エジプト]]が[[スエズ運河]]の国有化を宣言し、同地帯を占領したためイギリス、フランス、[[イスラエル]]との間で戦闘が勃発した。これが[[第二次中東戦争]](スエズ危機)である。英仏は国際世論の支持を得られなかったためスエズから撤退し、[[地中海]]と[[紅海]]を結ぶスエズ運河の利権を喪失した。またエジプトの行動に励まされて中東地域でも独立運動が刺激され、[[1971年]]に[[バーレーン]]、[[カタール]]、[[アラブ首長国連邦]]がイギリスから独立した。
 
 
 
残る最大のイギリス植民地は[[香港]]だけになったが、これも1984年にサッチャー首相と[[トウ小平|鄧小平]][[中華人民共和国]]中央軍事委員会主席の間で行われた英中首脳会談で新界の租借期限が切れる1997年に割譲地も含めて一斉に中国に返還されることになった。香港を返還したことで、イギリスは主要な植民地のほぼ全てを喪失することになった。
 
 
 
=== 冷戦下のイギリス ===
 
[[File:Cold war europe military alliances map en.png|thumb|250px|[[冷戦]]下の東西ヨーロッパ]]
 
第二次世界大戦終結後、ヨーロッパは[[自由主義]]国家群の[[西ヨーロッパ]]と、[[社会主義]]国家群による[[東ヨーロッパ]]の2つに分裂した。この状況を指して「[[バルト海]]の[[シュテッティン]]から、[[アドリア海]]の[[トリエステ]]まで、ヨーロッパを分断する[[鉄のカーテン]]が下ろされている」と言ったのはチャーチルである。東ヨーロッパの盟主は[[ソビエト連邦]]であったが、もはやイギリスに西ヨーロッパのリーダーとなる国力はなかった。西ヨーロッパの戦後復興をリードし、自由主義陣営の盟主となったのは[[アメリカ合衆国]]であった。[[1947年]]の[[トルーマン・ドクトリン]]と[[マーシャル・プラン]]がアメリカからヨーロッパに提唱されたことは、西ヨーロッパにおいてアメリカの存在が不可欠であることを如実に示していた。このアメリカを筆頭とする[[資本主義]]・[[自由主義]]陣営である[[西側諸国]]と、ソ連を筆頭とする[[社会主義]]・[[共産主義]]陣営である[[東側諸国]]の、直接戦火を交えない対立が[[冷戦]]である。以降[[1989年]]までのイギリス史は、基本的にこの冷戦の枠組みの中で進展していくことになった。
 
 
 
[[1949年]]、西ヨーロッパの新しい安全保障の枠組みとして[[北大西洋条約機構]](NATO)が発足した。イギリスはこれに原加盟国として参加し、アメリカの「[[核の傘]]」の中に入ることになった。また、イギリス自身も[[1952年]]に独自の[[核兵器]]保有を実施している。
 
 
 
==== 戦後内政の改革 ====
 
[[ハロルド・マクミラン]]、[[アレック・ダグラス=ヒューム]]と保守党政権が続き、[[1964年]][[10月16日]]に[[ハロルド・ウィルソン]]が首相に就任し、アトリー以来13年ぶりに労働党が政権に復帰する。
 
 
 
[[1969年]]に[[イングランド]]、[[ウェールズ]]、 [[スコットランド]]、[[1973年]]に[[北アイルランド]]、[[1998年]]に[[死刑]]制度が完全に廃止された。
 
 
 
ウィルソン労働党政権下で、[[妊娠中絶]]の合法化、[[死刑]]制度の廃止及び[[同性愛]]の非刑罰化([[ソドミー法]]の廃止)を含む社会的改革がなされ、通貨[[スターリング・ポンド|ポンド]]の平価切り下げや、日本の[[放送大学]]の模倣ともなった[[大学通信教育|通信制公立大学]]である[[オープン大学]]の設置などの政策が実施された。
 
 
 
==== サッチャリズム ====
 
[[ファイル:Thatcher Reagan Camp David sofa 1984.jpg|thumb|200px|[[1984年]][[12月22日]]、イギリス政治史上初の女性首相で「[[鉄の女]]」とも称された[[マーガレット・サッチャー]](右)、[[ロナルド・レーガン]]米大統領と。]]
 
その後、保守党の[[エドワード・ヒース]]、ウィルソン(再任)、[[ジェームズ・キャラハン]]と2人続けて労働党政権が続いた。
 
 
 
戦後イギリスで行われた福祉国家制度と基幹産業の国有化政策にもかかわらず、旧態依然とした階級制度は残り、生産設備の老朽化とあいまってイギリスの経済活力が失われた。1970年代には「[[英国病]]」、「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほど経済状況が悪化した。これに追い討ちをかけたのが1973年に勃発した[[オイルショック]]で、イギリス経済は大打撃を蒙った。この状況を改善することを期待されて登場したのが、[[1979年]]の総選挙で大勝した保守党党首[[マーガレット・サッチャー]]である。
 
 
 
[[1979年]][[5月4日]]に就任したサッチャー首相は「[[小さな政府]]」(=[[自由主義国家論]])を目標とし、規制緩和や福祉制度見直しなどの大胆な改革を実施した。また、野党の労働党左派や労働組合を狙い撃ちに、戦後国有化された基幹産業の民営化、炭坑の閉鎖、大ロンドン市の解体、福祉制度の圧縮に乗り出した。これを[[1980年代]]に入って模倣し、[[日本電信電話公社|通信]]、[[日本専売公社|専売]]、[[日本国有鉄道|国鉄]]の3事業の民営化に乗り出したのが[[日本]]である。
 
 
 
サッチャリズムの結果、失業率は激増し、[[リヴァプール]]など工業地帯の都市はどん底の状態に陥った。こうしたサッチャーの政治姿勢を[[新自由主義]]もしくは[[サッチャリズム]]と呼ぶ。なお、1980年代にはイギリスの製造業が衰退した反面、[[北海油田]]の生産が伸び、オイルショック後の原油輸出価格の高騰により[[産油国]]イギリスの対外収支は黒字になった。
 
 
 
又サッチャーは対外的にも強硬的な姿勢を示した。[[1982年]]の[[フォークランド紛争]]はその一端で、[[フォークランド諸島]]を占領した[[アルゼンチン軍]]に対し、すぐさま陸海空軍を出動させフォークランド諸島を奪還した。これにより一時落ち込んでいたサッチャーの支持率は盛り返したと言われる。又当時のアメリカ大統領[[ロナルド・レーガン]]に協調し、[[ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻]]に反発して'''新冷戦'''と呼ばれる状況を作り出した。
 
 
 
==== 北アイルランド問題 ====
 
第一次世界大戦後、北アイルランドをイギリスに残留させるということでアイルランド問題は一応の決着を見た。しかしイギリスに残留した北アイルランドではアイルランドが統一されていないことに対する不満がくすぶり続けており、これは英愛条約直後から潜在的に存在していた。これが一連の[[北アイルランド問題]]に連続する。
 
 
 
これらの不満が顕在化するのは第二次世界大戦後である。[[アイルランド共和軍]](IRA)が活発化し、1950年代以降20世紀を通じてIRAによるテロ活動が頻発した。一方でイギリスは武力の行使によってこれに対抗し、1972年には[[ロンドンデリー]]でのデモに発砲し13人の犠牲者を出す事件が発生した。これが[[血の日曜日事件 (1972年)|血の日曜日事件]]である。双方が感情的になったことで北アイルランド問題は泥沼化し、IRAは冷戦の対立構造の中で、[[バスク祖国と自由]](ETA)や[[赤い旅団]]と連動しながらテロを繰り返し、一方のイギリスは強硬に対決するなど解決の糸口を見出せない状態が20世紀末まで続いた。
 
 
 
冷戦の終結は[[北アイルランド問題]]にも解決の兆しを見せた。1994年にIRAは一方的な停戦宣言を発し、イギリスはこれを歓迎した。トニー・ブレアが政権に付いた1998年には和平合意となる[[ベルファスト合意]]が締結された。
 
 
 
=== 冷戦後 ===
 
[[ファイル:Queen Elizabeth II March 2015.jpg|thumb|150px|[[1952年]][[2月6日]]より在位中の[[イギリスの君主|イギリス国王]](女王)である[[エリザベス2世]]。]]
 
==== 地域化 ====
 
ヨーロッパ大陸では[[1951年]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[イタリア]]、[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]]の6カ国によって'''欧州石炭鉄鋼共同体'''が発足、[[1957年]]にはこれをベースとしてヨーロッパ経済圏の確立を目指す'''欧州経済共同体'''(EEC)が成立した。イギリスではこれに対抗して[[1959年]]、[[スウェーデン]]、[[ノルウェー]]、[[デンマーク]]、[[オーストリア]]、[[スイス]]、[[ポルトガル]]の7カ国で[[欧州自由貿易連合]](EFTA)を結成した。EFTAは域内での自由貿易が目的であったが、フランス、ドイツなどのヨーロッパの先進工業地域、経済的な中心地はEECに押さえられていた。又[[1967年]]、欧州石炭鉄鋼共同体、ヨーロッパ経済共同体に'''欧州原子力共同体'''を統合して'''欧州共同体'''(EC)が誕生すると、ヨーロッパ中心部に巨大な[[関税同盟]]とマーケットが出現し、イギリスもECに加わるべきであるとする議論が活発になった。これはイギリスを二分する激しい議論となり、ECの経済的優位性に魅力を感じる賛成論に対してイギリスの経済的な独自性を維持すべきであるという反対論が存在した。[[1973年]]、イギリスはデンマークと共にEFTAを脱退、ECへの加盟を果たした。この時イギリス、デンマークと共に[[アイルランド]]もECに加盟し、これは[[欧州連合の拡大|ヨーロッパ共同体の拡大]]の始まりとなった。ただしこれでイギリスのEC加盟が確定したわけではなく、EC加盟後の[[1975年]]に[[:en:United Kingdom European Communities membership referendum, 1975|EC加盟の是非を問う国民投票]]を行って初めて確定した。
 
 
 
以降も、ECは拡大を続けた。[[1989年]]に[[冷戦]]が終結するとECという地域連合は、西ヨーロッパだけではなくヨーロッパ全域における政治、経済の統合に向かって一層の弾みがつけられた。1993年にECは[[欧州連合]](EU)に発展した。EUはヨーロッパにおける政治、経済の統合を目指して様々な方針を打ち出した。ヨーロッパを単一の市場とみなして、人、モノ、お金の流通を自由化するという方針は経済分野での統合の最たるものである。このうちお金に関しては、1992年からヨーロッパ単一通貨の導入を目指した動きが始められた。この運動は[[2002年]]に導入された[[ユーロ]]として結実する。イギリスはユーロ導入に当たって、保留権を行使し独自通貨である[[イギリス・ポンド]]を維持している。また、EU内の人の移動の自由化を保障した[[シェンゲン協定]]にも[[署名]]していない。
 
 
 
==== 労働党政権 ====
 
[[ファイル:Blair Bush Whitehouse (2004-11-12).jpg|thumb|200px|[[2004年]][[11月12日]]、[[ホワイトハウス]]にて[[ジョージ・W・ブッシュ]]米大統領と握手する[[トニー・ブレア]]首相(左)。]]
 
[[ファイル:President Barack Obama meets Prime Minister Gordon Brown.jpg|thumb|left|200px|[[2009年]][[3月3日]]、ホワイトハウスにて[[バラク・オバマ]]米大統領と会談する[[ゴードン・ブラウン]]首相(左)。]]
 
冷戦の末期を強力に指導した保守党政権は、冷戦の終了後も政権党としてあり続け、[[1990年]][[11月28日]]のサッチャー失脚により、[[ジョン・メージャー]]首相が[[1997年]]の総選挙で労働党に大敗して[[トニー・ブレア]]政権が誕生するまで政権を握り続けた。
 
 
 
1997年に誕生したブレア労働党政権は、それまでの福祉政策の見直しを図り、[[リベラル]]な方向性を示しながらも左派中道と呼ばれる政策に大きく転換してきた。通称、「[[第三の道]]」とも呼ばれたこの政策はイギリス国内において中間層の拡大を反映しており、2大政党のそれまでの政策の大きな相違は徐々に消滅しつつある。[[1998年]]には[[ベルファスト合意]]を結び、[[IRA暫定派]]と和平の合意が成立した。
 
 
 
[[2001年]][[9月11日]]に[[アメリカ同時多発テロ事件]]が発生するとブレア政権はアメリカの共和党[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領政権支持を表明し、これに続く[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガニスタン戦争]]と[[2003年]]の[[イラク戦争]]に対して派兵を含めた積極的な支援を行った。[[2005年]]9月には[[バスラ]]においてイラク警察に拘束された英兵を拘置所から奪還し、騒乱に繋がった。
 
 
 
ブレア政権で財務大臣を務めた[[ゴードン・ブラウン]]が[[2007年]][[6月24日]]開催の英国労働党大会で党首に選出され、同年[[6月27日]]にブレアの後任としてイギリス首相に就任した。
 
 
 
==== 保守党と自由民主党の連立政権 ====
 
[[ファイル:David Cameron and Barack Obama at the G20 Summit in Toronto.jpg|thumb|200px|[[2010年]][[6月26日]]、[[カナダ]]の[[トロント]]で開催された[[G20]]サミットで、バラク・オバマ米大統領と会談する[[デーヴィッド・キャメロン]]首相(左)。]]
 
[[2010年]][[5月11日]]、総選挙結果の責任を取る形でブラウン首相が辞任し、13年に及ぶ労働党政権に幕を引き、メージャー政権以来保守党が政権与党に返り咲き、[[デーヴィッド・キャメロン]]首相が誕生した。
 
 
 
[[2011年]][[11月30日]]、保守党・自由民主党連立政権が推し進める「年金改革」<ref>年金掛け金を年3.2%増、2020年までに年金受給開始年齢を現行60歳から66歳に引き上げるなどを提案</ref>に反対して、ユニゾンなどの公務員関係の30労組は、30日午前0時1分から24時間ストにはいった。ストには、200万人の参加が見込まれ、全国で約1000のデモ、集会が行われ、市庁舎や図書館、職業安定所、病院前にピケが張られる予定である。1926年以来最大規模の行動となる。イングランド地方では9割の学校が休校となり、救急を除く病院業務、空港の入国管理、地方行政などに影響が出る予想。BBC(イギリス公共放送)の世論調査では国民の61%がストを支持しているという。<ref>[http://www.asahi.com/international/update/1130/TKY201111300133.html 英国全土で公務員200万人ストへ 空港も混乱の恐れ] 朝日新聞 2011年11月30日</ref><ref>[http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20111201k0000m030106000c.html 英国:公務員が24時間スト 年金改革に抗議] 毎日新聞 2011年12月1日 </ref>ロンドンでは25,000人が、イングランド、ウェールズでは地方公務員2,100,000人のうち670,000人がストに参加した。<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111130-OYT1T00971.htm 英国の官公労30組合200万人、スト突入] 読売新聞 2011年11月30日</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-12-02/2011120201_06_1.html 年金改悪ノー 200万人 英公務員スト] しんぶん赤旗 2011年12月2日</ref>
 
 
 
[[2014年]]からは、[[同性結婚]]が合法化された。
 
 
 
==== ブレグジット(Brexit) ====
 
[[File:Donald Trump and Theresa May (33998675310) (cropped).jpg|thumb|left|200px|[[2017年]][[1月27日]]、[[ホワイトハウス]]にて就任直後の[[ドナルド・トランプ]]米大統領と会談するテリーザ・メイ首相(左)。]]
 
[[File:Theresa May.png|thumb|150px|現職[[イギリスの首相]]である[[テリーザ・メイ]](在任:[[2016年]][[7月13日]] - )。]]
 
[[2016年]][[6月23日]]に[[イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票]]が実施され、その結果僅差をもって離脱賛成派が過半数を占めたため、[[欧州連合からのイギリス脱退]](通称:ブレグジット)が決定された。
 
 
 
これを受けて、キャメロン首相兼保守党党首が責任を取る形で辞任を表明し、2016年[[7月13日]]にキャメロン政権で内務大臣を務めた[[テリーザ・メイ]]が、サッチャーに続く2人目のイギリスの女性首相兼保守党党首として就任した。キャメロン政権で外務大臣を務めた[[フィリップ・ハモンド]]を[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]に充て、ハモンドの後任として[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]に[[ボリス・ジョンソン]]前[[ロンドン市長]]を起用した。
 
 
 
メイ新政権は、それまでの[[エネルギー・気候変動省]]を新設した[[ビジネス・エネルギー・産業戦略省]]へ吸収する代わりに新たに[[欧州連合離脱省]]を設置し、主に[[欧州連合|EU]]離脱問題を担当する閣僚ポストとして、[[欧州連合離脱大臣]]を新設した。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
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== 脚注 ==
 
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== 関連項目 ==
 
* [[イギリス君主一覧]]
 
* [[イギリスの首相の一覧]]
 
* [[イングランドの歴史]] - [[スコットランドの歴史]] - [[アイルランドの歴史]] - [[ウェールズの歴史]]
 
* [[イギリス帝国]]
 
* [[英語史]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.great-britain.co.uk/history/history.htm British History](英語)
 
 
 
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