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'''ガチンコ'''は、[[大相撲]]や[[プロレス]]における「真剣勝負」を意味する[[隠語]]である。
 
  
同義語は'''ガチ'''、'''シュート'''、'''セメント'''、'''ピストル'''。反対語は大相撲においては「注射」、プロレスにおいては「[[ケーフェイ]]」、「[[プロレス用語一覧#わ行|ワーク]]」などと呼ばれる。
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'''ガチンコ'''
  
== 語源・用例 ==
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《相撲界の隠語から》
; ガチンコ
 
: 本来は[[大相撲隠語一覧|相撲界の隠語]]で、語源は[[力士]]同士が激しく[[立合い]]を行った際、「ガチン!」と音がするところから、真剣勝負を表す隠語として使用されるようになった。[[八百長]]とは縁のない力士のことを、俗に「ガチンコ力士」と呼ぶ。
 
: 1950年代に[[力道山]]が角界からプロレス界に身を投じて以降、大相撲の慣習・文化が多数取り入れられた[[日本]]の[[プロレス]]界においても、同様の意味で用いられるようになった。
 
; セメント
 
: ガチンコと同義。語の由来は[[セメント]]が「ガチガチ」に硬いことからなどとされているが定かではない。
 
[[File:LSQ l.jpg|thumb|upright|シューティング・サイン]]
 
; <span id="シュート">シュート</span>
 
: アメリカで誕生した[[プロレス用語一覧|プロレスの隠語]]であり、カーニバルの射的にその由来がある。シュートを表す[[ジェスチャー]]である[[人差し指]]と[[親指]]を立てた[[ジェスチャー|ハンドサイン]]は「'''シュート・サイン'''」、または「'''シューティング・サイン'''」と呼ばれ、即ち[[拳銃]]を模したものである。日本のプロレス界でも[[1980年代]]後半から[[1990年代]]にかけてこの用語が使われ始め、真剣勝負を意味するガチンコやセメントとの類語・同意語として広く普及した。なお、シュートを行うレスラーを「'''シューター'''」と呼ぶ。かつて[[ダニー・ホッジ]]が「キレると何をするかわからない」という悪癖から稀代のシューターとしてレスラーの間で恐れられていた。用語の使い分けとしては、試合内容についてはガチンコ、リング外での本気の仕掛けをシュートと呼ぶ場面がしばしば見られるが、明確には使い分けられていない。アメリカではリング内外どちらもシュートと表現する。語句としては「シュートマッチ(セメントマッチ)」「シュート(セメント)を仕掛ける」などが一般的用法である。
 
; ピストル
 
: [[女子プロレス]]では'''[[ピストル]]'''と呼ぶのが一般的である。これは[[全日本女子プロレス]]創始者である[[松永高司]]が提唱したものである。
 
  
== 概要 ==
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八百長ではない、まじめな勝負。真剣勝負。また、真剣に行う組み稽古。
=== 相撲 ===
 
近代において相撲はスポーツであり、[[本場所]]での取り組みはすべて真剣勝負、つまりガチンコであることが建前上は当然とみなされている。これに対して、地方[[巡業]]などの本場所以外での[[花相撲]]ではあえてガチンコをとらず、[[無気力相撲]]ともとれる取り組みや地元出身力士に花を持たせるような取り組みが度々行われている。これは花相撲が興行的な側面が強いイベントであり勝敗も番付に影響しないこと、相撲がもともと過酷な格闘技であること、などの理由がある。昭和前期の[[大関]][[名寄岩静男|名寄岩]]には「花相撲で部屋の[[横綱]]である[[双葉山定次|双葉山]]に勝って師匠に怒られた」という逸話がある。
 
{{節スタブ}}
 
  
=== プロレス ===
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{{テンプレート:20180815sk}}
1920年代に[[エド・ルイス]]らが「トラスト」と呼ばれるプロレスラーの組合を結成して以降、プロレスは[[プロレス#台本(ブック)|ブック]]と呼ばれる事前の打ち合わせに基づいて試合が行われるようになった。しかしながら選手間の人間関係の悪化などの理由により、しばしばその打ち合わせを無視して試合が進行する場合がある。このような試合をガチンコやシュートと呼ぶ。この隠語の発祥の地であるアメリカでは、リング内の真剣勝負のみならず、リング外でのストーリー破りもシュートと呼んでいる。また、レスラーは試合をファンによる乱入により妨害された場合には、乱入者に容赦ない攻撃を加えることがあるが、アメリカではこれもシュートと呼ばれる。日本ではリング内はガチンコ、リング外はシュートと呼んでいたが、リング内での真剣勝負もシュートと呼ばれる機会が増えている。
 
 
 
シュートは選手の格やマッチメイカーによって試合の勝敗をあらかじめ決めることなく、両者の実力によって決着を着ける意としても使用されることがあり、[[佐山聡]]が創設した[[総合格闘技]]である[[修斗]]及び立ち技格闘技の[[シュートボクシング]]の由来となっている。
 
 
 
「女子プロレス終わらない夢 全日本女子プロレス元会長 松永高司」によると全女の試合は基本的にシュート(ピストル)で行われていた。また、[[デビル雅美]]も「[[kamipro]]」146号誌上において「タイトル戦はシュートだった」と語っている。プロレスにおける実力主義については[[ストロングスタイル]]も参照。
 
 
 
ただし、シュートという概念はそれ自体が[[アングル_(プロレス)|アングル]]として用いられることもあり、上記の試合についてそのような見方をする人も少なくない。このアングルをあたかもシュートであるかのように見せる手法は、海外では「'''ワークド・シュート'''(''Worked shoot'')」と呼ばれストーリーを盛り上げる演出としてポピュラーなもののひとつである。
 
 
 
== 有名なシュート事件 ==
 
=== セメントマッチ ===
 
; 1954年12月22日の[[力道山]]対[[木村政彦]]
 
{{Main|昭和の巌流島}}
 
: 予定では引き分けで終わるはずであり、試合も途中までは相互に技を掛け合う普通のプロレスとして進行していたが、木村の蹴りが力道山の金的に入ったように見える場面の直後、力道山は豹変し、突然本気のパンチを浴びせる「ブック破り」を行うと、困惑する木村を一方的に打ちのめした。成り行きに多くの謎があり、その後も両者の間に禍根を残したことから、多くの作品の題材とされた。
 
; 1976年6月26日の[[アントニオ猪木]]対[[モハメド・アリ]]
 
{{Main|アントニオ猪木対モハメド・アリ}}
 
: 当時の[[ボクシング|プロボクシング]]世界ヘビー級王者であったモハメド・アリが「俺に挑戦する奴はいないのか。相手はレスラーでも誰でもいい」というリップサービスを行い、それに猪木が呼応したことに端を発する。後日実現した試合では双方が終始相手のスタイルに付き合わず、「世紀の凡戦」と痛烈な酷評を浴びた。
 
: しかし近年になって、事前に交わされた契約交渉の段階から既に激しい摩擦があったことが関係者の口から明らかになっている。また、試合中猪木に執拗に脚部を蹴り続けられたアリは[[血栓症]]を発症、帰国後治療のため入院を余儀なくされた。
 
: 結果としてこの対戦によって猪木は多額の負債を背負うことになり、アリは前述の血栓症が原因ともいわれる体調不良からスケジュールを狂わせるなど、両者共に決して実り多きものとはならなかった。
 
; 1976年8月7日、[[ウィレム・ルスカ]]VS[[イワン・ゴメス]]
 
: 新日本プロレスのブラジル遠征で行われたこの一戦はセメント試合に発展し[[バーリトゥード]]戦と化する。
 
: 同年の2月にアントニオ猪木と激闘の末、敗れたルスカは再戦を迫っているという体裁で新日本のブラジル遠征に参加。遠征初日の[[リオデジャネイロ]]市[[マラカナン体育館]]に約7000人の大観衆を集めた大会。メーンでのカードとしてそこで組まれたのがこの一戦。
 
: ゴメスはもとは[[カーウソン・グレイシー]]からグレイシー柔術を学び、1974年12月に新日本がブラジル遠征した際に王者と称して新日本に接触を試みる。お互いの[[寝技]]や[[関節技]]に関し、自分らと違う技があること、知らない技があることに興味を持ち、猪木に弟子入りをするかたちで同年から約2年間、[[留学生]]というかたちで新日本でプロレス修行を積み、ブラジルでバーリトゥード王者に君臨。当時バーリトゥードはレスリングや柔術をベースにして素手で戦う実戦的格闘技を称していた。
 
: ルスカは別冊宝島EX//格闘技死闘読本 「最強」を求めた愚か者たちの、荒ぶる魂の伝説! 1994 ASIN: B00K24HZESによると、この試合については3分程度でKO勝ちしたとの認識も加味して意外にも印象が薄かったらしく、かなりうる覚えのようであった。また試合に先立ちアントニオ猪木からはできれば試合時間を長くしたほうがよいというアドバイスを受け、じっくりといくつもりであったようである。
 
: しかしのっけからのゴメスのパンチ攻撃に、ルスカがそういうことかと顔面に右ストレートを叩き込みはじめる大荒れの様相となる。そのルスカのゴメスへの顔面への鉄拳攻撃で、ゴメスが右目尻から大流血。ゴメスが寝技にもちこみルスカをフロントネックロックで捕らえるが、ルスカもゴメスの体に乗っかる。かくしてプロレス興行の場で、柔道出身者対柔術出身者のバーリトゥード形式での異種格闘技戦となった。
 
: 結局エプロンサイドでゴメスがルスカの背後に回ってスリーパーをかけ、そのままゴメスが[[エプロン]]サイドでルスカの首をずっと絞め続けた。このため、9分03秒でエプロンカウントアウトの裁定が下された。体がリングから出ていたことでゴメスのエプロン位置における10カウントでの[[リングアウト]]負けと判定されたのである。ただしこれはもっぱらレフェリーが壮絶な試合を終わらせるための処置だとされている。
 
: 地元の英雄の敗退とプロレス流の不可解な裁定に観衆は激怒していたが、納得のいかないゴメスと観客を猪木が入ってきて収めている。
 
: この結果リオデジャネイロ市体育協会が、レフェリーを務めたミスター高橋とルスカに対し「ブラジル国内でのあらゆるスポーツに永久出場停止」という処分を下したとされる。なおゴメスは9針を縫う重傷を負っている。
 
: 一方のルスカは前掲書によると、この後猪木からポケットマネーの小遣いまで支給され、観光旅行を楽しんだという。
 
:  白夜ムック「マット界スキャンダル『機密文書』」(白夜書房、2005年 ISBN-10: 4861910420 ISBN-13: 978-4861910425)では、ライターの渋澤恵介はルスカの優勢勝ちといった内容だったとし、注釈で「そのまま試合が続けばダメージが大きいゴメスをルスカが破った可能性が高い」と記している。
 
: 月刊プロレス 1976年10月号 によると、遠征ではこのほか2大会が行われ、ゴメスにはその後[[ストロング小林]]、[[木戸修]]と対戦。いずれもどうしても勝ちたいゴメスはセメントを仕掛け勝利している。
 
; 1976年10月9日のアントニオ猪木対[[朴松男|パク・ソン]]
 
{{Main|朴松男#大邱事件}}
 
; 1976年12月12日のアントニオ猪木対[[アクラム・ペールワン]]
 
: アントニオ猪木が行った[[パキスタン]]遠征(前述のアリ戦で背負った多額の負債返済のためといわれている)で起きた、当地で英雄と称えられていたレスラー、アクラム・ペールワンとの対戦とそれに纏わる事件。全くのノールール・マッチであったとされ、それについては当時猪木に同行した[[藤原喜明]]や[[ミスター高橋]]など複数の関係者が明言している。なお、この「ノールール勧告」は試合の数時間前に初めてペールワン陣営から突き付けられたという。単なる海外でのプロレス興行と思い込んでいた猪木陣営にとっては、この一方的な「潰し予告」ともいえる要求は全く不測の事態だった。
 
: 試合は両者が噛み付きや目突き(ペールワンは片目を失明したといわれている)などを応酬する凄惨なものになり、最終的には猪木がペールワンの腕を[[アームロック]]で脱臼させ勝利を収めた。勝利の瞬間、猪木は「折ったぞー!」と雄叫びをあげ、リング上でもみ合う両陣営の関係者を押しのけるように両腕を高々と振り上げた。このことについてミスター高橋は自著の中で「リング上で叫ぶ猪木の表情は、すでに正気のものではなかった」と述懐している。また、猪木のセコンドについていた藤原の弁によれば、ペールワンの勝利を信じて熱狂的な声援を送っていた観衆が一気に静まり返るのを感じ「もう俺たちは日本に帰れない」と絶望さえ覚えたという。猪木本人は興奮のあまりほとんど記憶がないとのことだが、ふと我に帰った瞬間[[小銃|ライフル]]を携えた兵士の姿が目に入り、急に恐ろしくなったと『[[リングの魂]]』内の談話で述べている。
 
: 試合後の猪木は憔悴しきった様子で「あいつ、(アームロックが極まっても)参ったしないから…」と語り、終始表情は曇ったままであった。
 
: なお猪木は引退後、この試合が収録されたDVDの中で当時のことを解説している。ペールワンの腕を脱臼させたことについては、「僕はレフェリーに『折れるぞ。試合は終わりだ』と言ったんですが試合を止めないし、相手(ペールワン)もギブアップしない。それで思い切って力を入れたら、腕がバキバキと音を立てて折れてしまった」と述べており、あくまで事態を終息させるための最終手段だったという。その一方でペールワンに仕掛けた目突きのように見える行為は「フェイスロックを極める際の流れがそう見えるだけで、反則(目突き)ではない」としている。
 
: この試合の結末が影響してか、ペールワンの兄であるアスラムと猪木が対戦する予定だった第2戦は中止になった。
 
; 1986年4月29日の[[前田日明]]対[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]
 
: [[UWF]]スタイルの確立によるムーブメントに危機感を覚えた[[新日本プロレス]]が、当時UWFの旗手とされた前田にアンドレとのセメントマッチを強行。試合開始からアンドレは全くプロレスに付き合わず、前田がタックルに来ると巨体を被せて押し潰そうとした。その様子に異変を感じた前田は試合途中から距離をとっての打撃に終始。この時点で前田はアンドレのセコンドに付いていた[[若松市政]]に「若松さん、(アンドレに止めるよう)言ってくださいよ」と言っていたといわれている。前田は自著『パワー・オブ・ドリーム』([[角川文庫]])で当時の状況を記しており、それによれば前田がセコンドに付いていた[[星野勘太郎]]に「本当にやりますよ。いいんですか」と尋ねたところ、星野は困惑した様子で「俺に訊くなよ」と答えたという。
 
:異様な膠着状態が続く中、観客からブーイングが起こり始め、リングサイドには試合に関係のない猪木が現れる。リング中央から動かないアンドレに対し、前田は膝頭に危険な蹴りを連発。最終的にアンドレはリングに寝転がったまま起き上がらなくなり、戦意喪失とみなされ試合終了。困惑した前田がセコンドに対し事情の説明を求めるという不可解な結末に終わった。前述の前田の自著には、アンドレはマット上に寝転んだ後に制するかのように両手を広げながら「It Is Not My Business」(俺が仕組んだことじゃない)と言ったという記述がある。
 
:シュートマッチ強行への経緯については諸説あり、当時の関係者の証言も断片的なものに留まり、また当事者のアンドレが故人となった現在では真相は不明。当時マッチメイクを担当していた[[ミスター高橋]]も自著の中で、特に新日サイドから指示されたことはなく、試合後もアンドレは何も答えてくれず、困惑するしかなかったと当時の胸中を明かしている。この試合について見解を表明しているのは当事者の一人である前田と、新日サイド側では現時点に於いての唯一の証言者である[[ミスター高橋]]のみと非常に少ない。前田は「新日サイドによる組織的な『潰し』」という説を唱えており、対して高橋は「[[UWF|UWFスタイル]]、特に[[キック]]攻撃を嫌悪していたアンドレが個人的感情から起こした行動」としている。アンドレも晩年、この試合について「前田はキックが好きだと聞いていた。だから好きなだけ蹴らせてやっただけさ」という旨の発言を残しており、何らかの思惑があったことを示唆している。
 
:なお、この試合の様子はテレビ収録大会にもかかわらず、<!-- 東海地区など一部の地方局で放映されただけで全国 ←当時「ワールドプロレスリング」は、東海地区や一部で噂のあった北海道地区は、共にキー局と同時ネット。わざわざこの試合だけを別の時間で放映する事も、まずあり得ない話。-->後日、全国ネットで放映された録画中継で、この試合のみが何の説明さえもなく放送されなかったことから『“内容が危険”であるという理由で放送されなかった』とのまことしやかな“伝説”がしばらく流布していたが、テレビ朝日の関係者によれば当時のスタッフからも「試合が成立しておらず、つまらない」という声があり、放映するコンテンツとして品質不足と判断されたためだという(当然その時点では“セメント”とは分かっていない)。そのためしばらくの間いわゆる「[[お蔵入り]]」の状態が続き、非公式の“流出”のビデオが出回るのみであったが、近年になってDVD化されるなどようやく“封印”が解かれた。
 
:その一方で、この試合の翌日に発行された[[東京スポーツ]]は、試合の一部始終を詳報。1面トップかつ写真入りで大きく扱った。「大巨人、ナゾの試合拒否」<!-- 東海地区の「中京スポーツ」における当時の赤見出し。「東京スポーツ」においては若干異なるかもしれない。-->などの見出しを付け、この試合を「異常事態」と捉えた報道になっていた。
 
; 1987年7月18日の[[神取忍]]対[[ジャッキー佐藤]]
 
: [[ジャパン女子プロレス]]でプロレスデビュー間もない頃の神取忍が、同団体のエース格だったジャッキー佐藤との試合でシュートを仕掛けた。諸説あるが、両者の意見の食い違いが主な原因とされている。なお、この試合前に神取は「今日はジャッキーさんを30秒で倒す」「あっという間に終わらせたらお客さんに申し訳ないから、初めの5分はジャッキーさんに合わせる。だから5分30秒かな」とシュート予告ともとれる発言をしていた。
 
: 試合開始から数分後、神取が突然ジャッキーの顔面を次々と殴打し始め、ジャッキーは防戦一方に陥る。この際、異変に気付いたリングサイドのレスラーたちから「神取、何をやってるんだ」「やめろ」と怒声が上がったという。さらに神取は戦意喪失状態のジャッキーを[[アキレス腱固め]]や[[袈裟固|袈裟固め]]などで執拗に攻め立て、最後は[[ダブルリストロック|チキンウィングアームロック]]で[[ギブアップ]]を奪った。なお、これはジャッキーが喫した生涯唯一のギブアップ負けである。後に神取はこの際のことを「関節技は全部本気で極めにいった」と明言している。試合終了後のジャッキーの顔面は無残に腫れ上がり、極められた腕は脱臼していた。ジャッキーはこの試合から程なくして引退しており、神取戦における惨敗が要因のひとつという評もある。
 
: 後年、神取はインタビュー内でこの試合について「ジャッキーさんの心を折るために仕掛けた」と語る一方、喧嘩マッチとして語り継がれていることに関しては「あの試合は喧嘩じゃない」と述べている。また、最盛期のジャッキーを知る北斗晶は恐ろしい性格であるジャッキーを恐怖に追い込んだ神取は相当強いと感じたそうである。
 
; 1991年4月1日の[[北尾光司]]対[[ジョン・テンタ]]
 
: [[SWS]]神戸大会で北尾が全くテンタと手を合わせようとせず、目潰しの構えをとるなどして威嚇した事件。結果としては何事も起きず未遂に終わっている(裁定は北尾の反則負け)。だがその直後に解説席のマイクを奪った北尾が「この八百長野郎!八百長ばっかりやりやがって」「お前ら、こんな試合見て面白いのか!」と暴言を発し<!-- 、それがテレビ生中継で全国にそのまま放映されたため、←当時のWOWOWによるSWSの中継は録画放送で、件の北尾対テンタは、試合の中身こそ放送したが、北尾の反則負け裁定が下ったところまでが流れ、「八百長発言」はカットされた-->た。この発言を翌日のスポーツ紙は問題視する形で報道、すぐにプロレス業界全体を巻き込む大問題へと発展した。なお北尾はこの試合を最後にSWSを解雇されている。この事件から数年後に[[WAR (プロレス)|WAR]]で再戦が行われたが、[[総合格闘家]]に転向していた(当時[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]にも参戦している)北尾は終始いきり立った様子で試合を進め、格闘技然とした展開となってしまい呆気ない幕切れとなった。
 
; 1993年の[[ジェンヌゆかり]]対[[遠藤美月]]
 
: 当時団体のキャラクター路線で一定の人気を得ていたLLPW(現:[[LLPW-X]])で宝塚風のキャラクターで再デビュー戦となったジェンヌゆかりに対し遠藤が試合途中からシュートを仕掛け一方的にジェンヌを蹴り上げる事態に発展、明らかにジェンヌに戦意損失の意思が見えても遠藤の攻撃は収まらず完勝に終わる。遠藤が日頃から団体のエンターテイメント路線に反発していたのに対し同じ格闘技路線のジェンヌがキャラクターレスラーに転向する意向を受け入れた事による制裁と思われる。しかしこの企画、テレビ番組のコラボレーションで作られた事により当日セコンドに立っていた番組出演者と遠藤が一触即発する結果となってしまった。
 
; 1993年の[[北斗晶]]対[[神取忍]]([[横浜アリーナ]]、[[両国国技館]])
 
: {{Main|北斗晶#全日本女子プロレス時代}}
 
: この試合は初めからシュートと公言していたせいかセメントマッチの中でも女子プロレス史における伝説の名勝負となった珍しい例である。
 
; 1999年1月4日の[[小川直也]]対[[橋本真也]]
 
: ライバル抗争を繰り広げられていた橋本真也に対し、小川直也が執拗な顔面へのパンチ(プロレスで顔面パンチは反則行為である)や、倒れた橋本の頭部を思い切り踏みつけるなどの攻撃を繰り返した試合。橋本も小川に対して反則技である[[脊椎]]への攻撃を仕掛けるなど報復を行った。
 
: 一方的に攻撃を受け続けた橋本はKO(裁定は無効試合)され、直後に小川が挑発的な言動を行ったことから場内は騒然となった。これにより試合後、両選手のセコンド同士による大規模な乱闘が発生。小川のセコンドをしていた[[村上和成]]は、[[飯塚高史]]に顔面を踏まれ一か月入院するほどの大怪我を負う。さらに事態は紛糾し、当時の現場監督の[[長州力]]が小川に詰め寄り怒声を上げる姿がテレビで放映された。この際に長州は小川に対して「これ(シュートで橋本を潰す行為)がお前のやり方か!」と繰り返した。また、橋本がKOされた際にゴングを鳴らしたのはリングアナの[[田中ケロ|田中秀和]]の独断によるものである(「何とか収拾を付けたかった」と本人が後に語っている)。
 
: なお橋本は試合後の検査で鼻骨を骨折していたことが判明、長期離脱を余儀なくされた。
 
; 2000年8月5日の[[プロレスリング・ノア]]旗揚げ戦での[[垣原賢人]]対[[大森隆男]]
 
: 垣原賢人が[[オープンフィンガーグローブ]]を着用して登場、対戦相手の大森隆男を一方的に叩きのめした試合。直後に垣原はノアを退団してしまい、原因や経緯など多くが不明のままである。なお垣原が引退直前にインタビューで語ったところによれば、試合後大森から「悪いけど僕にはああいうのは出来ない」と言われたことに自信を失い、退団を考えるようになったという。
 
; 2004年11月4日[[ダニエル・ピューダー]]対[[カート・アングル]]
 
: [[2004年]]10月、[[WWE]]の第4回タフイナフチャレンジで優勝し、WWEとの契約を獲得したダニエル・ピューダーは、11月4日、[[スマックダウン]]においてカート・アングルと対戦した。この際ピューダーはアングルにシュートを仕掛け、ガードポジションからの[[キーロック]]([[ダブルリストロック]])を極めるも、異変に気づいたレフェリーがピューダーの肩がマットに着いていると判断し素早く3カウント、ピューダーの[[ピンフォール]]負けを宣言した<ref>[http://web.archive.org/20061116045031/www.mmaweekly.com/absolutenm/templates/dailynews.asp?articleid=2834&zoneid=3 PUDER WANTS REAL FIGHT WITH KURT ANGLE] - mmaweekly.com、2006年10月26日、2010年5月23日閲覧。</ref>。ピューダーは[[2005年]]9月、WWEのコスト削減を理由に解雇され、[[総合格闘家]]へ転向した。
 
; 2011年4月28日[[イノキ・ゲノム・フェデレーション|IGF]]のチャンピオンシップトーナメント一回戦として行われた[[ジェロム・レ・バンナ]]対[[鈴川真一]]
 
: [[K-1]]ファイターのバンナが、元[[幕内]][[力士]]の鈴川の、張り手やタックルを全てかわしパンチやキックで計六回のダウンを奪い、最後は右フックで鈴川を失神させてKO勝ちした試合。この試合はバンナ側の要求と鈴川側の要求が合わず、KO、ギブアップのみにより勝敗の決まる[[異種格闘技]][[ルール]]で行われた。
 
; 2015年2月22日の[[世IV虎]]対[[安川惡斗]]
 
: [[スターダム]][[後楽園ホール]]大会のメインイベントで行われた[[ワールド・オブ・スターダム王座]]のタイトルマッチで、王者の世IV虎に対し、挑戦者の安川が顔面付近を殴ったことに激昂した世IV虎が、安川の顔面を拳打で執拗に攻撃し、安川が闘う意思を見せていたためレフリーは試合を止めず、危険と判断した安川のセコンドを務めた[[木村響子]]がタオルを投入し、世IV虎のTKO勝ちとなった試合。試合後に安川は都内の病院に救急搬送され、頬骨、鼻骨、左眼窩(か)底骨折、両目の網膜しんとう症の診断が下された。後日、この試合は世IV虎のTKO勝利から無効試合に変更され、顔面への過剰な反則攻撃を行った世IV虎はタイトル剥奪及び無期限出場停止の処分を受けた後、自ら引退。(なお、後に他団体で復帰)負傷した安川も、復帰をしたものの怪我の回復がおもわしくなく、ドクターストップがかかり引退と、両者ともに後味の悪い幕切れとなった。この試合に関しては、世IV虎の行為はもとより、明らかに実力差のあった選手同士に対してタイトルマッチを組んだスターダムに対しての批判や、危険な状態になっていたにもかかわらず、試合を止めなかったレフリーの[[和田京平]]に対しての批判も起こり、顔面を負傷した直後の安川の写真が[[週刊プロレス]]の表紙になった。また、後日フロントによる聞き取り調査で入団当初から両者は仲が悪く今回の挑戦や映画など最近の安川の抜擢が非常に面白くないことを世Ⅳ虎が漏らしていた、と言う事が解り仕事に身勝手な私情を持ち込みレスラーは元より一社会人としても問題がある。と糾弾され、社会的に問題視される事態となった。
 
 
 
=== ストーリー破り ===
 
; カーテンコール事件
 
: 1996年5月19日、WWFの興行でバックステージの派閥グループ[[クリック (プロレス)|クリック]]のメンバーが行ったストーリー破り。この事件当時[[スコット・ホール]]と[[ケビン・ナッシュ]]は[[WWF (プロレス)|WWF]]を離れてライバル団体の[[WCW]]に移籍することが決まっていた。この日のメインイベントで、ベビーフェイスの[[ショーン・マイケルズ]]は、ヒールのナッシュとのケージマッチを戦った。試合が終わるとすぐに、リングに上がったホールはマイケルズを抱擁した。ここまでは、両者ともにベビーフェイスであったため問題がなかった。しかしその後、マイケルズはリング上に横たわっていたナッシュにキスし、アンダーカードでヒールとして試合をした[[トリプルH|ハンター・ハースト・ヘルムスリー]](トリプルH)もリングにやってきてマイケルズやホールとハグを交わした。最終的には敗れてマットに倒れていたナッシュも加わり、4人で観客に向けて "カーテンコール" を行った。
 
:彼らのカーテンコールの行動は、当時、ベビーフェイスとヒールの関係は現実のもので彼らはリングの外においても友人ではないという幻想を維持したいと考えていたWWF首脳陣を憤慨させた。さらにWWF経営陣は、この興行をカメラで撮影していたファンがいたことを予期していなかった。この撮影テープは、翌年の1997年10月6日のロウ・イズ・ウォーで、マイケルズとヘルムスリーが、ビンス・マクマホンを怒らせる意図でストーリーライン上で使用された。マイケルズは当時WWF王者で、団体のトップスターの1人であったために罰せられなかった。ホールとナッシュはすぐにWCWに去ったため、残ったヘルムスリー1人だけに罰が下され、メインイベントのタイトルマッチを外されて前座の試合でジョバー役を回されるようになった。しかし彼は、この5ヶ月後にはWWF・IC王座を手に入れる。
 
 
 
; [[モントリオール事件]]
 
:1997年11月9日のWWFの特番サバイバー・シリーズでのブレット・ハート対ショーン・マイケルズのWWF王座を賭けた試合にて起こったストーリー破り。通常セメントマッチ及びストーリー破りは試合中にレスラーが行うものであるが、当事件は「団体側による」ストーリー破り(スキャンダルに巻き込むことでストイックなブレットの商品価値を落とそうとたくらんだ)という点が特徴。事件の衝撃は大きく、絶対的な悪名を得たチェアマンの[[ビンス・マクマホン]]とそれには歯向かう荒くれ者[[スティーブ・オースチン]]の抗争をはじめとするアティテュード路線がさらに推し進められることとなり、後のアメリカプロレス史に大きな影響を与えた。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[八百長]]
 
* [[ケーフェイ]]
 
* [[カール・ゴッチ]] - 日本プロレス界のシュートの概念に強く影響を与えた人物
 
 
 
{{相撲}}
 
 
{{DEFAULTSORT:かちんこ}}
 
{{DEFAULTSORT:かちんこ}}
 
[[Category:大相撲隠語]]
 
[[Category:大相撲隠語]]
 
[[Category:プロレス用語]]
 
[[Category:プロレス用語]]

2019/5/1/ (水) 22:50時点における最新版

ガチンコ

《相撲界の隠語から》

八百長ではない、まじめな勝負。真剣勝負。また、真剣に行う組み稽古。



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