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{{出典の明記|date=2009年9月}}
 
'''イクター'''あるいは'''イクター制'''([[アラビア語]]: '''&#1573;&#1602;&#1591;&#1575;&#1593;''' Iqṭā')は、地方官に与えられる給与制度の一種で、[[徴税権]]を地方官に委任するという形式のもの。主に[[イスラム世界|イスラーム圏]]の諸王朝で施行されていた<ref name="Masashi Kasuga">[[関西学院大学]]『社会学部紀要 No.36』(1978年3月)に寄稿された[[春日雅司]][[教授]]による[[論文]]「[http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/36/36_ch12.pdf 支配構造より見たイスラム社会]」</ref>。
 
  
== 概要 ==
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'''イクター'''あるいは'''イクター制'''([[アラビア語]]: '''&#1573;&#1602;&#1591;&#1575;&#1593;''' Iqṭā')
[[アター]]制で行き詰まりを見せた[[アッバース朝]]は、地方官に対する給与を[[徴税権]]を与え、その税の中から一定率の金額を与えるという形式へ変更した<ref name="Masashi Kasuga"/>。これによって地方官は、アッバース朝の[[中央集権]]支配から脱することができるようになり、徐々に力をつけていった。
 
  
== イクター制で力をつけていった地方官が建てた王朝 ==
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カリフやスルタンから分与された徴税権,ないしは土地や村落を意味するアラビア語。イスラム法理論家の見解によれば,イクターは国家から個人に対して授与された私有地 iqtā`al-tamlīkと,俸給の代りに授与された税収入 iqtā` al-istīghlālとに分類される。初期イスラム時代にはカティーア qatī`aと呼ばれることが多く,これがアラブによる大土地所有形式の1つの基礎になっていた。 10世紀後半になると[[ブワイフ朝]]のムイッズ・アッダウラ (在位 932~967) はダイラム人傭兵に対し,俸給の代りとして国有地からの徴税権を譲渡した。これ以降,西アジア社会にこの軍事イクター制が次第に広まってゆき,軍事制度や土地制度をはじめとして国家制度全体を規定する基本的な要素となった。[[セルジューク朝]]の宰相[[ニザームル・ムルク]]はイクター所有の規模に応じてイクター所有者 muqta`の軍事奉仕の義務を体系化し,これがシリアのザンギー朝,さらにはエジプトのアイユーブ朝,マムルーク朝へと継承されていった。ペルシアの[[ソユールガール]]制やトルコの[[ディルリク]]制 (ティマール制) も本質的にはこのイクター制と同一の制度である。イクター制の廃止政策がとられたのは,19世紀になってからであり,エジプトでは[[ムハンマド・アリー]]の近代化政策以後,トルコでは[[タンジマート]]以降のことであった。現代のアラブ社会ではイクター制は「封建制」とほぼ同じ意味で用いられている。
;[[サーマーン朝]]([[873年]] - [[999年]])
 
:[[イラン系]][[イスラム王朝]]。[[トランスオクシアナ]]地方全域の徴税権及び後に支配権をアッバース朝より与えられる。
 
;[[ハムダーン朝]]([[890年]] - [[1004年]])
 
:[[アラブ人|アラブ]]系イスラム王朝。[[遊牧民]]の長ハムダーン家がジャズィーラ地方に建国。アッバース朝の実権を最初に簒奪した王朝。
 
;[[ブワイフ朝]][[932年]] - [[1062年]])
 
:[[イラン人|イラン]]系イスラム王朝。[[バグダード]]に入城し、[[カリフ]]よりイラン地方の支配の正統性を認められた。[[アミール|大アミール]]という称号を与えられ、後にアッバース朝カリフを傀儡にする。ハムダーン朝と長期にわたり抗争を繰り返したが、ハムダーン朝衰退によって完全に実権を掌握する。
 
;[[ゴール朝]][[11世紀]]初 - [[1215年]]
 
:イラン系イスラム王朝。当初の称号はアミールであったが、後に[[スルターン]]と改称する。[[ハールーン・アッ=ラシード]]によってゴール地方の領主に任命されたのが始まりとされているが、王朝としての開始は11世紀ごろである。勢力が徐々に強大化し、勢力拡大方向を西のバグダード方面ではなく[[インド]]方面の東に設定した。[[1191年]]に[[北インド]]全域を支配。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
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== 関連項目 ==
 
* [[藩鎮]](節度使を頂点とする[[唐|中晩唐]]の組織)
 
 
 
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[[Category:税制史]]
 
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[[Category:イスラム世界史]]
 
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[[Category:アラビア語の語句]]
 
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2019/4/27/ (土) 22:07時点における最新版

イクターあるいはイクター制アラビア語: إقطاع Iqṭā')

カリフやスルタンから分与された徴税権,ないしは土地や村落を意味するアラビア語。イスラム法理論家の見解によれば,イクターは国家から個人に対して授与された私有地 iqtā`al-tamlīkと,俸給の代りに授与された税収入 iqtā` al-istīghlālとに分類される。初期イスラム時代にはカティーア qatī`aと呼ばれることが多く,これがアラブによる大土地所有形式の1つの基礎になっていた。 10世紀後半になるとブワイフ朝のムイッズ・アッダウラ (在位 932~967) はダイラム人傭兵に対し,俸給の代りとして国有地からの徴税権を譲渡した。これ以降,西アジア社会にこの軍事イクター制が次第に広まってゆき,軍事制度や土地制度をはじめとして国家制度全体を規定する基本的な要素となった。セルジューク朝の宰相ニザームル・ムルクはイクター所有の規模に応じてイクター所有者 muqta`の軍事奉仕の義務を体系化し,これがシリアのザンギー朝,さらにはエジプトのアイユーブ朝,マムルーク朝へと継承されていった。ペルシアのソユールガール制やトルコのディルリク制 (ティマール制) も本質的にはこのイクター制と同一の制度である。イクター制の廃止政策がとられたのは,19世紀になってからであり,エジプトではムハンマド・アリーの近代化政策以後,トルコではタンジマート以降のことであった。現代のアラブ社会ではイクター制は「封建制」とほぼ同じ意味で用いられている。



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