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{{Infobox 軍人
 
|name=ウィリアム・スターク・ローズクランズ<br />William Starke Rosecrans
 
|lived=[[1819年]][[9月6日]]-[[1898年]][[3月11日]](78歳没)
 
|placeofbirth=[[オハイオ州]][[デラウェア郡 (オハイオ州)|デラウェア郡]]
 
|placeofdeath=[[カリフォルニア州]][[レドンドビーチ (カリフォルニア州) |レドンドビーチ]]
 
|image=GenWmSRosecrans.jpg
 
|caption=ウィリアム・S・ローズクランズ将軍
 
|nickname=年寄りロージー
 
|allegiance={{USA1896}}
 
|serviceyears=1842年-1867年
 
|rank=[[少将]]
 
|commands=カンバーランド軍
 
|unit=
 
|battles=[[南北戦争]]
 
* リッチ山の戦い
 
* [[イウカの戦い]]
 
* [[第二次コリンスの戦い]]
 
* [[ストーンズリバーの戦い]]
 
* [[タラホーマ方面作戦]]
 
* [[チカマウガの戦い]]
 
* [[プライスの襲撃]]
 
|awards=
 
|laterwork=プレストン石炭油会社社長、<br/>駐メキシコ大使、<br/>連邦下院議員、<br/>財務省官吏
 
}}
 
  
'''ウィリアム・スターク・ローズクランズ'''(英:William Rosecrans、[[1819年]][[9月6日]]-[[1898年]][[3月11日]])は、[[発明家]]、石炭油会社社長、[[外交官]]、[[政治家]]、[[アメリカ陸軍]]士官である。[[南北戦争]]のときに[[北軍]]の将軍として名声を得た。[[第二次コリンスの戦い]]や[[ストーンズリバーの戦い]]および[[タラホーマ方面作戦]]など[[西部戦線 (南北戦争)|西部戦線]]における有名な戦いでの勝者だったが、その軍歴は[[1863年]]の[[チカマウガの戦い]]で惨めな敗北を喫して事実上終わった。
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'''ウィリアム・スターク・ローズクランズ'''(英:William Rosecrans、[[1819年]][[9月6日]]-[[1898年]][[3月11日]]
  
== 生い立ちと初期の経歴 ==
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[[発明家]]、石炭油会社社長、[[外交官]][[政治家]][[アメリカ陸軍]]士官である。[[南北戦争]]のときに[[北軍]]の将軍として名声を得た。
[[オハイオ州]][[デラウェア郡 (オハイオ州)|デラウェア郡]]キングストン・タウンシップのリトルテイラー・ランで、クランデル・ローズクランズとジェーン・ホプキンズ夫妻の息子として生まれた。曽祖父の[[スティーヴン・ホプキンス (政治家)|スティーヴン・ホプキンス]][[ロードアイランド植民地]]総督であり、[[アメリカ独立宣言]]の署名者だった<ref>[http://www.civilwarhome.com/rosecransbio.htm Civil War Home].</ref>。
 
  
[[1842年]]に[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]を同期56名のうち5番目の成績で卒業した。同期には[[ジェイムズ・ロングストリート]]、[[D・H・ヒル]]および[[アブナー・ダブルデイ]]のような著名な将来の将軍たちがいた。アメリカ陸軍はローズクランズを工兵技師に任命し、[[バージニア州]][[ハンプトン・ローズ]]の要塞化の任務を当てた。後にウェスト・ポイント(陸軍士官学校)の講師を務め、[[ニューイングランド]]の様々な勤務地を動いた。[[1854年]]に陸軍から退役し、土木業界に入った。バージニア州西部(今日の[[ウェストバージニア州]])で鉱業を営んで大変うまく経営し、石鹸を作るより効果的な方法など多くの発明もした。
+
[[第二次コリンスの戦い]][[ストーンズリバーの戦い]]および[[タラホーマ方面作戦]]など[[西部戦線 (南北戦争)|西部戦線]]における有名な戦いでの勝者だったが、その軍歴は[[1863年]][[チカマウガの戦い]]で惨めな敗北を喫して事実上終わった。
 
 
== 南北戦争 ==
 
プレストン石炭油会社社長を務めていた[[1859年]]、石油ランプが爆発して大火傷をした。この火傷から快復するころに[[南北戦争]]が始まった。[[ジョージ・マクレラン]]少将の志願副官として従軍を始めた。大佐に昇進したローズクランズは第23オハイオ歩兵連隊の指揮官となったが、その隊員の中には後に大統領となった[[ラザフォード・ヘイズ]]と[[ウィリアム・マッキンリー]]がいた。[[1861年]][[5月16日]]付けで正規軍の准将に昇進した。リッチ山の戦いでの北軍勝利を含むウェストバージニア方面作戦におけるローズクランズの作戦と決断は、極めて有効だということが証明された。しかし、その上官マクレラン少将がその勝利に功績ありとされた。[[第一次ブルランの戦い]]で北軍が蒙った敗北の後で、マクレランは[[ワシントンD.C.]]に呼びつけられ、総司令官[[ウィンフィールド・スコット]]はマクレランがウェストバージニアにおける指揮権をローズクランズに渡すよう示唆した。マクレランはその通りにし、ローズクランズがウエストバージニア方面軍となる部隊の指揮に就いた。
 
 
 
=== イウカからコリンス ===
 
[[1862年]]5月に[[ミシシッピ軍]]右翼の指揮を受け、[[ヘンリー・ハレック]]少将が指揮した[[コリンスの包囲戦]]では重要な役割を演じた。[[6月26日]]には全軍の指揮権を受け、7月にはコリンス地区軍を指揮する2重の責任が加わった。この役割で、[[ユリシーズ・グラント]]少将の有能な部下となり、[[1862年]]9月と10月のイウカ・コリンス方面作戦の指示を受けた。[[イウカの戦い]]では[[南軍]]の[[スターリング・プライス]]少将の軍隊に対して2面攻撃の一部を担うはずだったが、ローズクランズ軍の戦場到着が遅れ、グラントは他の指揮官[[エドワード・オード]]少将に、イウカの南でローズクランズ軍が戦っている音を聞くまで待ち、それから北から攻撃するよう命じた。風向きのせいで音が遮られ、オードやグラントは戦闘の音を聞けず、ローズクランズ軍が単独で戦ったが結果はうまくいった。プライスは敗れてイウカから撤退し、グラントはローズクランズがその敵を攻撃的に追撃しなかったことを批判した。
 
 
 
ローズクランズは次に、[[第二次コリンスの戦い]]で[[アール・ヴァン・ドーン]]と対峙し、流血の多い2日間の戦いで、ヴァン・ドーン軍はローズクランズの塹壕に入った部隊に攻撃して大きな損失を受けた。戦闘中、ローズクランズが戦死したという噂が流れ、銃声が止んだ時に南軍が撤退し、ローズクランズは馬に乗って前線を巡回して兵士たちを労い、彼が生きていると確認させた。しかしこの時も、グラントから迅速に動けという命令を受けていたにも拘らず、敗れた敵軍に対する追撃は精彩の無いものになり、翌朝まで開始しようとしなかった。ヴァン・ドーンはハッチー橋の戦いでも追撃を逃れることができ、全軍が完璧に破壊されるのを免れた。多くの者の中でもグラントは後に繰り返しローズクランズが慎重に過ぎると責めた(グラントはローズクランズの後継者[[ジョージ・ヘンリー・トーマス]]についても同じような愚痴をこぼした)。それでもローズクランズは北部の新聞では英雄扱いだった。[[10月24日]]には実効のない[[ドン・カルロス・ビューエル]]に代わり第14軍団(その後間もなくカンバーランド軍と改名)の指揮を任され、少将に昇進した(志願兵の少将、正規軍の准将に対応する)。グラントはローズクランズがその指揮範囲から外れたことに不満だった。昇進は[[1862年]][[3月31日]]に遡っていたので、仲間のトーマス少将よりも上官になった。トーマスはそれ以前にビューエルの後任を提案されていたが、個人的な忠誠心のためにその機会を断っていた。
 
 
 
=== ストーンズリバー ===
 
ローズクランズの前任者ビューエルが[[ペリービルの戦い]]の後で南軍の将軍[[ブラクストン・ブラッグ]]をまとまり無く追撃したために解任された。ローズクランズはまだ同様な用心深さを示しており、その軍隊を再編成して騎兵隊の訓練を改善している間、[[ナッシュビル]]に留まっていた。[[1862年]]12月初旬までに、最高司令官ヘンリー・ハレックはその我慢ができなくなった。ローズクランズに宛てて手紙を書き、「もし貴方があと1週間ナッシュビルに留まっているなら、私は貴方の解任を阻止できない。」と言った。ローズクランズは「私は義務が何かを知ることよりも他に私にその義務を行わせる刺激を必要としない。解任するとかいうような脅しに対して私は自覚が無いと言うことを許して貰わねばならない。」と答えた。
 
 
 
12月遅く、ローズクランズはブラッグのテネシー軍に対する行軍を開始し、[[マーフリーズボロ (テネシー州)|マーフリーズボロ]]の郊外に宿営を張った。[[ストーンズリバーの戦い]]は、損失率という点で南北戦争の中でも最も流血の多い戦いになった。戦術的には引き分けたが、ブラッグが先に戦場から軍隊を引き上げた。それでもこの戦闘は数週間前の[[フレデリックスバーグの戦い]]での敗北に続いて北軍の士気にとって重要なものであり、[[エイブラハム・リンカーン]]大統領はローズクランズに宛てて、「貴方は我々に骨の折れる勝利を齎した。もし敗北していたら、国は永続できなかっただろう。」と書き送った。この勝利は[[テネシー州]]中部に対する南軍の脅威も無力化した。
 
 
 
ローズクランズの第14軍団は間もなくカンバーランド軍と名前を変えた。この軍隊はブラッグに対する[[タラホーマ方面作戦]]でわずか500名足らずの損失で勝利を挙げた。ローズクランズはアメリカ陸軍でも最も好感を持たれる将軍の一人になった。部下の兵士には「年寄りのロージー」と呼ばれたが、これはその姓の故だけでなく、「強化されたローマ人」とも表現されるようなその大きく高い鼻の故でもあり、その深酒を嗜む習慣のために赤くなっていたためと考えられる。敬虔な[[カトリック教会|カトリック]]教徒でもあり、時計の鎖には十字架を着けポケットには[[ロザリオ]]があり、夜半過ぎまで参謀と宗教原理について議論を続けることを好んだ。棘のある怒りから(ナッシュビルでのハレックに対する返事がその例)温厚な娯楽まで素早く切り替えることができ、それが部下を慕わせるようにさせた。
 
 
 
=== チカマウガ ===
 
ローズクランズは戦闘で引っかかりながら進み、その軍隊を細かく管理する傾向があった。このことで[[チカマウガの戦い]]では大きな問題になった。トマス・J・ウッド准将に向けて「(ジョセフ・J・)レイノルズ将軍の師団に接近して支援しろ」と命令を与えた。しかしこのことが戦線に穴を開けさせることになった。北軍が崩壊を何とか免れたのは、ジョージ・H・トーマス少将が戦線の中央を死守する英雄的な行動があったからのことだった。西部戦線でのこの北軍の敗北に続いて、ローズクランズは[[チャタヌーガ]]に引き返し、そこでチカマウガの勝者であり仇敵でもあるブラクストン・ブラッグの軍に包囲された。ユリシーズ・グラントが西部全軍の指揮官となったときに、ローズクランズをカンバーランド軍指揮官から解任し、後任にはトーマスを据えた。
 
 
 
=== ミズーリ ===
 
ローズクランズはオハイオ州[[シンシナティ]]に行って次の命令を待ったが、結局戦闘ではそれ以降大きな役割を担うことは無かった。[[1864年]]1月から12月までミズーリ方面軍の指揮を任され、[[プライスの襲撃|スターリング・プライスのミズーリ襲撃]]に対して積極的に対抗した。[[1864年]][[共和党全国大会]]では、ローズクランズの元参謀長でオハイオ州代議員団長の[[ジェームズ・ガーフィールド]]がローズクランズに電報を打ってエイブラハム・リンカーンの副大統領候補として出馬するつもりがあるかを打診してきた。その年の共和党は「国民統一党」という一時的な名前でリンカーンと共に戦うタカ派民主党員を求めていた。ローズクランズは曖昧に肯定的な答えを返したが、ガーフィールドが返事の電報を受け取ることは無かった。ローズクランズの友人は[[アメリカ合衆国国務長官]][[エドウィン・スタントン]]がそれを抑えて隠したと推測した<ref>Lamers, p. 424.</ref>。
 
[[1865年]]、ストーンズリバーの功績に感謝する形で少将への名誉昇進を果たした。[[1867年]]には陸軍から除隊した。
 
 
 
== 外交、政治および遺産 ==
 
[[1868年]]から[[1869年]]、ローズクランズは駐[[メキシコ]]大使を務めたが、その仇敵グラントが大統領になった時に交代させられた。[[1869年]]のオハイオ州知事選では民主党の指名をことわった<ref>Lamers, p. 440.</ref>。メキシコと[[カリフォルニア州]]での鉱業経営に復帰し10年間続けた。カリフォルニアでは[[アメリカ合衆国下院]]議員に選ばれ、これを[[1881年]]から[[1885年]]まで務め、財務省登録官に指名されて[[1885年]]から[[1893年]]まで務めた。ローズクランズは[[1898年]]にカリフォルニア州[[レドンドビーチ (カリフォルニア州) |レドンドビーチ]]のランチョ・ソーサル・レドンドで死に、[[アーリントン国立墓地]]に埋葬されている。カリフォルニア州[[サンディエゴ]]のフォート・ローズクランズ国立墓地は彼に因んで名付けられ、またロサンジェルス郡南部を東西に走る主要通りローズクランズ・ブールバールも同様である。
 
 
 
ローズクランズの生誕地で子供時代の家の場所には簡単な記念碑が建てられた。オハイオ州サンベリーの直ぐ北、鍛鉄のフェンスで囲まれた巨礫には記念の銘盤があり、彼の名前を付けた田園道路の側にある。
 
 
 
== フィクション ==
 
[[ハリイ・タートルダヴ]]の歴史小説『How Few Remain』の登場人物である。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 参考文献 ==
 
* Eicher, John H., and Eicher, David J., ''Civil War High Commands'', Stanford University Press, 2001, ISBN 0-8047-3641-3.
 
* Foote, Shelby, ''The Civil War, A Narrative: Fredericksburg to Meridian'', Random House, 1958, ISBN 0-394-49517-9.
 
* Lamers, William M., ''The Edge of Glory: A Biography of General William S. Rosecrans, U.S.A'', Louisiana State University Press, 1999, ISBN 0-8071-2396-X.
 
* [http://www.civilwarhome.com/rosecransbio.htm William Starke Rosecrans biography at Civil War Home website]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{CongBio|R000440}} Retrieved on 2008-02-11
 
*[http://ngeorgia.com/people/rosecrans.html William S. Rosecrans biography]  Centers on the Tullahoma Campaign and the loss at Chickamauga
 
*[http://www.aotc.net/Rosecrans_home.htm William S. Rosecrans Source Page and photo gallery]
 
*[http://www.civilwar.org/historyclassroom/hc_rosecrans.htm William Rosecrans biography] by the Civil War Preservation Trust
 
*[http://d.hatena.ne.jp/bqsfgame/20090112 bqsfgameの日記]
 
 
 
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{{succession box|title=ミシシッピ軍指揮官|before= [[ジョン・ポープ]]|after=[[ジョン・マクラーナンド]]|years=[[1862年]][[6月26日]] - [[10月24日]]}}
 
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| title= カリフォルニア州選出のアメリカ合衆国下院議員
 
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ウィリアム・スターク・ローズクランズ(英:William Rosecrans、1819年9月6日-1898年3月11日

発明家、石炭油会社社長、外交官政治家アメリカ陸軍士官である。南北戦争のときに北軍の将軍として名声を得た。

第二次コリンスの戦いストーンズリバーの戦いおよびタラホーマ方面作戦など西部戦線における有名な戦いでの勝者だったが、その軍歴は1863年チカマウガの戦いで惨めな敗北を喫して事実上終わった。




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