ウズベク・ソビエト社会主義共和国

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ウズベク・ソビエト社会主義共和国(ウズベク・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく)は、ソビエト社会主義共和国連邦の構成共和国の1つ。1991年9月1日ウズベキスタン共和国として独立した。

建国

ロシア革命後、1917年11月から1918年3月にソビエト権力が樹立され、その領土の大部分は、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の構成下に入った。その後ブハラ人民ソビエト共和国ホラズム人民ソビエト共和国が樹立されるが、民族境界画定工作の結果として、1924年10月27日に新たな領域を設定されて、ウズベク・ソビエト社会主義共和国が誕生した。

ウズベキスタン共産党

1924年10月、ウズベキスタン共産党中央委員会組織局が創設された。1925年2月、ウズベキスタン共産党第1回設立会議が行われ、中央委員会が設置された。

1925年、ウズベキスタン人民委員会議議長に、ブハラ族の代表ファイズッラ・ホジャエフが任命された。彼はモスクワの特別な信任を得ていたが、部族間の勢力均衡のために、1929年、タシケント族を代表するアクマリ・イクラモフが中央委員会第一書記に、フェルガナ出身のウスモン・ユスポフが中央委員会書記に任命された。

ソビエト時代、連邦当局は、人事政策によりウズベキスタンの部族集団のバランスを維持した。この際、共和国の党指導者の交代は、一定の氏族に有利な人事異動を伴った。タシケント族とサマルカンド族に支えられていたシャラフ・ラシドフ第一書記の死後、ウズベキスタンにおける指導的立場は、フェルガナ族のイナムジョン・ウスマンホジャエフ、後にラフィク・ニシャノフが占めた。この際、両者は、マフィア及び汚職対策において、ラシドフが任命した者達の迫害に遭った。

1989年6月、失脚したニシャノフと交代で、イスラム・カリモフが第一書記となった。

歴代第一書記

消滅

1990年6月20日、ウズベキスタン最高会議は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の国家主権宣言を採択した。最高会議は、大統領職を制定し、イスラム・カリモフを大統領に選出した。

1991年9月1日、ウズベキスタン共和国の独立が宣言され、ソ連から離脱し独立国家となった。

基礎情報

人口 詳しくはウズベキスタンの人口統計などを参照。
1983年時点では1704万人と、ソビエト連邦の6.28%を占める。
面積 447,400km²
ソビエト連邦の2.00%。
生産国民所得 175億500万ルーブル (1982年)
一人当たりでは1,028ルーブル
行政区画 1自治共和国12州158地区、113市 (1980年代)
人口増加率 27.6% (1982年、出生率は35.0%、死亡率は7.4%)
都市人口 42% (1983年)
工業部門雇用比率 65.22% (1979年)
農業総生産 69億5500万ルーブル (1982年)
うち、農産物が49億1900万ルーブル、畜産が20億3600万ルーブル
発電量 390億kWh (1982年)
鉄道延長 3,480km (1982年)
自動車道路延長 69,500km (1982年)
(うち、58,200kmは舗装済み)

脚注


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