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{{大統領
 
| 人名 = ベーナズィール・ブットー
 
| 各国語表記 = Benazir Bhutto
 
| 画像 = Benazir Bhutto.jpg
 
| 画像サイズ =
 
| 国名 = {{PAK}}
 
| 代数 = 第14
 
| 職名 = [[パキスタンの首相|首相]]
 
| 就任日 = [[1993年]][[10月19日]]
 
| 退任日 = [[1996年]][[11月5日]]
 
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| 代数2 = 第20
 
| 職名2 = 財務大臣
 
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| 職名3 = 財務大臣
 
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| 代数4 = 第19
 
| 職名4 = 国防大臣
 
| 就任日4 = [[1988年]][[12月4日]]
 
| 退任日4 = [[1990年]][[8月6日]]
 
| 副大統領5 =
 
| 元首4 =
 
| 国名5 = {{PAK}}
 
| 代数5 = 第12
 
| 職名5 = [[パキスタンの首相|首相]]
 
| 就任日5 = [[1988年]][[12月2日]]
 
| 退任日5 = [[1990年]][[8月6日]]
 
| 副大統領2 =
 
| 元首5 =
 
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1953|6|21|死去}}
 
| 生地 = {{PAK}}、[[カラチ]]
 
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1953|6|21|2007|12|27}}
 
| 没地 = {{PAK}}、[[ラーワルピンディー]]
 
| 配偶者 = [[アースィフ・アリー・ザルダーリー]]
 
| 政党 = [[パキスタン人民党]]
 
| サイン =
 
}}
 
'''ベーナズィール・ブットー'''<ref>報道などでは「'''ベナジル・ブット'''」([http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2007122800374 時事通信社]、[http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/071228/mds0712281221002-n1.htm 産経新聞]、[http://www.asahi.com/international/reuters/RTR200712280010.html 朝日新聞]、
 
[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20071228it04.htm?from=navr 読売新聞])が一般的である。</ref>('''Benazir Bhutto'''、[[シンド語]]:بینظیر ڀھٽو、[[ウルドゥー語]]: {{lang|ur|بینظیر بھٹو}})は、[[パキスタン]]の[[政治家]]、元[[首相]]([[1953年]][[6月21日]] - [[2007年]][[12月27日]])。[[イスラム世界|イスラム諸国家]]における初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]であり、後に[[暗殺]]された。
 
  
== 人物 ==
 
植民地独立後の[[イスラム世界|イスラム諸国家]]における初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]である。父である[[ズルフィカール・アリー・ブットー]]元首相が設立した[[パキスタン人民党]](PPP)の[[総裁]](党首)となり、[[1988年]]と[[1993年]]の2度、首相に選出されているが、いずれも汚職などを理由に解任されている。[[2007年]][[12月27日]]に、政界復帰を目指して、国会議員選挙運動中に暗殺された。
 
 
夫である[[アースィフ・アリー・ザルダーリー]]との間に、一男二女(長男・長女・次女)がいる。現在、アースィフ・ザルダーリー([[パキスタンの大統領|大統領]])と長男の[[ビラーワル・ブットー・ザルダーリー]]が、後継の人民党共同総裁となっている。
 
 
== 経歴 ==
 
=== 生い立ち ===
 
ベーナズィールは、[[ズルフィカール・アリー・ブットー]](元首相、軍事クーデター後に処刑された)の娘として[[カラチ]]に生まれた。父方の祖父{{仮リンク|シャー・ナワーズ・ブットー|en|Shah Nawaz Bhutto}}は[[シンド州|シンド人]]でパキスタン独立運動の中心人物の1人であった。
 
 
1969年4月、ベーナズィールは[[ハーバード大学]]のラドクリフ・カレッジおよび[[オックスフォード大学]]レディー・マーガレット・ホール校で学んだ。1971年に[[インド]]が東パキスタン (現[[バングラデシュ]]) へ軍隊を派遣し、父ズルフィカールが問題解決のため外務大臣として[[国際連合|国連]]へ赴いた際、彼女はカレッジを一時的に離れ、[[ニューヨーク]]で父の助手を務めた。学生生活から離れ父親の活動を手伝ったことは、後の彼女の政治活動への参加に大きな経験となった。[[アメリカ合衆国]]での生活の間、彼女は様々な社会問題に活発に参加した。
 
 
1973年に彼女は政治学の学位を得てカレッジを卒業した。カレッジ在学中に彼女はファイ・ベータ・カッパ (全米優等学生友愛会) の会員に選出された。彼女は同年秋にオクスフォードに進学し、PPE(政治学・哲学・経済学)で修士号を得た。オクスフォード在学中に、彼女はオクスフォード・ユニオンの議長に就任した初のアジア女性となった。これは、彼女の対立候補が不正な調査を行ったことが原因で再選挙が実施された結果であった。
 
 
このように、彼女は大学において、父親の首相在任時の中程、国内および海外問題に関わる政治運動と、終始、論争に明けくれる日々を過ごした。
 
 
=== 政界への進出 ===
 
オクスフォード卒業後にパキスタンへ帰国したが、父親の監禁と処刑の過程で、彼女は自宅軟禁を受けた。1984年に[[イギリス]]への渡航が許可され、彼女は亡命したまま、父の政党であった[[パキスタン人民党]] (PPP) の党首に就任した。しかし、[[ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハック]]将軍が死亡するまでは、彼女がパキスタンにおける政治的な存在感を示すことはできなかった。
 
 
[[1988年]][[11月16日]]、10数年振りに施行された公開選挙において、ベーナズィールのPPPはパキスタン国民議会の単独与党の座を勝ち取った。彼女は12月2日に宣誓し、現代のイスラム諸国家で最年少 (当時35歳) かつ初の女性の政府代表、パキスタン第12代首相となった。同年、ベーナズィールはビープル誌で「世界でもっとも美しい50人」にも選出された。
 
 
=== 汚職による解任 ===
 
{{Seealso|[[:en:Operation Midnight Jackal]]}}
 
 
首相選出20か月後の[[1990年]][[8月6日]]に、汚職を告発され、軍の支持を受けて[[クーデター]]で大統領に就任した{{仮リンク|グラーム・イスハーク・ハーン|en|Ghulam Ishaq Khan}}により首相の座を解任され、同年10月に行われた選挙で、PPPは敗北した。その後3年間、ベーナズィールは[[ナワーズ・シャリーフ]]政権に対する野党のリーダーを務めた。
 
 
その後の選挙で再び勝利し、[[1993年]][[10月19日]]に、ベーナズィールは首相に返り咲いた。しかし、[[1996年]][[11月5日]]、再び汚職を告発されるなど様々なスキャンダルが原因で、{{ill2|ファールーク・ラガーリー|en|Farooq Leghari}}大統領によってまたも首相を解任されて、彼女の政権は瓦解した。これらのスキャンダルのうちの幾つかは、彼女の首相在任中に[[スイス]]企業に図られた便宜が含まれておりそれらは未解決のままである。
 
 
彼女の夫[[アースィフ・アリー・ザルダーリー]]はスキャンダルへの関与により逮捕され、2004年11月まで刑務所に収監された。2006年、[[国際刑事警察機構]]は、パキスタン政府の要請に応じてベーナズィールと夫の両名の逮捕を求める国際手配書を発行した<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4650234.stm Pakistan seeks arrest of Bhutto, BBC News, Januray 26, 2006]</ref>。
 
 
=== 2002年統一選挙 ===
 
[[1999年]]の[[パルヴェーズ・ムシャラフ|ムシャラフ]]大統領による{{仮リンク|パキスタン・クーデター (1999年)|en|1999 Pakistani coup d'état|label=無血クーデター}}後、[[2002年]]に民政移管のために統一選挙が行われ、ベーナズィール率いる[[パキスタン人民党]] (PPP) は最大の票を得て国民議会で62議席を獲得した。[[パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派|パキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派]] (PML-N) も15議席を獲得した。政府はこの事態を受けて、直ちに切り崩し工作を行い議会における両党の勢力を弱めたが、彼らに対する世論の支持を鎮静することはできなかった。政府は次に法律と国家権力によってベーナズィールと[[ナワーズ・シャリーフ]]の拘束にかかった。この過程で、政府は[[統一行動評議会]] (MMA) から暗黙の支持を享受することが出来た。それは勿論、パキスタン政界におけるベーナズィールとシャリーフの勢力が弱まることは自党の利に直結するからである。同様に、[[ムッタヒダ国民運動]] (MQM) も、議会からのベーナズィールの排除と、[[シンド州]]政府のPPP弱体化工作から恩恵を受けた。
 
 
=== 暗殺までの状況 ===
 
2002年、当時のパキスタン大統領[[パルヴェーズ・ムシャラフ]]が、首相が2期以上在任することを禁じる新たな改正をパキスタンの憲法に施した。これによって、ベーナズィールの再任の可能性は憲法上は消滅した。この改正は、大統領の政敵である首相経験者ベーナズィールと[[ナワーズ・シャリーフ|シャリーフ]]を狙った攻撃であると受け止められている。
 
 
ベーナズィールは、2004年秋の時点では、[[ドバイ]]に滞在し3人の子供ら家族とともに生活しながら、世界中を回って講演活動を行い、PPPの支持者と連絡を取り合っていた。2007年11月の統一選挙でパキスタンに帰国し首相への返り咲きを狙うことを公言していた。
 
 
=== 暗殺 ===
 
ベーナズィールは政界復帰を目指し2007年10月に帰国し、カラチで帰国遊説中に自爆テロに遭遇したが、その際は難を逃れた。
 
 
その後、2007年12月27日、[[イスラマバード]]郊外の[[ラーワルピンディー]]で選挙集会に参加中、イスラム原理主義者と思われるテロリストの銃撃と自爆テロにより暗殺(54歳)された。自爆テロにより、集会現場に居合わせた支持者や警官にも20名程度の死者が出た。後に[[アルカーイダ]]の[[サイード・アル=マスリー]]が犯行に関与した旨の声明を出したが、詳細は不明である。
 
 
ベーナズィールの亡骸は翌日に一族の墓に葬られ、彼女が総裁を務めていたパキスタン人民党は彼女の長男で[[オックスフォード大学]]生ビラーワル・ブットー(当時19歳)を新総裁に、夫アースィフ・ザルダーリー(当時51歳)を総裁代行に選出した。
 
 
== 対アフガニスタン政策 ==
 
[[ターリバーン]]が[[アフガニスタン]]で勢力を伸長したのはブットー政権時代で、彼女の肩入れによるものであった<ref>S. Coll, ''"Ghost Wars: The Secret History of the CIA, Afghanistan, and bin Laden, from the Soviet Invasion to September 10, 2001"'', Penguin Press HC, [[アメリカ合衆国|USA]] [[2004年]]</ref>。ベーナズィールとターリバーンはこの事実が社会問題化すると、相手に対する非難を応酬した。ターリバーンの政治信条によれば、女性であるベーナズィールには政権を握る権利はないからである。しかし、ベーナズィールはターリバーンがアフガニスタンに安定をもたらし、中央アジアとの貿易路を開くことになると考えていたのである<ref>S. Coll, ''"Ghost Wars: The Secret History of the CIA, Afghanistan, and bin Laden, from the Soviet Invasion to September 10, 2001"'', Penguin Press HC, [[アメリカ合衆国|USA]] [[2004年]]</ref>。そのためブットー政権はターリバーンに軍事的かつ財政的援助を与え、ごく少数ではあるがパキスタン国軍をアフガニスタンに派遣することすらした<ref>S. Coll, ''"Ghost Wars: The Secret History of the CIA, Afghanistan, and bin Laden, from the Soviet Invasion to September 10, 2001"'', Penguin Press HC, [[アメリカ合衆国|USA]] [[2004年]]</ref>。結局、ターリバーンは[[1996年]]9月[[カーブル]]に入城を果たした。
 
 
== 評価 ==
 
西欧では暗殺されたことも含めて[[軍事政権]]と「[[イスラム原理主義]]」と戦った民主化の女性闘士との評価もあるが、多くの専門家は異論を唱えている。
 
 
[[太田述正]]は、自身のブログで、ブットーは[[封建]]的で腐敗した汚職政治家と断じている<ref>http://blog.ohtan.net/archives/51110571.html 防衛省OB太田述正アングロサクソン文明と軍事研究ブログ「ブット暗殺(その5)」</ref>。また、その中で引用されている英国[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]紙のイギリスの著名歴史学者[[:en:William Dalrymple (historian)|ダリンプル]]の記事<ref>http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2007/dec/30/pakistan.world Pakistan's flawed and feudal princess</ref>でも、[[太田述正]]と同様の見方をしており、更に英語はよどみなく話せても母語のはずの[[ウルドゥ語]]や[[シンド語]]を正確に話せない「欧米向け政治家」と断じている。
 
 
2014年に[[ノーベル平和賞]]を受賞した[[マララ・ユサフザイ]]は、イスラム世界における初の女性首相であるベーナズィールに刺激を受けたと語っている<ref>{{cite news |title=マララさんのノーベル平和賞で期待される変革 |newspaper=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]] |date=2014-10-12 |url=http://jp.wsj.com/news/articles/SB11713596470002413933104580209192882632922 |accessdate=2014-10-12 |author =HUSAIN HAQQANI }}</ref>。
 
 
== 参考資料 ==
 
{{Reflist}}
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commons|Benazir Bhutto}}
 
{{wikinews|ベーナズィール・ブットー・元パキスタン首相が自爆テロで殺害される}}
 
* [[著名な女性政治家一覧]]
 
* [[ベナジル・ブット国際空港]]
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/2228796.stm Benazir Bhutto's extraordinary career]
 
* [http://www.ppp.org.pk/index.html Pakistan Peoples Party website]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}
 
* [https://web.archive.org/web/20040416030217/http://pakistanspace.tripod.com/47.htm Chronicles Of Pakistan]
 
 
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[[Category:パキスタンの首相]]
 
[[Category:パキスタンの反共主義者]]
 
[[Category:パキスタンの亡命者]]
 
[[Category:暗殺された政治家]]
 
[[Category:カラチ出身の人物]]
 
[[Category:1953年生]]
 
[[Category:2007年没]]
 

2019/4/25/ (木) 15:52時点における最新版