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[[ファイル:『オフィーリア』油彩(1852),ミレー画,テート・ギャラリー.jpg|サムネイル]]
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初代[[准男爵]]、サー・'''ジョン・エヴァレット・ミレー'''('''Sir John Everett Millais, 1st Baronet''', [[1829年]][[6月8日]] - [[1896年]][[8月13日]]
| name          = ジョン・エヴァレット・ミレー<br />Sir John Everett Millais
 
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| caption      = 『自画像』私蔵
 
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| field        = 絵画
 
| training      = ロイヤル・アカデミー付属美術学校
 
| movement      = [[ラファエル前派]]
 
| works        = オフィーリア
 
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| influenced    =
 
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初代[[准男爵]]、サー・'''ジョン・エヴァレット・ミレー'''('''Sir John Everett Millais, 1st Baronet''', [[1829年]][[6月8日]] - [[1896年]][[8月13日]])は、[[19世紀]]の[[イギリス]]の[[画家]]。[[ラファエル前派]]の一員に数えられる。'''ミレイ'''と表記されることも多い。
 
  
==生涯==
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イギリスの画家,挿絵画家。 1838年ロンドンに出て 40年に 11歳でロイヤル・アカデミー・スクールに入学し,在学中にアカデミーのすべての賞を獲得。 48年友人 D.ロセッティ,W.ハントらとともに[[ラファエル前派]]の運動を起し,新鮮な自然観照に基づく精緻な画風を展開。この時期の主要作品は『大工の仕事場のキリスト』 (1850,ロンドン,テート・ギャラリー) ,『オフィーリア』 (52,同) ,『盲目の少女』 (56,バーミンガム市立美術館) 。その後も多くの肖像画,歴史画,風俗画を制作したが,63年頃から作風は次第にアカデミックな傾向を強めた。
[[Image:Millais 2.jpg|thumb|right|220px|1854年頃の写真]]
 
1829年にイングランド南部の[[サウサンプトン|サザンプトン]]に馬具製造販売業者の息子として生まれる。幼少時から優れた画才を示し、彼の才能を確信した両親は、息子に優れた教育を与えるため、[[1839年]]ロンドンへ転居する。11歳の時、[[ロンドン]]の[[ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ|ロイヤル・アカデミー]]付属美術学校に史上最年少での入学を許可され、[[1846年]]にはわずか16歳でロイヤル・アカデミーの年次展に入賞する。この頃ミレイは、同じロイヤル・アカデミーの学生であった[[ウィリアム・ホルマン・ハント]]や、[[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]]らとともに、アカデミーの創設者の[[ジョシュア・レノルズ|サー・ジョシュア・レノルズ]]が100年も前に確立した教育方法に対し不満を抱くと同時に、当時の画壇への反発をつのらせていた。
 
  
[[1848年]]、彼等は「ラファエル前派」を結成する。ラファエル前派に思想的な面で影響を与えたのは同時代の思想家であり美術批評家であった[[ジョン・ラスキン]]であった。ラスキンの「芸術は自然に忠実でなければならない」という主張は、ラファエル前派が作品を創造する上でのモットーとなった。ミレイがこの革新的な画法で描いた最初の作品が『ロレンツォとイザベラ』である。1850年に制作された『両親の家のキリスト』には痛烈な非難があびせられたが、[[1852年]]のロイヤル・アカデミー展に出品された『オフィーリア』(後にロセッティの妻となる[[エリザベス・シダル]]がモデル)は非常に高い評価を獲得した。
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85年男爵,96年ロイヤル・アカデミー総裁。
  
[[1853年]]、ラファエル前派がマスコミによって攻撃されると、ジョン・ラスキンは[[タイムズ]]紙上でラファエル前派を擁護する論陣を張った。感激したミレイはすぐにラスキンへ礼状を出している。礼状が届いた午後、ラスキンは後にミレイの妻となる新妻のユーフィミア(通称[[エフィー・グレイ]])を伴ってミレイを訪ねたといわれている。1852年、ミレイはユーフィミアをモデルとした『除隊』や『ジョン・ラスキンの肖像』を製作し、ラスキン夫妻との親交を深めていった。ラスキンとの不幸な結婚生活に耐え切れなかったユーフィミアはミレイに惹かれ続け、[[1854年]]、ユーフィミアはラスキンとの結婚は実質の無いものであったとする婚姻無効の訴訟を起こした。しかしながら当時は妻が夫を捨てるような事は極めて稀で、ユーフィミアの行動は、恥ずべき行為であると受け止められ非難された。[[1855年]]にミレイとユーフィミアは結婚するが、ミレイを寵愛していた[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]はユーフィミアの謁見を拒否し、以後ミレイに肖像画を描かせる事はなかった。
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[[1856年]]、ユーフィミアとの間に第一子が生まれる。この頃ミレイは『落ち葉』などのメランコリックな特定の主題のない作品を制作するが、画商やコレクターなどの評価は以前の作品と比べると決して高いものではなかった。決定的な危機が訪れたのは、[[1857年]]のロイヤル・アカデミー展で『浅瀬を渡るイザンブラス卿』を発表した時である。この作品は「馬が騎士に比べて大きすぎる」という点で不評を買ったのみならず、この作品を嘲笑した[[戯画|カリカチュア]]が新聞に掲載されるなど、中傷の的にすらなってしまった。離婚後もミレイを擁護し続けたラスキンまでもが、手のひらを返したように「単に失敗ではなく、破局である」と手厳しくミレイを非難した。結婚後8人の子供を養わなければならなかったミレイは「5シリング硬貨よりも小さな部分を描くのに丸1日費やすわけにはいかない 」と考え、これ以後ラファエル前派の厳格な理想から徐々に遠のいていった。
 
 
 
[[1860年]]に展示された『ブラック・ブランズウィッカー(黒い制服を着たドイツのブラウンシュヴァイク騎兵)』は、当時の人に訴えかけるようなロマンチックな主題と衣装の襞の美しさで好評を博し、ミレイは失いかけた名声を取り戻した。以後は一貫して大衆の好みを意識した作品を描き続けた。[[1863年]]にはロイヤル・アカデミーに出品した『初めての説教』が最も人気のある作品に選ばれ、正会員として選出される。この『初めての説教』でイギリスに少女画ブームが捲き起こった。ミレーは少女画を描くにあたって「ただ、微妙で静かな表情のみが完璧な美と両立する<ref>高橋裕子 「イギリス美術」</ref>。誰が見ても美しい顔を描くなら、人格が形成され表情が決まる前の8歳前後の少女が一番よい」と語っている。子供を描いた絵で人々に広く愛され、彼の孫息子を描いた代表作の一つ『シャボン玉』は、カラーで「[[イラストレイテッド・ロンドン・ニュース]]」紙に掲載され、後に石鹸の広告としても使用された。
 
 
 
ミレイは肖像画家としても成功し、[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]や[[チャールズ・ディケンズ|ディケンズ]]ら当時の著名人の多くが彼に肖像画を依頼した。1896年、ロイヤル・アカデミーの会長に選出されるが、その年の8月に他界した。死の数日前に、ミレイはヴィクトリア女王から「何か出来ることはないか」という伝言を受け取る。ミレイが妻ユーフィミアの謁見の許可を願うと、女王は聞き入れ、謁見が赦された。ユーフィミアもミレイの後を追うように、翌年12月に他界した。
 
 
 
==代表作==
 
[[Image:Sir John Everett Millais 003.jpg|thumb|260px|オフィーリア([[1852年]]・[[テート・ブリテン]]収蔵)]]
 
;[[オフィーリア (絵画)|オフィーリア]]
 
ミレー自身及び[[ヴィクトリア朝]]の最高傑作と名高いこの作品は、1862年のロイヤル・アカデミー展に出品したもので、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[ハムレット]]』のヒロイン、[[オフィーリア]]を題材にしたものである。川の流れに仰向けに浮かぶ少女のモデルは、後にロセッティの妻となる[[エリザベス・シダル]]である。
 
 
 
[[夏目漱石]]の小説『[[草枕]]』にこの絵に言及した箇所がある。 また、[[日本画]]家の[[山本丘人]]がこの絵画の影響を受けた『水の上のオフェリア』(原題:『美しき屍』)を描いている。
 
 
 
;その他の作品
 
*『遊び』 1855-56年
 
*『初めての説教』 1863年<ref name=Miyashita>{{Cite book|和書 |author = [[宮下規久朗]] |year = 2015 |title = しぐさで読む美術史 |publisher = [[筑摩書房]] |page = 175 |isbn = 978-4-480-43318-3}}</ref>
 
*『二度目の説教』 1863-64年<ref name=Miyashita/>
 
*『目覚め』 1865年
 
*『眠り』 1865-66年
 
*『姉妹』 1868年
 
*『ベラスケスの想い出』 1868年
 
*『あひるの子』 1889年
 
 
 
<gallery>
 
Image:Sir John Everett Millais 002.jpg|両親の家のキリスト(1849年 - 1850年・[[テート・ブリテン]]収蔵)
 
Image:Millais - Die Rückkehr der Taube zur Arche Noah.jpg|箱舟への鳩の帰還(1851年・[[アシュモレアン博物館]]収蔵)<ref>{{Cite book|和書 |author = [[小林頼子]] |year = 2010 |title = 花と果実の美術館 名画の中の植物 |publisher = 八坂書房 |page = 102 |isbn = 978-4-89694-967-4}}</ref>
 
Image:Sir John Everett Millais 001.jpg|秋の落ち葉(1855年 - 1856年・[[マンチェスター市立美術館]]収蔵)
 
Image:Millais-Blind Girl.jpg|盲目の少女(1856年・[[バーミンガム美術館]]収蔵)
 
Image:ISUMBRAS.jpg|過ぎ去りし夢―浅瀬のイサンブラス卿(1857年・[[レディ・リーヴァー美術館]]収蔵)
 
Image:John Everett Millais The Black Brunswicker.jpg|黒きブランズウィック騎兵隊員(1859年 - 1861年・レディ・リーヴァー美術館収蔵)
 
Image:Millais - Überfahrt nach Nordwest.jpg|北西航路(1874年・テート・ブリテン収蔵)
 
Image:Princes.jpg|塔の中の[[エドワード5世 (イングランド王)|王子]]たち(1878年・[[ロンドン大学]][[ロイヤル・ホロウェイ|ロイヤル・ホロウェイ校]]収蔵)
 
Image:EFFIE.jpg|thumb||220px|ユーフィミア・ミレイ肖像画 (1873年 ・[[パース美術館]]収蔵)]]
 
Image:Millais - Das Tal der Stille.jpg|休息のヴェール(1858年・[[テート・ブリテン]]収蔵)
 
 
 
 
 
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他多数。
 
 
 
==脚注==
 
{{Reflist}}
 
 
 
==外部リンク==
 
{{commons|John Everett Millais}}
 
*[http://www.britishpathe.com/video/bubbles-portrait/ ミレー展のニュース映像] - 4歳のときに絵のモデルになった孫が展覧会を訪れたときの様子。
 
*{{Art UK bio}}
 
*{{Internet Archive author|name=John Everett Millais}}
 
*{{UK National Archives ID}}
 
*{{NPG name}}
 
{{ラファエル前派}}
 
{{Normdaten}}
 
{{Artist-stub}}
 
 
{{DEFAULTSORT:みれい しよんえうあれつと}}
 
{{DEFAULTSORT:みれい しよんえうあれつと}}
 
[[Category:イングランドの画家]]
 
[[Category:イングランドの画家]]

2019/6/12/ (水) 12:13時点における最新版

『オフィーリア』油彩(1852),ミレー画,テート・ギャラリー.jpg

初代准男爵、サー・ジョン・エヴァレット・ミレーSir John Everett Millais, 1st Baronet, 1829年6月8日1896年8月13日

イギリスの画家,挿絵画家。 1838年ロンドンに出て 40年に 11歳でロイヤル・アカデミー・スクールに入学し,在学中にアカデミーのすべての賞を獲得。 48年友人 D.ロセッティ,W.ハントらとともにラファエル前派の運動を起し,新鮮な自然観照に基づく精緻な画風を展開。この時期の主要作品は『大工の仕事場のキリスト』 (1850,ロンドン,テート・ギャラリー) ,『オフィーリア』 (52,同) ,『盲目の少女』 (56,バーミンガム市立美術館) 。その後も多くの肖像画,歴史画,風俗画を制作したが,63年頃から作風は次第にアカデミックな傾向を強めた。

85年男爵,96年ロイヤル・アカデミー総裁。



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