「バークレー・バックストン」の版間の差分

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{{Infobox 人物
 
|氏名=バークレー・フォーエル・バックストン
 
|画像=B.F.Backstone.jpg|thumb
 
|画像サイズ=150px
 
|画像説明=
 
|生年月日=[[1860年]][[8月16日]]
 
|生誕地=[[イギリス]]、[[エセックス州]][[レイトン]]
 
|没年月日=[[1946年]][[2月5日]]
 
|死没地=[[イギリス]]、[[ウィンブルトン]]
 
|出身校=[[ケンブリッジ大学]]
 
|職業=[[牧師]]・[[宣教師]]・[[神学校]]教師
 
|配偶者=[[マーガレット・レイルトン]]
 
|子供=[[マーレー・バックストン]]、[[アルフレッド・バックストン]]、[[ゴッドフレー・バックストン]]
 
}}
 
[[File:Barclay Fowell Buxton.jpg|thumb|150px|バックストン]]
 
[[image:Barclay Fowell Buxton、MITANI Tanekiti 1937.JPG|thumb|250px|バークレー・バックストン最後の来日。三谷種吉らと。1937年]]
 
'''バークレー・フォーエル・バックストン'''(Barclay Fowell Buxton、[[1860年]][[8月16日]] - [[1946年]][[2月5日]])は、戦前の日本で活動した[[イギリス]]の[[聖公会]]の[[宣教師]]。[[司祭]]、[[牧師]]、[[神学校]][[教師]]。聖霊に満たされることを強調して教えた。バックストンとその弟子たちは、日本の[[福音派]]の源流の一つ「[[松江バンド]]」と呼ばれるクリスチャン集団を形成したとされる。
 
  
== 経歴 ==
+
'''バークレー・フォーエル・バックストン'''(Barclay Fowell Buxton、[[1860年]][[8月16日]] - [[1946年]][[2月5日]]
*[[1860年]]8月16日 イギリスの[[エセックス州]]レイトンにて、酒の醸造で成功していたバックストン家に生まれる。父は実業家[[トーマス・バックストン]]。祖父は英国新5ポンド札の中にも描かれている社会改革に尽くした政治家[[トーマス・バックストン (政治家)|トーマス・バックストン]]。(新5ポンド札の左側の集会の中のめがねをかけた人物がトーマス・バックストン)。 
 
*[[1874年]] [[ハーロー校]]に入学
 
*[[1879年]] [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学。[[テニス]]や[[クリケット]]の選手としても活躍する。
 
*[[1882年]] [[D.L.ムーディー]]の集会で献身を決意する。
 
*[[1884年]] [[イタリア]]、[[エジプト]]、[[イスラエル]]を旅行する。[[イングランド国教会|英国国教会]]の教職のとしての按手礼をうけ[[執事 (キリスト教)|執事]]に任命される。
 
*[[1885年]] 5月29日に「きよめ」の経験をする<ref>p12、上野和也、「バックストンと松江バンド」、Asia Graduate School of Theology 博士論文</ref>。この年、英国国教会の長老([[司祭]])となる。
 
*[[1886年]] 建築家ウィリアム・レイルトン([[ネルソン記念柱]]等を設計)の娘マーガレット・M・レイルトンと結婚
 
*[[1890年]] CMSミッション([[英国聖公会宣教協会|英国国教会海外宣教局]])の宣教師として庭師や家政婦などを伴い総勢9名で来日
 
*[[1891年]] [[島根県]][[松江市]]に移る。(同じ年に[[小泉八雲]]も松江に赴任)
 
*[[1893年]] 松江市内の赤山(現在の大本島根本苑)に修養道場を併設した自宅(1300坪)が完成。自宅を拠点に伝道活動、[[聖書講義]]を行う。聖書講義内容は『[[赤山講話]]』として出版される<ref>島根県松江市北堀町赤山にてバックストン邸にて「赤山講話」が始まる。本:赤山講話([[福田平治]]の博広社印刷)松江のバックストン活躍写真有り;福田平治・孫:福田良子所蔵  (イギリス社会福祉について教え、後の「山陰社会事業の父-福田平治」をキリスト教へ導いた)</ref>。[[竹田俊造]][[三谷種吉]]、[[堀内文一]]らがバックストンのもとで修養生活を行う。[[エミー・カーマイケル]]がバックストンの元で15ヶ月間滞在。
 
*[[1894年]] 休暇のためにイギリスへ一時帰国する。
 
*[[1897年]] バックストンの協力者として[[バゼット・ウィルクス]]宣教師夫妻が来日。
 
*[[1898年]]7月 - [[1899年]]5月 イギリスに一時帰国。
 
*[[1902年]]2月 イギリスに帰国。
 
*[[1903年]] バックストンとウィルクスがイギリスで[[ケズィック・コンベンション]]に参加した際に、[[日本伝道隊]]を設立。バックストンが総理、ウィルクスが日本駐在主幹になる。
 
*[[1904年]] 日本伝道隊が神戸を本拠地として日本での活動を始める([[竹田俊造]]、[[御牧碩太郎]]、[[三谷種吉]])。
 
*[[1907年]] 日本伝道隊聖書学校(現:関西聖書神学校の前身)が神戸市平野に設立される。
 
*[[1913年]] - [[1917年]] 再来日し伝道活動を再開。[[有馬郡|有馬]]や[[東京]]で聖会を開催する。[[神戸聖書学校]]で教鞭を執る。(この時の神学生に、[[沢村五郎]]、[[舟喜麟一]]、[[柘植不知人]]、[[佐藤邦之助]]、[[小島伊助]]、[[野畑新兵衛]]らがいる)
 
*[[1921年]] - [[1935年]] [[ロンドン]]郊外のタンブリッジウェルズの教会の牧師を努める。
 
*1935年 牧師を引退し、ロンドン郊外のウィンブルドンに住む。リッジランド聖書学院の講義を受け持つ。
 
[[Image:Barkley Buxton.jpg|thumb|200px|最後の来日時77歳頃のバックストン]]
 
*[[1937年]] 再び来日し半年間全国を巡回し、125回の講演を行い、後にイギリスに帰る。
 
*[[1946年]]2月5日 イギリスで死去(85歳) 
 
  
== 弟子 ==
+
イギリス聖公会宣教師。エセックス県の名家に生れ,ケンブリッジ大学に学ぶ。 1890年来日,翌年松江に拠点をおき,山陰地方に伝道。のちに神戸で活動した。日本の純福音派の指導者の多くは彼の霊的訓練を受けた。 1907年帰国。
=== 松江時代 ===
 
*[[笹尾鉄三郎]] - [[東京聖書学院]]初代院長、淀橋教会牧師
 
*[[竹田俊造]] - [[日本伝道隊]]の指導者
 
*[[三谷種吉]] - 日本伝道隊の指導者
 
*[[堀内文一]] - 日本自由メソジスト教団の創設者
 
*[[米田豊]] - バックストンの秘書、東京聖書学院教授、[[日本ホーリネス教団]]の指導者
 
*[[大江邦治]] - アライアンス教団の指導者
 
 
 
=== 神戸時代 ===
 
*[[澤村五郎]] - 聖書学舎(現、[[関西聖書神学校]])創設者、校長
 
*[[舟喜麟一]] - 前橋キリスト教会牧師、[[福音伝道教団]]の指導者
 
*[[野畑新兵衛]] - [[日本同盟基督教団]]の指導者、[[東京基督教短期大学]]の創設に関わる
 
*[[鋤柄熊太郎]] - 日本同盟基督教団の創設者、指導者
 
*[[佐藤邦之助]] - 日本イエス・キリスト教団[[香登教会]]牧師
 
*[[柘植不知人]] - 日本伝道隊、活水の群の創設者、[[リバイバリスト]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
 
 
== 参考文献 ==
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[日本伝道隊]]
 
*[[日本イエス・キリスト教団]]
 
*[[松江バンド]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://sacellum-chimistae.net/ オンライン版バックストン著作集]
 
 
 
{{松江バンド}}
 
{{きよめ派}}
 
{{明治時代の来日宣教師}}
 
{{福音派の来日宣教師}}
 
  
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{{DEFAULTSORT:はつくすとん はあくれえ}}
 
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[[Category:聖公会]]
 
[[Category:聖公会]]

2019/5/7/ (火) 20:06時点における最新版

バークレー・フォーエル・バックストン(Barclay Fowell Buxton、1860年8月16日 - 1946年2月5日

イギリス聖公会宣教師。エセックス県の名家に生れ,ケンブリッジ大学に学ぶ。 1890年来日,翌年松江に拠点をおき,山陰地方に伝道。のちに神戸で活動した。日本の純福音派の指導者の多くは彼の霊的訓練を受けた。 1907年帰国。



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