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{{基礎情報 国|
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[[ファイル:マチュピチュ遺跡.ペルー.jpg|サムネイル|マチュピチュ遺跡.ペルー]]
| 略名 =ペルー
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'''ペルー共和国'''(ペルーきょうわこく、{{Lang-es|República del Perú}}、{{Lang-qu|Piruw Republika}}、{{Lang-ay|Piruw Suyu}})、通称'''ペルー'''
| 日本語国名=ペルー共和国
 
| 公式国名 ={{Lang|es|'''República del Perú'''}}<small>(スペイン語)</small><br/>{{Lang|qu|'''Piruw Republika'''}}<small>(ケチュア語)</small><br/>{{Lang|ay|'''Piruw Suyu'''}}<small>(アイマラ語)</small>
 
| 国旗画像 =Flag of Peru.svg
 
| 国章画像 =[[ファイル:Escudo nacional del Perú.svg|120px|ペルーの国章]]
 
| 国章リンク=[[ペルーの国章|国章]]
 
| 標語 =''{{lang|es|Firme y feliz por la unión}}''<br/>(スペイン語: ''団結による安定と幸せ'')
 
| 位置画像 =Peru (orthographic projection).svg
 
| 公用語 =[[スペイン語]]、[[ケチュア語]]、[[アイマラ語]]
 
| 首都 =[[リマ]]
 
| 最大都市 =リマ
 
| 元首等肩書=[[ペルーの大統領|大統領]]
 
| 元首等氏名={{仮リンク|マルティン・ビスカラ|en|Martín Vizcarra}}
 
| 首相等肩書=[[ペルーの首相|首相]]
 
| 首相等氏名={{仮リンク|セザー・ヴィジャヌエヴァ|en|César Villanueva}}
 
| 面積順位 =19
 
| 面積大きさ=1 E12
 
| 面積値 =1,285,220
 
| 水面積率 =8.80%
 
| 人口統計年=2017
 
| 人口順位 =39
 
| 人口大きさ=1 E7
 
| 人口値 =33,109,000
 
| 人口密度値=21
 
| GDP統計年元 =2013
 
| GDP値元 = 280億<ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=293&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=34&pr.y=6|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-10-26}}</ref>
 
| GDP統計年MER =2013
 
| GDP順位MER =39
 
| GDP値MER = 765億<ref name="imf201410" />
 
| GDP統計年 =2013
 
| GDP順位 =38
 
| GDP値 =3,576億<ref name="imf201410" />
 
| GDP/人 =11,557<ref name="imf201410" />
 
| 建国形態 =独立
 
| 建国年月日=[[スペイン]]より<br/>[[1821年]]7月28日
 
| 通貨 =[[ヌエボ・ソル]]
 
| 通貨コード=PEN
 
| 時間帯 =-5
 
| 夏時間 =なし
 
| 国歌名 =ペルーの国歌(我等は自由に、常にそうあらんことを)
 
| ISO 3166-1 = PE / PER
 
| ccTLD =[[.pe]]
 
| 国際電話番号=51
 
| 注記=
 
}}
 
'''ペルー共和国'''(ペルーきょうわこく、{{Lang-es|República del Perú}}、{{Lang-qu|Piruw Republika}}、{{Lang-ay|Piruw Suyu}})、通称'''ペルー'''は、[[南アメリカ]]西部に位置する[[共和制]][[国家]]である。北に[[コロンビア]]、北西に[[エクアドル]]、東に[[ブラジル]]、南東に[[ボリビア]]、南に[[チリ]]と国境を接し、西は[[太平洋]]に面する。[[首都]]は[[リマ]]。
 
  
[[紀元前]]から多くの古代文明が栄えており、[[16世紀]]までは当時の世界で最大級の帝国だった[[インカ帝国]](タワンティン・スウユ)の中心地だった。その後[[スペイン]]に征服された[[植民地]]時代に[[ペルー副王領]]の中心地となり、独立後は[[大統領制]]の共和国となっている。
+
[[南アメリカ]]中部西岸,太平洋に面する国。北から東,南にかけて[[エクアドル]][[コロンビア]][[ブラジル]][[ボリビア]][[チリ]]に囲まれ,太平洋岸に連なる狭い海岸平野から東へ,[[アンデス山脈]]を横切ってアマゾン低地にかけて広がる。国土の中核をなすアンデス山脈は[[アマゾン川]]の源流[[マラニョン川]],[[ワヤガ川]],[[ウルバンバ川]],[[アプリマク川]]などの川が刻む深い縦谷により数条の並行する山脈に分けられ,山間には盆地や高原が発達。最高峰はブランカ山脈中の[[ワスカラン山]](6768m)。南部には[[火山]]が多い。[[熱帯]]に位置するが,アンデス山脈と沿岸を北流する冷たい[[ペルー海流]]の影響で気候は多様。沿岸部は雨がきわめて少なく[[砂漠]]となっているが,アンデス山脈から流下する川の水を利用して[[灌漑]]が発達し,リマ,[[アレキパ]],[[トルヒーヨ]]などの大都市が立地。アンデス山脈では垂直気候が発達し,快適な山間の谷や高原に人口が集まり,[[クスコ]],[[ワンカヨ]]などの都市ができている。アンデス山脈東斜面からアマゾン低地にかけては高温多雨の熱帯雨林地帯となり,ウカヤリ川などの河川沿岸を除くとほとんど人が住まない。[[インカ文明]]を最後の頂点とする[[ラテンアメリカインディアン]](インディオ)の諸文明が栄えた地で,今日も[[ケチュア族]],[[アイマラ族]]などのインディオが人口の約半分を占めるが,その大半は山間の厳しい自然環境できわめて貧しい生活を送り,沿岸部を中心に住む約 10%の白人との貧富の差が著しい。そのほか,[[メスティーソ]]と呼ばれるインディオと白人の混血が約 30%を占め,日本からの移民とその子孫も約 0.5%に上る。公用語はスペイン語とケチュア語,アイマラ語。90%近くがキリスト教の[[カトリック]]信者。鉱物,森林,水産,水力など豊かな[[天然資源]]に恵まれているが,未開発なものも多い。鉱物資源としては石油と銅を筆頭に,鉄,亜鉛,ビスマス,鉛,銀などを産出し,鉱産物が輸出の大部分を占める。開発は長い間おもに外国資本によって進められてきたが,1968年以降[[国有化]]が進行。北東部の[[ピウラ県]]などの内陸油田から,アンデス山脈を越えて太平洋沿岸諸都市に[[パイプライン]]が延びている。農業はサトウキビ,綿花,コーヒー,ジャガイモ,イネ,トウモロコシ,オオムギ,コムギなどを栽培するが,耕地が少なく,また近年人口が急増しているため,毎年大量の食糧を輸入。山地ではヒツジ,ウシ,アルパカ,ラマなどが飼育される。コカの生産国でもあり,[[コカイン]]に精製されている。また世界有数の漁業国であり,アンチョビーなどの漁獲が多く,魚粉が重要な輸出品となっている。工業は食品,繊維などの軽工業が中心であるが,セメント,鉄鋼,電機,石油精製,自動車などの工業も発達してきている。険しいアンデス山脈と複雑なアマゾン水系に阻まれて,交通網の発達は不十分。主要交通路は海岸沿いに国土を縦貫する[[パンアメリカン・ハイウェー]]。鉄道はところどころにあるが,全土を結ぶものはない。([[ペルー史]])
  
== 国名 ==
 
[[File:MapaPerú.Sanson2.JPG|thumb|250px|ペルーの古地図(1652年)]]
 
公用語による正式名称は、[[スペイン語]]表記では「{{llang|es|República del Perú|レプブリカ・デル・ペルー}}」。[[ケチュア語]]、[[アイマラ語]]表記は共に「{{lang|und-Latn|Piruw}}」である。通称は {{Lang|es|Perú}}。公式の英語表記は「{{llang|en|Republic of Peru|リパブリック・ オヴ ・ペルー}}」で、国民・形容詞はPeruvianで表される。日本語表記による正式名称の訳は'''ペルー共和国'''。通称は'''ペルー'''。[[国名の漢字表記一覧|漢字表記]]では'''秘露'''と記される。
 
  
ペルー<ref>{{lang-es-short|Perú}}</ref>という言葉の語源には諸説あるが、16世紀始めに[[パナマ地峡]]の[[サン・ミゲル湾]]付近を支配していたビルー<ref>{{lang|und-Latn|Birú}}</ref>という首長に由来し、[[パナマ]]の南にビルーという豊かな国が存在するとの話を当地の先住民から伝え聞いたスペイン人が転訛してピルーと呼ぶになり、それがペルーになったというものが最も有力な説である。その後スペイン人の[[コンキスタドール]]によってインカ帝国はペルーと呼ばれ、そこからペルーという言葉がこの地域を指す名称となった。植民地時代にはペルー副王領が成立し、19世紀に独立した後もペルーの名が用いられている。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
== 歴史 ==
 
{{main|ペルーの歴史}}
 
 
 
=== 先コロンブス期 ===
 
{{Seealso|先コロンブス期|[[アンデス文明#歴史|アンデス文明の歴史]]}}
 
[[ファイル:Huari pottery 01.png|thumb|upright|ウアコ・ワリ。]]
 
[[紀元前3000年]]から[[紀元前2500年]]頃にスーペ谷に、カラル(''Caral'')という石造建築を主体とする[[カラル遺跡]]({{仮リンク|ノルテ・チコ文明|en|Norte Chico civilization}})が現れる。
 
 
 
1000B.C.頃 - 200B.C.頃、[[アンデス山脈]]全域に[[ネコ科]]動物や蛇、[[コンドル]]などを神格化した[[チャビン文化]]が繁栄する。その後、[[コスタ (ペルー)|コスタ]]([[:es:Costa (Perú)|es]])北部に[[モチェ文化]]がA.D.100頃 - A.D.700頃、現[[トルヒーリョ (ペルー)|トルヒーリョ]]市郊外に「[[太陽のワカ]]」「月のワカ」を築き、コスタ南部では、A.D.1頃 - A.D.600頃に、信仰や農耕のための[[ナスカの地上絵|地上絵]]を描いた[[ナスカ文化]]が繁栄した。
 
 
 
紀元800年ごろ、[[シエラ (ペルー)|シエラ]]([[:es:Andes peruanos|es]])南部の[[アヤクーチョ盆地]]に[[ワリ文化]]が興隆した。[[ティワナク]]の宗教の影響を強く受けた文化であったと考えられ、[[土器]]や[[織物]]に地域色は見られるものの統一されたテーマが描かれること、いわゆるインカ道の先駆となる道路が整備されたこと、四辺形を組み合わせた幾何学的な都市の建設などからワリ帝国説が唱えられるほどアンデス全域にひろがりをみせ、1000年頃まで続いたと考えられる。コスタ北部のランバイエケ地方には、金やトゥンバガ製の豪華な仮面で知られる[[シカン文化]]がワリ文化の終わりごろに重なって興隆した。
 
 
 
その後、コスタ北部には[[チムー王国]]が建国され、勢力を拡大した。首都[[チャン・チャン]]の人口は25,000人を越え、王の代替わりごとに王宮が建設されたと思われる。
 
 
 
=== タワンティン・スウユの繁栄と滅亡 ===
 
[[ファイル:80 - Machu Picchu - Juin 2009 - edit.jpg|thumb|left|upright|「インカ帝国の失われた都市」[[マチュ・ピチュ]]。]]
 
[[ファイル:Pachacutec siglo XVI.jpg|thumb|upright|第九代インカ [[パチャクティ]]。]]
 
[[ファイル:IncaTupacAmaru.gif|thumb|upright|最後のインカ [[トゥパク・アマル (初代)|トゥパク・アマルー]]。]]
 
15世紀になり[[クスコ]]周辺の南部の山岳地帯が、[[1438年]]に即位した[[ケチュア]]人の王[[パチャクテク]]によって軍事的に統一されると、以降は征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきた、ケチュア人による[[インカ帝国|タワンティン・スウユ]]({{lang-qu|Tawantin Suyu}}、[[インカ帝国]])によってペルー、及び周辺のアンデス地域は統合される。
 
 
 
続く[[トゥパク・インカ・ユパンキ]]の代になると、[[チムー王国]]も1476年頃に征服されて、その支配体制に組み込まれた。続く[[ワイナ・カパック]]の征服によりアンデス北部にも進出し、アンデス北部最大の都市だった[[キト]]を征服することになる。またワイナ・カパックは[[マプーチェ人]]と戦って[[チリ]]の現[[サンティアゴ・デ・チレ]]周辺までと、[[アルゼンチン]]北西部を征服し、ユパンキの代から続いていた征服事業を完成させ、[[インカ帝国#国名|コジャ・スウユ]]({{lang-qu|Colla Suyo}}、「南州」)の領域を拡大させると共にインカ帝国の最大版図を築いた。
 
 
 
インカ帝国はクスコを首都とし、現ボリビアの[[アイマラ人]]の諸王国や、チリ北部から中部まで、[[キト]]をはじめとする現エクアドルの全域、現アルゼンチン北西部を征服し、その威勢は現[[コロンビア]]南部にまで轟いていた。インカ帝国は幾つかの点で非常に[[古代エジプト]]の諸王国に似ており、クスコの[[サパ・インカ]]を中心にして1200万人を越える人間が自活できるシステムが整えられていた。帝国は16世紀初め頃まで栄えていたが、いつの頃からか疫病が流行し([[パナマ地峡]]から南にもたらされたヨーロッパの疫病である)、帝位継承などの重大な問題を巡って[[キト]]派の[[アタワルパ]]と、[[クスコ]]派の[[ワスカル]]の間で激しい{{仮リンク|インカ帝国内戦|es|Guerra civil incaica|en|Inca Civil War|label=内戦}}(1529年–1532年)が繰り広げられた。
 
 
 
内戦は[[アタワルパ]]の勝利に終わったが、内戦の疲弊の隙にパナマからコスタ北部に上陸した[[フランシスコ・ピサロ]]率いる[[スペイン]]の[[コンキスタドール|征服者]]達がインカ帝国を侵略することになった。征服者達は手早くクスコを征服すると、[[1533年]]に第13代皇帝アタワルパを絞首刑にして、アンデスを支配していた帝国としての[[インカ帝国]]は崩壊した。ピサロは1534年に[[リマ]]市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となる。その後、1572年にスペイン人の支配から[[ビルカバンバ]]に逃れていた最後の皇帝、[[トゥパク・アマル (初代)|トゥパク・アマルー]]が捕らえられて処刑されるとインカ帝国はその歴史の幕を閉じた。
 
 
 
=== スペイン植民地時代 ===
 
{{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}}
 
[[ファイル:Tupac amaru ii 01.png|thumb|left|「農民よ、地主は二度とあなたの貧しさを食いものにはしない」-ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ、あるいは [[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ|トゥパク・アマルー2世]]。]]
 
 
 
植民地下のペルーでは、最初期は南アメリカ全体を統括していた[[ペルー副王領]]([[:en:Viceroyalty of Peru|Viceroyalty of Peru]])の首都が高山のクスコから太平洋沿岸の[[リマ]]に移され、金銀などの鉱物の搾取が宗主国[[スペイン]]によって行われた。[[ミタ制]]によって[[ポトシ]]鉱山開発に酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われる。どれだけの人口減があったかは定かではないが、少なくとも全盛期にインカ帝国の人口が1600万人が最高だといわれたのが、18世紀末のペルーでは108万人になったといえば、その凄まじさが理解できるであろう。
 
 
 
このような状況の中で1780年、[[インディヘナ]]や[[メスティーソ]]は、[[クリオージョ]]に対する反抗と[[スペイン王]]への忠誠を唱え、[[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ|トゥパク・アマルー2世]]を首謀者にした{{仮リンク|トゥパク・アマルー2世の反乱|es|Rebelión de Túpac Amaru II|en|Rebellion of Túpac Amaru II|label=反乱}}([[1780年]] - [[1782年]])を起こした。この反乱は、当初は白人も含んだ大衆反乱だったが、次第にインカ帝国の復興という目標を掲げて、白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになると、当初協力的だった白人の支持も次第に失って行き、トゥパク・アマルー2世は遂に部下の裏切りにより捕らえられ、先祖と同様にクスコの広場で処刑された。
 
 
 
=== ペルー共和国 ===
 
==== ペルー独立戦争 ====
 
{{main|[[ペルー独立戦争]]}}
 
{{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}}
 
[[ファイル:Smartin.JPG|thumb|upright|アルゼンチン、チリ、ペルーの[[解放者]] [[ホセ・デ・サン・マルティン]]。]]
 
[[ファイル:La Independencia del Perú.jpg|thumb|[[ホセ・デ・サン・マルティン]]の独立宣言。1821年。]]
 
[[ファイル:Bolivar Arturo Michelena.jpg|thumb|upright|アメリカ大陸の[[解放者]][[シモン・ボリーバル]]。]]
 
[[ファイル:Angamos.jpg|thumb|[[太平洋戦争 (1879年-1884年)|太平洋戦争]]における[[アンガモスの海戦]]。]]
 
[[ファイル:Batalla de Arica.jpg|thumb|「([[太平洋戦争 (1879年-1884年)|太平洋戦争]]における){{仮リンク|アリカの戦い|en|Battle of Arica}}」フアン・レピアニ画。]]
 
 
 
18世紀末から19世紀初めにかけての[[フランス革命]]以来の[[ヨーロッパ]]での混乱を背景に、[[ナポレオン戦争]]による[[ヨーロッパ]]での政変により、スペイン本国に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[フランス軍]]が侵入し、兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]を国王ホセ1世として即位させると、それに反発する民衆の蜂起が起き[[スペイン独立戦争]]が始まった。インディアス植民地は偽王ホセ1世への忠誠を拒否した。そのような情勢の中で、シエラから{{仮リンク|マテオ・ガルシア・プマカワ|en|Mateo Pumacahua}}が蜂起し、しばらくシエラの主要部を占領したが({{仮リンク|クスコの反乱 (1814年)|es|Rebelión del Cuzco|en|Cuzco Rebellion of 1814|label=クスコの反乱}})、結局プマカワも破れた。[[1821年]]7月28日にはるばる{{仮リンク|リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合|en|United Provinces of the Río de la Plata|label=ラ・プラタ連合州}}から遠征軍を率いてリマを解放した、[[ホセ・デ・サン・マルティン]]の指導の下に独立を宣言したが、副王政府は支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、[[1824年]]に北の[[ベネスエラ]]から[[大コロンビア|コロンビア共和国]]の解放軍を率いた解放者[[シモン・ボリーバル]]の武将、[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]が[[アヤクーチョ|ワマンガ]]に攻め込んだ{{仮リンク|アヤクーチョの戦い|en|Battle of Ayacucho}}でペルー副王{{仮リンク|ホセ・デ・ラ・セルナ|en|José de la Serna e Hinojosa}} ([[チェ・ゲバラ|エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ]]の母方の先祖)を撃破し、ペルーは外来勢力の二人の英雄に解放される形で事実上の独立を果たすことになった。しかし、それが直ちにインカ帝国や、インディヘナ、メスティーソ、奴隷として連れて来られた黒人といった人々の復権に繋がったわけではなかった。独立時の戦いにより農業も鉱業も荒廃しきっており、インカ帝国の最盛期に全土で1600万人を越えたと推測される人口は、1826年にはペルーだけで150万人になっており、うち14万8000人、人口の一割にすぎない白人が以降百数十年間以上ペルーの国政を動かしていくことになる。1828年、ペルーの事実上の支配者だったカウディーリョ、{{仮リンク|アグスティン・ガマーラ|en|Agustín Gamarra}}は、ペルーをインカ帝国の後継国家だと考えて、旧インカ帝国の領土を回復するために、またペルーとボリビアの指導層が共に抱いていたお互いを統合しようとする動きから、[[ボリビア共和国]](ボリーバルの共和国)として独立を果たした[[アルト・ペルー]]を併合しようと軍を送ったが、[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ|スクレ]]大統領に打ち破られてしまった。しかし、ガマーラのこの試みはその後も続き、今度は[[グアヤキル]](現[[エクアドル]]最大の港湾都市)を要求してコロンビア共和国に宣戦布告するが、これもコロンビアに帰国したスクレに打ち破られた。
 
 
 
1836年にボリビアの[[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]大統領によってペルーは完全征服され、[[南ペルー共和国]]と[[北ペルー共和国]]に分けられて、1836年10月に[[ペルー・ボリビア連合]]の成立が宣言された。ガマーラをはじめとする亡命ペルー人は[[チリ]]に亡命して、チリ政府と[[アルゼンチン]]の[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]の力を得て軍を動かし、サンタ・クルスを破ると1839年にこの連合は崩壊した({{仮リンク|連合戦争|es|Guerra contra la Confederación Perú-Boliviana|en|War of the Confederation}}、ペルー・ボリビア戦争とも)。再び独立したペルーはガマーラが大統領となった。1841年、再びボリビア併合を望んだガマーラは侵攻軍を率いてボリビアに向かうが、[[ボリビア軍]]によって撃退され、{{仮リンク|インガビの戦い|en|Battle of Ingavi}}でガマーラ自身も戦死すると、翌1842年に[[プーノ]]で講和条約が結ばれ、以後両国の統一を望む運動はなくなった。
 
 
 
1845年に{{仮リンク|ラモン・カスティーリャ|en|Ramón Castilla}}が政権に就くと、この時代に強権によって政治は安定し、肥料に適していた海岸部の[[グアノ]](海鳥の糞からなる[[硝石]]資源)や、コスタでの綿花やサトウキビが主要輸出品となってペルー経済を支え、グアノから生み出された富によって鉄道や電信などが敷設され、この時期にリマでペルー独自の文化としてのクリオーヨ文化が育った。また、軍隊の整備も進んだ。
 
 
 
1854年に[[奴隷制度廃止運動|奴隷制が廃止]]され、黒人奴隷が解放されると、ペルーの指導層はコスタでの[[プランテーション]]で働く労働力を移民に求め、中国人が導入された。[[苦力]](クーリー)として導入された中国人の数は1850年から1880年の間に10万人を越えた。[[1858年]]、{{仮リンク|エクアドル・ペルー戦争 (1858年 - 1860年)|es|Guerra peruano-ecuatoriana (1858-1860)|en|Ecuadorian–Peruvian war of 1858|label=エクアドル・ペルー戦争}}([[1858年]] - [[1860年]])。1866年にスペイン軍が南米再征服を図って侵攻したが、ペルーはこれを[[カヤオ]]での戦いで撃退した({{仮リンク|チンチャ諸島戦争|en|Chincha Islands War}})。
 
 
 
==== 太平洋戦争 ====
 
[[ファイル:Nicolás de Piérola Presidente.jpg|thumb|left|upright|{{仮リンク|ニコラス・デ・ピエロラ|en|Nicolás de Piérola}}]]
 
 
 
[[1879年]]4月3日にはそれまで問題になっていた[[アントファガスタ]]の[[チリ硝石]]鉱山を巡って、同盟国[[ボリビア]]と共に [[チリ]] に宣戦布告され、三国で[[太平洋戦争_(1879年-1884年)|太平洋戦争]]を争った。ペルー兵は勇敢に戦ったが、制海権を握った[[チリ軍]]にリマを占領されて敗北し、[[アリカ (チリ)|アリカ]]と[[タクナ]]をチリに割譲することとなった。同時にこの頃には貴重な資源であった[[グアノ]]の鉱山も荒廃してしまった。
 
 
 
太平洋戦争後、ペルーは債務不履行に近い状態に付け込まれ、19世紀には豊富な地下資源に着目した[[アメリカ合衆国]]や[[イギリス|英国]]の経済支配が進むが、同時にそれまで全く省みられることのなかったシエラのインディヘナの文化に、ペルー性を求める言説が生まれるようになった。
 
太平洋戦争が終わった後もペルーの政治は原則としては軍人統治だったが、1895年に文民の{{仮リンク|ニコラス・デ・ピエロラ|en|Nicolás de Piérola}}が政権を握り、ペルーは「貴族共和国」時代を迎えた。これ以降ペルーでも文民が政治を握るようになったのである。[[1908年]]には寡頭支配層の分裂の間隙をぬって{{仮リンク|アウグスト・レギーア|en|Augusto B. Leguía}}政権が誕生。20年にわたる独裁を敷いた。1919年から11年間続く第二次レギーア時代に交通が充実し、結果的にシエラがペルー国家に統合されることになる。その一方で帝国主義や白人支配に反発して{{仮リンク|ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ|en|Víctor Raúl Haya de la Torre}}によって、1924年に亡命先の[[メキシコ]]で「[[アメリカ人民革命同盟]]」(アプラ党)が設立された。また、[[ホセ・マリアテギ]]らのインディヘナ知識人層によってインディヘニスモ運動が盛んになるのもこの頃である。1920年代には{{仮リンク|ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ|en|Víctor Raúl Haya de la Torre|label=アヤ・デ・ラ・トーレ}}がアメリカ人民革命同盟による政権奪取を狙ったが軍部に阻まれ失敗。それ以降アプラ党は国民主義路線を放棄し、支配体制に組み込まれた。1929年には[[タクナ]]がチリから返還されたが、[[アリカ (チリ)|アリカ]]の返還は行われず、これはペルー国民に強い不満を与えた。
 
 
 
[[世界恐慌]]後、経済を輸出依存していたペルーは急激に不安定になった。政治面ではレギーアが失脚して軍部とアプラの対立が続き、1931年の選挙でアプラ党のアヤを破った軍人の[[ルイス・ミゲル・サンチェス・セロ|サンチェス・セロ]]大統領は、[[ポプリスモ]]的な政治を始めた。セロは1932年にペルー人の過激派から始まった[[レティシア]]占領運動に乗じて、[[コロンビア]]からレティシアを奪おうとし[[コロンビア・ペルー戦争]]を引き起こすが、この企ては失敗した。サンチェス・セロの暗殺後、ペルー議会は{{仮リンク|オスカル・ベナビデス|en|Óscar R. Benavides}}将軍を臨時大統領に選んだ。ベナビデスはコロンビアとの戦争を収め、アプラ党との協調を計ったが、アプラ党による[[テロ]]が激化した。任期が終わる1936年の選挙でアプラを含む左翼が勝利すると、ベナビデスは選挙を無効化して任期を3年間延長し、経済の好転も手伝って1939年までの任期を無事に終えた。
 
 
 
1939年に{{仮リンク|マヌエル・プラード|en|Manuel Prado Ugarteche}}が大統領になると、ペルーは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側で[[第二次世界大戦]]に参戦し、敵性国民となった[[日系ペルー人]]は弾圧された。既に1940年5月13日にはリマで排日暴動が起きていたが、[[太平洋戦争]]が始まると[[アメリカ合衆国]]に連行されるものも出た。ペルーは直接第二次世界大戦には兵を送らなかったが、1941年7月5日に[[エクアドル]]と国境紛争({{仮リンク|エクアドル・ペルー戦争 (1941年 - 1942年)|es|Guerra peruano-ecuatoriana|en|Ecuadorian–Peruvian War|label=エクアドル・ペルー戦争}})を行い、[[エクアドル軍]]に勝利した後、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国の支持の下に、係争地のうちの25万km²を翌1942年の{{仮リンク|リオ・デ・ジャネイロ条約|en|Rio Protocol}}で獲得した。このことはその後のエクアドルとの関係に強い緊張を生むことになった。
 
 
 
1945年のブスタマンテ政権はアプラ党に対処する力を持たず、1948年のアプラ党と海軍によるクーデターによって崩壊し、{{仮リンク|マヌエル・オドリーア|en|Manuel A. Odría}}将軍が政権に就いた。オドリーア将軍はアルゼンチンの[[フアン・ペロン]]のような貧困層の支持により、寡頭支配層と戦うという政治スタイルをとったが、これも挫折し、1956年の選挙で第二次マヌエル・プラード政権が誕生した。この選挙でアプラ党は合法化を条件にプラードを支持し、以降アプラはペルーの支配層の側に回った。
 
 
 
このような保守支配層との協調を嫌ったアプラ党の左派が、当時起きていた[[キューバ革命]]の影響を受けて国内左派過激派と合流し、クスコ周辺で革命的武装蜂起を行うが、まもなく軍の掃討作戦によって殲滅された。
 
 
 
==== 第一次ベラウンデ政権 ====
 
1962年、アプラ党による選挙不正に抗議するために決起した軍事クーデターは、{{仮リンク|リカルド・ペレス・ゴドイ|en|Ricardo Pérez Godoy|label=ペレス・ゴドイ}}将軍を首班にして、農地改革法などを施行した。現在、ペルーではこのクーデターがペルー史の一大転換点であったとされている。選挙監視内閣だったゴドイ政権は1963年の選挙が終わり、人民行動党の{{仮リンク|フェルナンド・ベラウンデ・テリー|en|Fernando Belaúnde Terry|label=ベラウンデ・テリー}}政権([[:en:First Presidency of Fernando Belaúnde|First Presidency of Fernando Belaúnde (1963-1968)]])が軍部の支援で誕生すると解散した。穏健的改良主義者だったベラウンデは軍部の意向を反映して農地改革などを行ったが、ベラウンデはすぐに改革を放棄すると、農村問題とIPC([[インターナショナル石油]])問題でつまずき、IPCとの間に[[タララ]]で結ばれた[[タララ協定]]({{lang|es|[[:es:Fernando Belaúnde Terry#El Acta de Talara y el escándalo de la página 11|El Acta de Talara]]}})で発覚したスキャンダルが国民の強い不満を引き起こした。
 
 
 
==== ペルー革命 ====
 
{{Main|コンドル作戦}}
 
 
 
こうした状況の中で[[1968年]]10月3日、[[フアン・ベラスコ・アルバラード]]将軍による軍事クーデター([[:es:Gobierno Revolucionario de las Fuerzas Armadas|Gobierno Revolucionario de las Fuerzas Armadas]])によりベラウンデは失脚した。クーデターを起こしたベラスコ将軍は、これまでの軍事政権とは打って変わって反米と自主独立を旗印に「[[ペルー革命]]」を推進することを約束し、独自の「軍事革命路線」によって外国資本の国有化や[[第三世界]]外交が展開された。貧しい生まれだったベラスコ将軍はかつてトゥパク・アマルー2世が掲げた標語を再び掲げ、革命後すぐに司法改革がなされた。農地改革が推進されてコスタの大農園は次々に解体されて多くの土地が[[小作人]]に分与され、「40家族支配」体制と呼ばれていたペルーの伝統的な地主寡頭支配層の解体が行われた。それまでアメリカ合衆国一辺倒だった外交が、第三世界を中心に多角化され、[[キューバ]]やチリ(同時期にチリで似たような改革を進めていたチリ[[人民連合 (チリ)|人民連合]]の[[サルバドール・アジェンデ]]大統領は、ベラスコを「同志」と呼んだ)といった域内の左派政権との関係改善が行われ、兵器輸入を中心にソ連との関係も深まった。日本との交流が深まるのもこの頃である。
 
 
 
また、将軍は先住民をカンペシーノ(農民)と呼ぶようにし、以後政府の文書で侮蔑的な響きのあったインディオという言葉が使われることはなくなった。
 
任期の最後の年には[[ケチュア語]]が[[公用語]]となったが、軍部主導で国民の広範な支持を得られなかった革命は、ポプリスモ的な分配による対外債務の増加、軍部とアプラ系の労組との衝突や、人民の組織化の失敗などもある中で、将軍は自身の体調の悪化と経済政策の失敗により、将軍の失脚をもって[[1975年]]に終焉した。
 
 
 
1975年、軍部内右派と左派の妥協により、軍内中道派の{{仮リンク|フランシスコ・モラレス・ベルムデス|en|Francisco Morales Bermúdez|label=モラレス・ベルムデス}}が大統領となった([[:es:Gobierno de Francisco Morales Bermúdez|Gobierno de Francisco Morales Bermúdez]])。モラレスは「革命の第二段階」を称していたが、1976年5月には事実上のIMF管理下に置かれるなど革命からの後退が続き、国民の反軍感情の高まりの中、軍は名誉ある撤退を掲げて1978年6月には制憲議会が開かれ、軍部とアプラ党の歴史的な和解の中で、非識字層に投票権を認めた1979年憲法が制定された。
 
 
 
=== ゲリラ戦争と現代のペルー ===
 
{{Main|{{仮リンク|ペルー内戦|es|Terrorismo en el Perú|en|Internal conflict in Peru}}}}
 
 
 
==== 第二次ベラウンデ政権 ====
 
[[1980年]]には選挙によって民政に移り、再び人民行動党の{{仮リンク|フェルナンド・ベラウンデ・テリー|en|Fernando Belaúnde Terry|label=ベラウンデ・テリー}}政権([[:en:Fernando Belaúnde Terry#Second presidency (1980-1985)|Second Presidency of Fernando Belaúnde (1980-1985)]])が誕生した。[[1981年]]、[[:en:Paquisha War]]。しかし、災害や不況で政権運営は多難を極め、ベラスコ時代に地主層が解体された後の、農村部における権力の真空状態を背景に、[[センデロ・ルミノソ]]({{lang|es|PCP-SL}})などの[[ゲリラ]]勢力が力をつけてきた。また、1984年にはキューバ派の[[トゥパク・アマルー革命運動]]({{lang|es|MRTA}})が都市を中心に武装闘争を始める。
 
 
 
==== 第一次ガルシア政権 ====
 
[[ファイル:Alan García Pérez.JPG|thumb|2006年に再選したアラン・ガルシア]]
 
[[1985年]]、当時32歳だった[[アラン・ガルシア]]大統領を首班とする「アメリカ人民革命同盟」の政権が発足し、アプラ党が結成以来ようやく61年目にしてはじめての政権を握った。アラン・ガルシアは反米、反帝国主義を叫び、当初は国民の支持を背景に国民主義を掲げ、IMFへの債務の繰り延べなどの強硬な路線をとる一方で、内政では貧困層の救済に尽力したが、経済政策の大失敗により、深刻な経済後退を引き起こし、[[国民総生産]](GNP)は20年前の水準に逆戻りし、[[失業率]]は実に66%を記録した。さらには対外債務の累積は150億ドルにも達しており、これは[[メキシコ]]、[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]など1000億ドル以上の債務を抱えていたその他の中南米諸国に比べると、かなり小さい額であったが、当時南米の貧しい小農業国に過ぎなかったペルーにとっては莫大な金額で、ペルーの輸出収入30億ドルの5倍、外貨準備高15億ドルの10倍に匹敵した。そのため債務と利払いの返済の停滞による国際金融社会との関係の悪化よる深刻な経済危機を招き、国家破綻寸前に陥った。苦境に立たされたガルシア政権は「国民を飢えさせてまで、支払うつもりはない」として、債務の支払いを輸出収入の10%以内に限定するという「10%原則」と呼ばれる一方的な措置を取った。これは事実上の[[徳政令]]であったことから、これが決定打となり、更に国際金融機関との関係を極度に悪化。そのためにIMF、世銀のような国際金融機関や主要先進諸国からの資金の流入が停止し、国内の経済困難に一層拍車をかけ、国際的信用が失墜したペルーの通貨は暴落。インフレ率8000%という[[ハイパーインフレ]]を記録し、通貨は紙切れ同然となり、1990年には完全な国家破産状態に陥る。また当時はセンデロ・ルミノソは[[アヤクーチョ]]を中心にシエラの大部分を占領し、[[パンアメリカンハイウェイ]]や主要幹線道路までがセンデロ・ルミノソに押さえられてリマは包囲され、センデロ・ルミノソによる革命が間近に迫っているかのように思われた。
 
 
 
==== フジモリ政権 ====
 
[[ファイル:Al Fujimori.jpg|thumb|left|170px|第91代大統領[[アルベルト・フジモリ]]]]
 
{{See also|{{仮リンク|アルベルト・フジモリ政権|es|Gobiernos de Alberto Fujimori|label=フジモリ政権}}}}
 
 
 
このような危機的状況下にて行われた大統領選挙では、[[ノーベル文学賞]]作家の[[マリオ・バルガス・リョサ]]を破って「{{仮リンク|変革90|es|Cambio 90|en|Cambio 90}}」({{lang|es|Cambio 90}})を率いた日系二世の[[アルベルト・フジモリ]]が勝利し、フジモリは南米初の日系大統領となる。「フジ・ショック」と呼ばれたショック政策によるインフレ抑制と、財政赤字の解消による経済政策を図って、新自由主義的な改革により悪化したペルー経済の改善を図り、農村部の農民を武装させたゲリラ対策により治安の安定に一部成功するなど素人とは思えない業績を残した。しかし、このようなやり方に一部反発もおきた。議会を自らの行った改革の障害と見做すと、[[1992年]]4月5日にはフジモリは議会を解散し、憲法を停止して非常国家再建政府を樹立した。このようにして確立した権力を最大限に活用して、国内の治安問題においてセンデロ・ルミノソの首謀者[[アビマエル・グスマン|グスマン]]を逮捕し、組織を壊滅状態に追いやるなど治安回復に大きな成果を挙げた。この自主クーデターは、[[アメリカ合衆国]]や、ヨーロッパ諸国から「非民主的」と非難された。[[1994年]]からは軍部よりの政策になると首相辞任などの政治混乱を招いたが、自らの再選を認める1993年憲法を公布した後に、1995年の民主的な選挙で再任された。1995年にアマゾンの係争地(石油埋蔵地)を巡って[[エクアドル]]の{{仮リンク|シスト・デュラン・バジェン|en|Sixto Durán Ballén}}政権との{{仮リンク|セネパ戦争|en|Cenepa War|label=セネパ紛争}}に勝利し、両国の間で長年の問題となっていた国境線を画定するなどの功績を残している。フジモリ政権は日本との友好関係を強化し、日本はこの時期にペルーへの最大の援助国となったが、これを原因として[[1996年]]に[[トゥパク・アマルー革命運動]]による[[ペルー日本大使公邸占拠事件|日本大使公邸占拠事件]]が発生した。2000年にはフジモリは再選を果すが、徐々に独裁的になっていった政権に対する国民の反対運動の高まりや、汚職への批判を受け、11月21日に訪問先の日本から大統領職を辞職した。顧問の[[ブラディミロ・モンテシノス|モンテシノス]]に行わせていた買収工作や諜報機関{{仮リンク|ペルー国家情報局|es|Servicio de Inteligencia Nacional del Perú|en|National Intelligence Service (Peru)}}の存在が明らかになり、フジモリ政権は幕を閉じた。しかし、汚職での失敗支持を失ってなお、経済・治安で大きな役割を果たし、21世紀においても地方を中心に大きな支持を受けている(要出典)。
 
 
 
2001年の選挙により、「{{仮リンク|ペルー・ポシブレ|es|Perú Posible|en|Possible Peru|label=可能なペルー}}」({{lang|es|Perú Posible}})から先住民初([[チョロ]])の大統領、[[アレハンドロ・トレド]]が就任した。貧困の一掃と雇用創出、政治腐敗の追及を公約とした政権は、しかし経済政策は成果を上げることはできず、国民の支持は下り坂。左翼ゲリラによるテロ活動も復活し治安は悪化している(要出典)。
 
 
 
==== 第二次ガルシア政権 ====
 
2006年の選挙により、[[アメリカ人民革命同盟]](アプラ)から、16年ぶりに[[アラン・ガルシア]]が再び大統領に就任した。[[2007年]][[8月15日]]に発生した[[ペルー地震 (2007年)|ペルー地震]]によって、死者540人、負傷者1,500人以上、被災者数85,000人が報告されている。[[2009年]][[4月7日]]、ペルーの最高裁特別刑事法廷は、元大統領[[アルベルト・フジモリ]]被告に対し、在任中の市民虐殺事件や殺人罪などで禁固25年(求刑30年)と被害者や遺族への賠償金支払いを命じる有罪判決を言い渡した。
 
{{Clearleft}}
 
 
 
==== ウマラ政権 ====
 
2006年の選挙で[[アラン・ガルシア]]に敗北した[[オジャンタ・ウマラ]]氏が2011年大統領選挙で勝利し左派政権が誕生した。格差の縮小や富の再分配に重点を置いた政策を表明したが、実際には市場寄りの中道左派政策を取った。2012年2月13日にセンデロ・ルミノソの残党リーダーの[[フロリンド・フロレス]]を銃撃戦の末、身柄を拘束した。拘束を受けてオジャンタ・ウマラ大統領は、テレビ放送にて「センデロ・ルミノソはもはやペルーにとって脅威ではない。」と演説を行った。
 
 
 
== 政治 ==
 
{{main|ペルーの政治}}
 
[[ファイル:Palacio de Gobierno.JPG|thumb|ペルーの大統領宮殿。]]
 
[[ファイル:Congreso peru.jpg|thumb|ペルー共和国議会。]]
 
[[ファイル:Palaciojusticiaperu.jpg|thumb|ペル―最高裁判所。]]
 
 
 
[[大統領]]を[[元首]]とする[[共和制]][[国家]]であり、[[行政]]権は大統領が行使する。大統領、副大統領共に普通選挙によって選出され、任期は5年。現行の憲法は1993年憲法であり、同憲法の規定では大統領の権限が強力であるが、大統領の再選は2000年の憲法改正により禁止されている。また、大統領によって首相に当たる[[ペルーの首相|閣僚評議会議長]]が任命される。
 
 
 
[[立法]]権は[[一院制]]の[[ペルー共和国議会|共和国議会]]によって担われ、議会の定数は120人となっている。
 
 
 
[[司法]]権は[[最高裁判所]]によって担われる。
 
 
 
1980年頃から反政府[[左翼]][[ゲリラ]]の活動が活発になった。[[センデロ・ルミノソ]]と[[トゥパク・アマルー革命運動]](MRTA)が反政府活動の主流である。これら左翼ゲリラの活動と軍との衝突によって、農村部の人口を中心に3万人を超える犠牲者が出たと言われている。
 
 
 
1990年に誕生したフジモリ政権は治安回復に取り組んだが、少数与党であった為議会運営に問題があったため、議会と憲法を停止するという強引な方法で全権を掌握し、対ゲリラの治安対策と経済対策を行った。この手法は民主主義に反すると諸外国から抗議があったが、センデロ・ルミノソのグスマンをはじめとする左翼ゲリラの最高責任者を逮捕するなど治安回復に効果をあげた。経済政策にもインフレ抑制など特筆すべき成果を挙げており、貧困層からは未だ{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->に人気が高い(要出典)。
 
 
 
=== 法律 ===
 
2006年まで死刑の適用は国家反逆罪のみ、一般の刑法犯は終身禁固を最高刑とする一般犯罪における[[死刑廃止]]国だったが、アラン・ガルシア大統領は、選挙公約の一つに掲げていた、7歳未満の子供に、[[性的暴行]]を加え殺害した被告への死刑適用を認める法案を、この年の9月21日に議会へ提出した。現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->、その審議が行なわれている。背景には、日本の[[広島県]]で[[2005年]]に発生した[[広島小1女児殺害事件]]の容疑者が母国ペルーで同様の犯行を行っていたことや、年少者に対する性犯罪の厳罰化を求める世論が同国で高まり殺害した場合の死刑適用に8割が賛成するなどの世論調査の結果が挙げられる(2006年9月22日付時事通信「子供への性的暴行殺人に死刑適用:ペルー大統領が法案提出」より)。
 
 
 
ラテンアメリカ諸国全体の傾向としては、現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->ほぼ全ての国が一般犯罪に対する死刑を廃止し、死刑制度を存続している国も10年以上死刑を執行していない。
 
 
 
== 軍事 ==
 
{{main|ペルーの軍事}}
 
かつて[[徴兵制]]が敷かれており、成人男子は2年間の兵役の義務を有していたが、1999年に廃止されて志願兵制を採用している。
 
 
 
1960年代後半からベラスコ将軍の革命政権時代に[[ソビエト連邦|ソ連]]との友好が図られたため、1980年の民政化後も[[ペルー軍]]は基本的には東側の装備である。ペルーにおいて軍隊、特に陸軍は[[メスティーソ]]や[[チョロ]]といった貧しい階層の出世が可能な唯一の組織であったといっても過言ではなく、[[サンチェス・セロ]]や[[ベラスコ・アルバラード]]など、過去にクーデターで政権を握った軍人にもそういった階層の出身者は多かった。こうしたある意味で民主的な陸軍の伝統がある一方、対照的に海軍は[[イギリス海軍]]の影響を受けて貴族的であり、多くの機会において有色人種や身分の低い階層よりも白人が優先されていた。
 
 
 
軍隊は憲法の番人を自認しており、文民政権が違憲的な政策を行った場合にそれをたしなめ、憲法に沿った形で公正な政治を文民に行わせるのが、長らく軍隊の役割であるとされてきた。
 
 
 
=== 陸軍 ===
 
[[ペルー陸軍]]は兵員約76,000人(2001年)を擁している。
 
 
 
=== 海軍 ===
 
[[ペルー海軍]]は兵員約26,000人(2001年)を擁している。
 
 
 
=== 空軍 ===
 
[[ペルー空軍]]は兵員約18,000人(2001年)を擁している。
 
 
 
== 地方行政区分 ==
 
{{Main|ペルーの行政区画|ペルーの郡}}
 
[[ファイル:Peru pol91.jpg|250px|thumb|ペルーの地図。]]
 
[[ファイル:Peru Blue Administrative Map.png|thumb|250px|ペルーの県。]]
 
24の県(departamentos)と[[カヤオ特別区]](Provincia Constitucional del Callao)によって編成されている。
 
 
 
* 北部
 
** [[トゥンベス県]] (Tumbes)
 
** [[ピウラ県]] (Piura)
 
*** ワンカバンバ郡
 
** [[カハマルカ県]] (Cajamarca)
 
*** ハエン郡
 
** [[アマソナス県 (ペルー)|アマソナス県]] (Amazonas)
 
** [[ロレート県]] (Loreto Region)
 
*** アルト・アマソナス郡、マイナス郡、マリスカル・ラモン・カスティージャ郡
 
** [[ランバイエケ県]] (Lambayeque Region)
 
** [[ラ・リベルタ県 (ペルー)|ラ・リベルタ県]] (La Libertad)
 
*** パタス郡、ボリーバル郡、フルカン郡、サンチェス・カリオン郡、サンティアゴ・デ・チュコ郡、オトゥスコ郡
 
** [[サン・マルティン県]] (San Martín)
 
*** トカチェ郡、[[モヨバンバ郡]]、ベジャビスタ郡、エル・ドラード郡、{{仮リンク|ワジャガ郡|es|Provincia del Huallaga|en|Huallaga Province}}、ラマス郡、マリスカル・カセレス郡、ピコタ郡、サン=マルティン郡
 
 
 
* 中部
 
** [[アンカシュ県]] (Ancash)
 
*** パリャスカ郡、コロンゴ郡、シワス郡
 
** [[ワヌコ県]] (Huánuco)
 
*** ワカイバンバ郡、ワマリエス郡、レオンシオ・プラード郡、マラニョン郡、ワヌコ郡、アンボ郡、ドス・デ・マヨ郡、パチテア郡、プエルト・インカ郡
 
** [[ウカヤリ県]] (Ucayali)
 
*** パドレ・アバッド郡、コロネル・ポルティージョ郡
 
** [[リマ県]] (Lima)
 
*** カハタンボ郡([[:en:Cajatambo Province|en]])、バランカ郡([[:en:Barranca Province|en]])、オヨン郡([[:en:Oyon Province|en]])、ワウラ郡([[:en:Huaura Province|en]])、ワラル郡([[:en:Huaral Province|en]])、カンタ郡([[:en:Canta Province|en]])、[[ワロチリ郡]]、ヤウヨス郡([[:en:Yauyos Province|en]])、カニエテ郡([[:en:Cañete Province|en]])
 
** [[パスコ県]] (Pasco)
 
*** オクサパンパ郡ビジャ・リカ町、パスコ郡、オクサパンパ郡
 
** [[フニン県]] (Junín Region)
 
*** ワンカヨ郡サント・ドミンゴ・デ・アコバンバ町、コンセプシオン郡アンダマルカ町、サティポ郡、チャンチャマヨ郡、ハウハ郡、フニン郡、タルマ郡、チュパカ郡
 
** [[カヤオ特別区]] (Callao)
 
 
 
* 南部
 
** [[イカ県]] (Ica)
 
** [[ワンカベリカ県]] (Huancavelica)
 
*** タヤカハ郡、アンガラエス郡、カストロビレイナ郡
 
** [[アヤクーチョ県]] (Ayacucho)
 
*** ワンタ郡、ラ・マル郡、ルカナス郡、ワマンガ郡
 
** [[アプリマク県]] (Apurímac)
 
*** チンチェロス郡、アンダワイラス郡、アバンカイ郡
 
** [[クスコ県]] (Cuzco)
 
*** ラ・コンベンシオン郡
 
** [[マードレ・デ・ディオス県]] (Madre de Dios)
 
** [[アレキパ県]] (Arequipa)
 
** [[プーノ県]] (Puno)
 
** [[モケグア県]] (Moquegua)
 
** [[タクナ県]] (Tacna)
 
 
 
===主要都市===
 
{{Main|ペルーの都市の一覧}}
 
主要な都市は[[リマ]](首都)、[[アレキパ]]、[[トルヒーリョ (ペルー)|トルヒーリョ]]、[[チクラーヨ]]がある。
 
 
 
== 地理 ==
 
{{Main|{{仮リンク|ペルーの地理|es|Geografía del Perú|en|Geography of Peru}}}}
 
[[ファイル:Peru veg 1970.jpg|260px|thumb|left|ペルーの三地域が色分けされている。]]
 
[[ファイル:Alpamayo.jpg|thumb|アンデス山脈の頂から流れる水が多くの川となる。]]
 
[[ファイル:Amazon origin at Mismi.jpg|thumb|[[アマゾン川]]の源流地点。]]
 
[[ファイル:Mapa topográfico del Perú.png|thumb|ペルーの地形図]]
 
ペルーの国土は三つの地形に分けられ、砂漠が広がる沿岸部の'''コスタ'''([[:es:Costa (Perú)|es]]、国土の約12%)、[[アンデス山脈]]が連なる高地の'''シエラ'''([[:es:Andes peruanos|es]]、国土の約28%)、[[アマゾン川]]流域の'''セルバ'''([[:es:Amazonía del Perú|es]]、国土の約60%)である。このように3つに分けられる地形に加え、さらにコスタとシエラでは北部、中部、南部の違いがあり、それも大きなペルーの地域性の違いとなっている。気候としてはペルーは基本的には[[熱帯]]であるものの、標高の差や南北の差により各地域で大きな違いがある。
 
 
 
コスタは[[太平洋]]から東に向けて標高500mまでの地点を指し、この幅50kmから150km程の狭い地域にペルー国民の半数以上が居住している。[[砂漠]]であるものの、フンボルト海流の影響で緯度の割には気温は一年を通して過ごしやすく、最も暑い2月の平均気温が22℃、最も寒い8月の平均気温も14℃であり、灌漑を行えば通年で農耕が可能な土地である。ただし、後述するように海流の関係で霧が発生し、湿度は非常に高い。冬の日はどんよりとした天気が続く。人が住めるのは古代からずっと砂漠の間を通る川の流域や、湧き水で出来た[[オアシス]]の周囲のみであり、[[前インカ期]]からこうした地域に古代文明が栄えていた。なお、こうした河川はコスタに50以上ある。
 
 
 
シエラはコスタの終わるアンデス山脈の西斜面の標高500m以上の地域から、東斜面の標高1,500m程までの地域を指し、その標高によってシエラ内でも幾つもの地域に細分化されている。標高2,000m以下の暑い地域をユンガといい、この地域では[[コーヒー]]、果物などの亜熱帯作物が育つ。標高2,500mから3,500mまでの温暖な地域をケチュア(キチュア)といい、[[タワンティンスーユ]]の中心だったクスコもこの範囲内にあった。この地域では[[ジャガイモ]]が育つ。標高3,500mから4,100mの冷たく涼しい地域をスニといい、[[リャマ]]や[[アルパカ]]の放牧に適している。4,100m以上の人間の居住には適さないぐらい寒冷な地域をプーナと呼ぶ。
 
 
 
シエラの農村部では、インディヘナ(ペルーでは公式にはカンペシーノ=農民と呼ばれる)の農民が、インカ帝国時代とあまり変わらない形態の農業を続けており、[[アイユ]]と呼ばれる村落共同体の伝統が未だ{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->に重要な経済単位となっている。
 
 
 
セルバ(モンターニャ)はアンデス山脈東斜面の標高2,000m以下の地域を指す。標高2,000mから500mがセルバ・アルタとなり、豆や[[バナナ]]などの熱帯作物が育つのはこの地域である。標高500m以下はセルバ・バハとなり、かつて[[ゴム]]や[[砂金]]のブームが起きたのはアマゾンのこの地域である。
 
 
 
ペルーの太平洋沿岸には[[寒流]]の[[ペルー海流]](フンボルト海流)と暖流が流れており、2つの海流がぶつかることによってペルー沖は好漁場となっている。
 
 
 
=== 山 ===
 
ペルーの国土を南北に[[アンデス山脈]]が貫いており、アンデス山脈は西部の{{仮リンク|オクシデンタル山脈 (ペルー)|es|Cordillera Occidental (Perú)|label=オクシデンタル山脈}}、中央部の{{仮リンク|セントラル山脈 (ペルー)|es|Cordillera Central (Perú)|label=セントラル山脈}}、東部の{{仮リンク|オリエンタル山脈 (ペルー)|es|Cordillera Oriental (Perú)|en|Cordillera Oriental (Peru)|label=オリエンタル山脈}}に分かれる。国内最高峰はオクシデンタル山脈の[[ワスカラン|ウアスカラン山]](6,778m)である。
 
 
 
=== 河川と湖 ===
 
アンデス山脈から多くの川が東西に流れており、西に流れる川はコスタの砂漠を潤す役割を果す。[[アマゾン川]]の源流もアンデス山脈の{{仮リンク|ミスミ山|es|Mismi|en|Nevado Mismi}}にあり、アマゾン川はペルー最大の河川となっている。また、北部を流れる[[プトゥマヨ川]]はペルーとコロンビアの国境線を形成している。
 
 
 
ペルーとボリビアの国境地帯の[[ティティカカ湖]]は両国最大の湖となっている。
 
 
 
== 経済 ==
 
{{main|ペルーの経済}}
 
[[ファイル:Peru econ 1970.jpg|left|thumb|ペルーの特産品(1970年)。]]
 
[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]のペルーの[[GDP]]は2,024億ドル(約22兆円)である。一人当たりのGDPは6,541ドルであり、世界平均の60%ほどの水準にある。<ref name="imf201410" />
 
[[アンデス共同体]]の加盟国、[[メルコスール]]の準加盟国であり、[[アジア太平洋経済協力]]と[[南米共同体]]の加盟国でもある。
 
 
 
現行の通貨は'''s/.''' '''[[ヌエボ・ソル]] Nuevo Sol'''(訳 : 新しいソル。ソルは太陽を表す。かつての通貨ソルに代わって導入された)その下に補助通貨単位としてセンティモ(Centimo)、s/.1=100Centimosが存在する。
 
 
 
産業の中心は、[[銅]]・[[鉛]]・[[亜鉛]]・[[銀]]・[[金]]などの[[鉱業]]である。特に銀は世界第2位の産出量である(2003年)。[[石油]]や[[ガス燃料|ガス]]などの天然資源も産出する。ただし、鉱山の近くでは、適切な環境保全対策や、住民の保護が全く行われておらず、周辺住民は住まいを追われ、[[鉱毒]]に侵されている<ref>{{cite news
 
|url =http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/120400348/
 
|title =巨大な穴にのみ込まれる町、ペルーの鉱山
 
|publisher = [[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]
 
|date = 2015-12-7
 
|accessdate = 2015-12-7
 
}}</ref>。
 
 
 
また、[[中華人民共和国]]に次いで世界第2位(2003年)の漁獲高を誇る[[水産業]]もペルーの主要な産業であると言える。
 
{{Clearleft}}
 
 
 
== 国民 ==
 
{{Main|ペルー人}}
 
[[ファイル:Peru-demography.png|thumb|[[1961年]]から[[2003年]]までのペルーの人口動態グラフ。]]
 
[[ファイル:Quechuawomanandchild.jpg|thumb|シエラのケチュア系ペルー人の親子。]]
 
[[ファイル:Oxapampa peru.jpg|thumb|シエラのヨーロッパ系ペルー人。]]
 
[[ファイル:Catedral-Cusco.jpg|thumb|クスコ大聖堂。]]
 
 
 
植民地時代にリマが[[ペルー副王領]]の首都であり、そのため独立前から[[クリオージョ]]支配層が[[グアテマラ]]、[[メキシコ]]と並んでラテンアメリカで最も貴族的な階層を築き上げていた。独立後もその傾向が是正されず国民意識が白人層にしか共有されなかったという問題は現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->も続く。しかし2001年7月28日 - 2006年7月28日までチョロ(インディオ系ペルー人)の愛称で有名になったアレハンドロ・トレドが大統領に上ったことから現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->国民意識が変わりつつある。
 
現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->のペルー人に共通し、これがペルー人であるという答えは多様な人種から生まれた文化であることだ。
 
 
 
ペルーの民族構成は[[メスティーソ]]45%、[[インディヘナ]](先住民、公式にはカンペシーノなどと呼ばれる)37%、[[ヨーロッパ系ペルー人]]15%、[[アフリカ系ペルー人]]、[[中国系ペルー人]]([[華人]])と日系をはじめとする[[アジア系ペルー人]]などその他3%とされており、非常に複雑で多様な人種から構成されている。長らく[[日系ペルー人]]は8万人といわれてきたが、この調査は数十年前に行なわれたものであり、しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は調査対象とはならなかったうえ、日本人の血の割合が低い混血の人たちをカウントしなかった。これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->の日系ペルー人は数十万に達している可能性がある。
 
 
 
インディヘナに関しては[[ケチュア人]]と[[アイマラ人]]が圧倒的に多いが、セルバのアマゾン低地にも多数の民族集団があり、近年{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->彼らの文化の独自性がどれだけ保たれるかが懸念されている。
 
 
 
アフリカ系ペルー人は植民地時代にコスタの大農園での労働力として導入された黒人奴隷の子孫である。アフリカ系ペルー人の文化はコスタの音楽や舞踊、宗教、食文化など広範な分野に大きな影響を与えている。
 
 
 
ヨーロッパ系ペルー人としては、植民地時代からの[[スペイン人]]の他に、[[イタリア人]]、[[フランス人]]、[[ドイツ人]]、[[バスク人]]などが1850年から1880年の間に2万人ほど流入した。
 
 
 
アジア系ペルー人としては、やはり1850年から1880年の間に10万人ほどの中国人([[苦力|クーリー]])が流入し、コスタの現地文化に同化した。中国人の導入が廃止された後は日本人が導入され、1899年から1923年までの間に2万1000人の日本人が契約移民として流入した。ヨーロッパ系もアジア系も移民は1854年の黒人奴隷解放後に、黒人奴隷に代わってのコスタの[[プランテーション]]での労働力として導入された。
 
 
 
その他のマイノリティとしては[[アラブ人]]、[[ユダヤ人]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人など。他のラテンアメリカ諸国からやってきた人間も少なからずいる。
 
 
 
=== 人口 ===
 
インカ帝国時代に1,000万人を越えていたと推測されている人口は、植民地時代に急激に減少し、独立直後の1826年に約150万人となっていた。その後1961年の国勢調査で10,420,357人、1972年では13,538,208人、1983年年央推計では約1,871万人となった。
 
 
 
1940年代から始まったシエラからコスタ(特にリマ)への国内移民のため、現在のリマは人口800万人の大都市圏を形成しており、これはペルーの総人口の約30%程である。
 
 
 
人口増加率 : 1.39%
 
 
 
=== 言語 ===
 
{{main|ペルーの言語|en:Languages of Peru}}
 
公用語は[[スペイン語]]([[ペルー・スペイン語]])、[[ケチュア語]](1975年から)、[[アイマラ語]](1980年から)であり、人口の大部分はスペイン語を話す。セルバのアマゾン低地では、先住民によって独自の言語が話されている。
 
 
 
シエラのインディヘナの多くはケチュア語を話す。アイマラ語話者はティティカカ湖沿岸のプーノ県に特に集中しており、ボリビアのアイマラ語文化圏と文化的に連続している。
 
 
 
=== 宗教 ===
 
{{main|ペルーの宗教|en:Religion in Peru}}
 
国立統計情報機構(INEI)による2007年実施の第11回国勢調査結果では、当時12歳以上の国民の81.3%が[[カトリック|ローマ・カトリック]]、12.5%は[[プロテスタント]]、3.3%はユダヤ教・モルモン教・エホバの証人などの他宗教、2.9%は特定宗教ナシとなっている。カトリックの数は減少傾向が観察され、同機構による調査数値の推移では、1993年から2007年にかけてのカトリックが89%から81%に減少している。
 
 
 
スペイン人による征服以来ペルーに住む人々は[[キリスト教]]を受容していったが、それでもペルー土着の宗教的要素が完全に消え去ったわけではなく、先住民の伝統宗教と独自の融合、背反を重ねて現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->に至っている。
 
 
 
=== 婚姻 ===
 
伝統的には、スペイン語圏であるため、婚姻後の女性の姓は、自己の姓に相手の姓をdeを挟んで後置したものであるが、女性の権利を守る立場から近年{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->法律が改定され自己の名前のみを名乗る[[夫婦別姓]]や、相手の姓を名乗ることも選択できるようになった。
 
 
 
=== 教育 ===
 
{{main|ペルーの教育|en:Education in Peru}}
 
6年間の初等教育と5年間の中等教育、6歳から16歳までの計11年間が[[義務教育]]期間である。その後に、大学(10学期=5年間)、専門学校などに進学することができ、またそれらに進学するための予備校などもある。
 
 
 
国立情報統計機構(INEI)が2017年9月に発表した2016年全国世帯アンケート(ENAHO)のデータによれば、識字人口は2147万4000人、15歳以上識字率は94.1%である。2006年から2016年の10年間で男性が1.7%(95.4%→97.1%)、女性が4.8%(86.2%→91.0%)向上している。
 
 
 
主な高等教育機関は[[サン・マルコス大学]](1551)、[[ペルー・カトリカ大学]]、[[太平洋大学]](1962)など。
 
 
 
== 文化 ==
 
{{main|ペルーの文化|en:Culture of Peru}}
 
[[File:Roast Guinea Pig.jpg|thumb|クイの丸焼き(ペルー)。]]
 
[[ファイル:Bottle and glass of inca kola.jpg|thumb|upright|[[インカ・コーラ]]。]]
 
[[file:Salineras de Maras, Maras, Perú, 2015-07-30, DD 12.JPG|thumb|マナウスの塩田]]
 
[[ファイル:Mario Vargas Llosa.jpg|thumb|[[ノーベル文学賞]]作家[[マリオ・バルガス・リョサ]]。]]
 
[[ファイル:Cajoneros en El Carmen Chincha.jpg|thumb|[[カホン]]。]]
 
[[ファイル:Marinera Norteña.jpg|thumb|マリネラ・ノルテーニャ。]]
 
 
 
ペルーの文化はインカ帝国や、それ以前から続く前インカ期からのインディヘナの文化と、16世紀にペルーを征服したスペイン人の文化に根を持ち、その上にアフリカ系住民や近代になって移住してきたアジア系、ヨーロッパ系の諸民族の影響も受けている。
 
 
 
=== 食文化 ===
 
{{main|ペルー料理|en:Peruvian cuisine}}
 
主食(主なカロリー源)はプレコロンビアの時からの[[トウモロコシ]]や[[ジャガイモ]]の消費が多く、その後入ってきた米、パスタ、パンも多く消費されている。また高地の特産物で高栄養価の[[キヌア]]の消費も少なくない。
 
 
 
ペルーの食文化は高地、海岸地帯、アマゾンの密林地帯で食材の違いもあり大きく異なる。海岸地帯(コスタ)で育ったクリオーヨ料理は[[ペルー料理]]を代表するひとつであり、黒人、インディヘナ、スペイン人、中国人、日本人、イタリア人などの多様な国民の影響を受けて独特のペルー料理を形成している。海岸地帯の料理には[[セビッチェ]]のように魚介類を豊富に使った料理が多い。シエラ(山岳地帯)では旧文明の食文化が多く残っており [[パチャマンカ]]料理やエクアドルやボリビアのように、クイと呼ばれる[[テンジクネズミ|天竺鼠]]や、[[アルパカ]]の肉も貴重な蛋白源として食べられている。アマゾンの密林地帯では料理用のバナナ(プランテイン)を含め多くのフルーツやアマゾンで獲れる淡水魚(ピラニアも含め)や陸生の動物も食べられている。
 
 
 
トウモロコシを発酵させて作る独特なアルコール飲料の[[チチャ]]は古代よりアンデス地方で飲み続けられている。
 
独自の[[ビール]]のブランドは、クリスタル、クスケーニャ、アレキペーニャ等の銘柄があり、清涼飲料水ではブランドに[[インカ・コーラ]]がある。また、いろいろな[[ハーブティー]]が薬用としても飲まれており、ボリビアや[[アルゼンチン北西部]]と同様に[[コカ茶]]も供されている。
 
 
 
=== 文学 ===
 
{{main|ペルー文学|ラテンアメリカ文学}}
 
[[ペルー文学]]は先コロンビア期の文明に根を持ち、植民地時代はスペイン人が年代記や宗教文学を書いた。特に[[インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ]]が著した『{{仮リンク|インカ皇統記|es|Comentarios reales de los incas|en|Comentarios Reales de los Incas}}』はその後のインカ帝国のイメージ形成に大きな影響力を持った。
 
 
 
ペルーの[[小説]]は独立後の1848年に[[ナルシソ・アレステギ]]により、ペルーで初めての小説『オラン神父』が書かれてから始まった。[[コストゥンブリスモ]]や[[ロマン主義]]が最も主流のジャンルとなり、[[リカルド・パルマ]]の『ペルー伝説集』や[[クロリンダ・マット]]の『巣のない鳥たち』などがその例である。また当時ラテンアメリカで流行していた、[[ニカラグア]]の[[ルベン・ダリオ]]、[[ウルグアイ]]の[[ホセ・エンリケ・ロドー]]から始まった[[モデルニスモ]]の流れを引いた詩人として[[ホセ・サントス・チョカーノ]]、[[ホセ・マリア・エグーレン]]などの名が挙げられる。
 
 
 
20世紀初頭には[[インディヘニスモ]]運動が起こり、文学にも影響を与えた。既に19世紀末の太平洋戦争敗北後、[[マヌエル・ゴンサレス・プラダ]]はインディオを重視する論陣を張っていたが、これは1920年代から1930年代の[[ホセ・カルロス・マリアテギ]]のインディヘニスモ思想に結びつき、さらにその流れは20世紀半ばから後半には[[シロ・アレグリア]]、[[マヌエル・スコルサ]]、[[ホセ・マリア・アルゲダス]]らによってシエラのインディオの生活を写実的に描いた文学となって完成された。
 
 
 
その一方で同じく20世紀後半には[[コロンビア]]の[[ガルシア・マルケス]]と共に、[[ラテンアメリカ文学]]ブームを牽引した[[マリオ・バルガス・リョサ]]や、[[フリオ・ラモン・リベイロ]]、[[アルフレド・ブライス・エチェニケ]]らの活躍により、ペルー文学はより身近なものになった。
 
 
 
=== 音楽 ===
 
 
 
{{main|ペルーの音楽|en:Music of Peru|ラテン音楽}}
 
ペルーの音楽としてはヨーロッパ由来の[[バルス・ペルアーノ]](ペルー・[[ワルツ]])や、ヨーロッパとアフリカの要素の入り混じった[[マリネラ]]や、[[アフロ・ペルー音楽]]に代表される、コスタのクリオーリャ音楽(クレオール音楽)や、あるいはシエラで生まれた[[ワイニョ]]などの[[フォルクローレ]]など有名である。
 
 
 
特に[[マリネラ]](マリネラ・ノルテーニャ)は舞踊として有名で、Baile Nacional(国の踊り)と称される。また、ブラジルの[[サンバ]]アルゼンチンの[[タンゴ]]と並ぶ南米3大舞踊の一つに挙げられ、ペルーの無形文化遺産に登録されてる。また、現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->はコスタ、シエラ、セルバと地方を問わず、国内の全域において、[[キューバ]]生まれの[[サルサ (音楽)|サルサ]]が愛好されている。しかし、特に世界的に知られているのはやはり、『[[コンドルは飛んで行く]]』をはじめとする[[ケーナ]]や[[チャランゴ]]を使ったアンデスのフォルクローレである。
 
 
 
クリオーリャ音楽は、ペルーに土着した[[アフリカ]]や[[ヨーロッパ]]の音楽を総称する言葉であり、特にコスタで発達した音楽を表す。クリオーリャ音楽は長らくコスタ唯一の大都市だったリマで育ち、19世紀末ごろに現在の形となった。この頃の音楽家としては特に[[フェリペ・ピィングロ・アルバ]]の名が挙げられる。クリオーリャ音楽は基本的に貧困層や大衆の音楽であったが、ラジオやレコードの普及に伴い、1950年代からブームを迎えた。[[チャブカ]]、[[スサーナ・バカ]]、[[ルーチャ・レジェス]]、[[タニア・リベルタ]]、[[エバ・アジョン]]などの音楽家や作曲家が活躍した。[[カホン]]や[[ギロ]]、[[クラベス]]などの使用で特徴的なアフロ・ペルー音楽はペルー国外での関心も高く、著名な音楽家として[[ビクトリア・サンタ・クルス]]と[[ニコメンデス・サンタ・クルス]]姉弟の名が挙げられる。
 
 
 
[[ポピュラー音楽]]の世界では、中産階級によって[[ロック (音楽)|ロック]]が愛好されているが、[[ペルー・ロック]]はラテンアメリカ市場でもあまり成功しているとはいえない。代表的なミュージシャンとしては[[ロス・サイコス]]、[[ウチュパ]]、[[ミキ・ゴンサレス]]など。ワイニョと[[クンビア]]のクロスオーバー音楽である[[チチャ (音楽)|チチャ]]([[テクノ・クンビア]])などもリマで愛好されている。
 
 
 
=== スポーツ ===
 
{{Main|{{仮リンク|ペルーのスポーツ|en|Sport in Peru}}}}
 
他のラテンアメリカ諸国と同じように[[サッカー]]が盛んである。[[サッカーペルー代表|代表チーム]]は[[FIFAワールドカップ]]に5度出場している。1982年を最後に予選敗退が続いたが、2018年に9大会ぶりに出場した。また[[コパ・アメリカ]]は2度優勝している。1928年に[[プリメーラ・ディビシオン (ペルー)|プリメーラ・ディビシオン]]が創設され、主なプロクラブとしては[[シエンシアーノ]]、[[アリアンサ・リマ]]、[[ウニベルシタリオ・デ・デポルテス]]、[[スポルティング・クリスタル]]などが挙げられる。
 
 
 
その他のスポーツとしては、[[バレーボール]]、[[テニス]]、[[サーフィン]]などが盛んである。
 
 
 
=== 世界遺産 ===
 
{{Main|ペルーの世界遺産}}
 
 
 
ペルー国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が8件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が2件存在する。
 
 
 
<gallery>
 
ファイル:Hatunrumiyoc St.jpg|[[クスコ|クスコ市街]] - (1983年、文化遺産)
 
ファイル:Peru_Machu_Picchu_Sunrise_2.jpg|[[マチュ・ピチュの歴史保護区]] - (1983年、複合遺産)
 
ファイル:Chavín de Huántar.JPG|[[チャビン・デ・ワンタル|チャビンの考古遺跡]] - (1985年、文化遺産)
 
ファイル:Taulliraju.JPG|[[ウアスカラン国立公園]] - (1985年、自然遺産)
 
ファイル:Chan_chan_view1.jpg|[[チャン・チャン]]遺跡地帯 - (1986年、文化遺産)
 
ファイル:Manu_riverbank.jpg| [[マヌー国立公園]] - (1987年、自然遺産)
 
ファイル:San_Francisco_Lima.jpg| [[リマ]]歴史地区 - (1988年、1991年、文化遺産)
 
ファイル:brillenbär.jpg| [[リオ・アビセオ国立公園]] - (1990年、複合遺産)
 
ファイル:Nazca monkey.jpg| [[ナスカの地上絵|ナスカとフマナ平原の地上絵]] - (1994年、文化遺産)
 
ファイル:El Misti from Rodriguez Ballon International Airport, Arequipa, Peru.jpg|[[アレキパ]]歴史地区(2000年)
 
</gallery>
 
 
 
=== 祝祭日 ===
 
{| class="wikitable" style=
 
|+ style="font-weight: bold; font-size: 120%" |
 
|-
 
! 日付
 
! 日本語表記
 
! スペイン語表記
 
! 備考
 
|-
 
| [[1月1日]]
 
| [[元日]]
 
| Año Nuevo
 
|
 
|-
 
| 3月 - 4月
 
| [[聖週間]]
 
| [[:es:Semana Santa|Semana Santa]]
 
| 移動祝日
 
|-
 
| [[5月1日]]
 
| [[メーデー]]
 
| Día de los Trabajadores
 
|
 
|-
 
| [[6月29日]]
 
| [[ペトロ|聖ペドロ]]と[[パウロ|聖パブロ]]の祝日
 
| San Pedro y San Pablo
 
|
 
|-
 
| [[7月28日]]-[[7月29日]]
 
| [[独立記念日]]
 
| Día de la Independencia del Perú
 
|
 
|-
 
| [[8月30日]]
 
| [[リマの聖ローサ]]の記念日
 
| [[:es:Santa Rosa de Lima|Santa Rosa de Lima]]
 
|
 
|-
 
| [[10月8日]]
 
| [[アンガモスの海戦|アンガモス海戦]]記念日
 
| Día del Combate de Angamos
 
|
 
|-
 
| [[11月1日]]
 
| [[諸聖人の日]]
 
| Día de Todos Los Santos
 
|
 
|-
 
| [[12月8日]]
 
| [[無原罪の聖母]]の祭日
 
| Día de la Inmaculada Concepción
 
|
 
|-
 
| [[12月25日]]
 
| [[クリスマス]]
 
| [[:es:Navidad|Navidad]]
 
|
 
|}
 
 
 
== 著名な出身者 ==
 
{{main|ペルー人の一覧}}
 
 
 
* [[アントニオ・パントーハ]] - 主に[[アルゼンチン]]で活躍したケーナ奏者。
 
* [[マリオ・バルガス・リョサ]] - ノーベル文学賞作家。
 
 
 
=== 日本との関連がある著名なペルー人 ===
 
* [[アルベルト・フジモリ]] - 元[[大統領]]。両親が[[熊本県]]出身。実は日本国籍を保持していたことが日秘両国の大きな問題となった。
 
* [[アルベルト城間]] - 国内では[[沖縄県]]を中心に活躍しているラテンロックバンド、[[ディアマンテス]]のボーカル。
 
 
 
== 脚註 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
=== 総合 ===
 
* {{Cite book|和書|author=[[細谷広美]]編著|date=2004年1月|title=ペルーを知るための62章|series=エリア・スタディーズ|publisher=[[明石書店]]|location=[[東京]]|isbn=4-7503-1840-X|ref=細谷編著(2004)}}
 
 
 
=== 歴史 ===
 
* {{Cite book|和書|author=[[エドゥアルド・ガレアーノ]]/大久保光夫訳|date=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[中川文雄]]、[[松下洋]]、[[遅野井茂雄]]|date=1985年1月|title=ラテン・アメリカ現代史III|series=世界現代史34|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-42280-8|ref=中川、松下、遅野井(1985)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[増田義郎]]、[[柳田利夫]]|date=1999年12月|title=ペルー──太平洋とアンデスの国──近代史と日系社会|series=|publisher=[[中央公論新社]]|location=[[東京]]|isbn=4-12-002964-6|ref=増田、柳田(1999)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[増田義郎]]編|date=2000年7月|title=ラテンアメリカ史II|series=新版世界各国史26|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-41560-7|ref=増田編(2000)}}
 
 
 
=== 政治 ===
 
* {{Cite book|和書|author=[[後藤政子]]|date=1993年4月|title=新現代のラテンアメリカ|series=|publisher=[[時事通信社]]|location=[[東京]]|isbn=4-7887-9308-3|ref=後藤(1993)}}
 
 
 
=== 地理 ===
 
* {{Cite book|和書|author=[[下中彌三郎]]編|date=1954年|title=ラテンアメリカ|series=世界文化地理体系24|publisher=[[平凡社]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=下中(1954)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[P.E.ジェームズ]]/[[山本正三]]、[[菅野峰明]]訳|date=1979年|title=ラテンアメリカII|publisher=[[二宮書店]]|isbn=|ref=ジェームズ/山本、菅野訳(1979)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[野沢敬]]編|date=1986年|title=ラテンアメリカ|series=朝日百科世界の地理12|publisher=[[朝日新聞社]]|location=[[東京]]|isbn=4-02-380006-6|ref=野沢(1986)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[福井英一郎]]編|date=1978年|title=ラテンアメリカII|series=世界地理15|publisher=[[朝倉書店]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=福井(1978)}}
 
 
 
=== 社会 ===
 
* {{Cite book|和書|author=[[国本伊代]]、[[乗浩子]]編|date=1991年9月|title=ラテンアメリカ都市と社会|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=4-7948-0105-X|ref=国本、乗編(1991)}}
 
** [[浅香幸枝]]「リマ──副王たちの都から混沌の都へ」『ラテンアメリカ都市と社会』 [[国本伊代]]、[[乗浩子]]編、[[新評論]]、1991年9月。ISBN 4-7948-0105-X。
 
* {{Cite book|和書|author=[[中川文雄]]、[[三田千代子]]編|date=1995年10月|title=ラテン・アメリカ人と社会|series=ラテンアメリカ・シリーズ4|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=4-7948-0272-2|ref=中川、三田編(1995)}}
 
** [[フアン・ハルオ・イナミネ]]、[[山脇千賀子]]「ペルー人とは何か その起源・アイデンティティ・国民性」『ラテン・アメリカ人と社会』[[中川文雄]]、[[三田千代子]]編、[[新評論]]、1995年10月。ISBN 4-7948-0272-2。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ペルー関係記事の一覧]]
 
* [[ペルーの在外公館の一覧]]
 
* [[青木盛久]]
 
* [[アンデス・スペイン語]]
 
<!--
 
* [[ペルーの通信]]
 
* [[ペルーの交通]]
 
* [[ペルーの国際関係]]
 
-->
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Wiktionary}}
 
{{Commons&cat|Peru|Peru}}
 
{{osm box|r|288247}}
 
{{Wikivoyage|es:Perú|ペルー{{es icon}}}}
 
{{Wikivoyage|Peru|ペルー{{en icon}}}}
 
 
 
* 政府
 
** [http://www.peru.gob.pe/ ペルー共和国政府] {{es icon}}
 
** {{Twitter|PeruInJapan|Peru in Japan-ペルー大使館}}{{Ja icon}}{{Es icon}}
 
* 日本政府
 
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/peru 日本外務省 - ペルー] {{ja icon}}
 
** [http://www.pe.emb-japan.go.jp/inicio_jp.html 在ペルー日本国大使館] {{ja icon}}
 
* 観光
 
** [http://www.peru-japan.org/ ペルー観光公式サイト] {{ja icon}}
 
* その他
 
** [http://www.jetro.go.jp/world/cs_america/pe/ JETRO - ペルー] {{ja icon}}
 
** {{CIA World Factbook link|pe|Peru}} {{en icon}}
 
** {{Wikiatlas|Peru}} {{en icon}}
 
 
 
{{南米共同体}}
 
{{アメリカ}}
 
{{TPP}}
 
{{国連安全保障理事会理事国}}
 
{{Authority control}}
 
{{Coord|12|2.6|S|77|1.7|W|type:country_region:PE|display=title}}
 
 
{{DEFAULTSORT:へるう}}
 
{{DEFAULTSORT:へるう}}
 
[[Category:ペルー|*]]
 
[[Category:ペルー|*]]
 
[[Category:共和国]]
 
[[Category:共和国]]

2018/12/28/ (金) 00:17時点における最新版

マチュピチュ遺跡.ペルー

ペルー共和国(ペルーきょうわこく、スペイン語: República del Perúテンプレート:Lang-quテンプレート:Lang-ay)、通称ペルー

南アメリカ中部西岸,太平洋に面する国。北から東,南にかけてエクアドルコロンビアブラジルボリビアチリに囲まれ,太平洋岸に連なる狭い海岸平野から東へ,アンデス山脈を横切ってアマゾン低地にかけて広がる。国土の中核をなすアンデス山脈はアマゾン川の源流マラニョン川ワヤガ川ウルバンバ川アプリマク川などの川が刻む深い縦谷により数条の並行する山脈に分けられ,山間には盆地や高原が発達。最高峰はブランカ山脈中のワスカラン山(6768m)。南部には火山が多い。熱帯に位置するが,アンデス山脈と沿岸を北流する冷たいペルー海流の影響で気候は多様。沿岸部は雨がきわめて少なく砂漠となっているが,アンデス山脈から流下する川の水を利用して灌漑が発達し,リマ,アレキパトルヒーヨなどの大都市が立地。アンデス山脈では垂直気候が発達し,快適な山間の谷や高原に人口が集まり,クスコワンカヨなどの都市ができている。アンデス山脈東斜面からアマゾン低地にかけては高温多雨の熱帯雨林地帯となり,ウカヤリ川などの河川沿岸を除くとほとんど人が住まない。インカ文明を最後の頂点とするラテンアメリカインディアン(インディオ)の諸文明が栄えた地で,今日もケチュア族アイマラ族などのインディオが人口の約半分を占めるが,その大半は山間の厳しい自然環境できわめて貧しい生活を送り,沿岸部を中心に住む約 10%の白人との貧富の差が著しい。そのほか,メスティーソと呼ばれるインディオと白人の混血が約 30%を占め,日本からの移民とその子孫も約 0.5%に上る。公用語はスペイン語とケチュア語,アイマラ語。90%近くがキリスト教のカトリック信者。鉱物,森林,水産,水力など豊かな天然資源に恵まれているが,未開発なものも多い。鉱物資源としては石油と銅を筆頭に,鉄,亜鉛,ビスマス,鉛,銀などを産出し,鉱産物が輸出の大部分を占める。開発は長い間おもに外国資本によって進められてきたが,1968年以降国有化が進行。北東部のピウラ県などの内陸油田から,アンデス山脈を越えて太平洋沿岸諸都市にパイプラインが延びている。農業はサトウキビ,綿花,コーヒー,ジャガイモ,イネ,トウモロコシ,オオムギ,コムギなどを栽培するが,耕地が少なく,また近年人口が急増しているため,毎年大量の食糧を輸入。山地ではヒツジ,ウシ,アルパカ,ラマなどが飼育される。コカの生産国でもあり,コカインに精製されている。また世界有数の漁業国であり,アンチョビーなどの漁獲が多く,魚粉が重要な輸出品となっている。工業は食品,繊維などの軽工業が中心であるが,セメント,鉄鋼,電機,石油精製,自動車などの工業も発達してきている。険しいアンデス山脈と複雑なアマゾン水系に阻まれて,交通網の発達は不十分。主要交通路は海岸沿いに国土を縦貫するパンアメリカン・ハイウェー。鉄道はところどころにあるが,全土を結ぶものはない。(ペルー史




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