「フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(ページの白紙化)
(タグ: Blanking)
 
1行目: 1行目:
[[ファイル:Kurfürst Friedrich Wilhelm von Brandenburg 2.gif|thumb|200px|フリードリヒ・ヴィルヘルム<br/>(1652年)]]
 
[[ファイル:Frans Luycx - Frederick William, Elector of Brandenburg, at three-quarter-length.jpg|thumb|200px|フリードリヒ・ヴィルヘルム<br />(1650年)]]
 
'''フリードリヒ・ヴィルヘルム'''('''Friedrich Wilhelm''', [[1620年]][[2月16日]] - [[1688年]][[5月9日]])は、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]][[ブランデンブルク統治者の一覧|選帝侯]]及び[[プロシア公領|プロイセン]][[プロイセン統治者の一覧|公]](在位:[[1640年]][[12月1日]] - 1688年5月9日)。プロイセン公国を[[ポーランド王国|ポーランド]]支配から解放し、[[フェールベリンの戦い]]などに勝利して領内から[[スウェーデン]]勢力を駆逐したため、'''大選帝侯'''(der große Kurfürst)と称えられる。
 
  
== 生涯 ==
 
フリードリヒ・ヴィルヘルムは1620年2月16日、[[ベルリン]]近郊のケルンでブランデンブルク選帝侯[[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]とその妃である[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ4世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ4世]]の娘[[エリーザベト・シャルロッテ・フォン・デア・プファルツ (1597-1660)|エリーザベト・シャルロッテ]]の間に生まれた。[[1627年]]、[[三十年戦争]]から逃れて[[キュストリン]]に移り、[[1634年]]から[[1638年]]まで[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]へ留学していた。
 
 
1640年、父の死去にともなってフリードリヒ・ヴィルヘルムは弱冠20歳でブランデンブルク選帝侯となるが、未だブランデンブルクが不穏な状態にあるためプロイセンに留まった。[[1642年]]に[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]の娘で16歳の従妹、スウェーデン女王[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]に求婚するが、この縁談は破談となった。彼女が[[カトリック教会|カトリック]]に同情的であったためと思われる。[[1643年]]にブランデンブルクへ戻り初めて[[ベルリン]]を訪れ、臣下から忠誠の誓いを受ける。
 
 
[[1646年]]に母の従妹[[ルイーゼ・ヘンリエッテ・フォン・オラニエン|ルイーゼ・ヘンリエッテ]]([[オランダ総督]]、[[オラニエ公]][[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|フレデリック・ヘンドリック]]と[[アマーリエ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルス]]の娘)と結婚し、[[クレーフェ]]に移った。[[1650年]]に義兄のオランダ総督[[ウィレム2世 (オラニエ公)|ウィレム2世]]が亡くなり妻の甥[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]](後の[[イングランド王国|イングランド]]王ウィリアム3世)が幼少のためオランダが共和政に移行すると、姑アマーリエとウィレム3世の母[[メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート|メアリー・ヘンリエッタ]]と共にウィレム3世の後見人を務めた<ref>成瀬、P48 - P49、ハフナー、P41、友清、P105。</ref>。
 
 
父の代の[[1637年]]に[[ポメラニア公国|ポンメルン公国]]の統治者が死亡してスウェーデンとブランデンブルクとの争いが発生、フリードリヒ・ヴィルヘルムは継承権を主張したが、[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]でスウェーデンが西部(フォアポンメルン)を、ブランデンブルクはあまり価値が無い東部(ヒンターポンメルン)を相続することになった。この時から軍備拡張を政策に掲げ、[[1653年]]に地方議会から[[ユンカー]]の特権保障と引き換えに課税権の承認を受け、常備軍の設置に必要な税制の整備を始めた。クレーフェやプロイセンでも反対を受けつつ課税は成功し、この後の戦いを勝ち抜くための基礎となった。
 
 
[[1655年]]、プロイセン公国の[[宗主国]]をポーランドからスウェーデンへと替えたフリードリヒ・ヴィルヘルムは翌[[1656年]]、[[ワルシャワの戦い (1656年)|ワルシャワの戦い]]でスウェーデンと共に戦ってポーランド=[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]連合軍を破り、[[ラビアウ条約]]でプロイセンの主権を獲得した([[大洪水時代]])。しかしプロイセンの支配権を安定させるため、選帝侯はその後もしばしば同盟の相手を変えながら、[[ユトランド半島|ユトランド]]やフォアポンメルンを転戦する。
 
 
[[1660年]]の[[オリヴァ条約]]でフリードリヒ・ヴィルヘルムは最終的な支配権を獲得し、[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]で起こった暴動も鎮圧して住民に忠誠を誓わせた。この時点でプロイセンはポーランドとスウェーデンの宗主下から脱し自立、[[選帝侯]]としては[[神聖ローマ皇帝]]の臣下であったが、既に[[ブランデンブルク=プロイセン]]は北東ヨーロッパにおける地位を築いていた。また、直接税と間接税による恒常的な財源確保及び官僚機構の整備による中央集権化も進みブランデンブルクは徐々に発展していった<ref>成瀬、P50 - P55。</ref>。
 
 
[[ファイル:Kurfürst Friedrich Wilhelm von Brandenburg 4.jpeg|left|230px|thumb|フリードリヒ・ヴィルヘルム(1688年)]]
 
[[1672年]]に[[仏蘭戦争]]が勃発すると当初は[[フランス王国]]と同盟を結んでいた関係で中立だったが、オランダと条約を結びフランスから離反した。しかし[[1673年]]には[[フランス大元帥]][[アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (テュレンヌ子爵)|テュレンヌ]]に領土を攻め込まれ一旦和睦、翌[[1674年]]に再度反フランスに転じて[[アルザス地域圏|アルザス]]で帝国軍と合流したが、[[1675年]][[1月5日]]にテュレンヌの奇襲を受けて敗走、アルザスから撤退した([[テュルクハイムの戦い]])。この後、フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]と結んだスウェーデンがドイツに侵入したため北へ転戦してスウェーデンとの戦争を始めた([[スウェーデン・ブランデンブルク戦争]])。
 
 
1675年[[6月18日]]、フリードリヒ・ヴィルヘルムはスウェーデン軍をベルリン近郊のフェールベリンで勝利、続いて[[1676年]]から[[1679年]]まで前ポンメルン、[[東プロイセン]]、[[シュチェチン|シュテッティン]]でもスウェーデンと戦い、[[1678年]]には艦隊を率いて[[リューゲン島]]や[[シュトラールズント]]、[[グライフスヴァルト]]に遠征して、[[バルト海]]を支配するスウェーデンをはじめ、周辺国を威圧した。この艦隊はさらに増強されて、遠く[[西アフリカ]]沿岸にまで遠征し、[[ギニア]]にグロース=フリードリヒスベルク市を建設したり、[[奴隷貿易]]にたずさわったりしている。そして[[1679年]]にフランス主導の元、スウェーデンと[[サン=ジェルマン=アン=レー|サン=ジェルマン]]の講和を行い、ポンメルンを返還したが、ブランデンブルク=プロイセンからのスウェーデンの影響力を完全に排除させる事に成功した<ref>ハフナー、P35 - P37、友清、P132、P178 - P179、P190、P193、P199 - P201、P204、P214 - P216。</ref>。
 
 
[[1685年]]10月29日、フリードリヒ・ヴィルヘルムは[[ポツダム勅令 (1685年)|ポツダム勅令]]を発し、[[フォンテーヌブローの勅令]]によってフランスから流入した[[ユグノー]]難民に避難所を与えた。この勅令によってブランデンブルクには2万の難民が移住し、そのうち5千はベルリンに住み、フランスの高度な技術や文化をブランデンブルクに伝えた。翌[[1686年]]に[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]を始めとする帝国諸侯と[[アウクスブルク同盟]]を締結してフランスに備えた。
 
 
1688年5月9日、68歳で[[ポツダム]]で没し、息子の[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]](後の[[プロイセン国王|プロイセン王]]フリードリヒ1世)が後を継いだ。大選帝侯が残した常備軍の兵力は3万に上り、その税制や、移民を受け入れる宗教的寛容とともに後の[[プロイセン王国]]を築く基礎となった。
 
 
==子女==
 
===最初の結婚===
 
1646年12月7日、フリードリヒ・ヴィルヘルムは[[ハーグ]]でネーデルラント総督のオラニエ公[[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|フレデリック・ヘンドリック]]の娘[[ルイーゼ・ヘンリエッテ・フォン・オラニエン|ルイーゼ・ヘンリエッテ]]と最初の結婚をし、間に5男1女をもうけた。ルイーゼとは1667年に死別した。
 
*ヴィルヘルム・ハインリヒ(1648年 - 1649年)
 
*カール・エミール(1655年 - 1674年) 
 
*[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ]](1657年 - 1713年) - ブランデンブルク選帝侯、プロイセン王
 
*アマーリア(1664年 - 1665年)
 
*ハインリヒ(1664年) - アマリアの双子の弟
 
*ルートヴィヒ(1666年 - 1687年) - ラジヴィル=ビルツェ侯女[[ルドヴィカ・カロリナ・ラジヴィウ|シャルロッテ]]と結婚
 
 
===2度目の結婚===
 
[[1668年]][[6月14日]]、フリードリヒ・ヴィルヘルムは[[ハルバーシュタット]]近郊のグレーニンゲン城において、[[グリュックスブルク家|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク]]公[[フィリップ (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公)|フィリップ]]の娘[[ドロテア・ゾフィー・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク|ドロテア・ゾフィー]]と結婚式を挙げた。ドロテアは[[リューネブルク侯領|リューネブルク侯]][[クリスティアン・ルートヴィヒ (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|クリスティアン・ルートヴィヒ]]の未亡人であり、再婚同士の夫婦であった。夫妻は4男3女に恵まれた。
 
 
ドロテアは選帝侯家を継げない自分の産んだ息子達の財産を確保するため、[[シュヴェート]]とヴィルデンブルフ(現在の[[ポーランド]]領[[スフォブニツァ]])の領地を購入した。[[1701年]]に継子の選帝侯フリードリヒ3世が[[プロイセンの王]]となった際、ドロテアの産んだ息子達もプロイセンの王子(Prinz in Preußen)及びブランデンブルク辺境伯(Markgraf zu Brandenburg)の称号を与えられた。彼らの家系は[[ブランデンブルク=シュヴェート]]辺境伯家と呼ばれ、[[1788年]]までプロイセン王家の分家として存続した。また、ドロテアは夫の心を動かし、ブランデンブルク選帝侯領をフリードリヒ3世と自分の息子達の間で分割相続させる、という約束を一時的に取り付けることまでした。後に撤回されたこの約束のため、フリードリヒ3世は異母弟達との間で即位後10年にわたって揉めることになった。
 
*[[フィリップ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯)|フィリップ・ヴィルヘルム]](1669年 - 1711年) - マクデブルク公領総督、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯
 
*[[マリア・アマーリア・フォン・ブランデンブルク|マリア・アマーリア]](1670年 - 1739年) - 1687年にメクレンブルク=ギュストロー公世子カールと結婚、1689年にザクセン=ツァイツ公[[モーリッツ・ヴィルヘルム (ザクセン=ツァイツ公)|モーリッツ・ヴィルヘルム]]と再婚
 
*[[アルブレヒト・フリードリヒ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート|アルブレヒト・フリードリヒ]](1672年 - 1731年) - [[聖ヨハネ騎士団]]団長、ヒンターポンメルン総督 
 
*カール・フィリップ(1673年 - 1695年)
 
*[[エリーザベト・ゾフィー・フォン・ブランデンブルク (1674-1748)|エリーザベト・ゾフィー]](1674年 - 1748年) - 1691年に[[クールラント・ゼムガレン公国|クールラント]]公[[フリードリヒ・カジミール・ケトラー|フリードリヒ・カジミール]]と結婚、1703年に[[バイロイト侯領|ブランデンブルク=バイロイト]]辺境伯[[クリスティアン・エルンスト (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)|クリスティアン・エルンスト]]と再婚、1714年にザクセン=マイニンゲン公[[エルンスト・ルートヴィヒ1世 (ザクセン=マイニンゲン公)|エルンスト・ルートヴィヒ1世]]と3度目の結婚
 
*ドロテア(1675年 - 1676年)
 
*[[クリスティアン・ルートヴィヒ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート|クリスティアン・ルートヴィヒ]](1677年 - 1734年) - ハルバーシュタット侯領総督
 
 
== フリードリヒ・ヴィルヘルムが登場する小説 ==
 
* [[榛名しおり]]『マリア―ブランデンブルクの真珠』([[講談社文庫|講談社F文庫]]、2005年)ISBN 978-4062800051
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[成瀬治]]・[[山田欣吾]]・[[木村靖二]]編『世界歴史大系 ドイツ史2』[[山川出版社]]、1997年。
 
* [[セバスチャン・ハフナー]] 『図説プロイセンの歴史 <small>伝説からの解放</small>』魚住昌良監訳、川口由紀子訳、[[東洋書林]]、2000年。
 
* [[友清理士]]『イギリス革命史(上)』[[研究社]]、2004年。
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Friedrich Wilhelm I of Brandenburg}}
 
*[[グローサー・クルフュルスト (戦艦)]] - [[ドイツ海軍]]の[[ケーニヒ級戦艦]]
 
 
{{先代次代|[[ブランデンブルク統治者の一覧|ブランデンブルク選帝侯]]<br/>[[プロイセン統治者の一覧|プロイセン公]]|1640年 - 1688年|[[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]|[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]]}}
 
 
{{DEFAULTSORT:ふりいとりひういるへるむ}}
 
[[Category:フリードリヒ・ヴィルヘルム|*]]
 
[[Category:プロイセン公]]
 
[[Category:ブランデンブルク選帝侯]]
 
[[Category:ラーヴェンスベルク伯]]
 
[[Category:ホーエンツォレルン家ブランデンブルク=プロイセン系]]
 
[[Category:大洪水時代の人物]]
 
[[Category:北方戦争の人物]]
 
[[Category:仏蘭戦争の人物]]
 
[[Category:ベルリン出身の人物]]
 
[[Category:1620年生]]
 
[[Category:1688年没]]
 

2019/4/25/ (木) 16:33時点における最新版