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{{Otheruses|ユダヤ人の強制居住地区|アニメ『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』の登場人物|ドメル幕僚団#ゲットー}}
 
[[画像:Mauer Warschauer Ghetto.JPG|right|thumb|250px|現在も残る[[ワルシャワ・ゲットー]](実際のところは、第二次大戦でドイツに占領されるまでは強制居住区である「ゲットー」ではなく自由居住区である自治区「[[シュテットル]]」であった)の壁の一部]]
 
[[画像:Synagoge Kraków.jpg|right|thumb|250px|ポーランド、[[クラクフ・ゲットー]](実際のところは、第二次大戦でドイツに占領されるまでは強制居住区である「ゲットー」ではなく自由居住区である自治区「[[シュテットル]]」であった)、カジミエジュ地区のスタラシナゴーグ、博物館として公開されているもの。この付近で映画「シンドラーのリスト」のロケも行われた。]]
 
'''ゲットー'''(ghetto)は、[[ヨーロッパ]]諸都市内で[[ユダヤ人]]が強制的に住まわされた居住地区である。[[第二次世界大戦]]時、[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国に侵攻した[[ナチス・ドイツ]]がユダヤ人絶滅を策して設けた[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]もこう呼ばれる。
 
[[アメリカ合衆国]]などの大都市における[[社会的少数者|マイノリティ]]の密集居住地をさすこともある。
 
  
== 概要 ==
+
'''ゲットー'''(ghetto)
=== ゲットーとは ===
 
ゲットーの名称は、主に以下の4つの文脈で用いられるが、本来は、中世ヨーロッパにおいてユダヤ人が法律によって居住を強制された市街地区を指す言葉であった。本記事では主に、この中世ヨーロッパの諸都市に設けられたユダヤ人強制居住区域としてのゲットー (1.) 、ならびに、ナチス・ドイツによって復活された強制収容所としてのゲットー (2.) について記述する。アメリカ合衆国の移民系密集居住地区 (4.) に関しては、本記事中の節「[[ゲットー#その他のゲットー|その他のゲットー]]」または、[[スラム]]を参照されたい。
 
  
#中世の[[西ヨーロッパ|西欧]]・[[南ヨーロッパ|南欧]]諸国で、都市の中で[[ユダヤ人]]が強制的に住まわされた居住区。[[キリスト教徒]]の支配者の支配が及ばないという、宗教的な意味を持っていた。[[宗教弾圧]]の象徴。
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一つの都市内にあってユダヤ人を強制的に収容した居住区域。 16世紀以降ユダヤ教徒をキリスト教徒から隔離するゲットーが,フランクフルトアムマインなどにできた。周囲は壁で取巻かれ,門は夜間閉じられた。この中でユダヤ人はある程度自治権を得たが,人口の増加に伴う建物の立体的高密度化により不健康な[[スラム]]となった。 19世紀末までにはほとんど消滅したが,東ヨーロッパでは 20世紀まで存続した。第2次世界大戦中ナチスがワルシャワなどにつくったゲットーはユダヤ人絶滅を画した強制収容所。なお,アメリカにおける黒人居住区 (ハーレム) を黒人ゲットーなどと呼んだこともある。
#[[ドイツ]]が[[第二次世界大戦]]中[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国に侵攻した際に、ユダヤ人を強制的に移住させた地区。
 
#東欧の[[シュテットル]]や、ユダヤ人が自然と集住して[[コミュニティー]]を作った地区をこう呼ぶことがある。特に[[ロシア帝国]]の[[ユダヤ教徒居住区]]や[[チェルニウツィー]]、レンベルク(現[[リヴィウ]])といった大都市のユダヤ教徒地区は、様々なユダヤ教徒への[[差別]]化政策(居住地制限など)が採られたため、このような通称で呼ばれることがある。
 
#転じて、[[少数民族]]など特定の社会集団が住む地域を呼ぶことがある。[[アメリカ合衆国]]においては主に[[アフリカ系アメリカ人|アフリカン・アメリカン]](黒人)の居住区をさす。
 
 
 
=== ゲットーの語源 ===
 
「ゲットー」(ghetto)の語源については諸説ある。
 
 
 
*[[ヴェネツィア・ゲットー]]が設置された大砲鋳造所(ヴェネツィア方言で「Gheto」)に由来する<ref name="平凡社事典ゲットー">[[#平凡社事典|世界大百科事典の「ゲットー」の項目]]</ref>。
 
*[[ヘブライ語]]で「分離」を意味する「ghet」に由来する<ref name="平凡社事典ゲットー"/>。
 
*[[イタリア語]]で「小地区」を意味する「borghetto」に由来する<ref name="ワース15">[[#ワース|ワース、p.15]]</ref><ref name="ディモント53">[[#ディモント下|ディモント、下巻p.53]]</ref>。
 
*[[ドイツ語]]で「[[格子]]」を意味する「Gitter」に由来する<ref name="ワース15"/>。
 
 
 
=== ユダヤ人強制居住区域 ===
 
ゲットーが形成されたのは、文化的、宗教的に少数派である[[ユダヤ人]]が[[中世]][[ヨーロッパ]]において異質なものとしてみなされたためである。結果としてユダヤ人は多くの都市で厳しい規則のもとに置かれた。ゲットーは時勢によって性格を異にし、[[ヴェネツィア・ゲットー]]のように比較的裕福な住民が集まるものがあった一方で、ひどい貧困状態にあり人口増加にともなって街路が狭く住宅が高層密集するものも存在していた。[[ポグロム]]から身を守るために内側から、あるいは[[クリスマス]]や[[過越]]そして[[復活祭]]の際に[[ユダヤ人]]が出てこられないように外側から、ゲットーの周囲には壁が築かれた。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 起源 ===
 
古代の[[アレクサンドリア]]や[[ローマ]]などにはすでにユダヤ教徒の巨大居住区が存在していた。中世ヨーロッパ前期やイスラム圏でもユダヤ教徒居住区は存在した。しかしこれらは強制されてできたものではなく、ユダヤ人が自らの意思で集まって出来た居住区であった。何か制限が課せられるといったことも無かった<ref name="平凡社事典ゲットー"/>。
 
 
 
しかし1096年の[[第1回十字軍]]遠征以降、ヨーロッパでは[[十字軍]]遠征のたびにユダヤ人は迫害を受け、また社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされていった。13世紀後半以降、まずドイツでユダヤ人の強制隔離が実施されるようになった<ref name="平凡社事典ゲットー"/>。こうしてできたユダヤ人の強制隔離居住区は、周囲が壁で囲まれ、出入りが制限され、また黄色の印などユダヤ人であることを示すマークを付けさせられるなどの様々な制限が課せられていた<ref name="平凡社事典ゲットー"/>。
 
 
 
14世紀の[[ペスト]]大流行でペストを持ち込んだとされたユダヤ人への迫害が強まり、ヨーロッパ中でユダヤ人の隔離政策が取られるようになっていき、ユダヤ人隔離居住区は教会から離れた場所に設けられることが一般化した<ref name="平凡社事典ゲットー"/>。この頃にできたユダヤ人隔離居住区としては[[フランクフルト・アム・マイン]]の[[フランクフルト・ゲットー|ユーデンガッセ]]や[[プラハ]]の[[ヨゼフォフ]]が特に有名である。もっともこれらは創設当時ゲットーとは呼ばれていなかった<ref name="平凡社事典ゲットー"/>。
 
 
 
=== ゲットーの法制化と拡大 ===
 
[[Image:Great fountain of the ghetto.jpg|thumb|250px|ローマのゲットーの噴水(16世紀建造)]]
 
はじめてゲットーと呼ばれるようになったユダヤ人隔離居住区は[[ヴェネツィア共和国]]の[[ヴェネツィア・ゲットー]]である。1555年には反ユダヤ主義者のローマ教皇[[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]]がヴェネツィアのゲットーを真似て[[ローマ・ゲットー]]を創設した。これを機に[[教皇領]]中にゲットーが創設されるようになり、1562年には「ゲットー」の名称が公式に法文化された<ref name="ジョンソン上406">[[#ジョンソン上|ジョンソン、上p.406]]</ref>。
 
 
 
その後、ヨーロッパでは、数世紀にわたって、大半の国々で同様のゲットーが築かれることになった。
 
 
 
この頃のゲットーは、ほとんどが石壁に囲まれ、夜になると外部との門が閉じられ、昼でもユダヤ人がゲットーの外に出る際にはユダヤ人であることを示す印を身につけることが強制された。また、ゲットーの内部では、ユダヤ人はある程度の自治権を得ていたものの、人口の増加に伴う居住地の立体化、高密度化により衛生状態が次第に悪化し、スラム化する地域も数多く現れた。
 
 
 
=== ナポレオンによるゲットーの解放 ===
 
[[フランス革命]]後、18世紀末以降西ヨーロッパ諸国では、[[フランス革命]]ならびに当時の自由主義運動を背にした[[ナポレオン]]がユダヤ人解放とともに各地のゲットーを解放した。1870年ごろにはローマのゲットーが、ヨーロッパに残る、法文による最後のゲットーとなっていた。しかし、ナポレオン失脚後、再びユダヤ人の生活には制限がかけられるようになり、アメリカへ移住するユダヤ人が大量に生まれることになった。また、他方でロシアや東欧諸国のゲットーは20世紀にいたるまで存続した。
 
 
 
=== ポーランド ===
 
特筆すべきは、第二次大戦でドイツに占領されるまで[[ポーランド]]にはユダヤ人自治区「シュテットル」こそあれ、「ゲットー」というものがまったく存在していなかった事実であろう。右上の写真のクラクフのカジミェシュ地区のように、シュテットルのすぐそばに国家にとって大事な立場にある教会が建てられていることもあった。13世紀の[[カリシュの法令]]以来ヨーロッパの他国と異なり民族的に寛容な政策を国家・社会の根幹となす伝統としていたポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。その旧市街でさえもユダヤ人居住制限が近世にどんどん緩和されていった。
 
 
 
=== ナチスによるゲットーの復活 ===
 
[[第二次世界大戦]]時、[[ナチス・ドイツ|ナチス]]はユダヤ人を非常に狭い地域に押し込めるために、[[東ヨーロッパ|東欧]]諸都市に「ゲットー」を復活させた。[[1939年]]以降、ナチスは[[ポーランド]]国内のユダヤ人を大きな都市の特定地域に移動させ始め、[[1940年]]10月には占領下最大規模の[[ワルシャワ・ゲットー]]が設けられるなど、多くのゲットーが[[1940年]]から[[1941年]]にかけて設定された。
 
 
 
その後、ゲットーは[[ホロコースト]]における事実上の[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]となった。ゲットーの生活は過酷を極め、伝染病や飢餓などによって数多くのユダヤ人がその命を落とした。[[1942年]]、ナチスはホロコーストの[[絶滅収容所]]へ強制移送を始める。ヨーロッパ各地のユダヤ人が東欧のゲットーもしくは直接に絶滅収容所へ移送され、ワルシャワ・ゲットーからだけでも52日間で30万人もの人が[[トレブリンカ強制収容所]]へ移送された。[[ワルシャワ・ゲットー蜂起]]をはじめとして、いくつかのゲットーでは武装蜂起が発生した。しかしどれも失敗に終わり、ゲットーのユダヤ人はほぼ完全に殺害された。
 
 
 
== ナチスによるゲットー ==
 
[[第二次世界大戦]]中の[[1940年]]以降、[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国に侵攻した[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]は、占領地にゲットーを設けて、現地のユダヤ人を強制的に移住させた。特に[[ポーランド]]に[[侵攻]]・併合した後、[[ワルシャワ]]のユダヤ人に居住を強制したゲットーは[[ワルシャワ・ゲットー]]の名前で知られている。ワルシャワ・ゲットーは38万の住人を抱えるナチス占領下ヨーロッパで最大のゲットーとなった。ワルシャワ・ゲットーのほかにも、当時は数多くのゲットーが存在していた。
 
 
 
ゲットーは出入り禁止とされ、ユダヤ人たちは、[[ダビデの星]]を腕などにつけさせられ、1942年の移送と1943年の親衛隊少将[[ユルゲン・シュトロープ]]によるゲットー掃討で[[トレブリンカ]]や[[オシフィエンチム|アウシュヴィッツ]]等のユダヤ人[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]に移送されるまでそこに住んだ。監視が厳しく、外は高く厚い壁と脱出防止の電線や有刺鉄線が敷かれ、逃亡を見つけられたユダヤ人はみな射殺された。
 
 
 
ゲットーの中は悲惨な状態であった。ワルシャワでは人口の30%が市域の2.4%に住まわされ、平均して一部屋に9.2人が暮らす密集具合であった。かつて5家族が生活していた空間に700人が暮らすゲットーもあった。ワルシャワで配給される食料は、ポーランド人一人当たり669k[[カロリー|cal]] (2,800k[[ジュール|J]]) 、ドイツ人一人当たり2,613kcal (10,940kJ) であったのに対し、ユダヤ人一人当たりでは253kcal (1,060kJ) であった。しかし外出することが許されなかったためこの食料に頼るしかなかった。下水設備などはほとんどなく、密集した生活環境と極端な食料不足により、伝染病の流行や飢餓で何十万もの人が死に至った。それでも、中にいたユダヤ人たちは少しでも前の生活に戻ろうと、学校や診療所を設けたり、コンサートを開いたりもした。ゲットーの外では非ユダヤ系ポーランド人たちによって「[[ジェゴタ]]」の暗号で呼ばれる秘密組織「[[ジェゴタ|ユダヤ人救済委員会]]」が設立され、彼らはありとあらゆる手段でゲットーのユダヤ人たちを支援した。[[イレーナ・センドラー]]や、1990年代にポーランドの外相となる若き日の[[ヴワディスワフ・バルトシェフスキ]]もジェゴタの中心メンバーで、ゲットー内のユダヤ人を助けようと必死に活動した。(ユダヤ人救済活動が発覚すればドイツ人によってその場で銃殺されることになっており、自分だけでなく家族もドイツ人によってすべて殺される可能性があった)。
 
 
 
子どもの権利条約の元になった「子どもの権利」の提唱者、[[ヤヌシュ・コルチャック]]とその[[孤児院]]の子どもたちもここから、[[トレブリンカ強制収容所]]に送られた。
 
 
 
== その他のゲットー ==
 
{{seealso|スラム}}
 
[[スラム|大都市に存在する貧困層の密集居住地域]]を「ゲットー」と呼ぶことがある。
 
 
 
===アメリカ合衆国===
 
[[アメリカ合衆国]]では、[[ニューヨーク]]や[[サンフランシスコ]]など大都市にゲットーと呼ばれる地域が存在する。居住者は貧困層に属する[[アフリカ系アメリカ人]]([[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]など)や[[プエルトリコ|プエルトリコ人]]、[[ラテン系アメリカ人]]、[[アジア系アメリカ人]]の人々である。[[シカゴ学派 (社会学)|シカゴ学派]][[都市社会学]]者の[[ルイス・ワース]]による研究をきっかけとして、これらの移民系密集居住地区が「ゲットー」と呼ばれるようになった。
 
 
 
=== フランス ===
 
[[フランス]]では警察と若者の衝突が頻発した1980年代末より、社会の分裂をセンセーショナルに報じる[[マスメディア]]によって、少年による大規模な[[非行]]事件など治安問題が生じた[[低家賃住宅]]区域に対して、ゲットーという言葉が使用されるようになった<ref name="Paugam"> セルジュ・ポーガム『貧困の基本形態:社会的紐帯の社会学』川野英二、中條健志訳 新泉社 2016 ISBN 9784787715111 pp.232-242.</ref>。アメリカのゲットーと同様に、地域の住人には貧困層や労働者階級が含まれるが、アメリカのゲットーが40万から100万人の住民が居住するのに対し、フランスのゲットーの規模はその10分の1を超えるものは無い<ref name="Paugam"/>。また、フランスのゲットーは概ね都市構造が周囲と隔離されてはおらず、民族的にも多様である。
 
 
 
=== ジャマイカ ===
 
[[ジャマイカ]]では首都[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]に[[トレンチタウン]]などのゲットーと呼ばれる地域がある。
 
 
 
===ニジェール===
 
[[サブサハラ]]から[[サハラ砂漠]]以北の国々を目指す経済難民が集積する[[難民キャンプ]]をゲットーと表現することがある<ref>{{Cite news
 
|url=http://topics.jp.msn.com/world/general/article.aspx?articleid=2164103
 
|title=サハラ砂漠に92人の遺体、行き倒れたニジェール難民
 
|work=AFP
 
|publisher=フランス通信社
 
|date=2013-11-02
 
|accessdate=2013-11-10
 
}}</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|和書|author=[[ポール・ジョンソン (歴史家)|ポール・ジョンソン]]|translator=[[阿川尚之]]、[[山田恵子 (文学者)|山田恵子]]、[[池田潤 (ヘブライ語学者)|池田潤]]|year=1999|title=ユダヤ人の歴史 上巻|publisher=[[徳間書店]]|isbn=978-4198610685|ref=ジョンソン上}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[マックス・ディモント]]|translator=[[藤本和子]]|year=1984|title=ユダヤ人:神と歴史のはざまで 下巻|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022593665|ref=ディモント}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[滝川義人]]|year=1994|title=ユダヤを知る事典|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=978-4490103632|ref=滝川}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ルイス・ワース]]|translator=[[今野敏彦]]|year=1981|title=ゲットー:ユダヤ人と疎外社会|publisher=[[マルジュ社]]|isbn=978-4896160826|ref=ワース}}
 
*{{Cite book|和書|title=[[世界大百科事典]]|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582027006|ref=平凡社事典}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[徳永恂]]|title=ヴェニスからアウシュヴィッツへ|year=2004|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061596665|ref=講談社学術文庫}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ユダヤ人コミュニティー]]
 
* {{仮リンク|フデリア|es|judería}}
 
* [[カイ]]{{要曖昧さ回避|date=2016-11}} call
 
* [[ヴェネツィア・ゲットー]]
 
* [[ローマ・ゲットー]]
 
* [[メッラーフ]]
 
* [[シュテットル]]
 
* [[ユダヤ教徒居住区]]、[[ユダヤ人居住区]](ロシア帝国) [[:en:Jewish Pale of Settlement|Jewish Pale of Settlement]]
 
* [[ワルシャワ・ゲットー蜂起]]
 
* [[スラム]]
 
** [[サウス・セントラル]]
 
* [[ファヴェーラ]]
 
* [[唐人屋敷]]
 
* [[出島]]
 
 
 
{{都市社会学}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:けつとお}}
 
{{DEFAULTSORT:けつとお}}
 
[[Category:ゲットー|*]]
 
[[Category:ゲットー|*]]

2018/12/29/ (土) 19:48時点における最新版

ゲットー(ghetto)

一つの都市内にあってユダヤ人を強制的に収容した居住区域。 16世紀以降ユダヤ教徒をキリスト教徒から隔離するゲットーが,フランクフルトアムマインなどにできた。周囲は壁で取巻かれ,門は夜間閉じられた。この中でユダヤ人はある程度自治権を得たが,人口の増加に伴う建物の立体的高密度化により不健康なスラムとなった。 19世紀末までにはほとんど消滅したが,東ヨーロッパでは 20世紀まで存続した。第2次世界大戦中ナチスがワルシャワなどにつくったゲットーはユダヤ人絶滅を画した強制収容所。なお,アメリカにおける黒人居住区 (ハーレム) を黒人ゲットーなどと呼んだこともある。



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