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{{Redirect|象牙海岸}}
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'''コートジボワール共和国'''(コートジボワールきょうわこく)、通称'''コートジボワール'''
{{基礎情報 国
 
| 略名 =コートジボワール
 
| 日本語国名 =コートジボワール共和国
 
| 公式国名 ='''{{Lang|fr|République de Côte d'Ivoire}}'''
 
| 国旗画像 =Flag of Cote d'Ivoire.svg
 
| 国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of Ivory Coast.svg|120px|コートジボワールの国章]]
 
| 国章リンク =([[コートジボワールの国章|国章]])
 
| 標語 ={{lang|fr|''Union, Discipline, Travail''}}<br>(フランス語: 統一、規律、労働)|
 
| 位置画像 =Côte d'Ivoire (orthographic projection).svg
 
| 公用語 =[[フランス語]]
 
| 首都 =[[ヤムスクロ]]
 
| 最大都市 =[[アビジャン]]
 
| 元首等肩書 =[[コートジボワールの大統領|大統領]]
 
| 元首等氏名 =[[アラサン・ワタラ]]
 
| 首相等肩書 =[[コートジボワールの首相|首相]]
 
| 首相等氏名 ={{ill2|アマドゥ・ゴン・クリバリ|en|Amadou Gon Coulibaly}}
 
| 面積順位 =67
 
| 面積大きさ =1 E11
 
| 面積値 =322,460
 
| 水面積率 =1.4%
 
| 人口統計年 =2014
 
| 人口順位 =
 
| 人口大きさ =1 E7
 
| 人口値 = 22,671,331
 
| 人口密度値 = 70
 
| GDP統計年元 =2008
 
| GDP値元 =10兆4,850億<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=86&pr.y=11&sy=2008&ey=2008&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=662&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=])</ref>
 
| GDP統計年MER =2008
 
| GDP順位MER =82
 
| GDP値MER =235億{{R|economy}}
 
| GDP統計年 =2008
 
| GDP順位 =92
 
| GDP値 =340億{{R|economy}}
 
| GDP/人 =1,639{{R|economy}}
 
| 建国形態 =[[独立|独立宣言]]
 
| 確立形態1 =[[フランス]]より
 
| 確立年月日1 =[[1960年]][[8月7日]]
 
| 通貨 =[[CFAフラン]]
 
| 通貨コード =XOF
 
| 時間帯 =0
 
| 夏時間 =なし
 
| 国歌 =[[アビジャンの歌]]
 
|ISO 3166-1 = CI / CIV
 
| ccTLD =[[.ci]]
 
| 国際電話番号 =225
 
| 注記 =
 
}}
 
  
[[ファイル: Côte d'Ivoire-carte.png|300px|サムネイル|コートジボワールの地図]]
+
《フランス語で象牙海岸の意》アフリカ大陸西部、ギニア湾に面する国。正称、コートジボワール共和国。首都ヤムスクロ。最大の都市はアビジャン。コーヒー・ココアを産する。1893年フランスの植民地となり、1960年に独立。名は、かつてこの地域の沿岸から象牙が多く搬出されたことに由来する。人口2106万(2010)。コートジボアール。
'''コートジボワール共和国'''(コートジボワールきょうわこく)、通称'''コートジボワール'''は、[[西アフリカ]]に位置する[[共和制]][[国家]]。東に[[ガーナ]]、北に[[ブルキナファソ]]、[[マリ共和国|マリ]]、西に[[ギニア]]、[[リベリア]]と国境を接し、南は[[大西洋]]に面する。首都は[[ヤムスクロ]](ただし、実質上の首都機能は旧首都の[[アビジャン]]が担っている)。
 
 
 
かつて日本では意訳による[[国名の漢字表記一覧|漢字表記]]で「'''象牙海岸共和国'''」(ぞうげかいがんきょうわこく)と呼ばれていたが、[[#国名|後述]]の理由から現在は使用されない。
 
 
 
== 国名 ==
 
[[国名]]は[[公用語]]の[[フランス語]]を正式名称としており、{{Lang|fr|(la) '''République de Côte d'Ivoire'''}}('''レピュブリック・ドゥ・コットディヴワール''')<ref>アポロ仏和辞典([[角川書店]] ISBN 4-04-012700-5)による発音のカタカナ表記より</ref>。[[通称]]が {{Lang|fr|(la) ''Côte d'Ivoire''}}({{IPA-fr|kot diˈvwaʁ|lang}})。フランス語では、国名・[[地名]]などの[[固有名詞]]が2つ以上の[[単語]]から成る場合はトレデュニオン([[ハイフン]])で繋げることになっているため ''Côte-d'Ivoire'' との表記も見られるが、同国政府はトレデュニオンを挟まないものを正式名称としている。
 
 
 
''Côte d'Ivoire'' は、Côte([[海岸]])、d'(「〜の」を意味する [[wikt:de#フランス語|de]] の[[エリジオン]])、Ivoire([[象牙]])、すなわち「'''象牙の海岸'''」という意味である。[[独立]]以前の植民地時代から、この地域にある海岸の名称として以下のように各国語への意訳が行われていた。
 
 
 
{| class="wikitable" style="font-size:small"
 
|-
 
!言語名!!表記!!カナ転写
 
|-
 
|[[日本語]]||象牙海岸||ぞうげかいがん
 
|-
 
|[[中国語]]||{{Lang|zh|象牙海岸}}<ref group="注">[[簡体字]]・[[繁体字]]とも同表記。</ref>||シャンヤーハイアン
 
|-
 
|[[朝鮮語]]||상아해안||サンアヘアン
 
|-
 
|[[英語]]||Ivory Coast||アイヴォリ・コウスト
 
|-
 
|[[ドイツ語]]||{{lang|de|Elfenbeinküste}}||エルフェンバインキュステ
 
|-
 
|[[オランダ語]]||{{lang|nl|Ivoorkust}}||イヴォールクスト
 
|-
 
|[[スペイン語]]||{{Lang|es|Costa de Marfil}}||コスタ・デ・マルフィル
 
|-
 
|[[ポルトガル語]]||{{Lang|es|Costa do Marfim}}||コスタ・ド・マルフィム
 
|-
 
|[[イタリア語]]||{{Lang|it|Costa d'Avorio}}||コスタ・ダヴォーリョ
 
|-
 
|[[ロシア語]]||{{Lang|ru|Бе́рег Слоно́вой Ко́сти}}||ベーレグ・スラノーヴァイ・コースティ
 
|-
 
|[[アラビア語]]||{{Lang|ar|ساحل العاج}}||サヒル・アレアージュ
 
|}
 
 
 
独立後も各国はこれらの意訳を[[外名]](エクソニム)として用いていたが、[[1985年]]に[[フランコフォニー国際機関]]が[[フランス語]]の国名"Côte d'Ivoire"を意訳しないよう求める決議を行い、翌[[1986年]]から政府が意訳による外名の使用廃止とフランス語国名の採用を各国に要請している。そのため、現在の[[英語]]表記はフランス語に従って、{{Lang|en|(the) ''Republic of Côte d'Ivoire''}}(リ'''パ'''ブリク・ァヴ・'''コ'''ウトゥ・ディヴ'''ワ''')、通称が {{Lang|en|''Côte d'Ivoire''}}({{IPA-en|ˌkoʊt diˈvwɑr}})とされ、[[アメリカ合衆国連邦政府]]もこの呼称を採用しているが<ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/iv.html COTE D'IVOIRE - THE WORLD FACTBOOK]([[中央情報局|CIA]]) ''2016-07-21閲覧''。</ref>、[[英語圏]]の民間レベルでは今なお意訳の"Ivory Coast"が頻繁に見られる。[[中国語]]の場合、外交関係を有する[[中華人民共和国]]政府では[[転写 (言語学)|音韻転写]]の'''{{Lang|zh|科特迪瓦}}'''(クォウトゥディウワー)を用いているが<ref>[http://cs.mfa.gov.cn/zggmcg/ljmdd/fz_648564/ktdw_650117/ 科特迪瓦](中国領事服務網) ''2016-07-21閲覧''。</ref>、外交関係を有しない[[中華民国]]([[台湾]])政府では現在も'''{{Lang|zh-tw|象牙海岸}}'''(シャンヤーハイアン)が用いられている<ref>[http://www.mofa.gov.tw/CountryInfo.aspx?CASN=D33B55D537402BAA&n=1C6028CA080A27B3&sms=26470E539B6FA395&s=4933DB35000610C4 象牙海岸共和國]([[中華民国外交部]]) ''2016-07-21閲覧''。</ref>。国民・形容詞の英語表記はIvorian。
 
 
 
 
 
独立後の[[近代オリンピック|オリンピック]]初参加となった[[1964年東京オリンピックの開会式]]では、英語名の"Ivory Coast"を[[片仮名]]へ転写した「アイボリーコースト」の名称で入場した<ref>オリンピック東京大会組織委員会(編)『第十八回オリンピック競技大会公式報告書』上巻([[1966年]]){{NCID|B A65954655}}, p230</ref>。その6年後の[[1970年]]に開催された[[日本万国博覧会|大阪万博]]では「象牙海岸館」の名称で[[パビリオン]]を出展している<ref>{{Cite web|title=象牙海岸館|url=http://www.expo70-park.jp/cause/expo/cotedivoire/|publisher=[[万博記念公園]]|accessdate=2017-12-14}}</ref>。1986年にコートジボワール政府から日本政府へ外名の変更を要請されて以降、[[外務省]]大臣官房総務課が内規として定める『国名表』で「象牙海岸」に加え「コートジボワール」も選択表記という形で公文書への使用が可とされた。これを受けて外務省編集の(財)世界の動き社『[[世界の国一覧表]]』が「象牙海岸」から「コートジボワール」に表記を変更し、[[日本郵便]]の宛先表記や[[日本放送協会|NHK]]を始めとするマスメディア各社、民間の書籍でも「コートジボワール」が使用されるようになっている。それ以降も法文上はなお「象牙海岸共和国」が使用されていたが、[[2003年]]に国名の日本語標準表記の根拠法令とされる[[在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律]](在外公館設置法)別表1の改正で当時は既に一般的でなくなっていた他の国名表記と合わせて見直しが実施され、法文上の表記に関しても「象牙海岸」を廃して「コートジボワール」に統一された<ref>[http://www.meti.go.jp/policy/anpo/topics/country/country.pdf 輸出貿易管理令等における国名表記の変更について]</ref>。これは政体の変革等に伴う変更を別にすれば、日本語における国名の標準表記が変更された初めての例である<ref group="注">2016年現在、日本政府が同様に外国政府から個別に受けた要請に基づいて在外公館設置法の別表改正により外名を変更したのは、[[2015年]]4月に「グルジア」を「[[ジョージア (国)|ジョージア]]」に変更した事例と合わせ2例である。</ref>。
 
 
 
2003年(平成15年)に日本で制定された在外公館設置法の別表1改正以降の日本語表記は'''コートジボワール共和国'''、通称が'''コートジボワール'''。一部の地図帳や社会科の教科書、教育書籍等の文献では語感の都合から「コートジボ'''ア'''ール」という表記ゆれも見られる。日本語では[[片仮名]]表記の字数が8文字と多くなるため「'''コートジ'''」と略されることもあるが、駐日コートジボワール大使館は「コートジボワールという国名に残念ながら、略称は存在しない。コートジボワールとそのまま表記してほしい」としており、在コートジボワール日本大使館は、関係者間で何について話しているか分かっているという前提で「コートジ」と略すことはあるものの、公式な略称ではないとしている<ref>[http://thepage.jp/detail/20140606-00000004-wordleaf コートジボワール どう略せばいい?] - THE PAGE、2014年6月6日</ref>。
 
 
 
== 歴史 ==
 
{{main|{{仮リンク|コートジボワールの歴史|en|History of Ivory Coast}}}}
 
 
 
=== 象牙の海岸 ===
 
{{main|en:Gyaaman|アシャンティ王国|en:Kong Empire|en:Baoulé people|アンイイ族|en:Kingdom of Sanwi}}
 
 
 
[[15世紀]]に[[ポルトガル]]、[[イギリス]]、[[オランダ]]など[[ヨーロッパ]]<!-- 本義的な「西ヨーロッパ」には限定されない -->の貿易船が[[奴隷]]と[[象牙]]の売買に来航した。{{仮リンク|黄金海岸 (アフリカ)|label=黄金海岸|en|Gold Coast (region)}}<!-- ガーナの歴史とはやや異なる観点があるはずで、日本語版でも立項の余地はあると思われる -->、[[胡椒海岸]](穀物海岸)、[[奴隷海岸]]などとともに、この地には'''象牙の海岸'''('''Côte d'Ivoire''')という名が付けられた。
 
 
 
[[17世紀]]半ばに[[フランス]]が西アフリカ経営に乗り出した。
 
 
 
=== フランス領西アフリカ ===
 
[[画像:Aouabou-Traité-1892.jpg|サムネイル|協定に調印する[[フランス領西アフリカ|仏領西アフリカ]]の{{仮リンク|Louis Gustave Binger|en|Louis Gustave Binger}}([[1892年]])]]
 
{{main|フランス領西アフリカ}}
 
 
 
[[1843年]]から[[1844年]]に[[:en:Louis Édouard Bouët-Willaumez]]が[[グラン・バッサム]]の王と条約を締結して保護国とし、徐々に沿岸部から内陸部へと支配領域を拡大した。
 
 
 
[[:en:Ashanti–Fante War]]([[1806年]] - [[1807年]])、[[:en:Ga–Fante War]]([[1811年]])、[[:en:Ashanti–Akim–Akwapim War]]([[1814年]] - [[1816年]])、[[:en:Anglo-Ashanti wars]]([[1823年]] - [[1831年]]、[[1863年]] - [[1864年]]、[[1873年]] - [[1874年]]、[[1895年]] - [[1897年]])、[[:en:War of the Golden Stool]]([[1900年]])。
 
 
 
[[アフリカ分割]]が始まると、[[1893年]]にフランスの[[植民地]][[フランス領西アフリカ]]となり、1904年に[[アビジャン]]([[1983年]]まで[[首都]])が建設された。全土の制圧は[[1917年]]にまでもつれ込んだ。
 
 
 
=== 独立と成長 ===
 
[[画像:Houphouet-Boigny.jpg|180px|サムネイル|フェリックス・ウフェ=ボワニ大統領。親[[西側諸国|西側]]政策でコートジボワールの経済成長を実現した。]]
 
{{main|en:History of Ivory Coast (1960–1999)}}
 
[[シャルル・ド・ゴール]]仏大統領の植民地放棄の流れの中で、[[1958年]][[12月4日]]に[[フランス共同体]]自治国となり、[[1960年]][[8月7日]]に正式独立、初代大統領にはコートジボワール民主党(PDCI)の[[フェリックス・ウフェ=ボワニ]]が就任した。PDCIによる[[一党制]]とウフェ=ボワニ大統領のカリスマ性によって政治は安定し、開放政策が採られ、[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を遂げ、その発展は「[[イボワールの奇跡]]」({{lang-en-short|Ivorian miracle}})と呼ばれた。
 
 
 
[[冷戦]]終結に伴う国際的な民主化の流れの中で、[[1990年]]10月に初の複数候補による大統領選が行われ、ウフェ=ボワニ大統領が7選。11月には初の複数政党制での総選挙が実施されたが、PDCIが圧勝したが、イボワール人民戦線(FPI)など[[野党]]も議席を獲得した。
 
 
 
[[1993年]]にウフェ=ボワニ大統領が在職33年で死去すると、憲法上の規定に則って、国民議会議長でPDCI党員の[[コナン・ベディエ]]が第2代大統領に就任した。[[1995年]]10月の大統領選では、主要野党がボイコットするなか、ベディエ大統領が圧勝。11月の総選挙でPDCIが絶対多数を確保した。
 
 
 
=== クーデター ===
 
[[1999年]][[12月24日]]、現職に不満を持った[[軍隊|軍]]の[[ロベール・ゲイ]]元参謀長らが[[クーデター]]を強行し、翌日には軍事政権「国家国民救済委員会」を設置、[[2000年]]1月にゲイが第3代大統領に就任した。5月にゲイ大統領は民政復帰に向け、新[[憲法]]制定のための国民投票や大統領選、議会選を順次実施する方針を発表した。7月に新憲法草案が国民投票で承認され、[[10月22日]]には大統領選も実施されたが、軍事政権は集計作業を中断させてゲイ大統領の当選を一方的に発表した。しかし、市民らの抗議行動でゲイは逃亡し、[[10月26日]]にはFPIの[[ローラン・バグボ]]が第4代大統領に就任した。バグボ大統領は[[10月27日|27日]]にFPI選挙対策幹部の[[ンゲサン・アフィ]]([[:en:Pascal Affi N'Guessan|en]])を[[首相]]に指名、挙国一致内閣が成立したが、共和連合(RDR)は新政府に参加しなかった。
 
 
 
[[2002年]]4月、ゲイによるクーデターでフランスに亡命したベディエ元大統領がPDCI党首に再選された。[[6月29日]]には[[ブルキナファソ]][[国籍]]と見なされて大統領選などへの立候補を拒否されたRDR党首の[[アラサン・ワタラ]]元首相がコートジボワール国籍を取得し、大統領選へ出馬するものと考えられた。
 
 
 
=== 第1次コートジボワール内戦 ===
 
[[ファイル:Côte d'Ivoire ZDC.png|260px|thumb|right|コートジボワール内戦での南北分断の構図。]]
 
{{main|{{仮リンク|第1次コートジボワール内戦|en|First Ivorian Civil War}}}}
 
 
 
[[2003年]][[9月19日]]、バグボ大統領の軍機構改革で退役を迫られたことなどを不服とする軍人ら約750人による反乱軍「{{仮リンク|コートジボワール愛国運動|fr|Mouvement patriotique de Côte d'Ivoire|en|Patriotic Movement of Côte d'Ivoire}}」(MPCI)が、アビジャンやブアケなど主要都市で蜂起した({{仮リンク|第1次コートジボワール内戦|en|First Ivorian Civil War}})。政府軍との戦闘によって、反乱軍の黒幕と見られるゲイ前大統領が死亡。一方の政府はドゥドゥ内相が殺害され、アミチア・スポーツ相も身柄を拘束され、[[9月22日|22日]]までに戦闘による死者は270人、負傷者は300人に上った。22日にフランスは自国民らの保護を目的に国軍をコートジボワールへ派遣し、[[9月27日|27日]]までに日本人11人を含む1,500人を救出した。
 
 
 
[[9月29日|29日]]には[[西アフリカ諸国経済共同体]](ECOWAS)が[[ガーナ]]の[[アクラ]]で緊急首脳会議を開き、政府軍と反乱軍の仲裁に乗り出すことを決めた。バグボ大統領は[[10月12日]]にクアシ国防相を解任し、自ら国防相を兼任すると発表。対する反乱軍は[[10月17日|17日]]にブアケで[[セネガル]]などの調停に応じて[[停戦協定]]に調印、政府側も停戦に応じた。ECOWASは[[10月26日|26日]]に停戦監視のため西アフリカ諸国平和維持軍(ECOMOG)を派遣することで合意し、[[11月]]には政府と反乱軍が[[トーゴ]]の[[ロメ]]で和平交渉を開始した。[[11月28日]]に西部のマン周辺で{{仮リンク|正義平和運動|fr|Mouvement pour la justice et la paix|en|Movement for Justice and Peace}}(MJP)や{{仮リンク|イボワール大西部人民運動|fr|Mouvement populaire ivoirien du Grand Ouest|en|Ivorian Popular Movement of the Great West|label=大西部人民運動}}(MPIGO)を名乗る反政府勢力が政府軍と交戦、[[11月29日|29]]〜[[11月30日|30日]]にかけてはフランス軍とも衝突して、反政府勢力の約10人が死亡し、フランス軍も兵士1人が負傷する事件が発生したが、[[2003年]]1月に[[パリ]]郊外で開かれた和平会議で3つの反政府勢力、野党の各代表が暫定政府発足と内戦終結の和平案に合意し、7月には双方が「[[停戦]]」を宣言した。
 
 
 
この内戦の段階で反乱軍[[コートジボワール新勢力]](FN)が急速に勢力を伸ばし、北部の地域を占領して支配下に置いた。政府は病院関係者や教師に対して、FN支配地域からの移動を命令したため、北部では医療・教育が崩壊し、衛生環境悪化など人道危機に直面している。「停戦」後も政府とFNの対立は続いて南北の分断は固定化し、国民の移動は禁じられた。
 
 
 
[[2004年]]10月にFNが挙国一致内閣より離脱した。政府軍は[[11月4日]]にFN占領地域を空爆、[[11月6日|6日]]に政府軍が[[ブアケ]]の[[フランス軍]]を誤爆し、9名の仏軍兵士が死亡した。フランス軍は報復として、アビジャン空港などに駐機していたコートジボワール空軍機([[Su-25 (航空機)|Su-25]]×2機、ヘリコプター5機)を破壊した。この反動で、政府放送の扇動を受けた、[[シャルル・ブレ・グデ]]が指導する「{{仮リンク|ジュンヌ・パトリオット|en|Alliance des jeunes patriotes pour le sursaut national}}」(バグボ大統領派の愛国青年運動)がアビジャン市各所で暴動を始め、フランス人の民家やフランス関連施設などに対する略奪・暴行・殺人事件が発生した。避難できない外国人およそ数百名を急遽退去させるため、仏軍は市内の要所を一時的に確保、その間に退去者をヘリコプターでアビジャン空港まで移送した。また、この際にフランス軍と群衆の間で銃撃事件が発生したが、実際の死傷者数、威嚇射撃の有無などに関する両国政府の主張に食い違いがある。
 
 
 
[[2005年]]4月、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の仲裁によって政府とFNら反政府グループの間で、「敵対関係の解消」「反政府組織の武装解除」などが合意されたが、手続きは停滞した。[[国際連合安全保障理事会]]は10月に大統領選挙を行うことを計画していたが、武装解除と大統領選挙実施に必要な住民登録ができないために、9月にバグボ大統領の任期を1年延長することを認めた。12月には[[セイドゥ・エリマン・ジャラ]]([[:en:Seydou Diarra|en]])首相に代わって、[[西アフリカ諸国中央銀行]](BCEAO)総裁の[[シャルル・コナン・バニー]]([[:en:Charles Konan Banny|en]])が首相に指名され、挙国一致内閣が再度組閣された。
 
 
 
[[2006年]]1月、[[国際連合コートジボワール活動]](UNOCI)や[[アフリカ連合]](AU)傘下の作業グループが、国民議会の任期延長認めないと発表したとして、「ジュンヌ・パトリオット」たちが[[アビジャン]]市内の道路を封鎖した。また、国内のフランス軍とPKOに従事する各国軍([[バングラデシュ]]、[[モロッコ]]、[[セネガル]]など)の基地、フランス[[大使館]]、国営テレビ前で抗議活動が行われた。西部に駐留するバングラデシュ軍はそれらに発砲して4名が死亡した。結局、[[ナイジェリア]]の[[オルシェグン・オバサンジョ]]大統領が、作業グループにはそのような権限はないと認めて、騒動に終止符を打った。しかし[[7月19日]]、シャルル・コナン・バニー首相の推し進めている、選挙実施のための身分証明書の発行方法に不満を持つ「ジュンヌ・パトリオット」が、アビジャン市内の主要な道路にバリケードを築いて、交通を遮断するなど、騒動が再燃した。
 
 
 
=== 第2次コートジボワール内戦 ===
 
[[画像:Internally Displaced Persons Duekoue 2011 Cote dIvoire.jpg|サムネイル|国内避難民のシェルター(2011年)]]
 
{{main|2010年コートジボワール大統領選挙|2010年コートジボワール危機|{{仮リンク|第2次コートジボワール内戦|en|Second Ivorian Civil War}}}}
 
 
 
[[2010年]][[10月31日]]、内戦終結後の和平プロセスの停滞から再三延期されていた大統領選挙が行われた。選挙には14人が立候補し、過半数を得た候補者はおらず、現職のローラン・バグボ大統領(''Laurent Gbagbo''、2000年10月26日就任、イボワール人民戦線)と野党を率いる[[アラサン・ワタラ]]元首相の上位2人が決選投票に進み、11月28日に投票が行われた。選挙管理委員会は2日、ワタラ候補が投票総数54%を得て、45%のバグボ大統領を破ったと発表した。しかし、バグボ陣営はワタラ陣営による不正があったと主張し、バグボ大統領派の影響力が強く、中立性が疑われている憲法評議会は3日、「北部でワタラ陣営による投票行為の妨害や不正があった」として一部地域での投票結果を取り消し、バグボを当選者とすると発表した<ref>http://mainichi.jp/select/world/news/20101206ddm007030081000c.html コートジボワール大統領選:2氏が就任宣誓 混乱広がる</ref>。これに反発してソロ首相は辞任した。<ref>{{Citation|和書
 
| author = ヨハネスブルク支局
 
| url = https://mainichi.jp/select/world/news/20101205k0000m030079000c.html
 
| archiveurl = https://web.archive.org/20101206015728/mainichi.jp/select/world/news/20101205k0000m030079000c.html
 
| date = 2010年12月4日
 
| archivedate = 2010年12月6日
 
| deadlinkdate = 2017年12月20日
 
| publisher = [[毎日新聞社]]
 
| title = コートジボワール:バグボ氏大統領再選 首相、反発し辞意 - 毎日jp(毎日新聞)
 
}}</ref>
 
 
 
5日、バグボはアビジャンにおいて大統領就任宣誓式を行った。これに対抗してワタラも同じアビジャン市内のホテルで国連平和維持部隊に守られながら就任宣誓を行い、ソロ前首相の続投を承認した。欧米諸国や国連は、ワタラ当選の選管発表を支持するとの声明を出している。これによりコートジボワールは二重政府状態に陥り、混乱が続いた。二重政府のバグボ政権は[[12月6日]]に[[ジルベール・アケ]](''Gilbert Marie N'gbo Aké'')を首相に任命し、首相も[[ギヨーム・ソロ]]とアケのふたりが存在するという異常事態が続いた。
 
 
 
しかし、[[2011年]][[4月11日]]、ワタラ側の軍の攻撃によってバグボが拘束され、バグボとアケの失脚が確定した。これを受け、4月12日にはバグボ側の軍の参謀総長や警察と憲兵隊のトップらがワタラに対して忠誠を誓い、5月6日にはワタラが就任宣誓を改めて行い、異常事態は解消された。
 
 
 
== 政治 ==
 
[[画像:Alassane Ouattara UNESCO 09-2011.jpg|サムネイル|180px|第2代・5代大統領[[アラサン・ワタラ]]]]
 
{{main|{{仮リンク|コートジボワールの政治|en|politics of Ivory Coast}}}}
 
* 政治体制:[[共和制]]
 
* 大統領:[[アラサン・ワタラ]](''Alassane Dramane Ouattara''、2010年12月4日就任宣誓)
 
* 首相:[[アマドゥ・ゴン・クリバリ]](''Amadou Gon Coulibaly''、2017年1月10日就任)
 
 
 
* 議会:[[一院制]](国民議会、225議席、議員任期5年)
 
* 主要政党:{{仮リンク|イボワール人民戦線|fr|Front populaire ivoirien|en|Ivorian Popular Front}}(FPI)、{{仮リンク|コートジボワール民主党|fr|Parti démocratique de Côte d'Ivoire|en|Democratic Party of Côte d'Ivoire – African Democratic Rally}}(PDCI)、{{仮リンク|コートジボワール共和主義者連合|fr|Rassemblement des républicains de Côte d'Ivoire|en|Rally of the Republicans|label=共和主義者連合}}(RDR)
 
 
 
=== 法律 ===
 
コートジボワールの[[著作権法]]では、[[著作権の保護期間]]を「'''著作者の死後99年'''」と定めている。この規定は世界で2番目に長い保護期間である([[2003年]]以降は[[メキシコ]]の「100年」が最長)。
 
 
 
== 軍事 ==
 
{{main|{{仮リンク|コートジボワールの軍事|en|military of Ivory Coast}}}}
 
コートジボワール軍は陸軍、海軍、空軍の三軍と憲兵隊、大統領親衛隊から構成される。兵制は[[徴兵制度|選抜徴兵制]]である。人員は[[陸軍]]が6,500人、[[海軍]]が900人、[[空軍]]が700人、憲兵隊7,600人、大統領親衛隊1,350人である。2007年の国防予算は3億ドルだった<ref>International Institute for Strategic Studies(IISS),''The Military Balance 2008''</ref>。
 
 
 
== 地方行政区分 ==
 
{{Main|コートジボワールの行政区画}}
 
[[ファイル:Côte d'Ivoire, administrative divisions - ja - colored.svg|300px|サムネイル|コートジボワールの地方]]
 
[[画像:Abidjanpyramid.JPG|サムネイル|300px|アビジャン中心街]]
 
 
 
コートジボワールは2011年以降、12の地方(District)と2つの自治区(Districts Autonome)から成る。
 
 
 
# [[アビジャン|アビジャン自治区]]
 
# [[低サッサンドラ州|低サッサンドラ地方]]
 
# [[コモエ地方]]
 
# [[デンゲレ州|デンゲレ地方]]
 
# [[ゴー=ジブア地方]]
 
# [[ラック州|ラック地方]]
 
# [[ラギューヌ州|ラギューヌ地方]]
 
# [[十八山州|モンタグネス(山地)地方]]
 
# [[サッサンドラ=マラウェ地方]]
 
# [[サヴァヌ州|サヴァヌ地方]]
 
# [[バンダマ渓谷州|バンダマ渓谷地方]]
 
# [[ウォロバ地方]]
 
# [[ヤムスクロ|ヤムスクロ自治区]]
 
# [[ザンザン州|ザンザン地方]]
 
 
 
===主要都市===
 
{{Main|コートジボワールの都市の一覧}}
 
* [[アビジャン]]:最大都市で旧首都。ヤムスクロに遷都後も、事実上の首都機能はアビジャンにある。
 
* [[ダロア]]
 
* [[ヤムスクロ]]:法的な[[首都]]。
 
* [[マン (コートジボワール)|マン]]
 
* {{仮リンク|オディエンヌ|fr|Odienné|en|Odienné}}
 
 
 
== 地理 ==
 
[[ケッペンの気候区分]]によれば、海岸部は高温多湿の[[熱帯性気候]]、内陸部の[[サバナ (地理)|サバンナ]]は[[サバナ気候]]に属する。1年の平均気温は25度C〜33度Cで、11月〜3月が暖かく乾燥、3月〜5月が暑く乾燥、6月〜10月が暑く湿潤と分けられる。
 
 
 
海岸には多数の川が注ぎ、[[ラグーン]]と[[熱帯雨林]]が発達する。最北部の500mへ徐々に高度を上げる。最高地点は西部国境の[[ニンバ山]](Nimba)で標高は1752m。
 
 
 
天然港が無く、高波と雨季の洪水が自然災害である。
 
 
 
== 経済 ==
 
{{main|{{仮リンク|コートジボワールの経済|en|economy of Ivory Coast}}|コートジボワールにおけるコーヒー生産}} 
 
[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]の[[国内総生産]](GDP)は約282億ドルであり<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=46&pr.y=10&sy=2013&ey=2013&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=662&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a= International Monetary Fund] IMF。2014年5月10日閲覧。</ref>、[[佐賀県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>[http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf 平成22年度県民経済計算について]内閣府。2013年12月7日閲覧。</ref>。また、同年の一人当たりGDPは1,175ドルであり、世界的には非常に低い水準である。独立後経済は順調に推移し、「西アフリカの優等生」と呼ばれ、「[[イボワールの奇跡]]」の下で比較的高い経済水準を維持した。一人当たりのGDPも他の[[ブラックアフリカ]]諸国と比較した場合は低くない水準である。
 
 
 
主要産業は[[カカオ]](世界一の輸出国)、[[コーヒー]]、[[芋|イモ]]類、天然[[ゴム]]の生産を中心とする[[農業]]。他に[[鉱業]]([[石油]]、[[ダイヤモンド]])、[[林業]]、[[工業]](食品加工、石油製品)も盛ん。カカオ、石油製品、材木の輸出が好調なことにより貿易は毎年約10億ドルの黒字を記録しているが、膨大な[[累積債務]]を抱え財政を圧迫。
 
 
 
2010年代には、気候の変化により降水量が極端に減少。カカオの一大生産地であった地域でも農地が放棄される事例が出ている<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3100094?cx_tag=pc_rec&cx_position=2#cxrecs_s 元カカオ生産者が押し寄せる違法な金鉱山]AFP通信(2016年10月4日)2016年12月6日</ref>。
 
 
 
* [[通貨]]:[[CFAフラン]]
 
 
 
== 国民 ==
 
[[画像:Ivorian woman.jpg|サムネイル|180px|ヘッドタイを付けたコートジボワールの女性]]
 
{{main|コートジボワールの国民|[[:en:Demographics of Ivory Coast]]}}
 
 
 
=== 民族 ===
 
{{仮リンク|アカン人|en|Akan people|label=アカン系}}([[バウレ族|バウレ人]]、[[アンイイ族]]など)、[[:en:Ébrié Lagoon]]周辺に住む{{仮リンク|アカン人|en|Akan people}}の[[潟湖系]]Lagunaire({{仮リンク|エブリエ|en|Ebrié|label=エブリエ人}}など)、[[クル族 (リベリア)|クル系]]({{仮リンク|ベテ人|en|Bété people}}、[[:fr:Guérés]]、[[:fr:Didas]]など)、{{仮リンク|マンデ人|en|Mandé peoples|label=南東マンデ系}}({{仮リンク|ジオ人|en|Gio people|label=ダン人}}Dans、[[:fr:Gouros<!-- リダイレクト先の「[[:fr:Gouro (peuple)]]」は、[[:ja:グロ族]] とリンク -->]]など)、{{仮リンク|マンデ人|en|Mandé peoples|label=マンデ系}}([[マンディンカ族|マリンケ人]]、{{仮リンク|ジュラ人|en|Dyula people|label=ジュラ族}}など)、{{仮リンク|グル語群|en|Gur languages}}を話す[[ヴォルタ|ヴォルタイック系]]{{要曖昧さ回避|date=2014年7月13日}}({{仮リンク|セヌフォ人|en|Senufo people}}、[[:en:Lobi people]]、[[:fr:Koulangos]]など)の6大グループがあり、国内には63もの[[民族]]が住んでいる。
 
 
 
フェリックス・ウフェ=ボワニの政策により周辺国から多くの[[移民]]が流入した。
 
 
 
{{節スタブ}}
 
 
 
=== 言語 ===
 
{{main|コートジボワールの言語|[[:en:Languages of Ivory Coast]]}}
 
 
 
公用語は[[フランス語]]である。他に[[ジュラ語]]、[[バウレ語]]、[[セヌフォ語]]、{{仮リンク|ベテ語|en|Bété language}}、[[ダン語|ヤクバ語]]、[[アニ語|アンイイ語]]、[[コロ・ジュラ語]]、[[セメ語]]などの各部族語も使用。
 
 
 
<!--
 
[[ローラン・バグボ]](Laurent Gbagbo)大統領や[[ディディエ・ドロバ]](Didier Drogba)選手などの名前に出てくる「gb」は、[b]でも[v]ではなく、西アフリカ言語の独特な音を表す。「gba」を「グバ」と表記するのは不適切で、「バ」と表記するほうが日本語では適当である。
 
個別の発音は不要。各人名の項や、各言語の項でやるべき内容。
 
-->
 
 
 
=== 宗教 ===
 
{{main|コートジボワールの宗教|[[:en:Religion in Ivory Coast]]}}
 
[[画像:SaintPaul.JPG|260px|サムネイル|アビジャンの聖パウロ大聖堂。]]
 
2008年の推計によれば、北部を中心に[[イスラーム]]が国民の38.6%、南部を中心に[[キリスト教]]が国民の32.8%を擁し、土着の伝統宗教が11.9%、無宗教が16.7%である<ref name=2009cia/>。
 
 
 
=== 教育 ===
 
{{main|{{仮リンク|コートジボワールの教育|en|education in Ivory Coast}}}}
 
6歳から12歳までの6年間が[[初等教育]]、12歳から16歳までの4年間が[[前期中等教育]]となり、16歳から19歳までの3年間の[[後期中等教育]]の後、[[高等教育]]への道が開ける。初等教育からフランス語は教授され、前期中等教育から英語などの外国語の教授が始まる。2000年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は48.7%(男性:60.8%、女性:38.6%)である<ref name=2009cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/iv.html CIA World Factbook]2009年11月26日閲覧。</ref>。
 
 
 
主な[[高等教育]]機関として[[ココディ大学]](1964)、[[ダボボ・アジャメ大学]](1966)の名が挙げられる。通常の[[総合大学]]の他にも[[グランゼコール]]や各種高等専門学校が存在する。
 
 
 
== 文化 ==
 
{{main|{{仮リンク|コートジボワールの文化|en|culture of Ivory Coast}}}}
 
 
 
=== 料理 ===
 
{{main|{{仮リンク|コートジボワールの料理|en|Ivorian cuisine}}}}
 
 
 
=== 音楽 ===
 
{{main|{{仮リンク|コートジボワールの音楽|en|music of Ivory Coast}}}}
 
コートジボワールは[[カリブ海]]や[[アメリカ合衆国]]の音楽を輸入することには長けていたが、ガーナやギニアのように独自の音楽ジャンルを生み出すことはなかった。一時[[エルネスト・ジェジェ]]によって伝統音楽を見直す潮流が出来たが、ジェジェが1983年に死去するとその試みは中途で止まり、現在もコートジボワール独自の音楽ジャンルは生まれていない。
 
 
 
しかし、そのためにむしろ[[レゲエ]]や[[ヒップ・ホップ]]などの外来音楽の消化は盛んに行われた。特に全アフリカを代表するレゲエ歌手として[[アルファ・ブロンディ]]が挙げられる。
 
 
 
=== 世界遺産 ===
 
{{Main|コートジボワールの世界遺産}}
 
コートジボワール国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[自然遺産]]が3件、[[文化遺産]]が1件、合わせて'''4'''件が存在する。
 
 
 
<gallery>
 
Voa Guinea chimpanzee picking 30jan08.jpg|[[ニンバ山厳正自然保護区]] - (1981年、自然遺産)
 
Tai national park Ivory Coast.PNG|[[タイ国立公園]] - (1982年、自然遺産)
 
Comoé national park on the wayto Gaoui.jpg|[[コモエ国立公園]] - (1983年、自然遺産)
 
800px-Grand-Bassam.jpg|[[グラン・バッサムの歴史都市]] - (2012年、文化遺産)
 
</gallery>
 
 
 
また、[[無形文化遺産]]にはコートジボワール単独の『アファウンカハのグボフェ「{{仮リンク|タグバナ族|label=ダグバナ|fr|Tagouana}}社会の横吹きラッパの音楽」』(2008年)や、他二国との共同により「[[マリ共和国|マリ]]、[[ブルキナファソ]]、コートジボワールの{{仮リンク|セヌフォ族|en|Senufo people}}の{{仮リンク|バラフォン|en|Balafon}}にまつわる文化的な慣習と表現」(2012年)が登録されている。
 
 
 
=== 祝祭日 ===
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考
 
|-
 
|[[1月1日]]||[[元日]]||lang="fr"|JOUR DE L'AN||
 
|-
 
|[[復活祭]]翌日||イースターマンデー||lang="fr"|LUNDI DE PÂQUES||[[クリスチャン]]のみ
 
|-
 
|[[5月1日]]||労働記念日、[[メーデー]]||lang="fr"|FÊTE DE TRAVAIL||
 
|-
 
|[[復活祭]]39日後||[[昇天祭]]||lang="fr"|ASCENSION||クリスチャンのみ
 
|-
 
|[[復活祭]]50日後||ホイット・マンデー、[[聖霊降臨祭]]||lang="fr"|LUNDI DE PENTECÔTE||クリスチャンのみ
 
|-
 
|[[8月7日]]||ナショナル・デー、独立記念日||lang="fr"|FÊTE NATIONALE DE L'INDÉPENDANCE||
 
|-
 
|[[8月15日]]||[[聖母の被昇天]]||lang="fr"|ASSOMPTION||クリスチャンのみ
 
|-
 
|[[11月1日]]||[[万聖節]]||lang="fr"|TOUSSAINT||クリスチャンのみ
 
|-
 
|[[11月15日]]||平和の日||lang="fr"|JOURNÉE NATIONALE DE LA PAIX||
 
|-
 
|[[12月25日]]||[[クリスマス]]||lang="fr"|NOËL||クリスチャンのみ
 
|-
 
|イスラム陰暦不確定||タバスキ、[[犠牲祭]]||lang="fr"|TABASKI||[[ムスリム]]のみ
 
|-
 
|イスラム陰暦不確定||[[モハメッド]]生誕記念日||lang="fr"|ANNIVERSAIRE DE LA NAISSANCE DE MOHAMED||ムスリムのみ
 
|-
 
|イスラム陰暦不確定||祈祷祭翌日||lang="fr"|LA NUIT DE DESTIN||ムスリムのみ
 
|-
 
|イスラム陰暦不確定||断食明け祭||lang="fr"|RAMADAN||ムスリムのみ
 
|}
 
幾つかの祝祭日は信仰する宗教や宗派により違ってくる。イスラーム関連の祝祭日に関しては[[ヒジュラ暦|イスラム暦]]によるため直前にならないと確定しないだけではなく、年によりいつ頃の季節になるかさえ違ってくる。
 
 
 
=== スポーツ ===
 
[[サッカー]]が盛んであり、[[サッカーコートジボワール代表|コートジボワール代表]]は1992年の[[アフリカネイションズカップ]]で優勝し、[[2006 FIFAワールドカップ|2006年]]の[[ドイツ]]大会では予選で[[サッカーカメルーン代表|カメルーン代表]]を破って本戦への初出場を果たした。主なプロクラブとしては[[ASECミモザ]]、[[アフリカ・スポール]]などの名が挙げられる。
 
 
 
[[2021年]]には[[アフリカネイションズカップ]]の開催国となる予定である。開催されれば[[アフリカネイションズカップ1984|1984年大会]]以来37年ぶりの開催となる。
 
 
 
== 著名な出身者 ==
 
{{main|{{仮リンク|コートジボワール人の一覧|en|list of Ivoirians}}}} 
 
*[[アマドゥ・クルマ]] - 作家
 
*[[アルファ・ブロンディ]] - レゲエ歌手
 
*[[エマニュエル・エブエ]] - サッカー選手
 
*[[コロ・トゥーレ]] - サッカー選手
 
*[[ティケン・ジャー・ファコリー]] - レゲエ歌手
 
*[[ディディエ・ドログバ]] - サッカー選手
 
*[[ドゥンビア・セイドゥ]] - サッカー選手
 
*[[ファディカ・クラモ=ランシネ]] - 映画監督
 
*[[ベルナール・アッカ]] - 格闘家
 
*[[ポール・シカ]] - アーティスト
 
*[[ヤヤ・トゥーレ]] - サッカー選手
 
*[[ロジャー・ニョアン・ムバラ]] - 映画監督
 
*[[ジェムス・ロバート・ココ・ビ]] - 芸術家
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Notelist2}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Citation|和書
 
| author = 鈴木裕之
 
| author-link = 鈴木裕之
 
| title = ストリートの歌 : 現代アフリカの若者文化
 
| publisher = [[世界思想社]]
 
| date = 2000年3月
 
| isbn = 978-4-7907-0807-0
 
}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[コートジボワール関係記事の一覧]]
 
*[[コートジボワールの都市の一覧]]
 
<!--
 
*[[コートジボワールの通信]]
 
*[[コートジボワールの交通]]
 
*[[コートジボワールの軍事]]
 
*[[コートジボワールの国際関係]]
 
-->
 
*[[カカオ]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons&cat|Côte_d'Ivoire|Côte_d'Ivoire}}
 
; 政府
 
:*[http://www.cotedivoire-pr.ci/ コートジボワール大統領官邸] {{fr icon}}
 
:*[http://ahibo.com/ambaci-jp/ 在日コートジボワール大使館] {{ja icon}}{{fr icon}}
 
;日本政府
 
:*[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cote_d/ 日本外務省 - コートジボワール] {{ja icon}}
 
;観光
 
:*[http://tourismeci.org/ コートジボワール政府観光局] {{fr icon}}
 
;その他
 
:*[http://www.jetro.go.jp/world/africa/ci/ JETRO - コートジボワール]
 
 
 
{{アフリカ}}
 
{{OIC}}
 
{{OIF}}
 
{{Normdaten}}
 
{{Coord|8||N|6||W|display=title}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:こおとしほわある}}
 
{{デフォルトソート:こおとしほわある}}
 
[[カテゴリ:コートジボワール|*]]
 
[[カテゴリ:コートジボワール|*]]
 
[[カテゴリ:共和国]]
 
[[カテゴリ:共和国]]
 
[[カテゴリ:フランコフォニー加盟国]]
 
[[カテゴリ:フランコフォニー加盟国]]

2019/4/28/ (日) 23:42時点における最新版

コートジボワール共和国(コートジボワールきょうわこく)、通称コートジボワール

《フランス語で象牙海岸の意》アフリカ大陸西部、ギニア湾に面する国。正称、コートジボワール共和国。首都ヤムスクロ。最大の都市はアビジャン。コーヒー・ココアを産する。1893年フランスの植民地となり、1960年に独立。名は、かつてこの地域の沿岸から象牙が多く搬出されたことに由来する。人口2106万(2010)。コートジボアール。



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