「シャルル8世 (フランス王)」の版間の差分

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[[ファイル:シャルル8世(作者不詳,肖像,フィレンツェ,ウフィツィ美術館蔵).jpg|サムネイル]]
{{基礎情報 君主
 
| 人名      = シャルル8世
 
| 各国語表記 = Charles VIII
 
| 君主号    = フランス王
 
| 画像      = Charles VIII de france.jpg
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明  =
 
| 在位      = [[1483年]] - [[1498年]]
 
| 戴冠日    = [[1361年]][[8月15日]]、[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂]]([[ランス (マルヌ県)|ランス]])
 
| 別号      =
 
| 全名      =
 
| 出生日    = [[1470年]][[6月30日]]
 
| 生地      = {{Flagicon image|Pavillon royal de la France.svg}} [[フランス王国]]、[[アンボワーズ城]]
 
| 死亡日    = [[1498年]][[4月7日]]
 
| 没地      = {{Flagicon image|Pavillon royal de la France.svg}} [[フランス王国]]、[[アンボワーズ城]]
 
| 埋葬日    = [[1498年]][[5月11日]]
 
| 埋葬地    = {{Flagicon image|Pavillon royal de la France.svg}} [[フランス王国]]、[[サン=ドニ大聖堂]]
 
| 配偶者1    = [[アンヌ・ド・ブルターニュ]]
 
| 子女      = [[シャルル=オルラン・ド・フランス|シャルル=オルラン]]
 
| 王家      = [[File:France moderne.svg|20px]] [[ヴァロワ家]]
 
| 王朝      = [[ヴァロワ朝]]
 
| 王室歌    =
 
| 父親      = [[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]
 
| 母親      = [[シャルロット・ド・サヴォワ]]
 
}}
 
 
'''シャルル8世'''('''Charles VIII''', [[1470年]][[6月30日]] - [[1498年]][[4月7日]])
 
'''シャルル8世'''('''Charles VIII''', [[1470年]][[6月30日]] - [[1498年]][[4月7日]])
  
[[ヴァロワ朝]]第7代の[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]](在位:[[1483年]] - 1498年)。'''温厚王'''(l'Affable)と呼ばれた。[[イタリア戦争]]を始めたフランス王として知られる。
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フランス王 (在位 1483~98) [[ルイ 11世]]の子。幼少で即位し,姉[[アンヌ・ド・フランス]] (ボージュー) が後見した。貴族の反乱が生じたが鎮圧 (88) [[アンヌ・ド・ブルターニュ]]を妃とし,ブルターニュを王領に編入。 1492年から親政。時代錯誤の栄誉を追う性癖があり,ナポリ王国を要求,ひいては東ローマ皇帝となることを夢想し,イタリアに出兵 (94) ,第1期[[イタリア戦争]]の契機となった。ナポリに入城したが,オーストリア,ミラノ,ベネチア,教皇から成るベネチア同盟の反撃を受けて撤兵した (95) 。再度の出兵を準備中,アンボアーズ城内で事故死。
 
 
== 生涯 ==
 
フランス王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]と[[シャルロット・ド・サヴォワ]]の息子として1470年に[[アンボワーズ城]]で生まれた<ref>佐藤、p. 192</ref>。兄はいたがいずれも夭逝しており、1483年[[8月30日]]父王の死去により13歳で即位、姉[[アンヌ・ド・ボージュー]]、義兄[[ブルボン公]][[ピエール2世 (ブルボン公)|ピエール2世]]夫妻の[[摂政]]下に置かれた<ref>佐藤、p. 193</ref>。
 
 
 
シャルル8世は当初[[ハプスブルク家]]の[[ローマ王]](のちの[[神聖ローマ皇帝]])[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン]]の娘[[マルグリット・ドートリッシュ|マルグリット]]と婚約していた。マルグリットは、誘拐同然にフランスへ送られてアンヌ・ド・ボージューの下で養育され、シャルル8世と幼くして形式的な結婚をした。一方、マクシミリアンはマルグリットの母で最初の妃である[[マリー・ド・ブルゴーニュ]]をすでに亡くしており、[[ブルターニュ公国]]の継承権を持つ[[アンヌ・ド・ブルターニュ]]と婚約していた。しかし、シャルル8世はマルグリットとの結婚を解消し、[[1491年]][[12月6日]]にアンヌと政略結婚した<ref>佐藤、p. 199</ref>。しかも元の妃マルグリットを、マクシミリアンが武力に訴えるまで返さなかった。
 
 
 
アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚以後自立するようになり、[[1494年]]、[[16世紀]]前半のヨーロッパ史上重大な影響を与えることになる[[イタリア戦争]]を開始した。[[ナポリ王国]]の継承権を主張するシャルルは、フランス軍を率いて[[イタリア半島]]を南下した。彼は[[ローマ]]を経て[[1495年]][[2月22日]][[ナポリ]]に入城し、戴冠してナポリ王となった<ref>佐藤、p. 204</ref>。
 
 
 
しかし、フランスのイタリア介入を嫌う[[ヴェネツィア共和国]]や[[ローマ教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]、[[ミラノ公国|ミラノ公]][[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]らの同盟軍に包囲され、多大の損害を出してフランスに逃げ帰った<ref name=S206>佐藤、p. 206</ref>。この[[イタリア遠征]]の失敗によってフランスは莫大な負債を抱えることになる。1498年にうっかり[[まぐさ石|鴨居]]に頭を打ちつける事故を起こし、間もなく死亡した<ref name=S206 />。遺体は[[サン=ドニ大聖堂]]に、心臓は{{仮リンク|クレリ大聖堂|fr|Basilique Notre-Dame de Cléry-Saint-André}}に埋葬された。
 
 
 
シャルル8世は王妃アンヌとの間に3男1女をもうけたが、長男の[[シャルル=オルラン・ド・フランス|シャルル=オルラン]]を含めいずれも夭逝しており、シャルル8世の死によって[[ヴァロワ家]]の本流は断絶した。そのため、[[サリカ法典|サリカ法]]によって、[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]の曾孫、父ルイ11世の又従弟に当たる、傍系[[ヴァロワ=オルレアン家]]のオルレアン公ルイ2世が[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]として王位を継いだ。
 
 
 
== 子女 ==
 
[[アンヌ・ド・ブルターニュ]]との間に以下の子女をもうけたが、いずれも早世した。
 
* [[シャルル=オルラン・ド・フランス|シャルル=オルラン]](1492年 - 1495年)
 
* シャルル(1496年9月8日 - 10月2日)
 
* フランソワ(1497年)
 
* アンヌ(1498年)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 佐藤賢一 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』 講談社現代新書、2014年
 
 
 
{{先代次代|[[ドーファン|フランスのドーファン]]|[[1470年]] - [[1483年]]|フランソワ(シャルル8世の兄)|[[シャルル=オルラン・ド・フランス|シャルル=オルラン]]}}
 
{{フランス君主}}
 
{{ナポリ王||1495年}}
 
 
 
  
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[[Category:フランス国王]]
 
[[Category:フランス国王]]

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シャルル8世(作者不詳,肖像,フィレンツェ,ウフィツィ美術館蔵).jpg

シャルル8世Charles VIII, 1470年6月30日 - 1498年4月7日

フランス王 (在位 1483~98) 。ルイ 11世の子。幼少で即位し,姉アンヌ・ド・フランス (ボージュー) が後見した。貴族の反乱が生じたが鎮圧 (88) 。アンヌ・ド・ブルターニュを妃とし,ブルターニュを王領に編入。 1492年から親政。時代錯誤の栄誉を追う性癖があり,ナポリ王国を要求,ひいては東ローマ皇帝となることを夢想し,イタリアに出兵 (94) ,第1期イタリア戦争の契機となった。ナポリに入城したが,オーストリア,ミラノ,ベネチア,教皇から成るベネチア同盟の反撃を受けて撤兵した (95) 。再度の出兵を準備中,アンボアーズ城内で事故死。



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