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{{基礎情報 過去の国
 
|略名 =インド
 
|日本語国名 =インド帝国
 
|公式国名 ='''Indian Empire''' <span style="font-size:90%;">(英語)</span>
 
|建国時期 =[[1858年]]
 
|亡国時期 =[[1947年]]
 
|先代1 =イギリス東インド会社
 
|先旗1 =Flag of the British East India Company (1801).svg
 
|先代2 =ムガル帝国
 
|先旗2 =Alam of the Mughal Empire.svg
 
|先旗2縁 = no
 
|先代3 =コンバウン王朝
 
|先旗3 =Flag of Burma (Alaungpaya Dynasty).svg
 
|先代4 =マイソール王国
 
|先旗4 =Flag of Mysore.svg
 
|先代5 =清
 
|先旗5 =Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg
 
|次代1 =インド連邦 (ドミニオン)
 
|次旗1 =Flag of India.svg
 
|次代2 =パキスタン (ドミニオン)
 
|次旗2 =Flag of Pakistan.svg
 
|次代3 =イギリス領ビルマ
 
|次旗3 =British Burma 1937 flag.svg
 
|次代4 =イギリス領セイロン
 
|次旗4 =British_Ceylon_flag.svg
 
|国旗画像 =Flag of Imperial India.svg
 
|国旗リンク =
 
|国旗説明 =
 
|国旗幅 =
 
|国旗縁 =
 
|国章画像 =Star-of-India-gold-centre.svg
 
|国章リンク =
 
|国章説明 =
 
|国章幅 =
 
|標語 =
 
|国歌名 =[[国王陛下万歳]]
 
|国歌 =[[国王陛下万歳]]
 
|国歌追記 =
 
|位置画像 =British Indian empire in 1936.png
 
|位置画像説明 =イギリス領インド帝国の版図(1936年)
 
|公用語 =[[ウルドゥー語]]、[[英語]]、[[ヒンディー語]]
 
|首都 =[[コルカタ|カルカッタ]]<span style="font-size:90%;">([[1858年]]-[[1912年]])</span><br/>[[ニューデリー]]<span style="font-size:90%;">([[1912年]]-[[1947年]])</span>
 
|元首等肩書 =[[インド皇帝|皇帝]]
 
|元首等年代始1 =[[1877年]]
 
|元首等年代終1 =[[1901年]]
 
|元首等氏名1 =[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]
 
|元首等年代始2 =[[1901年]]
 
|元首等年代終2 =[[1910年]]
 
|元首等氏名2 =[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]
 
|元首等年代始3 =[[1910年]]
 
|元首等年代終3 =[[1936年]]
 
|元首等氏名3 =[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]
 
|元首等年代始4 =[[1936年]]
 
|元首等年代終4 =[[1936年]]
 
|元首等氏名4 =[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]
 
|元首等年代始5 =[[1936年]]
 
|元首等年代終5 =[[1947年]]
 
|元首等氏名5 =[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]
 
|首相等肩書 =[[インドの総督|副王]]
 
|首相等年代始1 =[[1858年]]
 
|首相等年代終1 =[[1862年]]
 
|首相等氏名1 =カニング伯爵[[チャールズ・カニング (初代カニング伯爵)|チャールズ・カニング]](初代)
 
|首相等年代始2 =[[1947年]][[2月21日]]
 
|首相等年代終2 =[[1947年]][[8月15日]]
 
|首相等氏名2 =[[ルイス・マウントバッテン|マウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテン]](インド帝国時代最後の総督<ref>最後のインド総督であったのは1947年8月15日に就任した[[チャクラバルティー・ラージャゴーパーラーチャーリー]]で共和制施行までの間その任にあった。</ref>)
 
|面積測定時期1 =1937年
 
|面積値1 =4,903,312
 
|面積測定時期2 =1947年
 
|面積値2 =4,226,734
 
|面積測定時期3 =
 
|面積値3 =
 
|面積測定時期4 =
 
|面積値4 =
 
|面積測定時期5 =
 
|面積値5 =
 
|人口測定時期1 =1877年
 
|人口値1 =2,6億
 
|人口測定時期2 =1900年
 
|人口値2 =3,1億
 
|人口測定時期3 =1939年
 
|人口値3 =3億7800万
 
|人口測定時期4 =
 
|人口値4 =
 
|人口測定時期5 =
 
|人口値5 =
 
|変遷1 =成立
 
|変遷年月日1 =[[1858年]]
 
|変遷2 =滅亡
 
|変遷年月日2 =[[1947年]]
 
|通貨 =[[ルピー]]
 
|時間帯 =
 
|夏時間 =
 
|時間帯追記 =
 
|ccTLD =
 
|ccTLD追記 =
 
|国際電話番号 =
 
|国際電話番号追記 =
 
|注記 =
 
|現在 = {{flag|Bangladesh}}<br>{{flag|India}}<br>{{flag|Myanmar}}<br>{{flag|Pakistan}}<br>{{flag|United Arab Emirates}}<br>{{flag|Yemen}}<br>{{flag|China}}(係争中)
 
}}
 
  
'''イギリス領インド帝国'''(イギリスりょうインドていこく)は、[[1858年]]に[[イギリス]]が[[インド]]に成立させた'''インド帝国'''([[英語]]:Indian Empire)を指す。[[1877年]]以降は[[イギリスの君主]]が[[インド皇帝]]を兼ねる[[同君連合]]の形式が取られたが、事実上イギリスの[[植民地]]であった。'''英領インド'''・'''英印'''とも呼ばれる。またイギリスによる[[統治]]を指してヒンディー語で「{{Lang|hi|ब्रिटिश राज}}」(英語ではBritish Raj)と呼ぶ。
+
'''イギリス領インド帝国'''(イギリスりょうインドていこく)
  
その領域はインド・[[パキスタン]](後の[[バングラデシュ]]を含む)のみならず、現在の[[ミャンマー]]、[[ネパール]]、[[スリランカ]]も版図とした。
+
イギリス政府が直接統治した時代 (1858~1947) の植民地インドの呼称。 1757年の[[プラッシーの戦い]]に勝った[[イギリス東インド会社]]はベンガル州を会社領とし,それ以後各地を征服,19世紀なかばには全インドを支配下においた。この間の激しい収奪ときびしい弾圧に対するインド人の反感は 1857~59年の[[インド大反乱]]となって爆発。 58年イギリス政府は東インド会社を廃止して直接統治下におき,77年イギリス国王がインド皇帝を兼ね,インド帝国と称した。領内は直轄領と大小数百の[[インド藩王国]]とが入り交り,藩王国はイギリス人弁務官が実際上統治した。すなわち藩王が高額の年金と待遇を受けるだけのものから,実際に統治してイギリス人顧問の監視を受けるものにいたるまで種々の区別を設け,直轄領も従来の習慣に基づき,地方ごとに租税の額や徴収法を異にした。こうした分割統治によって反乱防止をはかった。しかし,本国への食糧や原料供給のための小麦,茶,砂糖,藍などの強制栽培,またこれらを運ぶための鉄道の敷設などがインド人の自治要求の自覚を高め,イギリス本国も 20世紀に入るとたびたび統治法を改めることによって少しずつ自治を認めざるをえなくなった。第2次世界大戦後の 1947年に独立を認め,インド帝国を廃止した。
 
 
== 概要 ==
 
[[画像:British Indian Empire 1909 Imperial Gazetteer of India.jpg|thumb|250px|インド帝国の地方行政区画(1909年)]]
 
アジアにおいてイギリスは、[[1796年]]には[[スリランカ]]を[[併合]]([[イギリス領セイロン]])、[[1814年]]から[[1816年]]の[[グルカ戦争]]によって[[ネパール王国|ネパール]]を[[保護国]]にした。また、1824年から[[ビルマ]]を3次におよぶ[[イギリス・ビルマ戦争]]によって1886年から[[イギリス領ビルマ]]とし、1937年までは現在の[[ミャンマー]]の[[版図]]もその領土としていた。[[カナダ]]や[[オーストラリア]]といった[[イギリス帝国]]内の[[自治領]]とは異なり、帝国の常に一つの独自な構成部分として定義されている。[[第一次世界大戦]]および[[第二次世界大戦]]には連合国として参戦し、[[国際連盟]]、[[国際連合]]ともに原加盟国である。
 
 
 
そして1858年、[[インド大反乱]](シパーヒーの乱)の後、イギリスは[[ムガル帝国の君主]]を廃し、[[イギリス東インド会社]]を解散させ、「インド帝国」を成立させた。そのうえで、本国イギリスには[[インド省]]が、現地には「[[副王]]({{lang-en|viceroy}})」の称号を持つ[[インドの総督|イギリス人総督]]が置かれ、1877年には[[イギリス国王]](当時は[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]])がインド皇帝を兼任するようになった。
 
 
 
国内は直轄州と大小552の[[藩王国]]にわかれており、[[軍隊]]([[英印軍]])も存在した。
 
 
 
[[1923年]]、イギリスはネパールとの友好条約でその地位を保護国ではなく[[独立国]]として認めた<ref name="佐伯">佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、pp.577-578</ref>。大戦後、[[1947年]]に[[インド連邦 (ドミニオン)|インド]]と[[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]]が[[インド・パキスタン分離独立|分離独立]]し、翌[[1948年]]には[[ビルマ]]と[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]]も分離独立し、完全に消滅した。
 
 
 
== 地方行政区画 ==
 
20世紀になる頃のインド帝国の[[直轄領]]は、[[州知事]]あるいは[[州準知事]]が統治する8つの州から構成されていた。1905年のベンガル分割令において、ベンガル州は、東ベンガル及びアッサムと西ベンガルの2つに分割されたが、[[1911年]]に、東西ベンガルは再統一され、さらに、[[ビハール州]]、[[オリッサ州]]が新設された<ref name=igi-46>{{Harvnb|Imperial Gazetteer of India vol. IV|1907|p=46}}</ref><ref name="Map">Metcalf (2006)pp.184-185</ref>。
 
 
 
=== 主要8州 ===
 
{| class=wikitable
 
|- valign=bottom
 
! イギリス領インド帝国の州<ref name=igi-46/> !! 面積 (千平方マイル)!! 人口 (百万人) !! 州の最高責任者
 
|-
 
| align="center" | ビルマ州(現在の[[ミャンマー]]) ||align="center" | 170 || align="center" | 9 || align="center" | 準知事
 
|-
 
| align="center" | ベンガル州 (現在の[[バングラデシュ]]、[[西ベンガル州]]、[[ビハール州]]、[[ジャールカンド州]]、[[オリッサ州]]によって構成)|| align="center" | 151 || align="center" | 75 || align="center" | 準知事
 
|-
 
|align="center" | マドラス州 || align="center" | 142 || align="center" | 38 || align="center" | 知事
 
|-
 
|align="center" | ボンベイ州 || align="center" | 123 || align="center" | 19 || align="center" | 知事
 
|-
 
| align="center" | 連合州 (現在の[[ウッタル・プラデーシュ州]]、[[ウッタラーカンド州]]) || align="center" | 107 || align="center" | 48 || align="center" | 準知事
 
|-
 
| align="center" | 中央州とベラール || align="center" | 104 || align="center" | 13 || align="center" | 政務長官
 
|-
 
|align="center" | パンジャーブ州 || align="center" | 97 || align="center" | 20 || align="center" | 準知事
 
|-
 
|align="center" | アッサム州 || align="center" | 49 || align="center" | 6 || align="center" | 政務長官
 
|}
 
 
 
=== それ以外の直轄領 ===
 
主要8州以外にも、政務長官が統治する複数の州が存在した<ref name=igi-56>{{Harvnb|Imperial Gazetteer of India vol. IV|1907|p=56}}</ref>。
 
 
 
{| class=wikitable
 
|- valign=bottom
 
! 小さい県<ref name=igi-56/> !! 面積 (千平方マイル)!! 人口 (千人) !! 州の最高責任者
 
|-
 
| align="center" | 北西辺境州 ||align="center" | 16 || align="center" | 2,125 || align="center" | 政務長官
 
|-
 
| align="center" | バローチスターン州 || align="center" | 46 || align="center" | 308 || align="center" | バローチスターン担当政務長官
 
|-
 
|align="center" | クールグ || align="center" | 1.6 || align="center" | 181 || align="center" | マイソール担当政務長官
 
|-
 
|align="center" | アジュメール-メールワーラー || align="center" | 2.7 || align="center" | 477 || align="center" | ラージプーターナー担当政務長官
 
|-
 
|align="center" | [[アンダマン・ニコバル諸島]] || align="center" | 3 || align="center" | 25 || align="center" | 政務長官
 
|}
 
 
 
=== 藩王国 ===
 
[[チャールズ・カニング (初代カニング伯爵)|チャールズ・キャニング]]の改革により、無嗣を理由とする[[藩王国]]の断絶は回避されることとなった。また、イギリス政府は、藩王としての「権利、権威、名誉」を尊重することで、藩王国の領域を間接的に支配することに成功した。ただ、藩王国の規模の大きさは大小さまざまであり、[[ニザーム藩王国]]([[デカン高原]])、[[マイソール藩王国]]([[南インド]])、[[トラヴァンコール藩王国]](現在の[[ケーララ州]])、[[ジャンムー・カシミール藩王国]]([[北インド]])がその代表として挙げられる。
 
 
 
藩王国の内政に関するイギリス側駐在官の権限は、日常的な業務への干渉のみならず、大臣の罷免、任命権にまで及んだ。イギリスの干渉の理由としては、第一に藩王国と帝国の一体化をイギリスが望んだこと、第二に多くの藩王国内において民主的、民族主義的な運動が高揚したことが挙げられる<ref name="Princely state">Chandra (2001)pp.168-171</ref>。また、イギリスは、藩王国内における一体性が保たれていなかったことから、分割支配を試みた。
 
 
 
同様の政策が[[1886年]]から帝国の一州に組み込まれた[[ミャンマー|ビルマ]]にも適用され、[[コンバウン朝]]より自立していた[[シャン族]]、[[カヤー族]]、[[カチン族]]の有力者にはイギリスの主権を承認することと引き換えに藩内での行政権が認められた<ref>{{Cite book|和書
 
|author=根本敬
 
|year=1996
 
|title=現代アジアの肖像13 アウン・サン
 
|pages=p.33
 
|publisher=岩波書店
 
|id=ISBN 4-00-004868-6
 
}}</ref>。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== キャニング総督からリポン総督の時代 1858-1884 ===
 
[[ファイル:Charles Canning, 1st Earl Canning - Project Gutenberg eText 16528.jpg|left|120px|thumb|[[チャールズ・キャニング (初代キャニング伯)|チャールズ・キャニング]]。初代インド副王に就任した]]
 
[[インド大反乱]]を鎮圧したイギリス政府は、[[1858年]][[8月2日]]、インド統治改善法を可決した。インド統治改善法により、[[イギリス東インド会社]]が保有していた全ての権限はイギリス国王に委譲されることとなった。また、イギリス本国ではインド担当国務大臣のポストが新設され、その補佐機関として、インド参事会が設けられた。また、かつての[[ベンガル総督]]がインド総督となり、肩書きに「副王」の称号が付与された。[[11月1日]]、[[チャールズ・キャニング (初代キャニング伯)|チャールズ・キャニング]](就任期間:1858年11月1日-[[1862年]][[3月21日]])が初代の「副王」に就任した<ref name="Canning">{{Cite book|和書
 
|author=Barbara D. Metcalf, Thomas R. Metcalf
 
|translator=河野肇
 
|title=ケンブリッジ版世界各国史_インドの歴史
 
|year=2006
 
|publisher=創土社
 
|id=ISBN 4-7893-0048-X
 
|pages=pp.151-154}}</ref>。
 
 
 
キャニング卿によるインド統治の方法は、推定されうる反乱の要因を摘み取るものであったため、インド大反乱の要因となった「養子縁組の否定」を否定した。その結果、インドは、藩王の地位は保証されることとなり、インドの人口の約3分の1が約500人の藩王による間接統治に置かれることとなった<ref name="Canning"/>。このことは、過去の封建体制の有力者をイギリス統治の防波堤として重視しつつ、議会主義の理念や自由主義的政治理念をもって、インドを統治するという、矛盾を孕んだものであった<ref name="Canning"/>。しかし、このことにより、キャニングは、インド統治の確立に成功した。
 
 
 
第2代副王である[[エルギン伯爵]][[ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)|ジェイムズ・ブルース]](就任期間:1862年3月21日-[[1863年]][[11月20日]])がインドで客死したため、シク戦争などインドでの経験が豊富であったサー・[[ジョン・ローレンス (初代ローレンス男爵)|ジョン・ローレンス]]準男爵(就任期間:[[1864年]][[1月12日]]-[[1869年]]1月12日。退任後初代ローレンス男爵)が急遽、イギリス本国からインドに赴任することとなり、第3代副王となった。ローレンスは、内政面では、インド人への教育機会の拡大を図った。とはいえ、ローレンスはインド人を高等公務員に就任することに関しては制限を続けた。一方、外交面では、アフガニスタンやペルシャ湾岸地域への介入を回避しながらも、[[ブータン戦争]]を実施し、勝利した。経済面では、[[オリッサ州|オリッサ]]や[[ラージプーターナー]]で飢饉が発生した(それぞれは[[オリッサ飢饉 (1866年)]]、[[ラージプーターナー飢饉 (1869年)]]を参照)。
 
 
 
[[1877年]]、第5代副王[[ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)]](就任期間[[1876年]][[4月12日]]-[[1880年]][[6月8日]])が、ムガル帝国の古都[[デリー]]で「帝国会議」({{仮リンク|デリー・ダルバール|en|Delhi Durbar}})を主催し、ヴィクトリアのインド女帝即位が発表された。この会議の目的は、藩王、地方豪族、都市の有力者を体制内に取り込むことであった<ref>Metcalf (2006) pp.168-169</ref>。リットン卿の時代には、アフガニスタンとの最終的な衝突が展開され、また、インド国内では、525万人が餓死する{{仮リンク|インド大飢饉|en|Great Famine of 1876–78}}が発生する<ref name=igi-III-488>{{Harvnb|Imperial Gazetteer of India vol. III|1907|p=488}}</ref> など、インド国内の経済は混乱した時代でもあった。
 
 
 
[[ファイル:George Robinson 1st Marquess of Ripon.jpg|120px|right|thumb|[[ジョージ・ロビンソン (初代リポン侯爵)]]]]
 
リットン卿によるアフガニスタン侵攻は、イギリス本国において、政変へと発展した。当時イギリス本国で首班を務めていた[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]が総選挙で敗北し、第2次[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]内閣が発足すると、[[ジョージ・ロビンソン (初代リポン侯爵)]]が第6代副王に就任した<ref name="Ripon">Metcalf (2006) pp.172-174</ref>。
 
 
 
リポン卿は、インドで西洋式教育を受けた階層から大きな支持を受けた。リットン卿が1878年に制定した出版物規制のための法律である「土着言語出版法」を廃止し、1882年には部分的にではあるが、選挙で選出された議員から構成される自治制度の大枠を作成した<ref name="Ripon"/>。しかし、リポン卿は、自らの統治の後半、「{{仮リンク|イルバート法案|en|Ilbert Bill}}」を廃案にしたことで、インド人の反感を買う結果を招いた。この法案は、イギリス管区の首都ではインド人判事がヨーロッパ人を裁くことができるが、他の地方ではそれができない状態を改善するための法案であったが、インド在住のヨーロッパ人の反対の世論に屈服し、廃案になった<ref name="Ripon"/>。
 
 
 
=== ダファリン総督からエルギン総督の時代 1885-1899 ===
 
第7代副王として、初代[[ダファリン伯爵]][[フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド (初代ダファリン侯爵)|フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド]](就任期間:[[1884年]][[12月13日]]-[[1888年]][[12月10日]])が就任した。第三次イギリス・ビルマ戦争が[[1885年]]に始まったが、翌年、この戦争はイギリスの勝利に終わり、ビルマの植民地化が完成した。
 
 
 
ダファリン時代の[[1885年]]に、今後のインドの政治を主導する[[インド国民会議]]が結成された。リポン時代にイルバート法案が廃案されていたこと、「富の流出」が進んでいたこと<ref name="Dufferin">Metcalf (2006) pp.196-199</ref>、当時のインド人が高級官僚に昇進することが困難であったこと<ref name="Dufferin"/> が、結成の要因として挙げられる。とはいえ、インド国民会議に参加したのは、[[ヒンドゥー]]がほとんどであり、[[イスラーム教徒]]の参加はほとんどなかった。また、穏健的な政治活動で出発した国民会議は、[[バール・ガンガーダル・ティラク]]が参加したことにより急進化する<ref name="Tilak">Metcalf (2006) pp.214-222</ref>。[[1893年]]には、ヒンドゥーとムスリムの間では、西インド、連合州、[[ビハール州]]、ビルマの[[ラングーン]]と広範囲にわたる暴動が発生し、100人以上が死亡する事態となった<ref name="Tilak"/>。牛を神聖視するヒンドゥーは、牛の保護を求めて行動し、肉屋のほとんどがムスリムであったために、この問題を契機に自らのそのほかの権利も剥奪することを恐れたことが暴動の原因であった<ref name="Tilak"/>。
 
 
 
19世紀最後の10年間は、[[1896年]]と[[1899年]]の大飢饉([[:en:Indian famine of 1896–97|英語版]])、1890年代の[[ペスト]]の大流行とイギリス側に失政が目立った時代であった。
 
 
 
=== カーゾン総督からミントー総督の時代 1899-1910 ===
 
[[ファイル:Bengal gazetteer 1907-9.jpg|200px|right|thumb|1907年から1909年の[[ベンガル地方]]の地図]]
 
[[1899年]]、[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン]]卿(就任期間:1899年1月6日-1905年11月18日)が第11代副王として就任した。カーゾン卿は外交面では、[[1903年]]に[[チベット]]に初めて外交使節を派遣([[:en:British expedition to Tibet<!-- [[:ja:チベット遠征]] とリンク -->|英語版]])した。また、アフガニスタンとの国境線で常に不安定であった北西部において、「[[北西辺境州]]」を設置することで、治安の回復を図った。内政面においては、肥大化した官僚制度の整理、商工省の新設、インド考古学研究所の設立<ref name="Curzon">Metcalf (2006) pp.222-227</ref> を実施した。
 
 
 
しかし、カーゾン卿の統治政策の本性は、[[1904年]]のインド大学法と[[1905年]]の[[ベンガル分割令]]によって、明らかとなった。インド大学法において、官吏の統制が強化され、インドにおける高等教育の発展が阻害された<ref name>{{Cite book|和書
 
|author=Bipan Chandra
 
|translator=粟屋利江
 
|title=近代インドの歴史
 
|pages=p.244
 
|year=2001
 
|publisher=山川出版社
 
|id=ISBN 4-634-67350-9
 
}}</ref>。ベンガル分割令において、[[ベンガル地方|ベンガル]]を二分し、ベンガル東部と[[アッサム]]地方でもって[[東ベンガル]]州を新設し、ベンガル西部と[[オリッサ州]]、[[ビハール州]]とを合わせて[[西ベンガル州]]を新設することで、それぞれの州の多数派をムスリムとヒンドゥーにしてしまうことで、ベンガルで盛り上がっていた反英運動を分断することにあった<ref name="Curzon"/>。ベンガル分割令は、[[1911年]]に撤回されるが、それは分割したベンガル州を再統一し、ベンガル、オリッサ、ビハール、アッサム各州に自治権を与えるという、いわば、ベンガル人に対して妥協がなされる形となった<ref>Metcalf (2006) p.232</ref>。
 
 
 
[[1905年]]、カーゾンが辞任し、第12代副王として第4代[[ミントー伯爵]][[ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド (第4代ミントー伯爵)|ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド]](就任期間:1905年[[11月18日]]-[[1910年]][[11月23日]])が就任した。ミントー卿は各地で起こっていた反英運動を徹底的に弾圧した。[[1906年]]、{{仮リンク|ジョン・モーリー (初代モーリ・オブ・ブラックバーン子爵)|en|John Morley, 1st Viscount Morley of Blackburn|label=ジョン・モーリー}}インド担当国務大臣が尊敬する、国民会議「穏健派」の[[ゴーパール・クリシュナ・ゴーカレー]]が議長に就任するが、ティラクを中心とする「急進派」が過激活動を展開した。ティラクは1907年逮捕され、6年の懲役を受け、[[マンダレー]]へ流されることで、国民会議は穏健派が支配することとなったが、国民会議は分裂により、急速に求心力を失う結果となった<ref name="Minto">Metcalf (2006) pp.227-230</ref>。
 
 
 
また、ミントー卿は、ヒンドゥーとムスリムの分断を図った。教育を受けたムスリムの一部、有力なムスリムの太守、地主の間で共有されていた分離主義・親英的な人々<ref>Chandra (2001) pp.268-269</ref> を後押しする形で、1906年、[[全インド・ムスリム連盟]]が結成された。全インド・ムスリム連盟は、ベンガル分割令を支持し、国民会議のあらゆる主張全てに反対した。
 
 
 
=== ハーディング総督からチェムズファド総督の時代 1910-1921 ===
 
[[ファイル:Malik Umar Hayat Khan - Assistant Delhi Herald.jpg|180px|right|thumb|<span style="font-size:90%;">[[1911年]]の{{仮リンク|デリー・ダルバール (1911年)|label=デリー・ダルバール|en|Delhi Durbar#Durbar of 1911}}に参列した{{仮リンク|マリク・ウマル・ハヤート・ハーン|en|Malik Umar Hayat Khan}}。[[パンジャーブ]]地方の有力者である。</span>]]
 
[[チャールズ・ハーディング (初代ハーディング・オブ・ペンズハースト男爵)|ハーディング卿]](就任期間:1910年11月23日-[[1916年]]4月4日)が第13代副王として就任すると、その翌年、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]と[[メアリー・オブ・テック|メアリー]]王妃が[[インド]]を訪問し、デリーにおいて、戴冠式典が挙行された。[[イギリス国王]]がインド帝国時代にインドを訪問したのはこれが最初で最後であり、その式典で、[[カルカッタ]]から[[デリー]]への遷都が宣言された。
 
 
 
ハーディング総督時代のインド政治を左右したのは当時の国際情勢であった。[[1911年]]から始まった[[伊土戦争]]とそれに続く2度の[[バルカン戦争]]により、[[オスマン帝国]]の宗教的権威が大きく揺らぐこととなった。ムスリム大衆の間には親トルコ的感情が生まれることとなり、後に、オスマン帝国が[[第一次世界大戦]]で敗れると、[[ヒラーファト運動]]へと発展することとなった。
 
 
 
[[1914年]]、第一次世界大戦が開戦すると、6月に釈放されていたティラクをはじめ、多くの民族主義指導者はイギリスへの支持を打ち出した。ティラクをはじめとする彼らの期待は、インドのイギリスによる支持は、終戦後、結果として、インドへの大幅な自治が認められるという期待に基づいていた<ref name="WW1a">Chandra (2001) pp.272-275</ref>。100万人以上のインド人が[[徴兵]]に応じ、[[フランス]]、[[中東]]で戦死した<ref name="WW1b">Metcalf (2006) p.234</ref>。
 
 
 
大戦期、インド経済は極度の[[インフレーション]]と重税に直面することとなり、[[民族主義]]的な政治運動が展開される環境が整った。その結果、「自治連盟(Home Rule Leagues)<ref name="WW1a"/><ref name="WW1b"/>」によるインド政界の活性化、革命的な運動の展開<ref name="WW1a"/> が見られるようになった。前者の活動を指導したのは、1つは、ティラクを中心とする勢力であり、もう1つは、イギリス人女性[[アニー・ベサント]]であった。後者の革命的活動は[[ベンガル地方|ベンガル]]、[[マハーラーシュトラ州|マハーラーシュトラ]]から、全[[北インド]]に広がりを見せた<ref name="WW1a"/>。
 
 
 
インドにおける民族意識の高揚、かつての分裂が無意味であることを自覚したティラクは国民会議の再統合を促した。その結果、[[1916年]]のラクナウ大会では、国民会議の再統合の達成と全インド・ムスリム連盟との対立関係は解消された。国民会議と連盟の間では、{{仮リンク|ラクナウ協定|en|Lucknow Pact}}が締結され、両者の協力関係が確認された。しかし、ラクナウ協定の意義は、分離選挙制度に基づく政治改革であったことから、インド政治に宗派主義が復活する可能性を残した<ref name="WW1a"/>。
 
 
 
[[ファイル:Jallianwallah.jpg|left|200px|thumb|[[アムリットサル事件]]]]
 
イギリスはヒンドゥー、ムスリムの二大勢力が大同団結した事態を重く見て、1917年8月20日、{{仮リンク|エドウィン・サミュエル・モンタギュー|en|Edwin Samuel Montagu}}・インド担当国務大臣により、モンダギュ宣言が発表された。イギリスは植民地インドの即時独立を容認することはなく、全人的に自治権を拡大させる政策を採った。モンタギューと[[フレデリック・セシジャー (初代チェルムスフォード子爵)|チェムズファド]]第14代副王(就任期間:[[1916年]]4月4日-[[1921年]][[4月2日]]により、{{仮リンク|モンタギュー・チェムズファド改革|en|Montagu-Chelmsford Reforms}}と呼ばれる改革を推進することで、インドの民族主義者の懐柔と同時に、1919年には、[[ローラット法]]が可決され反英主義者の弾圧も行う姿勢を見せるようになった。ローラット法が適用されて展開された悲劇が[[アムリットサル事件|アムリトサルの虐殺]]である。
 
 
 
しかし、この時代、インド独立運動では大きな転換点、世代交代を迎えた。今までの独立運動を指導してきたティラクの死亡、南アフリカからの[[マハトマ・ガンディー|モハンダス・カラムチャンド・ガンディー]]の帰国である。
 
 
 
=== リーディング総督時代 1921-1926 ===
 
[[ファイル:Gandhi Kheda 1918.jpg|right|thumb|200px|[[グジャラート州]]・{{仮リンク|ケーダー県|en|Kheda}}で活動していた際の[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]]]
 
ガンディーが[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]から帰国したのは、[[1915年]]のことである。帰国した後のガンディーは、インド各地を回り、インドの現状の把握を理解した。インドにおけるガンディーの闘争の歴史は、[[1917年]]のチャンパーラン・サティヤーグラハとその翌年の[[アフマダーバード]]の工場[[ストライキ]]([[:en:Champaran and Kheda Satyagraha|英語版]])で始まる。チャンパーランでの闘争において、ガンディーの市民的不服従運動は勝利を収め、アフマダーバードの工場ストライキにおいて、インド人の政治的覚醒を促すことに成功する<ref name="Ghandi1">Chandra (2001) pp.284-287</ref>。
 
 
 
アムリトサル事件以降、ガンディーは[[国民会議派]]の支持を集めることに成功した。糸をつむぐ姿のガンディーとはもっとも相容れない[[資本家]]層の支持も取り組むことに成功したことで、インド独立闘争は、第三段階へと移行することとなった。とりわけ、ガンディーを支持したのは、人口が稠密である[[ビハール州]]と[[ウッタル・プラデーシュ州|連合州]]であった<ref name="Ghandi2">Metcalf (2006) pp.241-262</ref>。
 
 
 
一方で、ガンディーを支持しなかった層が存在したことも確かである。1つが各地の[[藩王国]]や[[人口密度]]が極めて低い[[山岳|山間部]]である。これらの地域にはガンディーの主張が正しく伝わらなかった<ref name="Ghandi2"/>。その理由は国民会議の運動員の中心は[[都市部]]の学生であったこと、そのため、前述の地域に赴くことができなかったこと、赴くことができなかったのは、[[鉄道]]等の[[インフラストラクチャー]]が整備されていない物理的側面と各地の[[藩王]]が[[ナショナリズム]]を排斥していたからに他ならない<ref name="Ghandi2"/>。また、ガンディーの主張にインドの[[公用語]]を[[ヒンディー語]]にすべきであるという点があったことから[[南インド]]での活動の拡大にも限界があった<ref name="Ghandi2"/>。
 
 
 
もう1つの層は、ムスリム層である。ムスリム連盟を指導することとなる[[ムハンマド・アリー・ジンナー]]は、合法的な独立闘争を展開することを目指したゴーカレーに師事していたこともあって、国民会議を脱退し、ムスリム連盟に参加する。[[1920年]]、[[セーヴル条約]]により、オスマン帝国の瓦解が明らかになるにつれ、ヒラーファト運動は停滞するようになった。さらに、[[1924年]]、[[ケマル・アタテュルク]]により、[[トルコ|トルコ共和国]]の設立が宣言されると、ヒラーファト運動は破綻した<ref name="Ghandi2"/>。ラクナウ協定から1922年までの6年間はヒンドゥーとムスリムの間は最後の蜜月の期間であったが、それぞれの大衆動員は、別個でされていたこともあり、徐々に、[[宗派]]対立がインド政界に台頭するようになった<ref name="Ghandi2"/>。
 
 
 
1921年の年末までに、ガンディーを除くほとんどの民族主義指導者が逮捕された。その数は、3000人に達した<ref name="Ghandi3">Chandra (2001) pp.292-297</ref>。だが、12月の国民会議アフマダーバード大会では、[[非暴力]]・非協力の運動の方針が再確認され、運動は継続された。しかし、次の年になるとガンディーが指導してきた運動は徐々に暴力性を帯びるようになった。ガンディーは、民族運動の停止を決定し、3月10日は、イギリス政府により、ガンディーは逮捕された。こうして、ヒンドゥー、ムスリム両方の反英闘争は一旦、終止符を打つこととなった<ref name="Ghandi3"/>。
 
 
 
[[ファイル:Chittaranjan Das.JPG|left|thumb|150px|<span style="font-size:90%;">[[ベンガル地方|ベンガル]]出身の指導者{{仮リンク|C.R.ダース|en|Chittaranjan Das}}。</span>]]
 
1922年、国民会議は分裂の危機に直面していた。「立法参事会に積極的に進出して、さらには立法参事会を政治闘争の部隊として利用すべきである」と考えていた[[ジャワハルラール・ネルー]]や{{仮リンク|C.R.ダース|en|Chittaranjan Das}}のグループと、「議会政治は大衆の間での活動を軽視させ民族主義の熱を冷ます」と考えた「固守派」と呼ばれるグループの対立であった<ref name="Nehru1">Chandra (2001) pp.298-301</ref>。12月、ネルーと{{仮リンク|C.R.ダース|en|Chittaranjan Das}}は国民会議の一[[派閥]]として、{{仮リンク|スワラージ党|en|Swaraj Party}}を結党した<ref name="Nehru1"/>。
 
 
 
[[1924年]]に釈放されたガンディーも両派閥の仲裁に入ったが、不調に終わる。しかし、1907年の分裂のようなことを回避することは両派閥とも共有されていた。その後のネルーのスワラージ党は、1923年の選挙で101議席中42議席を獲得し、[[1925年]]3月には、中央立法会議の議長として、[[ヴィッタルバーイー・パーテル]]を送り込むことに成功した<ref name="Nehru1"/>。
 
 
 
おおよそこの時代は、インド独立運動において、高揚とその後の停滞した時代という向きが見られる。
 
 
 
=== アーウィン総督からウィリンダン総督の時代 1926-1936 ===
 
[[1927年]]、[[ジョン・サイモン (初代サイモン子爵)|ジョン・サイモン]]を委員長とする{{仮リンク|サイモン委員会|en|Simon Commission}}が発足した。1929年から、モンダギュ・チェムズファド改革の見直しをすることが決まっていたからであるが、委員会の人選をめぐって、インド人を憤慨させることとなった。というのも、委員会のメンバー全員がイギリス人で占められていたからである。
 
 
 
イギリスのこの不手際により、第16代副王[[エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵)|アーウィン卿]](就任期間:[[1926年]][[4月3日]]-[[1931年]][[4月18日]])は、インドは[[カナダ]]や[[オーストラリア]]と同様の「[[自治領]]」になるだろうと宣言したものの、インド人のサイモン委員会に対する不信感を払拭することはできず、さらに、2回目の[[非暴力]]運動の準備が始まった。
 
 
 
[[1928年]]には、ネルーが中心となり、「{{仮リンク|ネルー報告|en|Nehru Report}}」がまとめられた。インドの即時独立を要求する内容はイギリス政府に受け入れられず、さらに、徐々に目立ち始めてきたヒンドゥーとムスリムの対立を露呈する結果となった<ref>Metcalf (2006) p.274</ref>。
 
 
 
1928年12月、[[国民会議派]]は[[カルカッタ]]で大会を開き、ガンディーも大会に参加した。ガンディーは戦闘的[[左派]]をなだめるのに成功し、ネルーが父{{仮リンク|モーティーラール・ネルー|en|Motilal Nehru}}に代わり、国民会議の議長に就任した。さらに、翌年の[[ラホール]]大会で、国民会議は、「'''{{仮リンク|プールナ・スワラージ|label=プールナ・スワラージ(完全独立)|en|Purna Swaraj}}'''」を採択した。
 
 
 
ガンディーが指導する第2回非暴力運動の頂点は、「'''[[塩の行進]]'''」で頂点に達した。ガンディーの行進により、インド中に運動は拡大した。{{仮リンク|1927年インド森林法|label=森林法|en|Indian Forest Act, 1927}}が1927年に可決していたが、この法律は、[[マハーラーシュトラ州|マハーラーシュトラ]]、[[カルナータカ州|カルナータカ]]、[[マディヤ・プラデーシュ州|中央州]]で次々と破られた。さらに、今までインド独立運動で大きな役割を果たしてはいなかった[[女性]]が積極的に参加したことも特徴であった。[[パシュトゥーン人]]の{{仮リンク|ハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーン|en|Khan Abdul Ghaffar Khan}}は、クダーイー・キドマトガールを組織し、非暴力と独立闘争に誓いを立て<ref name="Salt Satyagraha">Chandra (2002)pp.308-313</ref>、インドの東端[[ナガランド州|ナガランド]]では13歳の{{仮リンク|ラーニー・ガイディンリュー|en|Rani Gaidinliu}}がヒロインとなり、国民会議の呼びかけに応じた<ref name="Salt Satyagraha"/>。
 
 
 
イギリスは国民会議抜きで円卓会議を開催していたが、実効性は全く持たなかった。1931年3月、アーウィン卿はガンディーと[[ニューデリー]]の総督府で面会する。その結果、{{仮リンク|ガンディー・アーウィン協定|en|Gandhi–Irwin Pact}}が結ばれ、非暴力運動は一旦、中止され、ガンディーはロンドンで開催される第二回英印円卓会議に参加する。しかし、イギリスはインドの独立を認めず、ガンディーは得ることもなく帰国した。帰国したインドで待っていたのは、[[世界恐慌]]の影響で不満が充満していた[[農村]]部の窮状であった。ガンディー及び国民会議は1931年12月より、[[小作料]]と[[地租]]の不払い運動を開始せざるをえなかった<ref name="Salt Satyagraha"/>。
 
 
 
[[ファイル:GG-Freeman Freeman-Thomas.jpg|180px|right|thumb|<span style="font-size:90%;">[[フリーマン・フリーマン=トーマス (初代ウィリンダン侯爵)|ウィリンダン卿]]。第2回非暴力運動を徹底的に弾圧した。</span>]]
 
第17代副王になった[[フリーマン・フリーマン=トーマス (初代ウィリンダン侯爵)|ウィリンダン卿]](就任期間1931年[[4月18日]]-1936年4月18日)は、前任のアーウィンとの政治姿勢は全くの正反対の人物であり、徹底的な弾圧を実施した。10万人以上のサッティヤーグラハ参加者の投獄、数千人の土地・家屋、その他の財産の没収、民族主義的な新聞の[[検閲]]<ref name="Salt Satyagraha"/> が実施された。ウィリンダンの弾圧は最終的に成功を収め、民族運動は[[1934年]]には完全に終結した。
 
 
 
1932年11月には、再び、国民会議派抜きで第三回英印円卓会議が開催された。その結果、[[1935年]]には、{{仮リンク|1935年インド統治法|label=インド統治法|en|Government of India Act 1935}}が公布された。
 
 
 
=== リンリスゴー総督の時代 1936-1943 ===
 
第18代副王[[ヴィクター・ホープ (第2代リンリスゴー侯爵)|リンリスゴー侯爵]](就任期間:[[1936年]][[4月18日]]-[[1943年]][[10月1日]])の時代は、全世界を[[ファシズム]]が覆う時代であった。また、独立前のインドにおいては、インド統治法に基づいて、[[総選挙]]が実施され、国民会議主導の政治が展開された時期である。一方で、[[社会主義]]思想の台頭、[[農民]]・[[労働者]]組織の成長、[[藩王国]][[人民]]の闘争の展開、[[宗派]]主義の伸長といったこれまで以外の動きが活発化した時代でもあった。加えて、[[1939年]]より始まった[[第二次世界大戦]]が、インドの将来を方向付けた時代でもあった。
 
 
 
1935年のインド統治法の特色は、中央に全インド連邦を設置し、[[州]]レヴェルでは州[[自治]]の基本に基づく州政府の設立を定めた。この[[インド連邦]]構想は、イギリス領の各州と藩王国の連合として考えられたものである。しかし、[[連邦制]]構想は、[[藩王]]がこの構想に対して、情熱を失ってしまったために破綻してしまう。
 
 
 
[[ファイル:Minar-e-Pakistans west side July 1 2005.jpg|200px|right|thumb|{{仮リンク|ミナーレ・パキスタン|en|Minar-e-Pakistan}}。[[ラホール]]のこの場所で{{仮リンク|ラホール決議|en|Lahore Resolution}}は採択された]]
 
一方、州の権限が拡大されたことにより、州政治が活発化した。[[国民会議派]]は、不十分であったこの統治法に基づく選挙に臨むことを決定し、1937年の総選挙の結果、[[ベンガル州]](農民大衆党と[[インド・ムスリム連盟|ムスリム連盟]]による連立政権)と[[パンジャーブ州]](連合党)を除く9州で単独政権ないしは会議派が参画する連立政権が成立した。
 
 
 
しかし、州政権をとった国民会議は、公約のほとんどを実行することはなかった。その背景には、国民会議の支持層が商業界、知的専門的業界、裕福な農民層であったからである<ref name="1937Election">Metcalf (2006) p.282</ref>。とはいえ、国民会議による政権によって、市民的自由([[出版]]や急進的組織への規制の撤廃、[[労働組合]]や農民組織の活動と発展の許容、[[政治犯]]の釈放など)の促進<ref name="1937Election2">Chandra (2001)p.315</ref>、あるいは、小作権に関しての規定<ref name="1937Election2"/>、一部の州では、[[ハリジャン]](不可触民)の地位改善<ref name="1937Election2"/> に取り組むこともあった。
 
 
 
とはいえ、国民会議は完全に[[ムスリム]]層からの支持を失った。その背景には、国民会議自身が気づかない無礼あるいは鈍感にあった<ref name="1937Election"/>。ムスリム連盟は1937年総選挙では、全国のムスリムの5%程度の支持しか獲得できず、ムスリム人口が多数派の州であったとしても、第一党になることはかなわなかった。しかし、インド国民会議が徐々に[[ヒンドゥー]]色を強めていく過程で、全国のムスリムは国民会議による中央政権の樹立の可能性に対して危機感を抱くようになった。
 
 
 
[[ファイル:QUITIN2.JPG|thumb|right|200px|[[バンガロール]]での{{仮リンク|クイット・インディア運動|en|Quit India Movement}}のデモ行進]]
 
[[ファイル:19430428 japanese submarine crew i-29.png|thumb|200px|[[伊号第二九潜水艦]]乗員とスバス・チャンドラ・ボース(1943年)]]
 
その結果、[[1930年]]の[[ムハンマド・イクバール]]による連盟ラホール大会での議長演説が「パキスタン構想」として、次第に支持されるようになり、ついに、[[1940年]]のラホール大会で、ジンナーは、{{仮リンク|二民族論|en|Two-Nation Theory}}を含めた{{仮リンク|ラホール決議|en|Lahore Resolution}}を採択するにいたり、ヒンドゥーとムスリムの分裂は決定的となった。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]初期、イギリスはインドを懐柔することにより戦争の協力を、インドはイギリスからできるだけ有利な条件を引き出すことを念頭においていた。しかし、[[ドイツ軍]]によるイギリス本土上陸が危惧されるなど、緊迫する戦争情勢がイギリスの大幅な妥協を用意せざるをえないようになった。[[1942年]]4月にロンドンから空路でデリーに[[スタッフォード・クリップス]]が派遣された({{仮リンク|クリップス使節団|en|Cripps' mission}})。しかし、首相[[ウィンストン・チャーチル]]がイギリス帝国の解体を望まないこともあり、成果を上げなかった。
 
 
 
さらに[[1941年]]12月に[[マレー半島]]に進軍した[[日本軍]]が、早くも[[1942年]]2月にイギリスの極東における植民地の要の[[シンガポール]]を陥落し、さらに[[インド洋]]から[[イギリス海軍]]を放逐しインドに迫ったことで、アジアにおけるイギリスの軍事的威信は完全に失墜し、インドでも反英運動の機運が高まった。国民会議は1942年夏から反英闘争「{{仮リンク|インドから去れ運動|en|Quit India Movement}}」を展開することで、インド独立を目指した<ref name="モリス(2010)下283-284">[[#モリス(2010)下|モリス(2010)下巻]] p.283-284</ref>。
 
 
 
インドに日本軍が迫る中、イギリスはインド情勢の急変に対して、徹底的な弾圧で対処した。戦時中にもかかわらず50大隊を導入し、反乱は6週間で鎮圧された<ref name="Quit India Movement2">Metcalf (2006)pp.294-296</ref>。全ての会議派のリーダーは約3年間拘束された<ref name="Quit India Movement2"/>。投獄者数は1万人以上にも及んだ<ref name="モリス(2010)下283">[[#モリス(2010)下|モリス(2010)下巻]] p.283</ref>。鎮圧されたとはいえ、この反乱の意義は、「民族感情が達していた深さと、人々がはぐくんだ闘争と犠牲の偉大な能力を示したという事実<ref name="Quit India Movement">Chandra(2002)pp.326-328</ref>」であった。
 
 
 
なお、アジア太平洋戦線においてイギリスと対峙していた[[日本]]と、元インド国民会議の急進派の活動家で、日本に亡命していた[[ラース・ビハーリー・ボース]]が、同じく日本に亡命していた[[A.M.ナイル]]や、日本軍らの協力を受けて[[東南アジア]]各地で日本軍の捕虜となった[[イギリス軍]]のインド人兵士を集めて、[[1942年]]に[[インド国民軍]]を設立した。
 
 
 
そして、[[ドイツ]]に亡命していた元インド国民会議の[[スバース・チャンドラ・ボース]]が、[[1943年]]2月に[[大日本帝国海軍]]と[[ドイツ海軍]]の協力を受けて、両国の[[潜水艦]]で日本軍の占領下のシンガポール(昭南)に移りこれを引き継ぎ、[[インパール作戦]]などでイギリス軍と対峙した。
 
 
 
=== ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代 1943-1947 ===
 
第19代副王として就任した陸軍元帥[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|ウェーヴェル]]卿(就任期間:1943年10月1日-[[1947年]][[2月21日]])は、ドイツの降伏で[[ヨーロッパ]]における戦争が終結し、日本軍もアジア太平洋戦線で敗退を続け、日本軍の侵攻によるインド喪失の危機が無くなった[[1945年]]6月、インド帝国の夏の首都[[シムラー]]に、[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]、[[ムハンマド・アリー・ジンナー|ジンナー]]、[[刑務所]]から釈放されたばかりの[[国民会議派]]のリーダーを招集した(シムラー会談)。
 
 
 
シムラー会談において、イギリスは[[第二次世界大戦|戦争]]に協力したムスリム側の主張を大きく認めていたが、ジンナーの「ムスリム側の代表は[[インド・ムスリム連盟|ムスリム連盟]]のみに限定されなければならない」という主張のために、会談は決裂した<ref name="Wavell">Metcalf (2006)pp.301-312</ref>。ウェーヴェルもムスリム連盟の戦争協力を評価していたこともあり、この決裂を容認した<ref name="Wavell"/>。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]が終結した翌年の1946年になると、イギリスはインド統治の放棄の姿勢を見せるようになった。背景には、
 
 
 
# イギリスが[[超大国]]の座から既に転落していたこと。
 
# イギリスの経済力、軍事力の破綻。
 
# イギリスは、[[インド人]][[官僚]]、[[軍人]]からの忠誠を獲得できる見込みが小さくなってきたこと。
 
# インド民衆の自信
 
が挙げられる<ref name="1946-47">Chandra(2001)pp.330-341</ref>。
 
 
 
特に、第3点は重要であり、[[インド国民軍]]参加者への裁判の巨大な大衆デモの動員<ref name="1946-47"/>、1946年2月の[[ボンベイ]]で起きた[[インド海軍]]の反乱<ref name="Wavell"/><ref name="1946-47"/> であった。
 
 
 
こうした中、1945年から1946年の冬、[[総選挙]]が実施された。この際の総選挙は分割選挙(ヒンドゥーとムスリムそれぞれが留保議席を保有する)であったが、国民会議とムスリム連盟の[[一騎討ち]]の様相を示した。国民会議は非ムスリム議席の90%を確保と8つの州で政権を掌握することに成功した<ref name="Wavell"/>。一方、ムスリム連盟も中央議会のムスリム留保議席30を独占し、地方議会のムスリム留保議席500のうち442を獲得することに成功した<ref name="Wavell"/>。
 
 
 
国民会議と連盟の間の、いかなる妥協も見出せない状況を打開するために、イギリスは、1946年3月、閣僚使節団を派遣し、複雑な三層構造の連邦制案を提示した。東西のムスリム多数州(現在の[[パキスタン]]、[[バングラデシュ]]の領域)とヒンドゥーが多数を構成する中央部・南部([[ヒンドゥスターン]])にインドを分割し、それぞれの州に大幅な自治権を付与する案に対して、ジンナーは、賛意を表明した<ref name="Wavell"/>。しかし、[[中央集権]]国家を目指した国民会議は、イギリスの案を一蹴した。ネルーによる7月10日の演説でその内容が明らかとなり、それぞれの州がヒンドゥー、ムスリムどちらの州に所属するかは自由に判断できるようにすべきであるという内容は、ジンナーの「パキスタン構想」を打ち砕くものであった<ref name="Wavell"/>。
 
 
 
[[ファイル:Calcutta 1946 riot.jpg|left|thumb|180px|[[コルカタ|カルカッタ]]の虐殺。{{仮リンク|直接行動の日|en|Direct Action Day}}の結果が生み出された悲劇である。]]
 
ジンナーは閉塞した状況を打開するために、[[8月16日]]に{{仮リンク|直接行動の日|en|Direct Action Day}}を定めた。ジンナーは、直接行動の日において、ムスリム側は、「どんな様式、形態においても直接的な暴力行為に訴えるための日であってはならない<ref name="Jalal">{{Cite book|和書
 
|author=Ayesha Jalal
 
|translator=井上あえか
 
|title=パキスタン独立
 
|pages=pp.315-319
 
|year=1999
 
|publisher=勁草書房
 
|id=ISBN 4-326-39897-3}}</ref>」と考えていたが、実際に生み出されたのは、[[コルカタ|カルカッタ]]市内では4000人を超える市民の殺害、[[ビハール州]]では約7000人のムスリムが殺害、[[ベンガル地方|ベンガル]]のノアカリ地方では数千人のヒンドゥーが殺害と悲劇<ref name="Wavell"/> のみであった。ノアカリ地方にいたっては、ガンディーが直接仲裁に行って、初めて、悲劇の収拾がなされた<ref name="Wavell"/>。
 
 
 
最後の副王として、[[1947年]]、[[ルイス・マウントバッテン]]が就任した。その前年、国民会議主導による中間政府の設立が宣告された。[[パンジャーブ]]州の東西分割問題、[[東ベンガル]]、[[バローチスターン]]、[[シンド]]、[[北西辺境州]]の各州がインドと新設されるパキスタンのどちらに帰属するかで議論が展開された<ref name="plan">{{cite web| url=http://www.pakistan.gov.pk/Quaid/leader17_2.htm| title="The Leader: The Plan of June 3, 1947: page 2"| first=Government of Pakistan| last=Official website| accessdate=2006-04-20}}</ref> が、[[6月3日]]、2つに分割した形での独立が正式に発表された<ref name="1946-47"/>。[[藩王国]]のほとんどは、内務大臣[[ヴァッラブバーイー・パテール]](サルダール・パテール)の手腕により、インドへ帰属することとなった。
 
 
 
[[1947年]][[8月15日]]、デリーの[[赤い城]]におけるネルーの独立宣言をもって、インドは独立を達成した。また、同日、パキスタンも独立を宣言し([[インド・パキスタン分離独立]])、インド帝国は解体された。インドはしばらくの間[[イギリス連邦]]内の立憲君主制国家であったが、1950年に共和制が採択され、総督ポストも廃止された。
 
 
 
== 年表 ==
 
* 1858年:インド帝国成立。
 
* 1877年:イギリスの[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]が[[インド皇帝]]を兼任。
 
* 1885年:[[インド国民会議]]創立。
 
* 1905年:[[ベンガル分割令]]発表。
 
* 1906年:インド国民会議カルカッタ大会において'''カルカッタ大会4大綱領'''が採択される。この動きに反発したイギリスは独立運動の宗教的分断を図つため、親英的組織として[[全インド・ムスリム連盟]]を発足させる。
 
* 1914~18年:[[第一次世界大戦]]中、イギリスはインドに自治権を約束し、インド人の戦争協力を引き出す。
 
* 1919年:[[ローラット法]]制定。インド統治法を制定。
 
* 1925年:[[インド共産党]]結成。
 
* 1929年:インド国民会議ラホール大会において'''プールナ・スワラージ'''(完全な独立)の方針を決定。
 
* 1930年:[[マハトマ・ガンディー]]が[[塩の行進]]を始める。
 
* 1935年:[[新インド統治法]]制定。
 
* 1939~45年:[[第二次世界大戦]]。
 
* 1947年8月15日:[[インド連邦 (ドミニオン)|インド連邦]]と[[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]]が[[インド・パキスタン分離独立|分離独立]]。
 
* 1948年:[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]]と[[ビルマ連邦]]が独立。
 
* 1950年:インドの共和制施行。
 
 
 
== 経済 ==
 
=== イギリスを支えるインドの富 ===
 
当時のインド経済は、イギリス東インド会社時代から引き続き、「富の流失」に直面していた。インド政庁は毎年、イギリス本国に対して莫大な経費を支払っており、インドで生み出された富がインドに投資されるという環境ではなかった。インドから流失した富は、イギリスに対してポンドで行われ、インドが[[銀本位制]]を採用していたこともあり、19世紀末の銀価格の下落は、結果的にインドによるイギリスへの支払額を増大させることとなった。イギリスは常に、インドに対して輸出超過の状態を創出することにより、その貿易黒字でもって、インド以外の貿易で生まれた赤字を補填する形を採っていた<ref name="economy">Metcalf (2006) pp.182-190</ref>。
 
 
 
=== 頻繁に発生した飢饉 ===
 
少なくとも、帝国時代の農業生産力は、著しく低下していたと考えられる。その背景には、イギリスによる経済的搾取のみならず、在来の産業が衰退しながらも、これに代わる産業が発展することがなかったこと、農業の停滞を導いた農村の構造、農民への様々な階層からによる搾取が挙げられる。このような搾取構造により、農民層が農産物を獲得する手段を持っていなかったことが、飢饉をより深刻なものとした。
 
 
 
代表的なものでは、地方レヴェルで発生した飢饉としては、[[1866年]]に発生したオリッサ飢饉、[[1869年]]のラージプーターナー飢饉、[[1873年]]に発生したビハール飢饉が有名であり、全国的な飢饉としては、3回のインド大飢饉([[:en:Great Famine of 1876–78|1876–78 (英語版)]]、[[:en:Indian famine of 1896–1897|1896–1897 (英語版)]]、[[:en:Indian famine of 1899–1900|1899–1900 (英語版)]])が挙げられる。[[1854年]]から[[1901年]]の間でのインド国内の死亡数は、28,825,000人に上るという推計<ref>Chandra (2002) p.198</ref> があり、さらに、第二次世界大戦中のベンガル飢饉では300万人が命を落とした。
 
 
 
=== 植民地経済の形成 ===
 
19世紀の後半にはインド経済は世界経済の一角に完全に組み込まれた。しかし、主な産品は、[[綿]]、[[インディゴ]]、[[ジュート]]、[[コメ]]、採油用種子、[[茶]]といった一次産品が多く、これらの輸出用作物の国際価格の変動は大きかった。綿は、[[南北戦争]]をはさむ前後20年間に価格が3倍に上がったが、1900年までには1/9まで下落した。インディゴは合成染料に代用されるようになり輸出産品としての価値を失い、インド経済を支える一次産品はジュートと茶であった<ref name="economy"/>。
 
 
 
この時代のインド経済は輸出産品を生産する農業に大きく依存しており、工業転換はほとんど進まなかった。また、商品作物の生産のために、彼らが口にする[[穀物]]類は輸入に頼らざるを得なかった。穀物の生産を伸ばすことができたのは[[インダス川]]の[[灌漑]]が成功した[[パンジャーブ]]地方であった。パンジャーブ地方では、小麦、サトウキビ、トウモロコシの生産が伸び、海外向けのみならず、国内向けにも生産するようになった<ref name="economy" />。
 
 
 
[[ファイル:Victoriaterminus.jpg|150px|right|thumb|[[チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅|ヴィクトリア・ターミナス駅]]([[ムンバイ]])]]
 
[[イギリス東インド会社]]時代から続いていた[[鉄道]]の建設は引き続きインド国内で実施された。19世紀末におけるインドの鉄道総延長距離は世界で第5位になっており、商品作物の生産地と輸出港を結んだ。[[1887年]]に建設されたヴィクトリア・ターミナス駅(現名称[[チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅]])が[[ロンドン]]、[[メルボルン]]のヴィクトリア駅と同様の建築様式で建設されたことは、当時のインドがイギリス帝国の中心であったことの証である<ref name="economy" />。加えて、インドにおける鉄道網の整備によって、徐々にではあるが工業化の媒介となった。[[ゾロアスター教]]徒([[パールシー]])であった[[ジャムシェトジー・タタ]]は、[[1877年]]にナーグプルに[[紡績]]工場を建設し、その後、[[ムンバイ]]や[[アフマダーバード]]にも紡績工場を建設した<ref name="economy" />。また、[[1907年]]には[[ビハール州|ビハール]]に、[[タタ・スチール]]を創業し<ref name="economy" />、現在の[[タタ・グループ]]の原型が形成されたのもこの時代である。同様に、[[ラージャスターン州|ラージャスターン]]のマールワールで商業活動を展開していた[[ビルラ]]家も第一次世界大戦中に繊維工業、鉄鋼業に進出し成功を収めていった<ref name="economy" />。
 
 
 
イギリス領インド帝国は「'''イギリス国王の王冠にはめ込まれた最大の宝石'''」とも表現された。1900年、カーゾン提督は、以下のように述べることでインドの重要性を訴えた。
 
 
 
<blockquote>"我々は、インド以外の全ての植民地を失っても生き延びることができるだろう。しかし、インドを失えば、我々の太陽は没するであろう<ref>Metcalf (2006) p.191</ref>"</blockquote>
 
 
 
=== 印僑の登場 ===
 
インドからイギリスのインド以外への植民地に労働力人口が移動したのもこの時代である。彼らのことを'''[[印僑]]'''と呼ぶ。イギリスの植民地の中で、特に熱帯地域へ人口の移動が促進された。移住先として選ばれたのは、サトウキビ生産が活発だった[[西インド諸島]]([[ジャマイカ]]や[[トリニダード島]])、[[錫]]生産や[[天然ゴム]]のプランテーションが発達したイギリス領マラヤ、あるいは[[ケニア]]や[[ザンジバル]]といった東アフリカ、[[南アフリカ]]や[[モーリシャス]]といったインド洋沿岸地域、[[フィジー]]などの太平洋地域にも人口の移動が促進された<ref name="economy"/>。
 
 
 
その中で、東アフリカ貿易ルートで活躍したイスマーイール派のアーガー・ハーン一族やビルマと[[セイロン島]]で商業作物の開発に投資したナットゥコッタイ・チェッティヤールのように商業活動で成功した人々も登場した<ref name="economy"/>。また、移住先でのインド人が人種差別で苦境に立たされていることを世論に喚起した[[マハトマ・ガンディー]]が登場した。
 
 
 
インド人の移動は、何も植民地に限定されていたわけではない。イギリス本国に留学しそのまま、現地にとどまった者も多い。ロンドンで弁護士業を開業し、その後、帰国した人物の中では、後の[[パキスタン]]建国の父である[[ムハンマド・アリー・ジンナー]]がいる。
 
 
 
=== 南インドの経済の動向 ===
 
北インドにおける手工業による綿織物産業は、イギリス東インド会社時代に崩壊し、その後、[[タタ・グループ|タタ一族]]などにより、工場制機械工業による紡績工業が勃興した。一方、南インドの手工業による手織業は、イギリスとの競争に巻き込まれることはなかったが、北インドの産業構造の転換により、ボンベイやアフマダーバードとの競争を余儀なくされた。その理由は北インドの綿織物工業の市場であったのは[[中国]]であったが、そこから駆逐されたことが理由である<ref name="Economy and Society in Southern India">{{Cite book|和書|editor=辛島昇編|author=柳澤悠|title=南アジア史_3|chapter=第6章 植民地支配下の社会|year=2007|pages=pp.229-273|publisher=山川出版社|id=ISBN 978-4-634-46210-6}}</ref>。
 
 
 
そのため、南インドの手織業は、
 
# 上級階層向けの高級織物、この織物には金糸が使用された。
 
# 国内外の下層向けである廉価品で儀式などにも利用できるもの。これらには、人絹糸を使用した。
 
# 海外市場向けの色物
 
などに生産の中心を移した<ref name="Economy and Society in Southern India"/>。そのことにより、1920年以降の南インドの手織業に従事する人口は、マドラス州において、38万人前後(1911年)から30万人前後(1921年)を経て、49万人(1931年)と発展を遂げた<ref name="Economy and Society in Southern India"/>。南インドの手織物業が生き残ったのは、当時の南インド社会において、需要面での大きな変化、被差別カーストを含む下層階層の衣服着用の増大や人絹[[サリー (民族衣装)|サリー]]への需要の増大が挙げられる<ref name="Economy and Society in Southern India"/>。
 
 
 
第一次世界大戦以降、南インドの工場制機械工業による紡績業が勃興する。その中心は、[[アーンドラ・プラデーシュ州|アーンドラ]]地方やそれを含むタミル地域([[タミル・ナードゥ州|タミル]]、[[カルナータカ州|カルナータカ]])であった<ref name="Economy and Society in Southern India"/>。
 
 
 
== 社会 ==
 
帝国時代は、様々な社会改革、宗教改革が展開した時代であった。その背景には、この時代のインドでは、人々が今まで知ることのなかった新しい市場、情報システム、ネットワークが形成されたこと<ref>Metcalf (2006)p.200</ref>、民族主義的感情の成長、従来のカースト制度にとらわれない資本家層の台頭、近代教育の普及と西欧思想・文化の紹介、それらに伴うインドの後進性と衰退を意識せざるをえなくなったこと<ref name="Hindi Renaissance">Chandra (2001) pp.219-226</ref> がある。
 
 
 
=== ヒンドゥーの宗教改革 ===
 
インドにおいて、最初の社会改革の運動は[[ブラフモ・サマージ]]である。[[ラーム・モーハン・ローイ]]([[1774年]]-[[1833年]])以来の伝統は、{{仮リンク|デベーンドラナート・タゴール|en|Debendranath Tagore}}([[1817年]]-[[1905年]])、{{仮リンク|ケショブ・チャンドロ・シェン|en|Keshub Chunder Sen}}([[1838年]]-[[1884年]])に受け継がれた。ブラフモ・サマージは、ヒンドゥーから悪弊を除去し、唯一神の信仰と[[ヴェーダ]]、[[ウパニシャッド]][[哲学]]の教えを根付かせることで、ヒンドゥーの改革に取り組んだ<ref name="Hindi Renaissance"/>。
 
 
 
ベンガル地方におけるヒンドゥーの宗教改革がブラフモ・サマージであるならば、[[マハーラーシュトラ州|マハーラーシュトラ]]におけるそれは、[[1840年]]に創設された神聖協会(バラマハンサ・マンダリー)である。{{仮リンク|ゴーパール・ハリ・デーシュムク|en|Gopal Hari Deshmukh}}([[1823年]]-[[1892年]])は、[[マラーティー語]]で執筆し、合理主義の立場から、ヒンドゥーの正統主義を批判した<ref name="Hindi Renaissance"/>。その後、デーシュムクは、祈祷協会(プラールトナー・サマージ)を創設し、伝統的な[[カースト制度]]と祭官の支配からの宗教を開放する試みが展開された。
 
 
 
マハーラーシュトラでは、{{仮リンク|ゴーパール・ガネーシュ・アーガルガル|en|Gopal Ganesh Agarkar}}([[1856年]]-[[1895年]])というインド近代史上でもっとも偉大な[[合理主義]]活動者も活動しており、彼もまた、人間の理性の力を信奉すると同時に、伝統への盲従を批判した<ref name="Hindi Renaissance"/>。
 
 
 
南インドにもヒンドゥーの宗教改革が広がった。その中心は[[テルグ語]]地域の改革者ヴィーレーサリンガムの努力があった<ref name="Hindi Renaissance"/>。
 
 
 
[[ファイル:Ramakrishna at studio.jpg|150px|left|thumb|[[ラーマクリシュナ]]。1881年]]
 
[[ラーマクリシュナ]]([[1834年]]-[[1886年]])とその弟子である[[ヴィヴェーカーナンダ]]([[1863年]]-[[1902年]])の登場もまた、従来のヒンドゥーにより閉塞していたインド社会に対しての批判が展開された。ヴィヴェーカーナンダは、また、ラーマクリシュナ・ミッションを創設することにより、[[学校]]、[[病院]]、診療所、孤児院、[[図書館]]といった社会奉仕活動を展開した<ref name="Hindi Renaissance"/>。
 
 
 
=== ムスリムの宗教改革 ===
 
[[ファイル:Sir Syed1.jpg|150px|right|thumb|[[サイイド・アフマド・ハーン]]。{{仮リンク|アリーガル運動|en|Aligarh Movement<!-- リダイレクト先の「[[:en:Aligarh Muslim University]]」は、[[:ja:アリーガル・ムスリム大学]] とリンク -->}}の指導者]]
 
イスラーム側の宗教改革はヒンドゥーに比べると遅かった。その端緒は、[[1857年]]のインド大反乱以降の時代であるとされる。[[1863年]]に、カルカッタで創設されたムハメダン文芸協会がその第一歩である。
 
 
 
インドで展開されたイスラーム側の宗教改革で重要なものの1つがアリーガル派による運動である。指導者[[サイイド・アフマド・ハーン]]([[1817年]]-[[1898年]])は、「ムスリムの宗教と社会生活は、近代西欧の科学知識と文化を吸収することによってのみ向上できる<ref name ="Islam in India">Chandra (2001) pp.226-230</ref>」と考えていたため、近代教育の促進に取り組んだ。1875年には[[アリーガル・ムスリム大学]]が創設された。この大学では、後に[[北西辺境州]]で民族運動を指導したハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーン、第3代インド・副大統領である{{仮リンク|ザキール・フサイン|en|Zakir Hussain (politician)}}、パキスタン建国において指導的な立場となった{{仮リンク|リヤーカト・アリー・ハーン|en|Liaquat Ali Khan}}といった指導者がここを卒業した。アリーガル大学は、全てのインド人に門戸が開かれていたため、ヒンドゥー、[[パールスィー]]、キリスト教徒も資金援助をした<ref name ="Islam in India"/>。
 
 
 
西洋的な近代運動を展開したのが、アリーガル派の運動であるならば、伝統への回帰を進めたのが[[デオバンド派]]の運動である。[[1868年]]にデーオバンドで、神学校が創設された。ウルドゥー語を散文の公式後として教え、寄付を訴え、出版、年間行事を通して、広い地域で支持者を獲得していった<ref name="Deobandi">Metcalf (2006)p.208-211</ref>。
 
 
 
=== 少数派の宗教改革 ===
 
[[ファイル:Dadabai Navroji statue Bombay.jpg|150px|left|thumb|[[ムンバイ]]の{{仮リンク|ダーダーバーイー・ナオロージー|en|Dadabhai Naoroji}}像]]
 
ヒンドゥー、ムスリムのみならず、パールスィーや[[シク教]]、[[仏教]]においても宗教改革が実施された。インド最大のパールスィーのコミュニティがある[[ボンベイ]]では、{{仮リンク|ダーダーバーイー・ナオロージー|en|Dadabhai Naoroji}}([[1825年]]-[[1917年]])などにより、ゾロアスター教徒改革者協会(ラーフナマーイ・マズダヤスナン・サバー)が創設され、保守化したゾロアスター教正統主義に対しての議論を巻き起こした<ref name="Minor Religion">Chandra (2001)p.230</ref>。
 
 
 
シク教の宗教改革は、19世紀末の{{仮リンク|カールサー・カレッジ|en|Khalsa College, Amritsar}}創設を端緒とする。創設の中心には、パンジャーブ地方のマハラジャである{{仮リンク|ジャガトジート・シング|en|Jagatjit Singh of Kapurthala}}の尽力があった。とはいえ、シク教の宗教改革が本格化したのは、1920年代のアカーリー運動を待つ必要があった。アカーリー運動において、シク教は、腐敗した僧正の放逐に成功していった<ref name="Minor Religion"/>。
 
 
 
仏教徒が国民の多くを占める[[セイロン島|セイロン]]では、古代賛美の復古主義的傾向と仏教の危機を救えという宗教的情熱が高揚した。その結果、{{仮リンク|アナガーリカ・ダルマパーラ|en|Anagarika Dharmapala}}([[1864年]]-[[1933年]])が中心となって、草の根的な[[禁酒運動]]が展開された<ref>{{Cite book|和書|editor=辛島昇編|author=辛島昇|title=南アジア史_3|chapter=第8章 スリランカ社会の展開|year=2007|pages=p.333|publisher=山川出版社|id=ISBN 978-4-634-46210-6}}</ref>。
 
 
 
=== 女性運動 ===
 
植民地化以前のインドにおいて、女性の地位は、従属されたものであった。それは、ヒンドゥーのみではない。ヒンドゥーにおいては[[サティー (ヒンドゥー教)|サティー]]の慣習、幼児婚、女性は男性とは異なり、生涯で1回のみしか結婚ができないこと、相続権がなかったことが挙げられる。イスラームにおいても、一夫多妻制、相続権は女性に関しては、男性の半分しかなかったことが挙げられる<ref name="Women in India">Metcalf (2001)pp.236-239</ref>。加えて、女性は、教育を受ける権利を保有していなかった<ref name="Women in India"/>。
 
 
 
そのような中、インドでも社会改革者が登場することとなり、数多くの改革協会、宗教組織が、女性のための教育の普及、寡婦の再婚を認めるための活動及び彼女たちの生活条件の改善、幼児婚の抑制、一夫一婦制の実施、女性の社会進出を進めるようになった<ref name="Women in India"/>。{{仮リンク|パンディター・ラーマバーイー|en|Pandita Ramabai}}のように、ボンベイ、[[プネー|プーナ]]に寡婦のための学習塾を設立した女性も登場した<ref>Metcalf (2006)pp.212-213</ref>。
 
 
 
女性解放運動は、[[20世紀]]になると独立運動と合流し大きな運動となる。独立運動に参加した著名な女性では、{{仮リンク|サロージニー・ナーイドゥ|en|Sarojini Naidu}}であり、彼女は、[[1925年]]には国民会議の議長を務めた。
 
 
 
=== カースト制度に対する闘争 ===
 
イギリスによるインド支配は、従来のインドに残っていた[[カースト]]制度を根本的から覆した。その背景には、近代産業や鉄道、バスがインド国内に導入されたこと、加えて、都市化の進展により、異なるカースト間同士の接触を回避することが困難になったことが挙げられる<ref name="Caste">Chandra (2001)pp.240-244</ref>。また、伝統的産業以外の産業が勃興したこと、加えて、医者や軍人といった機会を奪われることを高カーストのものは嫌った<ref name="Caste"/>。
 
 
 
さらに、イギリスは「法の下の平等」を植民地政策で推進したこと、教育制度の開放がカースト制度を破壊することとなった。
 
 
 
以上のような背景から、ブラフモ・サマージ、ラーマクリシュナ・ミッションといった当時のインドの改革主義者はカースト制度に対して、反対運動を展開していった。19世紀後半に活躍した活動家としては、マハーラシュトラの{{仮リンク|ジョーティバー・ラーオ・プレー|en|Jyotirao Phule}}がいる。彼は、低カーストの解放には近代教育を普及させることが最高の武器となると信じて運動を指導した<ref name="Caste"/>。
 
 
 
女性解放運動と同様に、カーストに対する闘争は、民族運動に合流することで、強大な勢力を持つこととなった。[[ビームラーオ・アンベードカル]]は、インド独立期に活躍した政治家であり、彼は、全インド被抑圧所階級協会(バヒシュクリット・ヒタカーリニー・サバー)の創設に尽力した<ref name="Caste"/>。
 
<!--
 
 
 
== 行政機構 ==
 
-->
 
 
 
== 文化 ==
 
=== 文学 ===
 
ムガル帝国の宮廷で用いられたのは、[[ペルシャ語]]であったが、帝国の衰退に伴い、各地方で、様々な文学が花開いた。[[ウルドゥー語]]や[[ベンガル語]]、[[シンド語]]などがその代表例として挙げられる。また、南インドでは、イギリス東インド会社時代以来からのタミル古語を探す動きが続き、タミル文学が構成されていった。
 
 
 
==== ウルドゥー文学 ====
 
ウルドゥー語は、[[トルコ語]]で「軍営」を意味する言葉であるが、その名の通り、ムガル帝国の宮廷そばにあるシャージャーハーナバードで発達し、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語の語彙を包括した北インドの言語である。とはいえ、19世紀半ば以降のウルドゥー文学の中心地はデリーから[[ラホール]]へと移った<ref name="Urdu">{{Cite book|和書|editor=黒崎卓、子島進、山根聡編|author=山根聡|title=現代パキスタン分析|chapter=第4章 国語ウルドゥーとその文学の評価をめぐる地域差|year=2004|pages=pp.121-148|publisher=岩波書店|id=ISBN 4-00-022737-8}}</ref>。1860年以降、パンジャーブ地方での出版量が増大し、パンジャーブの民話やシク教に関する書籍、1万部を越える教科書が発行されるようになった<ref name="Urdu"/>。また、ラホールでは大学が8校設立されたことも、ラホールをウルドゥー文学の中心地として発展させる要因となった。
 
 
 
20世紀に入ると、『宝庫』や女性向けの『女性文化』、子供向けの『花』といった文芸誌、雑誌がラホールで発行されるようになった。ウルドゥー文学が花開く中で登場したのが、後にパキスタン建国の詩人[[ムハンマド・イクバール]]や{{仮リンク|サアーダト・ハサン・マントー|en|Saadat Hasan Manto}}、チュグターイー、[[グラーム・アッバース]]、[[クリシャン・チャンダル]]といった人々たちであった<ref name="Urdu"/>。
 
 
 
==== ベンガーリー文学 ====
 
[[ファイル:Nazrul.jpg|right|thumb|150px|{{仮リンク|カーズィー・ナズルル・イスラーム|en|Kazi Nazrul Islam}}([[1926年]]、[[チッタゴン]]にて)]]
 
インド帝国初期の政治的・経済的中心であったベンガル地方でも、地域言語での文学が花開いた。その中でも著名なのが、アジア人で初めてノーベル文学賞を受賞した[[ラビンドラナート・タゴール]]と{{仮リンク|カーズィー・ナズルル・イスラーム|en|Kazi Nazrul Islam}}である。
 
 
 
==== スィンディー文学 ====
 
[[1843年]]にイギリス領に組み込まれた[[シンド州|シンド地方]]もまた、17世紀から18世紀にかけて、スィンディー文学の黄金期を迎えた経験を持っていた。とはいえ、この時代のシンド語は、決まった文字体系を持っていない。近代言語としての発達が見られるようになったのは、イギリス領に組み込まれてからである<ref name="Sindhi">{{Cite book|和書|editor=黒崎卓、子島進、山根聡編|author=萬宮健策|title=現代パキスタン分析|chapter=第3章 地域語のエネルギーに見る国民統合と地域・民族運動|year=2004|pages=pp.83-119|publisher=岩波書店|id=ISBN 4-00-022737-8}}</ref>。
 
 
 
イギリスはシンド地方においても英語教育の徹底を図ったが、地元住民の大きな抵抗にあい、イギリス人のほうがシンド語を勉強しなければならないという状況になった。そのため、イギリス人によるシンド語研究が進み、[[1853年]]には[[アラビア文字]]を採用した[[正書法]]が確立した<ref name="Sindhi"/>。
 
 
 
==== タミル文学 ====
 
イギリス東インド会社は、インドの支配を確立するために、現地諸語の研究を行ってきた。初代ベンガル総督である[[ウォーレン・ヘースティングズ]]以来の研究の伝統と宣教師によるキリスト教布教が結果として、在地インド人に自らの言語へと古典の関心を喚起するのに十分であった<ref name="Tamil">{{Cite book|和書|editor=辛島昇編|author=志賀美和子|title=南アジア史_3|chapter=第7章第3項 タミル・ルネサンス --タミル人意識の源流|year=2007|pages=pp.298-306|publisher=山川出版社|id=ISBN 978-4-634-46210-6}}</ref>。その結果、1842年には、『'''{{仮リンク|トルハーッピヤム|en|Tolkāppiyam}}'''』と呼ばれる最初の[[タミル語]]古典が出版されるにいたった<ref name="Tamil"/>。
 
 
 
その伝統が引き継がれ、タミル語は、[[インド・ヨーロッパ語族]]とは異なる語族であるという研究結果が導かれると同時に、タミル人の非バラモンによる上級カーストへの闘争が展開されるようになった。また、{{仮リンク|カールキー・クリシュナムルティ|en|Kalki Krishnamurthy}}などのタミル語小説を書く小説家も登場することとなった。
 
 
 
==== テルグ文学 ====
 
ヒンディー語を中心とするインド・ヨーロッパ語族圏に属する北インド、あるいは、ドラヴィダ語族圏に属する南インドと異なり、現在の[[アーンドラ・プラデーシュ州]]は、両方の文化の影響を受けてきた<ref name="Telugu">{{Cite book|和書|editor=辛島昇編|author=山田桂子|title=南アジア史_3|chapter=第7章第4節 テルグ語とアーンドラ人の近代|year=2007|pages=pp.306-314|publisher=岩波書店|id=ISBN 978-4-634-46210-6}}</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[イギリス帝国]]
 
* [[イギリス連邦]]
 
* [[イギリス東インド会社]]
 
* [[イギリスの海外領土]]
 
* [[マハトマ・ガンディー]]
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書
 
|author=根本敬
 
|year=1996
 
|title=現代アジアの肖像13 アウン・サン
 
|publisher=岩波書店
 
|id=ISBN 4-00-004868-6
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=Ayesha Jalal
 
|translator=井上あえか
 
|title=パキスタン独立
 
|year=1999
 
|publisher=勁草書房
 
|id=ISBN 4-326-39897-3}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=Bipan Chandra
 
|translator=粟屋利江
 
|title=近代インドの歴史
 
|pages=p.244
 
|year=2001
 
|publisher=山川出版社
 
|id=ISBN 4-634-67350-9
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=Barbara D. Metcalf, Thomas R. Metcalf
 
|translator=河野肇
 
|title=ケンブリッジ版世界各国史_インドの歴史
 
|year=2006
 
|publisher=創土社
 
|id=ISBN 4-7893-0048-X
 
}}
 
* {{Cite book|和書|editor=黒崎卓、子島進、山根聡編|author=萬宮健策|title=現代パキスタン分析|chapter=第3章 地域語のエネルギーに見る国民統合と地域・民族運動|year=2004|pages=pp.83-119|publisher=岩波書店|id=ISBN 4-00-022737-8}}
 
* {{Cite book|和書|editor=黒崎卓、子島進、山根聡編|author=山根聡|title=現代パキスタン分析|chapter=第4章 国語ウルドゥーとその文学の評価をめぐる地域差|year=2004|pages=pp.121-148|publisher=岩波書店|id=ISBN 4-00-022737-8}}
 
* {{Cite book|和書|editor=辛島昇編|author=柳澤悠|title=南アジア史_3|chapter=第6章 植民地支配下の社会|year=2007|pages=pp.229-273|publisher=山川出版社|id=ISBN 978-4-634-46210-6}}
 
* {{Cite book|和書|editor=辛島昇編|author=志賀美和子|title=南アジア史_3|chapter=第7章第3節 タミル・ルネサンス --タミル人意識の源流|year=2007|pages=pp.298-306|publisher=山川出版社|id=ISBN 978-4-634-46210-6}}
 
* {{Cite book|和書|editor=辛島昇編|author=山田桂子|title=南アジア史_3|chapter=第7章第4節 テルグ語とアーンドラ人の近代|year=2007|pages=pp.306-314|publisher=岩波書店|id=ISBN 978-4-634-46210-6}}
 
* {{Cite book|和書|editor=辛島昇編|author=辛島昇|title=南アジア史_3|chapter=第8章 スリランカ史の展開|year=2007|pages=p.333|publisher=山川出版社|id=ISBN 978-4-634-46210-6}}
 
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジャン・モリス|en|Jan Morris}}|translator=[[池央耿]]、[[椋田直子]]|date=2010年(平成22年)|title=帝国の落日 下巻|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062152488|ref=モリス(2010)下}}
 
*{{Cite|和書|author =佐伯和彦|authorlink=佐伯和彦|translator=|title=世界歴史叢書 ネパール全史|publisher =明石書店|date =2003年|isbn =}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|British India}}
 
* [http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/British/BrIndia.html British India Website]
 
* [[:s:The New Student's Reference Work/India|The New Student's Reference Work/India]] (1914)
 
* [http://www.imagesofempire.com/ Images of Empire Library, Bristol, UK]
 
 
 
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2019/6/18/ (火) 09:43時点における最新版

イギリス領インド帝国(イギリスりょうインドていこく)

イギリス政府が直接統治した時代 (1858~1947) の植民地インドの呼称。 1757年のプラッシーの戦いに勝ったイギリス東インド会社はベンガル州を会社領とし,それ以後各地を征服,19世紀なかばには全インドを支配下においた。この間の激しい収奪ときびしい弾圧に対するインド人の反感は 1857~59年のインド大反乱となって爆発。 58年イギリス政府は東インド会社を廃止して直接統治下におき,77年イギリス国王がインド皇帝を兼ね,インド帝国と称した。領内は直轄領と大小数百のインド藩王国とが入り交り,藩王国はイギリス人弁務官が実際上統治した。すなわち藩王が高額の年金と待遇を受けるだけのものから,実際に統治してイギリス人顧問の監視を受けるものにいたるまで種々の区別を設け,直轄領も従来の習慣に基づき,地方ごとに租税の額や徴収法を異にした。こうした分割統治によって反乱防止をはかった。しかし,本国への食糧や原料供給のための小麦,茶,砂糖,藍などの強制栽培,またこれらを運ぶための鉄道の敷設などがインド人の自治要求の自覚を高め,イギリス本国も 20世紀に入るとたびたび統治法を改めることによって少しずつ自治を認めざるをえなくなった。第2次世界大戦後の 1947年に独立を認め,インド帝国を廃止した。



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