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{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=人1981年没}}
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[[ファイル:『我等の生涯の最良の年』(1946).jpg|サムネイル]]
{{ActorActress
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'''ウィリアム・ワイラー'''(William Wyler, [[1902年]][[7月1日]] - [[1981年]][[7月27日]]
| 芸名 = ウィリアム・ワイラー
 
| ふりがな = William Wyler
 
| 画像ファイル = William Wyler portrait.jpg
 
| 画像サイズ = 200px
 
| 画像コメント =
 
| 本名 = Wilhelm Weiller
 
| 別名義 =
 
| 愛称 =
 
| 出生地 = {{DEU1871}}、[[ミュルーズ|ミュールハウゼン]]
 
| 死没地 ={{USA}}、[[カリフォルニア州]][[ビバリーヒルズ]]
 
| 国籍 = {{USA}}
 
| 身長 =
 
| 血液型 =
 
| 生年 = 1902
 
| 生月 = 7
 
| 生日 = 1
 
| 没年 = 1981
 
| 没月 = 7
 
| 没日 = 27
 
| 職業 = [[映画監督]]
 
| ジャンル =
 
| 活動期間 =
 
| 活動内容 =
 
| 配偶者 = [[マーガレット・サラヴァン]] (1934-1936)<br>Margaret Tallichet (1938-1981)
 
| 著名な家族 =
 
| 事務所 =
 
| 公式サイト =
 
| 主な作品 = [[我等の生涯の最良の年]]<br />[[ローマの休日]]<br />[[必死の逃亡者 (映画)|必死の逃亡者]]<br />[[大いなる西部]]<br />[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]
 
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー監督賞|監督賞]]'''<br />[[第15回アカデミー賞|1942年]]『[[ミニヴァー夫人]]』<br />[[第19回アカデミー賞|1946年]]『[[我等の生涯の最良の年]]』<br />[[第32回アカデミー賞|1959年]]『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』<br />'''[[アービング・G・タルバーグ賞]]'''<br />[[第38回アカデミー賞|1965年]] 映画界への貢献に対して
 
| カンヌ国際映画祭 = '''[[パルム・ドール]]'''<br />[[第10回カンヌ国際映画祭|1957年]]『[[友情ある説得]]』
 
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第12回ニューヨーク映画批評家協会賞|1946年]]『[[我等の生涯の最良の年]]』
 
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第17回ゴールデングローブ賞|1959年]]『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』
 
| 備考 =
 
}}
 
'''ウィリアム・ワイラー'''(William Wyler, [[1902年]][[7月1日]] - [[1981年]][[7月27日]])は、[[アメリカ合衆国]]を代表する[[映画監督]]の一人。[[アカデミー監督賞]]を3回受賞、ハリウッド黄金期に活躍した監督。[[ドイツ帝国]]のミュールハウゼン(現・[[フランス]]東部[[オー=ラン県]][[ミュルーズ]])出身。
 
  
== 人物・概要 ==
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アメリカ合衆国の映画監督。フランスに生まれ,1928年アメリカに帰化。アカデミー賞監督賞,作品賞をいずれも 3回受賞した。『砂漠の生霊』Hell's Heroes(1930),『北海の漁火』A House Divided(1931)で監督の地位を確立。以後舞台劇の映画化に優れた才能を示し,『お人好しの仙女』The Good Fairy(1935),『この3人』These Three(1936),『孔雀夫人』Dodsworth(1936),『偽りの花園』The little foxes(1941)などの秀作を発表,第2次世界大戦後は『我等の生涯の最良の年』The Best Years of Our Lives(1946,アカデミー賞作品賞,監督賞)が代表作。ほかの作品に『ミニヴァー夫人』Mrs. Miniver(1942,アカデミー賞作品賞,監督賞),『探偵物語』Detective story(1951),『ローマの休日』Roman Holiday(1953),『友情ある説得』Friendly persuasion(1956),『大いなる西部』The Big Country(1958),『ベン・ハー』Ben Hur(1959,アカデミー賞作品賞,監督賞)。
生まれたときの姓名は'''ヴィルヘルム・ヴァイラー'''(Wilhelm Weiller)。当時[[ドイツ帝国]]領であったミュールハウゼンにて、小物屋を営む[[ユダヤ系]]の家庭に生まれる。父親はユダヤ系[[スイス]]人、母親もユダヤ系[[ドイツ]]人で、両親共に[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]でもあった。ヴィルヘルムは家業を継ぐことを嫌い、[[フランス]]の[[パリ]]に赴いて音楽を学んだが挫折してしまう。
 
  
結局、母方の親戚(遠縁ではあるが)に当時の[[ハリウッド]]の重鎮[[カール・レムリ]]([[ユニバーサル・スタジオ]]社長)がいたことから映画の道を志し、[[第一次世界大戦]]後の[[1920年]]に18歳で渡米、まずユニヴァーサルの[[ニューヨーク]]本社で雑用係として働く。なお第一次世界大戦にドイツが敗北した結果、故郷のミュールハウゼンはフランス領となった。その後、国際宣伝部を経て[[ハリウッド]]に移り、オフィスの雑用係、撮影所の小道具係、配役係、助監督と着実に製作現場での経験を積んで立場を上げていく。[[1925年]](1926年という説も)に映画監督に昇進し、短編の西部劇でデビュー。
 
 
『[[恋のからくり]]』や『[[砂漠の生霊]]』などの作品が評価され、入社以来つきまとっていた「社長のコネで入った男」のイメージを払拭し、1930年代にはユニヴァーサルの主要監督の一人になる。1934年に映画に出演した[[マーガレット・サラヴァン]]と結婚するが、2年後に離婚した。
 
 
[[1936年]]にユニヴァーサルからプロデューサーの[[サミュエル・ゴールドウィン]]の独立プロダクションに移籍、[[1936年]]に『[[孔雀夫人]]』を発表し、第9回アカデミー賞では作品、監督賞を含む7部門にノミネートされ、室内装置賞を受賞して評価されたものの、興行的には振るわなかった。しかし、1937年に『[[デッドエンド (映画)|デッドエンド]]』、1939年に『[[嵐が丘 (1939年の映画)|嵐ヶ丘]]』、1940年に『[[偽りの花園 (映画)|偽りの花園]]』と次々に文芸映画を発表、いずれも批評家から絶賛され{{要出典|date=2016年11月}}興行的にも大成功する。
 
 
カメラマンの[[グレッグ・トーランド]]が開発した[[パン・フォーカス]]という新しいカメラ技術も積極的に取り入れ、それまで主流だった短いカットを編集でつなぐモンタージュの手法ではなく、ワン・シークエンスで表現した演出を成功させたことで一般観客だけではなく、国内外の批評家からも支持を得た{{要出典|date=2016年11月}}。
 
 
[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]に、戦意高揚を目的にした[[プロパガンダ]]映画『[[ミニヴァー夫人]]』がアカデミー作品賞と監督賞を含む6部門を獲得する。1942年から終戦までは[[アメリカ陸軍航空隊]][[中佐]]として第二次世界大戦に参戦、イギリスで製作したドキュメンタリー映画『[[メンフィス・ベル]]』がヒット<ref>公開初日に「このユダヤ野郎」と発言したホテルのドアマンを殴打し逮捕されている</ref>。さらに製作したドキュメンタリー映画『サンダーボルト』の撮影中、風圧と爆音で聴覚神経を傷めてしまい、右耳の聴力を失った。なお戦時中に生まれ故郷のミュールハウゼンに戻ってみた際に、実家の店舗は残されていたものの、家族を含むユダヤ系の住人は[[ドイツ軍]]により連れ去られてしまっていた。
 
 
戦後は復員兵を扱った社会派ドラマ『[[我等の生涯の最良の年]]』を発表、再びアカデミー作品賞・監督賞をはじめ今度は7部門を獲得する。以降の作品は得意の文芸映画『[[女相続人]]』や『[[黄昏 (1952年の映画)|黄昏]]』をはじめ、刑事ドラマ『[[探偵物語 (1951年の映画)|探偵物語]]』、ラヴストーリー『[[ローマの休日]]』、サスペンス・スリラー『[[必死の逃亡者 (映画)|必死の逃亡者]]』、ヒューマン・ドラマ『[[友情ある説得]]』、西部劇『[[大いなる西部]]』などがある。[[1950年]]前後にハリウッドを吹き荒れた[[赤狩り]]([[マッカーシズム]])に最後まで抵抗している。裁判官に「あなたは[[共産主義]]を支持しているか、もしくは関係があるか」と問われた際に、「その言葉をそのままあなたに返そう。『あなたは共産主義を支持しているか、もしくは関係があるか』あなたが答える義務がないのなら、私が答えるのを拒否してもいいはずだ」と抗議したと言われている{{要出典|date=2016年11月}}。
 
 
[[1959年]]に1500万ドルの制作費をかけたスペクタクル史劇『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』は大ヒットを記録しただけでなく、アカデミー賞では作品賞を含む過去最高で、合計11部門を受賞してワイラーには3度目の監督賞が贈られた。<!-- (記述を「ベン・ハー (1959年の映画)」に移動) 本作の白眉といえば二輪戦車の疾走するレースシーンであるが、実際、このシーンの演出は第二班監督の[[アンドリュー・マートン]]と同じく第二班監督でウェスタンの名作『[[駅馬車 (1939年の映画)|駅馬車]]』のスタントで名を馳せた元スタント・マンの[[ヤキマ・カヌート]]が担当、ワイラーは総合監督の立場で、受賞の際のスピーチも「オスカーが増えてうれしい」という短いものだった。-->
 
 
60代以降のワイラーの作品としては、サイコ・スリラー『[[コレクター (1965年の映画)|コレクター]]』、ワイラー唯一のミュージカル『[[ファニー・ガール]]』、黒人差別問題を描いた遺作『[[L・B・ジョーンズの解放]]』などがあり、また『ローマの休日』でワイラーが見出して一躍スターダムを駆け上がった[[オードリー・ヘップバーン]]を再び迎え、『[[噂の二人]]』(1936年に発表した『[[この三人]]』のセルフリメイク)や『[[おしゃれ泥棒]]』に起用した。
 
 
[[アカデミー監督賞]]を3回受賞、ノミネート回数は12回に上るという記録は未だに破られていない。
 
 
また、『[[黒蘭の女]]』での[[ベティ・デイヴィス]]、『ミニヴァー夫人』の[[グリア・ガースン]]、『我等の生涯の最良の年』[[フレドリック・マーチ]]、『女相続人』の[[オリヴィア・デ・ハヴィランド]]、『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーン、『ベン・ハー』の[[チャールトン・ヘストン]]、『ファニー・ガール』の[[バーブラ・ストライサンド]]等の演出で数々の出演者をオスカーに導いた。
 
 
俳優とスタッフへの要求を通して事実を積み重ね、フィクションとしての映画を完成させた完璧主義者で、スタジオ関係者から'''ナインティ・テイク・ワイラー'''とあだ名される程、自分が納得するまで、時には90回も撮り直すほどのこだわりはことに有名だった{{要出典|date=2016年11月}}。このような演出方式から、また、指示の際に彼が完璧な英語を操れないという意思疎通上の問題も一因となって、しばしば俳優やスタッフとの間に軋轢を引き起こしたことでも知られ、先述どおりベティ・デイヴィスはワイラー作品での演技でオスカーを受賞しているが(『[[月光の女]]』、『偽りの花園』でも組んだ)、実りをもたらした反面、ワイラーと彼女との撮影時の対立は特に凄まじいものであったといわれる{{要出典|date=2016年11月}}。
 
 
戦後の一時期、ワイラーは大手映画会社の力に左右されず監督の立場を強化するために[[フランク・キャプラ]]や[[ジョージ・スティーヴンス]]と共に'''リバティ・ピクチャーズ'''を創立するが、ほどなくして失敗に終わっている。
 
 
[[1981年]]、[[ロンドン]]で開かれた自分の作品を上映した映画祭に出席し、[[7月26日]]に帰国、しかし翌27日に[[ビバリーヒルズ]]の自宅にて心臓麻痺で世を去った。
 
 
== 作風 ==
 
心理描写や人物の性格表現に長けており、がっちりとしたドラマ構成に基づく映画技術で、非常に幅広いジャンルの映画製作で活躍した{{要出典|date=2016年11月}}。
 
 
== その他 ==
 
*[[1955年]](昭和30年)4月に来日。約2週間滞在し、[[日光市|日光]]・[[京都市|京都]]・[[奈良市|奈良]]を訪れている。{{要出典|date=2013年6月9日 (日) 15:56 (UTC)}}
 
*[[1980年]](昭和55年)4月にも[[黒澤明]]監督の『[[影武者 (映画)|影武者]]』のプレミアショーに招かれ、来日している。{{要出典|date=2013年6月9日 (日) 15:56 (UTC)}}
 
 
== 主な監督作品 ==
 
*[[孔雀夫人]] - ''Dodsworth'' (1936)
 
*[[この三人]] - ''These Three'' (1936)
 
*[[大自然の凱歌]] - ''[[:en:Come and Get It (film)|Come and Get It]]'' (1936)
 
*[[デッドエンド (映画)|デッドエンド]] - ''Dead End'' (1937)
 
*[[黒蘭の女]]  - ''Jezebel'' (1938)
 
*[[嵐が丘 (1939年の映画)|嵐ケ丘]] - ''Wuthering Heights'' (1939)
 
*[[西部の男]] - ''The Westerner'' (1940)
 
*[[月光の女]] -  ''The Letter'' (1940)
 
*[[偽りの花園 (映画)|偽りの花園]] - ''The Little Foxes'' (1941)
 
*[[ミニヴァー夫人]]  - ''Mrs. Miniver'' (1942)
 
*[[メンフィス・ベル]] - ''Memphis Belle''(1944)
 
*[[我等の生涯の最良の年]] - ''The Best Years of Our Lives'' (1946)
 
*[[女相続人]] - ''The Heiress'' (1949)
 
*[[探偵物語 (1951年の映画)|探偵物語]] - ''Detective Story'' (1951)
 
*[[黄昏 (1952年の映画)|黄昏]] - ''Carrie'' (1952)
 
*[[ローマの休日]] - ''Roman Holiday'' (1953)
 
*[[必死の逃亡者 (映画)|必死の逃亡者]] - ''The Desperate Hours'' (1955)
 
*[[友情ある説得]]  - ''Friendly Persuasion'' (1956)
 
*[[大いなる西部]] - ''The Big Country'' (1958)
 
*[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]] - ''Ben-Hur'' (1959)
 
*[[噂の二人]] - ''The Children's Hour'' (1961) - 原作:[[リリアン・ヘルマン]]
 
*[[コレクター (1965年の映画)|コレクター]] - ''The Collector'' (1965)
 
*[[おしゃれ泥棒]] - ''How to Steal a Million'' (1966)
 
*[[ファニー・ガール]]  - ''Funny Girl'' (1968)
 
*[[L・B・ジョーンズの解放]] -  ''The Liberation of L.B. Jones'' (1970)
 
 
== 主な受賞歴 ==
 
=== アカデミー賞 ===
 
;受賞
 
:[[第15回アカデミー賞|1943年]] [[アカデミー監督賞]]:『[[ミニヴァー夫人]]』
 
:[[第19回アカデミー賞|1946年]] アカデミー監督賞:『[[我等の生涯の最良の年]]』
 
:[[第32回アカデミー賞|1959年]] アカデミー監督賞:『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』
 
:[[第38回アカデミー賞|1966年]] [[アービング・G・タルバーグ賞]]
 
 
;ノミネート
 
:[[第9回アカデミー賞|1937年]] アカデミー監督賞:『[[孔雀夫人]]』
 
:[[第12回アカデミー賞|1940年]] アカデミー監督賞:『[[嵐が丘 (1939年の映画)|嵐が丘]]』
 
:[[第13回アカデミー賞|1941年]] アカデミー監督賞:『[[月光の女]]』
 
:[[第14回アカデミー賞|1942年]] アカデミー監督賞:『[[偽りの花園 (映画)|偽りの花園]]』
 
:[[第22回アカデミー賞|1950年]] アカデミー監督賞:『[[女相続人]]』
 
:[[第24回アカデミー賞|1952年]] アカデミー監督賞:『[[探偵物語 (1951年の映画)|探偵物語]]』
 
:[[第26回アカデミー賞|1954年]] アカデミー監督賞、[[アカデミー作品賞]]:『[[ローマの休日]]』
 
:[[第29回アカデミー賞|1957年]] アカデミー監督賞:『[[友情ある説得]]』
 
:1966年 アカデミー監督賞:『[[コレクター (1965年の映画)|コレクター]]』
 
 
=== 英国アカデミー賞 ===
 
:1959年 総合作品賞 『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』
 
 
=== ゴールデングローブ賞 ===
 
;受賞
 
:[[1959年]] [[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]:『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』
 
 
;ノミネート
 
:[[1950年]] 監督賞:『[[女相続人]]』
 
:[[1961年]] 監督賞:『[[噂の二人]]』
 
:[[1966年]] 監督賞:『[[コレクター (1965年の映画)|コレクター]]』
 
:[[1969年]] 監督賞:『[[ファニー・ガール]]』
 
 
=== ニューヨーク映画批評家協会賞 ===
 
;受賞
 
:[[第12回ニューヨーク映画批評家協会賞|1947年]] [[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]:『[[我等の生涯の最良の年]]』
 
 
=== カンヌ国際映画祭 ===
 
:1957年 [[パルム・ドール]] 『[[友情ある説得]]』
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
== 関連文献 ==
 
*[http://www.sensesofcinema.com/2005/great-directors/wyler/ senses of cinema William Wiler](海外サイト)
 
*[http://www.reelclassics.com/Directors/Wyler/wyler.htm William Wyler at Reel Classics]
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|William Wyler}}
 
*{{allcinema name|3786|ウィリアム・ワイラー}}
 
*{{Kinejun name|21966|ウィリアム・ワイラー}}
 
*{{IMDb name|0943758|William Wyler}}
 
 
{{ウィリアム・ワイラー監督作品}}
 
{{アカデミー賞監督賞 1941-1960}}
 
{{アービング・G・タルバーグ賞}}
 
{{ゴールデングローブ賞 監督賞}}
 
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:わいらあ ういりあむ}}
 
{{DEFAULTSORT:わいらあ ういりあむ}}

2019/4/30/ (火) 00:49時点における最新版

『我等の生涯の最良の年』(1946).jpg

ウィリアム・ワイラー(William Wyler, 1902年7月1日 - 1981年7月27日

アメリカ合衆国の映画監督。フランスに生まれ,1928年アメリカに帰化。アカデミー賞監督賞,作品賞をいずれも 3回受賞した。『砂漠の生霊』Hell's Heroes(1930),『北海の漁火』A House Divided(1931)で監督の地位を確立。以後舞台劇の映画化に優れた才能を示し,『お人好しの仙女』The Good Fairy(1935),『この3人』These Three(1936),『孔雀夫人』Dodsworth(1936),『偽りの花園』The little foxes(1941)などの秀作を発表,第2次世界大戦後は『我等の生涯の最良の年』The Best Years of Our Lives(1946,アカデミー賞作品賞,監督賞)が代表作。ほかの作品に『ミニヴァー夫人』Mrs. Miniver(1942,アカデミー賞作品賞,監督賞),『探偵物語』Detective story(1951),『ローマの休日』Roman Holiday(1953),『友情ある説得』Friendly persuasion(1956),『大いなる西部』The Big Country(1958),『ベン・ハー』Ben Hur(1959,アカデミー賞作品賞,監督賞)。