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[[File:Deutscher_Idealismus.jpg|thumb|ドイツ観念論の哲学者たち。カント(左上)、フィヒテ(右上)、シェリング(左下)、ヘーゲル(右下)]]
 
'''ドイツ観念論'''(ドイツかんねんろん、{{lang-de|Deutscher Idealismus}})は、[[18世紀]]末から[[19世紀]]半ばに、[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]や[[デイヴィッド・ヒューム|フューム]]の流れを組む[[イマヌエル・カント]]の『[[純粋理性批判]]』への反動として、[[プロイセン王国]]など[[ドイツ語]]圏の主に[[ルーテル教会|ルター派]]地域において展開された[[哲学]]思想であり、[[ロマン主義]]と[[啓蒙時代]]の政治革命に密接に関連する。
 
  
'''ポスト[[イマヌエル・カント|カント]]派観念論'''(post-Kantian idealism)、'''ポストカント派哲学'''(post-Kantian philosophy)または単に'''ポストカント主義'''(post-Kantianism)とも呼ばれ<ref>Terry Pinkard, ''German Philosophy 1760-1860: The Legacy of Idealism'', Cambridge University Press, 2002, p. 217.</ref>、主な論者は[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]、[[フリードリヒ・シェリング]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]であるが、併せて[[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]]、{{仮リンク|ゴットリープ・エルンスト・シュルツ|en|Gottlob Ernst Schulze|preserve=1}}、[[カール・レオンハルト・ラインホルト]]、[[フリードリヒ・シュライアマハー]]の貢献も顕著である。
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'''ドイツ観念論'''(ドイツかんねんろん、{{lang-de|Deutscher Idealismus}}
  
[[ヘーゲル]]の死後には[[老ヘーゲル派]]、、[[青年ヘーゲル派]]などの思想に分岐していった。
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カントからヘーゲルにいたる思潮を中核に,18世紀後半から 19世紀なかばにかけてドイツを中心に展開された観念論的思想運動,現代にいたるまでその影響は大きい。カントは人間の本来的な認識能力の批判的分析により,独断的形而上学を排し真の形而上学を樹立しようとした。フィヒテはカントの純粋統覚の概念を自我と結びつけ,外的世界を非我とし,この自我と非我との弁証法において絶対自我が得られるとして,絶対的観念論の基礎を築いた。さらにシェリングは外的世界をも絶対自我の弁証法的自己展開の一契機と考え,同一哲学を形成した。このシェリングの意図を弁証法的論理をもって完成させたのはヘーゲルである。自我は理念として,現象世界を自己疎外と自己止揚の反復を介して展開し,最後に自己自身へ回帰する。ここにドイツ観念論はその体系的完成をみるにいたった。
 
 
== 概要 ==
 
'''ドイツ古典主義哲学'''や'''ドイツ理想主義哲学'''とも呼ばれる(これらのような呼称にした場合、該当する思想家が若干異なることがある)。[[マルクス主義]]を国家理念の嚆矢とした国々では、ドイツ固有で且つ労働者外的な思索だという意味づけで'''ドイツ市民的観念論'''({{lang-de-short|der deutsch-bürgerliche Idealismus}})と呼ばれたが現在この呼称は廃れている。後述するが、これらの名称は19世紀後半からの哲学史研究のなかで生じたのであり、ドイツ観念論に分類される思想家たちが、こうした名称を用いたわけではない。
 
 
 
[[イマヌエル・カント]]の批判哲学およびそれに対する[[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]]の批判に刺激され、[[神]]または[[絶対者]]と呼ばれる観念的原理、の自己展開として世界および人間を捉えることをその特徴とする。[[フランス革命]]の行動性に比して、宗教的観照という穏健さにある。[[プロテスタント]]神学に近接している。哲学者[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]、[[フリードリヒ・シェリング]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]のほか[[カール・レオンハルト・ラインホルト]]、[[フリードリヒ・ヘルダーリン]]、[[カール・ヴィルヘルム・フェルディナント・ゾルガー]]、神学者[[フリードリヒ・シュライアマハー]]がドイツ観念論の主要な論者とみなされる。
 
 
 
なおカント自身がドイツ観念論に属するかどうかは、研究者により見解が分かれるが、カント哲学とドイツ観念論を分けて考える学者が多い。その根拠は、あるいはドイツ観念論に含まれる思想家がカントとはその時代に哲学的に対立関係にあったという哲学史的な事情、またカントが認識理性の対象ではないとした神([[物自体]])が、ドイツ観念論では哲学のもっとも重要な主題であり、知の対象とされる両者の哲学上の立場の違いに求められる。一方、カントにおいても物自体は実践理性の要請であって哲学体系の中におかれており哲学の主要な主題であること、さらにはドイツ観念論の主要な論者はカントから出発して[[自己]]の体系を構築したことを重視し、ドイツ観念論の初めにカント(の[[コペルニクス的転回]]以降)をおく哲学史家もいる。これに対してドイツ古典主義哲学は、カントとドイツ観念論の連続性を重視し、カントを含む呼称である。
 
 
 
== ドイツ観念論という呼称 ==
 
「ドイツ観念論」期と呼ばれていた時代の人々は、自らの哲学をドイツ観念論とは呼んでいなかった。「ドイツ観念論」という呼称は、20世紀初頭の[[新カント派|新カント学派]](Neukantianismus)や[[新ヘーゲル学派]]の哲学史の学者達([[リヒャルト・クローナー]]や[[ニコライ・ハルトマン]]など)が、これら一連の思想家の総称として「ドイツ観念論」として紹介したことにより、普及したものである。この名称は、同時代の哲学史家の[[ローゼンツヴァイク]]が1917年に発見し「ドイツ観念論の最古の体系プログラム」({{lang-de-short|''Das älteste Systemprogramm des deutschen Idealismus''}})と呼んだ著者不明の哲学的断片(1796年から1797年の間に筆記)に拠っている。この名称自体は草稿の本文にはなくローゼンツヴァイクが付したものである。
 
 
 
なお、この断片の著者については幾つかの説がある。断片自体は[[ゲオルク・ヘーゲル]]によって書き写されたものである。ローゼンツヴァイクはこれを[[フリードリヒ・シェリング]]のものであるとした。しかしのちに筆者としてヘーゲル、ヘルダーリン、集団筆者説などが提唱され、どれも決定的な説とはなっていない。草稿の内容は上に挙げた三人の思想と大きく関わっているものの、フィヒテとは関わりが薄く、その点から「ドイツ観念論の最古の体系プログラム」という名称の妥当性にも疑問がある。たとえば体系草稿は[[倫理学]]と美的なものの結びつきを要求し、民衆に与えられるべき哲学的な「新しい神話」の創出を哲学の目標とするが、フィヒテにはそのような美的なものへの関心と要求は薄い。
 
 
 
このようにドイツ観念論者と総称されている思想家の中でも、その内容は思想家によって様々に異なる。しかしカント哲学を出発点として「自己意識」や「[[精神#近代西洋哲学用語|精神]]」、「[[自我#哲学における自我|自我]]」などの精神的なもの、さらに言えば、前にも触れているとおり、その根底として観念的原理の自己展開をおき、それを[[絶対者]]あるいは[[神]]と呼んで、後者との関わりによって世界や人間の本質を捉える立場から説明しようとする「観念論」の立場の哲学であるという点では一致していると言える。
 
 
 
== カントからドイツ観念論へ ==
 
[[イマヌエル・カント]]の三批判書はしばしばカント哲学といわれる。これはすでにドイツ観念論の時代にもそうであった。<!--批判の出版直後もたぶんそうだが文献にまだあたっていません。Aph.-->しかしカントは自身の「批判」 を「哲学」とはみなさなかった。「批判」とは哲学の予備学として、人間理性によって遂行される限りでの哲学の前提としての[[理性]]({{lang-de-short|Vernunft}})の性格を示すものである。カントはそれまでの哲学、すなわち[[形而上学]]を、人間理性の性格を踏まえない空虚な体系、「独断論のまどろみ」であると批判した。そして人間の認識のあり方とその前提としての超越論的認識を問い、また、そのような前提をもつ人間理性の対象となりうるものは何であるかについての考究に向かった。この理性の法廷での審査が批判({{lang-de-short|Kritik}})である。批判を通じて、伝統的な哲学の対象であった存在({{lang-de-short|Sein}})や神({{lang-de-short|Gott}})は、認識理性によっては認識({{lang-de-short|erkennen}})されえず、ただ思惟({{lang-de-short|denken}})することのみが可能なものとされた。そしてカントにとって形而上学たる哲学({{lang-de-short|Philosophie}})は批判の上にのみ書かれうるものであった。
 
 
 
一方ドイツ観念論の代表的な思索家たちは、再び神と存在を直接のかつ究極の対象として取り上げた。人間の知としての哲学の真正の対象は神的なもの、あるいは端的に神であると宣言した彼らは、それぞれの思想が、かつそれのみが真正な哲学であるとの自負にたった。この自覚を共有するのがドイツ観念論だとすれば、カントはドイツ観念論の思想家とは一線を画すといわねばならないだろう。カントの著作を「哲学」として受容した[[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ|ヤコービ]]、[[ラインホルト]]、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]、[[フリードリヒ・シェリング|シェリング]]らの若い世代は、カントの理論に潜む理性の二重性と分裂を、自らの哲学によって超え、統一をもたらそうとした。いいかえれば、カントが[[物自体]]({{lang-de-short|Ding an sich}})と[[認識]]({{lang-de-short|Erkenntnis}})あるいは[[神]]と[[人間]]理性の間においた断絶をふたたび統一にもたらそうとする運動が、ドイツ観念論だったのである。そのような統一を与えるのが、自己意識すなわち[[自我]]({{lang-de-short|das Ich}})であり、さらにそのような意識を可能にする根拠でありかつ意識の究極の対象である絶対者ないし神である。ところでこの思想は、しばしば先鋭化して伝統宗教のもつ神概念と対立し、またカントが否定した神の認識可能性を再び主張することになる。一方カントは、学者の言説には自由な言論が認められるべきだが、社会の安定のためにはそのような言説を控える事はやむをえない場合があるとも考えていた。皮肉な事に、カント自身によって刺激されたドイツ観念論の急進性は、カントの穏健さとは相容れないものだった。ドイツ観念論の初期の展開はカントの最晩年に当たるが、カントは陽にフィヒテらを批判した。またドイツ観念論の思想家たちも、カントの二世界論を不徹底なものと言明し、カントを超えることを標榜した。しかしカントが1804年になくなったとき、カントの思想の限界を指摘してやまなかったドイツ観念論の思想家たちは、一様にドイツの思想を革新したこの巨人の死を悼んだのである。
 
<!-- コメントアウト。ここにいれるより、ある程度時系列的な記述があったほうがいいのかも。
 
カントの死去する少し前、1800年頃から、ドイツ観念論はカントの影響とカントとの対決を離れ、すでにそれ以前からはじまっていたドイツ観念論内部での相互の影響を中心として、独自の展開をみせていく。1800年代はドイツ観念論にとっての重大な展開点であった。この間に、フィヒテの後期思想が開始され、シェリングは同一哲学を経て1809年には有限性と悪の問題に取り組む中期思想へと展開する。また1807年にはヘーゲルの『精神現象学』が出版される。1800年代は、カントの死によってひとつの時代が終焉しただけでなく、以前には互いを共動者とみなした彼ら三人の決別の時期でもあったのである。
 
-->
 
 
 
== 展開と相互交流 ==
 
ドイツ観念論はその成立過程から、一人の思想家による単独での思索の成果ではなく、むしろ当時の哲学者らによる様々な意見交換・批判などの交流によって展開した。その出発点にはカント哲学によって開かれた[[超越論哲学|超越論的自我]]とその働きによる世界の把握がある。ここから、カントの哲学が厳しく分断した認識と[[物自体]]の統一を「[[信仰]]」という概念にもとめた[[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]]、実践理性と理論理性との統一を「自我」概念に求めた[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]、フィヒテの絶対的自我の立場の盲点ともいえる「[[自然哲学|自然]]」という問題をも体系に取り入れ、自然を自我(精神)の超越論的前史とした[[フリードリヒ・シェリング]]、こうしたシェリングの精神と自然をも同一にしうる絶対者からでは差別された有限的な存在を導き出せないとした[[ゲオルク・ヘーゲル]]の哲学が、相互の協同と論争の流れのなかで展開していった(詳しくは各思想家の項を参照のこと)。この流れの中にも、さらに[[カール・レオンハルト・ラインホルト]]、[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]らといった多くの思想家との交流と論争が加わり、また[[ロマン主義]]と呼ばれた同時代の芸術・文学現象との交流があり、ドイツ語圏を蔽う巨大な思想運動が展開したのである。そのような交流の場となったのが、フィヒテやシェリングが[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]に[[イェーナ大学]]の教授陣として招聘された[[イェーナ]]であり、フィヒテ、ゾルガー、シュライヤーマハー、後にはヘーゲルやシェリングが大学で教鞭をとった[[ベルリン]]であり、あるいはヤコービやシェリングが王立アカデミーの、のちには大学のスタッフを勤めた[[ミュンヘン]]であった。
 
 
 
しかし、交流は決して快い結果ばかりを生み出したわけではない。フィヒテは感激をもってカントを訪れ、カント哲学を発展させたと自負したが、カントとフィヒテの間柄は良好ではなく、カントはフィヒテを自分の哲学を誤解している人物として非難した。シェリングとフィヒテはイェーナ大学の同僚として親しみ、共同の哲学雑誌の出版を構想したが、自然概念をめぐる二人の哲学的立場の対立は、互いの哲学上の立場を理解しないままに、苦々しい言葉の応酬となって終わった。シェリングとヘーゲルは神学校からの長い交流があり、ヘーゲルは、シェリング哲学の擁護者として最初の本『シェリング哲学とフィヒテ哲学との差異』を出版し、二人はイェーナで1802年から1803年のあいだ哲学雑誌を共同で出版した。しかし、10年とたたないうちに、[[1807年]]ヘーゲルは『精神現象学』序言で「すべての牛を暗くする闇夜」という比喩で、痛烈にシェリングの絶対者把握を批判し、二人の友情は断絶するに到る。以後二人の間には、互いの哲学を真っ向から批判しあう、教壇上の言説の対立があるばかりであった。また、ヤコービとシェリングの間にも神概念をめぐる論争がある。[[フリードリヒ・シュライアマハー]]とヘーゲルの宗教哲学は対立し、ベルリンでは二人が論文の審査をめぐって決闘したという風評が流れた事さえあった。さらに、若い私講師[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]は、ヘーゲルに挑み同じ時間に講義を開講して、結果生涯ヘーゲルを呪詛しつづける事になる。テュービンゲン神学校を出てすぐのシェリング、ヘーゲル、[[フリードリヒ・ヘルダーリン]]三人の若い牧歌的な書簡のやり取りを除けば、ドイツ観念論の壮麗な体系の下には私怨をも伴った激しく苦い論争の地層が厚く横たわっているのである。
 
 
 
== 哲学史におけるドイツ観念論の位置 ==
 
ドイツ観念論の成立にあたって重要な思想としては、カントのほか、[[プラトン]]、古代[[教父]]思想、[[ドイツ神秘主義]]、[[バールーフ・デ・スピノザ]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ]]、[[自然哲学]]、また哲学思想とは云いがたいが[[ヤーコプ・ベーメ]]、[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]および[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]、[[ヨハン・ゲオルク・ハーマン]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]などの思想がある。また、同時期に文学界では[[シュレーゲル]]兄弟を中心として[[ロマン主義]](ドイツロマン主義)が台頭し、ドイツ観念論と呼ばれる哲学者とたちと密に交流し互いに影響しあったことも重要である。彼らが集った小都市[[イェーナ]]や[[ベルリン]]は当時の精神文化の中心地となった。
 
 
 
ドイツ観念論はヘーゲルの死後直系の弟子たちの世代が終わった1870年代には、[[マルクス主義]]を除けばほぼ影響力を失った。しかし20世紀初頭に興った[[新ヘーゲル学派]]以降ドイツ観念論の研究は再び見直され、現在では近代哲学の最も重要な一時期であるという評価が定着している。ドイツ観念論を批判的に接受して自身の哲学を展開している思想家は多く、なかでもしばしば注目されるものに、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデガー]]や[[ジャック・デリダ|デリダ]]の論考が挙げられる。またドイツ観念論は、同時代のみならず近現代の[[キリスト教神学]]などにも影響を与えている。
 
 
 
また、一般的にはカントに端を発し、フィヒテ、シェリングという過渡期を経て、ヘーゲルでもってドイツ観念論は完成するという見地(これは新ヘーゲル主義の哲学研究者による見方が示し、定着したものでもある)であるが、これはフィヒテやシェリングの哲学の欠点を補ってヘーゲルが哲学を展開したということではない。上記に見たように、彼らの思索は激しい論争の元で展開されており、互いに自身の哲学こそ、真なるものと思っていた。従って、他者の批判には相応に応えており、一筋縄ではいかない。上記にあげた一般的な見方が絶対的なのか、また新しい視点からドイツ観念論の哲学の特徴を論ずることは出来ないか、現在の世界各国のドイツ観念論に関心のある哲学研究者の課題であろう。
 
 
 
ドイツ観念論の研究はドイツを中心に国際的な活動として営まれており、とくにヘーゲル研究に国際化の傾向が著しい。フィヒテやシェリングについても国際的な規模の学会があり、ドイツを中心に活発な研究がなされている。
 
 
 
==脚注==
 
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== 関連文献 ==
 
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ドイツ観念論についての日本語の文献は多い。ここでは、ドイツ観念論全体を俯瞰し、個別の思想家や著作への案内となるもののなかから、入手しやすく比較的前提知識を要さないものを挙げた。
 
*[[廣松渉]]・[[加藤尚武]]・[[坂部恵]]他編『講座 ドイツ観念論』全6巻 [[弘文堂]] 1990年
 
*大橋良介・大峯顕他編『叢書 ドイツ観念論との対話』6巻 [[ミネルヴァ書房]] 1994年
 
*大橋良介著『絶対者のゆくえ  ドイツ観念論と現代世界』ミネルヴァ書房 1993年
 
*[[ニコライ・ハルトマン]]著(村岡晋一監訳)『ドイツ観念論の哲学』 [[作品社]] 2004年
 
*リヒャルト・クローナー著(上妻精監訳)『ドイツ観念論の発展 カントからヘーゲルまで』 [[理想社]] 1998年(1巻)・2000年(2巻)・原タイトルは'' Von Kant bis Hegel''、(カントからヘーゲルまで)
 
*[[岩崎武雄]]著『カントからヘーゲルへ』 [[東京大学出版会]] 1977年
 
*[[高山守]]編『カントとドイツ観念論』(講座近・現代ドイツ哲学I)理想社 2004年
 
*大橋良介編『ドイツ観念論を学ぶ人のために』 [[世界思想社]] 2006年
 
 
 
など多数
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* {{IEP|germidea|German Idealism}}
 
* {{PhilP|german-idealism|German Idealism}}
 
 
 
{{大陸哲学}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:といつかんねんろん}}
 
{{DEFAULTSORT:といつかんねんろん}}
 
[[Category:ドイツ観念論|*]]
 
[[Category:ドイツ観念論|*]]

2019/4/30/ (火) 00:45時点における最新版

ドイツ観念論(ドイツかんねんろん、ドイツ語: Deutscher Idealismus

カントからヘーゲルにいたる思潮を中核に,18世紀後半から 19世紀なかばにかけてドイツを中心に展開された観念論的思想運動,現代にいたるまでその影響は大きい。カントは人間の本来的な認識能力の批判的分析により,独断的形而上学を排し真の形而上学を樹立しようとした。フィヒテはカントの純粋統覚の概念を自我と結びつけ,外的世界を非我とし,この自我と非我との弁証法において絶対自我が得られるとして,絶対的観念論の基礎を築いた。さらにシェリングは外的世界をも絶対自我の弁証法的自己展開の一契機と考え,同一哲学を形成した。このシェリングの意図を弁証法的論理をもって完成させたのはヘーゲルである。自我は理念として,現象世界を自己疎外と自己止揚の反復を介して展開し,最後に自己自身へ回帰する。ここにドイツ観念論はその体系的完成をみるにいたった。



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