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[[ファイル:Empire carolingien 768-811.jpg|thumb|350px|カール時代のフランク王国('''青'''がカール即位時のフランク王国、'''赤橙'''がカールの獲得領、'''黄橙'''がカールの勢力範囲、'''濃赤'''はローマ教皇領)]]
 
[[画像:Mediterráneo año 800 dC.gif|thumb|250px|カロリング朝と東ローマ帝国とウマイヤ朝]]
 
{{フランスの歴史}}
 
'''カロリング朝'''(カロリングちょう、{{lang-fr-short|Carolingiens}}, {{lang-de-short|Karolinger}})は、[[メロヴィング朝]]に次いで[[フランク王国]]2番目の[[王朝]]。[[宮宰]][[ピピン3世]]が[[メロヴィング朝]]を倒して開いた。名称はピピン3世の父、[[カール・マルテル]]にちなむ。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時の[[フランク人]]には姓はなかった。
 
  
[[フランク族]]の[[カロリング家]]は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、[[宮宰]]([[宰相]])を輩出してきた家系であった。はじめ[[ピピン1世]](大ピピン)はフランク王国の分国([[アウストラシア]])の宮宰であったが、[[ピピン2世]](中ピピン)においてはフランク王国全体の宮宰を務め、[[ピピン3世]](小ピピン)に至っては遂にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開いた。
+
'''カロリング朝'''(カロリングちょう、{{lang-fr-short|Carolingiens}}, {{lang-de-short|Karolinger}})
  
[[751年]]から[[987年]]までフランク王国やそれが分裂した後の[[東フランク王国]][[西フランク王国]][[中フランク王国]]の王を輩出した。987年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅した。
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[[フランク王国]]を8~10世紀にかけて支配した王朝。[[メロビング朝]]フランク王国の宮宰カルル・マルテルの子,[[ピピン (小) ]]が,751年教皇の承認のもとに即位しカロリング朝を開く。その子[[カルル1世 (大帝) ]]のときが最盛期で 800年教皇から西ローマ皇帝 (神聖ローマ皇帝) の帝冠を受けた。教皇領を寄進するなど,キリスト教保護者という形を保った。カルルの子ルートウィヒ1世 (敬虔王) の死後,[[ベルダン条約]],[[メルセン条約]]を経て,帝国は東フランク (ドイツ) ,西フランク (フランス) ,中部フランク (イタリア) と3分された。イタリアの王統はまもなく衰えたが,東フランクでは 911年,西フランクでは 987年までカロリング家の血統が続いた。途中,東フランクの[[カルル3世 (肥満王) ]]が全土を統一したが,死後再び分裂した。
  
ピピン3世の子[[カール大帝]]の時代にはその版図は[[イベリア半島]]と[[ブリテン島]]を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇は[[カール大帝]]に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した、新しい[[カトリック教会|カトリック]]の帝国を築いた。カール大帝の帝国は現実的には、後継者[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]の死後3つに分割され、今日の[[イタリアの歴史|イタリア]]・[[フランスの歴史|フランス]]・[[ドイツの歴史|ドイツ]]のもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
<small>本記事ではカロリング家についても包括的に言及することとする。</small>
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[フランク王国]]では[[7世紀]]半ばになると、各分王国で豪族が台頭し、メロヴィング家の王権は著しく衰退した。このような中、アウストラシアの宮宰を世襲していた'''カロリング家'''は[[ピピン2世]]の時代に全分王国の宮宰を占め、王家を超える権力を持つようになった。
 
 
 
ピピン2世の子[[カール・マルテル]]はイベリア半島から侵入してきた[[イスラム教徒]]を撃退し、カロリング家の声望を高めた。
 
 
 
つづく[[ピピン3世]]はローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪し、カロリング朝を開いた。
 
 
 
=== メロヴィング王権の衰退 ===
 
パリ勅令で各分王国での宮宰の影響力が増大したことは、ただちにメロヴィング王権の衰退に結びついたわけではなかった。宮宰は一面では豪族支配を統制し、王権の擁護者として振る舞った。ネウストリアでは特にそうであった。それに対してアウストラシアでは7世紀半ばにカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立し、王権の影響の排除が進んだ。
 
 
 
[[659年]]にアウストラシアの宮宰でカロリング家の[[グリモアルド1世]]は王位簒奪を謀ったが、失敗し処刑された。[[673年]]ネウストリアで[[クロタール3世]]が没した際に宮宰[[エブロイン]]は王権を擁護する立場から、[[テウデリク3世]]を擁立しようとしたが、豪族たちは自らが国王選挙に参加する権利があるとして、この決定を覆し、新たに[[キルデリク2世]]を擁立した。
 
 
 
[[680年]]ないし[[683年]]にはエブロインは暗殺され、王権に対する豪族の優位が確立された。ピレンヌによると、豪族たちはこのころ司教職を通じて地方支配に浸透していたと思われる。ネウストリアにおける反エブロインの先頭に立ったのはオータンの司教レジェーであったが、彼は豪族の出身であった。また反エブロインの豪族たちをカロリング家は支援していた。一方でエブロインは王国全体に対するネウストリアの支配を強化するために、アウストラシアの分国王[[タゴベルト2世]]をおそらく暗殺した。これ以降アウストラシアでは分国王はほぼ無力となり、カロリング家の影響が一段と高まった。
 
 
 
このころアキテーヌはほとんど独立した状態となり、王権の支配を離れた。ブルグントでは宮宰職は空位同然であり、エブロイン死後のネウストリアの宮宰職も混乱し影響力を低下させた。エブロインは673年以降豪族たちの反発によって影響力を大幅に低下させていたが、[[675年]]ごろ豪族による国王キルデリク2世暗殺で豪族勢力に対する反発が強まると、権力を回復しレジェーを処刑して人事を一新した。しかしその暗殺後はウァラトがネウストリアの宮宰となったが息子のギスレマールによって追放され、ピピン2世の軍を破るなど一時強勢となるがおそらく暗殺された。ウァラトが再び宮宰となり、[[686年]]のその死後は女婿であったベルカールが跡を継いだが、豪族たちがすぐさま反乱した。
 
 
 
===ピピン2世、全フランク王国宮宰===
 
ネウストリアで国王と宮宰に対する豪族の反乱が起こると、ピピン2世はこれに介入し、[[687年]][[テルトリーの戦い]]でネウストリア軍を破って、[[688年]]全王国の宮宰職を認められた。
 
 
 
=== カール・マルテル ===
 
[[714年]][[12月]]ピピン2世が死ぬと、カロリング家の支配に対する反動が起こった。ピピン2世の死後6歳の[[テウドアルド]](暗殺されたピピン2世の子[[グリモアルド2世]]の子)が宮宰の位を継ぐと、ピピンの妃プレクトルディスが後見したが、ネウストリアではこれに対する豪族の反乱が起こった。豪族たちはラガンフレッドなる人物を宮宰に推戴したが、カール・マルテルにうち破られた。
 
 
 
ピピン2世の庶子[[カール・マルテル]]によって[[717年]]には[[クロタール4世]]が擁立され、カール・マルテルはアウストラシアの支配を確立した。
 
 
 
[[724年]]ごろにはおそらくネウストリアを平定し、アキテーヌを支配していた[[ウード (アキテーヌ公)|ウード]]と和平を結んだ。ウードは[[719年]]からネウストリアの豪族と結んでカール・マルテルと敵対していたが、これ以降ウードの生きている間はカール・マルテルの有力な同盟者となった。
 
 
 
カール・マルテルは[[730年]]に[[アレマン人]]を、[[734年]]に[[フリース人]]を征服し領土を拡大した。また[[733年]]にはブルグントを制圧した。
 
 
 
==== イスラム勢力との戦いと名声獲得 ====
 
[[ファイル:Steuben - Bataille de Poitiers.png|150px|right|thumb|[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]<br/>アキテーヌを支配していたウードはイスラム教徒の国境司令官ウスマンに娘を嫁がせたが、イベリア総督[[アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー|アブドゥル・ラフマーン]]はこれを殺害した。732年、アブドゥル・ラフマーンはピレネー山脈を越え南フランスに侵攻し、ユードの軍を破った。カール・マルテルはアウストラシアの軍勢を率いてウードの援軍に駆けつけ、トゥールとポワティエの間の平原でこれを撃退した。この勝利でカール・マルテルの声望は大いに高まった]]
 
 
 
このころ[[イスラム教徒]]が[[北アフリカ]]から[[ジブラルタル海峡]]を越えてヨーロッパに侵入し、[[711年]]には[[西ゴート王国]]を滅ぼし、[[イベリア半島]]を支配するようになった。[[720年]]にはイスラム教徒の軍が[[ピレネー山脈]]を越えて[[ナルボンヌ]]を略奪し[[トゥールーズ]]を包囲した。ウードはイスラムの総督に自分の娘を嫁がせるなど融和を図る一方、[[732年]]にイスラム教徒が大規模な北上を企てた際にはカール・マルテルに援軍を求め、これを撃退した([[トゥール・ポワティエ間の戦い]])。
 
 
 
[[735年]]にウードが死ぬと、カール・マルテルはただちにアキテーヌを攻撃したが、征服には失敗し、ウードの息子ウナールに臣従の誓いを立てさせることで満足するにとどまった。軍を転じたカール・マルテルは南フランスに影響を拡大しようとし、[[マルセイユ]]を占領した。このことが南フランスの豪族に危機感を抱かせ、おそらく彼らの示唆によって、[[737年]]には[[アヴィニョン]]がイスラム教徒に占領された。カール・マルテルはすかさずこれを取り返し、ナルボンヌを攻撃したが奪回はできなかった。カール・マルテルはこのような軍事的成功によってカロリング家の覇権を確立した。737年に[[テウデリク4世]]が死んでから、カール・マルテルは国王を立てず実質的に王国を統治していた。
 
 
 
==== 教会政策 ====
 
カール・マルテルは[[フリースラント]]へのカトリック布教で活躍していた[[聖ボニファティウス|ボニファティウス]]による、[[テューリンゲン州|テューリンゲン]]・[[ヘッセン州|ヘッセン]]など王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。[[722年]]教皇[[グレゴリウス2世 (ローマ教皇)|グレゴリウス2世]]により司教に叙任されたボニファティウスは[[723年]]にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、[[747年]]にカロリング家のカールマンが引退する頃にはこの地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。またこれらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。
 
 
 
一方でカール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り<ref>イスラム勢力に対抗するためというのは通説的な見解。『世界歴史大系 フランス史1』[[佐藤彰一]]はカール・マルテルの積極的な軍事行動が長距離移動に適した騎兵軍の創設を促したという。</ref>、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンはアウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。
 
 
 
 
 
=== ピピン3世、カロリング朝の成立 ===
 
[[741年]]のカール・マルテルの死後、王国の実権は2人の嫡出子[[カールマン (アウストラシア宮宰)|カールマン]]と[[ピピン3世]]、庶子グリフォによって分割されることとなっていたが、カールマンとピピン3世はグリフォを幽閉して、王国を二分した。[[743年]]、2人は空位であった王位に[[シルデリク3世|キルデリク3世]]を推戴した。[[747年]]カールマンは[[モンテ・カッシーノ修道院]]に引退し、ピピン3世が単独で王国の実権を握った。[[750年]]頃にはアキテーヌを除く王国全土がピピンの支配に服していた。
 
 
 
==== 教会政策 ====
 
カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。[[739年]]頃からボニファティウスを通じてカール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた<ref>ピレンヌによれば、教皇は当時イタリア半島を脅かしていたランゴバルドに対してフランク王国が牽制を加えてくれるよう要請したらしい。カール・マルテルはしかし、イスラム教徒へ対抗するためにランゴバルド王の協力を必要としていたので、これには消極的であったという。</ref>。[[742年]]カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。[[745年]]にはボニファティウスを議長としてフランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。
 
 
 
[[751年]]ピピンはあらかじめ教皇[[ザカリアス (ローマ教皇)|ザカリアス]]の意向を伺い、その支持を取り付けた上で[[ソワソン]]に貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって[[王権神授説|塗油]]の儀式<ref>塗油の儀式は西ゴート王国の慣行から取り入れられたものである(佐藤彰一『西洋中世史〔上〕』p.24)。「'''[[政教分離の歴史#西ゴート王国|西ゴート王国]]'''」節を参照。</ref>を受けた。[[754年]]には教皇[[ステファヌス3世 (ローマ教皇)|ステファヌス3世]]によって息子[[カール大帝|カール]]と[[カールマン]]も塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、[[756年]]には[[ランゴバルド王国]]を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「[[ピピンの寄進]]」)。
 
 
 
ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく[[763年]]ないし[[764年]]に改訂された「100章版」[[サリカ法典]]の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「[[神の王国|神の国]]」とするような観念が見られる{{Sfn|勝田有恒|森征一|山内進|2004|p=70}}{{Sfn|五十嵐修|2001|pp=43-45}}。またピピン3世は王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権はカロリング朝君主が掌握していた。
 
 
 
=== カール大帝の時代、キリスト教帝国の成立 ===
 
[[画像:Europe 814 japref.jpg|200px|right|thumb|[[814年]]の[[ヨーロッパ]]<br/>[[カール大帝]]末年のヨーロッパ。今日の政治的・宗教的枠組みにつながる構造が形成されている。
 
{|
 
|-
 
! bgcolor="#f0f0f0" nowrap="nowrap"|東方世界
 
| [[東ローマ帝国]]|[[ブルガリア帝国|ブルガリア王国]]
 
|-
 
! bgcolor="#f0f0f0" nowrap="nowrap"|西方世界
 
| [[フランク王国|カール大帝の帝国]]|[[七王国|イングランド]]|[[ベネヴェント公国]]|[[アストゥリアス王国]]|[[ボヘミア]]
 
|-
 
! bgcolor="#f0f0f0" nowrap="nowrap"|イスラーム
 
| [[アッバース朝]]|[[後ウマイヤ朝]]
 
|-
 
! bgcolor="#f0f0f0" nowrap="nowrap"|周辺諸民族
 
| [[ノルマン人]]|[[フィン人]]|[[ピクト人]]|[[ウェールズ]]|[[アイルランドの歴史|アイルランド]]|[[スウェーデンの歴史|スウェーデン人]]|[[ゴート人]]|[[デーン人]]|[[プロイセン人]]|[[バシュキル人]]|[[ブルガール人|ヴォルガブルガル人]]|[[モルドヴィン人]]|[[ポーランド人]]|[[ハザール|ハザール人]]|[[アヴァール|アヴァール人]]|[[マジャール人]]|[[セルビア]]
 
|}
 
]]
 
[[ファイル:Harun-Charlemagne.jpg|150px|right|thumb|[[ハールーン・アッ=ラシード|ハールーン・アッラシード]](左側)と[[カール大帝]](右側)<br/>カール大帝はイタリア支配を巡って対立していた東ローマ帝国を牽制するため、時の[[アッバース朝]][[カリフ]]、ハールーン・アッラシードに使者を派遣した]]
 
 
 
[[768年]]にピピン3世が没すると、王国は[[カール大帝]]とカールマンによって分割された<ref>この時カール大帝はアウストラシア北部・ネウストリアなどの王国北部を、カールマンはアウストラシア南部・ブルグント・アレマニアなど王国南部を領した。堀越孝一『新書ヨーロッパ史・中世編』によれば、カール大帝はランゴバルド王の娘ゲルペルカと結婚したが、おそらくそれはカールマンへの牽制の意味があったという。カールマンが死ぬと、カール大帝はゲルペルカと離婚した。後世になるとゲルペルカをカールマンの妃とする説話が作られたという。それに対し五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国』はカールマンの妃をゲルベルガとし、カールの妃であったランゴバルト王女は名称不明としている。</ref>。その後[[771年]]にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。
 
 
 
[[773年]]にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇[[ハドリアヌス1世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス1世]]はカール大帝に救援を求め、[[774年]]これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した<ref>ランゴバルド討伐の際ローマの[[復活祭]]に出席したカール大帝は[[ヴェネツィア]]・[[スポレート]]・[[ベネヴェント]]などを新たに教皇に寄進することを約束した。しかし、この約束は履行されなかった。ランゴバルド人であるベネヴェント公は東ローマ帝国と結びついてイタリアにおける皇帝の代理人として認められた。カール大帝はしばしばベネヴェント公国を攻撃したが、宗主権を完全に及ぼすことはついにできなかった。</ref>。
 
 
 
[[781年]]にはランゴバルド王の娘を娶ってフランク王国から離反的な態度を取っていたバイエルン大公タシロ3世に改めて臣従の宣誓をさせたが、[[788年]]にはバイエルン大公を廃して王国に併合した。また[[772年]]から王国北方のザクセン人に対して征服を開始し、30年以上の断続的な戦争の末に、[[804年]]併合した。
 
 
 
イスラム教徒に対しては[[778年]]ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ親征したが、撤退を余儀なくされた([[ロンスヴォーの戦い]])。[[801年]]にはアキテーヌで副王とされていた嫡子[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ]]によってピレネーの南側にスペイン辺境伯領が成立し、イスラム教徒への防波堤となった。このようにカール大帝の支配領域はイベリア半島とブリテン島を除いて、今日の西ヨーロッパをほぼ包含する広大なものとなった。
 
 
 
==== 教皇からの帝冠 ====
 
教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]は[[800年]]のクリスマスにカール大帝に[[ローマ皇帝]]としての帝冠を授け、[[西ローマ帝国]]の地に「[[フランク・ローマ皇帝|ローマ皇帝]]」が復活した。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった<ref>たとえばカール大帝は聖像破壊運動を排斥した[[787年]]の[[第2ニカイア公会議|ニカイア公会議]]を偶像崇拝を認めたとして、『[[カールの書]]』や[[フランクフルト教会会議]]を通じて批判するなど、キリスト教の教義問題にも介入する姿勢を見せた。このニカイア公会議によって実際に確認されたことは、聖像への「尊敬」はそこに描かれた聖人へ向けられたものであるとし、それは神にのみ向けられるべき「尊崇」とは区別されるため、容認されるということであった({{Harvnb|尚樹啓太郎|1999|p=387}}、{{Harvnb|クラウス・リーゼンフーバー|2003|pp=133-134}})。また[[802年]]の一般巡察使勅令などで聖職者の腐敗を厳しく戒め、その倫理性を高めようとしている。すなわち国王巡察使は伯の地方行政を監視するとともに、一面で聖職者の風紀についても改善を目指す職務を求められていた</ref>。
 
 
 
教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた。司教が世俗の仕事に関わる典拠とされたのは『[[旧約聖書]]』「[[サムエル記]]」であった。[[サムエル]]は人民を裁き、人民の罪を贖うために犠牲を捧げ、戦争においては従軍し、国王に塗油の儀式を行った。一方で『[[新約聖書]]』において、パウロは「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」(新共同訳、「[[コリントの信徒への手紙一|コリントの信徒への手紙 一]]」9.14)と述べていた。当時の聖職者の中には、この言葉が司教が世俗の職務に関わるべきではないことを述べていると考えた者もいた。そのためカール大帝はこの問題を教会会議に諮り、司教が世俗の義務を引き受けるべきであるという決定を得た<ref>R・W・サザーン『西欧中世の社会と教会』pp.196-197)</ref>。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。
 
 
 
またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」は、さまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を1つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。
 
 
 
=== 分割 ===
 
{{Main|東フランク王国|西フランク王国|中部フランク王国}}
 
 
 
広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、[[806年]]カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後ピピンとカールマンは早逝し、[[813年]]東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。
 
 
 
[[ファイル:Traktat verdun jp.svg|200px|right|thumb|[[ヴェルダン条約]]によるフランク王国の分割
 
{| width="400"
 
|-
 
! bgcolor="#f0f0f0" nowrap="nowrap"|[[西フランク王国|西フランク]]王[[シャルル2世_(西フランク王)|シャルル2世]]
 
| [[アキテーヌ]]|[[ガスコーニュ#バスコニア|ガスコーニュ]]|[[ラングドック]]|[[ブルグント王国|ブルゴーニュ]]|[[スペイン辺境領|イスパニア辺境]]
 
|-
 
! bgcolor="#f0f0f0" nowrap="nowrap"|[[中部フランク王国|中フランク]]王[[ロタール1世]]
 
| [[ロタリンギア|ロレーヌ]]|[[イタリア王国_(中世)|イタリア]]|[[ブルグント王国|ブルゴーニュ]]|[[アルザス]]|[[ロンバルディア]]|[[プロヴァンス]]|[[オランダの歴史#フランク王国|ネーデルランデン]]|[[コルシカ島|コルシカ]]
 
|-
 
! bgcolor="#f0f0f0" nowrap="nowrap"|[[東フランク王国|東フランク]]王[[ルートヴィヒ2世_(東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]
 
| [[ザクセン大公|ザクセン]]|[[フランケン大公|フランケン]]|[[テューリンゲン#歴史|テューリンゲン]]|[[バイエルン大公|バイエルン]]|[[ケルンテン公国|ケルンテン]]|[[シュヴァーベン大公|シュヴァーベン]]
 
|}
 
]]
 
 
 
===3分割===
 
 
 
[[814年]]カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒ1世は帝位と王権を継承した。[[817年]]に「帝国整序令」を出して長子[[ロタール1世]]を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ]]2世にバイエルンの支配権を確認した。この時点ではロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。
 
 
 
しかし[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]]が生まれると、ルートヴィヒ1世はこの末子のために[[829年]]フリースラント・ブルグント・エルザス・アレマニアに及ぶ広大な領土を与えることとし、長兄であるロタール1世もこれを承認した。内心これを不満に思っていたロタール1世は[[830年]]反乱し、ルートヴィヒ1世を退位させて単独帝となったが、ピピンとルートヴィヒ2世がこれに対抗してルートヴィヒ1世を復位させた。その後[[840年]]のルートヴィヒ1世の死後も兄弟たちは激しい抗争を繰り広げた。
 
 
 
[[841年]]ロタール1世とシャルル2世、ルートヴィヒ2世は[[オセール]]近郊で戦い([[フォントノワの戦い]])、ロタール1世は敗北し、[[842年]]兄弟は平和協定を結び、帝国分割で合意することとなった。[[843年]]ヴェルダンで最終的な分割が決定され、帝国はほぼ均等に三分([[西フランク王国|西フランス王国]]、[[中部フランク王国|中フランス王国]]、[[東フランク王国|東フランス王国]])されることとなった([[ヴェルダン条約]])。
 
 
 
===4王国===
 
帝権は中フランス王国のロタール1世が保持し、さらに[[850年]]ロタール1世は子息[[ロドヴィコ2世]]にローマで戴冠させることに成功した。ロタール1世は[[855年]]、帝位とイタリア王国をロドヴィコ2世に、次子ロタール2世に[[ロートリンゲン]]、三男の[[シャルル (プロヴァンス王)|シャルル]]にブルグントの南部とプロヴァンスの支配を認めた。[[863年]]にプロヴァンス王・シャルルが死ぬと、遺領はルートヴィヒ2世とロタール2世の間で分割され、帝国はイタリア・東フランク・西フランク・ロートリンゲンの4王国で構成されることとなった。
 
 
 
[[869年]]にロタール2世も没すると、西フランク王シャルル2世がロートリンゲンを継承したが、翌[[870年]]東フランク王ルートヴィヒ2世がこれに異を唱え、両者は[[メルセン]]で条約を結び、ロートリンゲンを分割した([[メルセン条約]])<ref>その後[[880年]]の[[リブモン条約]]によってロートリンゲン全域は東フランク王国の支配下に帰した。</ref>。
 
 
 
西フランク王シャルル2世は[[875年]]のロドヴィコ2世の死後、イタリア王国と帝位を確保した。[[876年]]の東フランク王ルートヴィ2世の死に際して、シャルル2世は東フランクにも支配権を及ぼそうとしたが、アンデルナハ近郊でルートヴィヒ2世の息子たちと戦って敗れ、翌[[877年]]失意のうちに没した。
 
 
 
=== 分裂後のカロリング朝後継国家 ===
 
カール大帝の帝国は王家の分割相続により瓦解した。[[885年]]には[[カール3世 (フランク王)|カール3世]]によって帝国が再統一されるが、一時的なことに過ぎず、[[887年]]には東フランク王[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]によって廃位に追い込まれた。
 
 
 
翌[[888年]]には西フランク王位が[[ウード (西フランク王)|パリ伯ウード]]に移り、一時的にではあるがカロリング家の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め、のちにはカロリング家の[[シャルル3世 (西フランク王)|シャルル3世]]を後継者として認めざるをえなかったが、ウードの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位はこれ以後、カロリング家と[[ロベール家]]の間を行き来し、やがて[[987年]]には[[ユーグ・カペー]]の登位とともに[[カペー朝]]が創始され、のちの[[フランス王国]]へと変貌を遂げ始めた。
 
 
 
この時代は北から[[ノルマン人]]・南から[[ムスリム]]・東から[[マジャル人|マジャール人]]が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。前述のパリ伯ウードも対ノルマン防衛で声望を集めた人物であり、東フランクでも[[フランケン地方|フランケン]]や[[バイエルン人|バイエルン]]・[[ザクセン]]などの大公・辺境貴族が台頭し、東フランク王国の統合の維持に努めながらも、自らの支配領域を拡大していった。彼らは地域における主導権争いに勝利して地域内において国王類似の権力を有するようになり、やがてカロリング家が東フランクで断絶すると、これら有力貴族が玉座に登ることとなり、のちの[[ドイツ王国]]の枠組みが形成されていく。この過程で王国の統一維持の観点から、王国の分割相続が徐々に排除されるようになり、[[10世紀]]にはカロリング朝後継国家のいずれにおいても単独相続の原則が確立された。
 
 
 
北イタリアでは、888年以降カロリング家の影響が弱まると、異民族の侵入と諸侯による王位争奪の激化から都市が防衛拠点として成長し始めた。[[ブルグント王国]]も888年に独立し、[[1032年]]に[[神聖ローマ帝国]]に併合されるまで独立を維持した。
 
 
 
==カロリング・ルネサンス==
 
[[カール大帝]]の宮廷は文化運動の中心となり、そこに集まる教養人の集団は「宮廷学校」と呼ばれた。この文化運動の担い手たちは、西ゴート人・ランゴバルド人・イングランド人などフランク王国外出身者が多かった。[[9世紀]]以降、文化運動の中心は[[修道院]]へと移り、書物製作や所蔵に大きな役割を担った。このような例としては[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|トゥール]]の[[サン・マルタン修道院]]などが有名である。この[[カロリング・ルネサンス]]は神政的な統治政策に対応した文化運動であり、正しい信仰生活の確立を目指すものであった。聖書理解の向上、典礼書使用の普及、教会暦の実行において正統信仰に基づくことが目指され、すでに地域差が著しくなっていた俗ラテン語から古典ラテン語へと教会用語の統一が図られた。これによりラテン語が中世西欧世界の共通語となる。一方で、典礼形式の確立と聖職者改革によって、カロリング・ルネサンスは文化の担い手を俗人から聖職者へと転回させ、俗人と聖職者の間の文化的隔たりを広げる結果ももたらした。
 
 
 
カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は従来の大文字によるラテン書記法を改革して、[[カロリング小字体]]を新たに定めた。この統一された字体を用いて、さまざまな文献を新たに[[コデックス]]<ref>コデックスとは、4世紀末ごろから使われだした、従来の巻物に代わる[[ページ]]と折り丁を持つ記憶媒体の新しい形態で、より今日の書物に近いものである。巻物が口述筆記と音読を主とするものであったのに対し、コデックスの一般化によって黙読と欄外注の使用など新しい筆記形態が登場し、中世は書物を重要な文化要素とするようになった。西ヨーロッパでは、13世紀ごろには黙読が一般化した。</ref>に書き直され、著述と筆写が活発になされた。書物の形態の変化とともに、書写材料は[[パピルス]]から[[羊皮紙]]に変化した。
 
 
 
 
 
== カロリング家の歴代人物 ==
 
=== メロヴィング朝時代 ===
 
; [[ピピン1世]](大ピピン)(?-639年)
 
: カロリング家の始祖。[[メロヴィング朝]]フランク王国の分国([[アウストラシア]])で宰相として仕えた。
 
; [[ピピン2世]](中ピピン)(640年?-714年)
 
: 大ピピンの外孫。687年のテルトリーの戦いでフランク王国の実権を握る。
 
; [[カール・マルテル]](688年?-741年)
 
: 中ピピンの庶子。宰相としてフランク王国を統一する。[[732年]]、[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で[[ウマイヤ朝|ウマイヤ朝イスラーム帝国]]を撃退する。
 
 
 
=== カロリング朝時代 ===
 
; [[ピピン3世]](小ピピン)(714年-768年、在位751年-768年)
 
: カール・マルテルの子。メロヴィング朝の王を廃してフランク王に即位し、カロリング朝を開く。[[ローマ教皇]][[ステファヌス3世_(ローマ教皇)|ステファヌス3世]]に[[ラヴェンナ]]などを寄進([[ピピンの寄進]])。
 
; [[カール大帝]](742年-814年、在位768年-814年)
 
: 800年に教皇により戴冠、[[西ローマ帝国]]の復興。[[カロリング朝ルネサンス]]といわれる時代を築く。
 
; [[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ(ルイ)1世]](敬虔王)
 
: 817年に3人の息子たちに王国を分割相続させる法律を作り、死後、フランク王国は分裂する。
 
 
 
=== フランク王国分裂後 ===
 
ルートヴィヒ1世の死にあたり、3人の子息が存命していた。当時の慣習から、領地は分割相続により継承され、843年の[[ヴェルダン条約]]により確定した。現在のフランスにあたる地域は、末子[[シャルル2世]](禿頭王)領の西フランク王国に、ロートリンゲンおよびイタリア北部は、長男[[ロタール1世]]領のロタール王国に、現在のドイツにあたる地域は、三男[[ルートヴィヒ]]領の東フランク王国として分割、相続された。帝位は長男ロタール1世が継承し、その子孫が世襲した。その後の870年にはメルセン条約により、ロートリンゲンは、東西フランク王国が分割し、イタリア北部はロタール1世の子、皇帝[[ロドヴィコ2世|ルートヴィヒ2世]](ロドヴィコ2世)領のイタリア王国となる。しかし、ルートヴィヒ2世には男子がおらず、この血統は断絶する。東フランク王国は、911年の[[ルートヴィヒ4世 (東フランク王)|ルートヴィヒ4世]]の死をもって、西フランク王国は、987年の[[ルイ5世 (西フランク王)|ルイ5世]]の死をもって男系王位継承が途絶え、カロリング朝は断絶した。
 
 
 
== 家系図 ==
 
{{familytree/start|style=font-size:100%;}}
 
{{familytree|border=0| |ARN  | | | | | |PPN  | | | | |ARN=[[:en:Arnulf of Metz|アルヌルフ]]<br>メッツ司教|PPN='''[[ピピン1世]]'''<br/><small>c.580 - 640</small>}}
 
{{familytree|border=0| | |!| | | |,|-|-|-|+|-|-|-|.|}}
 
{{familytree|border=0| |ASG  |y|BGG  | |GER  | |GRM  | | |ASG=[[アンゼギゼル]]<br/><small>? - c.662</small>|BGG=[[ベッガ]]<br/><small>? - 693</small>|GER=ゲルトルート<br/><small>625 - 659</small>|GRM='''[[グリモアルド1世]]'''<br/><small>c.615 - 661</small>|}}
 
{{familytree|border=0| | | | |)|-|-|-|.| | | | | |!|}}
 
{{familytree|border=0| | | |PPN  | |CLO  | | | |CHI  | |PPN='''[[ピピン2世]]'''<br/><small>635? - 714</small>|CLO=クロチルダ<br/>([[テウデリク3世]]妃)|CHI=[[キルデベルト養子王]]<br/><small>[[メロヴィング朝|アウストラシア王]]<br/>? - 662</small>}}
 
{{familytree|border=0| |,|-|-|^|-|-|.| | | | | | | |}}
 
{{familytree|border=0|GRM  | | | |CRM  | | | | | | | |||GRM=[[グリモアルド2世]]|CRM='''[[カール・マルテル]]'''<br/><small>686 - 741</small>}}
 
{{familytree|border=0| |!| | | |,|-|^|-|v|-|-|-|-|-|-|.| | | | | | | |}}
 
{{familytree|border=0|TEO  | |CAR  | |PPN  | | | | |BER  | |TEO=テウドアルド|CAR='''[[カールマン (アウストラシア宮宰)|カールマン]]'''<br/><small>706/13 - 754</small>|PPN='''[[ピピン3世]]'''<br/><small>(751 - 768)</small>|BER=ベルンハルト}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | |,|-|-|^|-|-|.| | | |)|-|-|-|.| | | |}}
 
{{familytree|border=0| | | | | |CRG  | | | |CRM  | |ADA  | |WAL  | | | | | |CRM='''[[カールマン (フランク王)|カールマン]]'''<br/><small>(768 - 771)</small>|CRG='''[[カール大帝|カール1世]]'''<br/>(大帝)<br/><small>(768 - 814)<br/>[800 - 814]</small>|ADA=アーダルハルト<br><small>コルビー修道院長</small>|WAL=ヴァラ<br><small>コルビー修道院長</small>}}
 
{{familytree|border=0| |,|-|-|-|-|^|-|-|-|-|-|-|.| | | | | | | |}}
 
{{familytree|border=0|PEP  | | | | | | | | | |LDW  | | | | | | | ||PEP=[[ピピン (イタリア王)|ピピン]]<br/><small>イタリア王</small>|LDW='''[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]'''<br/><small>([814 - 840])</small>}}
 
{{familytree|border=0| |!| | | | | |,|-|-|-|-|-|^|-|-|v|-|-|-|-|-|.| |}}
 
{{familytree|border=0| BER | | | |LTH  | | | | | | |LDW  | | | |CRR  | | | |BER=[[ベルナルド (イタリア王)|ベルナルド]]<br><small>イタリア王</small>|LTH='''[[ロタール1世]]'''<br/><small>(840 - 843)<br/>[[中部フランク王国|中フランク王]] (843 - 855)<br/>[840 - 850]</small>|CRR='''[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]]'''<br/><small>[[西フランク王国|西フランク王]] (843 - 877)<br/>[875 - 877]</small>|LDW='''[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]'''<br/><small>[[東フランク王国|東フランク王]] (843 - 876)</small>}}
 
{{familytree|border=0| |:| | |,|-|-|+|-|-|.| | |,|-|-|+|-|-|.| | |!| |}}
 
{{familytree|border=0| VER |LDW  |LTH  |CRR  |CLM  |LD3  |CR3  |LOU  | |VER=[[ヴェルマンドワ家|ヴェルマンドワ伯家]]<br/><small>1122年断絶|LDW='''[[ロドヴィコ2世]]'''<br/><small>(844 - 875)<br/>[855 - 875]</small>|LTH='''[[ロタール2世]]'''<small><br/>[[ロタリンギア|ロタリンギア王]]<br/>(855 - 869)|CRR='''[[シャルル (プロヴァンス王)|シャルル]]'''<br/><small>[[プロヴァンス|プロヴァンス王]]<br/>(855 - 863)|LOU='''[[ルイ2世 (西フランク王)|ルイ2世]]'''<br/><small>(877 - 879)</small>|CLM='''[[カールマン (東フランク王)|カールマン]]'''<br/><small>(876 - 879)</small>|LD3='''[[ルートヴィヒ3世 (東フランク王)|ルートヴィヒ3世]]'''<br/><small>(879 - 882)</small>|CR3='''[[カール3世 (フランク王)|カール3世]]'''<br/><small>(876 - 887)<br/>[879-887]</small>}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | |!| | | | | |,|-|-|+|-|-|.| | | |}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | |ARN  | | | |LOU  |CLM  |CRR  |LOU='''[[ルイ3世 (西フランク王)|ルイ3世]]'''<br/><small>(879 - 882)</small>|CLM='''[[カルロマン (西フランク王)|カルロマン]]'''<br/><small>(879 - 884)</small>|CRR='''[[シャルル3世 (西フランク王)|シャルル3世]]'''<br/><small>(893 - 923)</small>|ARN='''[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]'''<br/><small>(887 - 899)<br/>[896 - 899]</small>}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | |!| |}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | |LDW  | | | | | | | | | |LOU  |LOU='''[[ルイ4世 (西フランク王)|ルイ4世]]'''<br/><small>(936 - 954)</small>|LDW='''[[ルートヴィヒ4世 (東フランク王)|ルートヴィヒ4世]]'''<br/><small>(900 - 911)</small>}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |,|-|-|(| | |}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |LTH  |CHA  |LTH='''[[ロテール (西フランク王)|ロテール]]'''<br/><small>(954 - 986)</small>|CHA=[[シャルル (下ロレーヌ公)|シャルル]]<br/><small>下ロレーヌ公<br>(978 - 991)</small>}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | |!| |}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |LOU  |OTT  |LOU='''[[ルイ5世 (西フランク王)|ルイ5世]]'''<br/><small>(986 - 987)</small>|OTT=オトン<br/><small>下ロレーヌ公<br>(991 - 1012)</small>}}
 
{{familytree/end}}
 
()は王位在位年。[]は[[西ローマ皇帝]]在位年。
 
 
 
==脚注==
 
{{Reflist}}
 
==参考文献==
 
*佐藤彰一 ほか編著『西欧中世史 〔上〕』ミネルヴァ書房、1995年。
 
*堀越孝一 編『新書ヨーロッパ史・中世編』講談社現代新書、2003年。
 
*R・W・サザーン 著、上條敏子訳『西欧中世の社会と教会』八坂書房、2007年
 
*五十嵐修 『地上の夢キリスト教帝国 : カール大帝の「ヨーロッパ」』 講談社〈講談社選書メチエ, 224〉、2001年。
 
*勝田有恒、森征一、山内進 『概説西洋法制史』 ミネルヴァ書房、2004年
 
*[[尚樹啓太郎]] 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会、1999年
 
*クラウス・リーゼンフーバー 『中世思想史』 村井則夫訳、平凡社<平凡社ライブラリー>、2003年。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Carolingians}}
 
* [[ストラスブールの誓い]]
 
* [[ヴェルダン条約]]
 
* [[メルセン条約]]
 
* [[ゲルマン人]]
 
* [[フランク王の一覧]]
 
* [[フランク・ローマ皇帝]]
 
 
 
{{History-stub}}
 
{{フランス君主}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:かろりんくちよう}}
 
{{DEFAULTSORT:かろりんくちよう}}

2019/4/30/ (火) 01:41時点における最新版

カロリング朝(カロリングちょう、: Carolingiens, : Karolinger

フランク王国を8~10世紀にかけて支配した王朝。メロビング朝フランク王国の宮宰カルル・マルテルの子,ピピン (小) が,751年教皇の承認のもとに即位しカロリング朝を開く。その子カルル1世 (大帝) のときが最盛期で 800年教皇から西ローマ皇帝 (神聖ローマ皇帝) の帝冠を受けた。教皇領を寄進するなど,キリスト教保護者という形を保った。カルルの子ルートウィヒ1世 (敬虔王) の死後,ベルダン条約メルセン条約を経て,帝国は東フランク (ドイツ) ,西フランク (フランス) ,中部フランク (イタリア) と3分された。イタリアの王統はまもなく衰えたが,東フランクでは 911年,西フランクでは 987年までカロリング家の血統が続いた。途中,東フランクのカルル3世 (肥満王) が全土を統一したが,死後再び分裂した。



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