「ドゥーマ」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
 
1行目: 1行目:
'''ドゥーマ'''([[ロシア語]]:{{lang|ru|Ду́ма}}、略称:Duma)は、[[ロシア]]における[[議会]]。
+
'''ドゥーマ'''([[ロシア語]]:{{lang|ru|Ду́ма}}、略称:Duma)
  
[[日本語]]では、特に[[帝政ロシア|帝政期]]の{{仮リンク|ロシア帝国議会|en|State Duma (Russian Empire)|ru|Государственная дума Российской империи|label=国会}}をさす。この他にも、帝政期の市議会もこの名称が用いられた。現在の[[国家院 (ロシア)|ロシア連邦議会下院]]などでも用いられる。
+
1906~17年の立憲制期における帝政ロシアの立法府下院 (国会) 。正式には Gosudarstvennaya Duma (国政審議会) という。 05年革命のさなかの 10月 30日 (旧暦 17日) ニコライ2世の「[[十月宣言]]」によってその開設を約束され,翌 06年5月 10日 (旧暦4月 27日) 招集された。常に左右両翼に分裂し,専制の擁護者はその存在そのものに憤慨していたのに対して,民主主義者はその不十分な権限と間接不平等選挙権に反対していた。しかし多くの欠陥にもかかわらず,それは恣意的な統治に対する制約として機能し,ロシア社会の少くとも一部に憲政の観念と実践を習熟させることを助けた。第1から第4ドゥーマまで存続し,17年 11月 (旧暦 10月) の革命とともに消滅した。
 
 
ドゥーマとは、ロシア語で「考える」という意味の動詞 "{{lang|ru|думать}}"(dumat'、ドゥマティ) に由来している。
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[モスクワ大公]]、後の[[ツァーリ]]に助言する機関として、貴族議会(Boyar Duma) <!-- ボヤール・ドゥーマ -->と呼ばれる組織があった。しかしながら、こうした貴族権力は皇帝権力の強化を目指したロシア皇帝には邪魔であり、また皇帝権力が貴族権力を抑制するのに充分な力を持ったことから、[[ピョートル1世]](大帝)の時代になるとドゥーマは廃止され、[[1711年]]からは他の機関がこれを代替した。
 
 
 
[[日露戦争]]中の[[ロシア第一革命]]に対する回答として、時の皇帝[[ニコライ2世]]は[[1905年]][[8月6日]]にドゥーマの召集を布告した。彼はこの組織を[[立憲君主国]]の議会とは異なり、諮問機関にすぎないと考えていた。ツァーリはドゥーマに立法機能と視察権を与えたため、ある程度は他国の下院議会と同様の働きを有していた。
 
 
 
しかし、ニコライ2世には自身の権限をドゥーマに委譲する考えは持ち合わせていなかった。1906年5月にドゥーマが開催される直前、ニコライ2世は[[ロシア帝国国家基本法|1906年憲法]]を発布し、内閣を構成する国務大臣はドゥーマにより任命されることはなく、ドゥーマに対して責任も有しないと規定した。これにより[[直接民主制|議会制民主主義]]は根底から否定された。それに加え、ツァーリにはいかなる時でもドゥーマを解散、再選挙を行う権限が付与されていた。
 
 
 
第一回議会選挙は1906年3月に開催され、[[社会主義]][[政党]]および[[自由主義|リベラル]]派が大勢を占めた。これを嫌ったツァーリにより数週間後に議会は解散された。第2回議会は翌年2月に開かれたが、これも短命に終わった。非常特権を利用して[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]首相は選挙法を改正し、貴族即ち地主に有利な選挙権を作成した。これにより、第3回議会では[[ジェントリ]]<!-- ? -->、地主、大商人が議会を支配することになった。
 
 
 
[[1907年]]から[[1912年]]まで「[[10月17日同盟]]」(「十月党」、「オクチャブリスト)が[[保守]]的路線を敷いて議会を支配した。ストルイピンの[[暗殺]]、ツァーリの反動傾向によりドゥーマの権威は芳しいとは言えないものだった。
 
 
 
第四回議会は1912年から1917年まで開催された。ここでも政治的影響力は制限されていたが、1917年に[[2月革命 (1917年)|2月革命]]が勃発すると、議員たちは臨時政府の設立に尽力し、一定の評価が与えられた。[[ボリシェヴィキ]]による[[十月革命|武力蜂起]]により、ドゥーマの活動は終わった。
 
 
 
{| border="1" cellpadding="1" class="wikitable"
 
|+ 党派別議席数
 
!width="200"|党派
 
!width="100"|第一国会
 
!width="100"|第二国会
 
!width="100"|第三国会
 
!width="100"|第四国会
 
|-
 
|[[ロシア社会民主労働党]]
 
| -
 
|65
 
|14
 
|14
 
|-
 
|[[社会革命党]]
 
| -
 
|34
 
| -
 
| -
 
|-
 
|[[トルドヴィキ]]
 
|94
 
|101
 
|14
 
|10
 
|-
 
|[[進歩ブロック (ロシア)|進歩ブロック]]
 
| -
 
| -
 
|39
 
|47
 
|-
 
|[[立憲民主党 (ロシア)|立憲民主党]]
 
|179
 
|92
 
|52
 
|57
 
|-
 
|非ロシア民族グループ
 
|121
 
| -
 
|26
 
|21
 
|-
 
|中央党
 
| -
 
| -
 
| -
 
|33
 
|-
 
|[[10月17日同盟|オクチャブリスト]]
 
|17
 
|32
 
|120
 
|99
 
|-
 
|愛国・民族諸派
 
| -
 
| -
 
|76
 
|88
 
|-
 
|[[極右]][[過激派]]
 
|15
 
|63
 
|53
 
|64
 
|}
 
 
 
[[Image:tauride duma.jpg|center|700px|thumb|[[サンクトペテルブルク]]、[[タヴリーダ宮殿]]に置かれた国会議事堂([https://web.archive.org/web/20080309105422/http://www.encspb.ru/image.php?file=big%2F_1215.JPG 現在の画像])]]
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:とうま}}
 
{{DEFAULTSORT:とうま}}
 
[[Category:廃止されたロシアの議会]]
 
[[Category:廃止されたロシアの議会]]
 
[[Category:ロシア帝国の行政]]
 
[[Category:ロシア帝国の行政]]

2019/5/7/ (火) 09:42時点における最新版

ドゥーマロシア語Ду́ма、略称:Duma)

1906~17年の立憲制期における帝政ロシアの立法府下院 (国会) 。正式には Gosudarstvennaya Duma (国政審議会) という。 05年革命のさなかの 10月 30日 (旧暦 17日) ニコライ2世の「十月宣言」によってその開設を約束され,翌 06年5月 10日 (旧暦4月 27日) 招集された。常に左右両翼に分裂し,専制の擁護者はその存在そのものに憤慨していたのに対して,民主主義者はその不十分な権限と間接不平等選挙権に反対していた。しかし多くの欠陥にもかかわらず,それは恣意的な統治に対する制約として機能し,ロシア社会の少くとも一部に憲政の観念と実践を習熟させることを助けた。第1から第4ドゥーマまで存続し,17年 11月 (旧暦 10月) の革命とともに消滅した。



楽天市場検索: