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[[ファイル:pierre_gassendi.jpg|thumb|250px|right|ピエール・ガッサンディ ]]
 
[[File:Gassendi - Romanum calendarium compendiose expositum, 1654 - 880721 F.jpeg|thumb|''Romanum calendarium'']]
 
'''ピエール・ガッサンディ'''(Pierre Gassendi、[[1592年]][[1月22日]]-[[1655年]][[10月24日]])は[[フランス]]の[[物理学者]]・[[数学者]]・[[哲学者]]。
 
  
== 略伝 ==
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'''ピエール・ガッサンディ'''(Pierre Gassendi、[[1592年]][[1月22日]][[1655年]][[10月24日]]
[[プロヴァンス]]地方で[[ディーニュ=レ=バン]]近郊シャンテルシェ([[:fr:Champtercier|Champtercier]])で貧しい農夫の子として生まれディーニュ大学に聴講し、[[言語学]]と[[数学]]に才能を示す。エクサンプロヴァンス大学で[[哲学]]を学び16歳で[[修辞学]]の教師となり、3年後に[[神学]]と哲学の教授となった。翌年の[[1612年]]に神学を講義するために[[ディーニュ大学]]に招聘され、[[1616年]]に[[アヴィニョン]]で神学の学位を授与され翌年に僧職に就いた。同年、[[エクス=マルセイユ大学|エクサンプロヴァンス大学]]で哲学教授となり、徐々に神学研究から遠のくことになる。[[1628年]]から[[1633年]]まで[[フランドル]]と[[オランダ]]へ旅行。[[1633年]]に元老員議員のベイレスシウスに推挙され、聖堂参事会員となりディーニュ聖堂学院の学長となる。[[1645年]]にパリの[[コレージュ・ド・フランス|コレージュ・ロアイヤル]]の数学教授となり、[[1648年]]に体調を崩すまで講義を行った。[[パリ]]で没する。
 
  
== 思想 ==
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フランスの哲学者。本名ガッサンGassend。南フランス,ディーニュ近くの農村に生まれ,のちにディーニュの首席司祭や王立学院(のちのコレージュ・ド・フランス)の数学教授になった。1624年に懐疑主義の立場からアリストテレスの形而上(けいじじよう)学を攻撃し,また41年にはデカルトの『省察』をめぐって彼と論争し,やはり懐疑主義の立場からその合理主義的形而上学や理性万能の態度を批判した。そして世界を理解する最良の仮説としてはエピクロスの学説に注目し,遺著『哲学集成』Syntagma philosophicum(1658没後刊,ラテン語)などによって,享楽主義の悪名高かったこの学説の批判的紹介に努めた。シラノ・ド・ベルジュラックやサン=テヴルモンらの自由思想家をはじめモリエールやラ・フォンテーヌにも影響を与えた。
青年時代のガッサンディは、懐疑論者シャロンなどの影響により[[アリストテレス]]の権威から解き放たれ、スコラ学者が解釈したアリストテレスを揶揄攻撃するパンフレットを書いて一部を出版し、その激しさを懸念した友人の忠告により5巻分は焼却した。
 
  
ガッサンディの批判は、自らの[[唯物論]]を教会の教理に順応させた[[ルネ・デカルト|デカルト]]にも向けられた。感覚から与えられる印象を疑った「デカルト的懐疑」を観念の遊戯と考え、「存在は思惟によってのみ認められる」とするデカルトに対し「存在は、まさしく思惟からと同様に、他のいかなる作用からも推測することができる」と反論した。
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ガッサンディの哲学史上最も大きな功績は、ローマ共和国に[[ギリシア哲学]]が輸入されて以来[[エピクロス]]が被っていた誹謗を斥け、その唯物論を復権したことである。ガッサンディはなにより物理学者であり、経験論者であったのでエピクロスの原子論を好む下地が備わっていた。その好みは言語学界で長らく賞賛されていたルクレティウスを研究することで強まった。ガッサンディはエピクロスの「快楽主義」にまつわる偏見を取り除き、エピクロスの道徳的な純潔さを擁護した。さらに唯物論と「無神論」が同一ではないことを、エピクロスが神々に犠牲を捧げた事実や、神が第一原因であり世界すべてを創造したというガッサンディ自身の説によって論証しようとした。
 
 
 
宇宙論においては[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]と[[コペルニクス]]と[[ティコ・ブラーエ]]が最も重要であるとし、その中でもコペルニクスが最も単純で徹底的に事実を表象したものと賞賛した。時間と場所は神による[[創造神話|世界創造]]以前から存在し、物質([[原子]])は神によって最初の運動を与えられたのであるとも考えた。
 
 
 
ガッサンディの死後、「[[理性]]」を強調するデカルト学派と「[[経験]]」を重く見るガッサンディの学派は[[パリ大学]]で対立しつつ[[スコラ哲学]]の影響を掘り崩し、ガッサンディの友人である[[トマス・ホッブズ|ホッブズ]]はデカルトの[[粒子説]]を支持したが、[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の[[原子論]]はガッサンディの方法で組み立てられている。
 
 
 
== 著作 ==
 
*『アリストテレスに関する逆説演習Exercitationes paradoxicae adversus Aristoteleos』1624年
 
*『Epistolica Exercitatio, in qua precipua principia philosophiae Roberti Fluddi deteguntur』1631年
 
*『反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年
 
*『エピクロスの生と死 Commentarius de vita, moribus et placitis Epicuri』 1659年
 
 
 
なお、2008年10月現在日本語に翻訳されている著作はない。
 
 
 
== 参考資料 ==
 
* Stanford Encyclopedia of Philosophy: [http://plato.stanford.edu/entries/gassendi Pierre Gassendi]
 
* [http://researchmap.jp/mugtuwhsm-17175/?action=multidatabase_action_main_filedownload&download_flag=1&upload_id=4246&metadata_id=9934 Sakamoto Kuni (坂本邦暢), German Hercules's Heir: Pierre Gassendi's Reception of Keplerian Ideas, Journal of the History of Ideas 70 (2009): 69-91].
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[唯物論]]
 
*[[エピクロス主義]]
 
*[[ガッサンディ (小惑星)]]
 
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[[Category:17世紀フランスの哲学者]]
 
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ピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi、1592年1月22日1655年10月24日

フランスの哲学者。本名ガッサンGassend。南フランス,ディーニュ近くの農村に生まれ,のちにディーニュの首席司祭や王立学院(のちのコレージュ・ド・フランス)の数学教授になった。1624年に懐疑主義の立場からアリストテレスの形而上(けいじじよう)学を攻撃し,また41年にはデカルトの『省察』をめぐって彼と論争し,やはり懐疑主義の立場からその合理主義的形而上学や理性万能の態度を批判した。そして世界を理解する最良の仮説としてはエピクロスの学説に注目し,遺著『哲学集成』Syntagma philosophicum(1658没後刊,ラテン語)などによって,享楽主義の悪名高かったこの学説の批判的紹介に努めた。シラノ・ド・ベルジュラックやサン=テヴルモンらの自由思想家をはじめモリエールやラ・フォンテーヌにも影響を与えた。



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