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{{脚注の不足|date=2018年5月}}{{Battlebox
 
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| caption=ガダルカナル島要図。北岸中央部がヘンダーソン飛行場
 
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| date=[[1942年]][[8月7日]] - [[1943年]][[2月7日]]
 
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| commander1={{flagicon2|大日本帝国|army}} [[百武晴吉]]<br />{{Flagicon2|日本|naval}} [[塚原二四三]]<br />{{flagicon2|大日本帝国|army}} [[一木清直]] {{KIA}}<br />{{flagicon2|大日本帝国|army}} [[川口清健]]
 
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}}
 
'''ガダルカナル島の戦い'''(ガダルカナルとうのたたかい、Battle of Guadalcanal)は、[[第二次世界大戦]]において[[1942年]]8月以降[[日本軍]]と[[連合軍]]が西[[太平洋]][[ソロモン諸島]]の[[ガダルカナル島]]を巡って繰り広げた戦いである。[[ミッドウェー海戦]]と共に太平洋戦争における攻守の転換点となった。
 
また日本は、兵員、軍艦、航空機、燃料、武器等を多く失ったため国力が大きく減少した。
 
  
== 背景 ==
+
'''ガダルカナル島の戦い'''(ガダルカナルとうのたたかい、Battle of Guadalcanal)
1941年12月、[[真珠湾攻撃|ハワイ空襲]]、[[マレー作戦|北部マレー半島上陸]]、[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|比島航空撃滅戦]]をもって開始された[[南方作戦]]は、予想以上に順調に進展し、1942年3月9日[[蘭印作戦|蘭印軍の降伏]]によって概成した。予期以上に進展したので、1942年1月には、[[ビルマの戦い|ビルマ]]、[[アンダマン諸島]]、ポートモレスビーなどの攻略を発令し、戦略態勢の強化を企図できるようになった。そのため、第二段作戦の計画を速やかに策定しなければならなかった{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=1}}。1942年4月、海軍で[[第二段作戦]]が立案されたが、軍令部は米豪遮断を目的とするフィジー方面の攻略を主張し、連合艦隊はアメリカを早急に戦意喪失させるために[[ミッドウェー作戦]]とハワイ攻略を主張した。最終的に[[ミッドウェー作戦]]は認められ連合艦隊も軍令部に歩み寄って、[[ニューカレドニア]]、フィジーは攻略確保、遠方のサモアは攻略破壊後に引き上げることを認めた{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=45}}。
 
  
このように海軍は積極的な侵攻作戦によって、連合国の反攻拠点である[[オーストラリア]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の分断を考えたが、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]は、あくまで[[日中戦争]]解決を重視しており、[[東南アジア]]の占領地・資源地帯は現状維持とし、それ以上の太平洋方面は海軍の作戦担当地域であるという認識に立っていたため、戦線拡大には否定的であった。したがって大兵力を[[中華人民共和国|中国]]の[[支那派遣軍]]や、[[満州国|満州]]の[[関東軍]]から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったが、オーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致した。
+
太平洋戦争中、ソロモン諸島のガダルカナル島をめぐって戦われた日米両軍の攻防戦。1942年(昭和17)8月、アメリカ軍は日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島に上陸しこれを占領した。これに対し大本営は同島の奪回を命じ、10月末までに3次にわたる陸上兵力による攻撃が実施されたが、火力に勝るアメリカ軍の反撃によってそのいずれも失敗に終わり、翌年2月には、日本軍は同島からの撤退を余儀なくされる。この間、第一~第三次ソロモン海戦、サボ島沖海戦、南太平洋海戦などの諸海戦と激烈な航空消耗戦が展開されたが、制空、制海権はしだいにアメリカ軍の握るところとなり、日本軍は極度の補給難に陥って多数の餓死者を出した。同島をめぐる一大消耗戦で、日本軍は陸上兵力のみならず多数の艦艇と航空機を喪失したため、42年6月におけるミッドウェー海戦の敗北とも相まって、戦局の主導権は完全にアメリカ軍の側に移行した。
  
この米豪分断作戦は、[[ニューギニア島]]東南岸の[[ポートモレスビー]]攻略作戦([[ニューギニアの戦い#MO作戦と珊瑚海海戦|MO作戦]])と[[ニューカレドニア]]、[[フィジー]]、[[サモア]]の攻略作戦([[FS作戦]])から成るものであった。ところが日本海軍は[[ミッドウェー海戦]]において主力[[航空母艦]]4隻を失うこととなり、FS作戦の実施は一時中止されることとなった。1942年7月11日、大海令二十号を発令。「大海令第十八号に基く連合艦隊司令長官の「ミッドウェイ」島攻略及大海令第十九号に基く連合艦隊司令長官の「ニューカレドニア」「フィジー」諸島並に「サモア」諸島方面要地攻略の任務を解く。」これによってMI作戦、FS作戦の中止が決定。第二段作戦の計画は破たんしたが、日本は米豪分断の目的を放棄せず、基地航空部隊をラバウル以南に進出させて達成しようとした。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
日本はガダルカナル島に飛行場を建設してラバウル以南の前進航空基地を建設し、ソロモン諸島の[[制空権]]を拡張しようと考えた。このガダルカナル島基地建設は[[軍令部]]作戦課(大本営海軍)から[[参謀本部]]作戦課(大本営陸軍)に文書で通知されたが、陸軍では作戦課同士でのやり取りにとどまり、陸軍内部に伝達が行われなかったため、戦後「基地建設の事を陸軍は知らされていなかった」と主張するものもいる。大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は[[1943年]]以降と想定していたため、ガダルカナル島において戦闘能力のある人員は、設営隊と護衛の[[海軍陸戦隊]](第18警備隊基幹)を合わせても600名足らずであった。アメリカ軍上陸直前の8月5日には滑走路の第1期工事が完了している。なおこれに先立つMO作戦時に、近接する[[ツラギ島]]には[[水上機]]基地が設けられていた。
 
 
 
しかし日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は早くも7月2日には対日反攻作戦となる[[ウォッチタワー作戦]]を発令した。[[アメリカ陸軍|米国陸軍]][[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]大将は、ウォッチタワー作戦の目標をフィリピンにより近い[[ラバウル]]とすることを主張したが、[[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]][[アーネスト・キング]]大将は[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]の空母戦力が充実していないことを理由に反対したため、当時飛行場建設が行われていたガダルカナル島を攻略することで双方一応の決着をみた。そして7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦への準備が進められた。
 
 
 
== 戦闘の経過 ==
 
===  8月 ===
 
==== 連合軍の上陸 ====
 
[[ファイル:GuadLandingsLunga.jpg|thumb|1942年8月7日、ガダルカナルに上陸する海兵隊]]
 
{{Main2|ツラギ島方面の戦い|フロリダ諸島の戦い}}
 
8月7日午前4時、[[アメリカ海兵隊|海兵隊]][[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第1海兵師団]](師団長[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト]]少将)を主力とし、[[オーストラリア]]軍の支援を受けた10,900名の海兵隊員が、[[艦砲射撃]]と航空機の支援の下でガダルカナル島テナル川東岸付近に上陸を開始した。同時にツラギ島方面にも4個大隊1,500名が上陸し壮絶な玉砕戦が行われた。また、これとは別に6,705名が海上に師団予備として残された。ガダルカナル島の日本軍は哨直の第13設営隊以外は眠っており、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。
 
 
 
上陸当初、最も敵に近い[[ルンガ川 (ソロモン諸島)|ルンガ川]]の飛行場地区に第11設営隊の陣地があり、ルンガ川を挟んで第13設営隊、海軍陸戦隊が駐屯していたが、各隊の陣地は[[防空壕]]以外に陣地整備されているものは何も無い状況だった。そのため、敵兵力の把握もままならないままルンガ川東岸の第11設営隊約1,350名は駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯は連合軍の手に落ちた。
 
 
 
この上陸戦において、アメリカ軍側公刊戦史は[[小銃]]、[[機関銃]]数挺、70[[ミリメートル|粍]][[山砲]]([[歩兵砲]])及び75粍山砲各2門、弾薬、ガソリン、燃料、使用可能なトラック35台を含む自動車と[[電波探知機]]2台、[[糧秣]]多数を[[鹵獲]]したと伝えている。一方、第13設営隊隊長[[岡村徳長]]少佐は指揮下の1,200人の設営隊員を敵上陸地点の反対方向のルンガ川西岸地区に移動させ、ルンガ川[[橋|橋梁]]を破壊してルンガ川西岸で連合軍部隊を迎え撃つ姿勢を見せた。同日夕方、どうにか数十名の部下を従えた第11設営隊隊長[[門前鼎]]大佐が岡村部隊と合流して善後策を協議し、ルンガより西方約4キロメートルにある[[マタニカウ川]]を[[最前線|第一線陣地]]とし、門前隊、岡村隊、第18警備隊(含む第84警備隊の1部)を合わせて臨時のガダルカナル島守備隊を編成することとなった。8日午前零時、門前大佐が中隊長として[[クルツ岬]]に向けて中隊本部を後退させ、岡村隊と警備隊をマタニカウ川正面に展開を終えたのは8日午前4時30分とされる。この際に同隊がクルツ岬付近のジャングルに設営された海軍本部に収容できた食料は、わずか7日分であった。
 
 
 
==== 第一次ソロモン海戦 ====
 
[[ファイル:GuadBettyAttack.jpg|thumb|250px|[[第一次ソロモン海戦]]。低空飛行で弾幕を潜りアメリカ艦隊に雷撃を試みる[[一式陸上攻撃機]]の編隊(8月8日)]]
 
{{Main|第一次ソロモン海戦}}
 
連合軍の動きを知った日本海軍は現地のラバウル第25航空戦隊(陸攻27、艦爆9、戦闘機17の計53機)と[[第八艦隊 (日本海軍)|第8艦隊]]([[三川軍一]]中将、増強を受け[[重巡洋艦|重巡]]5隻、[[軽巡洋艦|軽巡]]2隻、[[駆逐艦|駆逐]]1隻)に反撃を指示した。また、陸海軍協定に則り、陸軍に協力を求め、在ラバウル陸軍[[第17軍 (日本軍)|第17軍]]は[[グアム島]]の一木支隊、[[パラオ諸島]]駐屯の第35旅団(川口支隊)をガダルカナルに投入することとした。アメリカ軍上陸日当日から翌日にかけて行われた25航戦による爆撃は、直前で敵艦上戦闘機及び敵急降下爆撃機の撹乱銃撃を受けてしまい効果が薄かったものの、この地域に米空母部隊が進出しているという貴重な情報を得ることとなる。25航戦は34機喪失の大被害を受け、うち艦爆隊は当初から航続力不足のため不時着覚悟の出撃であり、全機体が失われている。乗員救助のため駆逐艦の緊急派遣などの措置は取られており、収容された乗員から連合軍艦隊の詳細情報を得られた。
 
 
 
三川中将率いる第8艦隊は翌8月8日夜半に戦場海域に到達しそこで連合軍艦隊と遭遇し、[[第一次ソロモン海戦]]が発生した。重巡4隻を撃沈し同1隻を大破させたが、戦闘艦艇の撃破には成功したものの本来の目的であった輸送艦隊への攻撃は中止された。このためアメリカ軍は重火器を含む大量の物資の揚陸に成功し、これが結果的にガダルカナル島の戦いの戦略的な帰趨に重大な影響を与えることになる。
 
 
 
[[ファイル:TokyoExpress.jpg|thumb|right|250px|ガダルカナル島への鼠輸送のため駆逐艦に乗り込む将兵。]]
 
上陸初日からの日本軍による反撃により、テナルのアメリカ軍揚陸地点を危険と判断した[[フランク・J・フレッチャー|フレッチャー]]中将は揚陸作業を中断して空母群と輸送船団を南方に退避させた。そのため、第1海兵師団も十分な物資を揚陸できず上陸作戦完了後、海兵隊の1日の食事は2食に制限された。また、ガダルカナル島での航空優勢が確立されるまで、同島への物資補給はアメリカ軍も駆逐艦輸送に限定されることとなった。日本はこの手法を「[[鼠輸送]]」と称して常用するようになった。
 
 
 
18日、同川西岸の日本軍を危険視したヴァンデグリフトは、これを排除すべく第5海兵連隊の3個中隊を投入した。翌19日、同連隊B中隊は海岸沿いに西進してマタニカウ川東岸に向かい、マタニカウ村に向けて援護射撃を行い、L中隊は同川河口上流を渡河して西岸を北上し、マタニカウ村を攻撃した。日本軍は激しく抗戦し、特に日本側の狙撃兵によってアメリカ軍側の指揮官が次々と倒された。L中隊のある小隊では1日で小隊長2名が戦死している。海兵隊も偵察狙撃班を編成して対抗し、I中隊が日本軍の退路を遮断するため[[ククム]]から西の[[コクンボナ]]に上陸を敢行。午後には日本軍が戦闘からの離脱と後退を開始した。だが、海兵隊側には追撃を試みるだけの兵力や物資がなく、第5連隊は元の陣地に帰還している。
 
 
 
==== イル川渡河戦 ====
 
[[ファイル:Guad Ichiki.JPG|thumb|一木支隊の行動概要図。]]
 
[[ファイル:GuadInitialLungaPerimeter.gif|thumb|1942年8月ヘンダーソン飛行場周辺のアメリカ軍展開図:一木支隊は東部から飛行場防衛地区へ侵攻した。]]
 
{{Main|イル川渡河戦}}
 
陸軍の[[一木清直]]大佐率いる大本営直轄の一木支隊([[第7師団 (日本軍)|第7師団]]の[[歩兵第28連隊]]を基幹とする)約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったが、1942年6月のミッドウェー海戦で海軍が敗北し、攻略作戦は中止となり、一時[[グアム島]]に休養を兼ねて留め置かれていた。同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属が解除され、そのまま[[トラック諸島]]へと輸送された。トラック諸島からガダルカナルまでは駆逐艦[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]以下6隻に第1{{読み仮名|梯団|ていだん}}として[[支隊]][[司令部|本部]]163名、[[大隊]]本部23名、歩兵4個[[中隊]]420名([[軽機関銃]]36、[[八九式重擲弾筒|擲弾筒]]24)、[[機関銃]]隊110名([[九二式重機関銃|重機関銃]]8挺)、[[歩兵砲|大隊砲]]1個小隊50名([[九二式歩兵砲|歩兵砲]]2門)、[[工兵]]1個中隊150名が乗船し急派されている。支隊の残りは、海軍の横須賀第5特別陸戦隊主力とともに輸送船で第2梯団として送り込まれることとなったが、同時に出航したにもかかわらず9.5ノットの低速が災いし、[[イル川渡河戦]](アメリカ名:テナルの戦い)には間に合わなかった(イル川は現地名で、日本軍は中川と呼称。テナル川はイル川の東方に位置し日本軍通称は蛇川)。このほか横須賀第5特別陸戦隊の先遣部隊(高橋中隊)が駆逐艦により輸送され、8月16日に上陸成功して設営隊などと合流している。
 
 
 
駆逐艦輸送であったため、一木支隊は実質、1個大隊相当の戦力しかなかったといえる。さらに、一木支隊に届いていた敵情については「連合軍兵力は約2,000名」、「敵上陸目的は飛行場破壊にあり、現在は島からの脱出に腐心している」などといった海軍第11設営隊、や[[駐在武官|駐ソ武官]]の情報などがあった。大本営海軍部では当初は本格的な上陸と考えていたが、前記各情報から主力は撤退したと誤認するに至った。そのため、第1梯団は軽装(1人当たり小銃弾250発、食料7日分)で急行し、海軍部隊を保護して、ただちに敵を攻撃する方針を決定する。
 
 
 
8月18日にガダルカナル島[[タイボ岬]]に無血上陸した一木支隊は、ひたすら西を目指して前進した。海岸沿いの砂浜を主に夜間行軍により進み、20日夕刻頃までにはテナル川を越えてイル川西岸地域まで到達している。当初の構想では海軍第11設営隊跡(ヘンダーソン飛行場東側の丘状地)に支隊本部を置き、飛行場に所在していると思われる敵残存兵力を攻撃することとしており、一木大佐は飛行場から3キロも離れたイル川東岸に敵防御陣地があることを想定していなかった。
 
 
 
日本軍とは対照的に、アメリカ海兵隊は18日に[[コーストウォッチャー]]([[:en:Coastwatchers|Coastwatchers]])の通報によりタイボ岬沖からの日本軍上陸を察知していた。19日昼には、倒した日本軍[[斥候]]兵の[[階級章]]から、タイボ岬に上陸した日本軍が陸軍部隊であることに気づき、20日夕刻までにはルンガ地区イル川東岸の防備を固めていた。
 
 
 
20日18:00にイル川を越えて先行していた[[将校]]斥候(渋谷大尉・館中尉ら)34名中31名が、アメリカ海兵隊の攻撃により戦死の憂き目に遭った。2時間後に離脱兵から報告を受けた一木大佐は激高し、不明将校の捜索を命じるに当たって「行動即索敵即攻撃」を各中隊に命じている。21:00頃には、一木支隊の[[尖兵]]中隊がイル川西岸で思いもよらぬ敵からの銃砲撃を受け立ち往生しているところに支隊本部が合流した。22:30から歩兵砲の砲撃を合図にイル川渡河を決定。火力の差は明白で、[[M3 37mm砲|M3 37ミリ対戦車砲]]([[:en:37 mm Gun M3|en]])、[[M116 (75mm榴弾砲)|M1A1 75ミリ榴弾砲]]、[[M101 (105mm榴弾砲)|M2A1 105ミリ榴弾砲]]などを有する強力な[[砲兵]]に援護された機関銃座陣地を前に、100名余の損害を出して一旦攻撃を停止する。敵兵力が10,900人を擁する大軍であることを知らない一木大佐は、なおも1時間後に同様の白兵攻撃を命じて、同様に機銃陣地からの[[十字砲火]]を受け今度は200名を越す損害を受けたとされる。また、その間にも敵砲兵陣地からの砲撃、とりわけ[[迫撃砲]]による砲火は苛烈を極め、日本軍の反撃は渡河に成功した一握りの兵による[[軽機関銃|軽機]]や[[手榴弾]]による攻撃にとどまった。一部の将校は一旦後退することを具申したが、一木大佐は攻撃を続行した。
 
 
 
[[ファイル:GuadTenaruSandbar.jpg|thumb|1942年8月21日海岸部で包囲殲滅された一木支隊。]]
 
翌21日午前5時頃、一木大佐はイル川左岸の海岸部に残兵を集め状況把握に努めたが、夜明けとともに敵機が上空を舞い始め、陸上からは海兵第1連隊がイル川を越えて一木支隊の退路を断つように迂回攻撃を仕掛けてきたため、包囲された一木支隊は苦戦に陥った。同日午後から投入された[[水陸両用戦車]]6両により支隊本部は{{読み仮名|蹂躙|じゅうりん}}され、一木支隊は[[壊滅]]した。海岸で波打ち際に追い詰められた兵士は、執拗な包囲射撃によりことごとく[[殲滅]]された。海岸での海兵隊による掃討戦は、21日14時には概ね終了し、意識不明の負傷兵15名が捕虜となった。
 
 
 
結局、8月25日までに生きて上陸地点のタイボ岬まで戻れたものは916名中126名(うち戦傷者30名)であり、790名(戦死者行方不明者777名、捕虜15名)の損害を出して戦いは終わった。アメリカ軍の損害は戦死者40名余りとされている。戦死者数は日本側公刊戦史より捕虜は米側公刊戦史より抜粋しており合計数は一致しない。支隊長一木大佐は21日の戦闘で戦死したと思われるが、その状況は不明である。
 
 
 
ちなみに、戦闘開始時に総員[[背嚢]]遺棄が命じられたため、早くも一木支隊の残存兵は、[[飢餓]]に悩まされるようになった。一方、アメリカ軍もまたこの戦闘による消費で物資弾薬の枯渇が表面化しつつあったが、戦闘後に輸送船団による物資と増援兵力の輸送が成功して危機は去り、この時点において[[兵站]]面での勝敗は決していた。
 
 
 
[[ファイル:HendersonDamagedF4F.gif|thumb|ヘンダーソン飛行場のF4Fワイルドキャット戦闘機。]]
 
8月20日、[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]に海兵隊の[[F4F (航空機)|ワイルドキャット]]19機と[[SBD (航空機)|ドーントレス]]12機が到着して航空基地としての機能がスタートした{{Sfn|スタッフォード|2007|p=180}}。後に空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]、[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]、[[ワスプ (CV-7) |ワスプ]]の艦載機とパイロットも母艦が戦闘で損傷し、修理のため使用できない間はヘンダーソン飛行場から出撃した{{Sfn|スタッフォード|2007|p=222}}。
 
 
 
=== 9月 ===
 
==== 第二次ソロモン海戦 ====
 
[[ファイル:GuadBloodyRidgeSep12-14.gif|thumb|9月12日-14日の川口支隊の攻勢。]]
 
[[ファイル:GuadPatrol.jpg|thumb|1942年9月、マタニカウ川を巡回する海兵隊。]]
 
一木支隊の壊滅の報を受ける前、8月中旬から[[川口清健]]少将率いる[[第18師団 (日本軍)#川口支隊|川口支隊]](第35旅団[[司令部]]および[[歩兵第124連隊]]基幹)約4,000名の輸送が始まっていた。しかし、連合艦隊司令部では8月20日に「ガダルカナル島付近で敵機動部隊が出現」との報告を受け、川口支隊の船団輸送を一時中止し、ガダルカナル島海域の航空優勢の確立のためトラック島の機動部隊(空母翔鶴、瑞鶴、龍驤基幹)に出撃を命じた。日米両軍機動部隊の間で、8月23日から24日にかけて東部ソロモン海域において[[第二次ソロモン海戦]]が戦われることになる。
 
 
 
{{Main|第二次ソロモン海戦}}
 
海戦の結果、日米両軍とも空母戦力に相当のダメージを受けたが、アメリカ軍は[[護衛空母]][[ロング・アイランド (護衛空母)|ロング・アイランド]]を使ってヘンダーソン飛行場に航空機を送り込むことに成功した。そのためヘンダーソン基地航空部隊の動きが活発化し、一木支隊第2梯団の輸送船団は空からの攻撃で輸送船1隻、駆逐艦1隻を失い[[ショートランド諸島|ショートランド泊地]]へ退避した。第二次ソロモン海戦後もガダルカナル島海域に一時とどまっていた空母瑞鶴が支援していたが(8月25日)、及ばなかった。これを見て川口支隊の船団輸送も中止となり、輸送は駆逐艦による「[[鼠輸送]]」と島づたいの[[上陸用舟艇|舟艇]]機動([[大発動艇]]など)による「[[蟻輸送]]」に頼ることとなった。
 
 
 
増援の輸送については海軍が鼠輸送を、陸軍が蟻輸送を主張したため一悶着があった。結局両方行われることになり、本体は鼠輸送でガダルカナル島に向かうことになった。
 
 
 
この鼠輸送で駆逐艦朝霧が轟沈するなどの被害が出た。
 
 
 
増援が遅れる間に、ガダルカナル島の海軍部隊は徐々に圧迫され、マタニカウ川の防衛線を放棄して後退しはじめていた。
 
 
 
ニューギニア戦線では日本海軍が8月24日にラビに侵攻したが9月5日に撤退した。
 
 
 
==== 第一次総攻撃 ====
 
川口支隊は、一木支隊の第2梯団と共に9月7日までにガダルカナルに上陸した。川口支隊の一員として8月末に上陸した兵士は当時の様子を「わたしたちを出迎えたのが、一木先遣隊の生き残りでしたけと、とても兵隊なんてものじゃない。痩せ衰えたヨボヨボの連中が杖にすがって、なにか食うものをと手を出しましてね。米をやると、ナマのままポリポリかじるんです。……(中略)……。『ワシらが来たけん、もう安心バイ』と元気をつけたんです。ええ、十日もたたんうちに、自分たちがおなじ姿になるとも知らんで」{{Sfn|平塚柾緒|1995|p=93}}。そして10月中旬に上陸した第2師団を「飯盒と水筒だけの、みすぼらしい姿」で出迎えるが、上陸してきた兵士からは「ごくろうさん。ワシらが来たから安心しなさい」となぐさめられたという{{Sfn|平塚柾緒|1995|p=108}}。最後に上陸した第38師団の兵士もこれと同様の話を語っている<ref>{{Cite video |title=[証言記録 兵士たちの戦争]ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 〜名古屋・歩兵第228連隊〜 |url=http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210032_00000 |language=日本語 |publisher=[[日本放送協会]] |quote=チャプター3 ガダルカナル島上陸とともにアメリカ軍の脅威を知る228連隊 |accessdate=2017-01-20}}</ref>。
 
 
 
川口少将の主張により、60隻の小型舟艇に分乗し島づたいにガダルカナルに向かった別働隊(約1,000名)は、空襲や故障で被害を受けたうえ分散状態になり、本隊とは飛行場を挟んで反対側にたどり着いてしまい、総攻撃には間に合わなかった。駆逐艦を使った本隊もアメリカ軍の空襲のため、兵員はともかく、[[重火器]]は[[高射砲]]2門・[[野砲]]4門・山砲6門・[[速射砲]]14門しか揚陸できなかった。陸上輸送の困難から、このうち実際に戦闘に参加した砲は、さらにわずかとなる。
 
 
 
川口支隊は、一木支隊の戦訓から、正面攻撃を避けるべくヘンダーソン飛行場の背後に迂回してジャングルから飛行場を攻撃することを試みた。しかし、そのために必要な地図の準備はなく、険しい山岳地形の密林に進撃路を切り開くために各大隊の工兵部隊は通常装備を捨てて、つるはしとスコップによる人海戦術で総攻撃の当日まで啓開作業を行った。完成した粗末な啓開路では重火器や[[砲弾]]の運搬は不可能であり、その大部分は後方に取り残された。また、作業により兵は疲労困憊していた。
 
 
 
9月12日午後8時を期して「中央隊(左、中、右と3個大隊が別々に行動)」、「左翼隊([[岡明之助]]大佐率いる舟艇機動の第124連隊第2大隊)」、「右翼隊(一木支隊の残存集成部隊)」が同時に米軍陣地に攻撃を行うことになった。しかし、夕方までに攻撃位置につけたのは僅か中央隊の一部だけであった。
 
 
 
12日夜には川口支隊支援のために軽巡洋艦川内、駆逐艦敷波、吹雪、[[涼風 (駆逐艦)|凉風]]がルンガ泊地に突入し、砲撃を行った。
 
 
 
12日の総攻撃は各部隊バラバラに攻撃を行い、実質的な第一次総攻撃(米国名:「血染めの丘(エドソンの丘)の戦い」Battle of Edson's Ridge)が行われたのは13日の夜半から14日の未明にかけてである。12日から14日に至る間、川口支隊の左翼隊とその後詰の舞鶴大隊は米軍の集中砲火の前に前進を阻まれ戦いに至らず、各隊は[[鉄条網]]と火線を越えられずに散発的な戦いのみに終始した。
 
 
 
激戦となった中央隊左翼を担当した[[田村昌雄]]少佐率いる青葉大隊の一部が、中央隊右翼国生大隊の米軍陣地の第一線を突破し、さらに3個中隊のうちの1個中隊がムカデ高地の端からヘンダーソン飛行場南端に達し、付近の建設中の倉庫などの拠点を確保した。だが、混戦のすえに日本軍は敗走した。川口支隊と対戦した米軍は700人だった。
 
 
 
この戦闘による川口支隊の戦死者・行方不明者は約700名で、一木支隊と比べれば損耗率は低かったが、激戦となったのは国生大隊と田村大隊の2個大隊だけであり、国生少佐、水野少佐を含め[[中隊|中隊長]]クラスの中堅将校が戦死した。また、再起を画してアウステン山からマタニカウ川西岸にかけて負傷者を含めた5,000名余りが駐屯することになり、[[兵站]]線の細い日本軍は、以後食料・弾薬の補給不足が深刻化し、以後ガダルカナル島(ガ島)はさながら「'''餓島'''」の様相を呈することになる。
 
 
 
9月23日から9月27日の間に、マタニカウ河東岸に駐屯する川口部隊に対しアメリカ軍は9隻の舟艇による逆上陸を含む6度の攻撃を行うが、川口部隊の第二大隊・第三大隊に撃退され、アメリカ軍は多数の損害をだして後退した。
 
 
 
ニューギニア戦線では9月16日に日本軍がポートモレスビーの手前から撤退を開始した。
 
 
 
=== 10月 ===
 
==== 第二次総攻撃 ====
 
[[1942年]]9月17日、陸軍[[参謀総長]][[杉山元]][[陸軍大将]]は、[[大元帥]]である[[昭和天皇]]にガダルカナル島の戦いについて以下のように[[上奏]]している。
 
* 川口支隊の攻撃不成功の要因はジャングルを利用した[[奇襲]]に重点を置きすぎ、連絡不十分なまま戦力を統合運用しなかったためであること
 
* 連合軍の防御組織、とりわけ物的威力が予想以上であり、同島では今後まったくの力押しによる戦闘が求められること
 
* この戦いを受けて[[第17軍 (日本軍)|第17軍]]に、関東軍・支那派遣軍などから20個単位の戦車、砲兵戦力を転用・編入して戦機である10月中にガダルカナル飛行場を奪回するべきこと
 
* ガダルカナル島の戦いにおいては、陸海軍戦力を統合発揮する必要があること
 
 
 
しかし、この上奏文をもとに作成された大陸命688号による兵力の転用は当時の日本軍の海上輸送能力を超えたものであった。重火器を大発による「蟻輸送」により送り込む計画が破綻すると、10月1日からの駆逐艦による「鼠輸送」だけでは、兵站線途上のショートランド島から先に充分な重火器と弾薬を供給できなかった。そこで10月中旬に、機動部隊の護衛と戦艦部隊によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃の間接支援で、ガダルカナル島タサファロング沖に大挙6隻の高速貨物船での揚陸を企図することになる。10月7日には、先に到着していた増援の[[歩兵第4連隊]]が、ヘンダーソン飛行場を射程下におさめるために不可欠なマタニカウ川東岸への進出を図った。しかし連合軍の予想外の反撃に遭い、第2次総攻撃を前に、戦力の3分の2にあたる2個大隊が壊滅的な打撃を受けてマタニカウ川西岸へ撃退されてしまった。
 
 
 
他方アメリカ軍は、10月13日に[[ヌーメア]]から[[アメリカル師団]]の1個連隊をガダルカナル島に送り込むことに成功した。また、9月の危機で{{読み仮名|脆弱|ぜいじゃく}}だったムカデ高地の陣地を補強し、ジャングルに敷設した[[集音器]]の数も増やし、ジャングルからの日本軍に管制射撃網を敷く体制を整えた。
 
 
 
10月15日にアメリカ太平洋艦隊司令長官の[[チェスター・ニミッツ|ニミッツ]]は、それまで南太平洋戦域の米軍を統括指揮していた南太平洋軍司令官の[[ロバート・L・ゴームレー|ロバート・ゴームレー]]([[:en:Robert L. Ghormley|Robert L. Ghormley]])海軍中将を敗北主義であるとして更迭、代わりに[[ウィリアム・ハルゼー]]海軍中将を起用している。ハルゼーはすぐに現地の指揮官を集めて会議を開き「撤退しようというのか、それとも確保しようとするのか?」と質問した。ヴァンデグリフトは「私は確保できます。だが、いままでよりもっと積極的な支援をお願いします」と答え、ハルゼーは「よろしい。大いにやってみたまえ。できるだけのことを君に約束する」と確言した{{Sfn|ニミッツ|ポッター|1992|p=129}}。
 
 
 
10月初旬、[[百武晴吉]]中将以下の第17軍戦闘司令部がガダルカナル島へ進出し、[[第2師団 (日本軍)|第2師団]](師団長・[[丸山政男]]中将)が同島に派遣された。作戦目標は、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸し、飛行場占領することであった。なお、川口支隊の輸送時にネックとなった船団護衛について、海軍はヘンダーソン飛行場基地については戦艦及び巡洋艦の艦砲射撃による破壊を行う事とし、さらに米空母の出撃に備えて第3艦隊(空母翔鶴、瑞鶴)が10月11日以降、トラック島を出撃しガダルカナル島北方海面に進出することとなった。
 
 
 
10月12日未明、ヘンダーソン飛行場の艦砲射撃第一陣として向かった重巡部隊が、[[サボ島沖海戦]]で敗北を喫することとなる。
 
 
 
13日の第2陣となった[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]の2[[戦艦]]を中心とする艦隊がガダルカナル島に夜間の艦砲射撃を行う([[ヘンダーソン基地艦砲射撃]])。さらに翌14日朝にはラバウルから飛来した海軍航空部隊による空襲、14日夜には[[重巡洋艦]][[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]による艦砲射撃が追い打ちをかけた。
 
 
 
これを受けて、第2師団を乗せた高速輸送船団6隻が泊地に投錨し揚陸作業を開始した。一連の事前砲爆撃によってアメリカ軍航空部隊は飛行機の半分以上とガソリンのほとんどを焼失する大きな打撃を受けていたが、海兵隊は既にヘンダーソンとは別に、規模の小さな戦闘機用の滑走路を完成させていた。海軍の航空偵察も陸軍川口支隊もそれを察知しておらず、潰し損なったため、第2師団の揚陸作業中の現地上空の航空優勢の確保は達成できなかった。結果、兵員の上陸は終わったものの食料は50%、重火器類は20%の揚陸がすんだ時点で輸送船団に被害が目立ち始め、船団を北方に退避させることとなってしまった。
 
 
 
第2師団は、ジャングルの迂回作戦で道を見失い支離滅裂となった川口支隊の失敗を受けて、大部隊による正攻法で攻撃を行う計画であった。そのため20,000名以上の大兵力、火砲200門以上と1個[[機甲部隊|戦車連隊]](戦車・[[装甲車]]75両)を上陸させようとしたがごく一部しか揚陸できなかった。やむなく、作戦は変更され、歩兵の主力は先に失敗したジャングルの迂回作戦を取ることになり、当初の正面攻撃は一部の部隊が[[陽動]]として行うことになった。だが、ジャングルを進むための地図や土木機械の準備は川口支隊の時と同様に全く行われておらず、従って進撃路の啓開は遅々として進まず、部隊はまたもや支離滅裂の状態となった。右翼部隊を指揮していた川口支隊長は第1次総攻撃の反省から、大本営から派遣された作戦参謀[[辻政信]]中佐に迂回攻撃を進言したが、意見が対立し罷免された。
 
[[ファイル:GuadBattleOct20-25.gif|thumb|10月20日-24日の第二師団の攻勢。]]
 
[[ファイル:GuadNakagumaMatanikauDeadJapanese.jpg|thumb|壊滅した陽動部隊の住吉支隊(1942年10月24日、マタニカウ川河口)。]]
 
戦車や重砲はとてもジャングル内の迂回路を進むことは出来ないため、陽動隊に配属された。その数は、水上機母艦[[日進 (水上機母艦)|日進]]などで輸送された野砲7門・[[九一式十糎榴弾砲]]4門・[[九六式十五糎榴弾砲]]15門・[[九二式十糎加農砲|九二式十糎加農]]3門などにすぎず、戦車は独立戦車第1中隊が[[九五式軽戦車]]及び[[九七式中戦車]]合わせて10数両を持つだけであり、何よりも砲弾が不足していた。ジャングルの迂回路を進む主力には歩兵砲・山砲・速射砲・迫撃砲など小型で軽量の砲が配属されていたが、人力担送は困難を極め、大半は進撃路の遙か後方に取り残され、戦闘には間に合わなかった。
 
 
 
こうした状況にも係らず第2師団は「23日にはガダルカナルの占領を完了。ツラギ、[[レンネル島|レンネル]]、[[マキラ島|サンクリストバル]]に転進し、これを占領する予定なり」という意の[[電報]]を大本営に送っていた{{Sfn|伊藤正徳|1973|refname=伊藤正徳1973要ページ番号a|pp={{要ページ番号|date=2017年1月}}}}。
 
[[ファイル:GuadMatanikauDeadJapanese.jpg|thumb|壊滅した第2師団(1942年10月25日)]]
 
こういった中で日本は10月24日にバラバラにアメリカ軍陣地に攻撃を掛けた。川口少将を罷免したことで右翼方面の連絡系統は著しく混乱し、飛行場の1キロ手前まで到達したところで司令部に作戦成功を意味する「バンザイ」の電報を送った。これはもちろん誤報であったが、将校一同は「御芽出度う」と交歓し合い、井本参謀は日誌の一頁を覆う大文字で「天下一品の夜」と記した{{Sfn|戸部|1991|pp={{要ページ番号|date=2017年1月}}}}{{Sfn|伊藤正徳|1973|refname=伊藤正徳1973要ページ番号b|pp={{要ページ番号|date=2017年1月}}}}。左翼方面は敵に突撃し、哨戒線を突破したが砲火にさらされ大損害を出した。25日から26日朝にかけて第2師団は繰り返し[[夜戦|夜襲]]をかけたが、装備の不足などから猛砲火を浴び戦傷含めた損害は半数以上と壊滅状態に陥った。25日からは飛行場から発進した米攻撃機による空襲が始まり、高級将校多数が戦死した。ラバウル基地の日本海軍航空部隊(零戦)は飛行場占領の誤報を受けガダルカナル基地を目指したが、その飛行場から[[F4F (航空機)|F4F]]が迎撃してきてパニックに陥った。
 
[[ファイル:MatanikauTank.jpg|thumb|マタニカウ河の戦闘で撃破された九七式中戦車]]
 
陽動のため海岸線沿いを進んでいた住吉支隊では、[[住吉正]]少将が作戦の拡大を急遽決定し、戦車部隊にマタニカウ河の渡河を命じた。これに対し米軍は37mm対戦車砲や75mm[[自走砲]]を配備して日本軍を待ち構えていた。戦車隊は河の中央付近で十字砲火を浴びて次々に撃破され、対岸にたどり着いた2両も[[地雷]]で動けなくなったところを75mm自走砲に撃破された。
 
 
 
陸軍の支援のために軽巡[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]や駆逐艦[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]などがルンガ沖へ突入したが、逆に由良が撃沈された。
 
 
 
26日には師団参謀がガダルカナル奪回は不可能との旨を辻政信参謀に報告し、作戦は中止された。
 
 
 
戦闘における全体の戦死者については資料がなく不明であるが、第2師団麾下の[[歩兵第29連隊]]では兵員2,554名に対し戦死・行方不明553名となっている。
 
 
 
11月12日にガダルカナルより大本営陸軍部作戦課長の[[服部卓四郎]]大佐が帰京し次のように第二次総攻撃の失敗について、[[東條英機]][[内閣総理大臣]]兼[[陸軍大臣]]に報告している<ref>大本営陸軍部軍務課長[[真田穣一郎]]大佐の日誌より要約抜粋</ref><!-- この日誌の出典は? -->{{信頼性要検証|date=2017-01}}。
 
* 敵は完全に制空権を掌握し、熾烈巧妙な火力準備により裸の我が軍を迎え撃った。
 
* 敵は地上攻撃と空中攻撃を併用し、我が軍の航空支援は皆無だった。
 
* 我が軍の大隊長級の能力薄弱。
 
* 兵の士気は麻痺しており、さらに顧慮すべき衛生は劣悪。高い発熱、[[下痢]]、[[栄養失調]]により第2師団の戦力は4分の1に低下。戦傷兵の後方担送には1人につき4から8人が必要な状況にある。
 
* 現地の火砲は十五榴12門、十加2門、野砲4門、山砲8門、高射砲12門の計48門で、弾薬不十分。
 
* [[糧秣|糧食]]は非常に不足し、揚陸物資も搬送手段無く、末端には届いていない。
 
* [[軍]]司令官は健康。「やる」と言っているが第一線を把握していない。
 
* 敵は白昼堂々と船団輸送しているが、我が軍は[[潜水艦]]でコソコソ揚陸するも10隻で僅かに2日分の糧食を輸送できるに過ぎない(この時期に潜水艦による輸送は始まっていないため、駆逐艦の誤りと推測される)。
 
結論として、既定の第38師団・第51師団の投入を行うほか、[[ブカ島|ブカ]]、ショートランド、ガダルカナル島エスペランス岬付近に飛行場を整備し陸軍より[[戦闘機]]2個[[陸軍飛行戦隊|戦隊]]・[[爆撃機|軽爆]]1個戦隊はぜひ必要。次期攻撃は18年1月末となるべし、と結んでいる。
 
 
 
また、11月16日に[[第8方面軍]]司令官[[今村均]]中将は昭和天皇に拝謁し、「南東太平洋方面よりする敵の反抗は、国家の興廃に甚大の関係を有するにつき、速やかに苦戦中の軍を救援し戦勢を挽回せよ」との言葉を受け、同日、大陸指1338号によるソロモン群島方面の作戦要領が次の通り示された。
 
* 陸海軍の協力により各種の手段による敵機の活動封止に努めるとともに12月中旬を目処として所要の飛行場の整備を完了する。
 
* 飛行場の整備に伴いガダルカナル方面の敵航空勢力を制圧し、機宜に応じて船団輸送により攻撃兵力と軍需品を強行輸送する。
 
* 作戦準備を拡大した上で、18年1月中旬末をもって攻撃準備の完成をなす。
 
 
 
しかし、これら中央の決定がなされている間にも南方戦線は憂うべき情況を呈していた。すなわち、ニューギニア方面で[[第55師団 (日本軍)#南海支隊|南海支隊]]がイスラバ、デネギ、ココダ、オイビとオーストラリア軍に追撃され11月10日には要衝ゴラリの維持も不能と見て全面退却に移っていた。さらに海軍の協力を得て進めたガダルカナル島への第38師団の船団輸送も、輸送船11隻中7隻を失い、さらに残る4隻も11月15日に揚陸作業中を航空部隊の攻撃にさらされ、事実上、輸送計画は失敗に終わった。また、輸送船11隻約7万7千トンの大量喪失により、過ぎる10月22日に決定された陸海軍局部長会議で決まっていた民間船舶20万トンの軍徴用の解傭を一転、民間からの追加徴用へと陸軍を突き動かすことになった。また、この船舶増傭問題が後にガダルカナル島撤退論に大きな影響を及ぼすことになる。
 
 
 
一方のアメリカ側はこの頃のガダルカナルの情勢に相当の危機感を持っていた。ヨーロッパ戦線では間近に迫っていたドイツへの反攻作戦のために大量の兵力・兵器を必要としていたが、ルーズベルト大統領は10月24日に統合参謀本部に「入手可能なあらゆる兵器を、ガダルカナル保持のためその地域に確実に送れ。」と書いたメモを送っている{{Sfn|ポッター|1991|p=277}}。
 
 
 
第1海兵師団で2つの機関銃分隊を指揮していた[[ジョン・バジロン]]軍曹は、日本軍の第二次総攻撃が行われた10月24日 - 26日の間、分隊のほとんどの隊員が死傷する中で機関銃陣地を死守して日本軍の撃退に大きな役割を果たした。この行為に対してアメリカ軍の最高位の勲章である[[名誉勲章]]が授与され、英雄として帰国した(帰国後は戦時国債販売キャンペーンで顔の一人として活動した。しかしその後、前線への復帰を志願して[[硫黄島の戦い]]で戦死)。
 
 
 
==== 南太平洋海戦 ====
 
[[ファイル:USS Enterprise (CV-6) under attack by dive bombers during the Battle of Santa Cruz Islands on 26 October 1942 (80-G-20989).jpg|thumb|南太平洋海戦で日本の襲撃を受けている空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」]]
 
{{main|南太平洋海戦}}
 
[[大日本帝国海軍|日本海軍]][[連合艦隊]]は[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[第17軍 (日本軍)|第17軍]]の総攻撃支援のために[[近藤信竹]]中将指揮下の[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]](第三戦隊:[[金剛型戦艦|戦艦]][[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]、第二航空戦隊:空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、[[飛鷹 (空母)|飛鷹]])および[[南雲忠一]]中将指揮下の[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]](第一航空戦隊:空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[龍驤 (空母)|龍驤]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]等)を派遣する。
 
 
 
10月26日、これによって発生した[[南太平洋海戦]]で日本側は搭乗員の多数を失ったが、空母1隻が沈没、同1隻中破の戦果を挙げ一時的にアメリカ太平洋艦隊が展開する空母戦力が無くなることとなった。この報告を受け[[第38師団 (日本軍)|第38師団]]約1万名の輸送が決定した。
 
 
 
=== 11月 ===
 
==== 第三次ソロモン海戦とアウステン山周辺での戦い ====
 
[[ファイル:Marines rest in the field on Guadalcanal.jpg|thumb|アメリカ軍第2海兵隊(1942年11月)。]]
 
{{main|第三次ソロモン海戦}}
 
11月10日、[[第38師団 (日本軍)|第38師団]]長[[佐野忠義]]中将率いる先遣隊が上陸した。14日に師団主力の輸送が開始され、海軍は制海権の確保と再び飛行場を砲撃するため戦艦2隻を含む第11戦隊を派遣し第三次ソロモン海戦が発生した。
 
 
 
日本海軍は海戦で戦艦2隻を失った上、肝心の飛行場の砲撃も上手くいかず、輸送船団は米軍機の空襲に晒された。結果、輸送船11隻中6隻が沈没、1隻(佐渡丸<ref>離脱してショートランド泊地への帰還に成功するが、11月18日の空襲で沈没した。</ref>)が中破離脱し、翌日に強行突入した輸送船4隻は岸辺に乗り上げたが夜明けとともに始まった米軍の陸海からの砲撃や米軍機の銃爆撃により全て炎上した{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=234}}。かろうじて揚陸した兵器・弾薬食料のほとんども、輸送船から浜辺の集積地に集めるのがやっとの状態で、ヘンダーソン飛行場から出撃してくる米軍機の爆撃や[[機銃掃射]]によって荷役組織力が麻痺し、さらに繰り返された執拗な米軍機の攻撃により物資は積み上げられたまま焼失した。最終的に揚陸を確認された兵力は2,000名、重火器は皆無、少量の弾薬と食料が4日分だった。これによりガダルカナル島の兵力は数字の上では約2 - 3万名を数えたが、[[伝染病]]にかかった者や餓死寸前の者が大半で、通常戦闘が可能な兵員は8,000人程度だった{{Sfn|伊藤正徳|1973|refname=伊藤正徳1973要ページ番号c|pp={{要ページ番号|date=2017年1月}}}}。このころのアメリカ軍の防衛体制はさらに強化されていたため、上陸した第38師団は飛行場に近づくことさえできなかった<ref>{{Cite video |title=[証言記録 兵士たちの戦争]ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 〜名古屋・歩兵第228連隊〜 |url=http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210032_00000 |language=日本語 |publisher=[[日本放送協会]] |quote=チャプター4 質、量ともに、日本軍の軍事力をはるかにしのぐアメリカ軍 |accessdate=2017-01-20}}</ref>。18日、第38師団による夜襲が行われたが失敗し、その後アウステン山の西稜線守備隊として転用され、翌年1月のアメリカ軍の反転攻勢を受けることになる。
 
 
 
第38師団のガダルカナル島での状況は、「NHK 戦争証言 アーカイブス 証言記録 兵士たちの戦争」の「[http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210032_00000 ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 〜名古屋・歩兵第228連隊〜]」に多くの証言が記録されている<ref>{{Cite web |url=http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210032_00000 |title=[証言記録 兵士たちの戦争]ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 〜名古屋・歩兵第228連隊〜 |work=戦争証言アーカイブス |publisher=日本放送協会 |accessdate=2017-01-20}}</ref>。
 
 
 
日本軍の攻撃を撃退した南太平洋軍司令官の[[ウィリアム・ハルゼー]]中将は11月19日、中将から海軍6人目の大将に昇進した{{Sfn|ポッター|1991|p=297}}。
 
 
 
12月17日にアメリカ軍はアウステン山のギフ高地などに立て篭もる日本軍守備隊を包囲、攻撃を開始、12月上句には1300名だった守備隊は砲撃と飢餓により1月には50名に減り、1月15日に陥落した。
 
{{main|{{仮リンク|アウステン山の戦い|en|Battle of Mount Austen, the Galloping Horse, and the Sea Horse|label=アウステン山の戦い}}}}
 
アメリカ陸軍第25歩兵師団に従軍していた[[ジェームズ・ジョーンズ (小説家)|ジェームズ・ジョーンズ]]はこの戦いに参加した経験に基づき小説『[[シン・レッド・ライン]]』を執筆した。
 
 
 
ニューギニア戦線では11月16日に連合国軍がブナに侵攻した。日本側は救援作戦を検討したが、ガダルカナル島の戦いを優先するために取りやめとなった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=492}}(ブナ守備隊は1月に玉砕)。
 
 
 
=== 12月以降 ===
 
==== 日本軍の撤退 ====
 
[[ファイル:GuadMapJan-Feb1943.jpg|thumb|1943年2月の最終局面]]
 
{{Main|ケ号作戦}}
 
8月の上陸以来、戦いの主力を担って疲労が大きくマラリアにも苦しめられていた第1海兵師団は師団長のヴァンデグリフト将軍とともに12月半ばにオーストラリアに後退した。1月にはアメリカ軍の規模は5万人余りの陸軍と第2海兵師団となり、積極的な攻勢を開始した{{Sfn|ニミッツ|ポッター|1992|p=144}}。
 
 
 
第38師団の輸送失敗のあと、大本営はさらに[[第51師団 (日本軍)|第51師団]]と[[第6師団 (日本軍)|第6師団]]をガダルカナル島に送り込むことを計画する。だが、ガダルカナル島の航空基地も増強されていて、アメリカ軍の制空権下の輸送が成功する見通しは全く立たなくなっていた。
 
 
 
既に低速の輸送船はガダルカナルに近づくことができず、駆逐艦の「鼠輸送」に終始していた。しかし駆逐艦による輸送でも、10月下旬の第2師団総攻撃失敗以降、わずか3か月あまりの間に10数隻の駆逐艦が撃沈される結果となった。やむなく潜水艦による輸送まで試みられていたが、駆逐艦以上に搭載力が小さく、成功しても効果は微々たるものであった。
 
 
 
12月6日には[[閣議]]において、参謀本部作戦部長の[[田中新一]]中将が支援に必要な16万5000トンの艦船をガダルカナルに送り込むよう訴えたが、その半分の増援も認めなかったため、東條首相ら政務側に対し「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ事実上更迭された。その理由は、元々東條はこの方面の作戦には反対であったこと、過去に投入した船団もことごとく全滅状態となったことであった。また参謀本部や海軍の要求を通すと南方からの資源輸送・南方への物資輸送が滞り、戦時経済そのものに悪影響を与えるためでもあった。
 
 
 
12月31日の[[御前会議]]において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの撤退が決定された。この決定からさらに1ヶ月を経た[[1943年]]2月1日から7日にかけて、撤退作戦が行われた。各部隊のほとんどは予定通りに撤退地点まで到着することができたが、身動きの出来なくなった傷病兵を[[自殺|自決]]させ、あるいは「処分」することが大規模に行われていたという。
 
 
 
ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。一方、アメリカ軍の損害は戦死1,598名、戦傷4,709名であった<ref>{{Cite web |url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-C-Guadalcanal/index.html |title=First Offensive: The Marine Campaign For Guadalcanal |language=英語 |accessdate=2017-01-20}}</ref>。
 
 
 
このとき撤退は「'''転進'''」という名で報道され、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。2月9日の[[大本営発表]]では「ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を{{読み仮名|撃摧|げきさい}}しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」と報じられている{{Sfn|歴史群像|1996|p=115}}。
 
 
 
同時にニューギニアの[[ニューギニアの戦い#ブナ・ゴナの戦い|ブナ]]からの転進(ブナ守備隊は1月に玉砕)も大本営発表が行われた。なお当時から陸軍の報道班の手記や新聞記事からガダルカナル島の悲惨な状況についてはおおむね公表されていた<!-- (出典を明確にすれば、これほど長い引用は必要ないのでは?) <ref>「さらに補給の問題がある。これはすでに十分新聞には書かれているが、全く想像のほかである。実際いま考えても涙が出るが、大体あの間で、一番兵士が余計食った日が、一日僅か一合で、それが三日と続いていない。三[[勺]]、四勺という日が何日も続いた。それはまだいい方で、何日も食わずにやっているという部隊が沢山ある。そして本当に草を食っている」「糧秣は四十キロかもっと遠くの方で揚げる。その間のたった一本の道は毎日雨が降るので泥濘膝を浸し、人一人が通っても飛行機が襲いかかる。飛行機が遊覧バスにでも乗った格好で椰子よりも低く飛んで横から薙いでいく行く。砲弾は絶えずやって来る。軍艦からも撃って来る。その一本の道を伝わって一日として欠かさず物を運んでいる。その運ぶ兵隊というものは、さっき申したような栄養状態で、ほとんど全部が発熱で、骨と皮の幽霊みたいな兵隊が、危険の中を、任務だというので一日として欠かさず通っておる」陸軍報道班員手記 ガダルカナルの血戦 昭和18年7月20日発行より引用。</ref> -->{{Sfn|文化奉公会|1943|pp={{要ページ番号|date=2017年1月}}}}。
 
 
 
ガダルカナル島最後の撤退作戦に参加した海軍輸送部隊指揮官の言によると、撤退するのが難しい傷病兵の多くは[[捕虜]]になることを防ぐため、手榴弾などで自決するか、戦友達の手(手榴弾・銃・[[銃剣]]など)によって葬られた{{Sfn|滝口岩夫|1999|pp=88-89}}。日本軍撤退作戦終了後、ガダルカナル島はソロモン諸島におけるアメリカ軍の新たな兵站基地として使用され、また、日本軍の残兵掃討を行い部隊の練度を上げることが行われたと言われる。戦後刊行されたグラフ雑誌『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』には、米軍の捕虜となった日本の傷病兵などが、[[戦車]]の前に一列に並べられ、[[無限軌道|キャタピラ]]でひき殺されている様子が掲載されたという{{Sfn|滝口岩夫|1999|p=218}}
 
 
 
ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、[[1947年]](昭和22年)10月27日である{{Sfn|産経新聞社|2001|p=249}}。
 
 
 
== 環境 ==
 
=== 日本軍 ===
 
ガダルカナル島の戦いは日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、11月24日にはある将校が「そこら中でからっぽの[[飯盒]]を手にしたまま兵隊が死んで腐って[[蛆]]がわいている」旨を大本営に報告したが、撤退は未だ決まらなかった。1か月後の12月31日になって日本軍はようやく撤退に向けて動き始めたがこの間にも多くの将兵が餓死していった(これはガダルカナル以降補給の途絶えた各戦場で見られた現象で、ある生存者はジャングルを「緑の砂漠」と表現した)。ほとんどの部隊では、ふらふらと何とか歩ける兵士はすべて食糧の搬送に当たり、陣地を「守る」のは、立つこともできなくなった傷病兵という状態に陥っていた。そういう中で、やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士も現れれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵士も現れる状況になった。また、戦いも末期になると孤島に封じられ、食糧の欠乏が深刻になると軍紀の荒廃は極まり、飢えた兵士の中から[[カニバリズム]]も発生したと言われ、書籍{{Sfn|滝口岩夫|1999|p=87}}では、ガダルカナルからの帰還兵の話として、日本兵狩りについて触れられている。こうした軍紀の乱れは「遊兵」と呼ばれるどの部隊にも属さない兵を生み出し、日本軍の組織的戦闘能力の減耗を加速させた。
 
 
 
1942年12月頃からアウステン山の守備についていた兵士たちの間である生命判断が流行り出した。
 
 
 
'''「立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。まばたきしなくなったものは、明日。」'''{{Sfn|五味川純平|1983|p=398}}。
 
 
 
この記述は、刊行物としては辻政信参謀の戦後著作が初出となっているが、実際には[[第38師団 (日本軍)|第38師団]]川口支隊歩兵弟124連隊[[軍旗#大日本帝国陸軍|連隊旗手]][[小尾靖夫]]少尉の[[陣中日誌]]『人間の限界』12月27日の項が元になっていると思われる。小尾も、後にこの手記を発表しており、1969年発行の戦史叢書にも小尾少尉の日記の引用として記載されている{{Sfn|戦史叢書28|1969|p=476}}。また、小尾少尉は日記の中で「1月1日(元旦)に分配された最後の食糧は乾パン2粒とコンペイ糖1粒だけ。」と述べている。
 
 
 
=== 連合軍 ===
 
上陸当初のアメリカ軍は、日本軍の空と海からの攻撃のため十分な物資を揚陸できず、日本の飛行場設営隊が遺棄した施設・物資も活用された。倉庫に山積みされた大量の米は{{Sfn|平塚柾緒|1995|p=36}}、初期の毎日2食の米兵の貴重な食料となった{{Sfn|ニミッツ|ポッター|1992|p=118}}{{Sfn|スタッフォード|2007|p=222}}。製氷工場は『トージョー・アイス・カンパニー』と名前を変え、米兵に[[氷]]と[[アイスクリーム]]を供給した(米兵への最大のプレゼント){{Sfn|平塚柾緒|1995|p=39}}。大型発電機(発電所)は米兵に[[照明]]をプレゼントした{{Sfn|平塚柾緒|1995|p=38}}。
 
 
 
== 結果 ==
 
=== 影響 ===
 
航空機の損害はミッドウェーの約3倍、搭乗員の損失はそれを遙かに越えたものであり、日本の搭乗員の数、練度は著しく低下した。
 
 
 
大量の輸送船が撃沈されたことで、本来なら初期作戦が完了して徴用解除が進められるはずの時期であったにも関わらず、さらなる商船徴用が行われたことは、それ以降の海上輸送と軍需生産に深刻な打撃を与えた。海軍にとっては、艦隊の手足となる駆逐艦を輸送任務中に大量喪失したことが、前記の航空部隊の消耗に加え、以後の作戦遂行上大きな打撃となった。
 
 
 
=== 勝敗の分析 ===
 
[[ファイル:KinugawaMaru1.jpg|thumb|襲撃を受け荷揚げに失敗した輸送船[[鬼怒川丸]]。]]
 
[[ファイル:GuadJapaneseSubandShip.jpg|thumb|放棄された山月丸と[[特殊潜航艇]](1944年)。]]
 
==== 消耗 ====
 
ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘とされている。ガダルカナル戦は日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した戦いと指摘されており、川口支隊の敗北までの時点で、その点を冷静に判断し、兵を引いていれば、その後の泥沼のような消耗戦で何ら得るところなく戦力と継戦能力をすりつぶす事態は避けられたとする指摘もある。
 
 
 
本戦闘では航空部隊の消耗の原因に、拠点であるラバウルからガダルカナル島まで往復8時間という長距離攻撃を強いられた事が一因に挙げられる。ブーゲンビル島のブカや[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]などへの中間飛行場整備も、その当初は必要性が認められず整備が遅れており着手した時にはその戦機を既に逃して間に合わなかった。
 
 
 
物量については、最終的にはアメリカ軍の物量は日本軍を圧倒したが、一連の戦闘の全期間でそうであったわけではない。8月頃の時点では、アメリカ軍は第一次ソロモン海戦での敗北のため、輸送船団が一時退避するなどして重火器や弾薬の揚陸が遅れており、物量はかなり欠乏を来していた(アメリカ軍呼称:「八月危機」)。[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト|ヴァンデグリフト]]少将は「実際の手順とは逆の手順で日本軍が来襲していたら、ガダルカナルの連合軍はなすすべもなく追い落とされていただろう」と述べている。しかし、実際には日本軍は、最初900名の一木支隊第1挺団を派遣したが700名ほどのアメリカ兵に敗北した。次は6,000名の川口支隊と一木支隊第2挺団を投入したが、これを撃退したアメリカ軍部隊の兵数は半分以下の3,000名あまりであった。このように日本軍は寡兵の敵との戦いで敗北を続けており、物量差や戦力の逐次投入だけが原因とも言い切れない。もっとも、仮に占領に成功していたとしても、その後日本から6,000キロ以上も離れたこの島を、アメリカ軍の再反攻を前にどこまで維持できたかは疑問である。
 
 
 
戦後、軍事評論家の[[伊藤正徳 (軍事評論家)|伊藤正徳]]によれば、「ガダルカナルは、たんなる島の名でない。それは帝国陸軍の墓地の名である。」と批評している{{Sfn|伊藤正徳|1973}}。
 
 
 
==== 情報 ====
 
{{Main|コースト・ウォッチャーズ}}
 
本戦闘で連合軍は[[コースト・ウォッチャーズ]](沿岸監視員)を活用した。オーストラリア沿岸監視機関は[[:en:Eric Feldt|エリック・フェルド]][[オーストラリア海軍]]少佐に指揮され、豪北[[タウンズビル]]に拠点を置いた。機関の活動は[[ソロモン諸島]]を構成している約1000の島々で日本軍の活動を監視する上で特に重要であった。多数の人員が沿岸監視任務に参加し、日本軍の後背で作戦した。彼等はオーストラリア海軍の義勇兵([[:en:Royal Australian Naval Volunteer Reserve|RANVR]])として任命された。1942年に、[[ブーゲンビル島]]の2人の監視員、リード (Read) とメイスン (Mason) は、日本の艦船と航空機への早期警戒のためアメリカ海軍への無線通報に従事していた。この通報では敵の部隊の数、兵器の型式、速度が報告されている。 監視員の報告によってアメリカ軍は航空機を発進させ、限られた時間内に攻撃任務に従事させることが出来た。ハルゼーは後に「2人の男がガダルカナルを救った」と述べている<ref>{{Cite web |date=2009-06-06 |url=http://www.arrl.org/news/behind-enemy-lines-an-amateur-radio-operator-rsquo-s-amazing-tale-of-bravery |title=Behind Enemy Lines: An Amateur Radio Operator’s Amazing Tale of Bravery |publisher=[[:en:American Radio Relay League]] |language=英語 |accessdate=2017-01-20}}</ref>。
 
 
 
==== 飛行場問題 ====
 
太平洋正面の戦闘は、制空権獲得のための航空基地獲得戦であり、その造成力が早いか遅いかとその良否とが制空権獲得を左右した。航空基地造成力に関し、日本は前時代的な人海戦術による非能率的な方法で長時日かけて飛行場を造成したが、アメリカ軍は機械力を全幅駆使して数日で滑走路を造成して航空兵力を展開し、局地の制空権を獲得していき、それに伴い日本側は海に陸に苦戦を強いられ、占領地を奪われていった。ガダルカナル島に2個設営隊、2000人以上を送り、1か月にわたって陸上飛行場を設備し、滑走路が完成しても飛行機が来る前に、すぐにアメリカ軍に上陸されて取られてしまうといった具合だった{{Sfn|戸高|2015|pp=175-176}}。([[ヘンダーソン飛行場]])
 
 
 
海軍によって行われたガダルカナル島の飛行場造成は計画性がなく、それを巡る戦闘でも陸海軍に大きな被害を出す結果になった。軍令部作戦課航空主務参謀の[[三代辰吉]]中佐はガダルカナルに陸上飛行場の適地はあるが飛行機を配備するにはまだ不足しているので水上機でやろうと考えており、飛行場の造成に関しては軍令部は知らず現地部隊の第四艦隊が勝手に始めたものと証言している{{Sfn|戸高|2015|p=269}}。しかし、設営隊本隊のガ島上陸の翌7月7日、軍令部作戦課は参謀本部作戦課に「FS作戦の一時中止」を正式に申し入れ、「ガダルカナル陸上飛行基地(最近造成に着手、8月末完成の見込)」という文書を提示している{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=19}}。
 
 
 
== 題材にした作品 ==
 
; 文学
 
:* 歌集『南海の雲』 - 1953年、軍医・[[高木八郎]]がガダルカナル戦場で詠んだ短歌約150首を所収。『[[アララギ]]』1943年8月号から翌年11月号にかけて掲載された。
 
:
 
; 映像
 
:* [[ガダルカナル・ダイアリー]] - 1943年、アメリカ映画
 
:* [[大突撃]] - 1969年、アメリカ映画
 
:* [[シン・レッド・ライン]] - 1998年、アメリカ映画、20世紀フォックス
 
:* [[ザ・パシフィック]] - Part One(第1話)及びPart Two(第2話)。
 
:
 
; マンガ
 
:* [[楳図かずお]]『[[おろち (漫画)|おろち]]』戦闘(第6話)
 
:
 
; ゲーム
 
:* [[メダル・オブ・オナー パシフィックアサルト]]
 
:* [[メダル・オブ・オナー ライジングサン]]
 
:* [[War Thunder]] - ガダルカナル(英語版:Jungle)マップが登場。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{Commons|Guadalcanal Campaign}}
 
{{Refbegin}}
 
<!-- 著者名五十音順 -->
 
*<!-- イトウ 1973 -->{{Cite book|和書|author=伊藤正徳 |authorlink=伊藤正徳 (軍事評論家)|title=帝国陸軍の最後 |volume=2(決戦篇) |year=1973 |publisher=[[角川書店]] |series=[[角川文庫]]|isbn=978-4769821908 |ref=harv}}
 
*<!-- カメイ 1994 -->{{Cite book |和書 |author=[[亀井宏]] |year=1994a |title=ガダルカナル戦記 |volume=1 |publisher=[[潮書房光人社|光人社]] |series=光人社NF文庫 |isbn=4-7698-2032-1 |ref=harv}}
 
*<!-- カメイ 1994 -->{{Cite book |和書 |author=亀井宏 |year=1994b |title=ガダルカナル戦記 |volume=2 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4-7698-2043-7 |ref=harv}}
 
*<!-- カメイ 1994 -->{{Cite book |和書 |author=亀井宏 |year=1994c |title=ガダルカナル戦記 |volume=3 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4-7698-2043-7 |ref=harv}}
 
*<!-- ゴミカワ  1983 -->{{Cite book|和書|author=五味川純平| authorlink=五味川純平 |title=ガダルカナル |date=1983 |publisher=文芸春秋 |isbn=4167115107 |series=文春文庫 |ref=harv}}
 
*<!-- サンケイ 2001 -->{{Cite book |和書 |editor=[[産業経済新聞社|産経新聞社]] 編 |year=2001 |title=あの戦争 太平洋戦争全記録 |volume=上 |publisher=ホーム社 |isbn=4834250555 |ref={{SfnRef|産経新聞社|2001}} }}
 
*<!-- シライシ 2008 -->{{Cite journal |和書 |author=[[白石光]] |title=ガダルカナル海兵隊戦記 |year=2008 |month=10 |journal=[[歴史群像]] |publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]] |ref={{SfnRef|白石光|2008}} }}
 
*<!-- スタッフォード 2007 -->{{Cite book |和書 |author=エドワード・P・スタッフォード |year=2007 |title=空母エンタープライズ ビッグE |volume=上 |others=井原裕司(訳) |publisher=元就出版社 |isbn=978-4-86106-157-8 |ref={{SfnRef|スタッフォード|2007}} }}
 
*<!-- タイヘイヨウ 2005 -->{{Cite book|和書|author=太平洋戦争研究会 |title=太平洋戦争・主要戦闘事典 : 指揮官・参加部隊から、戦果・損害まで |date=2005 |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=4569664180 |series=PHP文庫  |ref=harv}}
 
*<!-- タキグチ 1999 -->{{Cite book|和書|author=[[滝口岩夫]] |title=戦争体験の真実 イラストで描いた太平洋戦争一兵士の記録 |year=1999 |edition=新版 |publisher=第三書館 |isbn=4807499181 |ref=harv}}
 
*<!-- トダカ 2015 -->{{Cite book |和書 |editor=[[戸高一成]] 編 |year=2015 |title=〈証言録〉海軍反省会 |volume=7 |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=978-4569823300 |ref={{SfnRef|戸高|2015}} }}
 
*<!-- トベ 1991 -->{{Cite book |和書 |author=[[戸部良一]] 他 |year=1991 |title=[[失敗の本質]] 日本軍の組織論的研究 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |series=[[中公文庫]] |isbn 4-12-201833-1 |ref={{SfnRef|戸部|1991}} }}
 
*<!-- ニッポン 1995 -->{{Cite book|和書|author=日本放送協会取材班 |title=ガダルカナル学ばざる軍隊 |date=1995 |publisher=角川書店 |series=角川文庫 |isbn=4041954134 |ref=harv}}([[NHKスペシャル]]『[[ドキュメント太平洋戦争]]』第2回の書籍化)
 
*<!-- ニミッツ 1992 -->{{Cite book |和書 |author=[[チェスター・ニミッツ|C・W・ニミッツ]] |author2=E・B・ポッター |others=実松譲、冨永謙吾(共訳) |year=1992 |title=ニミッツの太平洋海戦史 (原題 ''THE GREAT SEA WAR'') |edition=新装版 |publisher=[[ベースボール・マガジン社|恒文社]] |isbn=4-7704-0757-2 |ref={{SfnRef|ニミッツ|ポッター|1992}} }}
 
*<!-- ヒラツカ 1995 -->{{Cite book |和書 |author=平塚柾緒 |year=1995 |title=米軍が記録したガダルカナルの戦い |publisher=[[草思社]] |isbn=4-7942-0632-1 |ref=harv}}
 
*<!-- ブンカ 1943 -->{{Cite book |和書 |editor=文化奉公會 編 |year=1943 |title=大東亞戰爭陸軍報道班員手記 ガダルカナルの血戰 |publisher=[[講談社|大日本雄辯會講談社]] |ref={{SfnRef|文化奉公会|1943}} }}
 
*<!-- ボウエイ 1969 -->{{Cite book |和書 |editor=[[防衛省|防衛庁]][[防衛研究所|防衛研修所]]戦史室 編 |year=1969 |title=南太平洋陸軍作戦 |volume=2(ガダルカナル・ブナ作戦) |publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]] |series=[[戦史叢書]]28 |ref={{SfnRef|戦史叢書28|1969}} }}
 
*<!-- ボウエイ 1971 -->{{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1971 |title=ミッドウェー海戦 |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書43 |ref={{SfnRef|戦史叢書43|1971}} }}
 
*<!-- ボウエイ 1974 -->{{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1974 |title=大本営海軍部・聯合艦隊 |volume=3(昭和十八年二月まで) |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書77 |ref={{SfnRef|戦史叢書77|1974}} }}
 
*<!-- ボウエイ 1975 -->{{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1975 |title=南東方面海軍作戦 |volume=2(ガ島撤収まで) |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書83 |ref={{SfnRef|戦史叢書83|1975}} }}
 
*<!-- ポッター 1991 -->{{Cite book |和書 |author=E・B・ポッター |year=1991 |others=秋山信雄(訳) |title=キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史(原題 ''BULL HALSEY'') |publisher=光人社 |isbn=4-7698-0576-4 |ref={{SfnRef|ポッター|1991}} }}
 
*<!-- モリモト 2008 -->{{Cite book |和書 |author=[[森本忠夫]] |year=2008 |title=ガダルカナル 勝者と敗者の研究 日米の比較文明論的戦訓 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn 978-4-7698-2570-8 |ref=harv}}
 
*<!-- レキシ 1996 -->{{Cite book |和書 |title=死闘ガダルカナル |year=1996 |publisher=学習研究社 |series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ 6 |isbn=4-05-601159-1 |ref={{SfnRef|歴史群像|1996}} }}
 
* Center of Military History, United States Army, ''[http://www.army.mil/cmh-pg/brochures/72-8/72-8.htm GUADALCANAL]'' (米国公刊戦史)
 
* Marine Corps Historical Center, ''[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-C-Guadalcanal/index.html First Offensive: The Marine Campaign For Guadalcanal]'' (米国公刊戦史)
 
<!-- 「参考文献」ではありませんね) * [[日本放送協会|NHK]]「戦争証言 アーカイブス 証言記録 兵士たちの戦争」の『[http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210032_00000 ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 ~名古屋・歩兵第228連隊~]』 -->
 
{{Refend}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[フェザーストン事件]]
 
* [[ウォッシングマシーン・チャーリー]]
 
 
 
==外部リンク==
 
*[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060056_00000 ガダルカナルの戦況 -NHKアーカイブス(動画・静止画)]
 
 
 
{{太平洋戦争・詳細}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{デフォルトソート:かたるかなるとうのたたかい}}
 
{{デフォルトソート:かたるかなるとうのたたかい}}
 
[[Category:太平洋戦争の作戦と戦い]]
 
[[Category:太平洋戦争の作戦と戦い]]

2018/10/6/ (土) 14:51時点における最新版

ガダルカナル島の戦い(ガダルカナルとうのたたかい、Battle of Guadalcanal)

太平洋戦争中、ソロモン諸島のガダルカナル島をめぐって戦われた日米両軍の攻防戦。1942年(昭和17)8月、アメリカ軍は日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島に上陸しこれを占領した。これに対し大本営は同島の奪回を命じ、10月末までに3次にわたる陸上兵力による攻撃が実施されたが、火力に勝るアメリカ軍の反撃によってそのいずれも失敗に終わり、翌年2月には、日本軍は同島からの撤退を余儀なくされる。この間、第一~第三次ソロモン海戦、サボ島沖海戦、南太平洋海戦などの諸海戦と激烈な航空消耗戦が展開されたが、制空、制海権はしだいにアメリカ軍の握るところとなり、日本軍は極度の補給難に陥って多数の餓死者を出した。同島をめぐる一大消耗戦で、日本軍は陸上兵力のみならず多数の艦艇と航空機を喪失したため、42年6月におけるミッドウェー海戦の敗北とも相まって、戦局の主導権は完全にアメリカ軍の側に移行した。



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