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− | {{ infobox 教皇
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− | | 日本語名 = ヨハネス15世
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− | | タイトル = 第137代 ローマ教皇
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− | | 画像 = [[ファイル:Pope John XV.jpg]]|
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− | | 画像説明 =
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− | | 就任 = [[985年]]8月
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− | | 離任 = [[996年]][[4月1日]]
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− | | 先代 = [[ヨハネス14世 (ローマ教皇)|ヨハネス14世]]
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− | | 次代 = [[グレゴリウス5世 (ローマ教皇)|グレゴリウス5世]]
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− | | 司祭 =
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− | | 司教 =
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− | | その他 =
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− | | 本名 = ジョヴァンニ・ディ・ガッリーナ・アルバ<br />Giovanni di Gallina Alba
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− | | 生年月日 = 不明
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− | | 生地 = [[ローマ]]
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− | | 没年月日 = 996年4月1日
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− | | 没地 = ローマ
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− | | 埋葬地 =
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− | | 原国籍 =
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− | | 宗派 =
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− | | 居住地 =
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− | | 親 =
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− | | 妻 =
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− | | 子 =
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− | | 母校 =
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− | | 署名 =
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− | | 曖昧 = ヨハネス
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− | }}
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− | '''ヨハネス15世'''('''Ioannes XV'''、? - [[996年]][[4月1日]])は、[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[985年]] - 996年)。[[ローマ]]生まれ。レオ司祭という人物の子。[[クリュニー修道院]]による教会改革運動の保護者でもあった。
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− | ヨハネス15世が教皇に就任した頃のローマは、ローマ貴族クレッシェンティウス2世の勢力下にあった。しかし[[989年]]に[[神聖ローマ帝国]][[皇帝]][[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]の母にして摂政の[[テオファヌ]]がローマに入城すると、クレッシェンティウス2世らローマ貴族勢力は抑えられ、その状況は[[991年]]まで続いた。
| + | '''ヨハネス15世'''('''Ioannes XV'''、? - [[996年]][[4月1日]]) |
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− | [[993年]][[1月31日]]に[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂|ラテラノ]]で開催した[[教会会議]]にて、ヨハネス15世は[[アウクスブルク]]のウルリヒ[[司教]]の[[列聖]]式を執り行った。この列聖式は[[2月3日]]付けの教皇公文書にて仏独の司教たちに広報したものであった。これが史上初の教皇による列聖となる。 | + | [生] ? |
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− | またヨハネス15世の在任中には、[[フランス王国|フランス王]]による[[ランス (マルヌ県)|ランス]][[大司教]]叙解任に端を発する論争が巻き起こっていた。この混乱は[[叙任権闘争]]の初期段階と位置づけられる。
| + | [没] 996.3. ローマ |
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− | フランス王[[ユーグ・カペー]]は[[カロリング朝|カロリング家]]出身のアルヌルフ([[ロテール (西フランク王)|ロテール]]の庶子)を[[989年]]3月にランス大司教に任命した。しかしアルヌルフはユーグ・カペーを裏切り、叔父の[[ロートリンゲン公国|ロレーヌ公]]シャルルとともに同年9月にランスと[[ラン (フランス)|ラン]]を占領。ユーグ・カペーは反撃して2人を捕らえて[[オルレアン]]に幽閉。[[991年]]6月にランス近郊サン・バールでの教会会議でアルヌルフは叛逆罪により降位させられ、後任にジェルベール(後の[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]])が選出された。
| + | 第137代[[教皇]](在位 985~996)。教皇に選出された 985年は,教皇史上暗黒の時代の一つであり,教皇[[ベネディクツス6世]](在位 973~974)と[[ヨハネス14世]](在位 983~984)が[[対立教皇]]の[[ボニファチウス7世]](在位 974,984~985)に殺害されたとされる事件が影を落としていた。親類を重用するなどの縁故主義と貪欲が目立ち,また一時期,神聖ローマ皇帝[[オットー2世]](在位 967~983)の皇后テオファノの介入があったものの,在位中はローマの有力貴族クレスケンチウス家が実権を握った。ドイツ王[[オットー3世]](在位 983~1002)を味方にしてクレスケンチウス家に対抗しようとしたが,オットー3世の介入前に死去した。史上初めて教皇勅令により列聖式([[列福]])を執り行なった教皇であり,993年に行なった[[アウクスブルク]]の司教ウルリッヒの列聖式の記録が残されている。 |
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− | サン・バール教会会議は教皇使節不在で行われたため、ヨハネス15世はローマから特使を派遣して[[アーヘン]]で教会会議を開催しサン・バール会議の反対決議を採択させようとしたが、アーヘン会議にフランス司教たちは参加せず、集まったドイツや[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ地方]]の司教たちのみにより採択され、ジェルベールを破門とした。インゲルハイムでの会議にもフランス司教たちは参加しなかった。しかもフランス司教たちは[[994年]]にシェル教会会議を開いてアーヘンとインゲルハイムでの決議を無効とした。
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− | ヨハネス15世はシェル教会会議に抗するためローマでの教会会議開催を求めたが、ローマは遠くその道程は厳しいとしてフランス司教たちは参加を拒否。それならばとヨハネス15世は再び特使を遣わしてムーゾンでの教会会議開催を通達。[[995年]][[5月2日]]にムーゾン教会会議は開催。だがフランス側司教はフランス王によって参加が禁止されており、弁明を求めるジェルベール一人のみの参加であった。ムーゾン教会会議ではアルヌルフ罷免の無効が再び宣言された。
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− | しかし皇太后テオファヌが離れたローマでは、金銭欲が強く血縁者を優遇していたヨハネス15世に対するローマ市民の不満が募っており、995年から[[996年]]の間にヨハネス15世はローマから追放される。皇帝オットー3世はローマを回復しようと進軍し、ジェルベールは皇帝に随行した。だがヨハネス15世は皇帝がローマに到着するよりも前の996年4月初旬に熱病で死亡。ランス大司教座の問題を解決する前に没することとなった。
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− | ヨハネス15世の後任には、オットー3世により[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]の曾孫ブルーノが[[グレゴリウス5世 (ローマ教皇)|グレゴリウス5世]]として選出された。
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− | ヨハネス15世は自らのことを「教皇ヨハネス」の第15代目だと自覚し、公文書にも記している。だが、[[ヨハネス14世 (ローマ教皇)|14世]]と15世の間にもう一人「教皇ヨハネス」が存在したという伝説があり、一部の[[歴史家]]はヨハネス15世のことを「16世」ないし「15世(16世)」としていた([[対立教皇]][[ボニファティウス7世 (対立教皇)|ボニファティウス7世]]がこの時期に教皇として君臨していた)。現在この伝説は否定されているが、混乱に起因する[[ヨハネス21世 (ローマ教皇)|21世]]以降の世数は修正されないままである。
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− | {{ローマ教皇|137代:985年 - 996年}}
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| [[Category:教皇]] | | [[Category:教皇]] |
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| [[Category:ローマ出身の人物]] | | [[Category:ローマ出身の人物]] |
2019/4/26/ (金) 09:32時点における最新版
ヨハネス15世(Ioannes XV、? - 996年4月1日)
[生] ?
[没] 996.3. ローマ
第137代教皇(在位 985~996)。教皇に選出された 985年は,教皇史上暗黒の時代の一つであり,教皇ベネディクツス6世(在位 973~974)とヨハネス14世(在位 983~984)が対立教皇のボニファチウス7世(在位 974,984~985)に殺害されたとされる事件が影を落としていた。親類を重用するなどの縁故主義と貪欲が目立ち,また一時期,神聖ローマ皇帝オットー2世(在位 967~983)の皇后テオファノの介入があったものの,在位中はローマの有力貴族クレスケンチウス家が実権を握った。ドイツ王オットー3世(在位 983~1002)を味方にしてクレスケンチウス家に対抗しようとしたが,オットー3世の介入前に死去した。史上初めて教皇勅令により列聖式(列福)を執り行なった教皇であり,993年に行なったアウクスブルクの司教ウルリッヒの列聖式の記録が残されている。
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