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[[image:362BCThebanHegemony.png|thumb|right|300px|テーバイが覇権を握っていた時期(紀元前371年-紀元前362年)の地図。黄色がテーバイとその同盟国。]]
 
{{出典の明記|date=2014年4月6日 (日) 08:13 (UTC)}}
 
'''テーバイ'''({{lang-grc|Θήβαι}} / {{lang|grc-Latn|Thēbai}} <small>発音:</small> {{IPA-el|tʰɛ̂ːbaj|}})は、[[古代ギリシア]]にあった[[都市国家]]([[ポリス]])のひとつ。現在の[[中央ギリシャ|中央ギリシャ地方]][[ヴィオティア県]]の県都[[ティーヴァ]]にあたる。
 
  
[[ボイオーティア]]同盟の盟主となり、[[アテナイ]]や[[スパルタ]]と覇権を争った最有力の都市国家のひとつであった。精強を謳われた「[[神聖隊]]」の活躍も知られている。
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'''テーバイ'''({{lang-grc|Θήβαι}} / {{lang|grc-Latn|Thēbai}} <small>発音:</small> {{IPA-el|tʰɛ̂ːbaj|}})
  
また[[ギリシャ神話]]では「7つの門のテーバイ」として名高く、[[オイディプース]]伝説などの舞台となっている。
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アテネの東北方,ボイオチア東部にあった古代ギリシアの重要都市。ギリシア名テバイ。現シベ。[[テーベ伝説]]上のオイディプス王の首都で,古代ギリシア悲劇の舞台として知られる。伝説によれば古代の都城カドメイアはフェニキア人によって建てられたとされるが,すでに初期青銅器時代には住民のいたことが知られ,ミケーネ時代には王宮が存在していた。[[トロイ戦争]] (前 1200頃) 直前までアルゴリスと覇を競ったが,その後は不明で,この間に民族移動があり,[[ドーリス人]]系のアイゲイデス族を含む混血のボイオチア人が成立。前6世紀に[[ボイオチア同盟]]が形成され,前5世紀以来テーベはその盟主となった。アテネへの敵対からアケメネス朝ペルシアと,そしてのちにはスパルタと協力。[[ペロポネソス戦争]]でアテネを破り (前 404) ,その全滅を望んだが果たさず,転じてスパルタと争うにいたった。前 386年スパルタはボイオチア同盟を解散,前 382年カドメイアを占領した。しかしテーベはスパルタと戦って大勝し,同盟も再建され,ギリシア第1の勢力となった。テーベの勇将[[エパメイノンダス]]の戦死後テーベは急速に衰え,前 346年マケドニアのフィリッポス2世との同盟を受容した。その後まもなく同盟を破棄し,アテネとともにフィリッポスと戦ったが,前 338年の[[カイロネイアの戦い]]で完敗,ボイオチア同盟は解体され,テーベはマケドニア軍の占領下に置かれた。前 336年アレクサンドロス3世 (大王) に対する反乱失敗後,町は壊滅したが,前 316年大王の[[ディアドコイ]] (後継者) の一人マケドニア王[[カサンドロス]]によって再建された。前 197年ローマの支配下に置かれ,前 86年将軍 L.[[スラ]]によって分割された。2世紀の歴史家は,カドメイアに住民のいたことを報じるが,町は中世を通じて征服者や冒険家に次々と蹂躪され,1435~1829年に及ぶトルコの支配下では一寒村となり果てた。ギリシア領となってから,周辺の豊かな農業地帯の中心地として発展し始め,現在,小麦,オリーブ油,ワイン,タバコ,綿花などの集散地。南東約 50kmのアテネと鉄道で連絡。
  
長音を略した「'''テバイ'''」や、「'''テーベ'''」({{lang-en|Thebes}})と表記されることもある。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
== 地理 ==
 
テーバイは、[[ボイオーティア]]と[[アッティカ]]を分かつ[[キサイロナス]]山脈の北麓、ボイオーティア平原の南端にあたる。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 都市の勃興 ===
 
テーバイは[[アイオリス人]]が建設したと考えられている。テーバイからは[[ミケーネ文明]]期の遺跡が見つかっている。青銅器時代には[[ドーリア人]]の侵攻を受けたと考えられ、かれらによる征服の事実がこの都市をめぐる神話の背景になっていると考えられている。[[ボイオーティア]]地方の中心に位置し、また軍事的にも強力なテーバイは、自然にボイオーティア人の盟主としての地位を確立していった。
 
 
 
=== アテナイとの抗争とペルシャ戦争 ===
 
[[Image:Plateje.jpg|thumb|right|200px|プラタイアの戦い(紀元前479年)]]
 
[[紀元前6世紀]]後半、テーバイ人たちははじめて[[アテナイ]]人たちと衝突を起こした。ボイオーティア側の小さな村落である[[プラタイア]]が独立を維持するためにアテナイ人が支援したのが契機であり、紀元前506年にはアッティカへの侵攻が撃退されている。
 
 
 
[[紀元前480年]]、[[アケメネス朝]]の[[クセルクセス1世]]がギリシャに侵攻する([[ペルシャ戦争]])。[[テルモピュライの戦い]](紀元前480年)においてテーバイ軍400人はギリシャ軍に参加し、[[スパルタ]]の[[レオニダス1世]]とともにテルモピュライで最後まで踏みとどまるものの、ペルシャへ投降。レオニダスらの「玉砕」と比較して「愛国心」がないと非難されるその姿勢は、しばしばアテナイとの険悪な関係で説明される。テーバイの指導的な貴族たちはペルシャ軍への参加を決定し、テーバイはペルシャ軍のギリシャ攻略拠点となった。
 
 
 
[[プラタイアの戦い]](紀元前479年)において、テーバイ軍はペルシャ軍の一員として激しく戦うものの、戦いはギリシャ連合軍が勝利を収めた。テーバイはギリシャ連合軍によって攻略され、ボイオーティア同盟の盟主の座から引き下ろされるなどの懲罰が加えられた。スパルタはテーバイを[[デルポイ]]の[[隣保同盟]]から除名しようとしたが、アテナイの仲裁によって免れている。
 
 
 
=== ペロポネソス戦争 ===
 
紀元前460年、アテナイ([[デロス同盟]])とスパルタ([[ペロポネソス同盟]])との間に[[第一次ペロポネソス戦争]](紀元前460年-紀元前445年)が勃発する。[[紀元前457年]]、スパルタは方針を転換し、中部ギリシャにおいてアテナイに対抗できる勢力としてボイオーティアにおけるテーバイの復権を認めた。アテナイは[[オイノフュタの戦い]](紀元前457年)でボイオーティア同盟を破り、テーバイを除く全都市を占領してボイオーティアを支配下に置いたが、テーバイのカドメアの要塞はアテナイに対する抵抗の拠点として持ちこたえた。[[デルポイ]]をめぐる[[第二次神聖戦争]](紀元前449年-紀元前448年)の終息後、ボイオーティアの諸都市はアテナイに対して反旗を翻すようになった。[[コロネイアの戦い (紀元前447年)|コロネイアの戦い]]([[紀元前447年]])でボイオーティアなどの連合軍はアテナイに勝利、アテナイはボイオーティアから撤退し、ボイオーティアの諸都市は独立を取り戻した。
 
 
 
[[紀元前431年]]、[[ペロポネソス戦争|(第二次)ペロポネソス戦争]](紀元前431年-紀元前404年)が勃発するが、テーバイはスパルタの忠実な同盟者としてアテナイと戦った。これに対してアテナイはプラタイアをはじめとする小規模な都市を支援してテーバイを苦しめた。紀元前427年、テーバイは因縁の深いプラタイアを占領し、破壊している。[[紀元前424年]]には{{仮リンク|デリオンの戦い|en|Battle of Delium}}で、テーバイをはじめとするボイオーティア軍はアテナイ軍を破り、テーバイの軍事的な実力が示されることとなった。
 
 
 
=== コリントス戦争 ===
 
紀元前404年、ペロポネソス戦争はスパルタの勝利で終結し、アテナイには親スパルタの[[三十人政権]]が樹立された。テーバイの指導者たちは、スパルタが併合の意図を持っていたことを知り、スパルタとの同盟を破棄した。[[紀元前403年]]には、テーバイはアテナイの民主主義復活をひそかに支援し、スパルタに対する均衡をとらせようとしている。反スパルタ勢力に対してアケメネス朝からの資金提供も行われたことも一つの要因となり、テーバイは[[コリントス]]とともに反スパルタ連合の核となっていった。紀元前395年、テーバイやコリントスなどの諸国はスパルタとの間に戦端を開く([[コリントス戦争]])。テーバイは{{仮リンク|ハリアルトスの戦い|en|Battle of Haliartus}}(紀元前395年)や[[コロネイアの戦い (紀元前394年)|コロネイアの戦い]](紀元前394年)で軍事的な能力を示した。
 
 
 
[[紀元前387年]]、[[アンタルキダスの和約]]が結ばれ、すべてのギリシアの都市の完全な自治が明記された。この和約はボイオーティアの諸都市のテーバイからの離反を招くものであり、テーバイにとっては破滅的なものであった。[[紀元前383年]]、スパルタは裏切りによって城砦を占拠し、テーバイの軍を削減した。
 
 
 
=== レウクトラの戦いとテーバイの覇権 ===
 
[[紀元前379年]]、[[ペロピダス]]や[[エパメイノンダス]]が率いるテーバイ市民の決起が成功してスパルタ軍を追放し、テーバイはスパルタの支配から脱した。伝統的な寡頭政治の代わりに民主主義が導入された。
 
 
 
スパルタとの戦いにおいて、[[ペロピダス]]や[[エパメイノンダス]]が率いるテーバイ軍は優れた戦果を挙げた。紀元前371年の[[レウクトラの戦い]]で、エパメイノンダス率いる劣勢のテーバイ軍がスパルタ軍を撃破したことで、テーバイの軍事的な栄光は頂点に達し、テーバイがスパルタに代わってギリシャの覇権を握ることとなった。エパメイノンダス率いるテーバイ軍はペロポネソスに侵攻し、スパルタ経済の基盤である奴隷を解放した。同様の遠征はテッサリアやマケドニアに対しても行われた。
 
 
 
しかし、テーバイの覇権は長く続かなかった。[[紀元前364年]]には[[キュノスケファライの戦い (紀元前364年)|キュノスケファライの戦い]]でペロピダスが戦死。[[紀元前362年]]の[[マンティネイアの戦い (紀元前362年)|マンティネイアの戦い]]でエパメイノンダスをはじめ多くの将軍を失った。エパメイノンダスに代わる有能な指導者を持たなかったテーバイは覇権を失い、復活したアテナイの後塵を拝することになる。
 
 
 
{{仮リンク|第三次神聖戦争|en|Third Sacred War}}(紀元前356年–紀元前346年)で、テーバイはアテナイ、スパルタなどと同盟した[[フォキス]]と戦ったが、中部ギリシャにおいて優勢を維持することはできなかった。テーバイは[[マケドニア王]][[ピリッポス2世]]の助力を得ることでようやく勝利を手にしたが、この戦争はピリッポスのギリシアでの勢力拡大へと繋がった。
 
 
 
=== マケドニアとの抗争 ===
 
[[マケドニア王国]]の[[ピリッポス2世]]は、覇権国家だった当時のテーバイに人質として暮らし、エパメイノンダスから教育を受けたとされる。
 
 
 
[[紀元前339年]]、アテナイの指導者である[[デモステネス]]は、反マケドニアの立場でテーバイを説得し、同盟を結んだ。[[紀元前338年]]の[[カイロネイアの戦い]]で、ピリッポス2世とその子アレクサンドロス(のちの[[アレクサンドロス3世]])が率いるマケドニア軍と戦ったテーバイ・アテナイ連合軍は敗れた。この戦いで、[[神聖隊]]も壊滅を遂げた。これにより、ギリシャに対するマケドニアの影響を排除する希望は失われた。ピリッポス2世はボイオーティアに対する支配権を剥奪するのみで満足した。
 
 
 
[[紀元前335年]]、ピリッポス2世が暗殺されると、ギリシャの諸都市はマケドニアから離反した。テーバイはアテナイと結び、蜂起した市民はマケドニア軍を追放して[[アレクサンドロス3世]]に反旗を翻した。北方を転戦していた[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス]]は直ちに反応してギリシャに急行した。他の都市はアレクサンドロスの強行軍の前に抵抗をためらったが、テーバイは徹底抗戦を決めた。結果、テーバイは蹂躙された。テーバイは徹底して破壊され、殺戮の中で生き残った住民は奴隷として売り飛ばされた。破壊を免れたのは寺院と[[ピンダロス]](テーバイ出身の紀元前5世紀の詩人)の家のみ、奴隷化を免れたのは聖職者と親マケドニアの指導者、ピンダロスの末裔だけであった。テーバイの末路に恐怖したアテナイは、マケドニアに屈服した。
 
 
 
=== その後のテーバイ ===
 
{{see|ティーヴァ}}
 
[[紀元前316年]]、[[カッサンドロス]]によってテーバイは再建された。中世に入ると、[[東ローマ帝国]]のもとで絹織物の産地として発展を遂げることとなる。
 
 
 
==神話におけるテーバイ==
 
テーバイは、[[ギリシャ神話]]で重要な役割を果たす土地である。
 
 
 
神話によれば、テーバイの創建者は[[カドモス]]である。[[フェニキア]]王[[アゲーノール#フェニキア王|アゲーノール]]の命で[[ゼウス]]に攫われた[[エウロペ]]を捜索していたカドモスは、エウロペが見付からないので帰国できず、代わりに[[アレス]]の竜を討伐してテーバイを建国した。カドモスは[[ハルモニアー]]と結婚し、複数の子女をもうけたが、ことごとく不幸な死を遂げた。そのひとり王女[[セメレー]]がゼウスとの間になした子が、豊穣とブドウ酒と酩酊の神[[ディオニューソス]]である。
 
 
 
父を殺し母を妻とした[[オイディプース]]の悲劇の舞台であり、オイディプースはカドモスの玄孫にあたる。
 
 
 
オイディプースには2人の男子([[エテオクレース]]、[[ポリュネイケス]])と2人の女子([[アンティゴネー]]、[[イスメーネー]])がいた。2人の男子は王位をめぐって争い、[[テーバイ攻めの七将]]の物語となる。七将は攻略に失敗し、反逆者として埋葬が禁止された兄ポリュネイケースの亡骸を葬ったアンティゴネーは自害した。10年後に七将の息子たち([[エピゴノイ]])が勝利を収める。神話によればテーバイには七つの門があるとされ、[[テーバイ攻めの七将]]やその息子達にあたる[[エピゴノイ]]達は各将が一つずつ門を攻め、対するテーバイ側も各門に一人ずつの将を配して対抗した。
 
 
 
また、大英雄[[ヘーラクレース]]出生の地でもあり、ここからテーバイの重装歩兵の盾の紋章には棍棒(ヘーラクレースの象徴)の絵がよく用いられていた。
 
 
 
テーバイに関する神話・神話上の人物として以下のものがある:
 
 
 
* [[カドモス]]の竜退治
 
* [[スパルトイ]]
 
* [[ハルモニアー]]の首飾り
 
* [[ディオニューソス]]
 
* [[ペンテウス]]と[[アガウエー]]
 
* [[オイディプース]]
 
* [[テイレシアース]]
 
* [[テーバイ攻めの七将]]
 
* [[アンティゴネー]]と[[イスメーネー]]
 
* [[エピゴノイ]]
 
** [[ディオメーデース]]、[[ステネロス]]、[[エウリュアロス]]は[[トロイア戦争]]にも参戦
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commonscat|Thebes, Greece}}
 
* [http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1025/ ギリシャ・テーバイ紀行]{{Ja icon}} 現代のテーバイに伝説の七つの門を訪ねる旅
 
* 地図(Coordinates): {{coor dms|38|19|0|N|23|19|0|E|region:GR}}
 
  
 
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[[Category:ギリシャの考古遺跡]]
 
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[[Category:中央ギリシャ]]
 
[[Category:中央ギリシャ]]
 
[[hr:Antička Teba (Grčka)]]
 
[[hu:Thébai]]
 
[[mr:थेबेस (प्राचीन ग्रीक शहर)]]
 
[[nds:Theben (Böotien)]]
 

2018/10/9/ (火) 11:06時点における最新版

座標: 東経23度19分2秒北緯38.32389度 東経23.31722度38.32389; 23.31722

テーバイ古代ギリシア語: Θήβαι / Thēbai 発音: [tʰɛ̂ːbaj]

アテネの東北方,ボイオチア東部にあった古代ギリシアの重要都市。ギリシア名テバイ。現シベ。テーベ伝説上のオイディプス王の首都で,古代ギリシア悲劇の舞台として知られる。伝説によれば古代の都城カドメイアはフェニキア人によって建てられたとされるが,すでに初期青銅器時代には住民のいたことが知られ,ミケーネ時代には王宮が存在していた。トロイ戦争 (前 1200頃) 直前までアルゴリスと覇を競ったが,その後は不明で,この間に民族移動があり,ドーリス人系のアイゲイデス族を含む混血のボイオチア人が成立。前6世紀にボイオチア同盟が形成され,前5世紀以来テーベはその盟主となった。アテネへの敵対からアケメネス朝ペルシアと,そしてのちにはスパルタと協力。ペロポネソス戦争でアテネを破り (前 404) ,その全滅を望んだが果たさず,転じてスパルタと争うにいたった。前 386年スパルタはボイオチア同盟を解散,前 382年カドメイアを占領した。しかしテーベはスパルタと戦って大勝し,同盟も再建され,ギリシア第1の勢力となった。テーベの勇将エパメイノンダスの戦死後テーベは急速に衰え,前 346年マケドニアのフィリッポス2世との同盟を受容した。その後まもなく同盟を破棄し,アテネとともにフィリッポスと戦ったが,前 338年のカイロネイアの戦いで完敗,ボイオチア同盟は解体され,テーベはマケドニア軍の占領下に置かれた。前 336年アレクサンドロス3世 (大王) に対する反乱失敗後,町は壊滅したが,前 316年大王のディアドコイ (後継者) の一人マケドニア王カサンドロスによって再建された。前 197年ローマの支配下に置かれ,前 86年将軍 L.スラによって分割された。2世紀の歴史家は,カドメイアに住民のいたことを報じるが,町は中世を通じて征服者や冒険家に次々と蹂躪され,1435~1829年に及ぶトルコの支配下では一寒村となり果てた。ギリシア領となってから,周辺の豊かな農業地帯の中心地として発展し始め,現在,小麦,オリーブ油,ワイン,タバコ,綿花などの集散地。南東約 50kmのアテネと鉄道で連絡。



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