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{{Otheruses}}
 
{{基礎情報 皇族・貴族
 
| 人名 = ヤマトタケル
 
| 各国語表記 =
 
| 家名・爵位 =
 
| 画像 = Yamato Takeru(bronze statue,Osaka)01.jpg
 
| 画像サイズ = 250px
 
| 画像説明 = 日本武尊像(大阪府堺市の大鳥大社)
 
| 続柄 =
 
| 称号 =
 
| 全名 =
 
| 身位 =
 
| 敬称 =
 
| お印 =
 
| 出生日 =
 
| 生地 =
 
| 死亡日 = [[景行天皇]]43年
 
| 没地 =
 
| 埋葬日 =
 
| 埋葬地 =
 
| 配偶者1 = 両道入姫皇女
 
| 配偶者2 = 吉備穴戸武媛
 
| 配偶者3 = [[弟橘媛]]
 
| 配偶者4 = 山代之玖々麻毛理比売
 
| 配偶者5 = 布多遅比売
 
| 配偶者6 =
 
| 配偶者7 =
 
| 配偶者8 =
 
| 配偶者9 =
 
| 配偶者10 =
 
| 子女 = [[仲哀天皇]]<br/>[[蘆髪蒲見別王]] [[#系譜|ほか]]
 
| 父親 = [[景行天皇]]
 
| 母親 = [[播磨稲日大郎姫]]
 
| 役職 =
 
}}
 
{{座標一覧}}
 
'''ヤマトタケル'''(生年不詳 - [[景行天皇]]43年)は、[[記紀]]等に伝わる古代[[日本]]の[[皇族]](王族)。
 
  
『[[日本書紀]]』では主に「'''日本武尊'''(やまとたけるのみこと)」、『[[古事記]]』では主に「'''倭建命'''(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される<ref group="注">宮内庁治定墓(能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵)での公式表記、および『国史大辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本人名大辞典』(講談社)の項目名において、「日本武尊」の用字が採用される。</ref>。
+
'''ヤマトタケル'''(生年不詳 - [[景行天皇]]43年)
  
第12代[[景行天皇]][[皇子]]で、第14代[[仲哀天皇]]の父にあたる。[[熊襲]]征討・[[東国]]征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
+
日本の古代史における伝承上の英雄。『古事記』では倭建命と書く。『古事記』『日本書紀』では[[景行天皇]]の皇子で,幼名を,オウスノミコト (小碓命) という。武勇に優れていたため,父天皇の命による西方の[[熊襲]]征伐には童女に扮して川上梟帥 (かわかみのたける) に近づきこれを討った。そのとき梟帥が,日本で最も強い男という意味からオウスノミコトに「日本武」皇子の名を奉ったという。しかしこれは一個人の名前ではなく,歴史的には何人もの「日本武」がいたものとみられる。その後オウスノミコトは東方の[[蝦夷]]平定に向かう途中,天叢雲剣 (あめのむらくものつるぎ。別称[[草薙剣]] ) で野火の難をはらい,走水 (はしりみず) の海では妃のオトタチバナヒメノミコト (弟橘比売命) の入水により海上の難を逃れたが,伊吹山で賊を征伐中,伊勢国の[[能褒野]] (のぼの) で崩じたという。死後その霊は白鳥となり大和に渡ったので当地に陵をつくったが,さらに白鳥は河内に飛び去ったためそこにも陵をつくり,ともに白鳥陵と称したという。このように『[[日本書紀]]』は日本武尊の死を「崩」とし,墓を「陵」と記すなど天皇に準じており,また『[[常陸国風土記]]』では倭武天皇と記している。
  
== 名称 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
『[[日本書紀]]』・『[[古事記]]』・『[[先代旧事本紀]]』とも、本の名は「ヲウス(オウス)」、亦の名は「ヤマトヲグナ(ヤマトオグナ)」で、のちに「ヤマトタケル」を称したとする。それぞれ表記は次の通り<ref name="日本書紀">『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、pp. 340-397。</ref><ref name="古事記">『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 212-239。</ref>。
 
 
 
* 『日本書紀』・『先代旧事本紀』
 
** 本の名:'''小碓尊'''(おうすのみこと)、小碓王(おうすのみこ)
 
** 亦の名:'''日本童男'''(やまとおぐな)
 
** のちの名:'''日本武尊'''(やまとたけるのみこと)、日本武皇子(やまとたけるのみこ)
 
* 『古事記』
 
** 本の名:'''小碓命'''(おうすのみこと)
 
** 亦の名:'''倭男具那命'''(やまとおぐなのみこと)、倭男具那王(やまとおぐなのみこ)
 
** のちの名:'''倭建命'''(やまとたけるのみこと)、倭建御子(やまとたけるのみこ)
 
「ヲウス(小碓)」の名称について『日本書紀』では、双子([[大碓命]]・小碓尊)として生まれた際に、天皇が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによるとする<ref name="日本書紀"/>。「ヲグナ(童男/男具那)」は未婚の男子の意味<ref name="日本書紀"/>。「ヤマトタケル」の名称は、川上梟帥(または熊曾建)の征討時に捧げられた(後述)。「尊」の用字は皇位継承者と目される人物に使用されるもので、『日本書紀』での表記は同書上でヤマトタケルがそのように位置づけられたことによる<ref name="日本書紀"/>。
 
 
 
文献で見えるその他の表記は次の通り。
 
* 倭武命 - 『[[日本三代実録]]』<ref group="原">『日本三代実録』貞観3年(861年)11月11日条。</ref>
 
* 倭武尊 - 『[[古語拾遺]]』
 
* 倭建尊 - 『[[新撰姓氏録]]』<ref group="原">『新撰姓氏録』和泉国皇別 和気公条、和泉国皇別 聟本条。</ref>
 
* 日本武命 - 『尾張国風土記』逸文<ref group="原">『釈日本紀』巻7 草薙劔条所引『尾張国風土記』逸文。</ref>、『古語拾遺』
 
* 倭武天皇 - 『[[常陸国風土記]]』<ref group="原">『常陸国風土記』序文、信太郡条、茨城郡条、行方郡条、香島郡条、久慈郡条。</ref>
 
* 倭建天皇 - 『常陸国風土記』<ref group="原">『常陸国風土記』久慈郡条、多珂郡条。</ref>
 
* 倭健天皇命 - 『阿波国風土記』逸文<ref group="原">『万葉集註釈』巻7所引『阿波国風土記』逸文。</ref>
 
 
 
なお、「武」・「建」の訓については「タケル」ではなく「タケ」とする説がある{{Sfn|日本武尊(国史)}}<ref name="中村"/>。その中で、「タケル」は野蛮を表現する語であり、尊号に用いられる言葉ではないと指摘される<ref name="中村">中村啓信 『新版古事記』角川学芸出版[角川ソフィア文庫]、2009年、ISBN 978-4-04-400104-9。</ref>。
 
 
 
== 系譜 ==
 
[[ファイル:Emperor family tree8-15.png|thumb|right|200px|天皇系図 8〜15代]]
 
{{Smaller|(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)}}
 
 
 
父は第12代[[景行天皇]]。母は[[皇后]]の[[播磨稲日大郎姫]](はりまのいなびのおおいらつめ、針間之伊那毘能大郎女/稲日稚郎姫)。『古事記』では、針間之伊那毘能大郎女を[[稚武彦命|若建吉備津日子]](吉備臣らの祖)の娘とする<ref name="古事記"/>。
 
 
 
『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子とし、同母兄は[[大碓皇子]]のみで双子の兄とする<ref name="日本書紀"/>。『古事記』では第三皇子とし、同母兄を櫛角別王・[[大碓皇子|大碓命]](双子の記載はない)、同母弟を倭根子命・[[神櫛皇子|神櫛王]]とする<ref name="古事記"/>。
 
 
 
妻子は次の通り<ref name="日本書紀"/><ref name="古事記"/>(「紀」は日本書紀、「記」は古事記を指す。「旧事本紀」は先代旧事本紀に見える事柄にのみ記載)。
 
* 妃:両道入姫皇女(ふたじいりびめのひめみこ、布多遅能伊理毘売命) - 垂仁天皇皇女(記)。
 
** 稲依別王(いなよりわけのみこ、記の母は別) - 犬上君・[[建部氏|武部君]](建部君)の祖(記紀)。
 
** 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと、帯中津日子命) - 第14代'''[[仲哀天皇]]'''。
 
** 布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと、記なし)
 
** 稚武王(わかたけるのみこ、記なし) - 近江建部君の祖・宮道君等の祖(旧事本紀)。
 
* 妃:吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ、大吉備建比売) - [[吉備武彦]]の娘(紀)、吉備臣建日子の妹(記)。
 
** 武卵王(たけかいごのみこ、建貝児王) - 讃岐綾君の祖(記紀)、登袁之別・麻佐首・宮道之君らの祖(記)。
 
** 十城別王(とおきわけのみこ、記なし) - 伊予別君の祖(紀)。
 
* 妃:[[弟橘媛]](おとたちばなひめ、弟橘比売命) - [[穂積氏]]の忍山宿禰の娘(紀)。9男を生む(旧事本紀)。
 
** [[稚武彦王]](わかたけひこのみこ、若建王) - [[須売伊呂大中日子]]の父、[[迦具漏比売]]([[応神天皇]]の妃)の祖父。
 
* 妃:山代之玖々麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ、紀なし)
 
** [[蘆髪蒲見別王|足鏡別王]](あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王/葦噉竈見別王) - 鎌倉別・小津石代之別・漁田之別の祖(記)。
 
* 妃:布多遅比売(ふたじひめ、紀なし) - [[安国造|淡海安国造]]の祖の意富多牟和気の娘(記)。
 
** 稲依別王(いなよりわけのみこ、紀の母は別) - 両道入姫皇女の所生とする紀とは異同。
 
* 一妻(記では名は不詳、旧事本紀では橘媛)
 
** [[息長田別王]](おきながたわけのみこ、紀なし) - [[河派仲彦王]]の父、[[息長真若中比売]]([[応神天皇]]の妃)の祖父、[[稚野毛二派皇子]]の曽祖父、[[忍坂大中姫]]・[[衣通姫]]の高祖父。阿波君らの祖(旧事本紀)。
 
 
 
『古事記』では、倭建命の曾孫(ひひこ)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって[[彦人大兄命|大江王(彦人大兄)]]を儲けるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある<ref name="yoshii">[[吉井巌]] 『ヤマトタケル』[[学生社]] 1977年、2004年OD版、ISBN 4311201141</ref>。また、各地へ征討に出る[[雄略天皇]]などと似た事績があることから、[[4世紀]]から[[7世紀]]ごろの数人のヤマトの[[英雄時代|英雄]]を統合した架空の人物という説もある<ref name=yoshii/><ref>[[井上光貞]] 『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ』[[中央公論新社]][[[中公文庫]]]、新版[[2005年]]、ISBN 4122045479</ref>。
 
 
 
=== 系図 ===
 
{{皇室古墳時代}}
 
 
 
== 記録 ==
 
『[[古事記]]』と『[[日本書紀]]』<ref>岩波書店日本古典文学大系本『古事記』、『日本書紀』による。</ref>の説話は、大筋は同じだが、主人公の性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差がある。ここでは浪漫的要素が強く、豪胆な主人公や父天皇に疎まれる人間関係から来る悲劇性が濃い『古事記』の説話を中心に述べる。概ね、『日本書紀』の方が天皇賛美の傾向が強く、父の天皇に忠実で信頼も厚い(『日本書紀』の説話は、『古事記』との相違点のみ逐一示す)。
 
 
 
=== 西征 ===
 
[[ファイル:YamatoTakeru.jpg|thumb|ヤマトタケル([[菊池容斎]]画)]]
 
[[ファイル:Yamato Takeru at 16-crop.jpg|thumb|女装するヤマトタケル([[月岡芳年]]画)]]
 
----
 
 
 
; 古事記
 
: 父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦に包み投げ捨て殺害する。そのため小碓命は父に恐れられ疎まれて、九州の[[熊襲]]建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者も与えられなかった小碓命は、まず叔母の[[倭姫命|倭比売命]]が[[斎王]]を勤めた[[伊勢国|伊勢]]へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
 
; 日本書紀
 
: 兄殺しの話はなく、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとある。古事記と異なり倭姫の登場がなく、従者も与えられている。従者には美濃国の弓の名手である弟彦公が選ばれる。弟彦公は石占横立、尾張の田子稲置、乳近稲置を率いて小碓命のお供をしたという。
 
; 先代旧事本紀
 
: (景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令擊熊襲 時年十六歲 <small>按日本紀 當作二十七年</small><ref>[http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/sendaikuji07.htm 先代舊事本紀卷第七 天皇本紀]</ref>とあるのみ。
 
 
 
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; 古事記
 
: 小碓命が九州に入ると、[[熊襲建]]の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。倭建命は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。
 
; 日本書紀
 
: 熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記される。川上梟帥を討伐後、日本武尊は弟彦らを遣わし、その仲間を全て斬らせたため生き残った者はいなかったという。
 
'''肥前国風土記'''
 
: 佐嘉郡、小城郡、藤津郡で日本武尊の巡行が記述される。いずれも地名伝承である。小城郡では砦に立て籠もり、天皇の命に従わない土蜘蛛をことごとく誅している。
 
 
 
----
 
 
 
; 古事記
 
: その後、倭建命は山の神、河の神、また穴戸の神を平定し、[[出雲国|出雲]]に入り、[[出雲建]]と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の[[大刀]]を偽物と交換して大刀あわせを申し込み、殺してしまう。そうして「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 つづらさは巻き さ身無しにあはれ」と“出雲建の大刀は、つづらがたくさん巻いてあって派手だが刃が無くては意味がない、可哀想に”と歌う。
 
; 日本書紀
 
: [[崇神天皇]]の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、酷似した話があるが、日本武尊の話としては出雲は全く登場しない。熊襲討伐後は毒気を放つ吉備の穴済の神や難波の柏済の神を殺して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。
 
 
 
=== 東征 ===
 
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; 古事記
 
: 西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に[[伊勢神宮]]にあった神剣、[[天叢雲剣|草那藝剣]](くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。
 
; 日本書紀
 
: 当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。天皇は斧鉞を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。」と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴に吉備武彦と大伴武日連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。出発した日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。
 
: 最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。
 
 
 
----
 
 
 
; 古事記
 
: 倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売([[宮簀媛]])と婚約をして東国へ赴く。
 
; 日本書紀
 
: 対応する話はない。
 
 
 
----
 
[[File:Yamamoto Takeru no mikoto between burning grass.jpg|thumb|ヤマトタケル([[歌川国芳]]画)]]
 
; 古事記
 
: [[相模国|相模]]の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那藝剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。生還した倭建命は国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。
 
; 日本書紀
 
: [[駿河国|駿河]]が舞台で火攻めを行うのは賊だが大筋はほぼ同じで、[[焼津市|焼津]]の地名の起源を示す。ただし、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はない。注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、草薙剣と名付けたと説明される。火打石を叔母に貰った記述はない。
 
 
 
----
 
 
 
; 古事記
 
: 相模から[[上総国|上総]]に渡る際、[[走水神社 (横須賀市)|走水]]の海([[横須賀市]])の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の[[弟橘媛|弟橘比売]]が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いで、一行は無事に上総国に渡る事ができた。それから倭建命はこの地(現在の[[木更津市]]と言われている)にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。
 
 
 
 
 
入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。
 
{{Quotation|
 
原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
 
 
 
読み下し: さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも
 
 
 
訳: ''相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……''
 
}}
 
: 弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。
 
; 日本書紀
 
: 「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったと記され、同様に妾の弟橘媛の犠牲で難を免れたと記されるが、和歌はない。
 
 
 
----
 
 
 
[[ファイル:Sakaorimiya zenkei.jpg|thumb|「酒折宮」に比定される可能性のある現在の酒折宮([[山梨県]][[甲府市]]酒折)]]
 
 
 
; 古事記
 
: その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。[[足柄坂]](神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「'''吾妻はや'''」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また[[甲斐国]]の[[酒折宮]]で[[連歌]]の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、[[信濃国|科野]](しなの=長野県)で坂の神を服従させ、倭建命は[[尾張国|尾張]]に入る。
 
; 日本書紀
 
: ルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。[[陸奥国]]に入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。[[蝦夷]]の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。日本武尊が「吾は是、[[現人神]]の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。蝦夷平定後は『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺した後、白い犬が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。
 
'''常陸国風土記'''
 
: 倭武天皇もしくは倭建天皇と表記される。巡幸に関わる記述が17件記述されている。従順でない当麻の郷の佐伯の鳥日子や芸都の里の国栖の寸津毘古を討つ話はあるが、殺伐な事件はこの2件のみで、他は全て狩りや水を飲み御膳を食すなど、その土地の服属を確認を行っている。
 
'''陸奥国風土記逸文'''
 
: 八槻の郷の地名伝承。日本武尊が東夷を征伐し、この地で八目の鳴鏑の矢で賊を射殺した。その矢の落下した場所を矢着(やつき)と名付ける。別伝は、この地に八人の土蜘蛛がいて、それぞれに一族がおり皇民の略奪を行っていた。日本武尊が征討に来ると津軽の蝦夷と通謀し防衛した。日本武尊は槻弓、槻矢をとり七つの矢、八つの矢を放った。七つの矢は雷の如く鳴り響き蝦夷の徒党を追い散らし、八つの矢は土蜘蛛を射抜いた。土蜘蛛を射抜いた矢から芽が出て槻の木となった。その地を「八槻」と言うようになったとある。  
 
 
 
----
 
[[ファイル:Mount Ibuki top 2011-03-06.jpg|thumb|right|250px|伊吹山頂の日本武尊像]]
 
 
 
; 古事記
 
: 尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売が[[月経|生理]]中であることを知り、次のように歌う。
 
: 「ひさかたの 天(あめ)の香具山(かぐやま) とかまに さ渡る鵠(くび) ひはぼそ たわや腕(がひな)を まかむとは あれはすれど さ寝むとは あれは思へど ながけせる おすひの裾に 月たちにけり」“天の香具山の上を飛ぶ白鳥のような、白くか細いあなたの腕を、私は抱こうとするが、あなたと寝たいと思うのだが、あなたの着物の裾には月(=月経)が見えているよ”
 
: 美夜受比売は答えて次のように歌った。
 
: 「高光る 日の御子(みこ) やすみしし わが大君(おおきみ) あらたまの 年がきふれば あらたまの 月はきへゆく うべな うべな 君待ちがたに わがけせる おすひの裾に 月たたなむよ」“ 高く光り輝く太陽の皇子よ。国を八隅まで支配される私の大君様。新しい年が来て、新しい月がまた去って行く。そうです、そうですとも、こんなにも、あなたを待ちこがれていたのだから、わたしの着物の裾に月が出たのは当然です ”
 
: 二人はそのまま結婚する。そして倭建命は、伊勢の神剣である草那藝剣を美夜受比売に預けたまま、[[伊吹山]](岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。
 
; 日本書紀
 
: 経血が詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行くのは同様。
 
; 尾張国風土記逸文
 
: 宮酢媛の屋敷の桑の木に、日本武命が剣を掛けたところ、剣が不思議に光輝いて手にする事ができずに残したとされる。
 
 
 
----
 
 
 
; 古事記
 
: 素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と[[言挙げ]]をし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の[[関ケ原町]]また[[米原市]]とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。
 
: 弱った体で大和を目指して、当芸・[[杖衝坂]]・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野([[三重県]][[亀山市]])に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
 
; 日本書紀
 
: 伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。
 
 
 
----
 
 
 
; 古事記
 
: 倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは[[白鳥陵|陵墓]]を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」“お墓のそばの田の稲のもみの上で、ところづら(蔓草)のように這い回って、悲しんでいます”との歌を詠んだ。
 
: すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちは竹の切り株で足が傷つき痛めても、その痛さも忘れて泣きながら、その後を追った。その時には、「浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」 “小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。ああ、私たちは、あなたのように空を飛んで行くことができず、足で歩くしかないのですから”と詠んだ。
 
: また、白鳥を追って海に入った時には 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」“海に入って進むのは、海の水が腰にまとわりついて進みにくい。まるで、大きな河に生い茂っている水草のように、海ではゆらゆら足を取られます”と詠んだ。
 
: 白鳥が磯伝いに飛び立った時は 「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」“浜千鳥のように、あなたの魂は私たちが追いかけやすい浜辺を飛んで行かず、磯づたいに飛んで行かれるのですね”と詠んだ。
 
: これら4つの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌<ref>「大御葬歌」は昭和天皇の大葬の礼でも詠われた。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。</ref>)となった。
 
; 日本書紀
 
: 父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥<ref>当時の白鳥は現在の[[ハクチョウ]]以外にも、[[白鷺]]など白い鳥全般を指した。</ref>となって、大和を指して飛んだ。棺には衣だけが空しく残され、屍はなかったという。
 
 
 
----
 
 
 
; 古事記
 
: 白鳥は伊勢を出て、[[河内国|河内]]の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
 
; 日本書紀
 
: 白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原([[奈良県]][[御所市]])→河内古市([[大阪府]][[羽曳野市]])とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部([[健部]]・[[建部]])を日本武尊の御名代とした。
 
:『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。
 
 
 
== 墓 ==
 
[[File:Nobono Otsuka Kofun haisho.JPG|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 [[能褒野王塚古墳|能褒野墓]]<br />([[三重県]][[亀山市]])}}]]
 
[[File:Kotohikihara Tomb, haisho.jpg|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 (大和)白鳥陵<br />([[奈良県]][[御所市]])}}]]
 
[[File:Karusato Otsuka Kofun, haisho.jpg|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 [[軽里大塚古墳|(河内)白鳥陵]]<br />([[大阪府]][[羽曳野市]])}}]]
 
[[陵墓|墓]]は、[[宮内庁]]により次の3ヶ所に治定されている<ref>『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。</ref>(能褒野墓に白鳥2陵を付属)。
 
* '''能褒野墓'''(のぼののはか、[[三重県]][[亀山市]]田村町、{{ウィキ座標|34|53|4.36|N|136|28|55.09|E|region:JP-24|位置|name=能褒野墓(日本武尊墓)}})
 
*: 宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「[[能褒野王塚古墳]]」。墳丘長90メートルの[[前方後円墳]]で、[[4世紀]]末の築造と推定される。
 
* '''白鳥陵'''(しらとりのみささぎ、[[奈良県]][[御所市]]富田、{{ウィキ座標|34|26|43.92|N|135|45|1.25|E|region:JP-24|位置|name=白鳥陵(日本武尊墓)}})
 
*: 宮内庁上の形式は長方丘。かつては「権現山」・「天王山」とも{{Sfn|白鳥陵(国史)}}。幅約28メートル×約45メートルの長方丘とされる{{Sfn|白鳥陵(国史)}}。一説には[[円墳]]<ref name="大和白鳥陵"/>。
 
* '''白鳥陵'''(しらとりのみささぎ、[[大阪府]][[羽曳野市]]軽里、{{ウィキ座標|34|33|4.61|N|135|36|14.00|E|region:JP-24|位置|name=白鳥陵(日本武尊墓)}})
 
*: 宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「[[軽里大塚古墳]]」・「前の山古墳」・「白鳥陵古墳」。墳丘長190メートルの前方後円墳で、[[5世紀]]後半の築造と推定される。
 
 
 
=== 古典史料の記述 ===
 
<div class="thumb tright">
 
{| class="wikitable" style="font-size:85%;background-color:#ffffff;text-align:center;white-space: nowrap"
 
|+ヤマトタケルの墓に関する記録
 
!地域!!日本書紀!!古事記!!延喜式!!現在の治定
 
|-
 
|'''伊勢'''||能褒野陵||能煩野に陵||能裒野墓||[[能褒野王塚古墳|能褒野墓]]
 
|-
 
|'''大和'''||琴弾原に陵||(記載なし)||(記載なし)||白鳥陵
 
|-
 
|'''河内'''||旧市邑に陵||志幾に陵<br />(白鳥御陵)||(記載なし)||[[軽里大塚古墳|白鳥陵]]
 
|-
 
|'''備考'''||3陵の総称として<br />「白鳥陵」とする|| || ||
 
|}</div>
 
ヤマトタケルの埋葬について、『日本書紀』・『古事記』・『延喜式』に見える記述は次の通り。
 
* 日本書紀
 
*: 景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「'''能褒野'''」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の'''琴弾原'''(ことひきはら)、次いで河内の'''旧市邑'''(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたという<ref name="日本書紀"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
 
*: [[仁徳天皇]]60年条<ref group="原">『日本書紀』仁徳天皇60年10月条。</ref>{{Sfn|亀山市史 通史編 第3章第1節}}では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか<ref name="亀山市史 第3章第1節">[http://kameyamarekihaku.jp/sisi/tuusiHP/kochuusei/honbun/03/01/pdflive.html 「通史編 第3章第1節 ヤマトタケル伝承と鈴鹿地域」][http://kameyamarekihaku.jp/sisi/index.html 『亀山市史』](IT市史、亀山市歴史博物館)。</ref>)は空である旨と、天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった旨が記されている<ref>『新編日本古典文学全集 3 日本書紀 (2)』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 66-67。</ref><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
 
* 古事記
 
*: 景行天皇記では、倭建命は伊勢の「'''能煩野'''」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の'''志幾'''(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという<ref name="古事記"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
 
* [[延喜式]]([[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立)
 
*: [[諸陵寮]]([[諸陵式]])<ref group="原">『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。</ref>では「'''能裒野墓'''」の名称で記載され、[[伊勢国]][[鈴鹿郡]]の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓){{Sfn|能褒野墓(国史)}}<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。一方で白鳥陵の記載はない。
 
通常「陵」の字は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』や『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケルが天皇に準ずると位置づけられたことによる<ref name="日本書紀"/>(現在は能褒野のみ「墓」の表記)。
 
 
 
ヤマトタケルの実在性が低いこともあり、ヤマトタケルの墓はヤマトタケル伝説の創出に伴って創出されたとされる<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。確かな史料の上では、[[持統天皇]]5年([[691年]])<ref group="原">『日本書紀』持統天皇5年(691年)10月乙巳(8日)条。</ref>において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『[[帝紀]]』や『[[旧辞]]』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・[[彦五瀬命]]墓(紀伊)・[[五十瓊敷入彦命]]墓(和泉)・[[菟道稚郎子]]墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある<ref>[[仁藤敦史]] 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 13-16。</ref>。
 
 
 
その後、[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])<ref group="原">『続日本紀』大宝2年(702年)八月癸卯(8日)条。</ref>には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え、鳴動(落雷<ref>『続日本紀 上 全現代語訳(講談社学術文庫1030)』 講談社、1992年、p. 52。</ref>、別説に地震<ref>[[森浩一]] 『天皇陵古墳への招待(筑摩選書23)』 筑摩書房、2011年、pp. 195-203。</ref>)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。さらに『[[大宝律令|大宝令]]』官員令の別記(付属法令)<ref group="原">『令集解』巻2(職員令)諸陵司 諸陵及陵戸名籍事条所引『別記』逸文。</ref>には、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、[[8世紀]]初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、[[10世紀]]前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
 
 
 
=== 後世の治定 ===
 
上記の記述の一方、後世には墓の所伝は失われ所在不明となった。能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵それぞれに関して、治定されるに至った経緯は次の通り。
 
* 伊勢の能褒野墓
 
*: 近世には[[白鳥塚古墳 (鈴鹿市)|白鳥塚]](鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年([[1876年]])までには[[教部省]]により白鳥塚に定められたが、[[明治]]12年([[1879年]])に宮内省(現・[[宮内庁]])により3説のいずれでもない現墓の丁子塚([[能褒野王塚古墳]])に改定された<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。詳細は「[[能褒野王塚古墳]]」を参照。
 
*: なお「のぼの(能褒野/能煩野/能裒野)」とは、[[鈴鹿山脈]]の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と推測される<ref name="日本書紀"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。この「のぼの」の地が選ばれた背景としては、化身の白鳥が「天空にのぼった」という物語が既に存在し、後世にその物語への付会として「のぼの」の地名が結び付けられたとする説が挙げられている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
 
* 大和の白鳥陵
 
*: 『[[古事記伝]]』では現陵に関する記述が見える<ref name="大和白鳥陵"/>。明治9年([[1876年]])に[[教部省]]により考定された{{Sfn|白鳥陵(国史)}}。伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に[[掖上鑵子塚古墳]](奈良県御所市柏原)に比定する説もある{{Sfn|白鳥陵(国史)}}<ref name="大和白鳥陵">「白鳥陵」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 平凡社、1981年。</ref>。「[[白鳥陵]]」も参照。
 
* 河内の白鳥陵
 
*: 明治8年([[1875年]])に教部省により伊岐宮(現・[[白鳥神社 (羽曳野市)|白鳥神社]])の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年([[1880年]])に現陵([[軽里大塚古墳]]/前の山古墳)に改定された{{Sfn|白鳥陵(国史)}}。現陵は、『河内国陵墓図』では[[木梨軽皇子|木梨軽太子]]の「軽之墓」と記されている{{Sfn|白鳥陵(国史)}}。かつては西方の[[峯ヶ塚古墳]]に比定する説もあったという<ref>「前の山古墳」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』 平凡社。</ref>。「[[白鳥陵]]」および「[[軽里大塚古墳]]」も参照。
 
 
 
== 後裔氏族 ==
 
『日本書紀』の日本武尊系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・[[建部氏|武部君]](稲依別王後裔)、讚岐綾君(武卵王後裔)、伊予別君(十城別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。
 
 
 
『古事記』の倭建命系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・[[建部氏|建部君]](稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別{{sub|宮道之別か}}(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。
 
 
 
『[[新撰姓氏録]]』では、次の氏族が後裔として記載されている。
 
* 左京皇別 犬上朝臣 - 出自は謚景行皇の子の日本武尊。
 
* 右京皇別 [[建部氏|建部公]] - 犬上朝臣同祖。日本武尊の後。
 
* 和泉国皇別 和気公 - 犬上朝臣同祖。倭建尊の後。
 
* 和泉国皇別 県主 - 和気公同祖。日本武尊の後。
 
* 和泉国皇別 聟本 - 倭建尊三世孫の大荒田命の後。
 
 
 
なお、『日本書紀』景行天皇40年条では日本武尊のため「武部(たけるべ)」を定めると見え、これを基に建部(武部)をヤマトタケルの[[名代|名代部]]とする説もあったが、事実としては名代部ではなく軍事的職業部であったとされる<ref>「建部」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref><ref>「建部」『日本古代氏族事典 新装版』 雄山閣、2015年。</ref><ref name="日本書紀"/>。
 
 
 
== 考証 ==
 
{{出典の明記|date=2018年4月|section=1}}
 
=== ヤマトタケル説話の構成 ===
 
[[ファイル:加佐登神社 - 日本武尊像2.jpg|thumb|right|200px|日本武尊の石像<br />(三重県鈴鹿市・加佐登神社)]]
 
ヤマトタケルの物語は、[[吉井巌]]が指摘したように、主人公の名前が各場面で変わるのが特徴である。また、説話ごとに相手役の女性も異なる。加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関連したとわかる。
 
 
 
; 小碓命の物語(近江・美濃を中心とする穀霊伝説)
 
: 妃に野洲の布多遅比売がおり、その子は稲依別王で建部氏や犬上氏の祖であること、[[近江国|近江]]の[[一の宮]]が[[建部大社|建部神宮]]で祭神がヤマトタケルであることなどから、近江=滋賀県がヤマトタケルと関連が深いことがわかる。兄大碓命の封地が美濃であることも考慮すると、近江の伝承は小碓命のものと思われる。碓や稲依別の名からは、穀霊であることが推察できるが、『山城国風土記』などに、碓から生み出される餅が白鳥に変身する話があり、白鳥との関連もみられる。なお、『武智麻呂伝』にはヤマトタケルが伊吹山で、『[[平家物語]]』剣の巻には近江で白鳥となった説話が伝わり、白鳥になる話の根幹が近江にあった可能性は少なくない。
 
; 倭姫・倭ヲグナの物語(大和の幼童神伝説)
 
: 日本には、[[桃太郎]]や[[一寸法師]]など童形の英雄が悪を征伐する説話が多いが、このくだりもそれらに類似するとされる。[[折口信夫]]はそれらの説話の分析により、幼童神的モデルを育てる「小母(おば)」の存在を指摘しており、この場合倭姫がその小母に該当すると見られる。また、少年・ヤマトタケルの女装に関し、様々な文化圏のシャーマニズムに散見される[[異性装]]に相通じると指摘される。
 
; 出雲タケルの物語
 
: 出雲の神門臣の勢力争いの物語の挿入→原型は崇神紀の出雲振根説話
 
; タケル大王・橘姫の物語(関東地方の英雄伝説か?)
 
: 『[[常陸国風土記]]』等には倭武天皇-橘皇后、大橘姫などと表記され、各種の地名起源説話が伝わる。本来は山を象徴する武王と海を表す橘后の神話と推定される。現在でも千葉県などに地名説話が多く残るため、関東に根を下ろした伝承だったと考えられる。
 
; 美夜受媛・草薙剣の物語(熱田神宮を巡る伝説)
 
: 吉井巌は、皇位の象徴である「[[三種の神器]]」のひとつである草薙剣が、なぜ尾張の熱田神宮にあるか説明する物語とする。詳細は[[草薙剣]]の項を参照されたい。
 
; 斎王倭姫の物語(伊勢神宮を巡る伝説)
 
: 死に際の彷徨の物語が、伊勢神宮の神戸の見られる地域で語られ、かつ[[斎宮|伊勢斎宮]]の制度を確立した天武天皇の壬申の乱の際の進軍ルートに重なるため、伊勢との関連が考えられるが、横田健一は『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世記』にヤマトタケルの物語がないことを指摘する。草薙剣に関しヤマトヲグナ説話の登場人物のヤマトヒメと斎王倭姫命を結びつけたため、伊勢地方の説話がヤマトタケルに仮託された可能性も考えられる。
 
; 大御葬の物語(葬礼を司った土師氏の伝承)
 
: 吉井巌は、[[聖徳太子]]の弟で、実在する初の皇族将軍である[[来目皇子]]が出征先の九州で病死したことがモデルになったとし、この葬儀を主導した[[土師氏]]の葬送儀礼が物語に取り入れられたとする。
 
 
 
=== 草薙剣 ===
 
; 記紀
 
: 日本武尊が帯びた剣は、[[天叢雲剣|草薙剣]](草那藝剣)といわれる。出雲で[[スサノオ]]尊が[[ヤマタノオロチ]]を倒した際にその尾から出てきたもので、[[天照大神]]に献上され、[[天孫降臨]]に伴い[[三種の神器]]の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない<ref name=ina>稲田智弘 『伊勢神宮の謎』 学研、2013年、31,32頁。</ref>。本文では一貫して草薙剣と表記され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那藝剣(大刀)とのみ記される。
 
; 働き
 
: 草薙剣は、スサノオ尊の十拳剣の刃が欠ける程の業物だったが、日本武尊が武器として使った記述はなく、実用的な働きは草を薙ぎ払う事のみである。[[平家物語]]においては日本武尊が草を薙いだところ剣は草を三十余町(3km四方)も薙ぎ伏せたとされている。また、草薙剣をミヤズヒメの元に残した日本武尊は、荒ぶる神の影響で病を得、都に戻ることなく亡くなってしまう。このことから倭姫命は、草薙剣を武器としてよりは、霊的な守護の力を持った神器として、日本武尊に渡したとも解される<ref name=ina/>。
 
; 神社
 
: [[尾張国|尾張]]のミヤズヒメの元に遺された草薙剣は、この後、[[熱田神宮]]にて祀られた。『熱田太神宮縁起』によると、日本武尊の死後、ミヤズヒメが衆人と図って社を建て、神剣を奉納したという。[[天智天皇|天智]]7年([[668年]])僧・道行に盗まれ、その後は宮中に留め置かれた。ところが、[[朱鳥]]元年([[686年]])に[[天武天皇]]の病気が草薙剣の祟りとわかり、剣は再び熱田神宮に祀られることになった。熱田神宮にはこのときの剣の帰還をひそかに喜ぶ「酔笑人神事」がある。
 
 
 
== 信仰 ==
 
ヤマトタケルは、[[建部大社]]([[滋賀県]][[大津市]])や、白鳥と化したヤマトタケルが最後に降り立った地に建てられたとされる[[大鳥大社]](大阪府[[堺市]][[西区 (堺市)|西区]])の主祭神として祀られる。どちらもその国の[[一宮]]とされる。なお、大鳥神社(鷲神社)は各地にあり、大鳥大社はその本社とされる。
 
 
 
=== 神社 ===
 
* [[配志和神社]](岩手県[[一関市]])
 
* [[三峯神社 (奥州市)|三峯神社]](岩手県[[奥州市]])
 
* [[駒形神社]](岩手県[[胆沢郡]][[金ケ崎町]])
 
* [[大高山神社]](宮城県[[柴田郡]][[大河原町]]、ヤマトタケルが東征での蝦夷征討で、この地に仮に宮を建てたと伝わる)
 
* [[都都古別神社]]([[福島県]][[東白川郡]][[棚倉町]]、ヤマトタケルが東征の時、この場所を訪れ、神様にお祀りをしたと伝えられる)
 
* [[須川南宮諏訪神社]](福島県福島市、ヤマトタケルが東征でこの地にやって来て、信達湖上を通過したところ大風に遭い、風神である諏訪の神に風が凪ぐことを祈ったところ、風が収まったと伝わる)
 
* [[鹿島御子神社]](福島県[[南相馬市]]、景行天皇の御代(428年)、ヤマトタケルが東征の時、神社の武運長久の祈願ありて、霊験に依り、この地の乱臣賊子は速やかに征服したと伝わる)
 
* [[佐波波地祇神社]]([[茨城県]][[北茨城市]])
 
* [[古峯神社]] ([[栃木県]][[鹿沼市]])
 
* [[白鷺神社]](栃木県[[河内郡]][[上三川町]])
 
* [[高椅神社]](栃木県[[小山市]])
 
* [[三峯神社]]([[埼玉県]][[秩父市]]、ヤマトタケル創建と伝わる。[[神使]]の狼が東征時道案内をしたとされる)
 
* [[柴崎神社]]([[千葉県]][[我孫子市]]、東征の時、安全を祈り、武運長久を祈願したと伝わる)
 
* [[姉埼神社]](千葉県[[市原市]]、ヤマトタケルが当社鎮座地の宮山台で弟橘姫をしのび、風の神である支那斗弁命を祀ったのが起源と伝わる)
 
* [[腰掛神社]]([[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]、東征の途中、ヤマトタケルが腰掛けて休憩したという石を祀る)
 
* [[走水神社 (横須賀市)|走水神社]](ヤマトタケルの父・[[景行天皇]]が尊を祀ったのが起源と伝わる。[[古事記]]では、[[110年]]に尊が走水から上総へ向かう途中、海上で難に遭い、弟橘媛命が身を投じてその難を救ったとされる)
 
* [[武蔵御嶽神社]](東京都[[青梅市]]、東征時追手に追われ白狼に助けられたとの伝承により、御影が犬になっている)
 
* [[吾嬬神社]](東京都[[墨田区]])
 
* [[亀戸浅間神社]](東京都[[江東区]])
 
* [[鳥越神社]](東京都[[台東区]])
 
* [[大鳥神社]](東京都[[目黒区]])
 
* [[皇武神社]]([[神奈川県]][[相模原市]][[中央区 (相模原市)|中央区]])
 
* [[石楯尾神社]](神奈川県相模原市[[緑区 (相模原市)|緑区]])
 
* 甲斐[[酒折宮]]([[山梨県]][[甲府市]]、東征の帰路、立ち寄り、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠んだと伝わる)
 
* [[大御食神社]]([[長野県]][[駒ヶ根市]]赤穂、東征の帰路、赤須彦の娘・押姫と三夜過ごし、別れに際し歌を詠んだと記録に残る)
 
* [[熊野皇大神社]]([[長野県]][[北佐久郡]][[軽井沢町]]、[[長野県|長野]]・[[群馬県|群馬]]両県境の神社)、東征の帰路、濃霧で苦しむヤマトタケルを[[八咫烏]]が助けたことに感謝して熊野神を勧請<ref>『北佐久口碑伝説集北佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会 全434P中268P昭和53年11月15日発行
 
</ref>。
 
* 白鳥神社([[長野県]][[東御市]]、ヤマトタケルが[[白鳥]]となり[[信濃]]に舞い降りたので、そこに宮を創建。[[仲哀天皇]]の勅命にて社名が決定<ref>『中小企業レポート』長野県中小企業団体中央会平成28年1月新年増刊号全136p中2p</ref>)。
 
*[[御霊神社 (海津市)|御霊神社]]([[岐阜県]][[海津市]]、蛇池と呼ばれる大蛇がいる池があり、伊吹山へ向かうヤマトタケルが大蛇退治をし、池の真ん中を埋め立て社殿を建てたと伝わる)
 
* [[山宮浅間神社]]([[静岡県]][[富士宮市]]、東征の途中、賊徒に追い込まれた尊が、富士の神を祈念し窮地を脱したことにより神霊を祀った場所とされる)
 
* [[萱津神社]]([[愛知県]][[あま市]]、東征の途中、人々が漬物を献上したところ、ヤマトタケルが漬物を「藪二神物」と称えたと伝わる)
 
* [[矢作神社 (岡崎市)|矢作神社]](愛知県[[岡崎市]]、東征の途中、盗賊退治のために矢作部に一万本の竹矢を作らせたと伝わる)
 
* [[船津神社]](愛知県[[東海市]]、ヤマトタケルが東征の時、伊勢から船でこの地に着岸したと伝わる)
 
* [[成海神社]](愛知県[[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]]、ヤマトタケルが東征の帰りに、ここから船出して宮簀媛がいる館に向かったと伝わり、元宮の[[天神社]]の伝承ではヤマトタケルは天神社の場所から伊吹山に向けて船で出発したとも伝わる)
 
* [[内々神社]](愛知県[[春日井市]])(ヤマトタケルが東征の帰路、尾張の[[内津峠]](現在の春日井市内津町にある)に入った時、早馬で駆けてきた従者の[[久米八腹]]から、副将軍[[建稲種命]]が駿河の海に落ち水死したとの報告に接し、悲泣して「現哉々々(うつつかな)、現哉々々(うつつかな)」といわれその霊を祀ったのが起源と伝えられる)
 
* [[血塚社 (四日市市)|血塚社]]([[三重県]][[四日市市]]の旧[[東海道]]の[[国道1号]]線沿いの杖衝坂を登ったヤマトタケルが足の血を洗い流したと伝わる)
 
* 能褒野神社(三重県亀山市、ヤマトタケルの御陵であり、明治12年11月10日に旧[[内務省]]により正式に認定される。)
 
* 加佐登神社(三重県鈴鹿市、ヤマトタケルの御陵(白鳥塚)の比定地の一つ、[[本居宣長]]や[[平田篤胤]]などの[[国学者]]はこの地を御陵であると主張していた。ヤマトタケルが死の間際まで愛用していた笠と杖が御神体として同神社に鎮座している)
 
* [[宮崎神社 (北栄町)|宮崎神社]]([[鳥取県]][[東伯郡]][[北栄町]]、ヤマトタケルが西征の時、船で向かうが台風に悩まされる。しかし神助により引寄せるようにこの地に着御したと伝わる)
 
* 須賀神社([[島根県]][[安来市]]、富田八幡宮境内社、スサノオノミコトの須賀の宮に相当するとされる)
 
* [[白鳥神社 (石井町)|白鳥神社]]([[徳島県]][[名西郡]][[石井町]]、仲哀天皇が建てた白鳥の宮。ヤマトタケルの息子息長田別王(阿波国造)が崇拝)
 
* [[白鳥神社 (東かがわ市)|白鳥神社]]([[香川県]][[東かがわ市]]、白鳥となって飛び去ったヤマトタケルが舞い降りたと伝わる)
 
* [[八剣神社 (鞍手町)|八剣神社]]([[福岡県]][[鞍手郡]][[鞍手町]]、ヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐で、この地を訪れた時、村の酋長である田部今朝麿が村人達と共に、ヤマトタケルを手厚くお迎えしたと伝わる)
 
* [[八剣神社 (北九州市)|八剣神社]](福岡県[[北九州市]][[八幡西区]]、ヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐の時、この地に立ち寄ったと伝わる)
 
* [[御山神社 (直方市)|御山神社]](福岡県[[直方市]]、ヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐で、宮居を定め暫し、この地に留まられ、多くの樹木を植えたと伝わる)
 
* [[近津神社]](福岡県直方市、景行天皇平定より8年後、熊襲征討の為、入国したヤマトタケルは、土豪大兄彦が献じた御神器の弓矢をこの地に鎮祭したと伝わる)
 
* [[柿迫神社]]([[熊本県]][[八代市]]、ヤマトタケルが熊襲兄弟の征討に行った時、この地を訪れ、深く奉賽したと伝わる)
 
* [[平田神社]]([[宮崎県]][[児湯郡]][[川南町]]、熊襲兄弟征討の為、幣田川(現平田川)の河口から、御舟で川を上がり、東南の高台の御山に宮居を定め、熊襲兄弟征討の後、再び立ち寄ったと伝わる)
 
* [[本庄稲荷神社]](剣柄稲荷神社、宮崎県[[東諸県郡]][[国富町]]、剣柄の古墳の上に鎮座しており、この古墳は熊襲兄弟の征討でヤマトタケルが熊襲兄弟を刺し殺したとされる短剣の柄を埋蔵したと言われる古墳と伝わる)
 
* [[岩爪神社]](宮崎県[[西都市]]、熊襲兄弟征討の帰りの際、この地に寄り、紀州の大権現に対し戦勝祈願をされたと伝わる)
 
 
 
===その他===
 
[[File:Statue of Yamato Takeru no Mikoto in Kenroku Garden.jpg|thumb|200px|[[兼六園]]の日本武尊銅像([[明治]]紀念之標)]]
 
* 東京都
 
** [[岩蔵温泉]]([[青梅市]]小曽木)、東征での傷を岩倉温泉で癒したと伝わる。
 
** [[御岳ノ神代欅]](青梅市[[御岳山 (東京都)|御岳山]])、東征の折、ヤマトタケルが植樹したと伝わる<ref>『[http://www.ome-tky.ed.jp/kyodo/jindaikeyaki.html 青梅市教育委員会/御岳の神代ケヤキ(国指定天然記念物)]』青梅市教育委員会ホームページ</ref>。
 
* [[石川県]] - [[兼六園]]日本武尊の銅像がある(2003年の[[イグノーベル賞]]を受賞した[[金沢大学]]の[[廣瀬幸雄]]教授の研究の素材となり、ハトが寄り付かないことをヒントにカラス除けの合金を開発した)。
 
* [[愛知県]]
 
** [[一宮市]] - 笠懸の松(大和町)、ヤマトタケルが伊吹山に向かう途中、この地の松に笠を懸け休息したと伝わる。また松林の付近に広がる[[蓮の花]]をヤマトタケルが愛したとの伝承があり、旧暦の[[7月7日]]のこととされている。
 
** [[名古屋市]] - 腰掛岩(中村区岩塚町)、ヤマトタケルが船を待つ間、腰を掛けていたと伝わる。
 
*** [[白鳥古墳 (名古屋市)|白鳥古墳]](名古屋市熱田区)、ヤマトタケルの陵だと伝わっており、能褒野墓から白鳥となって飛び立ったヤマトタケルが、愛する宮簀媛がいる尾張の地にやって来て、松の木にとまった為、その場所に白鳥御陵が出来たと伝わる。
 
*** [[白鳥塚古墳 (名古屋市)|白鳥塚古墳]](名古屋市[[守山区]][[上志段味]])、ヤマトタケルの伝説がある古墳で、ヤマトタケルが伊吹山の賊を征伐に行く途中に蛇に足を噛まれ、噛まれた足の傷口を川で洗っていたところ、一羽の白鳥が現れた。ヤマトタケルが白鳥に尾張に連れて行ってくれと頼み、ヤマトタケルを乗せた白鳥が尾張の[[東谷山]]の麓に着いたところで死んだため、ヤマトタケルがその場所に白鳥を葬った為、その墓が白鳥塚だと伝わる。
 
** [[知多郡]] - 生路井(東浦町生路)、ヤマトタケルが尾張氏の兵と共に東征軍の兵力を整えていた時、この地で兵を引き連れて狩りに出掛け、生路(いくじ)の里を通りかかった。熱い夏だったため、喉が渇き、水飲み場を探すが無く、山にある崖の下の大きな岩が湿っていたので、ヤマトタケルが弓のはずで突き立てると清水が湧き出し泉となり、それが村人から生路井と呼ばれる水飲みや、酒造りの水となったと伝わる。
 
** [[春日井市]] - 馬蹄石(春日井市西尾町)、ヤマトタケルが東征から尾張に帰路し、現在の内津峠に来た時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹から副将軍の建稲種命が駿河の海に落ち水死したとの報告を聞き「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆いた。そして、西尾の地で建稲種命の霊を祭った内津の方を振り返り、馬の尾が西を向いたので「西尾」の地名が付き、馬の[[蹄]]の跡が付いたと伝わる岩盤。「駒返り」とも言われる。
 
*** [[明知町 (春日井市)]]、ヤマトタケルが上記の内津峠と「西尾(馬蹄石)」に続いてこの地を通りかかった時に、ようやく夜が明けて辺りが知れるようになったことから、「明知」の名が付いたと伝わる。
 
*** 御手洗(みたらし・みたらい)遺跡(神屋町御手洗)、ヤマトタケルが、上記の「西尾(馬蹄石)」の場所から熱田に帰路する時、手を洗って休んだと伝わる。
 
* [[岐阜県]]
 
** [[不破郡]] - 居醒水([[関ケ原町]]玉)、伊吹山での大蛇との戦いで傷ついたヤマトタケルが清水を飲み、高熱が醒めたと伝わり、居醒水と呼ばれる。
 
** 養老郡 - 桜の井戸([[養老町]]桜井・みゆき街)、ヤマトタケルが水を飲み、喉を潤したと伝わる井戸。
 
* [[滋賀県]]
 
** 腰掛石・鞍掛石(米原市醒井・中仙道)、ヤマトタケルが腰を掛け、鞍を掛けたと伝わる。
 
* [[三重県]]
 
** [[四日市市]] - 杖衝坂(釆女町)、足洗池(三重命名の池 西坂部町御館)、目洗いの玉葛井(たまかつい 菰野町下村)
 
** [[桑名市]] - 日本武尊尾津前御遺跡、ヤマトタケルが足を洗ったと伝わる平群池(へぐりいけ)、平群神社などがある。
 
* [[兵庫県]] - [[加古川市]] にヤマトタケルが出生時に入れられたとされる器がある。母、[[播磨稲日大郎姫]]の墓とされる[[日岡御陵]]がある。
 
* [[鳥取県]] - [[倉吉市]]に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。
 
* [[佐賀県]] - [[鹿島市]][[藤津郡]]にヤマトタケルがこの地の海岸に至った時、日没となり、船を泊めた。翌朝、見ると、船の綱を大きな藤の蔓に繋いでいた為、「藤津郡」と言う地名が付いたと伝わる。
 
* [[長野県]][[佐久地方]]でヤマトタケルが悪い白鹿を退治した。またヤマトタケルは、濃霧の中で [[八咫烏]]に助けられたので、付近に「烏岩」や「烏川」や 「霧積」の地名がある。そしてヤマトタケルは近くに「熊野皇大神社」を造営した。またこの山で「吾妻者耶」と嘆かれたので「留夫山」(とめぶやま)と呼ぶ。一方、ヤマトタケルが[[軽井沢]]で一泊された場所を「神宿」というが、今は「借宿」(かりやど)と呼ぶ。またヤマトタケルが川を渡るために[[きこり]]が[[橋]]を臨時にかけたので、その橋を「杣の架け橋」と言った。ところで、ヤマトタケルが[[浅間山]]麓を見渡すと広範囲にぽつぽつと民家が見えたので、「遠近里」(おちこちのさと)と称えられた<ref>『北佐久口碑伝説集佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会全434中268P〜295P 昭和53年11月15日発行</ref>。そしてヤマトタケルに随行した「大伴武日連」が[[佐久]]の[[望月]]で他界し、[[埋葬]]した場所を「武陵」(ぶりょう)という。ヤマトタケルが休憩した [[北相木村]]の山を「御座山」(おぐらやま)と呼び、越えられた山を「臨降峠」という。またヤマトタケルは「国師ケ岳」の岩穴に籠られたという [[伝説]]もある<ref>『北佐久口碑伝説集北佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会 全434P中268P昭和53年11月15日発行</ref>。なお、ヤマトタケルは、[[蓼科山]]の大河原峠を超え、[[諏訪]]に出ようとした時、[[白衣]]姿の[[武将]]が[[白馬]]に乗って出現し、道案内をした。武将は「我は[[諏訪明神]]である」と言って消えたという<ref>『北佐久口碑伝説集南佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会 全434P中6P 昭和53年11月15日発行</ref>。
 
* [[福岡県]][[鞍手郡]][[鞍手町]]にヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐しに行った時、一時住んでいたと云わる「熊野宮跡」がある。中山鎮座の八剣神社がある、[[剣岳 (福岡県)]]を登る途中にあり、村人が熊襲建兄弟討伐で来た、ヤマトタケルを手厚くもてなしたので、ヤマトタケルが帰りに再びこの地に立ち寄り、村人は仮宮を建てた。ヤマトタケルは村人の人情風致を褒めたたえ、この地を「中山」、「植木」と命名して帰って行ったと伝わる。
 
** [[田川市]] - 太刀洗いの井戸、ヤマトタケルがこの地方の、土賊・[[猪折]](いおり)を討った後、大刀を洗ったと伝わる井戸。
 
* [[鹿児島県]] - [[霧島市]]に「熊襲の穴」と呼ばれる洞穴がある。[[熊襲]]の首領である熊襲建、川上梟帥の兄弟が居住にしていたと伝われており、熊襲建兄弟の討伐を命じられたヤマトタケルが女装して忍び込み、川上梟帥を誅殺した場所として伝われており、「熊襲の穴」のほか「一名嬢着の穴」とも言われている。
 
 
 
== ヤマトタケルが登場する作品 ==
 
; 小説
 
* 白鳥の王子 ヤマトタケル・シリーズ - [[黒岩重吾]]の小説。
 
* 白鳥異伝 - 荻原規子のファンタジー小説。勾玉三部作2作目。
 
* ヤマトタケル - [[氷室冴子]]の小説。
 
* 日本武尊(ヤマトタケル)SF神話シリーズ - [[豊田有恒]]の伝奇小説。
 
* ヤマトタケル - 文:[[那須正幹]]、絵:[[清水耕蔵]]の物語絵本。
 
* 倭建(ヤマトタケル)-新アスカ伝説3 - [[三田誠広]]の小説。
 
 
 
; 映画
 
* [[日本誕生]] - [[1959年]]に公開された、日本神話を題材にした[[東宝]]の[[特撮映画]]で、[[三船敏郎]]が演じる日本武尊(ヤマトタケル)を中心に物語が展開される内容になっている。
 
* [[ヤマトタケル (映画)|ヤマトタケル]] - [[1994年]]に公開された、ヤマトタケルをモチーフにした主人公が活躍する特撮映画。
 
 
 
; 漫画
 
* [[火の鳥 (漫画)|火の鳥]] - 『ヤマト編』に、ヤマトタケルをモデルにしたキャラクターが登場。
 
* [[ヤマトタケル (漫画)|ヤマトタケル]] - 下記アニメと連動したメディアミックス作品。ストーリーや設定などは違っている。
 
* ヤマトタケル - [[安彦良和]]の漫画。
 
* ヤマトタケル - [[山岸凉子]]の漫画。原作:[[梅原猛]]
 
* ヤマトタケルの冒険 - [[ゆうきまさみ]]の漫画。
 
* ヤマトタケルノミコト([[学研]]まんが人物日本史 21巻) - 監修:[[樋口清之]]、漫画:[[ムロタニツネ象]]
 
* 天翔ける英雄伝説([[週刊マンガ日本史|週刊新マンガ日本史]] 創刊号) - [[和月伸宏]]の漫画。シナリオ:[[氷川まりね]]
 
* バケガミ〜化神〜(読売KODOMO新聞)
 
* カムヤライド - [[久正人]]の漫画。
 
 
 
; アニメ
 
* [[火の鳥 (漫画)#OVA|火の鳥・ヤマト編]] - 上記漫画のOVA化作品。
 
* [[ヤマトタケル (アニメ)|ヤマトタケル]] - 日本神話をモチーフにした[[サイエンス・フィクション|SF]][[ロボットアニメ]]。
 
 
 
; 舞台
 
* [[スーパー歌舞伎]]「ヤマトタケル」 - 演:[[市川猿翁 (2代目)|三代目市川猿之助]]、脚本:梅原猛。
 
* オペラ「[[建・TAKERU]]」 - [[團伊玖磨]]作曲のオペラ。
 
 
 
; 歌
 
* 長野県歌 [[信濃の国]] - 六番の歌詞でヤマトタケが「吾妻はや」と嘆いたことを[[碓氷峠]]の[[序詞]]としている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
'''注釈'''
 
{{reflist|group="注"}}
 
 
 
'''原典'''
 
{{reflist|group="原"}}
 
 
 
'''出典'''
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』『[[風土記]]』([[岩波書店]]日本古典文学大系)
 
* 百科事典
 
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=|chapter=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref=}}
 
*** {{Wikicite|reference=[[川副武胤]] 「日本武尊」|ref={{Harvid|日本武尊(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=石田茂輔 「能褒野墓」(日本武尊項目内)|ref={{Harvid|能褒野墓(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=石田茂輔 「白鳥陵」|ref={{Harvid|白鳥陵(国史)}}}}。
 
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2010|chapter=日本武尊|title=日本古代氏族人名辞典 普及版|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642014588|ref={{Harvid|日本武尊(古代氏族)|2010年}}}}
 
** {{Cite book|和書|editor=|author=[[上田正昭]]|year=2006|chapter=日本武尊|title=日本古代史大辞典|publisher=[[大和書房]]|isbn=978-4479840657|ref={{Harvid|日本武尊(古代史)|2006年}}}}
 
* その他文献
 
**[[吉井巌]]『ヤマトタケル』([[学生社]] 1977年、2004年OD版) ISBN 4-311-90010-4
 
** [[上田正昭]]『日本武尊』([[吉川弘文館]]人物叢書 1985年) ISBN 4-642-05024-8
 
** [[小椋一葉]]『天翔る白鳥ヤマトタケル 古代史II』([[河出書房新社]] 1989年)
 
** [[小林惠子]]『解読「謎の四世紀」』([[文芸春秋]] 1995年)
 
** 編・[[森浩一]] [[門脇禎二]]『ヤマトタケル 尾張・美濃と英雄伝説』([[大巧社]] 1995年)
 
** [[芦野泉]]『白鳥の古代史』([[新人物往来社]] 1994年)
 
** [[谷川健一]]『青銅の神の足跡』([[集英社文庫]] 1989年)
 
** 谷川健一『白鳥伝説』上・下 ([[小学館文庫]] 1997年)
 
** 稲田智弘『伊勢神宮の謎』([[学研]] 2013年)
 
** [[熱田神宮]]宮庁『熱田神宮』
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commonscat|Yamato Takeru}}
 
{{Wikiquote|日本神話}}
 
* [[倭姫命]]
 
* [[建部氏]]
 
 
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:やまとたける}}
 
{{DEFAULTSORT:やまとたける}}
 
[[Category:古墳時代以前の男性皇族]]
 
[[Category:古墳時代以前の男性皇族]]

2018/12/30/ (日) 12:45時点における最新版

ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)

日本の古代史における伝承上の英雄。『古事記』では倭建命と書く。『古事記』『日本書紀』では景行天皇の皇子で,幼名を,オウスノミコト (小碓命) という。武勇に優れていたため,父天皇の命による西方の熊襲征伐には童女に扮して川上梟帥 (かわかみのたける) に近づきこれを討った。そのとき梟帥が,日本で最も強い男という意味からオウスノミコトに「日本武」皇子の名を奉ったという。しかしこれは一個人の名前ではなく,歴史的には何人もの「日本武」がいたものとみられる。その後オウスノミコトは東方の蝦夷平定に向かう途中,天叢雲剣 (あめのむらくものつるぎ。別称草薙剣 ) で野火の難をはらい,走水 (はしりみず) の海では妃のオトタチバナヒメノミコト (弟橘比売命) の入水により海上の難を逃れたが,伊吹山で賊を征伐中,伊勢国の能褒野 (のぼの) で崩じたという。死後その霊は白鳥となり大和に渡ったので当地に陵をつくったが,さらに白鳥は河内に飛び去ったためそこにも陵をつくり,ともに白鳥陵と称したという。このように『日本書紀』は日本武尊の死を「崩」とし,墓を「陵」と記すなど天皇に準じており,また『常陸国風土記』では倭武天皇と記している。



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