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[[Image:Olympe de Gouges.jpg|200px|thumb|right|オランプ・ド・グージュ]]
 
[[Image:Olympe gouges.jpg|thumb|200px|オランプ・ド・グージュの処刑]]
 
[[Image:Marie-Olympe-de-Gouges.jpg|200px|thumb|right|オランプ・ド・グージュ]]
 
'''オランプ・ド・グージュ'''<ref>マリー=オランプ・ド・グージュ({{lang-fr-short|Marie-Olympe de Gouges}})とも。</ref>({{lang-fr-short|Olympe de Gouges}}、[[1748年]][[5月7日]] - [[1793年]][[11月3日]])は、[[フランス]]の[[劇作家]]、[[俳優|女優]]で、[[フェミニズム]]運動の世界的な先駆者である。本名はマリー・グーズで、オランプ・ド・グージュは[[ペンネーム]]。
 
 
[[フランス革命]]においてはすべての[[フェミニスト|女権論者]]は過激論者と見なされたが、彼女はその他の主張では政治思想的には穏健で、[[立憲君主派|立憲君主主義者]]であったと見なされている。フランス革命における女性の権利の不在を糾弾し、[[共和主義者]]に近い立場を取りつつも[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の処刑に反対した<ref>人物の政治的立場を後世から推察するのは困難であるが、[[マリー・アントワネット]]に女権宣言のパンフレットを手渡したり、[[ヴァレンヌ事件]]以後には国王一家を弁護したり、政権獲得前の[[ジロンド派]]を支持したり、[[ジョルジュ・ダントン|ダントン]]を称賛したりした彼女の言動から考えれば、[[ウェストミンスター・システム|イギリス型の議会政治]]に近い、君主制と議会制の両立を念頭に持っていたと考えられる。何れにしても、反女権論的姿勢の強い[[ジャコバン派|モンターニュ派 (山岳派)]](特に[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]])とは敵対し、[[上流階級]]志向が強かったので、革命勢力で唯一女性の権利を擁護したアンラージェほどの急進勢力には同調しなかった</ref>。
 
 
== 生涯 ==
 
[[タルヌ=エ=ガロンヌ県]][[モントーバン]]の近郊で、肉屋の父ピエール・グーズと、安物の装身具の行商人の母アンヌ・オランフ・ムイセとの間に生まれる<ref>実際には侯爵ルフラン・ド・ポンピニャンの庶子らしい。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 6ページ)</ref>。 本人はある貴族の落とし子であると信じていたが、本当のところは分かっていない。1765年17歳でモントバーンの行政監督官の料理人オーブリと結婚し<ref name="Decaux139">A.ドゥコー、p.139。</ref>、ほどなく息子をもうけたが、夫には先立たれた。彼女は自身が平民であることに不満を覚えており、上流階級へ強い憧れを抱いていた。そして夫の姓を名乗るのを嫌って母の名とグーズ、そして夫の仕えていたグールグの名前を混ぜ合わせて、オランプ・ド・グージュと名乗り、[[パリ]]へ移住した<ref name="Decaux139"/>。
 
 
パリへ行くとオランプは上流社会へ入り込もうと画策し、その手段として金持ちの商人の妾となることを選んだ。[[モンテッソン侯爵夫人]]など、貴族の女性たちが開くサロンによく顔を出し、[[ジャック・ピエール・ブリッソー]]や[[ニコラ・ド・コンドルセ]]といった政治家や作家、[[フリーメイソン]]のメンバーなどと交流した。その美貌から、何人もの男たちと暮らし、資金的援助を得ていた。彼女は1788年には8万リーブルの財を成したが、年齢的な限界を感じると、文筆活動へと転向した<ref name="Decaux140">A.ドゥコー、p.140。</ref>。オランプは自身の署名すらおぼつかなかったため、執筆は全て口述筆記によるものであったが、分野は戯曲、小説、政治的パンフレットと多岐に渡り、非常に多産であった。黒人[[奴隷制度]]を扱った1788年の『ザモールとミルザ』は、何度も検閲や上演妨害が行なわれた<ref>[http://ci.nii.ac.jp/els/110001247014.pdf?id=ART0001625242&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1364367179&cp= オランプ・ド・グージュの『黒人奴隷制度』について 高瀬 智子  成城大学]</ref>。
 
 
== 女権運動家として ==
 
[[フランス革命]]勃発後は、オランダで始まった女権運動に刺激を受けて、フランスでも女権運動を開始して、女性新聞を創刊し、愛国募金運動、 女性のための第二国営劇場の建設などを計画した。そしてフランス語では人間を意味する言葉は同時に男性を意味するため、『[[人間と市民の権利の宣言]](人権宣言)』の中の「人間」には女性が含まれていないと考えて抗議運動を始める。1791年憲法では実際に女性の権利は無視されていたことから、自ら17条から成る『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』を書いて発表した<ref name="Decaux140" /><ref>彼女の主張では、人権宣言は男権宣言であり、それに対抗する女権宣言ということになる。([[:en:Declaration of the Rights of Woman and the Female Citizen|Declaration of the Rights of Woman and the Female Citizen]])</ref>。オランプは積極的に演説活動を行い、記事を書き、愛国を謳った劇も書いた。彼女は公然とロベスピエールや[[ジャン=ポール・マラー|マラー]]を批判し[[ジロンド派]]を支持し、急進派ながら"寛容派"の[[ジョルジュ・ダントン|ダントン]]を賞賛した<ref name="Decaux139" />。
 
 
1792年12月15日、オランプはルイ16世の裁判に先立ち、元国王の弁護をしたいと[[国民公会]]に申し出たが却下された。これが原因で彼女は王党派と疑われ、家には人が押し掛けて脅迫を受けた。また女権伸張論を快く思わない革命派は彼女の行動を取り上げて嘲笑を浴びせたが、彼女は問題にしなかった<ref>A.ドゥコー、p.144。</ref>。
 
 
1793年7月20日、オランプはロベスピエールらを批判するポスターを貼る準備の最中に、反革命の容疑で逮捕された。[[共和制]]、[[連邦制]]、[[立憲君主制]]のどの政権を選ぶか[[住民投票]]にすべきと呼び掛ける本を著したことによって反革命的と見なされた。11月3日に裁判が行われたが弁護士が出席せず、代わりの弁護士を付けることを願い出たが却下され、オランプは自身の弁護を行った。彼女は無罪を確信していたが、扇動的な態度や王政復古を企てたとして有罪の判決が下り、同日午後4時に処刑された<ref>A.ドゥコー、p.146。</ref>。
 
 
[[Image:Paris place olympe de gouges2.jpg|200px|thumb|right|オランプ・ド・グージュ広場]]
 
 
== 死後 ==
 
[[2003年]]、オランプを記念して、[[3区 (パリ)|パリ3区]]に「オランプ広場」が設置された[http://maps.google.com/maps?ll=48.864667,2.364611&spn=0.01,0.01&t=m&q=48.864667,2.364611]。
 
 
== 脚注・出典 ==
 
{{Reflist|2}}
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author = アラン・ドゥコー |authorlink  =:fr:Alain Decaux|translator = 渡辺高明|title= フランス女性の歴史3 革命下の女たち |date = 1980-09 |publisher= [[大修館書店]]|location=[[東京都]]|language= 日本語|isbn=978-4-469-15033-9}}
 
*オリヴィエ・ブラン『女の人権宣言―フランス革命とオランプ・ドゥ・グージュの生涯』辻村みよ子訳 岩波書店 (1995年)
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[テロワーニュ・ド・メリクール]]
 
*[[女性参政権]]
 
*[[ロラン夫人]]([[ジロンド派]]の中心の一人、黒幕)
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.quercy.net/hommes/ogenglish.html An extensive article about Olympe de Gouges]
 
* [http://www.pinn.net/~sunshine/book-sum/gouges.html An excerpt from the ''Declaration of the Rights of Woman and the Female Citizen'']
 
* [http://ci.nii.ac.jp/els/110001247429.pdf?id=ART0001625805&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1364367971&cp= オランプ・ド・グージュ『黒人奴隷制』の2つの editions をめぐって : テクストとmentalite collective] 太原孝英 [[青山学院大学]]
 
  
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'''オランプ・ド・グージュ'''<ref>マリー=オランプ・ド・グージュ({{lang-fr-short|Marie-Olympe de Gouges}})とも。</ref>({{lang-fr-short|Olympe de Gouges}}、[[1748年]][[5月7日]] - [[1793年]][[11月3日]])
  
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フランス革命期、ジロンド派の女性活動家。女性解放運動の先駆者。「人権宣言」が女性の権利を無視しているとして、男女平等を唱える「女権宣言」を著した。のち、反逆罪のかどでジャコバン派により処刑された。
  
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2018/10/10/ (水) 23:52時点における最新版

オランプ・ド・グージュ[1]: Olympe de Gouges1748年5月7日 - 1793年11月3日

フランス革命期、ジロンド派の女性活動家。女性解放運動の先駆者。「人権宣言」が女性の権利を無視しているとして、男女平等を唱える「女権宣言」を著した。のち、反逆罪のかどでジャコバン派により処刑された。



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  1. マリー=オランプ・ド・グージュ(: Marie-Olympe de Gouges)とも。