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{{ブランデンブルクとプロイセンの歴史}}
 
'''プルーセン'''、'''古プロイセン人'''、あるいは'''バルト・プロイセン人'''([[低ザクセン語]]: Pruzzen、{{Lang-de|Prußen}}、{{Lang-la|Pruteni}}、{{Lang-lt|Prūsai}}、{{Lang-pl|Prusowie}}、[[プロシア語]]: Prūsas)は、[[バルト海]]の南東岸の、およそ[[ヴィスワ川]]とクロニアン (Curonian) 湖周辺に居住している、近隣の[[スラブ民族]]とは異なる中世バルト族([[バルト人]])から成る民族グループ。
 
 
 
13世紀の間に古[[プロイセン]]人は[[ドイツ騎士団]]によって征服され、ドイツ人により支配された。ドイツ帝国が統一される前にかつて存在した王国である[[プロイセン]]は、[[バルト語派]]の古プロイセン地域からその名前を取り、[[古プロイセン語]]は17世紀から18世紀初頭までには消滅した<ref>http://pismo.pruthenia.pl/pruthenia_3/Pruthenia_3_2008_Bia%C5%82u%C5%84ski-G_Emigracja_Prus%C3%B3w.pdf</ref>。
 
 
 
プルーセン人の土地は、[[ポリャーネ族 (西)|ポラン族]](現ポーランド人)の出現前まで広大だった<ref>http://pismo.pruthenia.pl/pruthenia_3/Pruthenia_3_2008_Bia%C5%82u%C5%84ski-G_Emigracja_Prus%C3%B3w.pdf</ref>。およそ[[東プロイセン]]の中央から南部、現[[ポーランド]]の[[ヴァルミア・マズールィ県]]、[[ロシア]]の[[カリーニングラード州]]、[[リトアニア]]の[[クライペダ]]地方から成り立っていた。
 
 
 
== 種族名の語源 ==
 
[[ファイル:Pruska baba Olsztyn.jpg|thumb|left|200px|[[ポーランド]]、[[オルシュティン城]]の庭に保存されている異教時代のプルーセン(プルシ人)の女神像]]
 
ほとんどのプロイセンの種族名は、地形を主題に名付けられていた。この国の何千という湖、小川と沼が点在する地形を考えると理解できる慣習ではあるが、これらの種族名は水に基づいていた。実際、このような水に囲まれた地形のために[[バルト語派]]が絶滅せずに残る孤立地帯ができ、[[ドニエプル川]]や[[プリピャチ沼]]に繋がり、これらがこの千年期に渡って外敵からの効果的な障壁になってきた。
 
 
 
元々の前バルトの移住者は、彼らの定住地の名前を、そのそばの川、湖、海、あるいは森林にちなんで名づけるのが普通だった。組織化した一族あるいは部族の名前は、定住地の名前から取られた。
 
 
 
例えば、バルティ (Barti) の故郷であるバルタ (Barta) は、リトアニアでのバルティス川 (Bartis)、あるいはアルバニアのベラック (berrak) やブルガリアのバラ (bara) (「沼」の意味)のように、何か他の[[バルト語]]や[[スラヴ語]]の水の名に関係がある。*bor-語根は再建すると「湿地」を意味していたものと考えられる。これは[[インド・ヨーロッパ語族]]の*bher-のo-等級から来ると思われる。インド・ヨーロッパ語族はいくつかの*bher-語根を持っているが、その正確な意味と変化系統は不明である。この語根は多分Prusas(プロイセン)の中で使われているものと同じである。より古い形のBrus-が「バイエルン人の地理学者」(Geographus Bavarus、9世紀半ばにドナウ川以北についての地理書を書いた氏名不詳の人物)の書いた地図で見いだされるからである。古代ギリシャ語では[[ドニエプル川]]の名前はボリュステネス (Borysthenes) だったが、それは確かにねじれているが*Bor-を含んでいる。
 
 
 
[[タキトゥス]]の『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマニア]]』では、Lugii Buri(ブル地方のルク人)がゲルマン人の東の地域に住んでいると述べられている。Lugiは[[ユリウス・ポコルニー]]の辞書(686ページ)で言う「黒い湿地」を意味する*leug-(2)、から変化したものであろう。他方Buriは「プロイセン」という言葉の起源と考えられる。現在でも[[ロシア]]や[[ハンガリー]]や[[リトアニア]]などでは[[ポーランド人]]を「ルク人 (Lugii)」という意味の「リャク人 (Lyakhi)」、「レンジェル人 (Lengyelek)」、「レンク人 (Lenkai)」と呼び、ポーランド人は自らを「レク人 (Lechici)」と呼ぶ。
 
 
 
Pameddi(ポメサニア)は、「近くに」を意味する言葉と「はちみつ」を意味する言葉から派生したもので、これは[[インド・ヨーロッパ祖語]]の語根*medhu-まで起源が遡ると考えられる。Nadruvia(ナドルヴィア)の語源はいろいろに想定されてきた。[[スラヴ語]]などでna(近くに、接した)とdravis(木)あるいは語根*dhreu-(流れ、川)から来たとするものなどである。それは[[古プロシア語|古プロイセン語]]のNadyn(森林)、Nede(池)や、ドニエプルの支流の名前であるNydar(リトアニア語Nedejan、ロシア語Nadva(再建されたバルト語では*Nadva ))とも関係がある。
 
 
 
これらの種族名は、わずかに1〜2個だけ生き残ったバルト語派である[[ラトビア語]]とも明らかな関係が存在する。ラトビア語でも川をBa-rtaと言う。"Pameddi"を見れば、pa(近くに)とmedi(はちみつ)が含まれているのが分かる。ラトビア語で"Nadruvia"はnodruveのような発音になるが、noは「近くに」、druvaは「トウモロコシ畑」である。
 
 
 
これらの要素の文脈は解明されておらず、Buriが現在のプロイセンの語源であるかどうかも不明である。紀元2世紀の地理学者[[クラウディオス・プトレマイオス]]はヨーロッパのSarmatia (ヨーロッパの8番目の地図)に住んでいるBorusciを挙げ、彼らはビスラ・フルメンによってゲルマニアから分離されていると述べている。その地域のプトレマイオスの地図は非常に混乱しているが、このBorusciは現在のプロシアより東にあるようで、ビスラ川の河口においてはギュトン(ゴート族)の支配下にあっただろう。タキトゥスがAesti(東の人)と記録したように、後にヨルダネス (Jordanes) は彼らをゴート人の帝国の一部として記録した。
 
 
 
近年の[[考古学]]的成果により紀元前からの原スラヴ人の故地の一部ではないかとも考えられるようになった[[ポーランド]]ではプルーセン人を複数形で「プルシ (Prusy)」と呼び、この単数形は「プルス (Prus)」であるが、「(ポーランドから見て)ルーシ (Rus) の地域(すなわち[[ロシア]])へ向かっていく地方」という意味のスラヴ語「ポ・ルス (po rus)」が語源であるという説(ポーランド語のpoは方向を示す[[前置詞]]で、英語のforに相当)も上記の説と同様に有力であり、この解釈も定着している。したがってburiがPrusの語源なのではなく実際はその反対で、すでにこの地方で長く定着していた名称のPrusがタキトゥス等のローマ人によってbur-と聞き取られた可能性がある。
 
 
 
なお、上記のポメサニア (Pomesania) もポーランドではポメザニア (Pomezania) と呼ばれるが、その語源は「[[はちみつ]]の土地に向かっていく地方」という意味のスラヴ語「ポ・ミョド (po miod)」から派生したもので、「はちみつ」を語源とする古プルーセン語の名称がもとであるとされる。[[リトアニア語]]で「はちみつ」は「メドゥス (medus)」、[[ポーランド語]]では「ミュート (miód)」である。ちなみに、ポメサニア人はプルーセン人のうちの一部族である。
 
 
 
同様の例ではポーランド北西部からドイツ北東部の[[バルト海]]沿岸に広がる「ポメラニア」という地方名にも言える。この名称はポーランド語をはじめとしたこの地方土着の[[西スラヴ語群]]諸語で「海に向かっていく地方 (po morze)」という意味の「ポモージェ (Pomorze)」が語源である。ポモージェは[[英語]]や[[ラテン語]]では「ポメラニア (Pomerania)」[[ドイツ語]]で「ポンメルン (Pommern)」で、どちらも「ポモージェ (Pomorze)」から派生したものである。この、「po-」の説は基準地として[[プシェヴォルスク文化]]を前提としている。
 
 
 
== 初期 ==
 
[[ファイル:Baltic Tribes c 1200.svg|サムネイル|右|330px|バルトの民族地図、1200年]]
 
バルトの歴史の始め、古プロイセンはプロイセンの[[トルン]]付近の深南部とは、ヴィスワ川とネマン川、そしてナレフ川の線によって境を分けられていた。カシュビアは西方に、南にポーランド人、東にスドヴィア人、北にクロニア人、そして北東にリトアニア人が居住していた。
 
 
 
ドイツ騎士団の司祭、デュスブルクのピーターの ''Chronicon terrae Prussiae''(1326年)によれば、古プロイセン人は部族構造で組織化されていた。地理的特徴を基盤とし、古プロイセン人の11か国、10種族を列挙した分析結果が記述されている。
 
# ポメサニア(ドイツ語: Pomesanien、現代リトアニア語: Pamede、再建プロイセン語: Pameddi)
 
# ヴァルミア(ドイツ語: ErmlandまたはWarmien、現代リトアニア語: Varme、再建プロイセン語: Wa-rmi)
 
# ポゲサニア(ドイツ語: Pogesanien、現代リトアニア語: Pagude、再建プロイセン語: Paguddi)
 
# ナタンギア(ドイツ語: Natangen、現代リトアニア語: Notanga)
 
# サンビア(ドイツ語: Samland、現代リトアニア語: Semba)
 
# ナドルヴィア(ドイツ語: Nadrauen、現代リトアニア語: Nadruva)
 
# バルティア(ドイツ語: Barten、現代リトアニア語: Barta、再建プロイセン語: Bartians)
 
# スカロヴィア(ドイツ語: Schalauen、現代リトアニア語: Skalva)
 
# スドヴィア(ドイツ語: Sudauen、現代リトアニア語: Suduva、再建プロイセン語: Su-dawa)
 
# ガリンディア(ドイツ語: Galindien、現代リトアニア語: Galinda、再建プロイセン語: Galinda)
 
 
 
ピーターによると、ポメサニアの南西にある11番目の土地クルム (Kulm) はほとんど無人であったとされている。ドイツによる古プロイセン征服の後は、国土はほぼ正確にこれらの区分に沿って分割されたが、ドイツ人は[[タンネンベルク]]を中心とするサッセン (Sassen) という12番目の国を加えた。以上の名前は恐らく網羅的ではないと考えられる。これらの名前の多くが古代または中世の文献に現われるが、しかしある程度つづりと地理は文献によってさまざまである。デュスブルクのピーターは、Pomesani、Pogesani、Varmienses などのようなラテン語の名前の方を用いた。
 
 
 
== 中世の歴史 ==
 
[[ファイル:Adalb.jpg|right|frame|(1175年ごろ)軍事・宣教に来たプラハのアダルベルトを殺す古プロイセン人。]]
 
歴史文献で初めて古プロイセンが明確に言及されるのは、古プロイセンをキリスト教に教化する宣教中の[[997年]]に殺された[[プラハのアダルベルト]]に関連したものである。10世紀、西スラブ民族のキリスト教化後、[[977年]]ポーランドの[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]は[[プラハのアダルベルト|アーダルベルト]]司教を軍事とキリスト教化の布教目的でプロイセンに送り込むが、プルーセンの異教司祭により殺された<ref>"St. Adalbert", The Catholic Encyclopedia, New York: Robert Appleton Company, 1907</ref>。プルーセン人は、1015年、1147年、1161-1166年、そして13世紀中幾度ものポーランドによる侵略を撃退した。ポーランドの[[コンラト1世 (マゾフシェ公)]]は[[北方十字軍]]を徴集し、何年もプロイセン侵略を試みたが敗北に終わった。教皇は[[十字軍]]をさらに準備した。ついにコンラト1世は、クルムラント(現: [[ヘウムノ]])領有権と引き換えに[[ドイツ騎士団]]を招聘した。古プロイセンはドブリン騎士団を追い払ったものの、13世紀、[[北方十字軍]]による数十年に渡る血まみれの征服活動の末、[[ドイツ騎士団]]に屈した。生き残った原住の古プロイセン人の多くが、現[[カリーニングラード州]]にあたるバルト海沿いのサンビア地方に移住させられた。[[1286年]]の大規模反乱を含む頻繁な反乱は、十字軍によって制圧された。
 
 
 
洗礼を受けた古プロイセン人はマクデブルク大司教の元で教養を身につけた。一方ドイツ人とオランダ人の移住者は原住民の古プロイセンを植民地化し、またポーランド人とリトアニア人は、それぞれ南部プロイセンと東部プロイセンに定着した。ドイツ人の地盤の中に、[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク ]]に古プロイセン人の大きな孤立地帯が残され、そこで[[1525年]]にプロイセン公国が誕生するまでは[[ドイツ騎士団国]]の一部のままであった。
 
 
 
ドイツ騎士団の修道士と学者は古プロイセン人が使う言語に対して多大な興味を持ち、それを記録しようとした。加えて、古プロイセン人と意思疎通する必要もあった。こうした経緯で[[古プロシア語|古プロイセン語]]の若干の記録が残されている。ガリンディア語やスドヴィア語が含まれているが、これらの記録が西バルト語族について残されている記録の全てである。[[ゲルマン祖語]]と類似性を示す、非常に古風なバルト語である。古プロイセン語は、ゲルマン語 / バルト語 / スラブ語の共通語がかつて存在したという理論を支持するように思われる<ref>Encyclopedia Britannica - Article: "Baltic languages", May 2004, Encyclopedia Britannica Inc, ISBN 978-0852290668,</ref>。
 
 
 
ドイツ騎士団は、15世紀の間に[[ポーランド・リトアニア合同|ポーランド・リトアニア連合]]との徐々に弱体化された。多額の戦争賠償金により、騎士団国家は債務負担と増税で経済は悪化した。プロイセン人は、[[1440年]]反ドイツ騎士団の[[プロシア連合|プロイセン連合]]を結成しポーランド王に支援を求めた。1454年(十三年戦争)でプロシア連合側は勝利した。
 
 
 
[[宗教改革|プロテスタント宗教改革]]の時代、[[1525年]]、騎士団総長[[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ]]は、騎士団領を世俗化してポーランドの封建家臣となり、プロイセンは[[プロテスタント]]([[ルーテル教会|ルター派]])の[[プロシア公領]]になった。古プロイセン人は再び反乱を起こしたが、ドイツ政府によって鎮圧された。[[宗教改革]]の時代には、プロイセン公領で公式に、ポーランド領プロイセンでは非公式にルター派の影響力は拡大した。ヴァルミアではカトリックが残った。プロテスタント改宗後、礼拝の言語はラテン語に代わり自国となった。アルブレヒトは教義問答を古プロイセン語に翻訳した。
 
 
 
古プロイセン語は17世紀の終わりを迎える前に消滅したが、古プロイセン語で書かれた聖書と詩が残っている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[バルト人]]
 
* [[バルト・ドイツ人]]
 
* [[プロイセン]]
 
* [[ドイツ騎士団]]
 
* [[プロイセン王国]]
 
* [[東プロイセン]]
 
* [[西プロイセン]]
 
* [[プロシア連合]]
 
* [[プロシア公領]]
 
* [[ポーランド王領プロシア]]
 
* [[ポメラニア]]
 
* [[プロイセン州]]
 
* [[カリーニングラード]](旧称[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]])
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [https://web.archive.org/web/20070311041739/http://www.mlimuziejus.lt/3/31/315/315F2d.htm 1584 Map showing Altes Preussenland Old Prussia]
 
* [http://www.euronet.nl/~jlemmens/prussia.html Northeast Prussia]
 
* [https://web.archive.org/web/20040412094112/http://www.alphalink.com.au/~wolf/prussia/ Milestones of Baltic Prussian History]
 
* [http://prusa.strefa.pl/nertiks/papaausai/taautaskarti/istooriska.html Map of Prussia before Teutonic Order invasion]
 
 
 
{{DEFAULTSORT:ふるうせん}}
 
[[Category:バルト系諸族]]
 
[[Category:東プロイセン]]
 
[[Category:ポーランドの民族]]
 
[[Category:ヨーロッパの民族]]
 

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