「ドナウ川」の版間の差分

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'''ドナウ川'''(ドナウがわ、[[ラテン語]]:''Danubius''、 [[ドイツ語]]: ''<span lang="de">Donau</span>'' {{IPA-de|ˈdoːnaʊ|}})は、[[ヴォルガ川]]に次いでヨーロッパで2番目に長い[[川|大河]]である。
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'''ドナウ川'''(ドナウがわ、[[ラテン語]]:''Danubius''、 [[ドイツ語]]: ''<span lang="de">Donau</span>'' {{IPA-de|ˈdoːnaʊ|}})
 
 
[[ドイツ]]南部[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]の森林地帯「[[シュヴァルツヴァルト]](黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って[[黒海]]に注ぐ重要な[[国際河川]]である。河口には[[ドナウ・デルタ]]が広がる。全長は2,850 km。
 
 
 
== 川の名 ==
 
現在の名ドナウ([[ドイツ語]]: ドーナウ)と各国語でそれに相当する名前は、[[ラテン語]]の ''<span lang="la">Danubius</span>''ダーヌビウス に由来する。これはローマ神話のある河神の名である。[[スキタイ語]]、あるいは[[ケルト語派|ケルト語]]からの借用語がもとになっていると考えられている。[[スロヴァキア語]]では''<span lang="sk">Dunaj</span>''、[[セルボクロアチア語]]では''<span lang="sr">Dunav</span>'', [[ハンガリー語]] ''<span lang="hu">Duna</span>'', [[ブルガリア語]]: ''<span lang="br">Дунав</span>'', [[ルーマニア語]]: ''<span lang="ro">Dunăre</span>''、[[英語]]、[[フランス語]]: ''<span lang="en">Danube</span>'' {{IPA-en|ˈdænjuːb|lang}}である。
 
 
 
語頭 ''<span lang="de">Danu</span>'' は[[インド・ヨーロッパ祖語]]で「川」を意味する「*dānu」という単語より来ている。ケルト神話の[[ダヌ]](Danu)、インド神話の水の女神[[ダヌ (インド神話)|ダヌ]](Danu)など、印欧語族の神話にはこの語が残っている。黒海周辺には[[ドン川]]、[[ドニエプル川]]、[[ドネツ川]]、[[ドニエストル川]]など、同様の単語から派生したと見られる川の名が多数ある。
 
 
 
語尾 ''<span lang="de">au</span>'' は古ゲルマン語で流れを意味する ''<span lang="de">ouwe</span>'' に由来し、ドイツ語名称に1763年以降使われている。ドイツ語では以前は Tonach, その後は Donaw の名が使われ、現在に至る。日本語表記は、ドナウ川、ダニューブ川。
 
 
 
下流域は古代[[ギリシャ語]]では「イストロス川」と呼ばれた。これはケルト語の ''<span lang="ga">ys</span>'' に由来する。
 
 
 
== 地理 ==
 
=== 源泉と分水嶺 ===
 
[[ファイル:Donaueschingen Donauquelle.jpg|thumb|right|200px|ドナウの泉(ドナウエッシンゲン)]]
 
ドナウ川の名称は、[[シュヴァルツヴァルト]]地方の町[[ドナウエッシンゲン]]で[[源流]][[河川]]の[[ブレク川]]と[[ブリガッハ川]]が合流する地点において、初めてその名が生まれる。
 
 
 
このドナウエッシンゲンの町を治めた[[フュルステンベルク公]]の[[城館]]の庭に、「[[ドナウの泉]]」と呼ばれる源泉があり、ここがドナウ川の源泉だと言われている。彫刻などで飾られ[[観光名所]]ともなっているが、しかし実際はブリガッハ川に注ぐ支流であり、ここが[[地理学]]上の源泉とは見做されない。
 
 
 
またドナウエッシンゲンにはもう一つの支流として「[[ウニペルスの泉]]」と呼ばれる泉もあるが、こちらは現在では近郊[[住宅地]]の中にある。この泉は無人地帯の[[国道]]の脇を細い流れで下った後、フュルステンベルク公城館の[[池]]や[[水流]]を経由し、ドナウの泉が注がれるのとは反対の南側からブリガッハ川へ合流する。
 
 
 
ブリガッハ川の源泉は、ドナウエッシンゲンより[[鉄道]]で2駅ほどの[[ザンクトゲオルゲン]]という町の郊外にある。
 
 
 
[[地理学]]上のドナウの[[源泉]]は[[本流]]であるブレク川の源泉であり、これは[[フルトヴァンゲン]]という[[町]]の郊外にある。この「[[ブレクの泉]]」にはドナウ川の真の源泉である旨の説明版がある。ブレクの泉より100mほどの場所にある[[エルツ川]]の源泉は[[ライン川]]に合流する。
 
 
 
ライン川は[[北海]]に注ぎ、ドナウ川は[[黒海]]に注ぐので、この2つの[[泉]]の水が出会うことはない。同じく近辺にはいくつかの小さな[[支流]]の川が流れ、その源泉が湧き出ているが、一方はライン川に注ぎ、一方はドナウ川に注ぐ。これらの境界はヨーロッパの[[分水嶺]]と呼ばれている。
 
 
 
フルトヴァンゲンには鉄道[[駅]]はないが、ドナウエッシンゲンおよび近隣の町[[トリベルク]](ドイツ最大の[[滝]]で有名な町。この滝はライン川に注ぐ)などからバスが出ている。
 
 
 
=== 上流 ===
 
ドナウの源流は上記のとおり、[[ドイツ]]の[[シュヴァルツヴァルト]]地方にある[[フルトヴァンゲン]]の郊外にある。ここから流れ出す川は[[ブレク川]]と呼ばれ、南東に48km下流のドナウエッシンゲンの街で、北から流れてきた[[ブリガッハ川]]と合流し、ここからドナウの名を与えられる。ドナウ川はここから北東に流れ続け、[[シュヴァーベン山地]]を抜けて[[ウルム]]や[[インゴルシュタット]]を通過し、[[フランケン山地]]を抜けた後、{{仮リンク|ケールハイム|de|Kelheim|en|Kelheim}}では[[ライン・マイン・ドナウ運河]]と接続する。その後、[[レーゲンスブルク]]で[[レーゲン川]]をあわせると同時に南東へと向きを変える。その下流で[[ミュンヘン]]から流れてきた[[イーザル川]]を合わせたのち、[[パッサウ]]で北からの[[イルツ川]]、南からの[[イン川]]と合流する。
 
 
 
パッサウの下流からは[[オーストリア]]領内に入る。[[リンツ]]を抜けた後、[[メルク修道院]]を起点として、30kmほど[[ヴァッハウ渓谷]]と呼ばれる景勝地が続く。この渓谷には古城や[[修道院]]が点在し、またオーストリア最大の[[ワイン]]の産地でもあるため、[[ブドウ]]畑の中に城や僧院のたたずむ美しい光景が観光客の人気を集めており、また[[世界遺産]]にも指定されている。この渓谷を抜けると[[ウィーン盆地]]へと入り、しばらく下流に、オーストリアの首都[[ウィーン]]が存在する。ウィーンは[[ハプスブルグ帝国]]の居城として長くドナウ上流地域の中心であった町であり、また市民生活もドナウ川と密接に結びついていた。「[[美しく青きドナウ]]」など、ドナウを主題としてウィーンで作曲された曲も数多く存在する。一方でウィーンはドナウ川の氾濫にも長く悩まされてきた街だが、19世紀後半の河川改修工事によってドナウ川の氾濫は抑えられた。ドナウ川はウィーンの街を抜けて、その下流で[[小カルパティア]][[山脈]]を越える、いわゆる「[[ハンガリーの門]]」と呼ばれる狭隘部を通過する。ここまでがドナウ川の上流部とされる。
 
 
 
=== 中流 ===
 
[[File:Ostrihom bazilika.JPG|thumb|250px|right|エステルゴム大聖堂]]
 
「ハンガリーの門」の名の通り、ここから下流はハンガリーに属するものと古来されてきた。現在でも、ドナウ川はここでオーストリアから、[[スロバキア]]と[[ハンガリー]]の国境をなすようになる。この門のすぐ下流に、スロバキアの首都[[ブラチスラヴァ]]が存在する。「門」で隔てられているとはいえ、ブラチスラヴァとウィーンの距離は60kmにすぎず、オーストリア・ハンガリー帝国時代までは密接な交流があった。またブダがオスマン帝国に占領されていた17・18世紀には、ブラチスラヴァはポジョニと呼ばれ、ハンガリーの首都となっていた。ブラチスラヴァ下流では、かつて大規模ダムの建設計画があったものの、環境保護運動により中止となった([[#開発]])。
 
 
 
スロバキア・ハンガリー国境は[[エステルゴム]]で終わりをつげ、ここからはハンガリー領内に入る。エステルゴムはハンガリー国王[[イシュトヴァーン1世]]が戴冠した歴史ある都市であり、ドナウ河畔には町のシンボルである[[エステルゴム大聖堂]]が立っている。エステルゴムのすぐ下流、[[ドナウベンド]]と呼ばれる地域でドナウ川は東西から南北に流れを変え、ハンガリーの中央部を縦断する。ドナウ川が流れる各国の中でも、国土の中央部を貫流するのはハンガリーのみである。ハンガリーにおいてドナウ川は南北をつなぐ交通の軸でもあり、また東西を分断する障壁ともなっている。ブダペストには多くの橋が架けられているが、それを除くとハンガリー国内にドナウ川を越える橋はほとんどない。ドナウ川を境として、ハンガリーはやや富んで小村が多く、やや都市化の進む西部と、[[プスタ]]と呼ばれる大平原が広がり、大村落が多く農業を依然中心とする東部とに二分されている。ただ、人口分布や富においては東西に大きな差はなく、かなり均質なものとなっている<ref>「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p78-79 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷</ref>。ここでは[[ハンガリー大平原]]を貫流することとなり、穏やかな流れが続く。ハンガリーの首都、[[ブダペスト]]は「ドナウの真珠」とも呼ばれる美しい都市であるが、かつて西岸のブダと東岸のペシュトの二つの街だったものが合併したもので、そのためドナウ川は街の中央部を流れることとなっている。ブダとペシュトの間には、[[1849年]]に[[セーチェーニ鎖橋]]がかけられて以降、何本かの橋が架けられているが、なかでもセーチェーニ鎖橋はその美しさでブダペストのシンボルの一つとなっている。ハンガリー領の南端近くのドナウ沿岸にはモハーチの街があるが、ここは1526年にモハーチの戦いが起き、ハンガリーがオスマンに敗れた古戦場である。
 
 
 
ハンガリーを抜けると、[[クロアチア]]と[[セルビア]]([[ヴォイヴォディナ自治州]])の国境をなす。ここで西から流れてきた[[ドラーヴァ川]]をあわせ、[[ヴコヴァル]]で流れを再び大きく東西に変えたのちにセルビア国内に入る。ヴォイヴォディナの州都である[[ノヴィ・サド]]を通ったのち、セルビアの首都[[ベオグラード]]で[[スロベニア]]から流れてきた[[サヴァ川]]を合わせる。ハンガリーから続く平原地帯はベオグラードのやや下流で終わり、やがてセルビアと[[ルーマニア]]の国境となる。ここはドナウ川が[[カルパティア山脈]]を越える地点であり、その部分には急流で知られる[[鉄門 (ドナウ川)|鉄門]]がある。ここは長い間難所として知られてきたが、現在ではダムの建設によって水位が上がり、穏やかな流れとなっている。また、鉄門ダムには3つの水力発電所が建設され、合計240万kWの電力を生み出している<ref>「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p173 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷</ref>。ここまでがドナウの中流域である。
 
 
 
=== 下流 ===
 
[[ファイル:Breakthrough Iron Gate.JPG|thumb|ドナウ川の鉄門]]
 
[[File:Danubedelta chilia lobe satellite image.jpg|thumbnail|ドナウ・デルタ。ドナウ川の河口であり、ここでドナウは黒海へと注ぐ]]
 
鉄門のすぐ下流にある[[ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリン]]で、ドナウは再び平原へと流れ出て緩やかな流れとなる。その後は下流域となり、[[ワラキア]]平原を[[ブルガリア]]とルーマニアの国境をなしながら500kmにわたって流れていく。ドナウ川の屈曲部、ブルガリアの西端に近い[[ヴィディン]]とルーマニアの[[カラファト]]の間には、2013年に新ヨーロッパ橋が開通し、それまで[[フェリー]]で行き来していた両都市を結ぶこととなった。
 
 
 
この地域で最も大きな町は、南岸にあるブルガリアの[[ルセ]]である。ルセと、対岸のルーマニアの[[ジュルジュ]]とは「ルセ・ジュルジュ友好記念橋」によって結ばれている。この橋は、[[2013年]]に新ヨーロッパ橋が開通するまではブルガリアとルーマニアとを結ぶ唯一の橋だった。ドナウ北岸のワラキア平原は、西部の[[オルテニア]]、東部の[[ムンテニア]]とも、灌漑が広く行われ、またドナウ河岸の湿原の耕地転換が進められてきた。
 
 
 
ブルガリア領[[シリストラ]]の北岸で、ドナウは大きく北へ流れを変えてルーマニア領内へと入る。シリストラの対岸はルーマニアの[[カララシ]]であり、両市はフェリーで結ばれている。この辺りから東に位置するドナウ川と黒海に挟まれた地域は[[ドブロジャ]]と呼ばれる。
 
 
 
カララシからやや北東に位置する東岸の[[チェルナヴォダ]]で、ドナウ-黒海運河と接続する。チェルナヴォダは交通の要衝であり、西岸の[[フェテシュティ]]と[[1895年]]にカロル1世橋で結ばれて以降、ドナウ-黒海運河のほか、首都[[ブカレスト]]と黒海沿岸の貿易港[[コンスタンツァ]]を結ぶ道路・鉄道・水運すべてがこの町を通る。その後、[[ブライラ]]の街を通ったのち、[[ガラツィ]]の町で再びドナウは東に向かい、[[ウクライナ]]とルーマニアの国境をなす。また現在、ブライラではドナウ川に[[橋|架橋]]を設ける工事が進められている<ref>[http://www.decn.co.jp/?p=96990 IHI/ルーマニアで大型橋梁工事受注/設計・施工一括、中央径間1120m] 日刊建設工業新聞社 2018年1月17日</ref><ref>[https://www.zaikei.co.jp/article/20180118/421839.html IHI、ルーマニア最長の大型吊橋建設工事を受注 同国初案件で] [[財経新聞]] 2018年1月17日</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26017270T20C18A1000000/ IHI、ドナウ川に架けるルーマニア最長の吊り橋受注] [[日本経済新聞]] 2018年1月23日</ref><ref>[https://www.digima-news.com/20180208_31280 日本の「IHI」がルーマニアのドナウ川架橋工事を受注 同国の貨物流通の効率化にも貢献] DIGIMA NEWS 2018年2月8日</ref>。
 
 
 
この地域ではドナウ川は北の[[キリア分流]]、中央の[[スリナ分流]]、南の[[聖ゲオルゲ分流]]とに分かれる。キリア分流が最も水量が多く、上流の水の70%が流れ込む。スリナ分流には10%、聖ゲオルゲ分流には20%前後が流れ込む<ref>「ドナウ河紀行」p204 加藤雅彦 1991年10月21日 岩波新書</ref>。ウクライナ・ルーマニア国境は北のキリア分流であり、ウクライナ領の[[オデッサ州]]北岸には[[イズマイール]]の町がある。
 
 
 
また、南の聖ゲオルゲ分流沿いにはルーマニア領である[[トゥルチャ]]の街があり、[[北ドブロジャ]]に接する場所となっていて、そこは[[モルドバ]]領の[[カフ県]]の{{仮リンク|ジュルジュレシュティ|en|Giurgiulești}}にも接している。この地域は[[ドナウ・デルタ]]と呼ばれる広大な河口デルタ地帯となっている。そして、スリナ分流は[[黒海]]沿岸の町[[スリナ]]で黒海へと注ぎ込む。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 古代 ===
 
[[File:Trajan's Bridge Across the Danube, Modern Reconstruction.jpg|thumb|400px|トラヤヌス橋の想像図]]
 
[[ギリシア人]]は[[河口]]から[[鉄門 (ドナウ川)|鉄門]]までのドナウ川を知っており、'''イストロス川'''と呼んだ。[[ローマ帝国]]もほぼ同じ地域まで進出し、'''ヒステール川'''と呼んだ。
 
 
 
[[ローマ帝国]]時代には、ほとんど[[源流]]から河口までの全域が、[[蛮族]]に対する帝国の北方の[[リーメス|防衛線]]の役割を果たした。
 
 
 
[[ウィーン]]、[[ブダペスト]]、[[ベオグラード]]、[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]といった各国の首都はこの時期の最重要基地に起源を持つ。
 
 
 
ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンの近郊には、[[105年]]にローマ帝国によって築かれた、ドナウ下流初の橋梁である[[トラヤヌス橋]]の遺構が今も一部残存している。
 
 
 
この橋は、皇帝[[トラヤヌス]]の[[ダキア戦争]]時に、ドナウ北岸の[[ダキア]]へ侵攻するために建設されたもので、翌106年にダキアはローマ帝国に占領され、[[属州ダキア]]となった。
 
 
 
ドナウの両岸がローマ帝国の支配下に置かれていたのはこの属州ダキア(現在のルーマニア西部)のみであり、残りはドナウ川をそのまま国境としていた。
 
 
 
[[271年]]、属州ダキアは放棄され、ローマ帝国は川の南岸へと引き上げた。ローマのダキア統治は165年間と、比較的短いものであったが、この地方はすでにローマ化されており、現在でも[[ルーマニア人]]は[[ラテン系]]民族となっている。
 
 
 
=== 中世から近世 ===
 
[[375年]]、[[フン族]]によって圧迫された西[[ゴート族]]がドナウ川を渡り、ここに[[ゲルマン民族の大移動]]がはじまった。
 
 
 
これによりドナウ川はローマ帝国の北部国境としての意味を失い、ゴート族をはじめ、ゲルマン諸民族やフン族などが次々とドナウ南岸へと押し寄せた。
 
 
 
ローマ帝国東西分裂後は、下流は[[東ローマ帝国]]の北部国境となったものの、やがて[[ブルガール人]]がこの地域を奪取し、[[第一次ブルガリア帝国]]を建てた。
 
 
 
中流部のハンガリー平原には[[アヴァール人]]や[[マジャール人]]などの[[遊牧民族]]が押し寄せ、そこからマジャール人による[[ハンガリー王国]]が成立してその領域となる。片や上流域は[[神聖ローマ帝国]]領となり、この地におかれた[[オーストリア辺境伯]]領が日ならず強大化していった。
 
 
 
追って[[オスマン帝国]]が強大化し下流域を版図に組み入れ、中流域も[[1526年]]の[[モハーチの戦い]]によってハンガリー王国が大部分の領土を喪失すると、大部分がオスマン帝国領となった。更に上流域のウィーンにも[[1529年]]([[第一次ウィーン包囲]])と[[1683年]]([[第二次ウィーン包囲]])の2度に渡って押し寄せるなど、この時期のドナウ川中下流域はオスマン帝国の重要な交通路となっていた。
 
 
 
=== 近代 ===
 
第二次ウィーン包囲の失敗による[[1699年]]の[[カルロヴィッツ条約]]によって中流域はオーストリアに割譲され、[[18世紀]]には大まかに上流・中流部が[[ハプスブルク]]家のオーストリア領に、下流部がオスマン帝国領となった。
 
 
 
19世紀に入ると上流・中流部のオーストリア領では[[民族自決]]の動きが強まり、1848年には[[ウィーン三月革命]]が勃発するなど体制が動揺を続けた。またこの頃、ドイツにおいて統一の動きが高まる中、オーストリア皇帝を戴く「[[大ドイツ主義]]」か、[[プロイセン]]王を戴く「[[小ドイツ主義]]」かで対立が深まり、[[1866年]]の[[普墺戦争]]により大ドイツ派のオーストリアは敗れ、最上流部は[[1870年]]に[[ドイツ帝国]]に吸収されることとなった。
 
 
 
一方、[[統一ドイツ]]から排除されたオーストリアは[[東欧・ドナウ志向]]を強め、[[1867年]]にはオーストリア帝国は[[アウスグライヒ]]を[[マジャール人]]と結んで[[オーストリア=ハンガリー帝国]](二重帝国)へと改組された。ドナウ川は二重帝国を結びつける大動脈となり、この事からその当時の[[ハプスブルク帝国]]を「'''ドナウ帝国'''」と呼ぶこともある。この時期には民族自決の動きが盛んになる中、[[二重帝国制]]を更に改組し諸民族が同等の権利を持つ[[連邦国家]]、[[ドナウ連邦]]の構想がなされた。
 
 
 
また、この時期は[[産業革命]]の進展する時期であり、二重帝国内においては新しく登場した機械や技術を利用してドナウ川の開発・改修がすすめられた。[[1862年]]の春の洪水をきっかけにウィーン周辺で行われた河川改修工事は流路の変更を伴う大規模なものであり、10年後に完成したのちはウィーン盆地内の流路は非常に安定したものとなり、また流路の直線化によって得られた土地や水路の拡張・安定化はウィーンやオーストリア経済に多大な恩恵をもたらした<ref>「ウィーン ブルジョアの時代から世紀末へ」p121-122 山之内克子 講談社現代新書 1995年11月20日第1刷</ref>。
 
 
 
この河川改修工事はハンガリー内においても大規模に行われ、ドナウの流れは直線的に改修され、洪水も激減した。この河川改修により、それまで春などの増水期にはあちこちに湿原のできていたハンガリー平原は乾燥化が進み、各所に乾燥した草原が広がるようになった一方、水利の向上によって農地が拡大し、ハンガリーは農産物の一大輸出国として繁栄した。この繁栄を受けてハンガリーの首都である[[ブダ]]と[[ペスト]]も急速に成長した。[[1849年]]にはブダとペストの間にはじめて[[セーチェーニ鎖橋]]が架けられ、[[1873年]]にはブダとペストが合併して[[ブダペスト]]市が誕生し、ハンガリーの中心として栄えた。
 
 
 
この時期はウィーンでは[[ウィンナ・ワルツ]]が隆盛した時期であり、ワルツ王とも呼ばれる[[ヨハン・シュトラウス2世]]が[[1867年]]に作曲した『[[美しく青きドナウ]]』など、数々のドナウを題材とした名曲が誕生した。
 
 
 
一方、下流部においてはオスマン帝国の勢力が衰える中、オスマン支配下の各民族の独立運動が盛んになっていった。[[1817年]]には[[ミロシュ・オブレノヴィッチ]]を公としてオスマン宗主権下の[[セルビア公国 (近代)|セルビア公国]]が成立した。1829年には、[[露土戦争 (1828年)|露土戦争]]に勝利したロシアが[[アドリアノープル条約]]で[[ドナウ・デルタ]]を領有し、ドナウへと進出する足掛かりを得た。
 
 
 
しかし、[[クリミア戦争]]の講和条約である[[1856年]]の[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]において、ロシアは南ベッサラビアおよびドナウ・デルタを失い、一時この地方から後退する。またこの条約においてはドナウ川の国際河川化がすすめられ、各国への自由航行が保障された。
 
 
 
[[1859年]]にはオスマン宗主権下の[[ワラキア公国]]と[[モルダヴィア公国]]が連合し、[[1861年]]に[[ルーマニア公国]]が成立。セルビア・ルーマニア両公国は[[1877年]]の[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]でロシア側に立ってオスマンに宣戦し、その結果[[サン・ステファノ条約]]によって両公国は完全独立を承認され、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]および[[ルーマニア王国]]が成立。ブルガリアも[[大ブルガリア公国]]としてオスマン宗主権下ではあるが大幅な自治を認められ、オスマン帝国はドナウ沿岸への影響力をほぼ消失した。
 
 
 
だが、この条約はロシアに非常に有利なものであったため各国の反発を招き、翌1878年の[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]によって、セルビアはそのまま独立を認められたものの、ブルガリアの領土は大きく削減され、オスマンの宗主権も拡大した。この結果はブルガリアの不満を招き、後年[[大ブルガリア (政治概念)|大ブルガリア主義]]の台頭を呼んでバルカン半島の不安定化の一因となった。
 
 
 
またルーマニアも、黒海に面する[[ドブロジャ]]の領有を認められた代わりに、ロシアに[[南ベッサラビア]](ブジャク)地方の割譲を余儀なくされた。ドブロジャはルーマニア人の多いこれまでの領土とはやや異質な土地であり、またドナウ南岸の[[シリストラ要塞]]および[[南ドブロジャ]]はブルガリアに与えられた為、この条約はルーマニアにも不満を残した。これによりロシア帝国は再びドナウ沿岸に領土を持つこととなった。
 
 
 
しばらく安定していたドナウ沿岸の国境線は、[[1913年]]の[[第2次バルカン戦争]]において再び変化する。この戦争において[[ブルガリア王国]]が敗北したため、ブルガリアは[[シリストラ]]および南ドブロジャをルーマニアに割譲した。しかしブルガリアはこの地の奪還を悲願とし、以後30年以上、南ドブロジャはバルカン半島の火種であり続けた。
 
 
 
=== 現代 ===
 
[[第一次世界大戦]]によってドナウ全域は戦火へと巻き込まれ、[[中央同盟国]]のドイツ・オーストリア・ブルガリアと、[[協商国]]側のロシア・セルビア・ルーマニアとの間で激しい戦闘が起きた。
 
 
 
結局1919年に中央同盟は敗北し、ブルガリアは[[ヌイイ条約]]によって南ドブロジャをルーマニアに割譲。ルーマニアはソヴィエト連邦から[[ベッサラビア]]も獲得しており、大ルーマニアが誕生した。
 
 
 
[[オーストリア・ハンガリー二重帝国]]は解体し、旧二重帝国領のドナウ沿岸にはオーストリア共和国、[[チェコスロバキア]]、ハンガリー、[[ユーゴスラヴィア王国]]の4つの新独立国が誕生した。
 
 
 
しかし分割された[[国境線]]をめぐって争いが絶えなかった上、それまで統合されていた広大な領域が分割されたために[[経済圏]]が崩壊し、ドナウ連邦の考え方はほぼ消滅してしまった。
 
 
 
結局この[[経済・政治的広域圏]]崩壊の衝撃から立ち直ることが出来ない侭、不安定な国際情勢が続き、結局[[1938年]]の[[アンシュルス]]によってオーストリアがドイツに[[併合]]されたのを皮切りに、沿岸諸国は次々と[[ナチス・ドイツ]]の[[軍門]]に下って行くこととなった。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]後、ルーマニアはベッサラビアをソヴィエト連邦に、南ドブロジャをブルガリアに[[割譲]]した。第二次世界大戦後には上流域の一部を除くほとんどが[[共産主義]]化し、[[ソヴィエト連邦]]の影響下におかれ、西側諸国の航行は困難となった。
 
 
 
[[1972年]]には[[鉄門 (ドナウ川)|鉄門]]に[[ダム]]が建設され、下流域と上・中流域との航行がやっと可能になった。[[冷戦]]終結後、[[東欧革命]]によって[[政治的障害]]がなくなると、ドナウ川流域の交流は再び盛んとなった。
 
 
 
東欧革命は沿岸諸国内の動揺を齎し、[[1991年]]には[[クロアチア]]がユーゴスラビアから、[[モルドバ]]と[[ウクライナ]]がソヴィエト連邦から独立し、[[1993年]]には[[ビロード離婚]]によってチェコスロバキアが解体し、スロバキア共和国が成立。現在のドナウ沿岸の[[国境線]]が確定した。
 
 
 
[[1992年]]に[[ライン川]]に繋がる[[ライン・マイン・ドナウ運河]]が完成し、[[北海]]から黒海までの[[水運]]が可能になった。同年[[11月1日]]に[[EU]]が設立されると、ドナウ川は東側諸国との国境という位置付けで重要視されることになった。EUと東ヨーロッパにおける経済の要としてこの河川はこれからも注目されるであろうことが予想される。
 
 
 
だがその一方で、同河川の東岸エリアの国々においては『法の支配の尊重』という意識が低い点から「法の支配を支える機関への政治的圧力や汚職がそれを妨げている」と指摘する声が多く、特にハンガリー政府と欧州委員会はその点を巡ってこれまで何度も衝突して来ている為、今後の進展は同エリアの出方に掛かっているとも捉えられる面がある<ref>[http://jp.wsj.com/articles/SB10916868980930144459004583175953321907778 ドナウ川、EUの新たな「断層線」に] [[ウォール・ストリート・ジャーナル]] 2017年5月29日</ref>。
 
 
 
== 国際関係 ==
 
[[File:Danube Commission 1948.svg|300px|thumb|ドナウ委員会加盟国:<br />{{Legend inline|#ff8080|本加盟国}}  {{Legend inline|#ffdd55|オブザーバー}}]]
 
ドナウ川は古くより[[沿岸]]諸国の重要な[[交通路]]として機能していたが、[[鉄門 (ドナウ川)|鉄門]]などいくつかの[[難所]]や[[急流]]があり、[[河口]]から[[上流]]部まで直接[[船]]で[[航行]]することは近年まで不可能であった。
 
 
 
しかし、19世紀中盤になるとドナウ川においても[[国際河川]]化が進められ、[[1856年]]の[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]に於いて[[ヨーロッパ委員会]]が設立されて、河口から[[ブライラ]]までを国際管理下に置くと共に、各国への自由航行が保障された。
 
 
 
第一次世界大戦後には新たに[[国際委員会]]が設立され、航行の上限であるドイツのウルムにまで管理区域が拡大されたが、第二次世界大戦後、[[1948年]]には[[ソ連]]の指導下の元、[[ダニューブ河の航行制度に関する条約]]が[[東欧]]諸国間で締結された。
 
 
 
この条約によってルーマニアの[[ガラツィ]]に[[ドナウ委員会]]が設立され、ドナウ川の航行を担当したが、当時の同委員会の加盟国はソ連・ルーマニア・[[ユーゴスラビア]]・ブルガリア・[[チェコスロバキア]]・ハンガリーで、東側諸国のみの参加だった。
 
 
 
この頃には西側に属したウィーンと東側に属したその[[下流]]域との[[交流]]もほとんどなくなっていた。
 
 
 
のちにドナウ委員会にはオーストリアが正加盟国として、[[西ドイツ]]が[[オブザーバー]]として参加し、本部も[[1954年]]にはハンガリーの[[ブダペスト]]へと移転したが、ドナウ川航行が東側優位のもとにあったことに違いはなかった<ref>「ドナウ河紀行」p126 加藤雅彦 1991年10月21日 岩波新書</ref>。
 
 
 
[[冷戦]]終結後もドナウ川委員会は存続し、ドナウ川航行の調整を行っているが、ドナウ川沿岸国以外も多数の国がオブザーバーとして参加している。
 
 
 
ドナウ委員会加盟国は[[2014年]]から、本加盟国がドイツ・オーストリア・スロバキア・ハンガリー・クロアチア・セルビア・ルーマニア・ブルガリア・モルドバ・ウクライナの沿岸10ヶ国と[[ロシア]]を合わせた計11ヶ国であり、オブザーバーは[[フランス]]・[[ベルギー]]・[[オランダ]]・[[チェコ]]・[[モンテネグロ]]・[[マケドニア]]・[[ギリシア]]・[[キプロス]]・[[トルコ]]・[[ジョージア (国)|ジョージア]]の10ヶ国である<ref>ドナウ委員会公式サイト http://www.danubecommission.org/index.php/en_US/observer_state 2014年12月7日閲覧</ref>。
 
 
 
== 開発 ==
 
[[1977年]]、[[チェコスロバキア]]政府と[[ハンガリー]]政府はドナウ川の開発条約を締結し、ハンガリーの[[ドナウベント]]のすぐ上流にある[[ナジマロシュ]]と、ハンガリーとチェコスロバキアの国境上にある[[ガブチコヴォ]]の2か所に[[ダム]]を[[建設]]し、[[水力発電]]や水量調整による[[洪水]]防止および安定航行の実現をめざした。
 
 
 
[[1981年]]にはハンガリーが財政上の理由で4年間延期を申し入れた為、着工は[[1985年]]となった。
 
 
 
しかし、この頃からハンガリーでは[[環境]]や[[沿岸]]部の[[水没]]を理由としてダム建設[[反対運動]]が起こり、[[1989年]]には[[東欧革命]]によって[[民主化]]したハンガリー新政府が計画を中止した。これに対し、既に[[ガブチコヴォダム]]を90%完成させていたチェコスロバキア側は反発した。
 
 
 
対立はさらに激化し、[[1992年]]にはハンガリーは条約自体を破棄。チェコスロバキアから権利を継承した[[スロバキア]]はこれを非難し、両国の対立は頂点に達した。
 
 
 
その後、[[欧州共同体]]の仲裁によってこの問題は[[ハーグ]]にある[[国際司法裁判所]]へと提訴され、[[1997年]]、同裁判所は条約を一方的に破棄したハンガリーとダム建設を強行し[[自然環境]]を破壊したスロバキア双方に問題があるとして両国に罰金を命じた<ref>「地球の水が危ない」pp90-94 高橋裕 岩波書店 2003年2月20日第1刷</ref>。
 
 
 
この[[判決 (国際司法裁判所)|判決]]は、国際司法裁判所が[[国際河川]]の紛争に対して判決を下した世界初のケースであった<ref>http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf116-1/p043-051.pdf#search='%E3%83%8A%E3%82%B8%E3%83%9E%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%A5' 国際流域での水の分配をめぐる係争と協調 - 中山幹康 東京地学協会 2012年12月31日閲覧</ref>。
 
 
 
{{main|[[ガブチコボ・ナジュマロシュ計画事件]]}}
 
 
 
== 流域 ==
 
[[ファイル:Bassin-du-Danube.png|thumb|400px|流域図]]
 
=== 主な支流 ===
 
* [[イン川]]
 
** [[ザルツァハ川]]
 
* [[サヴァ川]]
 
** [[リュブリャニツァ川]]
 
** [[サヴィンジャ川]]
 
** [[クルカ川 (スロベニア)|クルカ川]]
 
** [[ソトラ川]]
 
** [[クパ川]]
 
** [[ウナ川]]
 
** [[ヴルバス川]]
 
** [[ボスナ川]]
 
*** [[ジェリェズニツァ川]]
 
*** [[ミリャツカ川]]
 
*** [[フォイニツァ川]]
 
*** [[ラシュヴァ川]]
 
*** [[ゴストヴィッチ川]]
 
*** [[ウソラ川]]
 
*** [[スプレツァ川]]
 
** [[ドリナ川]]
 
*** {{仮リンク|タラ川|en|Tara (Drina)}}
 
*** {{仮リンク|ピヴァ川|en|Piva (river)}}
 
* [[プルト川]]
 
* [[イーザル川]]
 
* [[ドラーヴァ川]]
 
** [[ムール川]]
 
* [[モルドヴァ川]]
 
* [[マロシュ川]]
 
* [[ティサ川]]
 
 
 
=== 流域の国と主な都市 ===
 
[[ファイル:Donau-Wien-UNOcity.jpg|thumb|200px|ドナウ川とウィーン国際センター]]
 
[[ファイル:Bratislava view from Crown Tower.jpg|thumb|200px|ブラチスラバ城とドナウ川]]
 
[[ファイル:Danube at Budapest, Margit Bridge.jpg|thumb|200px|right|マルギット橋(ブダペスト)]]
 
 
 
{{GER}}
 
*[[ウルム]]
 
*[[インゴルシュタット]]
 
*[[レーゲンスブルク]]
 
*[[パッサウ]]
 
{{AUT}}
 
*[[リンツ]]
 
*[[ウィーン]]
 
{{SLK}}
 
*[[ブラチスラヴァ]]
 
{{HUN}}
 
*[[ジェール]]
 
*[[ブダペスト]]
 
{{HRV}}
 
*[[ヴコヴァル]]
 
*[[イロク]]
 
{{SRB}}
 
*[[ノヴィサド]]
 
*[[ベオグラード]]
 
{{BUL}}
 
*[[ルセ]]
 
{{ROM}}
 
*[[ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリン]]
 
*[[ブライラ]]
 
*[[ガラツィ]]
 
{{MDA}}
 
*{{仮リンク|ジュルジュレシュティ|en|Giurgiulești}}
 
{{UKR}}
 
*[[イズマイール]]
 
 
 
=== 流量 ===
 
'''[[イズマイール]]におけるドナウ川の流量(m³/s)'''<br />([[1921年]]から[[1985年]]の平均データ)<ref>[http://www.grdc.sr.unh.edu/html/Polygons/P6742900.html - Station: Ceatal Izmail]</ref>
 
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== 世界遺産 ==
 
ドナウ川沿岸には、オーストリアの[[ヴァッハウ渓谷|ヴァッハウ渓谷の文化的景観]](文化遺産)、ハンガリーの[[ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り]](文化遺産)、ブルガリアの[[スレバルナ自然保護区]](自然遺産)、ルーマニアの[[ドナウ・デルタ]](自然遺産)の4つの[[世界遺産]]が存在する。
 
 
 
== ドナウ川を題材にした作品 ==
 
=== 音楽 ===
 
*[[フランツ・シューベルト]]:歌曲『ドナウ川の上で』(D553)
 
*[[アドルフ・アダン]]:バレエ『[[ドナウの娘]]』
 
*{{仮リンク|ケーレル・ベーラ|en|Béla Kéler}}:『ライン川からドナウ川へ』(作品138)
 
*[[ヨハン・シュトラウス1世]]:ワルツ『ドナウ川の歌』(作品127)
 
*[[ハンス・クリスチャン・ロンビ]]:『ドナウ川の花』(Donau Blumen)
 
*[[ヨハン・シュトラウス2世]]:ワルツ『'''[[美しく青きドナウ]]'''』(作品314)
 
*ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ『ドナウの岸辺から』(作品356)
 
*ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ『{{仮リンク|ドナウの乙女|it|Donauweibchen}}』(作品427)
 
*[[ヨーゼフ・バイヤー]]:バレエ『[[ドナウの水の精]]』
 
*[[カール・ミヒャエル・ツィーラー]]:ワルツ『ドナウ川の物語』(作品446)
 
*[[ヨシフ・イヴァノヴィチ]]:ワルツ『'''[[ドナウ川のさざなみ]]'''』
 
*[[ユリウス・フチーク (作曲家)|ユリウス・フチーク]]:ワルツ『ドナウ伝説(ドナウの歌)』(作品233)
 
*[[ジークフリート・トランスラトイル]]:ワルツ『ドナウ川の物語』(作品99)
 
*[[レオシュ・ヤナーチェク]]:交響詩『ドナウ』
 
*[[リヒャルト・シュトラウス]]:交響詩『[[ドナウ (交響詩)|ドナウ]]』
 
*[[ロベルト・シュトルツ]]:ワルツ『ドナウ川の夢』
 
 
 
=== 文学 ===
 
*[[宮本輝]]:『[[ドナウの旅人]]』([[1983年]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references/>
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ダニューブ河の航行制度に関する条約]]
 
* [[ハンガリーアルミニウム赤泥流出事故]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commons&cat|Danube}}
 
* 参考地図:[http://www.toride.com/~digxwa/digxwaFiles/hisf/his_etcdonaumap.htm  ドナウ川とその支流]
 
* [http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/dem/efs/sat/donau.html 宇宙から見た地球 > 衛星写真集 > 河川 > ドナウ川]
 
* [http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9417.html 国際河川の流域国数と流域構成国]
 
* [http://webuser.fh-furtwangen.de/~vs-fg/do/doquelle.htm ドナウの泉:ドナウエッシンゲン]
 
* [http://www.donauquelle.de/ ドナウの泉(ブレクの泉):フルトヴァンゲン]
 
* [http://rsis.ramsar.org/ris/605 Dunajské luhy | Ramsar Sites Information Service]
 
 
 
{{Normdaten}}
 
  
 +
ヨーロッパ中部から東部を流れる川。ボルガ川に次ぐヨーロッパ第2の長流で,全長約 2850km,流域面積約 81万 5000km<sup>2</sup>。ドイツ南西部バーデンウュルテンベルク州の[[シュワルツワルト]]に源を発し,ウルム,レーゲンスブルクを経てパッサウ付近でオーストリアに入り,リンツ,ウィーンを経てスロバキアのブラチスラバにいたる。ここまではドナウ上流部と呼ばれ,おもな支流には右岸にレヒ川,[[イーザル川]],[[イン川]],[[エンス川]],左岸にナープ川,モラバ川の諸川がある。ブラチスラバの下流でドナウ川は三つに分枝,中央の本流はスロバキアとハンガリーとの国境をなしたのち,バーツ付近で南に転じ,ブダペスト,ドゥナウーイワーロシュ,モハーチを経てクロアチア=セルビア国境をなす。オシエク付近で[[ドラウ川]],ノービサード付近で[[ティサ川]],ベオグラードで[[サバ川]]を次々に合流したのち,セルビア=ルーマニア国境をなすカザン峡谷に入る。峡谷入口のバジャスまでがドナウ中流部と呼ばれる。その下流で難所として知られた[[鉄門]]を過ぎ,ルーマニア=ブルガリア国境を東流したのち,ルーマニアのカララシ付近で向きを変えて同国東部を北に貫流,ガラツから東にルーマニア=ウクライナ国境をなして[[黒海]]に注ぐまでが,ドナウ下流部である。下流部のおもな支流は右岸の[[イスカル川]],[[ヤントラ川]],左岸の[[ジウ川]],[[オルト川]],[[シレト川]],[[プルト川]]の諸川で,カララシより下流ではいくつかに分流する。また,ガラツの下流にあるトゥルチヤ付近からは三つに大きく分かれ,河口にヨーロッパ最大の三角州を形成している。この湿原は貴重な動植物の宝庫,とりわけ 300種に上る鳥類の生息地として知られ,1991年世界遺産の自然遺産に登録された。ドナウ川は古くからヨーロッパ中部と黒海を結ぶ重要な交通路として,また漁業に,灌漑に,近年は水力発電に幅広く利用され,その管理権をめぐってさまざまな争いが繰り返されてきた。現在は沿岸諸国で構成される委員会の管理により,航行はすべての国の商船に対して自由となっている。ガラツの上流のブライラまでは4000t級の船が航行可能。また古来難関として知られる鉄門付近も,かなりの大きさの船が航行しており,100t程度の船なら遠くウルムまで遡行できる。また[[マイン川]]を経て[[ライン川]]にいたるマイン=ドナウ運河によって黒海と北海とが水路で結ばれている。
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[[Category:ヨーロッパの河川]]
 
[[Category:ヨーロッパの河川]]

2018/12/24/ (月) 09:06時点における最新版

ドナウ川(ドナウがわ、ラテン語Danubiusドイツ語: Donau [ˈdoːnaʊ]

ヨーロッパ中部から東部を流れる川。ボルガ川に次ぐヨーロッパ第2の長流で,全長約 2850km,流域面積約 81万 5000km2。ドイツ南西部バーデンウュルテンベルク州のシュワルツワルトに源を発し,ウルム,レーゲンスブルクを経てパッサウ付近でオーストリアに入り,リンツ,ウィーンを経てスロバキアのブラチスラバにいたる。ここまではドナウ上流部と呼ばれ,おもな支流には右岸にレヒ川,イーザル川イン川エンス川,左岸にナープ川,モラバ川の諸川がある。ブラチスラバの下流でドナウ川は三つに分枝,中央の本流はスロバキアとハンガリーとの国境をなしたのち,バーツ付近で南に転じ,ブダペスト,ドゥナウーイワーロシュ,モハーチを経てクロアチア=セルビア国境をなす。オシエク付近でドラウ川,ノービサード付近でティサ川,ベオグラードでサバ川を次々に合流したのち,セルビア=ルーマニア国境をなすカザン峡谷に入る。峡谷入口のバジャスまでがドナウ中流部と呼ばれる。その下流で難所として知られた鉄門を過ぎ,ルーマニア=ブルガリア国境を東流したのち,ルーマニアのカララシ付近で向きを変えて同国東部を北に貫流,ガラツから東にルーマニア=ウクライナ国境をなして黒海に注ぐまでが,ドナウ下流部である。下流部のおもな支流は右岸のイスカル川ヤントラ川,左岸のジウ川オルト川シレト川プルト川の諸川で,カララシより下流ではいくつかに分流する。また,ガラツの下流にあるトゥルチヤ付近からは三つに大きく分かれ,河口にヨーロッパ最大の三角州を形成している。この湿原は貴重な動植物の宝庫,とりわけ 300種に上る鳥類の生息地として知られ,1991年世界遺産の自然遺産に登録された。ドナウ川は古くからヨーロッパ中部と黒海を結ぶ重要な交通路として,また漁業に,灌漑に,近年は水力発電に幅広く利用され,その管理権をめぐってさまざまな争いが繰り返されてきた。現在は沿岸諸国で構成される委員会の管理により,航行はすべての国の商船に対して自由となっている。ガラツの上流のブライラまでは4000t級の船が航行可能。また古来難関として知られる鉄門付近も,かなりの大きさの船が航行しており,100t程度の船なら遠くウルムまで遡行できる。またマイン川を経てライン川にいたるマイン=ドナウ運河によって黒海と北海とが水路で結ばれている。



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