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{{Infobox 事件・事故
 
| 名称      = ダッカ日航機ハイジャック事件
 
| 画像      = Douglas DC-8-62, Japan Airlines (JAL) JP6862131.jpg
 
| 脚注      = 事件機のJA8033(旧塗装。1969年、[[ホノルル国際空港]]において撮影)
 
| 場所      = {{BAN}} [[ダッカ]] [[シャージャラル国際空港|ジア国際空港]]
 
| 座標      =
 
| 日付      = [[1977年]][[9月28日]] - [[10月3日]]
 
| 時間      = 
 
| 開始時刻  =
 
| 終了時刻  =
 
| 時間帯    =
 
| 概要      =
 
| 原因      =
 
| 手段      = [[ハイジャック]]
 
| 武器      = [[拳銃]]、[[手榴弾]]など
 
| 兵器      =
 
| 攻撃人数  = 5人
 
| 標的      = [[日本航空]]472便([[ダグラス DC-8]])
 
| 死亡      = なし
 
| 負傷      = 数名
 
| 行方不明  = なし
 
| 被害者    =
 
| 損害      =
 
| 犯人      = [[日本赤軍]]
 
| 容疑      = [[丸岡修]]、[[佐々木規夫]]、[[坂東國男]]、[[西川純 (日本赤軍)|西川純]]、[[和光晴生]]
 
| 動機      = 日本赤軍メンバーおよびシンパの釈放、身代金獲得
 
| 関与      =
 
| 防御      =
 
| 対処      = 身代金600万ドルの支払いおよび超法規的措置の施行による収監者の釈放
 
| 謝罪      = 日本政府によるバングラデシュ政府への特使派遣
 
| 賠償      =
 
}}
 
'''ダッカ日航機ハイジャック事件'''(ダッカにっこうきハイジャックじけん)は、[[1977年]][[9月28日]]に、[[日本赤軍]]が起こした[[ハイジャック]]事件である。
 
 
 
== 概要 ==
 
=== ハイジャック発生 ===
 
1977年9月28日に、[[フランス]]の[[パリ]]、[[パリ=シャルル・ド・ゴール空港]]発[[ギリシャ]]の[[アテネ国際空港]]、[[エジプト]]の[[カイロ国際空港]]、[[パキスタン]]の[[ジンナー国際空港]]、[[インド]]の[[ムンバイ国際空港]]、[[タイ王国|タイ]]の[[ドンムアン国際空港]]、[[香港]]の[[啓徳国際空港]]経由[[東京国際空港]]行きの[[日本航空]]472便([[ダグラス DC-8|ダグラス DC-8-62]]、機体番号:JA8033、高橋重男機長以下乗員14名、乗客142名うち[[犯人]]グループ5名)が、経由地のムンバイ空港を離陸直後、[[拳銃]]、[[手榴弾]]などで武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。
 
 
 
同機は[[コルカタ|カルカッタ]]方面に一旦向かった後、進路を変更して[[バングラデシュ]]の首都[[ダッカ]]の[[シャージャラル国際空港|ジア国際空港]]に強行着陸、犯人グループは[[人質]]の[[身代金]]として600万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]](当時の[[為替レート]]〈1USD≒約266円〉で約16億円)と、日本で[[懲役|服役]]および[[勾留]]中の9名([[奥平純三]]、[[城崎勉]]、[[大道寺あや子]]、[[浴田由紀子]]、[[泉水博]]、[[仁平映]]、[[植垣康博]]、[[知念功]]、[[大村寿雄]])の[[保釈|釈放]]と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。この時、犯人グループから「[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人の人質を先に殺害する」という条件が付けられ、この影響を受けて、その後の[[日本国政府|日本政府]]の対応にアメリカへの[[外交]]的配慮があったとする見方もある。また、この便には当時の[[アメリカ合衆国大統領]][[ジミー・カーター]]の友人であるアメリカ人[[銀行|銀行家]]が乗っており、犯人たちはそのことを事前に知っていた。
 
 
 
その後、ハイジャック機は[[ジェット燃料]]の消費を抑えるため、[[エンジン]]を停止させたことで機内の[[気温]]が45度以上に上昇し、[[熱中症]]で倒れる者が続出した。しかし、たまたま乗り合わせた日本航空の嘱託[[医師]]の穂刈正臣が手当てを行ったほか、機長が空港関係者にエアコンを作動させるための補助動力車と[[水]]を要求し、これが受け入れられたためにことなきを得た<ref>「DC-8 Forever」P.112 日本航空刊 1987年</ref>。
 
 
 
犯人達は人質から[[旅券|パスポート]]と時計、金銭や貴金属類を没収し、手荷物をひとつ残らず降乗口に積み上げ[[バリケード]]とした。窓のシールドは降ろさせられ、機内での要求は全て女性客にやらせた。
 
 
 
=== 超法規的措置 ===
 
日本政府はこれ以上の交渉や武力での解決を良しとせず、[[10月1日]]に[[福田赳夫]][[内閣総理大臣]]が「'''一人の生命は[[地球]]より重い'''」と述べて、身代金の支払いおよび「[[超法規的措置]]」として、[[収監]]メンバーなどの引き渡しを行うことを決めた。しかしこの福田の決定は、「人質の命を守る」という名目で法を無視して面倒を避け保身を行い、さらにテロリストに更なるテロ活動を行うための活動資金を与えて無罪放免としたとして、{{要出典|範囲=国内のみならず諸外国からも大きな批判を浴びた|date=2018年5月}}。
 
 
 
なお釈放要求された9人のうち、植垣は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」、知念は「一切の[[沖縄県|沖縄]]解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」、大村は「政治革命を目指す赤軍とは[[イデオロギー]]が異なる」と釈放および日本赤軍への参加を拒否した。
 
 
 
日本政府は議論の過程で釈放要求リストに載っていた獄中者組合2人については「[[政治犯|思想犯]]ではなく刑事犯」である理由から2人の釈放拒否の方針を持って交渉した。しかし、これをハイジャック犯側が拒否したため最終的に日本政府が折れ、2人も釈放となった。
 
 
 
日本政府は同日朝に、運輸[[政務次官]]の[[石井一]]を派遣団長とし、日本航空の[[朝田静夫]]社長ら同社の役員や[[運輸省]]幹部を中心としたハイジャック対策の政府特使と交代の客室乗務員、6tの[[食品|食料]]、身代金と釈放に応じたメンバー6人などを日本航空特別機(ダグラスDC-8-62、機体番号:JA8031)でダッカへ輸送した<ref name="DC8-p113">「DC-8 Forever」P.113 日本航空刊 1987年</ref>。
 
 
 
日本政府が[[過激派]]による獄中メンバーの釈放要求に応じたのは[[1975年]]の[[クアラルンプール事件]]以来2回目となった。なお、[[検事総長]]の[[神谷尚男]]と[[法務大臣]]の[[福田一]]は、法治国家における「法の番人」としての立場から、このような安易に法を無視した「超法規的措置」の施行に対して強硬に反発した。福田は施行が決定された後に引責辞任した。
 
 
 
=== 軍事クーデター発生 ===
 
[[画像:Zia International Aiport (now Shahjalal International Airport) (02).jpg|right|thumb|220px|現在のジア国際空港]]
 
[[バングラデシュ軍]]中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って、[[10月2日]]の早朝に軍事[[クーデター]]が発生した<ref name="DC8-p113" />。クーデター部隊は、政府の要人の多くがこの事件に対応するため空港の[[管制塔]]に集まっていたことを利用しており、このクーデター軍は身代金600万ドルの強奪も企てていた。
 
 
 
その後[[戒厳令]]が発令され、市内および郊外における戦闘の末に最終的に2時間ほどで反乱軍は鎮圧されたものの、空港近辺でも戦闘があり、管制塔内も日本の政府関係者や報道各社の人員の目の前で銃撃戦が行われ、政府軍の[[士官]]11名が死亡したほか、事件解決の陣頭指揮を執っていた政府軍の司令官が負傷するなど現地は緊迫したが、当時は報道規制により詳細は分からなかった。
 
 
 
この時、銃声などの異変に気づいた犯人側からの「何が起きた?」という通信に対し、バングラデシュ側は「ちょっとした緊急事態だ。兵士が近づいたら撃っていい。自分の身は自分で守れ」と返答している。石井もクーデター軍に撃たれそうになったが、「[[日本人]]だ」と言うと相手は謝って引いたという。
 
 
 
=== 終結 ===
 
犯人側は当初から「日本政府とは交渉しない」と通達したため、交渉はバングラデシュ空軍のマムード司令官によって行われた。石井が到着した時には現地で人質の部分解放・残りは移送先で解放という内容で現場はまとまっていた。マムードはこの事件の解決を自分と国の威信を上げるために利用しようと考えていた。しかし、クーデターによってマムードが負傷したため、その後の通信・交渉は彼の部下が代わって行った。石井ら日本側が犯人と通信をすると、犯人グループは態度を硬化するということが何度も繰り返され、日本側は全く交渉の相手にされなかった。
 
 
 
10月2日に妊婦や病人など、数名の人質との交換が行われ、わずかな食料と水の差し入れを犯人側が受け入れた。犯人は自分たちが持ち込んだ[[ビスケット]]だけを口にし、水は人質に毒味をさせていた。その直後、エジプト人の乗客が[[コレラ]]感染の疑いがあることが判明し、その乗客と周囲にいた5名を解放し、機内や乗客を[[酒]]で消毒した。犯人側はパニックを恐れて人質たちにコレラという単語を口にすることを禁じたという。
 
 
 
その後、救援機がハイジャック機の止まっている滑走路の反対側に駐機。犯人側は飛行機を離陸体制にしたが、マムードの部下らによって進路を車などで塞がれ動けない状態にされた。アメリカ人銀行家を殺すという通信のカウントダウン5秒前で石井は犯人の要求を全て呑む回答をした。この際、石井は独断で、救援機の中で最後の交換要員である奥平に自分たち日本代表と人質全員を交換するよう説得するように頼んだ。翌[[10月3日]]に高橋機長と[[デッドヘッド]]で乗り合わせていた澤田隆介機長の機転で、さらなる人質の解放に成功し<ref name="DC8-p113" />、ダッカでは乗客乗員118名が解放された。
 
 
 
クーデター終結直後、クーデター軍による身代金強奪を恐れたバングラデシュの[[大統領令]]により強制離陸命令が出され、乗務員と残りの人質を乗せたハイジャック機は救援機とともにダッカを発ち、[[日本]]の[[外務省]]が受け入れの交渉・手配した[[アルジェリア]]へ向かうこととなった。
 
 
 
経由地の[[クウェート]]で人質7名を、[[シリア]]の[[ダマスカス]]で人質10名を解放、その後アルジェリアの[[ウアリ・ブーメディアン空港|ダル・エル・ペイダ空港]]に着陸し、ここでハイジャック犯と釈放犯は同国当局に投降してその管理下に置かれ、最後の人質12名と乗員7名の全員が解放された<ref>ディビッド・ゲロー『航空テロ』、イカロス出版、1997年。172頁</ref>。日本赤軍がアルジェリアを選んだのは同国がハイジャック防止条約を結んでいなかったためである。また、当時のアルジェリアは[[ソビエト連邦|ソ連]]などの支援を受け、親[[東側諸国]]の立場をとっており、さらにアメリカの過激派[[ブラックパンサー党]]のメンバーの[[亡命]]を受け入れており、[[先進国]]の[[左翼]]過激派組織や[[キューバ]]とともに[[パレスチナ解放機構]]など[[第三世界]]の革命組織の最大の支援国のひとつであることも大きかった。
 
 
 
=== 事件の影響 ===
 
事件解決に多大な協力を受けた上に、11名の死者を出した軍事クーデターのきっかけを作ったことを受け、事件解決後に日本政府はバングラデシュに謝礼とお詫びの意味を含めて特派使節を送ることとなった。しかし、バングラデシュ政府は日本政府に対し[[補償]]などを求めなかった。このバングラデシュ政府の対応は大きな称賛を受けることとなった。
 
 
 
また、この事件における日本政府の「超法規的措置」は、テロに悩まされた多くの諸外国から「(日本から諸外国への電化製品や[[自動車]]などの輸出が急増していたことを受けて)日本はテロまで輸出するのか」などと非難を受けた。ただし、当時は諸外国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中の仲間を釈放することは珍しくなく([[PFLP旅客機同時ハイジャック事件]]や[[ハーグ事件]]、[[ルフトハンザ航空615便事件]]など)、日本のみがテロに対して弱腰であったというわけではない。
 
 
 
なお、このようなテロリストの要求を受け入れる流れが変わるきっかけとなったのが、ダッカ事件と同年に起こった[[ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件]]である。[[西ドイツ]]政府は、[[ミュンヘンオリンピック事件]]を機に創設された警察特殊部隊「[[GSG-9]]」を航空機内に突入させ、犯人グループを制圧し、人質を救出した。
 
 
 
本事件の17日後に発生した[[長崎バスジャック事件]]では「阿蘇連合赤軍」を名乗る2人組が政治家との面会などを要求したが、一連の赤軍事件を模倣した[[身代金]]目的の犯行とされ、警察の強硬策により犯人1人が射殺、1人が逮捕され、人質16人は無事救出された。
 
 
 
[[1970年代]]の世界各国では、頻発していたハイジャックやテロ事件に対処するために[[特殊部隊]]の創設が進められつつある所だった。日本政府も同年、GSG-9を参考に、ハイジャック事件等に対処する特殊部隊を[[警視庁]]と[[大阪府警察]]に創設した。これらは当初「特科中隊」もしくは「零中隊」などと通称され、存在自体が長期間非公表とされていたが、[[1995年]]に発生した[[全日空857便ハイジャック事件]]に出動し、犯人を逮捕、人質を救出したことで広く世間に知られるようになった。その後、これらの特殊部隊は部隊を増設し、装備を強化した上で、[[特殊急襲部隊|SAT]]と呼ばれるようになった。また、ダッカ事件をきっかけにして[[警察庁]]は[[警備局]]公安第三課兼[[外事課]]調査官室を設置し、[[中東]]・[[ヨーロッパ|欧州]]・[[東南アジア]]などで日本赤軍の[[捜査]]を行うようになった。調査官室は現在の[[警察庁警備局国際テロリズム対策課|国際テロリズム対策課]]の起源になっている。[[アメリカ合衆国]]もGSG-9の突入作戦を教訓として、[[アメリカ陸軍|陸軍]]に[[デルタフォース]]を設立した。
 
 
 
なお、この事件を報道するニュースをきっかけに、[[福岡県]]の[[結核]][[サナトリウム|療養所]]に入院していた患者が「[[人質]]がどうなってしまうのか」で同室の患者と口論となり、[[ナイフ]]で刺殺するという別の事件も起こっている。
 
 
 
== 後日談 ==
 
===「モガディシオ事件」===
 
{{main|ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件}}
 
ダッカ日航機ハイジャック事件から、1か月も経たない[[1977年]][[10月13日]]、スペイン領[[マヨルカ島|マリョルカ島]][[パルマ・デ・マヨルカ]]発[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]行きの[[ルフトハンザドイツ航空|ルフトハンザ・ドイツ航空]]181便([[ボーイング737]]型機)が、[[ドイツ赤軍|西ドイツ赤軍]](バーダー・マインホフ・グループ)の依頼を受けたPFLPのメンバーにハイジャックされ、[[ソマリア]]の[[モガディシュ|モガディシオ]]に着陸させられた。
 
 
 
テロリストは[[西ドイツ]]政府に対して、身代金と政治犯釈放を要求したが、10月17日、[[ミュンヘンオリンピック事件]]をきっかけに創設された、西ドイツの特殊部隊「国境警備隊第9グループ([[GSG-9]])」が航空機に突入し、テロリストを制圧、人質全員を救出した。 なお機長1名がテロリストにより射殺され犠牲となったものの他の乗員乗客は無事だった。西ドイツ赤軍は、内容からしてダッカ日航機ハイジャック事件を参考にしたようだが、GSG-9により制圧される結果となった。
 
 
 
=== ハイジャック機その後 ===
 
ハイジャックされたDC-8-62型機(JA8033)はその後日本国内へ戻され、ハイジャック犯人による爆弾の爆発実験により一部が破損した機内[[便所|トイレ]]の修繕や、機内清掃などが施された後に通常運航へと戻され、[[1984年]]まで日本航空で使用された後に[[メキシコ]]の[[アエロメヒコ航空]]へと売却され、[[1990年代]]前半まで運行された。
 
 
 
=== 釈放要求されたメンバー・実行犯メンバーのその後 ===
 
釈放された6人メンバーのうち、[[1986年]]に[[泉水博]]、[[1996年]]に[[城崎勉]]、[[1997年]]に[[浴田由紀子]]がそれぞれ身柄拘束されている。また実行犯として[[丸岡修]]と[[西川純 (日本赤軍)|西川純]]が[[逮捕 (日本法)|逮捕]]され、[[無期懲役]][[判決 (日本法)|判決]]を受けている。[[和光晴生]]はこの事件では訴追されず、別事件で訴追され無期懲役判決を受けている。
 
 
 
現在も[[佐々木規夫]]・[[坂東國男]]・[[奥平純三]]・[[大道寺あや子]]・[[仁平映]]は[[国際手配]]されている。
 
 
 
== ハイジャック犯人グループ ==
 
* [[丸岡修]](1987年11月21日、[[東京]]で逮捕。2000年3月に無期懲役が確定、2011年死去。)
 
* [[和光晴生]](1997年2月15日、[[レバノン]]で[[逮捕]]後服役、2000年3月に日本へ移送。ハーグ事件とクアラルンプール事件について[[起訴]]されたが、本件については立件されなかった。丸岡の述懐では和光は参加していないとされている)<ref>[http://kunyon.com/shucho/090608.html 「長年の謎」が解けた!]鈴木邦男をぶっとばせ!、2009/06/08</ref>
 
* [[佐々木規夫]]
 
* [[坂東國男]]
 
* [[西川純 (日本赤軍)|西川純]](1997年11月18日、[[ボリビア]]で逮捕され、直後に日本へ移送。2011年9月に無期懲役が確定。)
 
 
 
== 釈放要求された9人 ==
 
{| class="wikitable"
 
|+'''釈放要求された9人のメンバー'''
 
|-
 
!メンバー||所属||勾留(受刑)||罪||style="white-space: nowrap;"|釈放<br />要求||その後
 
|-
 
|[[奥平純三]]||[[日本赤軍]]||[[東京拘置所]]||style="white-space: nowrap;"|[[ハーグ事件]]<br />[[クアラルンプール事件]]||同意||'''国外[[逃亡]]([[国際手配]])中'''
 
|-
 
|[[城崎勉]]||[[赤軍派]]||[[府中刑務所]]<br />(懲役10年)||横浜銀行[[PBM作戦|M作戦]]||同意||1996年9月、[[ネパール]]で拘束<br />[[アメリカ合衆国]]で[[懲役]]30年<br />2015年2月、日本に強制送還<br />到着した[[成田国際空港]]で逮捕<br>2016年12月、懲役12年の判決
 
|-
 
|style="white-space: nowrap;"|[[大道寺あや子]]||style="white-space: nowrap;"|[[東アジア反日武装戦線]]||東京拘置所||[[連続企業爆破事件]]||同意||'''国外逃亡(国際手配)中'''
 
|-
 
|[[浴田由紀子]]||東アジア反日武装戦線||東京拘置所||連続企業爆破事件||同意||style="white-space: nowrap;"|1995年3月、[[ルーマニア]]で拘束<br />1995年3月、日本に身柄送致<br />2004年8月、懲役20年確定
 
|-
 
|[[泉水博]]||[[統一獄中者組合|獄中者組合]]||[[旭川刑務所]]<br />(無期懲役)||殺人事件||同意||1986年6月、[[フィリピン]]で拘束<br />日本に身柄送致<br />1995年3月、懲役2年追加確定
 
|-
 
|[[仁平映]]||獄中者組合||style="white-space: nowrap;"|東京拘置所<br />(一審懲役10年)||殺人事件||同意||'''国外逃亡(国際手配)中'''
 
|-
 
|[[植垣康博]]||[[連合赤軍]]<br />(赤軍派)||東京拘置所||[[PBM作戦|M作戦]]||拒否||1993年2月、懲役20年確定<br />1998年10月、出所
 
|-
 
|[[知念功]]||沖縄解放同盟||[[沖縄刑務所]]||[[ひめゆりの塔事件]]||拒否||不明
 
|-
 
|[[大村寿雄]]||<!--西田戦旗派-->||[[京都刑務所]]||[[京都地方公安局爆破事件]]||拒否||不明
 
|}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[日本赤軍事件]]
 
* [[日本航空ハイジャック事件]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030147_00000 日本赤軍 日航機ハイジャック(1977年)] - [[NHKアーカイブス]]
 
 
 
{{1977年の航空事故一覧}}
 
{{DEFAULTSORT:たつかにつこうきはいしやつくしけん}}
 
[[Category:日本赤軍事件]]
 
[[Category:ハイジャック事件]]<!--発生場所がインド領空→バングラデシュ領土-->
 
[[Category:日本航空のハイジャック事件]]
 
[[Category:日本人の国外犯罪]]
 
[[Category:1977年の日本]]
 
[[Category:1977年のバングラデシュ]]
 
[[Category:日本・バングラデシュ関係]]
 
[[category:ダッカの歴史|につこうきはいしやつくしけん]]
 
[[Category:1977年9月]]
 
[[Category:1977年10月]]
 
[[Category:バングラデシュの事件]]
 

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