ナザレ

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ナザレ、アン=ナースィラ
נָצְרַת
الناصرة
イスラエルの旗
位置
ナザレの位置の位置図
ナザレの位置
ナザレの位置(イスラエル北部)の位置図
ナザレの位置(イスラエル北部)
座標 : 東経35度18分12秒北緯32.70194度 東経35.30333度32.70194; 35.30333
行政
イスラエルの旗 イスラエル
 行政区 北部地区
 市 ナザレ、アン=ナースィラ
地理
面積  
  市域 14.12 km2 (5.45 mi2)
人口
人口 (2007年現在)
  市域 65,500人

ナザレまたはナザレトアン=ナースィラ現代ヘブライ語נצרת, Náẓərat ナツラット、ティベリア式ヘブライ語Nāṣəraṯ ナーツェラス、アラビア語الناصرة an-Nāṣirah, 英語Nazareth ナザレス)は、イスラエル都市北部地区の中心地である。

住民の多くがアラブ人キリスト教徒だが、イスラム教徒・ユダヤ教徒も多く住む。現在の市長キリスト教マロン派

キリスト教徒にとっては、イエス・キリストが幼少期から公生涯に入るまでを過ごした土地であり、彼自身が「ナザレ人」と呼ばれたと新約聖書にあることから、きわめて重要な場所とされる。

歴史

326年コンスタンティヌス帝、マリアの家の址とされる場所に受胎告知教会を建設。

637年イスラム教徒によるパレスチナ地区の征服が始まり、この地区にイスラム教がもたらされる。その後の400年間で、イスラム教徒の住人の割合が増加するが、アラブ・キリスト教徒も少数派として残る。第1回十字軍以降、パレスチナは長く争いが続き、地元のサラセン人とヨーロッパ人による支配が幾度となく交代する。ガリラヤとナザレの支配者も、その支配者が信仰する宗教徒を増やしながら、頻繁に入れ代わった。

1099年、十字軍のタンクレードがガリラヤを占領し、ナザレを首都に定める。古いScythopolis教区も、エルサレム王国時代からの4つの大司教区の1つであるナザレ大司教English版の下に移される。1187年サラディンヒッティーンの戦いに勝利し、街は再びイスラムの支配下となる。残った十字軍やヨーロッパ人の牧師は、強制的に街から追い出された。

1263年マムルーク朝スルタンバイバルスが、パレスチナの地から、キリスト教徒の残党を追い払う命令の中で、ナザレにあったキリスト教徒の建築物を破壊し、キリスト教の牧師が町に立ち入ることを禁止した。ナザレにいたキリスト教徒はこの地で生き続けていたが、住民規模は縮小した。1294年にここを訪れたキリスト教巡礼者は、岩屋を守る小さな教会しかなかったと報告している。

14世紀、フランシスコ会の修道士の帰還と、聖堂跡地への居住が認められた。しかし、1584年、彼らは再び立ち退かされた。1620年オスマン・シリアEnglish版の一部を支配していたFakhr-al-Din IIが、修道士の帰還と、受胎告知の岩屋に小さな教会を建設することを許可した。この神聖な場所周辺への巡礼ツアーが、以前町に住んでいたフランシスコ会によって組織された。しかし修道士たちは、周囲に住むベドウィンに苦しめられていた。ベドウィンはしばしば身代金目的に誘拐を行ったためである。地元シャイフDaher el-Omarの治世に平和が戻った。彼はガリラヤの大部分をオスマン化し、1730年にフランシスコ会の教会建築を承認した。

1799年、ナザレはナポレオン・ボナパルトによって占領された。エジプトの将軍イブラーヒーム・パシャの統治時代は、オスマン・シリアの大部分とナザレは、ヨーロッパ人の宣教師や貿易商に開放された。オスマン帝国による再支配の後、ヨーロッパのお金がナザレに流入し続け、数多くの教育機関が建てられた。

1861年、フランシスコ会がメンザ・クリスティ聖堂 (knessith menzah krist'i) を建設。

地理

施設

友好都市

著名な出身者

関連項目

外部リンク

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