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[[ファイル:Allégorie du Concordat de 1801.jpg|400px|right|thumb|[[1801年]]の政教協約([[コンコルダ]])の寓意画
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'''ヨーロッパにおける政教分離の歴史'''(ヨーロッパにおけるせいきょうぶんりのれきし)では、[[ヨーロッパ]]における'''[[政教分離原則]]'''の成立史、すなわちヨーロッパの諸[[国家]]・[[政治]]社会と[[宗教]]([[キリスト教]])との関係性の[[歴史]]について叙述する。ヨーロッパにおいて、[[政教分離原則]]の成立は突発的な歴史事象としてあらわれたのではなく、長い歴史的過程のなかで徐々に進行した結果成し遂げられたものである<ref name="hibino_270">[[#日比野|日比野(1988)pp.270-271]]</ref>。したがってここでは、その成立史を、[[近代]]以前の政治社会にもさかのぼって、その[[国制]]や宗教政策を軸に、社会的背景や[[政治思想史]]・宗教思想史との関連も含めて記述し、ヨーロッパにおいて[[統治機構]]と宗教組織が分離していく過程として説明する。
 
 
 
== 概要 ==
 
{{Main2|近代以前の古代から中世までの政教関係の経緯については、'''「[[初期キリスト教]]」'''・'''「[[古代末期のキリスト教]]」'''・'''「[[中世ヨーロッパにおける教会と国家]]」'''・'''「[[キリスト教の歴史]]」'''を}}
 
 
 
{{Main2|東方正教世界については'''「[[正教会]]」'''・'''「[[東ローマ帝国]]」'''を、正教会における国家と教会の関係を示す政治理念については'''「[[ビザンティン・ハーモニー]]」'''を}}
 
 
 
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冒頭に述べたように、政教分離は突発性をもって説明しうる歴史事象ではなく、[[7世紀]]・[[8世紀]]、[[地中海世界|地中海を中心とした統一的な世界]]が消滅し、[[コンスタンティノープル]]を中心とする東方の正教世界から離れて、[[西ヨーロッパ]]が[[ローマ]]を中心とした[[カトリック]]世界として成立して以来、長い歴史過程のなかで徐々に進行してきた歴史事象である<ref name="hibino_270"/>。
 
 
 
[[国法学]]の[[日比野勤]]は、政教分離を「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と規定しており、その制度的現実化によって「宗教は[[公権力]]の[[彼岸]]に位置づけられ、『私事』として主観的内面性を保障される」としている<ref name="hibino_270"/>。そして、そのうえで、
 
 
 
# 中世ヨーロッパにおける[[叙任権闘争]]
 
# 近世においては[[宗教改革]]に端を発して展開した[[宗教戦争]]
 
# 近代における[[フランス革命]]
 
 
 
の3つの事象を、政教分離を巨視的にみた際の重要な画期として指摘している<ref name="hibino_270"/>。
 
 
 
国家の非宗教性(脱宗教性)については、しばしば「[[ライシテ]]」({{lang-fr|laïcité}})の語も用いられる。ライシテは一般に、国家が[[国教]]を立てたり、特定の宗教を保護したりせずに、複数の宗教が国家ないし政治から自立しながら相互に[[平等]]な地位を保障され、また、そこにおける個人や集団も宗教の選択や[[信教の自由]]が保障される原理、またはその制度という理解が一般的である<ref name="BB">[[#ボベロ2|ボベロ(2009)pp.7-8 訳注(1)]] および [[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.9-13「キーワードの訳語と解説]]」</ref>。換言すれば、ライシテとは公的領域を脱宗教化することで私的領域における宗教の自由を保障しようとする公私二元論であり、これは、宗教的ないし[[民族]]的な出自を問わない普遍的[[市民権]]の土台をなすものである一方、決して、個人の社会的・文化的生活における宗教の役割が小さくなったり、後退したりするという意味(それをしばしば「[[世俗|世俗化]]」という)ではない<ref name="BB"/>。このような原理や制度は、もとより一朝一夕で生まれたものではなく、何世紀にもおよぶゆっくりした歩みの結果、徐々に形成されてきたものである<ref>[[#ボベロ2|ボベロ(2009)pp.15-17]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Pedro Berruguete Saint Dominic Presiding over an Auto-da-fe 1495.jpg|200px|right|thumb|[[スペイン異端審問]]のようす([[1495年]]頃)]]
 
 
 
中世ヨーロッパにおいては、国家と[[教会]]、国権と教権とが分かちがたく結びついて、それが一体のものとなっていたために、[[信教の自由]]は認められず、[[国教]]ないし公認の宗教・宗派以外は「[[異端]]」として刑罰を受け、迫害されてきた(詳細は、'''「[[異端審問]]」'''を参照<ref name="yamano_293">[[#山野|山野(1987)p.293]]</ref>)。[[16世紀]]・[[17世紀]]の[[宗教戦争]]以降、ヨーロッパでは宗教的[[寛容]]と国家の宗教的中立の制度がしだいに広まり、現代においては世俗的な[[立憲国家]]の[[憲法]]原則として広く採用されるところとなっている<ref name="yamano_293"/>。
 
 
 
「信教の自由」との関連では、[[日本国憲法]]を含む多くの近代憲法で、その権利の保障を確実にする手立てとして政教分離原則が採用されている<ref name="iizaka_260">[[#飯坂良明|飯坂良明(1973)pp.260-263]]</ref>。他方、政教分離が信教の自由を維持するために必ずしも不可欠の[[必要条件]]というわけではない<ref name="iizaka_260"/>。[[イギリス]]など国教制を採用する国もあれば、[[スペイン]]など特定宗教に優越的な地位を認めたりする国もあり、そうした国家でもまた、現代では信教の自由を保障する規定を設けている場合が多い<ref name="iizaka_260"/>。とはいえ、信教の自由を徹底させようとするならば、政教分離の裏づけを与えることが望ましいことは言うまでもなく、政教分離のないところでは相対的に信教の自由が侵害されやすい傾向にあることも確かである<ref name="iizaka_260"/>。政教分離は、信教の自由を保障する手段としてヨーロッパにおける国家と宗教の錯綜した関係性のなかで徐々に確立してきたものであり、国家と宗教とがそれぞれ自らに固有の職務と領域に専心することで、宗教が国家から不当な干渉や圧力から守られると同時に、国家もまた宗教の側からの不当な影響から免れることをめざすものである<ref name="iizaka_260"/>。
 
 
 
本項では、[[ルネサンス]]・宗教改革および宗教戦争の時期から、[[絶対王政]]、フランス革命を経て[[国民国家]]が成立するまでの、[[16世紀]]初頭から[[19世紀]]前葉にかけてのヨーロッパにおける政教分離の歴史について説明する。
 
 
 
なお、叙任権闘争をはじめとする中世の政教関係史の詳細については'''「[[中世ヨーロッパにおける教会と国家]]」'''および'''「[[叙任権闘争]]」'''を参照のこと。
 
 
 
== ルネサンス ==
 
{{See also|ルネサンス|イタリア・ルネサンス年表}}
 
[[14世紀]]、[[イタリア半島]]では、船体の改良、新型[[帆船]]の登場、[[羅針盤]]の使用、[[海図]]の制作などが進み、[[地中海]]から[[大西洋]]沿岸をへて北方につらなる航路がひらかれ、さらに[[15世紀]]末には[[イベリア半島]]から[[新大陸]]へと向かう航路がひらかれて、各地をむすぶ[[交易]]が活発化し、商工業がめざましく発展して、その富をもととする都市文化が発展した<ref>[[#樺山|樺山(1996)pp.76-94, pp.322-324]]</ref>。特に北部・中部のイタリア都市において[[市民]]によって発展させられた[[学問]]や[[芸術]]は、15世紀には[[フィレンツェ]]の町を主な舞台として、その内容や様式をめざましく革新した<ref name="saitoh_255">[[#齊藤寛海|齊藤寛海(2008)pp.255-259]]</ref>。この革新は、[[キリスト教]]成立以前の[[古典古代]]文明を意識的に規範としており、それゆえ、この文化ないし文化運動を「[[ルネサンス]]」(「再生」)と呼んでいる<ref name="saitoh_255"/>。
 
 
 
フィレンツェ生まれの詩人[[ダンテ・アリギエーリ]]は、[[13世紀]]末葉から14世紀初頭にかけて都市国家相互および国家内部の峻烈な抗争を体験したところから、その激しい対立を調停するものとしての[[皇帝]]、また、平和を実現する基盤としての普遍的帝国を熱望した<ref name="saitoh_255"/>。彼はフィレンツェ市執政官となりながらも[[亡命]]を余儀なくされ、その旅のなかで名作『[[神曲]]』を著したが、これは、当時、教会用語であった[[ラテン語]]に対し、[[感情]]を直接に表現するものとして「俗語」すなわち彼らの日常語[[トスカーナ語]]を用いた点も大きな特徴であった<ref name="kabayama_38">[[#樺山|樺山(1996)pp.38-40]]</ref>。ラテン語を必要とする職業の人々とりわけ都市国家の[[書記]]として外交文書などを作成する[[公証人]]は、[[修辞]]や語法を学ぶために[[古典]]作品を研究し、そのなかで、[[聖職者]]が説くような人間の悲惨さや罪深さ、あるいは人生のむなしさばかりではなく、市民として[[現世]]を生き、高貴さをも有する現実の人間そのものを肯定する古代の思想にふれ、そして、それに共鳴するようになっていった<ref name="saitoh_259">[[#齊藤寛海|齊藤寛海(2008)pp.259-264]]</ref>。かくして、亡命フィレンツェ人公証人を父にもつ[[ペトラルカ]]のように、市民のなかから、古典の修辞のみならず思想をも研究する「[[人文主義者]]」と呼ばれる一群の人びとが出現したのである<ref name="saitoh_259"/>。ペトラルカも俗語で著作し、こうしてトスカーナ語は洗練され、やがてイタリア各地でラテン語にかわる標準的な[[文語]]の地位を獲得していった<ref name="saitoh_259"/>。ペトラルカの若き友人[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ]]はその俗語作品『[[デカメロン]](10日物語)』において、キリスト教の[[僧侶]]の実態を暴露しつつ、彼らを揶揄している<ref name="saitoh_255"/>。全部で100話ある『デカメロン』収載の「3つの指輪」では、キリスト教、[[ユダヤ教]]、[[イスラーム]]のあいだでその優劣を語ることは無意味であるとしており、そこには他宗教に対する寛容の精神がみてとれる<ref name="saitoh_255"/>。
 
 
 
[[ファイル:Pico1.jpg|180px|right|thumb|[[ピーコ・デラ・ミランドラ]](1463-1494)]]
 
フィレンツェでは、[[1400年]]前後の国家存亡の危機を契機に、人文主義者{{仮リンク|レオナルド・ブルーニ|en|Leonardo Bruni}}が、君主政治に対する共和政治の優越という政治宣伝をおこない、市民の政治への積極的な参加を促した<ref name="saitoh_259"/>。この危機を脱出したのち、フィレンツェでは古代文化への嗜好が急速に普及し、[[美術]]においても[[古代ローマ]]の様式や題材、すなわち非キリスト教的な題材を取り入れた作品が数多く制作されるようになった<ref name="saitoh_259"/>。芸術家たちは個人の表情や性格、風景を正確にえがくために人体や自然をこまかく観察し、幾何学的[[遠近法]]や比例原理([[黄金比|黄金分割比]])などをさかんに研究したが、ここでも[[古代ギリシア]]・古代ローマの[[建築]]や[[彫刻]]が参考にされた<ref name="saitoh_259"/>。[[1439年]]、[[コンスタンティノープル]]の[[東方教会]]とローマの西方教会の合同[[公会議]]がフィレンツェで開催された<ref name="saitoh_259"/>。東方教会の一行には多数のギリシア人古典学者がふくまれていたが、かれらの滞在を契機として[[ギリシア語]]による古典研究がさかんとなった<ref name="saitoh_259"/>。フィレンツェの[[コジモ・デ・メディチ]]は[[マルシリオ・フィチーノ]]に[[プラトン]]はじめギリシア語文献の翻訳を命じ、その周囲に集まった[[プラトン・アカデミー]]のなかには[[ピーコ・デラ・ミランドラ]]の姿もあった<ref name="saitoh_259"/>。ピーコによれば、[[神]]が創造した[[宇宙]]は人間の知性では理解しがたいもので満ちており、人間は信仰と知性とに分裂して不安のただなかにあるものの、しかし、その一方を選択する意志のなかにこそ人間の自由が存し、この自由によって人間は宇宙の中心におかれているのだと説き、師フィチーノの人間中心主義を自由意思の哲学へと発展させた<ref name="saitoh_259"/><ref name="kabayama_148">[[#樺山|樺山(1996)pp.148-149]]</ref>。プラトン哲学の神髄にふれて「人間の尊厳」というアイディアを引き出したピーコは、900におよぶ教説集を準備したが、そのなかにはキリスト教教義にまっこうから逆らうものが13もあるといわれている<ref name="kabayama_148"/>。
 
 
 
[[ファイル:Santi di Tito - Niccolo Machiavelli's portrait headcrop.jpg|140px|left|thumb|[[ニッコロ・マキャヴェッリ]](1469-1527)]]
 
[[1513年]]、前年までフィレンツェ政府書記官であった[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]は『[[君主論]]』の執筆に取りかかった<ref name="kabayama_257">[[#樺山|樺山(1996)pp.257-263]]</ref>。かれは、イタリアの政治的安定を至上命題にかかげたうえで、理想的な君主とは「[[ライオン|獅子]]」のごとき有無を言わせぬ実力と「[[狐]]」のごとき狡知を兼ね備えた人物であると説く<ref name="kabayama_257"/>。そこでは、キリスト教的[[道徳]]から独立した現実主義的な政治論が語られているのである<ref name="kabayama_257"/>。マキャヴェッリはまた、一方では古代の道徳とローマの宗教を復権させている<ref name="baubérot_19">[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.19-22]]</ref>。マキャヴェッリによれば、市民宗教のおかげで、古代ローマの人びとは法にしたがう習慣を身につけたのであり、そこで肯定される宗教とは、のちに[[ジャン=ジャック・ルソー]]が「市民の宗教」と呼称したものに内容として近いものであった<ref name="baubérot_19"/>。これに対し、[[ネーデルラント]]の[[ロッテルダム]]出身の人文主義者[[デジデリウス・エラスムス]]は寛容を称賛している<ref name="baubérot_19"/>。エラスムスの代表作『[[痴愚神礼讃]]』は彼の名とその才智を全ヨーロッパに知らしめた<ref name="kabayama_297">[[#樺山|樺山(1996)pp.297-298]]</ref>。そこでは、人びとの無知をよいことに偽善をはたらく聖職者の腐敗ぶりが徹底的にこきおろされている<ref name="kabayama_297"/>。
 
 
 
[[自然科学]]の領域でも教会の権威をゆるがす学説が登場した。ポーランド出身の司祭[[ニコラウス・コペルニクス]](ミコワイ・コペルニク)は世界で初めて[[地動説]]を唱え、その著作『[[天球の回転について]]』が刊行されたのは1543年、彼の死後まもなくのことであった<ref name="koyama_131">[[#小山哲|小山哲(1998)pp.131-134]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Gutenberg Bible - detail from the New Testament (5371921755).jpg|right|180px|thumb|グーテンベルク印刷の『[[新約聖書]]』(1455年頃)]]
 
15世紀なかば、[[ドイツ]]の[[マインツ]]で、ひとりの[[職人]]が[[金属活字]]を開発し、[[ブドウ]][[圧搾]][[機械]]を転用して[[活版印刷]]の実用化に成功したといわれている<ref name="kabayama_159">[[#樺山|樺山(1996)pp.159-160]]</ref>。これが、「ルネサンスの三大発明」のひとつとされる、世にいう「[[グーテンベルク]]の活版印刷」である<ref name="kabayama_159"/>。活版印刷術はイタリアや[[フランス]]へと波及し、各地にいくつかの印刷センターが生まれたが、そのなかで[[ヴェネツィア]]と[[リヨン]]は重要な拠点であった<ref name="kabayama_159"/>。印刷本は当初はキリスト教関係の書籍が大多数をしめているが、人文主義者による古典のテキストも少なくなかった<ref name="kabayama_159"/>。いずれにしても、活版印刷の発明は、文献そのものがそれまでのせまいサークルや特権的な[[ギルド]]のなかで専有されるのではなく、いわば「解釈の市場」が開発されるという意味できわめて大きな影響力をもつ、革命的な出来事だったのであり、それは[[宗教改革]]・[[宗教戦争]]あるいは[[啓蒙主義]]・[[市民革命]]など、時代がすすむにつれていっそう重大な社会的影響をヨーロッパ社会におよぼしていくこととなった<ref name="kabayama_159"/>。
 
 
 
== 宗教改革と宗教戦争 ==
 
{{Main|宗教改革|プロテスタント}}
 
西ヨーロッパにおけるキリスト教は、教会の明確な多元性を創出した[[プロテスタント]](「抗議する者」)の[[宗教改革]]とともに分解し、政治と宗教の関係はそこから大きく変化していった<ref name="baubérot_19"/>。
 
 
 
[[宗教改革]]は純粋に[[宗教]]内部の問題から出発したにもかかわらず、すぐに世俗的問題と結びついてヨーロッパ近代思想の成立にも影響を及ぼした。宗教改革が[[主権]]国家を単位として宗教生活を規定する方向に進んだことは、普遍的な[[キリスト教]]世界に立脚していた一つの教会という理念を崩壊させ、教権の基盤を脅かした。近代にはいると、すでに教権は各主権国家に対して優位性を主張することができなくなり、今日まで続く国民を単位とした政治社会が形成される端緒となった。一方、思想面においては内面の自由、良心の自由が以後、おおいに問題とされることになる。
 
 
 
=== ドイツの宗教改革 ===
 
[[ファイル:Lucas Cranach (I) workshop - Martin Luther (Uffizi).jpg|180px|right|thumb|[[マルティン・ルター]](1483-1546)
 
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「95カ条の論題」を発表して<ref group="*">従来説のようにヴィッテンベルク城の聖堂の扉に掲載されたという説は現在疑問視されている。</ref>、贖有がもたらす宗教的危機を指摘した。これは当初の予想をこえて教義論争に発展した。]]
 
 
 
[[1517年]]アウグスティノ修道会士であった[[マルティン・ルター|ルター]]が当時、[[サン・ピエトロ大聖堂]]改修資金として販売されていた[[贖宥状]]を批判した「[[95ヶ条の論題]]」を提示し、さらに[[行為義認]]でなく信仰によってのみ義とされると唱える[[信仰義認]]や、[[万人祭司]]を主張してカトリックの教階制(聖職位階制)を否定し、教会は全信徒によって構成されるものとする[[宗教改革]]がはじまった<ref name="ozakihideo">尾崎秀夫「教会」歴史学事典,弘文堂</ref><ref name="yamauchi92">[[#山内|山内(2001)pp.92-104]]</ref><ref name="hase27">[[#長谷川2|長谷川(1997)pp.27-36]]</ref>。
 
 
 
「95ヶ条の論題」は活字印刷されて反響を呼び、1518年8月、ルターは2か月以内にローマに出頭せよという命令を受けるが、これを拒否し、同年10月の教皇使節カエタヌス枢機卿の審問では自説の撤回を頑強に拒んだ<ref name="hase27"/>。翌年の[[ライプツィヒ討論]]ではさらに、[[公会議]]の無謬性を否定し、ローマ教会との断絶を宣告するにいたった<ref name="hase27"/>。1521年、教皇はルターを破門し、ルターと彼を支持する人びと([[ルター派]])はカトリックから分離した<ref name="hase27"/>。これに対し、[[ザクセン選帝侯]]の[[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]](賢公)はルターを保護した<ref name="hase27"/>。「論題」発表当初は贖宥状をめぐる僧職どうしの内輪もめと世間に受け取られていたが、やがて教皇首位権が主要な争点になると、人文主義者も続々とこの論争に関与するようになった<ref name="yamauchi92"/><ref name="hase27"/><ref name="morit234">[[#森田2|森田(2009)pp.234-237]]</ref>。
 
 
 
==== ルターの思想 ====
 
{{Main|マルティン・ルター}}
 
[[マルティン・ルター|ルター]]の思想は古代([[初期キリスト教]])の[[アウグスティヌス]]の思想から決定的な影響を受けている<ref name="hase27"/><ref group="*">ただし、ルターはアウグスティヌスの教会論を意図的に斥けているようにみえる。アウグスティヌスはドナティストとの論争において、彼らが教会に分裂をもたらしかねないことが問題であるとした。教会は唯一であるべきというのが彼の考えであった。[[#マクグラス|マクグラス(2008)pp.103-112]]</ref>。その要点を示すと、信仰における個人主義と内面の尊重、[[自由意志]]の否定、「{{仮リンク|二王国論|en|Two kingdoms doctrine}}」である<ref name="demura_59">[[#出村|出村(2001)pp.59-68]]</ref>。
 
 
 
ルターはアウグスティヌスに従って人間の[[原罪]]を重視し、人間は本質的に罪人である上に神の絶対的支配の下にあるのだから、神の意志を超えた人間の意志による善行があるとすれば、それによって救われるのではないとして自由意志を否定し、ただ神の[[恩寵 (キリスト教)|恩寵]](恵み)によってのみ救われることが可能であるとした<ref name="hase27"/><ref name="kume_203">[[#久米|久米(1993)pp.203-210]]</ref>。これは善行を積むことによって救われると説く当時のカトリック教会に異を唱えるものであった<ref name="kume_203"/>。そして、この神の恩寵に与るためにはひたすら神を信頼し、信仰を寄せることによって救いに至ることができるとした<ref name="demura_59"/>。すなわち、これが、上述した「[[信仰義認]]」であり、ルターは「[[塔の体験]]」を通じて、神の義とは、神が罪人を罰する「能動的な義」ではなく、罪人が罪あるままで神から無償の賜物として与えられる義、すなわち「受動的な義」であることに目覚めたのである<ref name="kume_203"/><ref group="*">信仰義認説それ自体は、決して反カトリック的というわけではなかった。[[1511年]]に枢機卿コンタリーニがルターとは無関係にこの結論に達しており、同時代では[[イングランド]]の[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー女王]]のもとで[[カンタベリー大司教]]であった枢機卿ポール、人文主義者でケルン司教区の改革に従事していたグロッパーなどが個別に信仰義認説に到達している。コンタリーニ、グロッパーなどカトリック穏健派は、論争に際してはルターとの和解を模索している。</ref>。そして、この神と個人との間に介在するものはなく、ここから[[万人司祭主義]]、神の前での信仰における人間の平等、聖職者の特権の否定が説かれる<ref name="morit234"/><ref name="demura_59"/>。従来、教義を含めた信仰の根拠は教会に求められていたのに対し、ルターはそれを[[聖書]]にあるとする。たとえ教会の教えであっても聖書に記載のないものは神の言葉ではないとルターは主張する<ref name="morit234"/><ref name="demura_59"/>。「[[聖書のみ]]」の考え方がそれで、聖書に根拠のない[[マリア崇拝]]や[[煉獄]]、[[秘蹟]]を排除して、一方では聖書を[[ドイツ語]]訳して一般信徒も読めるようにし、教会が独占していた聖書の解釈も万人が自由におこなってよいと述べた<ref name="hase27"/><ref name="kume_203"/>。以上のように、ルターは聖書解釈や信仰における教権の優位性を否定した<ref name="baubérot_19"/><ref name="demura_59"/>。ただし、ルターは神の言葉への奉仕者としての[[牧師]](教師)職は必要と考えた<ref name="kume_203"/>。
 
 
 
[[ファイル:Lutherdenkmal Worms 1900.jpg|350px|left|thumb|ルター像
 
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[[ヴォルムス]]にある。中央のひときわ高い位置に立つのがルター像。チューリヒのツヴィングリ像が自ら剣を持ち武装していたのに対し、この像ではルター自身は剣を持たず、側に控える[[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ賢公]]が武装している。]]
 
政治社会との関係でいえば、「二王国論」が重要である<ref name="baubérot_19"/>。ルターは神がこの世界に二種の支配(2つの王国)を作り出したといい、一つは霊的な教会で、目に見えないものであり、かつキリスト教徒のみに許されているという。もう一つは世俗的な剣の支配で、これはキリスト教徒に限られず、世界のあらゆる民族を包含している。ルターはキリスト教に反しない限り世俗支配は積極的に受け入れるべきであると説くが、一方、教皇もしくは[[皇帝]]が違反した場合にはこれに抵抗することができるとしている<ref name="hase27"/>。すなわち、ルターは、キリスト教世界の問題としてこれを考えていたにもかかわらず、宗教権力の優越という考え方には異議を唱え、結果的に政治的なものを利することになったのであり、ある意味では、政教分離の強力な推進者となった<ref name="baubérot_19"/>。とはいえ、ルターはあらゆるキリスト教徒が抵抗の主体となることを認めているわけではなかった。抵抗の主体となりえるのは、自らの領民をキリスト教のもとに保護する責務がある[[諸侯]]のみである<ref name="hase27"/>。しかも世俗法においては皇帝と諸侯は[[契約]]によって関係を結んでいるのだから、同等であるとする。[[農民]]などの民衆は皇帝と対等ではないので、抵抗すれば反乱となる<ref name="demura_59"/>。これは結果として信仰における諸侯の絶対的権限および[[領邦教会制度]](後述)を理論的に認めるものであり、ルターの社会的・政治的見解は、このようにきわめて保守的なものであった。
 
 
 
==== 福音主義運動としての宗教改革 ====
 
{{See also|騎士戦争|ドイツ農民戦争}}
 
ルターの宗教改革は、[[福音主義]]運動という性格を濃厚に有しており、その教義はルター個人の思想を超えてはるかに複雑な様相を呈した<ref name="hase27"/><ref name="scdix_21">[[#スクリブナー|スクリブナー&ディクソン(2009)pp.21-31]]</ref>。このことは、一つには、聖職者に対する失望と幻滅の長い歴史の産物でもある、一般信徒における根深い反聖職者主義が援用されたことにも由来している<ref name="scdix_21"/>。聖職者たちは、[[偽善]]、[[暴君]]的行為、[[詐欺]]をはたらき、あるいは一般信徒の宗教心を食いものにし、不当な報酬請求や不必要な取り立てで人びとを困窮させているという理由で攻撃の対象となった<ref name="scdix_21"/>。かれらは、「福音の敵」すなわち[[悪魔]]の同盟者として描かれ、その最たるものがローマ教皇その人とされたのであった<ref name="scdix_21"/>。教皇は悪魔の目的のためにドイツの人びとを[[搾取]]するものであって、地理的にも、形而上学的にも「外部の人」とされたのである<ref name="scdix_21"/><ref name="hase17">[[#長谷川2|長谷川(1997)pp.17-27]]</ref>。逆にいえば、俗人は救いのためにもはや聖職者を必要とせず、キリスト教徒は個人において聖書を通じて神と直接出会い、救いを自由に得られることでもあった<ref name="scdix_21"/>。
 
 
 
[[1520年]]、ルターは宗教改革の三大文書、『教会のバビロン捕囚』『[[キリスト者の自由]]』『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』によって改革の理論と実践を固めた<ref name="yamauchi92"/>。とくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』では、ドイツの諸侯に対し、その職務に基づいて改革運動に加わるよう呼びかけたため、結果的に政治への関与を促した<ref name="yamauchi92"/>。ローマ教皇[[レオ10世]]は1520年6月、ルターの教説を批判する勅書を発布したが、ルターはこれを公然と火中に投じ<ref name="yamauchi92"/><ref name="kume_203"/>、1521年1月、上述したようにレオ10世はついにルターを破門した<ref name="yamauchi92"/>。ルターをかくまったフリードリヒ賢公は、神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]](スペイン王としてはカルロス1世)と交渉して、皇帝の保障する安全通交証のもとに[[ヴォルムス帝国議会 (1521年)|ヴォルムス帝国議会]]でルターを査問させることとした<ref name="yamauchi92"/>。
 
 
 
1521年4月17日、ルターはヴォルムス帝国議会で査問を受けた<ref name="yamauchi92"/>。彼がここで主張の撤回を拒否して「私はここに立つ」とその決意を述べたことはよく知られている<ref name="yamauchi92"/><ref name="kume_203"/>。皇帝カール5世は1521年5月26日、[[ヴォルムス勅令]]を発し、ルターとその教説にしたがうこと、その著作を印刷、頒布することを禁じ、ルターを異端者として処罰すること、ルター逮捕に協力した者に報酬をあたえることなどを伝えた<ref name="yamauchi92"/>。
 
 
 
[[ファイル:Thomas Muentzer.jpg|thumb|180px|right|ドイツ農民戦争を指揮した[[トマス・ミュンツァー]](1489-1525)]]
 
宗教改革はしかし、決してルター個人によって担われたわけではなかった<ref name="scdix_1">[[#スクリブナー|スクリブナー&ディクソン(2009)pp.1-7]]</ref>。上述したエラスムスや[[ジャック・ルフェーヴル・デタープル]]といった人文主義者はさかんに聖書の翻訳や解釈をおこない、宗教改革の温床となった<ref name="kume_203"/>。宗教改革が「エラスムスが卵を産み、ルターがそれを孵化した」といわれる所以である<ref name="kume_203"/>。すでに宗教改革を予告するような思想を表明していたエラスムスはローマ教会の外形的な儀式などはどうでもよいものとして退け、当初はルターに対しても好意を示していたが、「自由意思」の問題をめぐってルターと鋭く対立、ルターからの反論もあって1524年には決別した<ref name="hase27"/>。後述する[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]、一時期ルターを支持するがのちにツヴィングリのもとに逃れる[[ウルリヒ・フォン・フッテン]]、ルターの思想の体系化に尽力した[[フィリップ・メランヒトン]]、また、{{仮リンク|ヨハン=エバーリン・フォン・ギュンツブルク|en|Johann Eberlin von Günzburg}}なども大きな役割を果たした<ref name="scdix_1"/>。ルターのもとに集まった人たちのなかで、メランヒトンはルターとほぼ同じ路線で改革を進めたが、聖職者の独身制を廃止し、より簡素な[[ミサ]]を始めたヴィッテンベルクの教授{{仮リンク|アンドレアス・カールシュタット|en|Andreas Karlstadt}}はルターと対立するまでとなり、さらに「すべての聖職者を殺せ」と主張するツヴィカウ急進派などもあらわれた<ref name="yamauchi92"/>。「[[ツヴィカウ]]の[[預言者]]」と呼ばれる一群のこうした過激な行動をルターは抑えようとしている<ref name="yamauchi92"/>。
 
 
 
1522年、ルター支持の困窮する騎士階級・貴族階級の人びとがフッテンらの指導の下で蜂起した<ref name="hase27"/>。かれらはドイツの自由と真の信仰の実現を求めて各地で戦闘したが、1年後に鎮圧された<ref name="hase27"/>。これが「[[騎士戦争]]」である。また、「ツヴィカウの預言者」のひとり[[トマス・ミュンツァー]]は、大胆な社会変革なしに宗教上の改革は実現不可能だとして立ち上がり、これに共鳴した貧農が大規模な農民一揆を起こし、ミュンツァーがこれを指導して[[ドイツ農民戦争]](1524年-1525年)へと発展していった<ref name="yamauchi92"/><ref name="hase27"/>。ここでは、農民たちによって牧師を自由に選択する権利、教会税の軽減、[[農奴制]]の廃止が要求事項として掲げられた<ref name="hase27"/>。ルターは当初農民に同情的だったが、現世の国のことは世俗権力に委ねるべきだとし、戦闘をやめない農民を「狂犬」と呼んでシュヴァーベン同盟軍による農民鎮圧に加勢した<ref name="yamauchi92"/><ref name="hase27"/>。ミュンツァーとルターの対立は決定的となり、ルターはミュンツァーを「アルシュテットの悪魔」と呼び、ミュンツァー側は諸侯に対して妥協的なルターを「うそつき博士」と罵倒した<ref name="yamauchi92"/><ref group="*">ルターはそれまで懐疑的にみていた国家を、今度は神の作ったものとみなして君主の絶対的な権力を正当化し、最悪な君主にも従わなければならないとした。このような国家観・君主観の激変は、ルターの激情家ぶりを物語っており、かれは結婚の意志を直前まで再三否定していたにもかかわらず、1525年に突如、若い元修道女と結婚して世間を驚かせている。[[#長谷川2|長谷川(1997)p.32]]</ref>。
 
 
 
==== シュマルカルデン戦争 ====
 
{{Main|シュマルカルデン同盟|シュマルカルデン戦争}}
 
[[ファイル:Elderly Karl V.jpg|180px|left|thumb|神聖ローマ皇帝カール5世(1500-1558)
 
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父方は[[ハプスブルク家]]、母方はスペイン王家の出身で、[[フランドル]]の[[ヘント]]生まれ。スペイン王としてはカルロス1世、神聖ローマ皇帝としてはカール5世。ドイツにいることは少なく、[[ドイツ語]]を話せなかったといわれる。]]
 
 
 
[[1526年]]、ルターに対してそれまで敵対的であった皇帝カール5世は、[[スレイマン1世]]率いる[[オスマン帝国]]の脅威がせまるなか、諸侯の協力が不可欠とみて、[[シュパイアー帝国議会]](第一次)をひらいてルター派諸侯の領内での宗教改革を許した<ref name="hase27"/>。ザクセン選帝侯はさっそく、ルターに領内の教会の組織化を命じ、[[1528年]]、[[ザクセン州|ザクセン]]の各教区を州知事が任命する牧師にまかせて、同時に教会巡察制度を設けた<ref name="hase27"/>。他の改革派諸侯もこれにならってルター派教会が各地に広がっていった<ref name="hase27"/>。[[巡礼]]、贖宥状、[[聖人]]崇拝、[[聖遺物]]崇敬、兄弟会などの習俗は廃止されたが、実際に領邦教会制度が始動したのはこのときであった<ref name="hase27"/>。
 
 
 
[[1529年]]、カール5世は再度シュパイアー帝国議会(第二次)を開催したが、ここではカトリック諸侯の巻き返しにより、宗教改革の自由は取り消され、ヴォルムス勅令が復活した<ref name="hase27"/>。この措置に対し、改革派の諸侯と帝国都市が抗議(プロテスト)した。これが、「[[プロテスタント]]」の名の起こりである<ref name="hase27"/>。
 
 
 
[[1530年]]、カール5世は[[アウクスブルク]](現、[[バイエルン州]])に帝国議会を招集した。この議会では両派の歩み寄りの努力がされたが、結局決裂した。さらに同議会ではルター派の側から穏健ルター派メランヒトンの手になる「[[アウクスブルク信仰告白]]」が提出されたが、ツヴィングリやシュトラースブルク([[ストラスブール]])などの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世は1521年のヴォルムス勅令を厳しく執行するよう命じた{{Sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1996|pp=461-464}}。
 
 
 
[[ファイル:Augsburger-Reichstag.jpg|300px|right|thumb|アウクスブルク帝国議会([[1530年]])
 
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この議会ではプロテスタントとカトリックの歩み寄りが期待されていたが、結局はカトリック側の主張がほぼ一方的に認められた形となった。]]
 
これに対してプロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後に{{仮リンク|シュマルカルデン|de|Schmalkalden}}(現、[[テューリンゲン州]])に集まり、皇帝とカトリック諸侯に対抗するための軍事同盟結成を協議し、翌[[1531年]]2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とする[[シュマルカルデン同盟]]が結成された<ref name="hase27"/>。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し[[1532年]]にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツの[[ヴュルテンベルク公]]領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが[[1534年]]に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、[[1539年]]にザクセン公と[[ブランデンブルク選帝侯]]がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派以外の改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協しプロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側も[[ニュルンベルク]]で同盟を結成し、プロテスタントに対抗した{{Sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1996|pp=461-464}}。
 
 
 
カール5世は対外的な事情から情勢を静観していたが、フランスとの講和がなると一転ドイツ国内の問題に専心するようになった。[[1546年]]にはルターが死去し、同年ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年[[シュマルカルデン戦争]]をおこし、シュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された<ref name="hase27"/>。皇帝は西南ドイツの帝国都市の[[ツンフト]]が宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策をみて、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、息子フェリペ(のちのスペイン王[[フェリペ2世]])にドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した{{Sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1996|pp=461-464}}。
 
 
 
==== 諸侯戦争とアウクスブルクの宗教和議 ====
 
{{main|アウクスブルクの和議}}
 
[[ファイル:Druck Augsburger Reichsfrieden.jpg|200px|right|thumb|アウクスブルク宗教平和令
 
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[[1555年]]に[[マインツ]]で印刷された版本の表紙]]
 
このような情勢のなか、ザクセン公が再び反皇帝・プロテスタントの側に転じ、[[1552年]]におこった諸侯戦争([[第二次辺境伯戦争]])ではカール5世の軍を破り、[[パッサウ条約]]を結んで「[[アウクスブルク仮信条協定]]」を破棄した。この敗北からカール5世は弟の[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]](のちの[[神聖ローマ皇帝]]フェルディナント1世)に宗教問題の解決を任せ、[[1555年]]にアウクスブルク帝国議会をひらいて、[[アウクスブルクの和議|アウクスブルク宗教平和令]]を決議させた<ref name="hase27"/>。
 
 
 
これにより諸侯は、カトリック教会かルター派教会のいずれかを選んでそれを領民に課す権利を得た<ref name="hase27"/>。同時に、カトリックとルター派は信仰を理由とした暴力の行使を禁止されたものの、カルヴァン派やツヴィングリ派は信仰の自由の対象から除外された<ref name="yamauchi92"/>。また、この平和令により諸侯の信仰の自由が認められ、領民はそれに服するべきであるとされ、やがて「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("''Cuius regio, eius religio''")」の原則のもと、諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができる[[領邦教会制度]]が成立した<ref name="yamauchi92"/><ref name="watanabe">[[#渡辺昭子|渡辺昭子(2005)pp.399-400]]</ref><ref name="hatsu">[[#初宿|初宿(2002)pp.86-97]]</ref>。ただし、帝国自由都市においてはカトリック、ルター派の両派が共存できることとした<ref name="yamauchi92"/>。また、大司教などの聖職者が改宗した場合にはそのすべての権限を失い、領地を放棄してカトリック教会に明け渡す必要があるとした一方、パッサウ条約(1552年)時点でルター派のもとにあったすべての財産はそのままとすることとした<ref name="yamauchi92"/>。前者は、「{{仮リンク|聖職者に関する留保|en|reservatum ecclesiasticum}}(教会的留保、教会領維持)」の原則と呼ばれるものであり、事実上、カトリック司教の改宗の禁止を意味していた<ref name="yamauchi92"/>。この規程は、のちに三十年戦争にいたる対立の原因となった<ref name="nakamura">[[#中村賢二郎2|中村賢二郎(1984)p.85]]</ref>。
 
 
 
==== 領邦教会制度の確立とルター派教会の広がり ====
 
領邦教会制は宗教を政治に従属させるもので、[[領邦国家]]の自立を教皇も皇帝も認めざるをえなかったため、ドイツの宗教改革における真の勝利者は領邦君主であったともいわれる<ref name="yamauchi92"/>。領邦君主は[[カロリング朝]]や[[リウドルフィング家]]のオットー朝のように「キリストの代理人」として教会を支配したわけではなく、端的には世俗国家による宗教管理であり、その意味からは聖俗分離の帰結であり、信仰の個人化と政治の世俗化の進行を促すものであった<ref name="yamauchi92"/>。アウクスブルクの宗教和議は、神聖ローマ帝国という1つの政治単位のなかに、従来のカトリック教会とはまた別に新しい教会としてルター派教会([[ルーテル教会]])を認め、2つの信仰共同体に対等な法的地位を認めたことに画期性が認められる<ref name="demura_59"/>。ここでは、個人における[[信教の自由]]は保障されるべくもなかったが、にもかかわらず国制における宗教多元化の第一歩だったからである<ref name="demura_59"/>。他方、カトリック教会も中世以来の世俗権力を有しており、[[トリアー]]、[[ケルン]]、[[マインツ]]の[[大司教]]は[[神聖ローマ帝国]][[選帝侯]]でもあった<ref name="bunkacho">[[文化庁]]「[http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/shumu_kaigai/pdf/h20kaigai.pdf 海外の宗教事情に関する調査報告書]」平成20年3月</ref>。このようにドイツの領邦教会制では、中世の国家・教会関係が、大枠においては継承されたのであった<ref name="kabayama">[[#樺山|樺山(2005)「キリスト教と国家」]]</ref>。
 
 
 
ルター派教会はドイツからさらに北方の諸地域へと広がり、現在でもなお[[デンマーク]]、[[スウェーデン]]、[[ノルウェー]]、[[フィンランド]]では「国教会」としての地位を得ている<ref name="demura_59"/>。これらの地域では、カトリックからルター派へと信仰が置き換わったものの、2つの教会のあいだに強い同延性がみとめられた<ref name="demura_59"/>。これらの地域で教会堂の内部にルターの巨大な立像を見かけることが多いのも、そうした同延性の原則が保持されてきた現れとみなすことができる<ref name="demura_59"/>。
 
 
 
=== スイスの宗教改革 ===
 
{{See also|スイスの宗教改革}}
 
ドイツでルターによって[[宗教改革]]の火蓋が切られた頃、[[スイス]]でもほぼ同時に[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]によって[[福音主義]]的改革が進行していた。ツヴィングリは改革の半ばで戦場に斃れ、その事業は頓挫したが、[[ジュネーヴ]]に[[ジャン・カルヴァン|カルヴァン]]が現れ、より厳格な改革を実行した。当初は非常に不寛容で妥協を許さなかったカルヴァン主義であるが、各国で政治権力により迫害を受けるようになると、「寛容」を主張して変貌し、やがて近代的な[[政教分離]]の主張を展開していくことになる{{Sfn|福田歓一|1985|pp=247-248}}。
 
 
 
==== ハプスブルク家との抗争とスイスの政治的独立 ====
 
スイスの建国神話として今日一般に[[ウィリアム・テル|ヴィルヘルム・テル]]の物語が知られるが、これはスイスの国民意識が高まった[[15世紀]]中ごろに世に広まりはじめたものであると考えられている<ref name="saitoh">[[#斎藤泰|斎藤泰(1999)p.19]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Bundesbrief.jpg|280px|right|thumb|「永久同盟」文書
 
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1291年8月1日、ウーリ・シュヴィーツ・ニトヴァルデン三者がハプスブルク家を意識しつつ、相互援助を約した。現在のスイスでは、この同盟締結の年を建国の年とし、8月1日が建国記念日にあたる。]]
 
1200年ころ、[[ゴッタルド峠]](ザンクト・ゴットハルト峠)が開削されると、多くの商人がこの新しい峠を好んで利用するようになり、それまで周囲から隔絶され、僻地とされてきた[[ウーリ州|ウーリ地方]]は、一転交通の要衝とみなされるようになった<ref name="morita36">[[#森田|森田(1998)pp.36-44]]</ref>。[[ホーエンシュタウフェン朝]]の神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]は、この地の支配権を[[ハプスブルク家]]に担保として提供し、イタリア政策の遂行資金にあてようとしたが、峠の開通で比較的富裕になっていたウーリの住民は自力で抵当を解除した<ref name="morita36"/>。[[1231年]]、フリードリヒ2世によってドイツ統治を任されていた[[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ]]は証書を発給してウーリは「帝国自由」(帝国直属)の地位を獲得することができた<ref name="morita36"/>。これにより、ウーリは近隣領主の支配を受けず、「自由と自治」を享受することができるようになったのである<ref name="morita36"/>。[[1239年]]には同じく[[シュヴィーツ州|シュヴィーツ地方]]も帝国直属の地位を獲得した<ref name="morita36"/>。[[ニトヴァルデン準州|ニトヴァルデン]]、[[オプヴァルデン準州|オプヴァルデン]]の両渓谷地方(合わせて[[ウンターヴァルデン]]という)も、ウーリやシュヴィーツと同等の地位を願ったがこれは簡単ではなく、[[1291年]]8月1日、ウーリ、シュヴィーツ、東部のニトヴァルデンが「永久同盟」を結び、同年12月には西部のオプヴァルデンも盟約に加わった<ref name="morita45">[[#森田|森田(1998)pp.45-55]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Bendicht Tschachtlan, Die Schlacht am Morgarten (c. 1470).jpg|180px|left|thumb|[[モルガルテンの戦い]](1315年)
 
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1470年の『{{仮リンク|チャフラン年代記|en|Tschachtlanchronik}}』の挿絵
 
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[[1314年]]冬、放牧地を巡る争いからシュヴィーツがアインジーデルン修道院を襲撃すると、これを口実にハプスブルク家の[[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ3世]](美王)は[[1315年]][[11月15日]]大軍をもってスイスに侵攻したが、原初三邦(ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンをスイス形成の核になった地域という意味でこう呼ぶ)の農民軍はモルガルテン山からの奇襲攻撃によってこれを壊滅した([[モルガルテンの戦い]])<ref name="morita45"/>。こののち、[[12月9日]]には盟約が更新され、スイス盟約者団はさらに結束を強化した<ref name="morita45"/>。[[14世紀]]には、[[ルツェルン]]([[1332年]])、[[チューリヒ]]([[1351年]])、[[グラールス]]([[1352年]])、[[ツーク]](1352年)、[[ベルン]]([[1353年]])の各地域が原初三邦の盟約に加わり、八邦同盟の時代と呼ばれた<ref name="morita45"/>。ただし、八邦同盟は決して一枚岩ではなく、内容も質も異なる複数の盟約のゆるい結合であり、すべての同盟に加わっているのは原初三邦だけであった<ref name="morita45"/>。こののち14世紀から[[15世紀]]を通じて、スイス盟約者団とハプスブルク家との抗争は続き、15世紀に入るとその力関係は逆転、盟約者団はハプスブルク家の勢力をスイスから駆逐していった<ref name="morita45"/><ref name="morita55">[[#森田|森田(1998)pp.55-64]]</ref>。
 
 
 
[[1499年]]、ハプスブルク家出身の皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]がスイス盟約者団によって古領を奪われたとして戦争を仕掛けたが({{仮リンク|シュヴァーベン戦争|de|Schwabenkrieg|en|Swabian War}})、盟約者団はこれを撃退し、この勝利により事実上[[神聖ローマ帝国]]からの独立を果たした<ref name="morita55"/><ref group="*">しかし、この戦争をマクシミリアン1世は皇帝としてではなく、ハプスブルク家の当主として戦っているのであり、したがってこの戦争は地方的な紛争に過ぎないとする異説がある。この異説は[[1947年]]、H・ジークリストによって提唱され、[[1958年]]の著書において、K・モムゼンもこの見方を継承する。[[#柳澤|柳澤(2006)pp.31-39]]</ref>。そして盟約者団({{仮リンク|近世スイス|en|Early Modern Switzerland}})は、[[1513年]]の{{仮リンク|カントン・アペンツェル|en|Appenzell|de|Kanton Appenzell}}の加盟によって13の地域が結合する国家団体となり、今日のスイスの基本的な国家枠組みにつながる十三邦同盟体制が確立し、この体制は[[1798年]]まで維持されていった<ref name="morita55"/>。
 
 
 
長期の軍事的緊張を乗り越えたスイスは、ヨーロッパ有数の軍事力を持つ国家となっていた<ref name="morita55"/>。強力な軍事力を頼んでスイスは当時の[[イタリア戦争]]に介入し、一時は[[ミラノ公国]]を保護国化する勢威を示し、[[1513年]]の{{仮リンク|ノヴァーラの戦い (1513年)|fr|Bataille de Novare (1513)|de|Schlacht bei Novara (1513)|en|Battle of Novara (1513)|label=ノヴァーラの戦い}}では強大なフランス軍を大敗させ、[[ロンバルディア]]地方に覇権を確立した<ref name="morita55"/>。ところが、[[1515年]]に[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]が没し、名君として知られる[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]が登位すると、同年の{{仮リンク|マリニャーノの戦い|en|Battle of Marignano}}では盟約者団はこの若き王に大敗北を喫し、以後、スイスは南方へ向けての膨張政策を完全に断念した<ref name="morita55"/>。しかし、こののち、フランスは積極的にスイスの[[傭兵]]を軍事的に重視し、これを頼りにする策に転じていった<ref name="morita55"/>。
 
 
 
==== ツヴィングリの宗教改革 ====
 
スイスの[[バーゼル]]では[[1431年]]以降、大規模な公会議([[バーゼル公会議]])が長期にわたって開催され、ヨーロッパ各地から学者・文人が集まり、[[1460年]]には[[バーゼル大学]]も創設されて、盟約者団や[[アルザス地方]]から多くの学生を集めて人文主義運動の一大拠点となっていた<ref name="morita65">[[#森田|森田(1998)pp.65-72]]</ref>。『[[阿呆船]]』の大ベストセラーで知られる{{仮リンク|ゼパスティアン・ブラント|en|Sebastian Brant}}もこの大学で学んだ<ref name="morita65"/>。画家では、若き[[アルブレヒト・デューラー]]や[[ハンス・ホルバイン]]がこの地で活躍した<ref name="morita65"/>。ヨーロッパ中を放浪した人文主義者エラスムスも[[1514年]]以降はここに定住した<ref name="morita65"/>。詩人で音楽家の[[グラレアヌス]]、[[ザンクト・ガレン]]の宗教改革者{{仮リンク|ヨアヒム・ヴァディアン|en|Joachim Vadian}}、そして[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]もこの地で学んでいる<ref name="morita65"/>。ツヴィングリは[[ウィーン]]に滞在して人文主義の影響を強く受けたのち、[[1502年]]にはバーゼルに戻って勉学に精励し、[[1506年]]には修士の学位を取得、その年から[[1516年]]までは[[グラールス]]の[[司祭]]、1516年から[[1518年]]末にはアインジーデルン修道院の[[司教]]司祭を務めた<ref name="morita65"/>。エラスムスとは司祭時代の1514年に出会い、親交を結んだ<ref name="morita65"/>。このころにはツヴィングリもスイス人文主義の頂点に立つ存在となっていた<ref name="morita65"/>。1518年末、都市[[チューリヒ]]はすでに高名な人文主義者となっていたツヴィングリを司祭として招いた<ref name="morita65"/>。
 
 
 
===== ツヴィングリの思想 =====
 
{{main|フルドリッヒ・ツヴィングリ}}
 
[[ファイル:Marburger-Religionsgespräch.jpg|300px|right|thumb|{{仮リンク|マールブルク会談|en|Marburg Colloquy}}(1529年)
 
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この会談でルターとツヴィングリは教義について多くの一致点を見いだしたものの、結局は両者の思想の相違が目立つ結果となった<ref name="demura_97">[[#出村|出村(2001)pp.97-103]]</ref>。]]
 
[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]は後世に「ツヴィングリ派」ともいうべき固有の宗派を残さなかったために、その業績はややもすると限定的に捉えられがちだが、彼をルターやカルヴァンらと比べて二次的な地位に留めることは適切であるとはいえない<ref name="franzen_244">[[#フランツェン|フランツェン(1994)p.244]]</ref><ref name="odagaki_137">[[#小田垣|小田垣(1995)pp.137-138]]</ref><ref name="demura_86">[[#出村|出村(2001)pp.86-92]]</ref>。ツヴィングリの思想は多くの点でルターとの一致を示すものの、ルターとは異なり、[[ヒューマニズム|人文主義]]や[[スコラ学]]の著しい影響が認められるのであり、彼をルターの亜流と見なす考えはこの点で明らかな誤解に基づいている<ref group="*">アウグスト・フランツェンによれば、ツヴィングリがルター思想の影響を受けるようになるのは、1519年のライプツィヒ討論以後のことでしかも非常に限定的であり、1522年まではエラスムスの影響が顕著であるという。[[#フランツェン|フランツェン(1994)p.244]]。また、A・E・マクグラスは、北ドイツの宗教改革に対し、スイスの宗教改革には人文主義の著しい影響が認められると指摘している。[[#マクグラス2|マクグラス(2000)pp.85-92]]</ref>。
 
 
 
ツウィングリは、聖書原理の実現をはかり、[[四旬節]]における[[肉食]]禁止の廃棄、聖書に根拠のない聖人崇拝の廃止、修道院制度の廃止、聖職者の独身制の解除などを主張し、生活全般が「聖書のみ」によって規定されるべきであると説いた<ref name="morita65"/>。そして、信仰義認をいっそう明確にして、宗教を含めた生活の監督は信徒の[[共同体]](ゲマインデ)によって、つまり教会ではない住民の自治組織によって行われるべきだとした<ref name="morita65"/>。ツヴィングリはこのような自治組織の権威は神に由来し、聖書の解釈をする権威さえも保持していると唱えたのである<ref name="McGrath285">[[#マクグラス2|マクグラス(2000)p.285]]</ref>。
 
 
 
===== チューリヒ改革 =====
 
[[ファイル:Zwinglidenkmal.jpg|180px|left|thumb|[[フルドリッヒ・ツヴィングリ|ツヴィングリ]](1484-1531)像
 
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チューリヒの[[リマト川]]の岸辺に立っている。右手には聖書、左手に大剣、兜を被り、説教服の下は鎧で武装している。]]
 
[[1518年]]12月の末から[[チューリヒ]]の教区司祭・説教者となっていたツヴィングリは、[[1519年]]初頭から「[[マタイによる福音書]]」の説教を開始した<ref name="morita65"/>。これがスイスにおける福音主義的改革の幕開けとなる。ツヴィングリはエラスムスを通じて、キリスト教を原典から学ぶことの重要性を認識していた。そのためこのマタイ連続説教においては[[ヴルガータ|ヴルガタ]](ヴルガータ訳ラテン語聖書)を使用せず、エラスムスの『校訂ギリシア語新約聖書』を使用した<ref name="demura_79">[[#出村|出村(2001)pp.79-86]]</ref>。やがて彼の周囲に新しい福音理解に共鳴する信奉者が集まるようになり、旧来のカトリック的信仰理解を堅持する者たちとの間に徐々に疎隔が生じていった<ref name="demura_79"/>。ドイツの広大な領邦に比べて狭小な地域共同体である[[スイスの地方行政区画|カントン]](邦)の内部での対立は、たちまち先鋭化した<ref name="demura_79"/><ref group="*">スイスでは自治権を持つ州のことをカントンをいうが、これは[[スイス革命]]により成立した[[ヘルヴェティア共和国]]の時期に一般化した[[フランス語]]由来の用語である。それ以前は「邦」と呼ばれていた。</ref>。
 
 
 
[[1522年]]3月、[[四旬節|受難節]]の[[断食]]期間が訪れた際、ツヴィングリ支持者は集まって乾いた[[ソーセージ]]を切り分けて食し、「聖書のみ」の考えを実践した<ref name="demura_82">[[#出村|出村(2001)pp.82-86]]</ref>。ツヴィングリは聖書に記載されていない事柄は聖書の教えに反しており、禁止されるべきという考えを持っていた<ref name="demura_82"/>。さらにその10日後、ツヴィングリは「食物の選択と自由」という説教をおこない、これに対しチューリヒ市参事会は支持を表明した<ref name="demura_82"/>。チューリヒはツヴィングリの福音主義運動の拠点となったのである<ref name="demura_82"/>。そして、ツヴィングリは『最初にして最終的な弁明の書』をコンスタンツ司教に宛て、明確に「聖書のみ」を規範とすべきことを表明した<ref name="demura_82"/>。ツヴィングリ派とカトリック派の対立は激化し、市内での武力衝突の危機も迫ったので、チューリヒ市参事会は最終的な決定を下すべく、[[1523年]][[1月29日]]にカトリック側聖職者を迎えて公開討論を開催することとした<ref name="demura_82"/>。チューリヒの市長および市参事会は都市と支配下の農村の全聖職者を参集させて、ツヴィングリの主張する教説に対しては、聖書のみにもとづいて、ドイツ語で討論するよう命じた<ref name="morita65"/>。
 
 
 
ツヴィングリは公開討論のために自らの信仰を明らかにするため、『67カ条の提題』を公表した<ref name="morita65"/><ref name="demura_82"/>。この文書の中でツヴィングリは「聖書のみ」の原則を表明し、聖書に根拠がない教皇制度や祝祭日・修道制・独身制・[[煉獄]]を批判した<ref name="morita65"/>。その一方、教会の監督は信徒の集まりが行うべきであるとし、市参事会による宗教の管理を暗に正当化していた。さらに社会倫理について『神の義と人間の義』の説教をおこない、これによりチューリヒにおける宗教改革の方向性が明確に定められた<ref name="morita65"/>。すなわちチューリヒでの宗教改革は都市共同体という政治秩序の積極的な関与の下におこなわれたのである<ref name="morita65"/>。
 
 
 
1523年10月には第二回の公開討論会が開かれ、聖画像や[[ミサ]]の廃止が現実の議論の対象となった<ref name="morita65"/>。その結果、これらカトリック儀式の廃止が原則として廃止が決定されたが、その廃止時期をめぐっては激しい対立が生じた<ref name="morita65"/>。ツヴィングリにしたがっていた{{仮リンク|コンラート・グレーベル|de|Konrad Grebel|en|Conrad Grebel}}らのちに[[再洗礼派]]を形成する過激派は。ミサや聖画像が非聖書的とされた以上はただちに廃止すべきと主張したのに対し、ツヴィングリは急激な廃止による騒擾の発生を懸念していた<ref name="morita65"/>。結局、[[1524年]]6月には市内全域から[[イコン|聖像画]]・[[聖遺物]]・[[ステンドグラス]]が取り除かれ、12月には修道院がすべて閉鎖されてその資産はカントンに接収された<ref name="morita65"/>。そして1525年3月の[[復活祭|復活節]]を境に、ミサは完全に廃絶され、替わって福音主義の[[聖餐|聖晩餐]]が導入された。また同年6月には福音主義の司祭養成のため「[[チューリヒ大学|カロリーヌム]]」が開設された<ref group="*">カロリーヌムの名は[[カール大帝]]にちなむ。現在のチューリヒ大学の基となった。</ref>。こうしてスイスにおける福音主義運動は着々と橋頭保を築きつつあったが、この時点では、スイス内における福音主義の孤立は明らかであった<ref name="morita65"/><ref name="demura_93">[[#出村|出村(2001)pp.93-97]]</ref>。ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンなどの保守的なカントンではカトリック信仰に揺らぎはなく、福音主義に染まったチューリヒに対して旧来の信仰への復帰を求め、チューリヒを[[異端]]と断じて盟約からの追放を宣言した<ref name="morita65"/><ref name="demura_93"/>。
 
 
 
===== カッペル戦争とカッペル和議 =====
 
[[1528年]]1月、盟約者団中でも有力なカントンである[[ベルン]]が福音主義に転じ、[[1529年]]2月には[[バーゼル]]で民衆蜂起が起こり、こちらも福音主義に転じた<ref name="demura_93"/><ref name="morita72">[[#森田|森田(1998)pp.72-74]]</ref>。さらに盟約者団の外部であるが、近隣の[[ザンクト・ガレン州|ザンクト・ガレン]]や[[コンスタンツ]]でも福音主義が影響力を増し、福音主義のカントンと軍事同盟を結んだ<ref name="demura_93"/>。一方、{{仮リンク|インターラーケン修道院|en|Interlaken Monastery|de|Kloster Interlaken}}廃止後の修道院の継承者はベルンからの自立をはかろうとしていたが、修道院長が支配権を都市に引き渡して修道院内の財宝・銀器がベルンに持ち去られたことを契機に、憤激した農民がカトリックに再びもどり、それをカトリック諸邦が支援するという事態も生じた<ref name="morita72"/>。カトリック派のカントンは宿敵であったはずのハプスブルク家も巻き込んで軍事同盟を結成し、両者は同年6月、カッペルの野で対峙した([[第一次カッペル戦争]])<ref name="demura_93"/>。一触即発の危機が迫ったが、ここで両者は歩み寄り、[[グラールス]]の調停もあって「現状維持」を約束して和睦した<ref name="demura_93"/><ref name="morita72"/>。この{{仮リンク|第一次カッペル和議|de|Erster Kappeler Landfriede}}では、福音主義に転向したカントンはその信仰を認められるが、カトリックのカントンへの布教を許されず、その逆も然りとされたのであった<ref name="demura_93"/><ref name="morita72"/>。ここに信仰の「属地主義」、すなわち「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("''Cujus regio, ejus religio''")」が認められ、スイスは他のヨーロッパ諸国に先駆けて改革派とカトリックの共存する地域となった<ref name="demura_93"/>。上述したアウクスブルク和議より二十数年前のことであり、スイスはヨーロッパにおける宗教多元化の最初の例となったのである<ref name="demura_93"/>。
 
 
 
[[ファイル:Schlacht bei Kappel.jpg|400px|right|thumb|第二次カッペル戦争(1531年)
 
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ツヴィングリ率いるチューリヒ市民軍は圧倒的な人数のカトリック軍を迎え撃った。この乱戦の中ツヴィングリは戦死した。[[1548年]]に描かれた図版]]
 
第一次カッペル和議はスイスに平和と安定をもたらしたかに見えたが、ツヴィングリは現状維持に不満で、福音主義の宣教を軍事的拡張によってでも実現すべきと考えるようになっていた<ref name="morita72"/>。一方ドイツではルター派は皇帝の圧迫を受けて存亡の危機が迫っていたため、同盟者を必要としていた<ref name="demura_97"/>。ここにルターとツヴィングリの利害の一致点があり、[[1529年]]10月、ヘッセン方伯フィリップの斡旋により、[[マールブルク|マールブルク城]]で会談が開かれ、ルターとツヴィングリの間で軍事同盟と教義の一致が検討された<ref name="demura_97"/>。この会談において、両者の教義の多くの点で一致を見たものの、最終的には聖餐理解を巡って鋭く対立した([[聖餐論]])<ref name="demura_97"/>。カトリックでは、[[パン]]と[[葡萄酒]]は[[聖別]]されると、実体的にキリストのからだと血に変化するという「[[化体説]]」を公認していたが、ルターはキリストのからだと血は、[[聖体拝領]]のパンと葡萄酒の中に、その下にそれとともに実在するという「[[共在説|両体共存説]]」をとってカトリック的痕跡をとどめた<ref name="kume_203"/>。それに対し、ツヴィングリは「[[象徴説]]」を採用し、パンと葡萄酒にはいかなる意味においてもキリストのからだと血は実在せず、キリストの死を象徴する記号であるにすぎないとしており、ただこの1点について折り合いがつかなかったため、結局のところ、物別れに終わったのである<ref name="kume_203"/>{{Sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1996|pp=457-460}}。これは、プロテスタント内部の分裂の一因となった<ref name="kume_203"/>。
 
 
 
ツヴィングリはその後も強硬にカトリック諸州の軍事的制圧を主張したが、ベルンをはじめとする同盟諸邦の賛同を得られず、ベルンの提案にしたがってカトリック諸州に対し[[経済封鎖]]が実施されるにとどまった<ref name="demura_103">[[#出村|出村(2001)pp.103-105]]</ref>。この経済封鎖によりカトリック諸州はたちまち困窮したため、軍事力に訴えざるをえなくなり、[[1531年]][[10月4日]]カトリック諸州はカッペルに再度進軍し({{仮リンク|第二次カッペル戦争|de|Zweiter Kappelerkrieg|en|Second War of Kappel}})、これに対してツヴィングリは自らチューリヒ市民軍を率いて邀撃した<ref name="morita72"/><ref name="demura_103"/>。このときカトリック側の兵8,000に対し、チューリヒの市民軍は数百に過ぎず、乱戦のさなかツヴィングリは戦死した<ref name="morita72"/><ref name="demura_103"/>。これは、スイスの傭兵制に対し、ツヴィングリがかつて厳しい批判をおこない、そのためチューリヒが傭兵を充分に用いえなかったことにもよっていた<ref name="morita72"/><ref name="demura_103"/>。
 
 
 
しかしその後ベルンを核とする福音主義派は反撃し、第一次カッペル和議をほぼ踏襲した{{仮リンク|第二次カッペル和議|de|Zweiter Kappeler Landfriede}}が締結され、スイスにおける宗教の属地主義が再確認された<ref name="demura_103"/>。ツヴィングリの死によって、福音主義運動は後継者[[ハインリヒ・ブリンガー]]に受け継がれ、その頃にはツヴィングリの信仰告白を受け入れる都市はスイスにとどまらずドイツ南部にまで広がっていた<ref name="demura_103"/><ref group="*">一方、エラスムスに傾倒し、ルターの感化を受けた[[マルティン・ブツァー]]は[[アルザス地域圏|アルザス]]の中心都市シュトラスブルク([[ストラスブール]])市に招かれ、市当局の依頼により、1530年より同市の教会改革にあたった。ブツァーは教会参事会を中立化し、修道院を閉鎖して、その財産を公共教育と貧民の救済の費用にあてた。すべての小教区に[[小学校]]を開設し、[[1538年]]には同地に高等学院を設立して神学の教授などを行っている。[[#久米|久米(1993)p.210]]</ref>。これらはやがて[[カルヴィニズム]]のなかに解消されていくこととなった。
 
 
 
==== カルヴァンの宗教改革 ====
 
{{Main|ジャン・カルヴァン}}
 
フランス北東部の[[ノワイヨン]]の町に生まれた[[ジャン・カルヴァン]]は、[[1523年]]に[[パリ]]に上り、[[パリ大学]]で、近代的教育法の祖といわれる{{仮リンク|マチュラン・コルディエ|fr|Mathurin Cordier}}のもとで[[ラテン語]]の教育を受け、[[人文学]]・[[スコラ哲学]]を学び、さらにフランス・カトリックの一大根拠地であり、反福音主義の牙城ともいうべき{{仮リンク|モンテーギュ学寮|fr|Collège de Montaigu}}で5年にわたって[[哲学]]、[[文法]]、[[弁論術]]などを学んで、次いで[[オルレアン]]と[[ブールジュ]]の大学で[[法学]]を修め、合わせて[[ギリシア語]]・[[ヘブライ語]]も学んだ<ref name="kume_211">[[#久米|久米(1993)pp.211-215]]</ref><ref name="hase36">[[#長谷川2|長谷川(1997)pp.36-42]]</ref><ref name="demura_106">[[#出村|出村(2001)pp.106-115]]</ref>。[[1533年]]11月1日、パリ大学の新しい総長{{仮リンク|ニコラ・コップ|fr|Nicolas Cop}}は[[福音主義]]者で、[[信仰義認]]をテーマとした総長就任演説をおこなったが、そこにルターの表現が含まれていたため、その演説後ただちに[[異端]]の申し立てがなされ、コップはフランス国内を転々とした<ref name="kume_211"/><ref name="hase36"/>。この演説の草稿づくりにカルヴァンも関与したことで、彼自身もパリを脱出せざるを得なくなり、[[1534年]]には[[檄文事件]]で激化した弾圧を避けるためコップとともにスイスの[[バーゼル]]に亡命した<ref name="kume_211"/><ref name="hase36"/><ref name="demura_106"/>。こうしてジャン・カルヴァンは改革者への道を歩み出すこととなった<ref name="kume_211"/>。カルヴァンはバーゼルの地で主著『[[キリスト教綱要]]』を[[1536年]]に刊行している<ref name="kume_211"/><ref name="hase36"/><ref name="morita75">[[#森田|森田(1998)pp.75-77]]</ref>。
 
 
 
===== カルヴァンの思想 =====
 
[[ファイル:John Calvin2.jpg|200px|right|thumb|[[ジャン・カルヴァン]](1509-1564)
 
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その非妥協で厳格な性格からか、生前から毀誉褒貶が定まらない<ref name="demura_106"/>。]]
 
 
 
カルヴァンの神学は[[信仰義認]]、[[聖書のみ|聖書中心主義]]をはじめルターやツヴィングリのそれから受け継いだ部分が多い<ref name="hase36"/>。そうしたなかで、カルヴァンの思想を特徴づけるのは、徹底した神中心主義と[[救霊予定説]]である<ref name="kume_211"/><ref name="hase36"/>。カルヴァンの教理においては、神の栄光、神への祈りと服従がつねに強調される<ref name="hase36"/>。ルターにおいては力点が人間の苦悩に置かれるのに対し、カルヴァンではあくまでも神自身に置かれるのである<ref name="hase36"/>。カルヴァンによれば、神を認識することこそが人生の主要目的なのであり、それによって自己を認識するのである<ref name="kume_211"/>。神の像に似せて創造された人間は、本来的には神の栄光の輝きを受けている<ref name="kume_211"/>。自由意志をもった人間は、それによって永遠の生命を得ることも可能であったはずなのに、[[アダム]]が[[原罪]]を犯して以来、その自由意志によって神に反逆し、罪に陥って人間のあり方は堕落した<ref name="kume_211"/><ref name="hase36"/>。この堕落から救済されるためには、人は[[イエス・キリスト]]において再創造されなくてはならない<ref name="kume_211"/>。人間の罪の身代わりとして地上に送られた[[神の子]]イエスにつらなることによって、われわれは値なくして救われることができるのである<ref name="kume_211"/><ref name="hase36"/>。
 
 
 
神は憐れみによりイエスを世に送ったが、これはすべての人間を赦すためではなく、[[恩恵]]に浴することができるのはその一部だけである<ref name="hase36"/>。人は神の意志によって、ある者は永遠の救いに、ある者は永遠の滅びに定められる<ref name="kume_211"/>。これはもっぱら神が自由に決定する領域に属し、しかも神はあらかじめこれを定めていると説く<ref name="hase36"/>。これが、カルヴァンの唱える予定説である<ref name="kume_211"/><ref name="hase36"/>。では、こうした神の選びの絶対的自由を前にして、人はただ絶望するしかないのか。カルヴァンは決してそうではないと説く<ref name="hase36"/>。なぜなら、神の憐れみは無限であり、それは人びとにとっては無限の恵み(恩寵)であって、神を信じ、われわれに説かれている神の教えを受け入れ、こうしてキリストと一体となった信徒は自らが選ばれていることをもはや疑わないからである(信仰義認)<ref name="kume_211"/><ref name="hase36"/>。そして、神は救われるはずのない者まで選びだして救おうとするのである<ref name="kume_211"/>。人間の善き行いも、神の憐れみを強く信じるときにこそ、選びのしるしとなる<ref name="hase36"/>。そうして、人間の日々の生活の営みは信仰を介して聖化されていく<ref name="hase36"/>。人生の目的は神は知り、神に栄光を帰し、神にしたがい、祈りを捧げることにある<ref name="kume_211"/><ref name="hase36"/>。それぞれの各個人が営む[[職業]]もまた神が定めたところなのであり、あらゆる職業が「天職」である<ref name="hase36"/>。それが「[[召命]]」である以上、これに精励しなければならないものであり(職業召命観)、一方でこの考えは、職業における聖俗の区別の否定につながるのである<ref name="hase36"/>。
 
 
 
カルヴァンは、[[再洗礼派]]との論争のなかで、「神のことばが述べ伝えられて、聖礼典が執行されるところに教会が存在する、それ以外に何が必要なのか」と述べている<ref name="demura_106"/>。この世に完全無欠な教会などないと考えるカルヴァンは、ルターとは異なり、最初から目に見える制度的な[[教会]]の必要性を認めた<ref name="hase36"/><ref name="demura_106"/>。そして、ルターが教会というものの中味を、カトリックと同様、[[洗礼]]を受けたすべての者の集まりであるとしたのに対し、カルヴァンはそうではなく、「信仰を告白し、善き生活を営む信徒の集まり」と考え、より狭いものとしてこれをとらえた<ref name="hase36"/>。そこで、教会の構成員は、真の信仰と善き道徳との厳しい実践者たることが義務づけられる<ref name="hase36"/>。[[牧師]]は神の言葉を説き、公教要理を教え、聖礼典をおこなう存在であり、聖礼典は洗礼と[[聖餐]]式の2つで、信徒が信仰をより強固にすることを助ける<ref name="hase36"/>。聖餐式に関しては、カルヴァンは、ルターの[[共在説]]ともツヴィングリの[[象徴説]]とも異なり、いわば、その中間的な立場をとっていた<ref name="hase36"/>。つまり、イエスはパンと葡萄酒のなかに実在するが、ただしそれは「霊的に」実在するという理解である<ref name="hase36"/>。
 
 
 
信徒の日常生活を監視し、これを正しく導き、信徒相互の紛争を調停するのは聖職者ではなく「長老」と称される俗人であり、貧者の救済もまた俗人の「執事」にまかされる(長老教会制)<ref name="hase36"/>。道徳的に瑕疵のある信徒は聖餐式への参加を、行いが改められるまで禁止され、行状のとくに悪い者に対しては[[破門]]もある<ref name="hase36"/>。それのみならず、世俗の権力者からの処罰も甘受しなければならない<ref name="hase36"/>。カルヴァンの思想は、社会生活全般を宗教一色で染め上げようという指向をもち、その意図は彼の国家観にもあらわれている<ref name="hase36"/>。カルヴァンは、アウグスティヌスの「神の国」「地の国」の考え方に影響を受け、教会と国家の権力の差異と非類似性からいって、「霊的王国」と「政治的王国」は常に区別しなければならないとした<ref name="Steven">Steven K. Green,[http://americanhistory.oxfordre.com/view/10.1093/acrefore/9780199329175.001.0001/acrefore-9780199329175-e-29 The Separation of Church and State in the United States],OXford Reseach Encyclopedias.</ref>。
 
 
 
カルヴァンの政治思想には2つのきわだった特徴がある。1つは教会を世俗権力から独立させること、もう1つは世俗権力に教会の目的への奉仕をさせることである。彼は教権と俗権という「二本の剣」は分離不可の関係ではあるが、明確に弁別されるべきであると述べた<ref name="demura_106"/>。カルヴァンはアウグスティヌスに従って、教会を、神によって定められた独自の権威を持つものと考える。彼はこの世には「見える教会」と「見えない教会」があるという。見えない教会は正しい信徒の作る精神的な共同体で、時間と空間の制約を受けない。見える教会は信徒が集まって、儀礼や礼拝、説教が行われる場所で、この見える教会においては成員すべてが必ずしも完全な信仰を有しているわけではない。そのため見える教会は成員すべてを完全な信仰に導くために、規律を必要とし、内部に政治が必要とされる。そのため教会の幹部は道徳を含む世俗の問題に対しても判決を出すことができる。
 
 
 
一方、世俗権力の担い手である国家は、神の地上の代理人であり、下僕であるとカルヴァンは考える<ref name="hase36"/>。為政者は、信仰の正しい実践を保ち、人民の安全と財産を守り、正義を行わなければならない<ref name="hase36"/>。そして、このような為政者に対し、人民は絶対的に服従しなければならない<ref name="hase36"/>。服従を免除されるのは、為政者が神の命令にそむいた場合に限られる<ref name="hase36"/>。国家とは真の宗教、正しい信仰を広めるためのものだとカルヴァンは考えたのである。カルヴァンは政治権力に「[[三位一体説]]」という教会にとって最も重要な教義を認めさせ、その一方で世俗の[[司法機関]]における世俗的な裁判官の権限を高めた<ref name="baubérot_19"/>。カルヴァンの思想のうち、無抵抗については彼の死後現実のユグノー弾圧への対応として、理不尽な支配に対しては抵抗してもよいという[[モナルコマキ]]の政治理論が登場した。同様に彼の思想にある非寛容で妥協を許さない部分も、カルヴァン主義が深刻な[[コンフェッショナリズム]](後述)に直面するうちに動揺し、そのなかから寛容論が起こってくる。
 
 
 
カルヴァンと彼の一派は、新旧両方から異端とされた[[ミシェル・セルヴェ|ミカエル・セルヴェトゥス]](ミシェル・セルヴェ)をジュネーヴ市当局が[[火刑]]に処したことに公然と賛意を表している<ref name="hase36"/><ref name="kuratsuka">[[#倉塚|倉塚(1966)]]</ref><ref name="hukusima">[[#福島|福島(2009)pp.165-175]]</ref>。カルヴァンは、国家による異端者弾圧を容認し、場合によっては支持さえしたのである<ref name="hase36"/>。
 
 
 
===== ジュネーヴ改革 =====
 
[[ファイル:Geneva church.jpg|200px|right|thumb|ジュネーヴの[[サン=ピエール大聖堂|サン・ピエール教会]]
 
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ここでカルヴァンは幾度となく説教を行った。]]
 
[[1536年]]7月から8月にかけてのころ、[[ジュネーヴ]]に滞在していたカルヴァンは同地で福音主義的改革を導入しようとしていた{{仮リンク|ギヨーム・ファレル|fr|Guillaume Farel}}に援助を懇請された<ref name="kume_211"/>。当時のジュネーヴは、少し前まで事実上ベルンの保護領であり、この年の5月、ベルンの援助を受けて福音主義に転じたが、いまだ改革の緒についたばかりで方針も定まっておらず、ファレルは当時匿名で出されていた『キリスト教綱要』の著者がカルヴァンであることを知って、彼を強引に引き止めたのである<ref name="kume_211"/>。カルヴァンはこのとき[[ストラスブール]]へ向かう途中であったが、これに協力することを決意した<ref name="kume_211"/>。[[1537年]][[1月16日]]にはカルヴァンら牧師団によって市参事会に対して、教会改革の具体案が提出され、ここにジュネーヴはツヴィングリ派とは異なった、新たな改革の方針に従うこととなった。ただちに新しい「信仰告白」を含む要理書([[カテキズム]])が刊行され、市民はこの「信仰告白」に対して宣誓を求められた。こうして改革が本格的に開始されたが、カルヴァンらはこの「信仰告白」が守られているか厳しく監督したために、市民の間に改革に対する抵抗感が芽生えた。また当初から市参事会は、カルヴァンらの主張の中に教会を世俗の権力から独立させ、むしろ世俗権力を教会に従属させようとする意図があることに気づいていた<ref name="demura_106"/>。カルヴァンは教会を国家から切り離して新しい教会制度をつくろうとしたが、市民側の反対にあって頓挫したのである<ref name="kume_211"/>。
 
 
 
[[1538年]][[4月23日]]、新しいジュネーヴ市参事会が発足すると、カルヴァンとファレルはこの参事会により追放され、カルヴァンは[[マルティン・ブツァー]]の勧めにより、ストラスブールのフランス人難民教会の説教師を務めることとした<ref name="kume_211"/><ref name="hase36"/>。ストラスブールでの聖書講義は3年におよんだが、この間、[[1539年]]にカルヴァンはビューレンのイデレッテと結婚している<ref name="kume_211"/>。
 
 
 
やがてジュネーヴでは再びファレル派(福音主義派)が勢いを盛り返し、彼らによって再び招聘されたカルヴァンは[[1541年]][[9月13日]]、自身もう二度と戻ることはないと思っていたジュネーヴに帰還した<ref name="kume_211"/><ref name="morita75"/>。帰任早々の[[9月20日]]カルヴァンは早速「ジュネーヴ教会規則」を立法化し、牧師・教師・長老・執事という4職を定めた<ref name="morita75"/>。牧師と教師は説教などを通じて司牧の役割を担い、聖書解釈の問題などについて定期的に審議した。長老は、牧師・教師とともに監督院を形成して、市内のどの家でも自由に立ち入ることができる権利を有し、市民生活を監督した<ref name="morita75"/>。執事は教会施設の管理と救貧を担った<ref name="hase36"/>。カルヴァンは教育においては政教分離を実践し、公教育と教会教育を区別して、後者のために「[[ジュネーヴ教会教理問答]]」を作成した<ref name="kume_211"/>。
 
 
 
カルヴァンの改革政治は「[[神権政治]]」とも称されている<ref name="kume_211"/>。「神権政治」開始後の最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放がおこなわれ、反対派はことごとく弾圧された。[[1553年]]には高名な人文学者であったミカエル・セルヴェトゥスが三位一体説を批判した嫌疑で火刑に処せられている。[[1559年]]には[[ジュネーヴ大学|神学大学]]が設立され、プロテスタント系の神学大学としては、すぐに[[ヴィッテンベルク大学]]に勝るほどの勢いとなり、ヨーロッパ各地に改革派の説教師や教師を送り出すまでになった。[[1564年]]の死にいたるまでカルヴァンはカトリックとの戦いに明け暮れたが、さらに死後の[[1566年]]にはツヴィングリ派との間で合同がなり、スイスの改革派は[[改革派教会]]として統一され勢力を強めた<ref name="morita75"/>。
 
 
 
==== 改革派教会の広がり ====
 
{{See also|カルヴィニズム|改革派教会|長老派教会}}
 
カルヴァンは上記のように[[1540年代]]にジュネーヴで独自の宗教改革を実現し、「[[改革派教会]]」発展の基礎をつくり、以後それは「[[ルター派教会]]」とならんで、[[プロテスタント]]における二大教派となった<ref name="kume_211"/>。ルター派教会が「アウクスブルク信仰告白」とルターの「教理問答書」を信仰の規範とし、教会政治においては「[[監督制]]」を保持したのに対し、改革派教会では監督制を廃して、牧師と、教会員から選ばれた長老たちとで「長老会」を組織し、それによって信徒の指導監督にあたる「[[長老制]]」を採用し、各個別教会における信仰告白を重視する点が両者の大きな相違である<ref name="kume_211"/>。
 
 
 
カルヴァンの思想は、彼の生前からスイスにとどまらず近隣の諸国に広まっていたが、その伝播の過程でニュアンスを失い、特定の要素が誇張されたり、薄められたリした<ref name="hase42">[[#長谷川2|長谷川(1997)pp.42-45]]</ref>。ルター派の強いドイツではカルヴァン派はほとんど浸透しなかった<ref name="hase42"/>。スイスにおいてはカトリック信仰にとどまる地域も多く、ドイツ同様、教会分裂がみられたが、ツヴィングリとカルヴァンによって宗教改革が主導された経緯によりルター派は浸透しなかった。宗教上の不和は厳然と存在する一方、スイスではヴィルヘルム・テルや聖ニコラウス({{仮リンク|ニコラウス・フォン・フリューエ|de|Niklaus von Flüe}})は相変わらず「古き良き盟約者団」の象徴であり、国民的英雄として崇敬された{{Sfn|ウルリヒイム・ホーフ|1997|pp=102-103}}。
 
 
 
スイスとそれに隣接する南西ドイツでは、きわだった対照性を示していた。スイスでは、[[ツンフト]](商人ギルド)に代表される中下層の市民が、都市における門閥支配を打破するとともに周囲の諸侯・修道院領を領域支配に組み込む契機として宗教改革が期待されたという側面があり、ここで重視されたのは[[カルヴィニズム]]であった。ツヴィングリ派から分離発展した[[再洗礼派]]はその信仰を守る信者のみで共同体を構成しようとし、農村部では自治運動と結びつくこともあった{{Sfn|ウルリヒイム・ホーフ|1997|pp=84-85}}。それに対し、南西ドイツでは、[[シュマルカルデン戦争]]の結果、カール5世によって徹底的にツンフトが解体され、門閥支配がかえって強化され、ここで公認されていたのはルター派であった。
 
 
 
フランスに対しては、生前のカルヴァンはジュネーヴから伝道者を派遣して、祖国フランスの宗教改革を組織化しようと努め、彼の勧告にしたがってパリに改革教会が設立され、[[1561年]]末には670以上の改革教会がフランス国内で組織された<ref name="kume_211"/>。[[1559年]]には、フランス改革教会の最初の国民会議がパリで開催されている<ref name="kume_211"/>。フランスのカルヴァン派プロテスタントは「[[ユグノー]]」といわれた<ref name="kume_211"/>。しかし、ユグノーの広がりと同時に迫害も始まり、[[1562年]]には北東部の[[ヴァシー]]でカトリック教徒による新教徒虐殺([[ヴァシーの虐殺]])が起こっている(詳細後述)<ref name="kume_211"/>。
 
 
 
[[ファイル:JohnKnox.jpg|180px|right|thumb|スコットランド宗教改革の指導者[[ジョン・ノックス]](1514-1572)]]
 
カルヴァン派はまた、[[ネーデルラント]](低地地方)とくに[[オランダ]]では著しい影響を及ぼし、それは外国支配からの解放運動の大きな原動力となった(詳細後述)<ref name="hase42"/>。[[スコットランド]]においては、1540年代にこの国で最初にカルヴァン主義を奉じた聖職者が火刑に処せられ、カルヴァン派貴族が蜂起したものの、それも制圧された<ref name="hase42"/>。一時ジュネーヴに亡命し、カルヴァンの影響を強く受けた[[ジョン・ノックス]]が[[1559年]]に帰国、プロテスタントの[[スコットランド貴族]]を動かして[[スコットランド教会]]([[スコットランド]][[長老派教会]])を設立し、[[1560年]]にはノックスらの信仰告白([[スコットランド信条]])が[[スコットランド議会]]に承認されて「国教」の地位を獲得した<ref name="kume_211"/><ref name="hase42"/>。のちにそのなかで[[イギリス国教会]]を批判する勢力が[[ピューリタン]](清教徒)を形成した<ref name="kume_211"/>。ジョン・ノックスの改革派教会では信仰上の原理が政治上の規律とされるなどジュネーヴ的な改革がなされ、神政政治が一時実現した<ref name="kabayama"/><ref name="hase42"/>。スコットランド各地ではこのとき多くの[[聖堂]]が破壊され、[[偶像崇拝]]は徹底的に否定されている。信徒が牧師を選出している点では、この国の教会制度はむしろジュネーヴのそれよりも民主的であった<ref name="hase42"/>。
 
 
 
[[イングランド]]では、[[ロラード派]]の異端思想、ルター主義、反聖職者主義、反教皇主義などが混合して宗教改革の気運が非常に高まったが、結局のところ、国家主導で改革がなされた(詳細後述)。
 
 
 
=== 低地地方の宗教改革 ===
 
{{Main|オランダの歴史}}
 
 
 
[[メルセン条約]]によって[[東フランク王国|東フランク]]と[[西フランク王国|西フランク]]に分属することとなった低地地方は<ref group="*">「低地」をあらわす{{lang|nl|Nederlanden}}(複数形)の発音は「ネーデルラント」よりも「ネーデルランド」に近い(厳密には「ネーデルランデン」)。{{lang|nl|Nederland}}(単数形)の発音は「ネーデルラント」であるが、これは今日オランダを指す。今日のオランダ・ベルギーを含む低地地方を「ネーデルラント」と日本語で表記することが多いが、これは適切とはいえない{{Harv|川口博|1995|pp=12-15}}。</ref>、中世後期に至るまで政治的統一とは無縁であったが、[[14世紀]]に[[ヴァロワ=ブルゴーニュ家]]の支配下にはいると、地域の政治的統一が促進されることとなった。その後、同家は断絶して[[ハプスブルク家]]がこの地を相続し、中央集権的な支配を及ぼそうとしたが、これに対して低地地方の貴族は不満を募らせ[[1568年]]に反乱を起こし、やがて北部は[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]として独立した。オランダ共和国では改革派が多数であったわけではないが<ref group="*">少なくとも「カルヴィニズム的北部」と「カトリック的南部」の分離が宗教的理由によるという説明はオランダ独立の歴史的な経過に即しているとはいえない。カルヴァン派の人口に占める割合は、北部よりも南部の方が当初は多かったのであるから、北部と南部の宗教事情の相違は分離の原因ではなく結果であるとみるべきである{{Harv|川口博|1995|pp=19-27}}。</ref>、独立の過程においては改革派が主導的な影響を及ぼし、やがて改革派の中心国家として台頭することになった。
 
 
 
==== 中世の低地地方 ====
 
[[ファイル:Palais Duc de Bourgogne.jpg|300px|right|thumb|[[ディジョン]]にあるブルゴーニュ公の宮殿]]
 
{{Main|ネーデルラント|ブルゴーニュ領ネーデルラント}}
 
[[12世紀]]までに、低地地方には[[ホラント伯]]やゲルデルン公、[[ブラバント公]]、[[エノー伯]]、[[ルクセンブルク伯]]、[[フランドル伯]]などの世俗領主、ユトレヒト司教や[[リエージュ司教]]といった教会領主が分立割拠し、あたかも寄木細工の様相を呈していた<ref name="saito185">[[#斎藤絅子|斎藤絅子(1998)pp.185-198]]</ref>。大枠ではフランドル地方のみが西フランクすなわちフランスの領域に属し、のこる大部分は神聖ローマ帝国の領域に属していたが、11世紀後半ごろからこの地域に対する[[神聖ローマ皇帝]]の勢威が減退していき、低地地方は徐々に英仏両国の影響を受けるようになっていった<ref name="saito185"/>。
 
 
 
低地地方南部のフランドル伯は、フランスと神聖ローマ帝国にまたがる広大な領域を支配してフランス王との緊張を強め、とくに支配下の諸都市はイングランドとの交易上の結びつきも強く、歴代のフランドル伯も婚姻関係などを通じてイングランド王に接近した<ref name="saito185"/>。フランドル伯[[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン9世]]の時代には、[[ノルマンディ]]をイングランド王[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]から取り上げた[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]がフランドルをうかがう情勢となった<ref name="saito185"/>。つづくボードゥアンの娘[[ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル]]の時代にイングランド王および神聖ローマ皇帝([[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]])と同盟してフランス王権に挑戦したが、[[1214年]][[ブーヴィーヌの戦い]]で敗北し、以後はしばらくフランスへの服属を余儀なくされた<ref name="saito185"/>。
 
 
 
[[14世紀]]中葉、低地地方は相続と婚姻を通じてブルゴーニュ家の[[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ2世]](豪胆公)の支配下に入り、この公国のもとで政治的統一が進められた<ref name="saito210">[[#斎藤絅子|斎藤絅子(1998)pp.210-223]]</ref>。ブルゴーニュ公国は、その収入の大部分が臨時収入であり、低地地方からの収入割合はそのうちの約75パーセントを占め、経常収入においてもブルゴーニュ本領から収入はおよそ5パーセントに過ぎなかった<ref name="hori64">[[#堀米|堀米(1979)p.64]]</ref>。このように、公国は財政的に低地地方に大きく依存しており、自然と政治の重心も低地地方へと移動せざるを得なくなった。[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無畏公)は上訴権を強化して都市裁判を公の裁判へ従属させるなどしたが、百年戦争のさなかのフランス宮廷の政争にかかわってアルマニャック派により暗殺された<ref name="saito210"/>。次の[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]](善良公)の治世は長きにわたったが、このころすでに聖職者、貴族、有力都市民からなる身分制議会が低地地方でも開かれており、善良公はこれを存続させてあらたに課税賛否権と請願権を与え、1464年、ブルッヘに低地地方の代表を集めて公位継承を審議させた<ref name="saito210"/>。この議会は「全国議会(エタ・ジェネロー)」の始まりとされている<ref name="saito210"/><ref group="*">エタ・ジェネロー([[フランス語|仏]]:{{Lang|fr|États Généraux}}、[[ドイツ語|独]]:{{Lang|de|Staten-Generaal}})は、慣例で「全国議会」と訳されるが、この会議は低地地方全体の身分制議会ではなく、州ごとの身分制議会の派遣する使節団の会議というほうが実態に近い。[[#川口|川口博(1995)pp.10-11]]</ref>。
 
 
 
[[1477年]]に[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル突進公]]がロレーヌ・アルザス・スイス軍との戦いで戦死すると、フランス国内のブルゴーニュ公領はたちまちフランス王権に回収され、相続者[[マリー・ド・ブルゴーニュ]]に残されたのは低地地方と[[フランシュ=コンテ地域圏|フランシュ=コンテ]]のみであった<ref name="saito223">[[#斎藤絅子|斎藤絅子(1998)pp.223-227]]</ref>。マリーは同年[[ハプスブルク家]]出身の神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世]]と結婚し、これらの地域もまた一円的にハプスブルク家の支配に収まった<ref name="saito223"/>。
 
 
 
なお、この地方では[[デフェンテル]](現、オランダ中部)で、[[1370年代]]、{{仮リンク|ヘールト・フローテ|nl|Geert Groote|en|Geert Groote}}や{{仮リンク|フローレント・ラーデベインス|en|Florens Radewyns}}らによって{{仮リンク|共同生活兄弟会|en|Brethren of the Common Life}}が創設されている<ref name="hase42"/><ref name="konno">[[#今野|今野(1987)]]</ref><ref name="saito236">[[#斎藤絅子|斎藤絅子(1998)pp.236-239]]</ref>。これは、ローマ教会を頂点とする信仰の組織化に対立した共同体的結社であり、神秘主義者{{仮リンク|ヤン・ファン・リュースブルク|en|John of Ruusbroec|nl|Jan van Ruusbroec}}の影響を受けて本源的キリスト教の生活を実践しようとするもので、そこでは司祭も一般信者もともに隣人愛的共同生活のなかで、[[観想]]、祈り、清貧を実践していくことが目的とされた<ref name="konno"/><ref name="saito236"/>。『キリストのまねび』の著者[[トマス・ア・ケンピス]]はその推進者であったが、人文主義者として著名なエラスムスもまた、デフェンテルの共同生活兄弟会附属の寄宿学校生であった<ref name="saito236"/>。
 
 
 
==== ハプスブルク家支配 ====
 
{{Main|ネーデルラント17州}}
 
[[ファイル:Habsburg Map 1547.jpg|500px|right|thumb|カール5世の「帝国」(1547年)]]
 
[[1506年]]、マクシミリアンとマリーの子で[[フランドル]]で育った[[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フィリップ端麗公]]が急死すると、その長子でわずか6歳のシャルル(のちのカール5世)が低地地方を相続し、[[1515年]]1月に全国議会で即位した<ref name="saito227">[[#斎藤絅子|斎藤絅子(1998)pp.227-231]]</ref>。さらにシャルルは[[1516年]]にはカスティリャ・アラゴン両王国の君主となり、新世界に勢力を拡大し続けるスペインの国王カルロス1世となった<ref name="hase42"/><ref name="saito227"/>。これにより、低地地方はスペイン領となった<ref name="hase42"/>。[[1519年]]、祖父マクシミリアン1世が死去すると、シャルルは[[フッガー家]]の財力を背景に対抗馬のフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]を破って皇帝選挙に勝利し、ドイツ皇帝として登位した(神聖ローマ皇帝カール5世)<ref name="hase42"/>。こうして東は[[トランシルヴァニア]]から西は[[スペイン]]にいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された<ref name="saito227"/>。しかし、この「ハプスブルク帝国」には一体的な国家組織がなく、個別の国家がただ単にカール5世個人のもとに集約されているに過ぎなかった<ref name="saito227"/>。カールは対フランスとの緊張関係を通じてこれをまとめようとし、低地地方は「帝国」にとって辺境の位置にあるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらに[[アントウェルペン]](アントワープ)の金融は「帝国」の重要な財源であった<ref name="saito227"/>。カールは低地地方の行政的中心を[[ブリュッセル]]におき、中央集権化を進めて低地地方の政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧をすすめ、メルセン条約以来分断されていたこの地を初めて統一した<ref name="saito227"/>。低地地方が17州<ref group="*">この「17州」が具体的にどの州を数え上げたものかについては数説あり、一致した見解が得られているとはいえない。あるいは中世ヨーロッパにおいて「17」という数字は「不特定多数」の寓意でもあったので、それに由来するのではないかという示唆も[[ヨハン・ホイジンガ]]から出されている。詳細は[[#川口|川口博(1995)「『十七州』考」]]。</ref> と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、[[1548年]]のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された<ref name="saito227"/>。[[1549年]]には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された<ref name="saito227"/>。
 
 
 
低地地方は、共同生活兄弟会(上述)発祥地だけあって、宗教改革の気運も高く、ルター派が活動し、急進的な再洗礼派の運動も広がりをみせていた<ref name="hase42"/>。カールはこれに激しい弾圧を加えた<ref name="hase42"/>。1540年以降、再洗礼派の活動が沈静化すると、代わって人びとの心をとらえたのはカルヴァン派であった<ref name="hase42"/><ref name="saito240">[[#斎藤絅子|斎藤絅子(1998)pp.240-242]]</ref>。特にフランス国境に近い[[エノー]]、[[トゥールネ]]、[[リル]]などの各地に流入し、当初は再洗礼派と混同されていたが、他宗派にはみられない強固な教会組織、また、職業への精勤を奨励し、蓄財を認める教義は16世紀における商工業の発展と調和的であり、都市の手工業者に広がってアントウェルペンはその最大の拠点となった<ref name="saito240"/>。
 
 
 
[[アウクスブルクの和議]]の翌年(1556年)、カール5世は退位して神聖ローマ皇帝位を弟のフェルナンド([[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]])、スペイン王位を長子のフェリペ([[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]])に譲って、ハプスブルク家は[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]と[[ハプスブルク君主国|オーストリア・ハプスブルク家]]に分かれた<ref name="satohiro243">[[#佐藤弘幸|佐藤弘幸(1998)pp.243-247]]</ref>。カール5世に続いて低地地方を支配したのはフェリペであった<ref name="satohiro243"/>。フェリペもカール5世の基本路線を継承し、法典や裁判制度の統一をはかり、低地地方を中央集権化しようと試みた<ref name="satohiro243"/>。低地地方の政治の実権はグランヴェルなどの寵臣が握っており、[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ家]]などの大貴族と対立した<ref name="satohiro243"/>。フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、[[1559年]]7月教皇[[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]]から許可を得た<ref name="satohiro243"/>。これにより低地地方には[[カンブレ]]・[[メヘレン]]・[[ユトレヒト]]の3大司教区が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で[[異端審問]]に関与していた神学者が多数登用された<ref name="satohiro243"/>。低地地方のプロテスタント弾圧で有名な[[アントワーヌ・ド・グランヴェル]]もメヘレン大司教となっている<ref name="satohiro243"/>。このころ、フランスからは多数の改革派が流入しつづけており、宗教的緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。
 
 
 
[[ファイル:Detail_of_a_portrait_of_Fernando_Alvarez_de_Toledo_by_Antonio_Moro.jpeg|180px|right|thumb|アルバ公[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド]](1507-1582)
 
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「鉄の公爵」と呼ばれた。彼の設けた「騒擾評議会」は別名「血の裁判所」と呼ばれるほど苛烈で、低地地方を苦しめた。]]
 
[[1565年]]フェリペが改めて低地地方での異端審問の強化を命令すると、下級貴族は反発を強め、[[1566年]]には異端審問の中止を求める訴状を執政(全州総督)に任じた異母姉[[マルゲリータ・ダウストリア (パルマ公妃)|マルハレータ]]に提出した<ref name="satohiro243"/><ref group="*">このとき下級貴族を「乞食(ヘーゼン)」と蔑称したことから、彼らは自ら「乞食党(ヘーゼン)」を名乗るようになったという。なおよくある表記「[[ゴイセン]]」は[[オランダ語|現地語]]に即して正しい表記とはいえない(おそらく「ゴイセン」はドイツ語の{{lang|de|Geusen}}(発音はゴイゼン)に由来すると思われる)。ヘーゼンのオランダ語における綴りは「{{lang|nl|Geuzen}}」であるが、この語頭の「g」は[[有声軟口蓋摩擦音]]であり、[[有声軟口蓋破裂音]]であることが多い[[英語]]の「g」や[[日本語]]の[[ガ行]]とは異なる音であるため、最近では[[ハ行]]で転写されることが増えつつある。また「オランダのカルヴァン派をゴイセンと呼んだ」という誤解があるが、これはずっと後になってから改革派をヘーゼンと特別に蔑称する用例ができたに過ぎない。[[#川口|川口博(1995)pp.15-16]]</ref>。執政マルハレータは異端審問の一時緩和を発表したが、これにより改革派が公然と低地地方で活動を開始するに至った<ref name="satohiro243"/>。
 
 
 
1566年、[[フランドル]]でカトリック教会や修道院を狙った暴動が発生し、その反乱は低地地方各地へと広まった<ref name="satohiro243"/>。フェリペが重税などの圧政を行っていたため、まだ[[プロテスタント]]が浸透していない北部にまで暴動は拡大した<ref name="satohiro243"/>。この暴動は一見宗教的動機に隠されてはいたが、実は、そのうちに深刻な経済的理由が存在していた<ref name="satohiro243"/>。これは改革派がそれほど浸透していない低地地方北部でも暴動が起こっていることからも明らかである<ref name="satohiro243"/>。この年は北欧での大規模な戦争([[北方七年戦争]])によって[[バルト海]]方面からの穀物流入が激減し、食糧難と経済危機によって低地地方の人々は苦しんでいたのである<ref name="satohiro243"/>。[[1567年]][[8月]]、フェリペは事態の収拾を図るため、[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|アルバ公]]に指揮権を与え軍隊による介入を指示し、1万ほどの軍勢とともに派遣した<ref name="satohiro243"/>。アルバ公は「騒擾評議会」なる特別法廷を設置し、暴動の参加者を徹底的に弾圧した<ref name="satohiro243"/>。さらに12月にはマルハレータに替わって執政となり、ネーデルラント貴族にこの暴動の責任を問うた<ref name="satohiro243"/>。
 
 
 
==== 八十年戦争のはじまり ====
 
{{Main|八十年戦争}}
 
[[1568年]][[6月5日]]、異端撲滅の名の下に、エフモント伯[[ラモラール・ファン・エフモント|ラモラール]]、ホールン伯[[フィリップ・ド・モンモランシー|フィリップ]]を含む大貴族20人余りがブリュッセルで処刑された<ref name="satohiro243"/>。この際、大貴族の一人であった[[ウィレム1世 (オラニエ公)|オラニエ公ウィレム1世]](沈黙公)は[[1567年]][[4月]]すでに[[ドイツ]]に逃れており無事だったが、彼ら亡命貴族の財産・領地の多くが没収された<ref name="satohiro243"/>。[[1569年]]には[[十分の一税]]を導入して、スペインの財政改善のために低地地方に経済的圧迫をもたらした<ref name="satohiro243"/>。
 
 
 
[[ファイル:WilliamOfOrange1580.jpg|180px|left|thumb|[[ウィレム1世 (オラニエ公)|オラニエ公ウィレム1世]](1533-1584)]]
 
ドイツに逃れていたオラニエ公ウィレムは1568年4月に軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻し、この抵抗運動は、ネーデルラント独立戦争へと発展した<ref name="satohiro247">[[#佐藤弘幸|佐藤弘幸(1998)pp.247-251]]</ref><ref name="ookubo183">[[#大久保1|大久保(1997)pp.183-192]]</ref>。これは、「[[八十年戦争]]」と呼ばれる長い戦いとなった(ただし、なかに12年間の休戦期間がある)。ウィレムの軍は国王ではなく「奸臣」を標的としたものであった<ref name="saku43">[[#桜田1|桜田(2011)pp.43-49]]</ref>。ウィレム軍は[[5月23日]]、[[ヘイリヘルレーの戦い (1568年)|ヘイリヘルレーの戦い]]に勝利したものの、結局は低地地方北部の制圧には失敗した<ref name="satohiro247"/>。ウィレムはフランスの[[ユグノー]]に合流し、「海乞食党(ワーテルヘーゼン)」を組織して低地地方の沿岸を無差別に攻撃・略奪した<ref name="satohiro247"/><ref name="saku43"/>。[[1572年]][[4月1日]]、海乞食党は小都市{{仮リンク|デン・ブリル|nl|Brielle|en|Brielle}}の占拠に偶然にも成功し、これを機に低地地方の港湾都市を少しずつ制圧していった<ref name="satohiro247"/><ref name="saku43"/>。同年7月、[[ホラント州]]が反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えた<ref name="satohiro247"/>。低地地方北部のホラント・[[ゼーラント州|ゼーラント]]2州に海乞食党が足場を整えると、低地南部から改革派が続々と流入し、徐々に2州の主導権を握るようになった<ref name="saku43"/>。こうして低地諸州は、反乱2州と国王に従順な他の諸州に二分され両者間の抗争が始まった<ref name="saku43"/>。北部2州のプロテスタント化は急速に進み、[[1573年]]2月にはホラント州でカトリックの礼拝が禁じられた<ref name="satohiro247"/>。このとき、オラニエ公も初めてカルヴァン派の聖餐式に参列している<ref name="saku43"/>。
 
 
 
[[1576年]]には給料の未払いから低地地方に駐留していたスペイン軍が略奪に走ると、スペインに協力的であった南部州も反乱州との提携に転じ、{{仮リンク|ヘントの和約|en|Pacification of Ghent}}が結ばれた<ref name="satohiro247"/><ref name="saku43"/>。和約は全部で25か条あるが、最初の3か条はとくにこの条約の基本性格を表していると考えられている。第1条ではスペイン王による無条件大赦を要求し、第2条では諸州の連帯と低地地方の平和維持を規定、第3条では宗教問題など諸州の問題を解決するために全国議会を開くことを決めていた<ref name="satohiro247"/>。しかしながら、この和約は全く効果的な裏付けを欠いていた。そもそも約束された諸問題の解決のための全国議会は結局開かれなかったし、条約は北部と南部が互いに都合良く解釈する余地を残していた<ref name="satohiro247"/>。たとえばフェリペ2世の意向を気にする高級官僚は早くも1576年[[11月9日]]づけの国王宛書簡で「和約」を容認したやむべき経緯を釈明した上で、和約の実施にあたっては修正を加えることを示唆している<ref name="satohiro247"/>。同様にオラニエ公ウィレムの側でも、側近がイングランド宛の書簡で宗教問題について、ホラント・ゼーラント両州では全く妥協する気がないことを述べている。このようにヘントの和約は全くその場限りの一時的な妥協に過ぎず、永続性を欠いており、状況の推移によって簡単に崩れる脆い地盤の上にあった<ref name="satohiro247"/><ref name="saku43"/>。ただし、低地地方におけるカルヴァン派教会の創設はその後も進展しており、カルヴァン主義の「ベルギー信仰告白」が第一回改革派全国大会で確認された<ref name="ookubo183"/>。
 
 
 
ヘントの和平は、宗教政策や新総督[[ドン・フアン・デ・アウストリア]]への対応などをめぐって、ホラント、ゼーラントと他の諸州の意見があわず崩壊、[[1579年]]、南部の[[エノー]]、[[アルトワ]]両州による「{{仮リンク|アラス同盟|en|Union of Arras}}」が成立、それに対し北部7州は「[[ユトレヒト同盟]]」を結んだ<ref name="saku43"/>。[[1581年]]7月、北部7州(ユトレヒト同盟)はフェリペ2世の統治権を否認した<ref name="satohiro247"/><ref name="ookubo183"/>。これはしばしばオランダ独立宣言として扱われるが、あくまでもフェリペへの抵抗姿勢の表明であった<ref name="ookubo183"/><ref name="saku43"/>。ただ、それこそがのちのネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)の成立を準備したことは確かである<ref name="satohiro247"/>。
 
 
 
=== イギリス国教会の成立 ===
 
{{See also|イングランド国教会|国王至上法}}
 
[[ファイル:Hans Holbein, the Younger, Around 1497-1543 - Portrait of Henry VIII of England - Google Art Project.jpg|180px|right|thumb|[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]](1491-1547)]]
 
テューダー朝第2代の[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]は1509年にイングランド王となり、当初は一方で修道院改革や聖職者教育の改善につとめ、他方ではルター派を弾圧して、聖餐における化体説をあらためて支持して聖職者の結婚を禁ずるなど、カトリシズム強化策をとっていたが、[[1530年]]、スペイン王家出身の王妃[[キャサリン・オブ・アラゴン]]との[[離婚]]の許可をローマ教皇庁に訴えでた<ref name="hase42"/><ref name="kume_215">[[#久米|久米(1993)pp.215-217]]</ref>。しかし、ローマ教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]はこれを受理せず、[[1533年]]にはヘンリー8世を破門に処した<ref name="hase42"/><ref name="kume_215"/>。ヘンリー8世は同年、{{仮リンク|上訴禁止法|en|Statute in Restraint of Appeals}}を定めて国王が聖俗を一元的に支配することを決定した<ref name="hase42"/><ref name="kume_215"/>。翌[[1534年]]、[[国王至上法]](首長令)によって[[イングランド国教会]]が成立し、[[イングランド議会]]は国王を国教会の首長の座にすえ、ローマ教会から離脱した<ref name="hase42"/><ref name="kume_215"/>。こうして、イギリスでは国王の離婚という私事を契機として、いわば「ローマ教会なきカトリシズム」というかたちでの宗教改革(あるいは「旧教離脱」)を実現した<ref name="kume_215"/>。イングランド国教会の内部では一時、ルター主義的諸改革がなされたものの、ヘンリー8世統治下ではやがてほぼカトリックの教理と教会規則に立ち戻る逆行現象が起こり、[[聖母マリア]]の崇敬や聖人崇敬が奨励され、聖書を私的に読むことが禁じられた<ref name="hase42"/>。イングランド国教会は以後、何度かの内部改革運動を経ながら、基本的に政教未分離のまま現代にいたっており、国教会の長である[[カンタベリー大主教]]は「全イングランドの首位聖職」として国政上も絶大な発言権を有している<ref name="kume_215"/>。
 
 
 
[[1547年]]、ヘンリー8世と[[ジェーン・シーモア]]の子エドワードは9歳でイングランド王[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]として即位した<ref name="kume_215"/>。プロテスタントとして育てられた彼は、宗教改革の推進者となり、ラテン語に代わって[[英語]]による聖書朗読をおこない、聖餐式を改め、教会内陣に聖画像を置くことを禁止し、司祭の結婚も認めた<ref name="kume_215"/>。1840年代のジュネーヴで発展したカルヴァン主義はイングランドにも波及して、イングランド国教会の教理と典礼に採用された<ref name="hase42"/>。1552年、カルヴァン神学が『[[聖公会祈祷書|一般祈祷書]]』に取り込まれた<ref name="kume_215"/>。大主教[[トマス・クランマー]]によってプロテスタント的な信仰箇条『42箇条』が答申され、王はこれに許可をあたえたのである<ref name="hase42"/>。
 
 
 
エドワードが若くして死没すると、ヘンリー8世とキャサリンの子[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]がイングランド女王として即位し、[[1555年]]、ローマ教会との和解が成立してカトリックに復帰し、没収した教会財産も返還されて、異母弟エドワードの定めた諸法を廃止、さらにヘンリーの反教皇的諸法も廃止された<ref name="kume_215"/>。福音主義的な傾向のある司教たちは次々に処刑され、迫害は一般人にもおよび、その犠牲者は273名と数えられている<ref name="hase42"/><ref name="kume_215"/>。大主教クランマーもメアリー統治下で[[殉教]]した。
 
 
 
[[ファイル:Darnley stage 3.jpg|180px|left|thumb|[[エリザベス1世]](1533-1603)]]
 
メアリーが病死して後継者として異母妹[[エリザベス1世]](ヘンリー8世と[[アン・ブーリン]]の子)が即位すると事態は再び逆転した<ref name="hase42"/>。女王は1559年に再び国王至上法を復活させてイングランド国教会を再建し、国教会を総攬する至上の統括者となった<ref name="hase42"/>。また、[[1563年]]に定められた[[39箇条]](聖公会大綱)の教義は主としてカルヴァン主義を土台としたものであった<ref name="hase42"/>。しかし、一方で長老制を退けて主教制を保持した<ref name="hase42"/>。エリザベスは「よき女王ベス」と称されて、多くの国民の支持を得た。かくしてイングランド国教会はカトリックとプロテスタントの折衷的ないし中間的な性格を有し、イギリスの場合は国家と宗教は緊密に結びついて今日に至るが、ただ、ヨーロッパ全体でみた場合、16世紀の初頭には普遍的なカトリック教会しかなかった西ヨーロッパの教会が、この世紀の中葉にはローマ教会、ルター派教会、カルヴァン派(改革派教会)、イギリス国教会の4つに分裂し、後葉にはそれがほぼ固定したともいえる<ref name="hase42"/><ref name="kume_215"/>。
 
 
 
なお、この時期のイングランドの重要な神学者に[[リチャード・フッカー]]がいる<ref name="iizaka_260"/>。彼は16世紀末葉に『教会政治論』を著し、国教会がカトリックとピューリタンの中道に立つことに賛意を表し、また、聖書解釈にあたっては伝統と同程度に理性と経験が重要であると論じた。キリスト教徒は団結すべきであると考えるフッカーは、宗教における寛容と自由を説いており、17世紀の[[ジョン・ロック]]の寛容論にとって先駆的な意味を有している<ref name="iizaka_260"/>。
 
 
 
=== 対抗宗教改革(カトリック改革) ===
 
{{See also|対抗宗教改革|イエズス会}}
 
宗教改革がヨーロッパじゅうで猛威をふるうと、カトリック教会も積極的に自己改革にのりだしたが、その動きを「[[対抗宗教改革]]」ないし「反宗教改革」と呼んでいる<ref name="kume_217">[[#久米|久米(1993)pp.217-218]]</ref>。カトリック教会の内部でしきりに発生する「異端」は、一種の内部改革であるという見方も可能である<ref name="kume_217"/>。その一例として15世紀末の[[フィレンツェ]]における修道士[[ジロラモ・サヴォナローラ]]の改革が挙げられる<ref name="kume_217"/>。彼は、その[[神権政治]]のなかで贅沢品や華美な美術品を[[シニョリーア広場]]に集めて焼却する「[[虚栄の焼却]]」をおこない、一時は[[サンドロ・ボッティチェッリ]]でさえ絵を描くのをやめてしまったほどであった。16世紀前半には、新しい修道院が多数設立され、聖職者自身の生活改革運動もさかんであった<ref name="kume_217"/>。
 
 
 
[[ファイル:Vision of St. Ignatius of Loyola.jpg|180px|right|thumb|[[イグナチオ・デ・ロヨラ]](1491-1556)]]
 
しかしもっとも本格的なカトリック改革は、[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]によって設立された修道会「[[イエズス会]]」によって推し進められた<ref name="kume_217"/>。[[バスク人]]貴族で武人でもあったロヨラは戦傷の療養生活のなかで[[回心]]し、民衆救霊運動をはじめたが、異端の嫌疑をかけられ、[[パリ大学]]で神学を学んだ<ref name="kume_217"/>。[[1534年]]、[[ピエール・ファーヴル]]や[[フランシスコ・ザビエル]]ら、自身も含めて7人で[[モンマルトル]]の丘で誓願を立て、[[1537年]]にイエズス会を創設した<ref name="kume_217"/>。ロヨラは神秘的な恍惚によらなくても人間の自然的能力の訓練によって神との合一が可能であるとし、会士たちに[[軍隊]]式の苛酷な規律と訓練を課し、「清貧」「貞潔」「服従」をモットーとした<ref name="kume_217"/><ref name="hase57">[[#長谷川2|長谷川(1997)pp.57-61]]</ref>。教皇への絶対服従を説くとともに、ギリシア・ローマの古典教育を重んじ、学院経営にも積極的であった<ref name="hase57"/>。フランスの[[出版]]・[[印刷]]業も、典礼書、公教要理、教父著作集などを大量に刊行してカトリック改革に貢献した。
 
 
 
[[1542年]]からの[[トリエント公会議]]では教会での最高権力は教皇にあるとされた<ref name="yamauchi92"/><ref name="hase57"/>。聖書と、[[伝承]]にもとづく信仰上の真理と制度の総体とが信仰のよりどころであり、人間には「自由意志」があること、救いにおいては神の恩恵と人間の行いが等しく重要であること、7つの[[秘蹟]]と化体説とを維持することなどが決定された<ref name="hase57"/>。また、[[司教]]の権限を強化し、聖職者の質の向上と監督とを司教に課した<ref name="hase57"/>。これら一連の決定事項には、プロテスタンティズムに対する非妥協的な方向性がみてとれる<ref name="hase57"/>。フランスの王権は[[ガリカニスム]](フランス教会自立主義)のために公会議の決定を王国の法として受容することは拒否したが、にもかかわらず、公会議の精神にもとづく改革が主として聖職者の手で推し進められていった<ref name="hase57"/>。
 
 
 
イエズス会の創設とトリエント公会議の開催は、カトリック教義の正統性の再確認であると同時に超国家的な組織・制度であるカトリック教会の中央集権化をめざしたものであり、全欧州的に広がる領邦教会体制の進展に呼応する動きとみなすことができる<ref name="baubérot_19"/>。公会議の決定やイエズス会の熱心な活動によって、[[16世紀]]末までにはバイエルン、フランス、オーストリア、[[ポーランド]]、[[チェコ]]がカトリックの勢力圏に入った<ref name="yamauchi92"/>。
 
 
 
=== 東方の宗教改革と宗教的寛容 ===
 
[[ファイル:Konfederacja Warszawska.jpg|300px|right|thumb|ワルシャワ連盟規約(1573年)
 
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96人のシュラフタが連盟に加わった。]]
 
宗教改革の影響は東方にもおよび、[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]では[[1520年代]]には[[バルト海]]沿岸などにルター派が、[[1540年代]]には[[ヤン・フス]]の流れを汲む[[モラヴィア兄弟団|ボヘミア兄弟団]](モラヴィア教会)やカルヴァン派の教義が[[シュラフタ]](貴族)層に広がり、[[1562年]]にはカルヴァン派のなかから急進的な[[ユニテリアン|反三位一体派]](ユニテリアン)が分離して{{仮リンク|ポーランド兄弟団|en|Polish Brethren|pl|Bracia polscy}}を形成した<ref name="koyama_131"/>。ポーランドでは、宗派対立よりもシュラフタにおける身分的紐帯の方が上まわり、もともと[[東方正教会]]などカトリック以外の宗派も存在していたこともあって、多様な宗派の共存が可能であった<ref name="koyama_131"/>。[[1570年]]には、{{仮リンク|サンドミエシ|pl|Sandomierz}}でルター派、カルヴァン派、ボヘミア兄弟団の三者間の相互協力が成立している<ref name="koyama_131"/>。また、[[1573年]]、シュラフタによる[[国王自由選挙]]がおこなわれた[[ポーランド・リトアニア共和国]]において、空位期の治安のためワルシャワ連盟が組織され、そこでは、宗派間の寛容を保障する[[ワルシャワ連盟協約]]が締結された<ref name="watanabe"/><ref name="nabe_21">[[#渡辺克義|渡辺克義(2017)pp.21-23]]</ref><ref name="koyama_127">[[#小山哲|小山哲(1998)pp.127-131]]</ref>。規約には、「…異なった信仰と諸教会における差異のために血を流すことをせず、財産没収、名誉剥奪、投獄、追放によって罰しない」([[小山哲]]訳)と記されている<ref name="nabe_21"/>。
 
 
 
[[ファイル:Jan Zygmunt Zapolya.jpg|180px|left|thumb|[[ヤーノシュ・ジグモンド]](1540-1571)]]
 
一方、16世紀前半、ハプスブルク家の支配のもとにあった[[ハンガリー王国]]は、[[1526年]]の[[オスマン帝国]]との[[モハーチの戦い]]での大敗ののち、[[1529年]]と[[1541年]]の2度にわたって[[スレイマン1世]]の親征を受け、その過程で、オスマン直轄領、ハプスブルク支配域、オスマンの宗主権を認めつつも高度な自治権を有する[[東ハンガリー王国]](のちの[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア侯国]])に三分された<ref name="toya_99">[[#戸谷|戸谷(1999)pp.99-100]]</ref>。この地域では、[[イスラーム]]への大量改宗は起こらなかったが、都市部においては[[ハンガリー人]]と[[オスマン人]]の日常的な交流がみられた<ref name="toya_99"/>。民族的には、ハンガリー人、[[セーケイ人]]、サース人([[ザクセン人]])と称されたドイツ人などによる多民族社会で、ヴロフと呼ばれた牧羊民や[[ルーマニア]]系などは少数派であった<ref name="toya_99"/><ref name="kos_93">[[#コーシュ|コーシュ(1991)pp.93-110]]</ref>。東ハンガリーの君主となったのは、トランシルヴァニア出身でかつて[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]]に対抗してハンガリーの[[対立王]]となった[[サポヤイ・ヤーノシュ]]の嗣子、[[ヤーノシュ・ジグモンド]]であった<ref name="toya_99"/><ref name="kos_93"/>。[[1556年]]、[[コロジュヴァール]]の国会はトランシルヴァニアのハンガリー王国からの独立と新国家の財政のための教会所領地の世俗化を宣言した<ref name="kos_93"/>。トランシルヴァニア侯となったヤーノシュ・ジグモンドは自身[[ユニテリアン]]の信仰に立っていたが、[[1564年]]にカルヴァン派の信仰を公認し、[[1568年]]にはカトリック、ルター派、カルヴァン派を公認宗教として認めるトランシルヴァニア侯国議会の議決を受けて、全面的な信教の自由を認める[[トゥルダ勅令]]を発布した<ref name="kos_93"/><ref name="toya_107">[[#戸谷|戸谷(1999)pp.107-113]]</ref>。[[1571年]]には他のヨーロッパで異端とみなされた反三位一体派(ユニテリアン)を公認宗教に加えた<ref name="kos_93"/><ref name="toya_107"/>。トランシルヴァニアを含む旧ハンガリー王国領では、新教擁護と信仰の自由をかかげるトランシルヴァニア侯の威光は絶大で、かつ長期にわたり、その点でハンガリーは1620年代以降プロテスタント勢力がほぼ一掃されてしまったオーストリアやボヘミア諸邦とは好対照をなしている<ref name="toya_107"/>。ただし、トランシルヴァニア侯国議会に代表を送ることができたのは、ハンガリー、セーケイ、ザクセンの「3民族」だけであり、農業や[[遊牧]]にたずさわった当時のルーマニア系住民の宗教である[[東方正教会]]の信仰は、寛容されるだけにとどまった<ref name="toya_107"/>。
 
 
 
[[ファイル:GabrielBethlen.jpg|thumb|right|160px|[[ベトレン・ガーボル]](1580-1629)]]
 
ポーランドやトランシルヴァニアの例は、政教分離の先駆的な形態と見なすことができる<ref name="watanabe"/>。ポーランドにあっては16世紀末葉にカトリック側の攻勢が強まり、宗教的寛容は停滞したが、トランシルヴァニアではカトリックの[[バートリ・ジグモンド]]、反乱ののちトランシルヴァニア侯に認められたカルヴァン派の[[ボチカイ・イシュトヴァーン]]、同じくカルヴァン派の[[ベトレン・ガーボル]]、{{仮リンク|ラコーツィ・ジェルジ1世|en|George I Rákóczi|hu|I. Rákóczi György}}など、歴代の君主は自身の宗教いかんにかかわらず宗教寛容策を継続した<ref name="kos_93"/><ref name="toya_107"/>。これは、当時にあって他に比類ないものであった<ref name="koyama_131"/><ref name="toya_107"/><ref name="itohy_176">[[#伊藤義明|伊藤義明(1998)pp.176-181]]</ref>。とくにベトレン・ガーポルは、[[再洗礼派]]やユダヤ式の土曜安息日派の宗教も認め、カトリックに対しても複数の教会を返還して司教総代理を許可し、イエズス会士は国内では禁じられていたものの何人かは入国を許すなど、公平な宗教政策を展開し、政治、法律、経済、軍事、文化、教育の各方面で多大な業績をあげた<ref name="kos_93"/><ref name="toya_107"/>。
 
 
 
トランシルヴァニアは16世紀から17世紀にかけての中東欧において、その宗教的寛容で名を馳せ、ジョルジオ・ビランドラタ、ヨハネス・ゾンマー、クリスチャン・フランケン、ヤコブス・パレオロゴス、マティアス・ヴェヘ=グリリウスなど故国を追われた神学者たちは、この地に隠れ棲んだのである<ref name="itohy_176"/>。
 
 
 
=== フランスにおけるコンフェッショナリズムの展開 ===
 
{{See also|コンフェッショナリズム|ユグノー}}
 
 
 
「[[コンフェッショナリズム]]」とは、もともとはキリスト教の[[プロテスタント]]諸会派において、信仰無差別論に対し、自身の信仰や[[教義]]の防衛義務を主張する立場をさしていたが、やがて「宗教上の信条的対立が政治闘争の形をとる状態」を指し示す用語となった{{Sfn|福田歓一|1985|p=256}}<ref name="confess">[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0-169842 コトバンク「コンフェッショナリズム」]</ref>。特に中世において普遍宗教とされたカトリック教会が16世紀以降の[[宗教改革]]によって教会分裂を余儀なくされ、それにともなう抗争が激化した16世紀から17世紀にかけての[[ヨーロッパ]]の政治状況をさしている<ref name="confess"/>。
 
 
 
[[ファイル:King Henry IV of France.jpg|180px|right|thumb|[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]](1553-1610)
 
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ナヴァル王(アンリ・ド・ナヴァル)にして[[ブルボン朝]]初代のフランス王。カルヴァン主義を奉じ、[[ユグノー]]からは信仰の保護者として期待された。「三アンリの戦い」を生き抜き、フランス王位継承後、カトリックに改宗する一方、[[1598年]]に「[[ナントの勅令]]」を発布してカルヴァン派も含めた[[信教の自由]]を認め、[[ユグノー戦争]]を終結させた。]]
 
上述したように、ドイツやスイスでは宗教改革の帰結として宗教戦争が起こり、16世紀のドイツでは[[騎士戦争]](1522年-1523年)、[[ドイツ農民戦争]](1524年-1525年)、[[ミュンスターの反乱]](1534年)、[[シュマルカルデン戦争]](1546年-1547年)、[[第二次辺境伯戦争]](1552年-1555年)など一連の宗教戦争の結果、各領邦で[[国教]]制度をとる[[領邦教会制度]]が成立したが、17世紀の大規模な宗教戦争となった[[三十年戦争]](詳細後述)はヨーロッパ各国をまきこんで長期化し、ここでは再びドイツが主戦場となって大きな損害を被った{{Sfn|福田歓一|1985|p=256}}。宗教改革にともなう教会分裂によって[[神聖ローマ帝国]]はしだいに衰退し、[[主権国家体制|主権的国家]]が登場して、これにより政治の世俗化が方向づけられた<ref name="yamauchi92"/>。イギリスでは16世紀に[[イングランド国教会]]が成立し、17世紀には[[清教徒革命]](1641年-1649年)が起こった。[[イスパニア]]は[[対抗宗教改革]]の拠点となって、そこでは[[ウルトラモンタニズム]](教皇中心主義)が採られた{{Sfn|福田歓一|1985|p=256}}。そのイスパニアの支配から逃れようとしたのがネーデルラント(オランダ)である{{Sfn|福田歓一|1985|p=256}}。ネーデルラントでは[[カルヴィニズム]]が社会をリードし、イスパニアへの抵抗は経済的要因も含んで長期化した。これが[[八十年戦争]](1568年-1648年)である<ref name="confess"/>。
 
 
 
こうしたなか、フランスはコンフェッショナリズムの激突が最も典型的におこった国である<ref name="confess"/>{{Sfn|福田歓一|1985|p=257}}。フランスはカトリック信仰の強い国であったが、カルヴァンの祖国でもあり、宗教改革においては[[カルヴァン派]]が主流であった{{Sfn|福田歓一|1985|pp=257-258}}。彼らは「[[ユグノー]]」と呼ばれ、カトリック教会から弾圧を受けた<ref group="*">「ユグノー」という用語は当初は蔑称であり、プロテスタント側はこの語を使っていなかった。語源的にはスイスにおいて[[サヴォイア公国|サヴォワ公]]に反対した「連合派 ({{Lang|de|Eidgenossen}})」に由来するといわれ、[[民間信仰]]における「ユゴン王」に結びつけられていた。この「ユゴン王」は一種の化け物である。[[#木崎|木崎(1997)pp.20-21]]、{{Harvnb|金哲雄|2003|p=2}}</ref>。16世紀後葉のフランスでは[[ユグノー戦争]](1562年-1598年)という内戦が起こり、そのなかからカトリックに対抗するカルヴァン派の[[抵抗権]]理論が発展して「[[モナルコマキ]]」を主張する暴君放伐論者が現れ、一方では主として知識人のなかから宗教的寛容を説く思潮が生まれた<ref name="confess"/>。
 
 
 
歴史的には、ユグノー、フランス王権、カトリック勢力の三者間の政治闘争を通じ、フランス絶対王政が形成されていった<ref>[[#小山 2011|小山啓子(2011)pp.111-113]]</ref>。
 
 
 
==== フランスの宗教戦争 ====
 
フランスにおいても[[宗教改革]]と通じる[[福音主義]]的思想が現れた。その最初期のものとしては、[[ジャック・ルフェーヴル・デタープル]]による[[パウロ]]の書簡の注解([[1512年]])やフランス語訳新約聖書([[1523年]])があげられる。しかし[[パリ大学]]の神学者や[[パリ高等法院]]から弾圧され、デタープルがストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた{{Sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1996|pp=99-101}}。[[1533年]]にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、[[1534年]]にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こるなど、改革派の影響は衰えず、1550年代にはカルヴァンの指導の下で組織化が図られるようになった{{Sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1996|pp=101-111}}。
 
 
 
===== ユグノー戦争 =====
 
{{Main|ユグノー戦争|サン・バルテルミの虐殺}}
 
神聖ローマ皇帝カール5世の好敵手であったフランス国王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]は、ナヴァル王家に嫁いだ姉の[[マルグリット・ド・ナヴァル|マルグリット・ダングレーム]]とともに人文主義や改革運動に理解があり、当初は改革派を保護していたが、上述の[[檄文事件]]をきっかけに新思想に対して態度を硬化させ、1534年から翌年にかけて書籍商や印刷業者を含む20名を処刑するなどプロテスタント弾圧にまわり、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した<ref name="hase45">[[#長谷川2|長谷川(1997)pp.45-48]]</ref>。後継者の[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]は[[1547年]]に特設異端審問法廷を設け、2年間で61名を追放刑、39名に死刑を課し、[[1551年]]の{{仮リンク|シャトーブリアン勅令|en|Edict of Châteaubriant}}によって、さらに弾圧を強化した<ref name="hase45"/>。
 
 
 
これに対しカルヴァンは[[1555年]]以降ジュネーヴで養成された牧師をフランスに派遣し、[[1559年]]には第1回全国[[改革派教会]]会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて組織化を進めた<ref name="hase48">[[#長谷川2|長谷川(1997)pp.48-53]]</ref>。このころから[[ブルボン家]]やコンデ親王家をはじめとする貴族が改革派へ参加した。とくにブルボン家などの大貴族層は、政敵であるカトリックの大貴族[[ギーズ公|ギーズ家]]への対抗という政治的意図から改宗を選んだといわれている。
 
 
 
[[ファイル:Huguenot in 17c.png|300px|left|thumb|[[ユグノー]]の多く居住する地域([[17世紀]])]]
 
フランスのプロテスタンティズムにとって、1559年から[[1565年]]にかけては一大拡張期であった。プロテスタントの教会はとくに南フランスに多数現れ、北部はパリや[[ルーアン]]、[[オルレアン]]などの都市部を拠点として分散していた<ref name="hase48"/>。改宗者総数は、およそ200万人程度と推計され、当時の人口の10パーセントほどを占めたと考えられる<ref name="hase48"/>{{Sfn|金哲雄|2003|p=2}}。この時期がユグノー人口の最盛期であり、ユグノー戦争によって5パーセント程度まで減少したと考えられる{{Sfn|金哲雄|2003|p=2}}。改宗者の内訳は[[貴族]]・[[農民]]・[[手工業|手工業者]]・[[商人]]・[[銀行業|金融業者]]など多様な社会階層に及んだ{{Sfn|金哲雄|2003|p=56}}。そのうち貴族層は政治的意図も濃厚だったので、その目的が達成されたユグノー戦争後には、プロテスタント信仰を離れる場合も多かった。ユグノーが大きな勢力を持った南部では、農民層にもプロテスタンティズムが浸透したが、全体からみればとりわけ[[ブルジョワジー|ブルジョア]]層への浸透が広範囲におよんだ<ref name="hase48"/>。なお、[[マックス・ウェーバー]]は、フランスの改革派が「フランス工業の資本主義的発展の最も重要な担い手の一つだった」と述べ、彼らが16世紀から17世紀にかけてのフランス経済に大きな影響を及ぼしたことを指摘している<ref>[[#ウェーバー|マックス・ウェーバーp.28]]</ref><ref group="*">[[イマニュエル・ウォーラーステイン]]もまた『近代世界システム 1600-1750』において、ブルボン朝下のナント勅令の廃止がフランス産業革命の立ち後れをもたらしたと指摘する。{{Harvnb|金哲雄|2003|p=14}}。<br />ただし、ウェーバーの研究に影響を受けた日本の[[大塚史学]]では、ユグノーの経済史的役割に対する評価は概して冷淡である。{{Harvnb|金哲雄|2003|pp=5,20-28}}。</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Catherine de Medicis.jpg|180px|right|thumb|[[カトリーヌ・ド・メディシス]](1519-1589)
 
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アンリ2世の妃でイタリア出身。夫の死後は相次いで息子を即位させて実権掌握を図った。]]
 
1559年、アンリ2世が[[イタリア戦争]]終結を祝う席の[[馬上槍試合]]で不慮の事故によって死去すると、後継の[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]は病弱で若年だったため王権は弱体化し、カトリック強硬派の[[ギーズ家]]が勢力を伸ばし、[[フランソワ (ギーズ公)|ギーズ公フランソワ]]やその弟[[シャルル・ド・ロレーヌ (1524-1574)|シャルル・ド・ロレーヌ]]が実権を掌握し、ブルボン家の[[アントワーヌ (ヴァンドーム公)|アントワーヌ]]とその弟[[ルイ1世 (コンデ公)|コンデ親王ルイ]]、武人として知られる[[ガスパール・ド・コリニー]](コリニー提督)などのプロテスタント勢力がそれに対抗、さらに故アンリ2世の妃で母后として息子を後見した[[メディチ家]]出身の[[カトリーヌ・ド・メディシス]]が王権護持と王国統一維持のために宮廷から権謀術数を弄して政局は複雑化し、ここに王家と改革派、カトリック強硬派の三つどもえの抗争が生じた<ref name="hase53">[[#長谷川2|長谷川(1997)pp.53-57]]</ref>。
 
 
 
こうした状況のなか、[[1560年]]にはギーズ家の影響排除を狙って改革派が国王フランソワを拉致しようとして失敗した「[[アンボワーズの陰謀]]」、[[1562年]]にはカトリック派によって北東フランスの[[ヴァシー]]でユグノーが虐殺される「[[ヴァシーの虐殺]]」など不穏な事件が相次いだ。この虐殺事件を契機として最初の武力衝突が起こり、以後[[1598年]]の[[ナントの勅令]]公布までの間フランスは断続的な内戦状態に陥った<ref name="hase53"/>。これを「[[ユグノー戦争]]」と呼んでいる。この宗教戦争では、どのような和解や妥協も両勢力から拒否され、国王殺害さえも宗教によって正当化され、行政も司法も所属する派閥に支配されて統制を失ったことから、王政はほとんど機能不全に陥った<ref name="price_074">[[#プライス|プライス(2008)pp.74-80]]</ref>。この間、王権の宗教政策もめざましく転変し、[[1562年]]の{{仮リンク|サン・ジェルマン勅令|en|Edict of Saint-Germain}}をはじめ、8次にわたる戦争の終結のたびにプロテスタントの公的礼拝は無制限ないし制限付きで認められるが、すぐにこの約束は反故にされた<ref name="hase53"/>。
 
 
 
[[ファイル:Francois_Dubois_001.jpg|300px|left|thumb|[[サン・バルテルミの虐殺]]
 
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ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹[[マルグリット・ド・ヴァロワ|マルグリット]]の結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年の[[バルトロマイ|サン・バルテルミ]]の祝日([[8月24日]])にカトリック派が襲った。この事件の影響はたちまち全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ。]]
 
この内戦のなかで最も凄惨な様相を呈したのは、[[1572年]]の[[サン・バルテルミの虐殺]]とみられている<ref name="hase53"/><ref name="price_074"/>。[[1570年]]の和議によってユグノーは大幅な信教の自由を認められ、そうしたなかで改革派のコリニー提督が国務会議の構成員として迎えられたが、コリニーは翌[[1571年]]には宮廷内で影響力を増大させ、国王[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]に執拗に迫って、新教国と連携してフランスを[[八十年戦争]]に介入させようとした<ref name="hase53"/>。これに対し、イスパニアとの戦争を望まない母后カトリーヌは提案は反対し、ついにはコリニーの暗殺の意志を固めるのである<ref name="hase53"/>。聖バルテルミの祭日にあたる1572年[[8月24日]]が決行の日に選ばれた<ref name="hase53"/>。命令はおそらくシャルル9世から発せられたものと思われる<ref name="price_074"/>。かくしてコリニー提督は、アントワーヌの子でユグノーの若き指導者と目される[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ・ド・ナヴァル]](のちの[[ブルボン朝]]初代アンリ4世)と王妹(カトリーヌ・ド・メディシスの娘)[[マルグリット・ド・ヴァロワ]]の婚礼の儀に集まったカルヴァン派貴族数十名とともに[[ルーブル宮]]で殺害された<ref name="hase53"/>。事態はこれで収まらず、パリではその後3日間にわたって、カトリック教徒が2,000とも3,000ともいわれるプロテスタントを襲撃し、虐殺におよんだ<ref name="hase53"/>。12の地方都市をあわせると約1万人が虐殺され、両勢力による暗殺、[[婦女暴行]]、[[拷問]]、[[略奪]]が相次いだ<ref name="price_074"/>。
 
 
 
サン・バルテルミの事件は改革派のあいだに恐慌を引き起こした。かれらの一部はジュネーヴに亡命し、他の一部はカトリックに改宗したが、さらに、[[1574年]]には第1回改革派政治会議を開いてカルヴァン派の優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、オランダの改革派と結びついて、ほとんど独立国家の組織をもつ「南部連合州」が形成された<ref name="hase53"/>。[[1581年]]にはアンリ・ド・ナヴァルを「保護者 ("''Protecteur''")」として推戴した。アンリは改革派の総大将として軍事指揮権と改革派支配地での司法官や財務官の任命権を得たが、一方でユグノーの顧問会議によってその権力は制限されていた<ref name="hase53"/>。これには後述するユグノーの共和政的政治思想の影響も無視できない{{Sfn|S・ムール|1990|loc=訳者まえがき、p.19}}{{Sfn|福田歓一|1985|pp=258-262}}。
 
 
 
一方、カトリック貴族も[[アンリ1世 (ギーズ公)|ギーズ公アンリ]]を中心に「[[カトリック同盟 (フランス)|カトリック同盟]](ラ・リーグ、"''la Ligue''")」を結成し、独自の軍事組織を持った<ref name="hase53"/>。この内戦にローマ教皇は積極的にカトリック支援を意図して介入し、とくに[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]はサン・バルテルミの虐殺においてカトリック同盟を支持した。また[[グレゴリウス14世 (ローマ教皇)|グレゴリウス14世]]は旧教同盟支援のために軍隊を派遣した。かくして政治闘争はますます激化し、ユグノーの背後にはオランダとイングランドが、カトリック同盟の背後にはスペインと教皇庁が存在するかたちで、内戦は国際的な宗派対立と密接に連動していた。
 
 
 
思想面では、こうした状況のなかで2つの著作が発表され、相反する見解が表明された。ひとつは著者不明の『暴君に対する反抗の権利』([[1579年]])で、いまひとつは[[ジャン・ボダン]]の『国家論六編』([[1576年]])であった<ref name="price_074"/>。これについては、'''「[[#モナルコマキとポリティーク|モナルコマキとポリティーク]]」'''の節で詳述する。
 
 
 
===== 三アンリの抗争とナントの勅令 =====
 
{{Main|ナントの勅令}}
 
[[ファイル:Edit de nantes.jpg|right|thumb|250px|[[ナントの勅令]](1598年)]]
 
 
 
アンリ2世夫婦の子であるフランソワ2世とシャルル9世はともに夭折し、その弟で[[国王自由選挙]]によって[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]王となっていたヘンリクは[[1574年]]に兄のシャルル王が死去すると祖国フランスに「逃亡」し、[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]として即位した<ref name="hase53"/>。ハプスブルク家のスペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が[[1580年]]ころから[[アンリ1世 (ギーズ公)|ギーズ公アンリ]]率いるカトリック同盟を露骨に援助するようになると、国王アンリ3世はユグノーに接近した<ref name="hase53"/>。しかし、王弟[[フランソワ (アンジュー公)|アンジュー公フランソワ]]が[[1584年]]に死去し、第一王位継承権が王の[[従兄弟]]であり、妹[[マルグリット・ド・ヴァロワ|マルグリッド]]の配偶者でもあるブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルに移るにおよんで、事態はいっそう緊迫した<ref name="hase53"/>。カトリック強硬派にとって、プロテスタントの国王の誕生は看過しがたいことだったからである<ref name="hase53"/>。ここにおいて、いわゆる「{{仮リンク|三アンリの戦い|fr|Guerre des Trois Henri|en|War of the Three Henrys}}」はいっそう複雑な様相を呈した<ref name="hase53"/>。カトリック同盟が再び結成され、第8次の、そして最後のユグノー戦争が始まった<ref name="hase53"/>。
 
 
 
アンリ3世はいったんカトリック同盟側に歩み寄ったが、カトリック勢力は異端撲滅に失敗した彼のフランス国王としての資格を問題にしたため、王は同盟の指導者ギーズ公アンリとも激しく対立し、刺客を放って[[1588年]]にギーズ公を暗殺させた<ref name="hase53"/><ref name="price_074"/>。そして今度は、カトリック同盟を敵にまわしてアンリ・ド・ナヴァルと結んだが、翌1589年、国王もまた同盟側のカトリック修道士によって「邪悪な[[ヘロデ大王|ヘロデ王]]」の名のもとに暗殺され、ナヴァル王アンリのみがのこった<ref name="hase53"/><ref name="price_074"/>。ここにおいて、フランス王家として260年つづいた[[ヴァロワ朝]]が断絶した。
 
 
 
1589年、アンリ3世の死によってアンリ・ド・ナヴァルが新王宣言をおこない、アンリ4世としてフランス国王に即位した<ref name="hase53"/><ref name="price_074"/>。新国王アンリは血統においては正統な継承者ではあったが。ユグノー勢力の総大将でもあったので、カトリック貴族たちは信仰と既得権益を失うことを恐れ、すなおに新国王の継承権を認めようとはせず、執拗に抵抗した<ref name="hase53"/><ref name="price_074"/>。パリはカトリック同盟の「16区総代会」という組織の支配下にあり、新王の入市を拒んだため、アンリ4世は首都にさえ入れなかった<ref name="hase53"/>。しかし、彼は[[1593年]]にカトリックに改宗し、カトリック信者の支持を獲得することに成功し、翌年、敬虔な王の装いのもとパリ入城を果たし、[[シャルトル大聖堂]]で成聖式を迎えることができた<ref name="hase53"/>。カトリック同盟の残党もつぎつぎにアンリ4世に帰順した<ref name="hase53"/>。秩序回復を求める国民の声、スペインの介入に対する懸念の広がりなども新王に味方した<ref name="price_074"/>。
 
 
 
アンリ4世のカトリック改宗に対して、今度は改革派側が危機感を覚え、改革派政治会議を全国組織とし、[[1595年]]から[[1597年]]の間、王権と並ぶ統治機関として機能させた。この会議はオランダの改革派との合同も模索したが、これに対しアンリ4世は改革派に対し、カルヴァン派も含めてその[[信教の自由]]を一定程度認める[[ナントの勅令]]を[[1598年]]に発布し、スペインとも和を結んだ<ref name="hase53"/><ref name="price_074"/>。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った<ref name="hase53"/>。これにより、長い宗教戦争に一応の終止符が打たれたことになる<ref name="hase53"/><ref name="price_074"/>。プロテスタントは、ひとつの身分として王国のなかに位置づけられたのである。
 
 
 
とはいえ、ナントの勅令はあくまでも妥協の産物であった<ref name="price_074"/>。信仰の自由は完全とはいえず、カトリックとプロテスタントに対する扱いも平等ではなかった。あくまでプロテスタントへの寛容を表明するにとどまっていた。また、プロテスタント側の支配する200余の都市において、礼拝の自由が行政と軍によって保障されるという内容でしかなかったともいわれている<ref name="price_074"/>。しかしながら、勅令は国家を絶対的であると同時に、政治的な党派や地域的なまとまりの上に立つ統率者、調停者と見なすことにつながったので、国家の権威をいっそう強固なものにした<ref name="baubérot_19"/>。
 
 
 
ナントの勅令の実施状況の監督にあたっては、各州の改革派とカトリックの双方から選ばれた国王親任官が各教区を巡回した。ただし、パリ高等法院やカトリックの聖職者たちはともすればこの勅令を非寛容な方向に厳密に解釈して適用しようとし、種々の[[訴訟]]を起こして改革派を陰に陽に弾圧しようとした。1610年、改革派にとって最大の後ろ盾であったアンリ4世が狂信的なカトリック教徒によって暗殺された<ref name="hase53"/><ref name="price_074"/>。以降、改革派内部には明確な亀裂が生じ、北部の[[パリ]]や[[ノルマンディ]]の改革派は王権への服従とカトリックとの妥協を目指す「穏健派」を形成し、南部の[[ギュイエンヌ]]や[[ラングドック]]の改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に[[王権神授説]]に傾いたが、強い危機感を抱いた新教徒は何度か武装蜂起を試みた<ref name="hase53"/>。しかし、その都度鎮圧され、やがて新教徒はその軍事力を国家により取り上げられた<ref name="hase53"/>。
 
 
 
==== モナルコマキとポリティーク ====
 
上述のように、ユグノー戦争ではコンフェッショナリズムが最も激しいかたちで展開し、フランスの国家と社会は深刻な分裂状態に陥った。そのなかで、近代における「信教の自由」や「「主権国家」の考え方につながる思想も現れてきた。それがモナルコマキとポリティークである<ref name="hase_216">[[#長谷川3|長谷川(1997)pp.216-220]]</ref>。政治的立場としては、他に、上述したラ・リーグなどカトリック強硬派があった<ref name="hase_216"/>。都市民衆にはここに加わる人びとも少なくなかった<ref name="hase_216"/>。また、新教徒同様、国王の専制を嫌い、国家における自らの影響力教化をねらう穏健派カトリック貴族のなかには「不満派」というべき勢力が形成され、かれらは拡大された国務会議と全国三部会と国王による、主権の共同行使を求めた<ref name="hase_216"/>。
 
 
 
===== 抵抗の理論、モナルコマキ =====
 
{{See also|モナルコマキ}}
 
[[ファイル:Theodore-de-Beze-2.jpg|180px|right|thumb|「モナルコマキ」のひとり、[[テオドール・ド・ベーズ]](1519-1605)]]
 
カルヴァン自身は信徒に反乱や抵抗を認めなかったが、カルヴァン死後のカルヴァン派は国家からの弾圧に抵抗し、上述のように1572年には聖バルテルミの虐殺事件が発生した{{Sfn|福田歓一|1985|pp=258-259}}。その翌年、ジュネーヴの[[テオドール・ド・ベーズ]]は『臣民に対する為政者の権利について』において、人民の同意しない僭主や、また正当な君主であっても権力を濫用する場合の[[抵抗権]]を主張した<ref name="hase_216"/>{{Sfn|福田歓一|1985|pp=258-259}}。ただし、ベーズは、抵抗する資格のない個人の権利については制限しており、抵抗する資格があるのは次位の為政者、具体的には大貴族や三身分会であるとしている{{Sfn|福田歓一|1985|p=259}}。
 
 
 
同年、[[フランソワ・オットマン]]著『フランコガリア』が刊行され、[[ゲルマン人]]の伝統である等族国家の「祖先の良き法」によって絶対主義に対抗する思想を表明した{{Sfn|福田歓一|1985|p=260}}。ローマ人が専制政治を持ち込み、ゲルマン人には本当の自由があるという観念は、18世紀の[[シャルル・ド・モンテスキュー]]も「自由はゲルマンの森より」と述べており、こうしたゲルマン的自由を制度にしたものが[[選挙王政]]や[[等族国家]]における[[立憲主義]]とみなされた{{Sfn|福田歓一|1985|p=260}}。
 
 
 
暴君への抵抗理論の典型例といわれるのが、「ユニウス・ブルートゥス」なるペンネームの著者が著した『暴君に対する自由の擁護』(『暴君に対する反抗の権利』)である{{Sfn|福田歓一|1985|pp=260-261}}。この[[パンフレット]]では、君主は「神の代理人」として神の法を行う義務を負うと述べ、『[[旧約聖書]]』を引用して、神、君主、人民の間には契約があるとする{{Sfn|福田歓一|1985|p=261}}。したがって、君主が神の法を侵した場合には服従しなくてもよいということになる{{Sfn|福田歓一|1985|p=261}}。そしてベーズ同様に、王に抵抗できるのは次位の為政者である貴族だけであるとされ、ここでも等族国家をモデルとした考えがうかがえる{{Sfn|福田歓一|1985|pp=261-262}}。一方、近隣の暴君の支配に苦しむ国に干渉戦争をおこなうことは、真の宗教を擁護することであるとして肯定される{{Sfn|福田歓一|1985|p=262}}。このような暴君放伐論者は[[モナルコマキ]](''Monarchomaque'')と称された{{Sfn|福田歓一|1985|p=262}}。
 
 
 
カトリック側でも虐殺は行き過ぎだとする反省の意見が出てくると、これに反発するイエズス会などのカトリック強硬派がユグノーをもっと弾圧すべきであると主張し、リーグとよばれる同盟を結んだ{{Sfn|福田歓一|1985|pp=263}}。1584年に王位継承者がアンリ・ド・ナヴァルとなったとき、将来的にユグノーの王が出現する可能性が生じたため、これを抑える意見としてユグノー側から発せられたモナルコマキの理論を借用して、権力は人民から来ており、契約違反があれば抵抗権が認められると主張した{{Sfn|福田歓一|1985|pp=263}}。イエズス会の[[ロベルト・ベラルミーノ]]は『至高の権力について』においてローマ教皇の権威を強調し、[[ジャン・ブーシェ]]が国王アンリ3世暗殺ののち『アンリ3世の正統な退位について』でアンリは契約違反であったと論じた{{Sfn|福田歓一|1985|pp=263-264}}。このほか、イスパニアのマリアナや[[フランシスコ・スアレス]]がおり、スアレスは国法と[[自然法]]を区別したことによって[[フーゴー・グローティウス]]の先駆者とされる{{Sfn|福田歓一|1985|pp=264-265}}。しかし、リーグの教皇至上主義([[ウルトラモンタニズム]])は、フランスの国益という観点から支持されなくなり、また暗殺のような手段をとったことで勢力を失った{{Sfn|福田歓一|1985|pp=264-265}}。
 
 
 
===== 寛容の理論、ポリティーク =====
 
{{See also|ポリティーク|主権#主権概念の歴史}}
 
[[ファイル:Jean Bodin.jpg|right|thumb|180px|「ポリティーク」の理論家として国家主権の理論を定式化した[[ジャン・ボダン]](1530-1596)]]
 
抵抗理論が現れる一方で、国家を重視し、宗教よりも世俗の秩序を優先させる、いいかえれば宗教上の寛容によって内戦を終結させる「[[ポリティーク]]」(''Politique'')と呼ぶ勢力が現れた<ref name="hase_216"/>{{Sfn|福田歓一|1985|p=266}}。王国の統一のためには新旧両教徒は教理を超えて市民として平和的に共存すべきだとするもので、政教分離の土台となる考え方のひとつである<ref name="hase53"/>。ポリティークの支持者は[[官僚]]層や[[ブルジョワジー]]に多く、宗派の争いによる政治の混乱を避けた<ref name="hase53"/>{{Sfn|福田歓一|1985|p=267}}。
 
 
 
ポリティークの代表的論者は[[ジャン・ボダン]]であった。ボダンはサン・バルテルミの虐殺後に著した『国家論六編』([[1576年]])において、国家を「多くの家族とそれらの間で共通の事柄との主権的権力を伴った正しい統治」と定義している{{Sfn|福田歓一|1985|p=270}}。彼によれば、家族は[[家父長]]のもとに統治され、さらに家族相互の武力抗争の結果、勝った者が[[主権者]]となり、勝利者に従っていたものが[[国民]]になり、負けた者は[[奴隷]]になる{{Sfn|福田歓一|1985|p=271}}。ここでの「国民」(citoyen)とは、他人の主権に依存するが、しかし自由な「臣民」(sujet)である{{Sfn|福田歓一|1985|p=271}}。ボダンは中世的な国王大権を発展させて、[[主権]]概念を定式化した。この主権とは、「見えざる主権」であって、国家を支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限であり、国家にあっては国王にのみ固有のものである<ref name="baubérot_19"/>。彼は宗教戦争に対する反省から、「家族においても国家においても主権者はただ1人でなければならない」とし、これに反するいかなる説も「暴君による悪政にも劣る放埓なアナーキー」の状態を招くとしてこれを断罪した<ref name="price74">[[#プライス|プライス(2008)pp.74-77]]</ref>。彼によれば、「国家の絶対的な権力が主権」であり、「主権による統治が国家」なのであって、主権は国家そのものと分かちがたく結びついている。すなわち、伝統的な[[封建制]]や従来の[[身分制]]社会では、国王と末端の被支配者である人民との間に、大貴族や群小の領主のように中間権力が存在したが、ボダンはここに主権概念を設定することによって、中間権力を排除して、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義しなおしたのである<ref name="hase_216"/>{{Sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1996|pp=141-143}}。
 
 
 
同じころ、『[[エセー]]』の著者で[[モラリスト]]の[[ミシェル・ド・モンテーニュ]]は穏健派として新旧両教派の融和に努め、「[[良心の自由]]」を擁護している<ref name="hase53"/>。
 
 
 
信仰的にはカトリックにとどまりつつもローマ教皇から一定の距離を置く[[ガリカニスム]](フランス教会自立主義)を奉じる人びとの多くも、ポリティークの潮流に加わった<ref name="takazawa12">[[#高澤|高澤(2006)pp.12-15]]</ref>。教皇や皇帝に対してはフランスの独立を掲げ、国内にあっては神から直接権限を委託された存在として王権の強化を図ろうとするこのグループが、アンリ4世の周囲で国政の主流を担うことになる<ref name="takazawa12"/>。ヨーロッパ国際政治の焦点であったユグノー戦争は、王国分裂の危機のなかで主権国家の論理を明確なかたちで立ち上げた<ref name="takazawa12"/><ref name="hayashida155">[[#林田|林田(2001)pp.155-163]]</ref>。フランスにあっては、それが[[絶対王政]]というかたちとなって次代に展開していくのである<ref name="hase_216"/><ref name="takazawa12"/>。
 
 
 
== 主権国家体制の成立と政教関係の新展開 ==
 
[[16世紀]]は、[[スペイン]]・[[ポルトガル]]の両[[カトリック]]国が南北[[アメリカ大陸]]や[[アジア]]・[[アフリカ]]の諸地域に進出していく一方、ヨーロッパ内部では、[[ドイツ]]や[[スイス]]の地を中心に[[マルティン・ルター|ルター]]、[[ツウィングリ]]、[[カルヴァン]]らによって[[宗教改革]]が始まり、[[プロテスタント]]の思想がヨーロッパ各地に広がって教会は分裂し、各地で[[宗教戦争]]が発生した。そうしたなかで、スイスと[[オランダ]]では[[ハプスブルク家]]支配からの自立傾向が強まり、ドイツでは領邦教会制度が確立、[[フランス]]では[[ユグノー戦争]]のなかから[[ナントの勅令]]が発せられ、[[イギリス]]では[[イングランド国教会]]という新しい教会が建てられて、宗派による一種の棲み分けが実現されつつあった。[[ポーランド]]や[[トランシルヴァニア]]では寛容政策が採られ、制限付きながら[[信教の自由]]が実現した。思想的には、[[カルヴァン派]]のなかから暴君討伐論([[モナルコマキ]])、世俗主義的立場からは[[ポリティーク]]の考え方が現れた。[[17世紀]]前半、最大にして最後の宗教戦争である[[三十年戦争]]が起こるが、これはヨーロッパ中を巻き込むかたちで展開し、一方では宗教戦争の枠に収まらない世俗的性格を有していた。
 
 
 
=== オランダの独立と宗教的寛容 ===
 
{{See also|八十年戦争|ネーデルラント連邦共和国}}
 
1581年7月26日、低地地方の全国議会においてフェリペ2世の「国王廃位布告」が議決されたものの、新しい君主としてフランス王アンリ3世の弟[[フランソワ (アンジュー公)|アンジュー公フランソワ]]の即位が決まっていた<ref name="saku43"/>。カトリック教徒であるアンジュー公を国王として迎えることについては低地地方側にも懸念がないわけではなかったが、新君主の即位は現君主の廃位を前提とするものであって、外交交渉の場においてオラニエ公ウィレムは抜群の指導力を発揮していた<ref name="sakurada31">[[#桜田2|桜田(2017)pp.31-44]]</ref>。ところが、新君主アンジュー公は反乱指導部の意に反してあまりに力量不足で、[[クーデタ]]未遂事件を起こした挙句フランスに逃げ帰ってしまった<ref name="saku43"/><ref name="sakurada31"/>。ホラント、ゼーラントの両州は、もともとアンジュー公即位に対し強い警戒心をもっており、こうなった以上はオラニエ公自身をフェリペの後任にすえようと画策した<ref name="sakurada31"/>。しかし、[[1584年]]6月にアンジュー公が病死したのにつづき、7月にはオラニエ公自身がカルヴァン派を装って彼に近づいたカトリック教徒に暗殺されてしまった<ref name="saku43"/><ref name="sakurada31"/>。翌年、南部の中心都市[[アントウェルペン]]が敵軍の手に落ちた<ref name="sakurada31"/>。北部反乱諸州はなおも外国の君主に主権を委ねようと努めたがアンリ3世には断られ、イングランドのみは女王エリザベス1世が反乱勢力の支援要請に応えて[[ロバート・ダドリー (初代レスター伯)|レスター伯ロバート・ダドリー]]を救援軍の派遣は認めたものの、彼は[[ユトレヒト同盟]]の内紛に介入して事態をかえって悪化させ、軍事的成果は何らあげられぬまま[[1587年]]11月にイングランドに帰った<ref name="saku43"/><ref name="sakurada31"/>。
 
 
 
ここに至って北部反乱諸州は[[1588年]]、ようやく独力でこの難局を乗り切る決意を固め、みずから主権を担うことを決意した<ref name="saku43"/><ref name="sakurada31"/>。オランダ独立への歩みを踏み出したのはまさにこの時であった<ref name="sakurada31"/>。執政[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|パルマ公アレッサンドロ]]の軍が[[ブリュッセル]]を陥落させ南部から着実に進軍するなか、フェリペ2世は1588年、パルマ公に対し、スペイン無敵艦隊による対イングランド作戦への参加を命じた([[アルマダの海戦]])<ref name="sakurada31"/>。フェリペの主な関心がイギリス・フランスに向いたのはオランダ人にとっては幸いであった<ref name="saku43"/>。フェリペ2世は[[1589年]]には、ユグノーの指導者アンリ・ド・ナヴァルのフランス王位継承を阻むため、パルマ公にフランスへの進軍を命じたのである(パルマ公は[[1592年]]末、戦傷と[[過労]]がもとで同地で死去した)<ref name="sakurada31"/>。
 
 
 
[[ファイル:Willem Lodewijk van Nassau 1560-1620.jpg|180px|right|thumb|ウィレム・ローデウェイク(1560-1620)
 
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マウリッツ(1567-1625)とともにオランダ軍事革命をになった。]]
 
 
 
父ウィレムの遺志を継いだ[[マウリッツ (オラニエ公)|オラニエ公マウリッツ]]は、従兄の{{仮リンク|ウィレム・ローデウェイク・ファン・ナッサウ|nl|Willem Lodewijk van Nassau-Dillenburg|en|William Louis, Count of Nassau-Dillenburg}}とともに[[軍事革命|軍制改革]]をおこない、スペイン軍への反撃を開始した<ref name="saku43"/><ref name="sakurada31"/>。2人は{{仮リンク|ヨーロッパ軍事革命|en|Military Revolution}}の先駆者といわれ、とくにウィレム・ローデウェイクは[[火縄銃]]の連続斉射を考案したことで知られる<ref name="sakurada31"/>。一方、ホラント州法律顧問の{{仮リンク|ヨハン・ファン・オルデバルネフェルト|nl|Johan van Oldenbarnevelt}}は外交関係の改善に尽力し、[[1596年]]にはイギリス・フランス両国と対等の同盟を結ぶことに成功した<ref name="saku43"/>。エリザベス1世もアンリ4世も連邦共和体制のオランダを独立した政治勢力として扱ったのである。軍事的には、[[1588年]]から[[1598年]]までの10年間で[[ライン川]]や[[マース川]]などの大河川以北に展開していたスペイン軍はすべて一掃され、これに加えて[[北ブラバント州|ブラバント州]]の北西部が制圧されたが、わけてもオラニエ公ウィレムの居城があった[[ブレダ (オランダ)|ブレダ]]の奪回は数ある戦闘のなかでも象徴的な意味をもっていた<ref name="sakurada31"/>。[[1609年]]にはスペインとの間に「{{仮リンク|十二年休戦条約|en|Twelve Years' Truce}}」が成立した<ref name="saku43"/><ref name="sakurada31"/>。これは事実上、一時的ではあれスペインがオランダを独立国家として認めたことを意味していた<ref name="sakurada31"/><ref name="satohiro251">[[#佐藤弘幸|佐藤弘幸(1998)pp.251-255]]</ref>。こうして低地地方の反乱は、北部の[[ネーデルラント連邦共和国|連邦共和国]]の誕生という予想外の結果を生んだ。
 
 
 
従来、低地地方の経済的繁栄はアントウェルペンやヘント、ブリュージュを中心とする南部のフランドル地方に限られており、連邦共和国として独立した北部のオランダは南部の後塵を拝する地域であったが、1590年代以降はアムステルダムを中心とする北部が繁栄するようになって、その立場は逆転した<ref name="ookubo296">[[#大久保2|大久保(1997)pp.296-302]]</ref>。近世の西ヨーロッパでは、政治的な理由から大量の[[難民]]が発生し、大規模な人口移動を引き起こした事象として、15世紀末のスペインからのユダヤ人追放、16世紀中葉のスペイン領ネーデルラントからのプロテスタントの流出、16世紀末葉のネーデルラントの南部から北部の大量移住、17世紀後半のフランスからのユグノーの集団亡命の4例が挙げられるが、16世紀末葉のそれは、これらのうち最大のものであった<ref name="ookubo296"/>。
 
 
 
[[ファイル:Rembrandt - Klesveverlaugets forstandere i Amsterdam.jpg|380px|left|thumb|[[レンブラント・ファン・レイン]]『織物組合の見本検査人たち』(1662年)
 
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オランダでは聖母子や聖人、君主や学者だけではなく、市井に生きる一般人が多く描かれた。上の集団肖像画では、無帽の召使いを除いて5人の組合幹部が描かれ、その所属宗派がすべて判明している<ref name="sakurada70">[[#桜田2|桜田(2017)pp.70-78]]</ref>。左からカトリック、[[メンノー派]]、カルヴァン派(議長)、[[レモンストラント派]]、カトリックである<ref name="sakurada70"/>。
 
]]
 
 
 
[[1621年]]、三十年戦争の展開は低地地方をも巻き込み、スペインとの再戦となったが、この時期の[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]軍の指揮をとったのはマウリッツとその腹違いの弟[[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|フレデリック・ヘンドリック]]であった<ref name="saku43"/>。父の政治能力と兄の軍事能力を兼ね備えた人物と評価されたフレデリック・ヘンドリックの時代、オランダの国力はおおいに伸長し、[[1602年]]創設の[[オランダ東インド会社]]などを中心に積極的に海外進出に乗り出した。低地諸州のハプスブルク家への反抗から始まった八十年戦争は、さらに[[1648年]]の「ミュンスターの講和」([[ヴェストファーレン条約]])までつづき、南部国境地帯の争奪戦として展開される<ref name="saku43"/>。
 
 
 
議会が国政を主導したオランダ共和国は、同時代人の証言によれば、17世紀中葉にあってはカトリック、カルヴァン派、その他(他宗派や態度保留者など)がそれぞれ人口の約3分の1ずつをしめ、多様な宗教が共存する社会であった<ref name="sakurada63">[[#桜田2|桜田(2017)pp.63-70]]</ref>。しかし、人口の過半数も達しないカルヴァン派がこの国の唯一の公認宗教であり、その内部には神学者[[ヤーコブス・アルミニウス]]の主張を支持する[[アルミニウス派]](寛容派、[[レモンストラント派]])と{{仮リンク|フランシスクス・ホマルス|nl|Franciscus Gomarus}}を支持するホマルス派(厳格派、コントラレモンストラント派)の論争など[[カルヴァン派]]の教義をめぐって激しい対立があった<ref name="satohiro251"/><ref name="sakurada63"/>。ただし、オランダの場合には、一方で厳格派と穏健派のあいだに「だれとでもうまくやろうとする人々」と称される中間派の層が厚かったことも事実である<ref name="sakurada63"/>。12年にわたるスペインとの休戦期間にはカルヴィニズムの内部闘争が生じ、厳格派のオラニエ公マウリッツが教義上の問題でアルムニウス主義を奉じる法律顧問ファン・オルデバルネフェルトを死刑に処し、「国際法の父」として知られる[[フーゴー・グローティウス]]を禁固刑に処するという事態も生じている<ref name="sakurada63"/>。この対立はまた、教義をめぐる対立であったと同時に、オランダが反乱州から独立国家へと歩みをすすめる過程で終始主導権をにぎっていたマウリッツや海乞食団ら改革派亡命者(ホマルス自身もその一人であった)と、土着の上層市民との主導権争いという性格もおびていた<ref name="satohiro251"/>。
 
 
 
しかし、全体からみればオランダは当時のヨーロッパで最も世俗化が進み、宗教的多様性が認められた地域であった<ref name="baubérot_19"/><ref name="sakurada70"/>。迫害されたユダヤ教徒やプロテスタントの少数派を受け入れ、カトリックに対しても寛容な姿勢を示した<ref name="baubérot_19"/>。限定的であり、現代における「[[信教の自由]]」には遠く及ばないまでも、オランダが周辺国家にさきがけて宗教的寛容を実現した国であったのも事実である<ref name="baubérot_19"/><ref name="sakurada70"/>。三十年戦争中、理神論者の[[ルネ・デカルト]]に安住の地をあたえ、[[イングランド王政復古]]の時代には[[ジョン・ロック]]を亡命者として受け入れたのも新思想に寛大なオランダならではのことであった<ref name="ookubo302">[[#大久保2|大久保(1997)pp.302-307]]</ref>。亡命中のジョン・ロックと意気投合したオランダの{{仮リンク|フィリップ・ファン・リンボルヒュ|nl|Philipp van Limborch}}もまた、終生にわたって宗教的寛容を説いた<ref name="sakurada63"/>。フランス人プロテスタントで寛容を説いた[[ピエール・ベール]]もまた、晩年は[[ロッテルダム]]で活動したのである。
 
 
 
=== 三十年戦争 ===
 
{{Main|三十年戦争}}
 
[[ファイル:Thirty Years War involvement graph.svg|400px|right|thumb|三十年戦争の参戦国
 
<center>
 
{| cellpadding="4" border="0"
 
|-
 
| style="background:#ff0000; width:25px"|
 
| 反皇帝勢力(直接的)
 
|-
 
| style="background:#ff8080; width:25px"|
 
| 反皇帝勢力(間接的)
 
|-
 
| style="background:#000000; width:25px"|
 
| 親皇帝勢力(直接的)
 
|-
 
| style="background:#999999; width:25px"|
 
| 親皇帝勢力(間接的)
 
|}
 
</center>
 
----
 
上から、Emperor(神聖ローマ皇帝), Bavalia(バイエルン), Saxony(ザクセン), Palatinate(プファルツ選帝侯), Hesse-Kassel([[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル]]), Brandenburg(ブランデンブルク), Russia(ロシア), Dutch(オランダ), Denmark([[デンマーク=ノルウェー|デンマーク]]), Sweden([[バルト帝国|スウェーデン]]), France(フランス), England(イングランド), Savoy([[サヴォイア公国|サヴォイア]]), Transylvania([[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア]]), Spain(スペイン), Papacy(ローマ教皇), Poland([[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]])]]
 
ドイツにおけるプロテスタント諸侯とカトリックの対立は[[1570年代]]以降再燃し、[[ケルン大司教]]職をめぐる紛争ではカトリック側が勝利した<ref name="sakaguchi_105">[[#阪口3|阪口(2001)pp.105-112]]</ref>。
 
 
 
[[1608年]]、カルヴァン派の[[プファルツ選帝侯]]によって[[プロテスタント同盟]](ウニオン)が結成されるとこれにオランダが協力し、翌[[1609年]]、[[バイエルン選帝侯]]を中心に[[カトリック連盟]](リーガ)が結成されると、[[スペイン]]がこれを後援して[[コンフェッショナリズム]]の様相を呈した<ref name="sakaguchi_105"/>。[[ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国]]の君主{{仮リンク|ヨハン・ヴィルヘルム (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク大公|en|John William, Duke of Jülich-Cleves-Berg|label=ヨハン・ヴィルヘルム}}が1609年に死去すると、公位継承問題が発生し、[[ブランデンブルク]][[選帝侯]]の[[ヨーハン・ジギスムント]]は新教に改宗してプロテスタント同盟に加盟、カトリックの国フランスも新教陣営に加わった<ref name="Sigfrid">[[#シュタインベルク|シュタインベルク(1973)pp.401-409]]</ref>。これに対し、[[プファルツ=ノイブルク公]]の[[ヴォルフガング・ヴィルヘルム (プファルツ=ノイブルク公)|ヴォルフガング・ヴィルヘルム]]はローマ教会に入ってカトリック連盟に加盟、神聖ローマ皇帝もこれを後押しした<ref name="sakaguchi_105"/><ref name="Sigfrid"/>。この対立は{{仮リンク|ユーリヒ継承戦争|en|War of the Jülich Succession}}へと発展したが、フランス王アンリ4世の死もあって規模は拡大せず、[[1614年]]の[[クサンテン条約]]で講和した<ref name="Sigfrid"/>。遺領は、ユーリヒとベルクがブランデンブルク選帝侯、クレーフェなど3邦がプファルツ=ノイブルク公によってそれぞれ分割相続された<ref name="Sigfrid"/>。この戦争は三十年戦争の前哨戦となった(ただし、後述するシュタインベルクの見解にしたがえば、この戦争も「三十年戦争」も一連の戦争の一部ということになる)。
 
 
 
神聖ローマ帝国内のカトリック、プロテスタント両勢力の対立は三十年戦争に発展した<ref name="nakamura"/><ref name="30years">[[#中村賢二郎1|中村賢二郎(1988)pp.488-489]]</ref>。[[1617年]]、ハプスブルク家の[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]](のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)が[[ボヘミア王国|ボヘミア王]]に即位した。彼は、幼少より[[イエズス会]]の教育を受けた熱烈なカトリック教徒であり、プロテスタント弾圧を開始した<ref name=GGM30G>[[#木村・成瀬・山田編 1997]],pp.485-507.</ref>。[[1618年]][[5月23日]]、弾圧に抗議した急進改革派のボヘミア貴族が、皇帝顧問官マルティニツとスラヴァタおよび書記官3名を言い合いのうち[[ボヘミア]]([[チェコ]])の[[プラハ城|プラハ王宮]](フラチャニ城)の窓から突き落とす[[プラハ窓外投擲事件]]が起こった<ref name=GGM30G/><ref name="ookubo192">[[#大久保1|大久保(1997)pp.192-200]]</ref>。
 
 
 
ボヘミアの領邦等族は対抗してフェルディナントを罷免し、新教同盟の[[プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]を新しいボヘミア王に迎えた<ref name="sakaguchi_105"/>。1619年、[[フランクフルト]]の帝国議会でフェルディナントが神聖ローマ皇帝に選出されると、彼はスペインと旧教連盟と組んで反乱貴族の鎮圧に向かい、ボヘミアの新教徒は処刑され、フリードリヒはボヘミアを追われた<ref name="sakaguchi_105"/>。以後、ボヘミアではカトリック化政策が断行された<ref name="sakaguchi_105"/>。このように、三十年戦争の直接的な原因は宗教対立にあり、宗教戦争としてはヨーロッパ最後のものになったが、一方では皇帝と帝国[[等族国家|等族]]の対立、領邦君主と領邦等族の対立などもからみ、以下にみるように、単純に宗教戦争の枠組みに収まらない複雑な経過をたどった<ref name="sakaguchi_105"/><ref name="ookubo192"/>。
 
 
 
三十年戦争は、おおむね以下の4つの段階に分類して説明されることが多い<ref name="sakaguchi_105"/><ref name="30years"/>。なお、ジークフリート・シュタインベルクは、「三十年戦争」とは1610年頃から1660年頃までにおよぶ、ヨーロッパの勢力均衡をめぐる約50年間の抗争、つまり、休戦や和平によって中断された12の戦争のうち、その間の一部をさす便宜的な名称とみなしている<ref name="Sigfrid"/><ref name=GGM30G/>。
 
* 第1段階:ボヘミア(ベーメン)・プファルツ戦争(1618年 - 1623年)
 
* 第2段階:デンマーク戦争(1625年 - 1629年)
 
* 第3段階:スウェーデン戦争(1630年 - 1635年)
 
* 第4段階:フランス・スウェーデン戦争(1635年 - 1648年)
 
 
 
三十年戦争に当初から一貫して参戦していた国は、実際のところ神聖ローマ帝国内でもそれほど多くはなく、皇帝ハプスブルク家以外にカトリックを終始奉じていたのはバイエルンだけであったし、新教側だったはずのザクセンやブランデンブルクも当初は及び腰で、途中で皇帝側に鞍替えしたのであった<ref name="ookubo192"/>。帝国外でも終始一貫して親皇帝勢力として戦ったのはスペインだけだった<ref name="ookubo192"/>。プロテスタント側では、常に関与していたのがオランダ共和国で、国内の戦争に忙殺されながらも主として資金援助をつうじて反皇帝側を支援した<ref name="ookubo192"/>。したがって、三十年戦争が「神聖ローマ帝国内の紛争として始まり、北欧諸国の参戦によって国際戦争に発展した」という説明は必ずしも正確ではなく、むしろ、スペインとオランダの敵対関係を最初から内包していたのであり、換言すれば、それゆえにこそ戦争は長期化したのである<ref name="Sigfrid"/><ref name="ookubo192"/>。いずれにせよ、多くの国々がそれぞれ異なる目論見と戦略によって、それぞれの方法でこの戦争に参加したのである<ref name="ookubo192"/>。なお、スイス盟約者団はこの戦争において中立政策を採用したが、実際には多数のスイス人[[傭兵]]がスウェーデンの陣営で戦っていた<ref name="morita79">[[#森田|森田(1998)pp.79-81]]</ref>。他国との傭兵契約同盟とスイスの中立とが矛盾したものとは考えていなかった<ref name="morita79"/>。しかし、アルプスの峠道の封鎖や戦争激化にともなう領土侵犯から国境を保全するため、盟約者団会議は[[1640年]]には諸邦による国境防衛軍の創設を決定し、以降、武装中立政策がとられ、それにともなって連邦的組織化が進んでいった<ref name="morita79"/>。
 
 
 
三十年戦争において、対立の芽は大小合わせていくつもあったと思われる。大久保桂子の見解にしたがい、あえて単純化して主要なものを空間的に取り出すならば以下の3つのラインがあげられる<ref name="ookubo192"/>。
 
 
 
# 皇帝の本拠地[[ウィーン]]からボヘミア、東部ドイツを経て[[バルト海]]沿岸にいたるほぼ南北のライン
 
# [[ライン川]]の上流(ライン・プファルツ)から西部ドイツを横断して低地地方の南部と北部の境界にいたるライン
 
# 北イタリアから[[アルプス山脈]]の西側、[[フランシュ=コンテ地域圏|フランシュ=コンテ]]、[[アルザス]]の両地方を経由して神聖ローマ帝国とフランス王国の境界にいたるライン
 
 
 
[[ファイル:Attributed to Jacob Hoefnagel - Gustavus Adolphus, King of Sweden 1611-1632 - Google Art Project.jpg|180px|left|thumb|スウェーデン王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ・アドルフ]](1594-1634)
 
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オランダにならい[[軍事革命]]を推進した天才的な軍人国王として知られる。ドイツ遠征中の[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]で戦死した<ref name="Sigfrid"/>。
 
]]
 
 
 
1.についていえば、戦略的に北への勢力拡大を図るハプスブルク家と、それを阻止しようとするバルト海沿岸諸国の対立に相当し、1620年代後半のデンマーク([[デンマーク=ノルウェー|デンマーク=ノルウェー同君連合]])や1630年以降のスウェーデン(「[[バルト帝国]]」)の参戦は、これを裏打ちする歴史事象である<ref name="ookubo192"/>。
 
 
 
2.は、オランダとスペイン、フランスとオーストリアの対立が交錯するラインである<ref name="ookubo192"/>。[[1635年]]のフランスの参戦はそのことを示しているが、以後、[[ラインラント]]で攻囲戦や合戦が多発して激戦地となった<ref name="ookubo192"/>。[[1631年]]から[[1632年]]にかけて、「北方の獅子」といわれた軍人王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]率いるスウェーデン軍の大遠征がザクセンから西に向かって[[マインツ]]に至ったのも、この一帯の戦略的重要性を物語っている<ref name="ookubo192"/>。
 
 
 
3.は、[[ミラノ]]から[[ブリュッセル]]まで1000キロメートルあまりつづく街道とほぼ重なっており、これは当時「{{仮リンク|スペイン街道|en|Spanish Road}}」と呼称されていた<ref name="ookubo192"/>。この街道は、スペインの主要補給路であり、西ヨーロッパにおけるスペイン覇権を支える生命線ともなっていた<ref name="ookubo192"/>。スペインは実のところ、オランダとの戦争(八十年戦争)および三十年戦争遂行にあたっての戦費や物資の供給、兵員そのものさえ一切を「大スペイン王国」の一員たる[[ミラノ公国]]と[[ジェノヴァ]]の商人・銀行家たちに依存していたのである<ref name="ookubo192"/>。スペインの意図として同じハプスブルク一族の神聖ローマ皇帝を支援し、帝国内のカトリック勢力を維持拡大させる目的で参戦したことはもとより間違っていないが、しかし、より直接的にはスペインの存亡を握るこの街道を固守するためであった<ref name="ookubo192"/>。したがって、ボヘミア新教徒の反乱がライン=プファルツへと波及した時点で早々と参戦を決めたのである<ref name="ookubo192"/>。北イタリアから[[フランドル地方]]に至るスペインの軍事回廊に強い関心を抱いたのは言うまでもなくフランスであり、[[イタリア戦争]]をはじめ、北イタリアをめぐっては[[ヴァロワ朝]]の時代から[[ハプスブルク家]]との抗争を繰り返してきた経緯がある<ref name="ookubo192"/>。[[1629年]]、ミラノ公国と[[ヴェネツィア共和国]]にはさまれた小国[[マントヴァ公国]]の公位をめぐってフランスとスペインのあいだで軍事衝突が起こった<ref name="Sigfrid"/><ref name="ookubo192"/>。これは両国の全面戦争,{{仮リンク|マントヴァ継承戦争|en|War of the Mantuan Succession}}へと発展した<ref name="Sigfrid"/><ref name="ookubo192"/>。戦争の結果、ケラスコ条約によってフランスの支持した[[カルロ1世・ゴンザーガ=ネヴェルス|ヌベール公シャルル]]がマントヴァ公位に就き、イタリアにおけるオーストリアとスペインの独占状態がくずれた<ref name="Sigfrid"/>。
 
 
 
[[ファイル:Michiel Jansz. van Mierevelt - Portrait of the Duke of Wallenstein.jpg|180px|right|thumb|皇帝軍傭兵隊長[[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン]](1583-1634)]]
 
[[1631年]]、フランスとスウェーデンは[[ベールヴァルデ条約]]を結んで同盟を組み、フランスがスウェーデン軍を資金的に援助して軍人王グスタフ・アドルフを後押しした<ref name="sakaguchi_105"/><ref name="Sigfrid"/>。スウェーデン軍は[[ブライテンフェルトの戦い (1631年)|ブライテンフェルトの戦い]]や[[レヒ川の戦い]]をはじめとして各地で勝利を収め、前線は南下した<ref name="sakaguchi_105"/><ref name="ookubo192"/>。窮地に陥った神聖ローマ皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]はいったん罷免された傭兵隊長の[[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン]]をふたたび皇帝軍の総司令官に任命して巻き返しを図った<ref name="sakaguchi_105"/>。両者は[[1632年]]の[[リュッツェンの戦い]]でまみえ、破竹の勢いだったスウェーデン軍はグスタフ・アドルフを失ったが戦いには勝利し、宰相[[アクセル・オクセンシェルナ]]はプロテスタント勢力の結集を図って南ドイツまで進軍した<ref name="sakaguchi_105"/><ref name="ookubo192"/>。一方のヴァレンシュタインは、独断で敵対勢力と和平を結んだりしたので皇帝の猜疑を受け、[[1634年]]には皇帝から派遣された軍隊に殺害されてしまった<ref name="sakaguchi_105"/>。スウェーデン軍は1634年の[[ネルトリンゲンの戦い (1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]で、スペインからの援軍を受けた皇帝軍に初めて大敗北を喫し、翌年、皇帝と[[プラハ条約 (1635年)|プラハ条約]]を結び、講和した<ref name="sakaguchi_105"/><ref name="ookubo192"/>。この戦況の変化に危機感をいだいた[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の宰相[[リシュリュー]]はオクセンシェルナの要請に応えて、同盟条約を更新し、[[1635年]]、ラインラントに侵攻した。今まで背後にひかえていたフランスの登場で戦況は再び逆転し、以後、宗教的な要素は薄れて抗争は完全に政治的性格を帯びるようになった<ref name="sakaguchi_105"/><ref name="ookubo192"/>。三十年戦争の最後の10年間は、神聖ローマ帝国は西からのフランス軍、北東からのスウェーデン軍による破壊的な侵略を受け、事態は泥沼化を呈した<ref name="ookubo192"/>。膠着状態がつづくなか[[1641年]]頃には和平の気運が高まり、同年、和平交渉をおこなう約束もなされたが、実際の交渉が始まったのは[[1645年]]になってからであった<ref name="sakaguchi_105"/>。この間、フランスとスペインは、[[1643年]]、フランドル国境に近いフランス北部で衝突し、大会戦となった([[ロクロワの戦い]])<ref name="Sigfrid"/><ref name="ookubo192"/>。フランスはこれに大勝したが、この戦いはスペインが西ヨーロッパの覇者の地位から転落し、フランスがそれに取って代わるという、歴史的にみて重大な意味をもっていた<ref name="ookubo192"/>。
 
 
 
=== ヴェストファーレン条約 ===
 
{{Main|ヴェストファーレン条約|ヴェストファーレン体制}}
 
[[ファイル:Westfaelischer_Friede_in_Muenster_(Gerard_Terborch_1648).jpg|400px|left|thumb|「ミュンスター条約締結の図」([[ヘラルト・テル・ボルフ]]画)
 
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[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]([[ミュンスター]]および[[オスナブリュック]]条約)では[[改革派教会|カルヴァン派]]が新たに容認された。]]
 
 
 
[[1647年]]10月、スペイン王室は、17世紀に入って3度目の[[破産]]布告を発し、翌年1月、ドイツ西部[[ヴェストファーレン|ヴェストファーレン地方]]の[[ミュンスター]]においてオランダとの講和条約に調印し、八十年戦争が終結した<ref name="ookubo203">[[#大久保1|大久保(1997)pp.203-209]]</ref>。これによりスペインはオランダの独立を認め、あわせて国境線の画定をおこなった<ref name="satohiro251"/>。同年10月にはスウェーデン軍にボヘミアの首邑[[プラハ]]を攻囲された神聖ローマ皇帝[[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]が、ミュンスターとそれに約44キロメートル離れた[[オスナブリュック]]で話し合われてきた三十年戦争の講和条約に、ついに応じざるを得なくなった<ref name="ookubo203"/>。この話し合いには1645年からの3年間でヨーロッパ諸国とドイツ諸邦の君主194名、全権委任者176名が加わり、ヨーロッパ初の国際会議となった<ref name="sakaguchi_112">[[#阪口3|阪口(2001)pp.112-117]]</ref>。こうして[[1648年]]10月24日、オスナブリュックの講和条約、通称「[[ヴェストファーレン条約]](ウェストファリア条約)」が調印された<ref name="ookubo203"/>。
 
 
 
ヴェストファーレン条約の内容は、大きくは国際問題にかかわることとドイツの国内問題にかかわることに分けられ、前者においては領土変更ないし確定が合意された<ref name="sakaguchi_105"/>。[[ロレーヌ]](ロートリンゲン)の[[メス (フランス)|メス]](メッツ)、[[トゥール (ムルト=エ=モゼル県)|トゥール]]、[[ヴェルダン]]や[[アルザス]](エルザス)の一部{{仮リンク|スンゴー|fr|Sundgau|de|Sundegau}}(ズントガウ)などがフランスに割譲され、これによりフランスの勢力が一部ではあるがライン川に達した<ref name="sakaguchi_112"/>。スウェーデンは[[シュチェチン]](現、ポーランド)を含む西[[ポメラニア|ポンメルン]]、また、[[フェルデン (アラー)|フェルデン]]と[[ブレーメン]]の大司教領を獲得して、さらに、神聖ローマ帝国の議席も得た<ref name="Sigfrid"/><ref name="sakaguchi_112"/>。このように、フランスとスウェーデンは三十年戦争の最大の勝利者であり、この条約の保証国となった<ref name="sakaguchi_112"/>。また、スイス連邦とネーデルラント連邦(オランダ)は,神聖ローマ帝国に対する法的な諸義務から解放され、主権をもつ独立の共和国として正式に承認された<ref name="Sigfrid"/><ref name="sakaguchi_112"/>。スイスの独立は、三十年戦争を通じて終始中立を維持してきた結果であった<ref name="morita79"/>。一方、スペインは和平の対象からはずされ、その結果、フランスとスペインの抗争は[[1659年]]の[[ピレネー条約]]まで続いた<ref name="sakaguchi_112"/>。スペインとしてはオランダと単独講和したことによりフランスとの戦争を継続できたわけである<ref name="Sigfrid"/>。ドイツ諸侯の得失はフランス、スウェーデン、オーストリアの都合次第で決定され、西ポンメルンを失った代わりに東ポンメルンを得、また、カミンやハルバーシュタット、[[ミンデン (ノルトライン=ヴェストファーレン)|ミンデン]]の諸司教領を加えたブンランデンブルクが北ドイツの雄として登場することとなった<ref name="Sigfrid"/><ref name="sakaguchi_112"/>。
 
 
 
ドイツの国内問題としては、宗教問題と帝国国制の問題がある。宗教問題に関しては[[アウクスブルクの和議|アウクスブルクの平和令]]の有効性が再確認された<ref name="sakaguchi_112"/>。ただ宗派的対立の原因のひとつとなった1552年を基準とする「聖職者にかんする留保」の条項は破棄され、そのかわりに[[1624年]]を標準年と定め、その時点での宗派の分布が基準とされた<ref name="Sigfrid"/><ref name="sakaguchi_112"/>。また、カルヴァン派も公認され、カトリック、ルター派とならぶ権利を獲得した<ref name="Sigfrid"/>。さらに、今後宗教問題にかんしては帝国議会内で福音主義団(プロテスタント会派)とカトリック会派が別々に協議したうえで、多数決ではなく、両者の合意によって決定されることとした<ref name="sakaguchi_112"/>。これにより、宗教問題が帝国内の紛争の原因となることは原則なくなった<ref name="sakaguchi_112"/>。また、ハプスブルク諸領域以外にあっては、公認の諸宗派に属さない信徒であっても、私的な礼拝や[[良心の自由]]、[[移住]]の権利が認められたが、神聖ローマ帝国内においては、[[信教の自由]]は領邦君主にのみ許されるという原理は変わらず、個人の宗派選択の自由は認められなかった<ref name="Sigfrid"/><ref name="sakaguchi_112"/>。
 
 
 
[[ファイル:Europe map 1648.PNG|500px|right|thumb|[[ヴェストファーレン体制]]下のヨーロッパ]]
 
国制にあっては、[[神聖ローマ皇帝]]の権限が大きく後退し、[[等族国家|帝国等族]]の権利が強化された<ref name="sakaguchi_112"/>。[[宣戦布告]]や法の発布など、帝国の重要な決定にあたっては必ず帝国等族の同意が必要とされた<ref name="sakaguchi_112"/>。また、帝国等族が従来有していた諸権利が改めて承認されるとともに、皇帝と帝国への忠誠に反しない限りという留保をともないつつも外国との[[交戦権]]や条約調印権さえ認められた<ref name="sakaguchi_112"/>。これにより諸侯は[[国際法]]上の[[主権]]も一部認められたことになる<ref name="sakaguchi_112"/>。かくして皇帝による一元的支配の追求と諸侯の側の[[連邦制]]への志向との間で起こった1世紀におよぶ闘争の歴史は終焉をむかえ、皇帝と帝国等族の二元主義は帝国等族の側に大きく傾いて「ドイツの自由」が[[国是]]となった<ref name="Sigfrid"/><ref name="sakaguchi_112"/>。ただし、ここにおける自由とは「帝国等族の自由」であって、それをフランスとスェーデンが強国として保証しようということであった<ref name="sakaguchi_112"/>。その意味ではドイツの[[国民国家]]としての統一と権力国家への発展の道が阻害され、ドイツの政治的後進性とハプスブルク家の弱体化がもたらされた<ref name="sakaguchi_112"/><ref name="wes">[[#木村・成瀬・山田編 1996]],p3</ref>。他方、連邦制的な領邦の分裂は文化や教育の普及などをもたらし、この面では集権的国家よりむしろ優れた面をもっていた<ref name="sakaguchi_112"/>。また、ハプスブルク家に関しては、オーストリア固有の領土の安定性は、この体制下においてむしろ著しく向上したのであり、こののち南ドイツ最大のカトリック国として再出発し、東の[[オスマン帝国]]との紛争をつうじて、やがて東西の勢力バランスの逆転に成功してヨーロッパ屈指の大国に変貌する基となった<ref name="ookubo203"/>。
 
 
 
以上、ヴェストファーレン条約によって形成された新しい国際秩序を「[[ヴェストファーレン体制]](ウェストファリア体制)」と呼ぶことがある<ref name="ookubo203"/>。ここでは、ヨーロッパの平和をはじめて国際会議によって保証し、多国間交渉によって[[勢力均衡]]の視点が芽生えたことに画期性が認められる<ref name="sakaguchi_112"/><ref name="itoh">[[#伊藤宏二|伊藤宏二(2006)]]</ref>。さらに、世界史の文脈では、国家における領土主権、領域内の法的主権、主権国家による相互内政不可侵の諸原理が確立され、近代外交や現代につながる[[国際法]]の根本原則が確立されたとして、「ヴェストファーレン体制=主権国家体制」として高く評価されてきた。ただし、近年ではヴェストファーレン条約によって国際法が確立したというのは過大評価であり、「19世紀の神話」にすぎないという指摘、あるいは北欧に関してはヴェストファーレン条約ではなく1660年の[[オリヴァ条約]]、スペインに関しては1659年の[[ピレネー条約]]がもたらした秩序の方がいっそう重要であり、その意味では「未完の国際秩序」であったという指摘がある<ref name="Sigfrid"/><ref name="ookubo203"/><ref name="Akashi">[[#明石欽司|明石欽司(2007)]]</ref>。
 
 
 
=== フランス絶対王政の確立 ===
 
{{See also|絶対王政}}
 
自身のカトリック改宗と新教徒にも信仰の自由を認める[[ナントの勅令]]によってフランスにおける[[宗教戦争]]([[ユグノー戦争]])に終止符を打った[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]は、国土の回復と国内秩序の安定、財政再建に尽力した<ref name="hayashida155"/><ref name="takaz49">[[#高澤2|高澤(2011)pp.49-53]]</ref>。アンリ4世を支えたのは、カルヴァン派の宰相{{仮リンク|マクシミリアン・ド・ベテュヌ (シュリー公)|fr|Maximilien de Béthune (duc de Sully)|label=シュリー公マクシミリアン・ド・ベテュヌ}}や、彼がカトリック同盟に対抗していたナヴァル公時代にアンリのもとに集まったカトリックの人材であった<ref name="hayashida155"/>。[[モラリスト]]として知られる[[ミシェル・ド・モンテーニュ|モンテーニュ]]は[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]と[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]の両カトリック王の侍従をつとめたのちプロテスタントだったナヴァル公時代のアンリの侍従を務めており、宗派を超えた協力関係はここにも見出せる。
 
 
 
==== ルイ13世とリシュリュー ====
 
[[1610年]]のアンリ4世暗殺後は、わずか9歳の[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]が王位を継承し、母后の[[マリー・ド・メディシス]]が[[摂政]]となった<ref name="hayashida155"/>。ルイ13世の治世は当初、先王に抑え込まれていた大貴族やプロテスタント勢力が王権に反旗をひるがえす構えを見せ、その基盤は不安定であった<ref name="hayashida155"/><ref name="takaz49"/>。そのため、フランス王権は[[1614年]]、[[アンリ2世 (コンデ公)|コンデ公アンリ]]の要請により[[全国三部会]]の開催を余儀なくされている<ref name="takaz49"/>。[[1620年]]、国王ルイ13世が改革派が多数を占める[[ベアルヌ地方]]でカトリック支持の裁定を下したことに改革派は反発、その年の[[12月]]に開かれた改革派の全国会議で「強硬派」が優勢となって武装蜂起を決定した。ユグノー側の軍事的指導者となったのは{{仮リンク|アンリ2世 (ロアン公)|fr|Henri II de Rohan|label=ロアン公アンリ}}であった。[[1621年]]から[[1622年]]までつづいた両者の戦いは、ほぼ王側の優勢のうちに決着し、{{仮リンク|モンプリエ条約|fr|Traité de Montpellier}}を結んだが、ここではルイ13世が譲歩する形でナントの勅令が再確認された{{Sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1996|p=162}}。しかしルイ13世がモンプリエ条約の遵守に熱心でないことに改革派は不満を隠しきれず、[[1625年]]に再び戦闘が開始されると、宰相であった[[リシュリュー]]はユグノー戦争時代以来の改革派の拠点[[ラ・ロシェル]]を包囲し、ロアン公アンリ率いる改革派を打ち破り、このときリシュリューは外交方針を変更して[[三十年戦争]]でプロテスタント側との提携を検討していたため、[[1626年]]には講和し、[[パリ条約 (1626年)|パリ条約]]を結んで宗教の自由の保障を再確認した<ref>[https://books.google.com/books?id=x-qFISc3fXMC&pg=PA289 ''Europe's physician'' by Hugh Redwald Trevor-Roper p.289]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Richelieu, por Philippe de Champaigne (detalle).jpg|200px|right|thumb|ルイ13世が全幅の信頼を寄せた宰相[[リシュリュー|リシュリュー枢機卿]](1585-1642)]]
 
リシュリュー枢機卿は[[1624年]]、国務会議にはいるとすぐに宰相の地位を確立し、ルイ13世を支えた<ref name="hayashida155"/>。政治的動揺はなおもつづき、三部会に準じた名士会が[[1627年]]に召集されている<ref name="takaz49"/>。しかし、これを最後に三部会は革命前夜の[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]のときまで開かれず、これは絶対王政確立のひとつの目安とみなすことができる<ref name="takaz49"/>。1627年、リシュリューは再びプロテスタント勢力の反乱と対峙し、13か月におよぶ[[ラ・ロシェル包囲戦]]を戦った<ref name="hayashida155"/>。改革派はイングランドとの提携を図ったが、イングランド艦隊は有効な支援ができず、[[1628年]][[10月]]、ラ・ロシェルは陥落した<ref name="hayashida155"/>。[[1629年]]には王軍が[[ラングドック]]も制圧して決定的な勝利を獲得し、ロアン公アンリを国外に追放した。同年[[6月]]、和平が成立し、{{仮リンク|アレスの勅令|fr|Paix d'Alès}}が発せられた<ref name="hayashida155"/>。宗教的寛容の持ち主だったリシュリューは、カトリック教徒の不満にもかかわらずナント勅令に認められていたプロテスタントの信仰の自由の維持を約束したが、他方では、プロテスタントに対して武装解除を命じ、ナント勅令で認められていた彼らの政治的・軍事的権利については、これを剥奪した<ref name="hayashida155"/>{{Sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1996|pp=163-5}}。
 
 
 
[[ファイル:Valentin Conrart- Versailles MV 2889.jpg|thumb|left|180px|ヴァランタン・コンラール(1603-1675)]]
 
リシュリューの政策は、外交面では[[ハプスブルク家]]との対決姿勢を基本とし、内政面では戦争遂行のために課税可能な体制の構築をめざすものであり、彼の指導のもと、フランスはドイツを主戦場とする[[三十年戦争]]に本格的に介入した<ref name="takaz49"/>。しかし、マリー・ド・メディシスらの親スペインの動きはフランス国内のプロテスタントを動揺させ、抵抗へと向かわせていたし、増税は各地で民衆蜂起をまねいていた<ref name="hayashida155"/>。[[1635年]]、[[ブルボン朝]][[フランス王国]]はともにカトリック信仰に拠って立つハプスブルク家との全面戦争に踏み切った<ref name="takaz49"/>。カトリックを[[国教]]とするフランスがプロテスタント勢力と手を組み、西のスペイン、東の神聖ローマ帝国と戦うことを選択したのである<ref name="takaz49"/>。[[1642年]]にリシュリューが、[[1643年]]にはルイ13世が相次いで死去したが、「国家理性」の名において正当化された2人の対ハプスブルク政策は、外交的には好結果を生み、上述のように[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]と[[1659年]]の[[ピレネー条約]]によってフランスはスペインからヨーロッパ列強首位の座を奪うことに成功するのである<ref name="takaz49"/>。
 
 
 
この時期の文化政策で特筆されるのは、[[1635年]]、リシュリュー枢機卿の庇護のもと学術団体「[[アカデミー・フランセーズ]]」が創設されたことである<ref name="takaz53">[[#高澤2|高澤(2011)pp.53-55]]</ref>。アカデミー・フランセーズ設立の中心人物となった{{仮リンク|ヴァランタン・コンラール|fr|Valentin Conrart}}は王室秘書にして改革派の文筆家であった。アカデミー・フランセーズではフランス語辞典の編纂事業がおこなわれ、フランス語の「純化」がはかられた<ref name="hayashida200">[[#林田|林田(2001)pp.200-208]]</ref>。古代の[[帝政ローマ]]の歴史を参照し、至高の王権のもとに規律と服従を旨とする新しい政治文化の形成を追い求めたリシュリューは、言語においてもそのあるべき規範を示そうとしたのである<ref name="takaz53"/>。コンラールは熱心なプロテスタント信仰の持ち主であったにもかかわらず、リシュリューは終生王室秘書の地位を保障した。
 
 
 
==== 近世フランス経済の動向 ====
 
近世のフランス経済は、農業に圧倒的な比重があり、17世紀末まで、全人口の少なくとも85パーセントは農村人口が占めた<ref name="hayashida190">[[#林田|林田(2001)pp.190-200]]</ref>。都市人口も少なく、別格のパリでさえ18世紀初頭段階で約50万人にすぎず、それに次ぐのは[[リヨン]]、[[マルセイユ]]、[[ルーアン]]、[[リール]]、[[オルレアン]]の五大都市であり、いずれも10万人を切っていた<ref name="hayashida190"/>。農業は、技術的には中世からほとんど進歩がみられず、定期的に一定の土地を休耕せざるをえない二圃制・[[三圃制]]の採用が主流で、生産性は概して低かった<ref name="hayashida190"/>。そして、フランス経済は農業が支配的であることに起因する脆弱性を内包しており、つねに凶作から始まって経済全般に波及するタイプの経済危機を引き起こす構造をともなっていた<ref name="hayashida190"/>。工業は小規模な[[手工業]]が支配的であり、技術的進歩が乏しく、工業生産の大部分が限られた地域的な需要に応じた小規模なものであり、その中心は繊維工業であった<ref name="hayashida190"/>。
 
 
 
[[ファイル:Vernet-port-Bordeaux.jpg|400px|right|thumb|「ボルドー港の印象」([[クロード・ジョセフ・ヴェルネ]]画、1758年)
 
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[[百年戦争]]以前は大陸イングランド領の中心都市であった西部の[[ボルドー]]は、フランス帰属後も親英的で反抗的な都市としてしばしば王権を悩ませた<ref name="takazawa40">[[#高澤|高澤(2006)pp.40-42]]</ref>。[[ユダヤ人]]を寛大に受け入れたことでも知られ、15世紀末葉にスペインを追われたユダヤ人が16世紀中葉以降はポルトガル経由でフランス各都市へ移住したが、結局定着できたのはボルドーと[[バイヨンヌ]]だけであった<ref name="takazawa40"/>。[[フロンドの乱]]につづく1675年の反乱は、ルイ14世にこの町が伝統的に保有してきた特権の大幅な削減を決意させたが、むしろボルドーの飛躍的発展はこの頃より始まり、[[フランス革命]]期には国内第三の都市に成長した<ref name="takazawa40"/>。18世紀、植民地への物資供給を請け負って巨万の富を築いたユダヤ商人[[アブラハム・グラディス]]は「ボルドーの王」といわれた<ref name="takazawa40"/>。]]
 
[[毛織物]]工業では、[[ラングドック=ルシヨン地域圏|ラングドック]]、[[プロヴァンス]]、[[ドーフィネ]]は[[レバント|レヴァント地方]]への輸出用[[ラシャ]]が生産されていた。[[シャンパーニュ]]地方の[[スダン]]は北ドイツへの輸出用ラシャを生産していたが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた{{Sfn|金哲雄|2003|p=63}}。[[絹織物]]工業においては、17世紀中葉[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|トゥール]]や[[リヨン]]での顕著な発展が知られるが、これはユグノーの貢献に拠るところが大きい。[[リンネル]]工業をフランスに導入したのもユグノーであり、これイングランドへの輸出用商品として貴重なものであった{{Sfn|金哲雄|2003|p=64}}。[[亜麻]]織物や[[麻]]織物は西部で盛んであった<ref name="hayashida190"/>。
 
 
 
[[オーヴェルニュ地域圏|オーヴェルニュ]]や[[アングーモワ]]では[[製紙業]]が発達していたが、その主な担い手もユグノーであった。ここで製造された紙はフランス国内のみならず、イングランドやオランダでも消費された。とくにオーヴェルニュの[[アンベール]]産の紙は当時ヨーロッパで最良のものとされていた。ユグノーの手工業者がになったこれらの工業は、1685年の[[フォンテーヌブローの勅令]](詳細後述)以後、急速に衰退していったと説明されることが少なくない<ref group="*">この衰退に宗教迫害がどれだけ影響を及ぼしたかについては主要な研究において見解が相違している。[[W・C・スコヴィル]]は『ユグノーの発展とフランスの経済的発展 1680~1720』([[1960年]])において、宗教的迫害の激しくなる時期と経済的衰退の時期が一致しないことを挙げ、むしろルイ14世の対外戦争に対抗した諸外国による高額の関税、インド産綿布の普及、国家による経済統制や国産品税の導入などがその原因であるとする({{Harvnb|金哲雄|2003|pp=83-91}})。<br />これに対し、[[C・ヴァイス]]の先駆的研究「17世紀におけるフランス・プロテスタントに関する研究報告書」はナントの勅令を経済的衰退の原因と見ており、金哲雄もこの立場に立っている({{Harvnb|金哲雄|2003|pp=106-115}})。</ref>。そのほかの重要な工業部門としては、[[建築]]とそれに付随する奢侈品の生産があったが、[[鉱業]]や[[製鉄業]]はまだ二次的な役割しか果たしていなかった<ref name="hayashida190"/>。
 
 
 
ユグノーは[[ラ・ロシェル]]や[[ボルドー]]における海上交易の発展にも貢献した。ボルドーにおいては主としてイングランド・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易は彼らの独占状態にあるという状態であった{{Sfn|金哲雄|2003|pp=66-67}}。ユグノーの[[銀行家]]としては、17世紀初めにはリシュリューの財源となったタルマン家やラムブイエ家、ユグタン家が知られる。なお、ユグタン家は、もともとリヨンの出版業者であったが、1685年に[[アムステルダム]]に移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した{{Sfn|金哲雄|2003|p=68}}<ref group="*">[[フランス革命]]後、多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもフランス銀行業はユダヤ系とプロテスタント系によって主要部分がになわれているといわれる({{Harvnb|金哲雄|2003|p=69}})</ref>。
 
 
 
長期的には、フランスは他のヨーロッパ諸国同様、中世末の14世紀から15世紀にかけて戦乱や[[ペスト]]による人口の激減・[[商業]]活動の減退の傾向が著しかった<ref name="hayashida190"/>。その後、[[大航海時代]]が本格化する15世紀末以降は長期的好況を享受し、[[1560年代]]から16世紀末葉までのあいだは[[ユグノー戦争]]の影響でいったん深刻な不況にみまわれたが、17世紀にはいって再び活力を回復した<ref name="hayashida190"/>。しかし、1630年代には[[三十年戦争]]への参戦と度重なる[[疫病]]や[[飢饉]]によって経済は停滞した<ref name="hayashida190"/>。一方でその間、[[市場経済]]の進展がみられた<ref name="hayashida190"/>。ただし、16・17世紀のフランスはまだ一体的な[[国民経済]]を形成しておらず、多様な地域経済の寄せ集めにすぎない状態であった<ref name="hayashida190"/>。そのため、[[穀物]]の[[市場価格]]も国内に統一的な価格は存在しなかった<ref name="hayashida190"/>。そして、これら地域経済は17世紀前半にナントやボルドーなど[[大西洋]]岸の都市商人がオランダ商船のための[[仲買人]]として活動していたことで知られるように、しばしば国外の経済的なネットワークと密接なつながりを有していた<ref name="hayashida190"/>。
 
 
 
==== ルイ14世とマザラン ====
 
{{See also|フロンドの乱}}
 
[[ファイル:Mazarin-mignard.jpg|thumb|left|180px|ジュール・マザラン(1602-1661)]]
 
ルイ13世死去後は、のちに「太陽王」と呼ばれる[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が後を継いだが、[[1643年]]に即位したとき、彼はわずか4歳であった<ref name="hayashida155"/>。摂政となった母后[[アンヌ・ドートリッシュ]]はリシュリューの腹心だった[[ジュール・マザラン]]を宰相に任じた<ref name="hayashida155"/>。マザランは内政、外交の両面でリシュリューの政策を継承するが、戦争と重税にあえぎ、国王の代替わりを機に変化を期待していた人びとは新政権に反発して王国改革を求めた<ref name="hayashida155"/><ref name="takaz49"/>。[[1648年]]1月、アンヌ・ドートリッシュが親裁座を開いて増税のための王令の登録を[[パリ高等法院]]に命じたのに対し、この席上、高等法院次席検察官の{{仮リンク|オメール・タロン|fr|Omer Talon}}は、農村の疲弊が頂点に達していると指摘して王権を公然と批判、この演説はただちに大量に印刷され、地方にまで知られるようになった<ref name="hayashida155"/>。4月末、官職保有者に対する[[俸給]]を4年間にわたって支払い停止とすることが決定されると4つの最高書院(パリ高等法院、会計院、租税院、大法院)の代表が集会をひらいて討論し、7月にはそれに基づいて地方長官制廃止などを含む王国改革に向けた声明文を発した<ref name="hayashida155"/>。反政府運動は広がりをみせ、政府側も若干の譲歩を余儀なくされたが、8月にはいって母后とマザランは反撃に転じた<ref name="hayashida155"/>。最高法院における運動の中心人物{{仮リンク|ピエール・ブルセル|fr|Pierre Broussel}}を[[逮捕]]したのである<ref name="hayashida155"/>。これに対しパリの民衆が蜂起、5年にわたる[[フロンドの乱]]へと発展した<ref name="hayashida155"/><ref name="takaz49"/>。この乱は、増税に不安をかかえる[[ブルジョワジー]]や民衆、従来の政治的特権が脅かされていると感じている帯剣貴族、俸給停止や地方長官廃止に不満をもつ官職保有者など、王権に不満をいだく階層の動きが重なって大規模な反乱に発展したが、一方では各層の利害がそれぞれ一致しないため、統一的な反王権運動には発展しなかった<ref name="hayashida155"/>。イタリア出身のマザラン枢機卿は不人気であったが、政治家としては有能で、ヴェストファーレンとピレネーの両条約でフランスの勝ち取ったものは大きかった<ref name="hayashida155"/>。フロンドの乱が終結した[[1653年]]以降、戦時の臨時措置として導入された諸制度はやがて恒常化していったが、これらは、フランス王権に広範な自由裁量権を与えるものとなった<ref name="takaz49"/>。マザランはまた、ユグノーに対し改革派全国教会会議の開催を禁止した。
 
 
 
==== ルイ14世親政期の教会と国家 ====
 
{{See also|ルイ14世 (フランス王)}}
 
[[ファイル:Portrait louis xiv.jpg|right|thumb|180px|[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]](1638-1715)
 
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「朕は国家なり」のことばで知られるフランス絶対王政最盛期の王
 
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[[1661年]]のマザランの死後、ルイ14世は宰相を置かず、親政を開始した。ルイ14世は財務総監に[[ジャン=バティスト・コルベール]]を用いて国家財政を健全化するとともに、従来の「移動する宮廷」をやめてパリ郊外の[[ヴェルサイユ]]に壮麗豪華な[[ヴェルサイユ宮殿]]を建設し、貴族階級をもっぱら宮廷人の役割にあまんじさせることに成功した<ref name="hasegawa_129">[[#長谷川|長谷川(2002)pp.129-134]]</ref><ref name="takayanagi_077">[[#高柳|高柳(2009)pp.77-80]]</ref>。リシュリューとマザランの時代に始められた貴族の城塞や都市の非武装化が継続され、[[常備軍]]が拡充整備されて、フランス史上はじめて国王による軍事力の独占が実現した<ref name="price_80">[[#プライス|プライス(2008)pp.80-85]]</ref>。相次ぐ対外戦争は財政難を招いたが、この時期の軍隊は以前よりも定期的に手当てが支給され、訓練が行き届き、少なくとも外国の軍隊がフランスからほぼ排除された<ref name="price_80"/>。ヴェルサイユ宮殿は貴族文化の中心となり、ここから生まれた礼儀作法や上品な趣味などは社会の隅々にまで伝えられる一方、政治的・文化的・芸術的な影響を全ヨーロッパに与え、フランスは洗練された文明の中心と見なされ、[[ラテン語]]にかわって[[フランス語]]が文明共通のことばと見なされるようになった<ref name="price_80"/><ref name="takayanagi_080">[[#高柳|高柳(2009)pp.80-84]]</ref>。
 
 
 
===== 王権による改革派・ジャンセニスム・キエティスムの弾圧 =====
 
{{See also|フォンテーヌブローの勅令|ジャンセニスム|キエティスム}}
 
ルイ14世の親政時代は長きにわたったが、フランス王権の絶対主義化は政治の領域を越えて良心の領域に及び、少数派となったプロテスタントおよび新しく起こってきた[[ジャンセニスム]]に弾圧を加えていった<ref name="hase_234">[[#長谷川3|長谷川(1997)pp.234-241]]</ref><ref name="price_085">[[#プライス|プライス(2008)pp.85-91]]</ref>。プロテスタント勢力はすでに、王の庇護を失うことを恐れたリーダー格の貴族たちが多数離脱したため、弱体化の傾向が顕著であった<ref name="price_085"/>。
 
 
 
[[ファイル:Édit de Fontainebleau. Page 1 - Archives Nationales - AE-II-887.jpg|180px|left|thumb|[[フォンテーヌブローの勅令]]
 
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[[ナントの勅令]](1598)は廃棄され、以後、フランスにおけるプロテスタント信仰は禁圧された。
 
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親政開始直後の1661年、ルイ14世はフランス全土に[[官吏]]を派遣し、改革派の[[礼拝]]についての調査を行った。新教徒の公的礼拝を制限する王令が増え、さまざまな条例を発布して改革派を公職から改革派を締め出していった<ref name="hase_234"/>。[[1679年]]、「ドラゴナード」という制度が定められた<ref name="berce109">[[#ベルセ|ベルセ(2008)pp.109-114]]</ref>。これは[[ドラグーン|竜騎兵]](ドラグーン)を改革派の家に宿泊させ、暴力的な[[威嚇]]によって改宗を強制するものであった<ref name="price_085"/><ref name="berce109"/>。これに対し、[[1683年]]に改革派の多い南部を中心に散発的な抵抗運動が起こったが、すぐに鎮圧された。[[1685年]]、ついに[[ナントの勅令]]廃止が宣言され、プロテスタント信仰を禁じる[[フォンテーヌブローの勅令]]が出された<ref name="takaz49"/>。カトリックは国教となり、「1人の国王、1つの教会、1つの法」という[[標語]]の実現が強く求められ、改宗しない改革派の[[牧師]]は追放され、改革派の学校は閉鎖、教会堂は破却を命じられた<ref name="takaz49"/><ref name="takayanagi_077"/>{{Sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1996|pp=238}}。これは、政教分離の観点からすれば逆行する行為であるが、他の諸外国では当時「一国一宗派」の原則が守られており、ルイ14世はこの原則を確信していた<ref name="price_085"/><ref name="hasegawa_142">[[#長谷川|長谷川(2002)pp.142-143]]</ref>。スペインの国力が衰退したなか、[[神聖ローマ帝国]]に対抗して[[カトリシズム]]の守護者を自認したいという思いの現れとも考えられる<ref name="hasegawa_142"/>。
 
 
 
プロテスタントの一般信徒の亡命は勅令によって禁止されていた<ref name="hase_234"/><ref name="hasegawa_142"/>。しかし、宗教上の弾圧を逃れるため多数の商工業者を含むユグノーが[[スイス]]、[[ドイツ]](とくに[[ブランデンブルク]])、[[イングランド]]、[[オランダ]]、[[新大陸]]などの国外へ大量に退去した<ref name="hase_234"/><ref name="hasegawa_142"/>。禁を犯して亡命した人の数は約20万人といわれる<ref name="hase_234"/><ref name="hasegawa_142"/>。これがフランス経済にマイナスに作用したであろうことは容易に推定されるが、実はそれ以上に亡命先の国々を富ます結果をもたらしたのであった<ref name="hase_234"/><ref name="hasegawa_142"/>。オランダでは亡命作家や印刷職人がルイ14世に対する政治批判の文書を大量に作成するなど、反フランスの国際世論も沸き上がらせる一助となった<ref name="hase_234"/>。フランスに残った人びとには、心ならずも改宗し、やがてキリスト教や宗教そのものに関心を失うようなケースもあれば、他方では、ジュネーヴ経由で戻ってきた牧師を迎えて秘密集会を継続的にひらいていたケースもあった<ref name="hase_234"/>。南フランスの[[セヴェンヌ]]地方の新教徒共同体は、[[1702年]]に蜂起し、国王軍に対し[[ゲリラ戦]]を戦った[[カミザールの乱]]が発生した<ref name="hase_234"/><ref group="*">カミザールの乱にいたる、セヴェンヌ地方におけるプロテスタントの長期にわたる抵抗を歴史家[[ジュール・ミシュレ]]は「セヴェンヌの奇跡」と呼んだ。絶望的な戦いのなかで彼らが拠り所にしたのは『聖書』のみであった。新教徒はラテン語訳ではなく、各国語に翻訳された『聖書』を普及させたが、フランス語訳は北フランスの[[オイル語]]であり、彼らの日常語[[オック語]]ではなかった。当時のセヴェンヌの人びとにとってオイル語は外国語のようなものであり、農民、職人、羊飼い、主婦らが未知の言語を学習しながら聖書を読んだのであった。[[#久米|久米(1993)p.218]]</ref>。一方、カトリック教徒の側はルイ14世のプロテスタント弾圧をむしろおおいに歓迎したのであった<ref name="hase_234"/>。
 
 
 
[[ファイル:Plan Port-Royal-des-Champs (cropped).jpg|230px|right|thumb|[[ポール・ロワイヤル修道院]]
 
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ジャンセニスムのフランスにおける拠点となった。
 
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[[ジャンセニスム]](ヤンセニウス主義)とは、[[オランダ人]]神学者で[[スペイン領ネーデルラント]]の[[イーペル]]の[[司祭]]であった[[コルネリウス・ヤンセン]]とその盟友であったフランス人神学者{{仮リンク|ジャン・デュヴェルジェ・ド・オランヌ|en|Jean Duvergier de Hauranne}}(サン・シラン師)が唱えた教説で、[[カトリック]]信仰の上に立ちながら、人間存在は根本的に[[堕落]]しているという悲観的な人間観に立ち、神が自由に与える恩寵(恵み)なしに人間の救済はありえないと主張するなどの点でルターやカルヴァンから大きな影響を受けた思想であり、ヤンセンの遺作『アウグスティヌス』には神の予定と恩寵の絶対性が説かれている<ref name="hase_234"/><ref name="takayanagi_085">[[#高柳|高柳(2009)pp.85-87]]</ref>。[[1630年代]]後半以降、[[ジャンセニスト]](ヤンセニウス派)は、神の恵みを得るには、ただそれを待ちわびるのではなく、祈りと[[改悛]]の行、[[禁欲]]の護持、自己規律による絶えざる[[回心]]の努力が必要であるとする厳格主義的な信仰運動の徒としてパリ近郊の[[ポール・ロワイヤル修道院]]を中心に活動した<ref name="hase_234"/>。ジャンセニスムは、1641年、[[ローマ教皇庁]]の検邪庁から裁定を受け、1653年には教皇庁から[[異端]]宣告を受けていたが、フランス国内では、科学者・哲学者として著名な[[ブレーズ・パスカル]]や劇作家の[[ジャン・ラシーヌ]]から強く支持されただけでなく、政府高官やパリ高等法院の司法官にも影響をあたえ、そのうちの何人かはポール・ロワイヤル修道院の「隠者」として行動していた<ref name="hase_234"/><ref name="takayanagi_085"/><ref name="takazawa19">[[#高澤|高澤(2006)pp.19-24]]</ref>。[[イエズス会]]のジャンセニスム攻撃は激しく、パスカルはこれに対してジャンセニスムを擁護してイエズス会学派の神学を皮肉る『プロヴァンスからの手紙』を著すなど、イエズス会とジャンセニストは激しく対立した<ref name="hase_234"/><ref name="takayanagi_085"/>。
 
 
 
なお、ジャンセニスムのフランス的展開に大きく作用したのが、[[パスキエ・ケネル]]の存在である。ケネルはジャンセニスムをガリカニスムと結びつけて展開し、イエズス会員を「教皇の走狗」であると非難した。ジャンセニストたちはルイ14世の反教皇主義的ガリカニスムを支持していたにもかかわらず、[[1709年]]、国王は警察総代官の{{仮リンク|マルク・ルネ・ド・ヴォワイエ・ド・ポルミー・ダルジャンソン|fr|Marc René de Voyer de Paulmy d'Argenson (1652-1721)|label=マルク・ルネ・ダルジャンソン}}にポール・ロワイヤル修道院を急襲させて[[修道女]]たちを追放し、翌年には[[礼拝堂]]から[[墓地]]にいたるまでの一切を破壊させるなど、ジャンセニスムを排斥した<ref name="takayanagi_085"/><ref name="takazawa19"/>。ただし、ジャンセニスムに同調したフランス政官界には反イエズス会の傾向がその後も長くつづいた<ref name="takayanagi_085"/>。
 
 
 
[[ファイル:Mme Guyon.jpg|130px|left|thumb|[[ギュイヨン夫人]](1648-1717)]]
 
弾圧されたのは[[キエティスム]](静寂主義)も同様であった。ルイ14世はジャンセニスムとともにキエティスムを自らの政策に対する重大な脅威とみなした<ref name="takayanagi_085"/>。キエティスムの運動は、スペインの[[アンダルシア地方]]出身の神学者{{仮リンク|ミゲル・デ・モリノス|en|Miguel de Molinos|es|Miguel de Molinos}}の神秘体験にかかわる理論を、その文通相手で文筆家の[[ギュイヨン夫人|ジャンヌ・ギュイヨン]](ギュイヨン夫人)がフランスに持ち込んだことによって急速に広まった<ref name="takayanagi_085"/>。
 
 
 
フランスではキエティスムの運動は、神の愛([[アガペー]])を内面的静寂のうちに受け身のかたちで受け取ろうとする知的で受動的姿勢が重視されたが、その背景にはフランスにおける祈りと霊的生活が組織化、制度化されすぎており、[[形式主義]]に陥っていることに対する不満と反発があった<ref name="takayanagi_085"/>。キエティスムは、一時はルイ14世の秘密結婚の相手である[[マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ|マントノン公爵夫人]]の心をつかみ、大司教{{仮リンク|フランソワ・フェヌロン|en|François Fénelon|fr|Fénelon}}という強力な庇護者も得たが、長く続かなかった<ref name="takayanagi_085"/>。そして、キエティスムの運動に最大の反対者として立ちはだかったのが、宮廷説教者の[[ジャック=ベニーニュ・ボシュエ]]であった<ref name="takayanagi_085"/>。フェヌロンはボシュエによって才能を見出されて司祭となった人物で、若き道徳的指導者としてとくに貴族女性たちに人気があり、ルイ14世の孫の養育係を務めるなど王室からの信頼も厚かったが、ここにおいて師弟は決定的に対立し、フェヌロンは4年間沈黙を守らされ、ギュイヨン夫人は[[1695年]]から[[1703年]]の間[[バスティーユ牢獄]]に投獄された<ref name="takayanagi_085"/>。これによって[[観想]]生活はカトリックの教義に反する異端の疑いをもつものとみなされるようになり、以後、[[フランス人]]の宗教生活は大きな打撃を受けることとなった<ref name="takayanagi_085"/>。
 
 
 
===== ガリカニスムの展開と王権神授説 =====
 
{{See also|王権神授説|ガリカニスム}}
 
[[ファイル:Jacques-Bénigne Bossuet 2.jpg|right|200px|thumb|[[ジャック=ベニーニュ・ボシュエ]](1627-1704)]]
 
歴代のフランス王は、自国の教会の管理権と権益を自らの支配下におこうと腐心し、これを「[[ガリカニスム]](フランス教会自立主義)」と称するが、他方では、それと並行して伝統的なカトリックの教義を保持することにも努めた<ref name="takayanagi_085"/>。その点からいってルイ14世親政下で権威的存在となったのは上述した[[ジャック=ベニーニュ・ボシュエ]]神父であった<ref name="takayanagi_085"/>。かれは、宮廷説教家にして国王の顧問であり、また、[[王権神授説]]の熱心な提唱者であった。ボシュエの雄弁な説教の文体は、初期のフランス文学を代表する典型的な散文であり、フェヌロン大司教らの説教家とともに、この時代をカトリック説教史における重要な時代をつくった<ref name="takayanagi_085"/>。ジャンセニスムやキエティスムが排斥されたのは、カトリックの伝統を保持するためであったが、キエティスムを擁護したフェヌロンがその職を追われたのは上述したとおりである<ref name="takayanagi_085"/>。
 
 
 
[[1682年]]、ルイ14世は聖職者会議にボシュエの「{{仮リンク|四箇条の宣言|fr|Déclaration des Quatre articles}}」を受諾させ、教会を王権の支配下におくことに成功した<ref name="takayanagi_077"/>。これはガリカニスムの現れであり、教会会議をローマ教皇の権威の上においてフランスの教会をローマから独立させるものであった<ref name="takayanagi_077"/>。ルイ14世は、「レガール」(国王特権)によって国王が聖職者への任命権をもつことをめざしたのである<ref name="takayanagi_077"/>。しかし、教皇[[インノケンティウス11世 (ローマ教皇)|インノケンティウス11世]]はただちに「四箇条」の無効を宣言し、ルイ14世に厳しく抗議した<ref name="takayanagi_077"/>。約15年間、教皇庁はフランス内での世俗権力による教会支配の企てを認めず、国王が任命した候補者を司教に任命しなかったため、多くの司教座が空位となった。ルイ14世は1516年の[[コンコルダート]]に含まれない特権への権利の主張については、これを取り下げざるを得なくなった<ref name="takayanagi_077"/>。
 
 
 
[[王権神授説]]は、王権をはじめとする君主権とは神から直接授けられたものであり、それゆえ国民は臣民としてこれに絶対服従する義務があるという教説で、[[17世紀]]以前のヨーロッパでは貴族や聖職者の特権も強固に残り、国家や君主の権力基盤が脆弱だったところから、君主の側によって強く求められ、また支持されてきた政治思想である。[[ポリティーク]]の思想家である[[ジャン・ボダン]]の主権理論のなかにその萌芽が認められ、17世紀初頭のイギリスでは、[[ステュアート朝]]の[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]](詳細後述)の登場とともに市民権を獲得した<ref name="baubérot_19"/>。国王は聖俗両権を神によって授けられているという思想は、しかし、ローマ教皇庁の決して認めるところではなかった<ref name="baubérot_19"/>。1632年には法服貴族のカルダン・ル・ブレが『国王の主権について』を上梓し、そのなかで王権は神から直接授けられたもので、国王は他のだれの同意も必要とせず、自由に法を作り、解釈し、廃棄できると説いた。イングランドの[[ロバート・フィルマー]]は、[[清教徒革命]]前後に『制限王政の無政府状態』(1648年)、『絶対王権の必要』(1648年)、『政府起源論』(1652年)などを著し、これを定式化した。フィルマーの主著『{{仮リンク|パトリアーカ|en|Patriarcha}}』(1680年公刊)には、『[[旧約聖書]]』を根拠とし、神が人類の祖先である[[アダム]]に対して家族や子孫などを支配する権利を授けたのであり、その権利は代々の[[家父長]]に受け継がれて王権につらなるという考えが示されている<ref name="matsumura_533">[[#松村1|松村(1975)p.533]]</ref>。王権神授説の大成者として知られるボシュエは、その著作『世界史叙説』(1685年)において、「神は国王を使者としており、国王を通じて人びとを支配している。……国王の人格は神聖であり、彼にさからうことは神を冒涜することである」と記した。
 
 
 
=== イギリス革命と寛容法 ===
 
{{Main|清教徒革命|名誉革命|アメリカ合衆国における政教分離の歴史#近代イングランドにおける宗教と国家}}
 
[[ファイル:James I of England by Daniel Mytens.jpg|180px|right|thumb|イングランド王ジェームズ1世(1566-1625)
 
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スコットランド王としてはジェームズ6世。イングランドで即位したのちはしだいに議会やピューリタンとの溝を深めていった。]]
 
[[1603年]]3月、[[エリザベス1世]]死去の報を受けて[[スコットランド王]]ジェームズ6世が[[イングランド王]][[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]として即位し、[[ステュアート朝]]を開いた<ref name="iwaij178">[[#岩井淳|岩井淳(1998)pp.178-183]]</ref>。これにより、[[イングランド]]と[[スコットランド]]は、別々の議会をもちながらも同じ国王によって統治される[[同君連合]]となった<ref name="iwaij178"/>。新しい国王に対し、いち早く行動したのは、[[イングランド国教会]]からカトリック的要素を一掃し、宗教改革を徹底しようとした[[カルヴァン派]]の人びとであった<ref name="iwaij178"/>。彼らはイギリスにおいて「[[ピューリタン]](清教徒)」と呼ばれた<ref name="iwaij178"/>。ピューリタンたちは、1603年4月、戴冠のため[[エディンバラ]]から[[ロンドン]]に向かうジェームズに対し、「千人請願」という書状を提出し、いっそう徹底した教会改革を進めるよう求めた<ref name="iwaij178"/>。これを受けて国王は翌[[1604年]]1月、[[ハンプトン・コート宮殿]]に各宗派の代表を集め、{{仮リンク|ハンプトン・コート会議|en|Hampton Court Conference}} を開いた<ref name="iwaij178"/>。ところが、この会議でジェームズは「主教なければ国王なし」と述べて、先王エリザベスからの申し渡し事項でもある、国教会体制堅持の姿勢を示した<ref name="iwaij178"/>。[[1605年]]11月、[[火薬陰謀事件]]が起こっている<ref name="iwaij178"/>。これは、カトリック教徒が議会に爆薬をしかけ、両院議員と国王とを一緒に爆殺しようという事件で、未然に発覚したものの、ジェームズ1世の姿勢はピューリタンのみならずカトリック教徒からも不満があったことがわかる<ref name="iwaij178"/>。ただし、この事件はむしろ、イングランドの人びとが従来もっていた反カトリック感情を刺激する結果となった<ref name="iwaij178"/>。これは、[[スペイン]]や[[フランス]]などのカトリック強国の脅威、[[ローマ教皇]]や[[イエズス会]]などの圧力に対する反感などに根差した歴史的な感情であった<ref name="iwaij178"/>。[[アルマダ]]の撃退や同君連合の成立などによりカトリックの脅威が相対的に減じるなか、ステュアート朝の王権は現実的な外交関係を展開し、近接する大国であるスペインやフランスに対し融和的に振舞ったことが、かえって議会からの非難を浴びたのである<ref name="iwaij178"/>。国王の側も議会からの干渉を嫌い、その招集を極力回避しようとした<ref name="sash56">[[#指2|指(2011)pp.56-57]]</ref>。ヨーロッパ大陸が三十年戦争の戦乱に陥った際もイギリスは参戦に消極的であったが、その背景には戦費調達のために議会を開会することに王が難色を示したためである<ref name="sash56"/>。しかし、多くのイギリス人はこの戦争をカトリックとプロテスタントの戦争とみなし、イギリスはプロテスタント側に立って戦うのを期待したのである<ref name="iwaij178"/>。国王と宮廷はこうして反カトリック意識の標的とされていった<ref name="iwaij178"/>。一方、[[ジェントリ]](「郷紳」、地主層)を母体とする議会の庶民院は、王権は直接神の権利に由来するという「[[王権神授説]]」を掲げて議会を軽視しがちな王に対し、イングランド固有の法体系である[[コモン・ロー]]を根拠として抵抗した<ref name="iwaij178"/>。加えて国王の経済政策も、[[1620年代]]の深刻な[[不況]]に対して抜本的な対策をおこなわず、むしろ財政難のために諸々の独占権を濫発してジェントリや[[ヨーマン]](独立自営農民)の活動を妨げた<ref name="iwaij178"/>。彼らは議会に議席を有しており、そのため、議会と国王は対立したのである<ref name="iwaij178"/>。なお、このころイギリスはオランダやフランスとともに[[北アメリカ大陸]]に進出し、[[バージニア植民地|ヴァージニア植民地]]を皮切りに東部で植民地化を進めていった。植民地最初の定住集落[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]は国王ジェームズの名にちなんでいる。
 
 
 
ジェームズ1世の子で、その後を継いだ[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]も議会の同意なき外交や課税強化をおこなうなど議会軽視の姿勢がみえたため、[[1628年]]、議会は「[[権利請願]]」を王に提出して、議会の承認なくして課税することや国民を不法に逮捕することは今後おこなわないと約束させた<ref name="iwaij183">[[#岩井淳|岩井淳(1998)pp.183-188]]</ref>。これに対し、王は先代同様王権神授説を信奉しており、翌1629年には議会を解散して反対派の議員を投獄して専制政治をつづけた<ref name="iwaij183"/>。当時成長していたヨーマンや中小の商工業者にはピューリタンが多く、チャールズを敵視した<ref name="iwaij183"/>。チャールズ1世は、フランスからカトリックの王妃[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|アンリエッタ・マリア]]をむかえ、[[セント・ジェームズ宮殿]]内に[[バロック様式]]のカトリック[[礼拝堂]]を建設するなど親カトリック的な政策を進め、当時、[[カンタベリー大主教]]に登用された[[ウィリアム・ロード]]は国教会の正統性を「使徒継承性」という議論によって基礎づける改革を進める過程でピューリタンを弾圧した<ref name="iwaij183"/>。ピューリタンはいっそう国王と国教会に反発と嫌悪感を強め、国教会支持にとどまっていた人びとも、宮廷の官職にあずかれない人びとを中心に、国教会の改変に反発し、国王に対してもカトリック復活を意図しているのではないかと疑ってピューリタニズムに接近した<ref name="iwaij183"/>。
 
 
 
[[ファイル:The Execution of Charles I.jpg|thumb|left|320px|チャールズ1世の処刑]]
 
[[1641年]]11月、議会は国王に抗議して「[[議会の大諫奏]]」を発した<ref name="iwaij188">[[#岩井淳|岩井淳(1998)pp.188-197]]</ref>。[[1642年]]3月、[[ロンドン]]を離れて戦闘準備を始めた国王に対して、議会側が「{{仮リンク|民兵条例|en|Militia Ordinance}}」を採択して軍事権を握り、同年6月、議会主権を主張する「19か条提案」をチャールズ1世に提出した<ref name="iwaij188"/>。国王は受諾を拒否し、同年8月末、[[ノッティンガム]]において挙兵した<ref name="iwaij188"/>。こうして、国王派([[騎士党]])と議会派([[円頂党]])のあいだに内戦([[イングランド内戦]])が勃発した<ref name="iwaij188"/>。当初、国王軍は三十年戦争への従軍経験をもつ貴族や戦いのプロフェッショナルである精強な騎兵隊をかかえ、土着性の強いアマチュア集団である民兵隊に対し優勢に戦いを進めたが、議会派の[[オリヴァー・クロムウェル]]は議会軍を改革・再編成し、「[[鉄騎隊]]」を指揮し、[[1645年]]6月の[[ネイズビーの戦い]]で決定的勝利を収め、翌年6月、内乱は終結した<ref name="iwaij188"/><ref name="sash57">[[#指2|指(2011)pp.57-60]]</ref>。[[1648年]]12月、[[長期議会]]では国王の処遇に穏健な態度を示した長老派議員が追放され独立派議員だけで構成される[[ランプ議会]]が開かれ、[[1649年]]初めには国王を裁くための高等裁判所が設置された<ref name="sash57"/><ref name="iwaij197">[[#岩井淳|岩井淳(1998)pp.197-205]]</ref>。同年1月末、チャールズ1世は「専制君主、反逆者、殺人者、国家に対する公敵」の罪で死刑判決を受け、公衆の前で斬首された<ref name="iwaij197"/>。この年の5月、正式に[[共和政]]宣言が出され、クロムウェルを首班とする[[イングランド共和国]]となった<ref name="iwaij197"/>。この一連の動きを、[[清教徒革命]]という<ref name="iwaij197"/>。
 
 
 
[[ファイル:Oliver Cromwell by Robert Walker.jpg|180px|right|thumb|[[オリヴァー・クロムウェル]](1599-1658)]]
 
国王の処刑は当時にあっては宗教的にも政治的にも掟に反しており、国内外に大きな衝撃を与え、[[スコットランド議会]]はこれにはげしく反発してチャールズの息子([[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]])を擁立したが、クロムウェル軍に敗れた<ref name="baubérot_19"/><ref name="sash57"/>。また、これは文化的変容をももたらし、それまで終末における「キリストの[[再臨]]」の願いは、衰退する歴史における断絶と把握されてきたものが、いまやピューリタンにとっては「真の教会」が次第に勝利に向かい、この再臨を準備し、進歩の思想が出現しつつあると観念された<ref name="baubérot_19"/>。そして、この進歩は自身の行動にこそかかっているのだと考えられたのである<ref name="baubérot_19"/>。革命のあいだなされた多くの説教のなかみが以上のような趣旨であり、個人の自由意志によって参加する形で多数のプロテスタント教会がこの時期に組織された<ref name="baubérot_19"/>。強い選民意識を有していたクロムウェルをもってしても宗教的統制を掌握することはできず、この時期には「神の王国」を到来を待ち望む、いっそう急進的な教派(セクト)が出現したのである<ref name="nishik32">[[#西川1|西川(2009)pp.32-37]]</ref>。この時期に誕生したセクトは、共有地を開墾して[[共産主義]]的[[コンミューン]]の建設をめざした{{仮リンク|ディッガーズ|en|Diggers}}や「内なる光」を重んずる道徳律廃棄派の{{仮リンク|ランターズ|en|Ranter}}、「見えざる教会」のみが真の教会であり、真理は聖書や信条などではなく魂に直接語りかけると主張した[[クエーカー]](フレンド派)など多数におよんだ<ref name="nishik32"/>。
 
 
 
共和政成立後、クロムウェルは[[航海法]]を制定してオランダ船をしめだし、カトリック教徒の多い[[アイルランド]]へ軍事遠征をおこない、これを征服して[[植民地]]とした<ref name="sash57"/><ref name="iwaij197"/>。アイルランドでは一般住民まで巻き込んで虐殺も起こっている<ref name="nishik32"/>。[[護国卿]]となったクロムウェルの独裁はきびしく、ピューリタニズムにもとづく厳格な統治に国民は不満をもつようになった<ref name="sash57"/><ref name="iwaij197"/>。[[1658年]]9月、クロムェルが死去すると息子の[[リチャード・クロムウェル]]が父の跡を継いで護国卿に就任したが、混乱状態を収拾することができず、翌年5月には政権を投げ出したことにより共和政は幕を閉じた<ref name="sash57"/><ref name="iwaij197"/>。[[1660年]]2月、[[スコットランド]]軍司令官の[[ジョージ・マンク]]によって長期議会が再開され、大陸に亡命していたチャールズ2世を国王に迎えた([[イングランド王政復古]])<ref name="iwaij197"/>。
 
 
 
[[ファイル:William and Mary.jpg|180px|left|thumb|共同統治者[[ウィリアムとメアリー]](天井画)]]
 
チャールズ2世はカトリックに傾斜しながらも国教会体制を維持したが、王位継承者であった王弟ヨーク公ジェームズはカトリック教徒であり、その即位をめぐって即位反対派(「嫌悪派」、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]])と即位支持派(請願派、[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]])とに議会は分裂した<ref name="sash57"/><ref name="iwaij205">[[#岩井淳|岩井淳(1998)pp.205-211]]</ref>。結局、ジェームズは[[1685年]]、[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]として即位した<ref name="sash57"/>。即位後、ジェームズ2世は[[審査法]]に適用除外の設置を主張してカトリック教徒を官職に登用する道を開き、[[オックスフォード大学]]のカトリック化に着手するなど、あからさまなカトリック容認政策を進め、議会はこれに危機感をいだいた<ref name="sash57"/><ref name="iwaij205"/>。そして、[[1688年]]6月、将来カトリックとして育てられるであろう王子が誕生したため、これを機にホイッグとトーリーはジェームズ2世排除で合意し、王の娘婿でプロテスタントだった[[オランダ総督]]の[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]]ウィレムに援軍派遣を求めた<ref name="sash57"/><ref name="iwaij205"/>。同年11月、イングランドに上陸したウィレム軍に多くのイングランド貴族が帰順し、孤立無援となった王は秘かにフランスに亡命した<ref name="sash57"/><ref name="iwaij205"/>。翌1689年2月、ウィレムとその妻メアリーは、議会が提示する国民の権利と自由を確認した「権利宣言」を受け入れ、共同統治者[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]および[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]として即位した<ref name="sash57"/><ref name="iwaij211">[[#岩井淳|岩井淳(1998)pp.211-214]]</ref>。これを、流血をともなわずに成就した革命であるとして、「[[名誉革命]]」と呼んでいる<ref name="sash57"/><ref name="iwaij205"/>。
 
 
 
議会はこののち89年5月に「{{仮リンク|寛容法|en|Toleration Act 1689}}(信教自由令)」、12月に「[[権利の章典]]」を成立させた<ref name="iwaij211"/>。いずれも、ピューリタン革命以来の国王と議会の対立に終止符を打ち、以後100年にわたる「名誉革命体制」の出発点となった<ref name="iwaij211"/>。
 
 
 
権利の章典はウィリアムとメアリーの夫妻が受け入れた「権利宣言」を基礎としたもので、これによってイギリスでは[[議会主権]]が確立し、以後、議会王政が定着していった<ref name="iwaij211"/><ref name="baubérot_48">[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.48-50]]</ref>。王位継承についてはカトリックの君主またはカトリックを[[配偶者]]とする者を王位継承者から排除するという明確な方針が打ち出された<ref name="iwaij211"/><ref name="baubérot_48"/>。これは、「教皇絶対主義」と「専制的権力」が結びついていると考えられたためであり、ここでは政治と宗教が密接にかかわっている点にこそむしろ一定程度の人間的自律が成立しうると考えられた<ref name="baubérot_48"/>。王位継承者に特定宗教を受け入れるよう求めるのは、議会によって代表されるところの国民であって、国王がそれを求めるのではないことが強調された<ref name="baubérot_48"/>。逆説的ではあるが、そこにおいて部分的にではあるが多元主義と信教の自由、世俗主義が成り立っているとみることが可能となる<ref name="baubérot_48"/>。これにより、[[王位請求者]]となったカトリックの[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]]が[[1701年]]の改宗拒否によって即位できず、結果として、[[1714年]]にステュアート朝が断絶して[[ハノーヴァー朝]]への交代をもたらすこととなった<ref name="baubérot_48"/>。
 
 
 
寛容法(信教自由令)では、国王に忠誠を誓いさえすれば、ピューリタン系の非国教徒も信仰を認められ、どのようなかたちであれ宗教的罰則を適用させないことが宣言された<ref name="iwaij211"/>。ただし、すべての非国教徒が寛容の対象となるのではなく、カトリックと[[無神論者]]は例外とされた<ref name="iwaij211"/>。また、寛容の対象となったピューリタンであっても、審査法等の法令は効力を失ってはいなかったので基本的には公職に就くことができなかった<ref name="iwaij211"/>。公職を得るには一年に一度聖餐式をおこない、ローマ教皇に対する忠誠拒否をおこなわなければならなかった<ref name="baubérot_48"/>。イギリスでは結局、国教会中心の体制が依然として維持されたのである<ref name="iwaij211"/>。
 
 
 
=== ブランデンブルク=プロイセンの勃興と宗教寛容策 ===
 
{{Main|ブランデンブルク=プロイセン}}
 
[[ファイル:Kurfürst Friedrich Wilhelm von Brandenburg 2.gif|right|thumb|160px|ブランデンブルク選帝侯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]](1620-1688)]]
 
ドイツないし神聖ローマ帝国域におけるオーストリアの存在感に対し、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]]は「帝国の砂箱」と呼ばれるような[[地味]]も[[資源]]も乏しい辺境にすぎなかったが、[[17世紀]]初頭に[[ライン川]]流域の[[クレーヴェ]]と[[マルク伯領]]を、東方では[[ポーランド王]]の宗主権下にある[[プロシア公領|プロイセン公国]]を継承し([[ブランデンブルク=プロイセン]])、上述のように[[ヴェストファーレン条約]]によって[[ミンデン]]などを獲得した結果、支配領域が東西に拡大して[[ザクセン選帝侯領]]とならぶ雄邦へと成長した<ref name="sakaguchi_125">[[#阪口3|阪口(2001)pp.125-127]]</ref>。とはいえ、それも[[同君連合]]としてであり、オーストリアの圧倒的な国力とは比べるべくもなかった<ref name="sakaguchi_125"/>。その間、[[ヨーハン・ジギスムント]]選帝侯は[[1613年]]までに政治的理由から[[カルヴァン派]]に改宗している<ref name="nishik25">[[#西川1|西川(2009)pp.25-28]]</ref>。
 
 
 
17世紀後半において、[[三十年戦争]]後の経済再建はドイツ諸邦にとっては焦眉の課題であり、中小領邦の分裂する状況ではなかなか進まなかった<ref name="sakaguchi_135">[[#阪口3|阪口(2001)pp.135-138]]</ref>。とくに国内[[関税]]は自由な通商を妨げる大きな障害となった<ref name="sakaguchi_135"/>。比較的大きな領邦国家や地理的に有利な都市は経済再建に向けて行動したが、新興のブランデンブルク=プロイセンはなかでも特に精力的に取り組んだ<ref name="sakaguchi_135"/>。[[1671年]]、ブランデンブルク=プロイセンの君主[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]](「大選帝侯」)はオーストリアから追放された富裕な[[ユダヤ人]]家族に定住許可を与え、保護状を付与した<ref name="goto"/>。一方で[[オランダ人]]や[[フランス人]]など外国人の入植政策を積極的に進め、とくにフランスで[[1685年]]に[[ナントの勅令]]が廃止されると、ただちに[[ポツダム勅令 (1685年)|ポツダム勅令]]を発して[[ユグノー]](カルヴァン派)を「改革派宗教に心寄せる同胞」と称して受け入れを宣言し、当時1万人弱の[[ベルリン]]だけでも約6000人のユグノーを招き入れた<ref name="sakaguchi_135"/><ref name="nishik37">[[#西川1|西川(2009)pp.37-40]]</ref>。人口増殖政策に加えて、オランダ人やユグノーの商工業者の指導のもとでの産業の復活をめざしたのである<ref name="sakaguchi_135"/>。これは、ルイ14世の宗教政策を批判するものであり、今までルイ14世からの報奨金と引き換えに実施していた親仏政策は破棄され、オランダのオラニエ公ウィレム3世との軍事同盟締結という政策転換につながった<ref name="nishik37"/>。このカルヴァン派同盟にはドイツやスカンジナヴィアのプロテスタント諸侯も加わって反ルイ14世陣営が形成され、のちにはこれに神聖ローマ皇帝やスペイン国王さえ加わることがあった<ref name="nishik37"/>。
 
 
 
プロイセンが権力国家として変貌を遂げたのは、三十年戦争後の約100年であり、それはほとんど「大選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルムとその孫のプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]](「軍人王」)の2人によっている<ref name="sakaguchi_125"/>。その出発点となるのが[[常備軍]]の創設(軍隊の国有化)であった<ref name="sakaguchi_125"/><ref name="haffner66">[[#ハフナー|ハフナー(2000)pp.66-73]]</ref>。常備軍は、ヴェストファーレン条約と[[1653年]]・[[1654年]]開催の[[レーゲンスブルク]][[帝国議会 (神聖ローマ帝国)|帝国議会]]の規定によって法的には基礎づけられたが、ブランデンブルク=プロイセンの場合は、[[バルト海]]の覇権をめぐって[[バルト帝国|スウェーデン]]と[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]が争った[[北方戦争]]([[1650年]]-[[1661年]])への対応がその契機となった<ref name="sakaguchi_125"/>。フリードリヒ・ヴィルヘルムはこの戦争でスウェーデン側に立ち、プロイセンのポーランド宗主権からの解放をめざして戦った<ref name="sakaguchi_125"/>。これについては[[ホーエンツォレルン家]]支配下の各地の領邦等族は他地域での戦争のための兵の動員に強く反対したが、フリードリヒ・ヴィルヘルムはこれを押し切り、さらに戦争が終結したのちも動員された軍隊を解散させずに常備化する方針を打ち立てたのである<ref name="sakaguchi_125"/>。これに対しても、領邦等族との激しい対立が生じたが、これを制し、その過程でいっそう君主権を強化させていった<ref name="sakaguchi_125"/>。合わせて[[税制]]や[[官僚制]]の整備拡充や、[[重商主義]]政策などを連鎖的に進めたが、その際、模範としたのはフランス絶対王政であった<ref name="sakaguchi_125"/>。上記の宗教的寛容や外国人移植政策は、新興プロイセンの重商主義政策とも深い関連を有していた。
 
 
 
[[1657年]]の[[オリヴァ条約]]で[[プロイセン公国]]はポーランドの宗主権から脱し、[[1701年]]、フリードリヒ・ヴィルヘルムの子フリードリヒ3世は、[[神聖ローマ皇帝]]から[[スペイン継承戦争]]に参戦することを条件に「[[プロイセンの王]]」を称することが許された。これにより、公国は[[プロイセン王国]]に昇格し、プロイセン公フリードリヒ3世は初代プロイセン王[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]となった<ref name="sakaguchi_125"/>。
 
 
 
=== 北米13植民地における政教分離 ===
 
{{See also|13植民地|アメリカ合衆国における政教分離の歴史}}
 
イングランドでの政治的迫害を逃れて新大陸に渡ったピューリタンたちは、北米の地に信教の自由を開花させることとなったが、移住当初は、[[ヴァージニア植民地]]やニューイングランド各地で国教化の試みや不寛容政策がなされた<ref name="iizaka_260"/>。同時に、それに強く抵抗し、反対する動きも各地でみられた。
 
 
 
==== ニューイングランドの諸植民地 ====
 
{{See also|ニューイングランド|ロードアイランド植民地|コネチカット植民地}}
 
[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]が南部の[[ヴァージニア植民地|ヴァージニア]]に創設された頃、[[ロンドン]]近郊の寒村から、新王ジェームズの宗教政策に失望した少数の清教徒が[[低地地方]]へと移住したが、そこも安住の土地ではなく、[[1620年]]、[[メイフラワー号]]に乗って[[新大陸]]に旅立った<ref name="morim52">[[#森本1|森本・高柳(2009)pp.52-57]]</ref>。ヴァージニアのはるか北方に[[プリマス植民地]]をつくった彼らは、[[信教の自由]]を求めて[[移住]]を繰り返したことから自らを[[巡礼]]者になぞらえた<ref name="morim52"/>。これが、今日称するところの「[[ピルグリム・ファーザーズ]](巡礼父祖)」であるが、実のところ、この集団(約100名)のなかに女性が含まれていた点がそれまでとは違っていた<ref name="morim52"/>。[[家族]]単位の移住と入植、この集団の歴史的な新しさはむしろそこにあったのである<ref name="morim52"/>。
 
 
 
[[ファイル:John winthrop illustration.3.jpg|left|thumb|140px|[[ジョン・ウィンスロップ (マサチューセッツ湾植民地知事)|ジョン・ウィンスロップ]](1588-1649)]]
 
[[ニューイングランド]]において、プリマスよりもはるかに規模が大きく、やがてそれを吸収合併することになるのが[[マサチューセッツ湾植民地]]である<ref name="morim52"/>。[[1630年]]、カンタベリー大主教[[ウィリアム・ロード]]によって清教徒迫害が始まると、ここには建設最初の年に1,000人以上、以後10年あまりで約2万人の移住者が入植した<ref name="morim52"/><ref name="iga24">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.24-29]]</ref>。ここでも移住者の4分の1は女性であった<ref name="morim52"/>。マサチューセッツの植民地で中心となったのは、ピューリタンのなかでも[[イングランド国教会]]から分離せずに、みずからキリスト教信仰の模範となるべく行動した「非分離派」であり、その指導者は本国で治安判事の経験をもつ[[ジョン・ウィンスロップ (マサチューセッツ湾植民地知事)|ジョン・ウィンスロップ]]であった<ref name="morim52"/><ref name="iga24"/>。ウィンスロップが1630年の航海に際して語った説教『キリスト教的慈愛のひな形』は、[[アメリカ史]]や[[アメリカ文学]]の古典中の古典として知られ、そこには神の選民の砦を指す「丘の上の町」という聖書的な[[暗喩]]を用いた強い使命感が述べられている<ref name="morim52"/><ref name="wa248">[[#富田虎男|富田虎男(1970)pp.248-253]]</ref><ref name="oonishi84">[[#大西直樹|大西直樹(2005)pp.84-97]]</ref>。この使命感には現代のアメリカ国家の自己理解に通じるものがあり、また、その理念先行型の国柄の一端を示している<ref name="morim52"/><ref name="oonishi84"/>。
 
 
 
[[ファイル:Anne Hutchinson on Trial.jpg|right|thumb|180px|ウィンススロップらの審問をうけるアン・ハッチンソン]]
 
[[ファイル:Hooker's Company reach the Connecticut.jpg|right|thumb|180px|コネチカットに到着したトマス・フッカー]]
 
マサチューセッツの非分離派はしかし、[[回心]]の経験を有する信徒の連帯を重んじて[[会衆派]]の教会をつくり、自由民の資格もその教会員に限って、宗教上の目的を有する非寛容的な[[神政政治]]をおこなった<ref name="iga24"/>。これに対し、[[イングランド国教会の分離派|分離派]]に属する[[バプテスト教会]]の牧師で、[[1631年]]に[[ケンブリッジ]]から移住した[[ロジャー・ウィリアムズ]]はイギリス国教会から分離しようとしない会衆派を批判し、宗教的寛容の思想を説き(詳細後述)、また、植民地政庁が先住民([[ネイティブ・アメリカン]])から土地を購入していないことにも疑義を呈し、土地の譲渡権は国王にではなく先住民にあると主張した<ref name="iga24"/><ref name="baubérot_22">[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.22-24]]</ref>。一方、[[1634年]]に移住したバプテストで、{{仮リンク|ジョン・コットン (牧師)|en|John Cotton (minister)|label=ジョン・コットン}}を師と仰ぐ[[アン・ハッチンソン]]は反律法主義を掲げてカルヴァンの[[予定説]]を極限まで徹底させ、会衆派の教義に挑戦した(アンティノミアン論争)<ref name="iga24"/><ref name="araki208">[[#荒木純子|荒木純子(2005)pp.208-233]]</ref>。[[1637年]]、植民地の指導者はハッチンソン夫人を総会に召還して審問し、ウィンスロップ総督は彼女に対し植民地からの追放処分の決定をくだした<ref name="iga24"/><ref name="araki208"/>。また、ウィリアムズやハッチンソン女史以上にマサチューセッツでいっそう厳しい弾圧を受けたのが、[[クエーカー]](フレンド派)の人びとであり、[[1650年代]]後半から[[1660年代]]初頭にかけては4名のクエーカー教徒が[[絞首刑]]に処せられた<ref name="iga24"/>。
 
 
 
ロジャー・ウィリアムズは、[[1636年]]、マサチューセッツ湾植民地から宗教的迫害を受けて逃げてきた仲間たちとともに、政教分離原則にもとづく[[ロードアイランド植民地]]を設立し、その本拠地を「[[プロビデンス (ロードアイランド州)|プロビデンス]](神の摂理)」と名づけた<ref name="baubérot_22"/>。そこは、先住民[[ナラガンセット族]]の首長カノニカスから贈与された土地であった。ここでウィリアムズは[[ユダヤ教徒]]も対象に含めた[[信教の自由]]を実現すべく、[[1644年]]、本国政府から[[特許状]]を取得して、北米植民地においてはじめて信仰の自由と政教分離を保障する自治領植民地を建設した<ref name="iga24"/>。そこでは、「公共の事項」における[[多数決]]原則と「[[良心の自由]]」を定めた憲法が制定され、また、[[聖職者]]に対する公的資金を援助することなく、教会と国家が分離された<ref name="baubérot_22"/>。一方のアン・ハッチンソンは先住民より[[ロード島|アクィドネック島]](ロード島)を購入し、夫のウィリアム・ハッチンソン、仲間の{{仮リンク|ウィリアム・コディントン|en|William Coddington}}、{{仮リンク|ジョン・クラーク (バプテスト指導者)|en|John Clarke (Baptist minister)|label=ジョン・クラーク}}らとともに現在の[[ロードアイランド州]][[ポーツマス (ロードアイランド州)|ポーツマス]]に入植した。
 
 
 
[[1636年]]に建設された[[コネチカット植民地]]では、政教分離を主張して[[ボストン]]の長老と衝突して追放されたピューリタンの牧師{{仮リンク|トマス・フッカー|en|Thomas Hooker}}が[[ハートフォード]]の町を建設した<ref name="iga24"/><ref name="wa248"/>。コネチカットでは、[[1639年]]、フッカーの思想を反映して、被統治者の同意を原則とする民主的な基本法が定められた<ref name="iga24"/>。なお、コネチカット植民地は[[イングランド王政復古]]後の[[1662年]]に国王チャールズ2世から特許状を与えられ、同年、[[ニューヘイブン植民地]]を併合して自治領植民地として発展した<ref name="iga24"/>。
 
 
 
ニューイングランドのピューリタン植民地では、各{{仮リンク|タウン (ニュー・イングランド)|en|New England town|label=タウン}}の中心部にミィーティングハウス(集会所)が設けられ、[[安息日]]ごとに集まって礼拝がおこなわれることが一般的であり、これを「[[タウンミーティング]]」と称したが、そこでは[[典礼]]を重視するカトリックや国教会とは対照的に、[[説教]]がきわめて重視された<ref name="masui196">[[#増井志津代|増井志津代(2005)pp.196-207]]</ref>。カルヴァン派では、説教によって聴衆を「真の宗教」へと導くことが目標とされたからであり、このことは植民地の文化形成にも大きく作用した<ref name="masui196"/>。上述のウィンスロップやジョン・コットンは優れた説教の語り手として知られている<ref name="masui196"/>。しかし、タウン・システムの閉鎖性は、上述したように宗教上・政治上の意見の対立を追放というかたちで隔離することによって正面衝突を回避する一方、急速に流入した多数の移住者を周辺の未定住地に集団的に押し流すものであり、他方では、[[1637年]]の[[ピクォート戦争]]において、「[[サタン]]の手先」として先住民[[ピクォート族]]が「掃討」されたように、ある種の暴力性をはらむものでもあった<ref name="wa248"/>。
 
 
 
自らの信仰にとって理想の地を求めて移住したピューリタンたちが他の教派に対して非寛容な共同体を建設することも少なくなかった<ref name="baubérot_22"/>。タウン・システムが[[直接民主制]]的であったことは事実であるが、それは[[権利]]というよりも[[義務]]的要素の強いものであった<ref name="iga57">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.57-59]]</ref>。ニューイングランドでは、[[1689年]]以前にも103人もの、主として中年女性が「[[魔女]]」として処刑されているが、[[1692年]]の「[[セイラム魔女裁判]]」はこのような非寛容性を示す典型例である<ref name="baubérot_22"/><ref name="iga57"/>。当時の[[マサチューセッツ州]]セイラム(現在の[[ダンバース (マサチューセッツ州)|ダンバース]])は厳しい[[禁欲]]を強いるピューリタン社会であり、そこでは1692年3月以降、継続的に裁判が開かれ、200名近い住民が魔女として告発され、数人の男性を含む20名前後が処刑、1名が拷問中に圧死、5名が獄死している<ref name="baubérot_22"/>。この[[魔女狩り]]はちょうどマサチューセッツ湾植民地の王領化の時期と重なっており、それにともなう住民の不安と共鳴する現象であったとも指摘されている<ref name="iga57"/>。
 
 
 
==== ペンのペンシルヴェニア植民地 ====
 
{{See also|ペンシルベニア植民地}}
 
[[ファイル:William_Penn.png|thumb|left|160px|[[ウィリアム・ペン]](1644-1718)]]
 
クエーカー(フレンド派)は、既存の[[教会]]や[[聖職者]]の権威を認めなかったところからイギリス本国で非国教徒として厳しい弾圧を受けた<ref name="iga29">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.29-32]]</ref>。また、その教義のうちに、平信徒が「内なる光」を通じて[[神]]と交信し、神の導きを受けるという教理を含んでいたために、ピューリタン(カルヴァン派)の厳格な教義とは相いれず、マサチューセッツでもニューアムステルダム(現在の[[ニューヨーク]])でも迫害を受けた<ref name="iga24"/>。クエーカーの[[ウィリアム・ペン]]は[[1681年]]、領主植民地である[[ペンシルベニア植民地|ペンシルヴェニア植民地]]を建設し、その憲章(ペンシルヴェニア憲章)では[[信教の自由]]が保障された<ref name="baubérot_22"/>。さらに、[[陪審員制]]の[[裁判]]や[[代議制]]政府の設立、本国イギリス並の市民的諸権利の保障などを約束した<ref name="iga32">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.32-34]]</ref>。
 
 
 
非国教徒であるペンが、国王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]からペンシルヴェニアの領主になることを認められたのには、いささか特殊な事情がからんでいた<ref name="iga29"/>。チャールズ2世が[[イングランド海軍]]の[[提督]]であったペンの父([[ウィリアム・ペン (イングランド海軍)|ウィリアム]])に多額の借金をしており、さらにペンの父はチャールズ2世に忠実で、王政復古に際しても大きな功績があったためである<ref name="iga29"/><ref name="hirai98">[[#平井康大|平井康大(2005)pp.98-97]]</ref>。ペン自身も国王とは個人的に親しく、ペンシルヴェニアの地も王弟ヨーク公ジェームズ(のちの[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]])より下賜された地であった(ヨーク公を領主とする植民地は[[ニューヨーク植民地]]となった)<ref name="iga29"/><ref name="hirai98"/>。
 
 
 
ウィリアム・ペンは、この植民地をクウェーカー派にかぎらず、宗教的迫害に苦しむ人びとを教派のいかんによらず受け入れる姿勢を示した<ref name="iga29"/><ref name="hirai98"/>。また、イギリス、オランダ、[[ラインラント]]の各地を訪れて植民者を募集したので、ペンシルヴェニアには、[[デラウェア川]]流域にいた[[オランダ人]]、[[スウェーデン人]]、[[フィンランド人]]が移り住み、ヨーロッパからも、イングランド、[[ウェールズ]]、[[アイルランド]]からのクエーカーに加えてドイツの[[敬虔派]]やフランスのユグノー、スイスの[[再洗礼派]]など様々な信仰をもった多様な人々が集まり、ペンの掲げた宗教的寛容は事実として根付いた<ref name="iga32"/><ref name="hirai98"/>。[[先住民]]に対しても配慮し、植民者たちは先住民の土地所有権を尊重することが義務づけられており、彼らから土地を購入することなしには誰も定住できなかった<ref name="hirai98"/>。また、[[兵役]]を拒否するペンの勧めで、[[メリーランド]]、ヴァージニア、[[ノースカロライナ]]などの地域から{{仮リンク|タスカローラ族|en|Tuscarora people}}、[[ショーニー族]]、[[マイアミ族]]などネイティブ・アメリカンも移住した<ref name="iga32"/>。
 
 
 
植民地議会はやがて次第に自律的な力をもつようになり、総督や領主の権威を脅かし、ついにはペン家のペンシルヴェニアにおける影響力を排除するに至ったが、その一方で「神の前の平等」の理念と[[共和主義]]は多くの人びとを引きつけ、商工業の発展をもたらし、その中心都市[[フィラデルフィア]]は独立前の13植民地における政治・経済の一大中心地として栄えた<ref name="hirai98"/>。
 
 
 
== 「啓蒙の世紀」と政教分離 ==
 
{{Main|啓蒙思想|啓蒙時代}}
 
17世紀のヨーロッパでは、寛容思想が各地で実現へと向かい、トランシルヴァニアやオランダでは制限付きながら宗教的寛容が実現し、イギリスでも国王への忠誠を誓い、ローマ教皇には従わないと宣誓する限りにおいて非国教徒も寛容の対象となった<ref name="goto"/>。「啓蒙の世紀」「理性の時代」と呼ばれる18世紀には多くの思想家があらわれ、啓蒙思想、寛容思想をはじめ、政教分離の土台となるような思想を展開し、アメリカ憲法修正条項やフランス革命に受け継がれた<ref name="goto"/><ref name="porter_1">[[#ポーター|ポーター(2004)pp.1-16]]</ref>。
 
 
 
=== 政教分離の土台となる諸思想 ===
 
[[近代科学]]と[[近代哲学]]が興起して以来、[[啓蒙主義]]の思潮が全ヨーロッパ的に拡大していったが、啓蒙主義者たちは概して自身を、自身の教派や[[民族]]・[[言語]]上の差異や帰属国家を超えた存在、すなわち[[コスモポリタン]]であるとみなし、想像上の[[共同体]]である「文芸共和国(レピュブリック・デ・レトル)」の一員であると信じていた<ref name="nishikawa066">[[#西川|西川(2009)pp.66-68]]</ref>。かれらの権威は現実の社会的身分よりも学問的貢献や識見の高さによって判断されたので、当時の[[メディア]]をさかんに利用して自身の見解や議論を活発に発信した<ref name="nishikawa066"/>。とくに17世紀後半から18世紀前半にかけてその役割をになったのは、オランダ共和国を起点として全ヨーロッパに広がった[[通信]]・[[定期刊行物]]・[[書籍]]のネットワーク網であった<ref name="nishikawa066"/>。オランダが一大中心となったのは、上述のとおり宗教的多元性と宗教的寛容という条件が存在していたためであるが、[[1680年代]]のプロテスタント迫害がもたらした「ユグノー・ディアスポラ」の結果でもあった<ref name="nishikawa066"/>。
 
 
 
18世紀中葉には、ヨーロッパの出版界はいっそう多極的となり、オランダの影響力は相対的に低下した<ref name="nishikawa066"/>。啓蒙主義の旺盛な知識探究の精神は、[[新大陸]]や[[アジア]]からもたらされた情報にも向けられ、ヨーロッパ諸都市を網の目のように結ぶ[[サロン]]や[[クラブ]]、[[コーヒーハウス]]、[[アカデミー]]、ルナー協会をはじめとする公益協会、[[フリーメイソン]]の会所(ロッジ)などをとおして、公共圏を拡大させていった<ref name="nishikawa066"/>。
 
 
 
==== 科学における聖俗改革 ====
 
{{See also|科学革命}}
 
科学における聖俗改革は、17世紀以降着実に進展していく<ref name="kume_219">[[#久米|久米(1993)pp.219-226]]</ref>。いわゆる「[[近代科学]]」は、[[ニコラウス・コペルニクス]]の[[地動説]]の提唱後、[[天文学]]分野におけるドイツの[[ヨハネス・ケプラー]]、イタリアの[[ガリレオ・ガリレイ]]、[[解剖学]]におけるイングランドの[[ウイリアム・ハーベー|ウイリアム・ハーヴェイ]]、アイルランド出身の化学者[[ロバート・ボイル]]、[[物理学]]分野におけるオランダの[[クリスティアーン・ホイヘンス]]、イギリスの[[アイザック・ニュートン]]らの研究によって成立した<ref name="kume_219"/>。[[実験]]と[[理論]]の両面における[[ロバート・フック]]の貢献も大きかった。こうした動きは、「[[科学革命]]」と称される。ガリレイの宗教裁判でのエピソードは、しばしばキリスト教が科学の発展を阻害する元凶であるという文脈で語られることも多いが、これは必ずしも正確ではなく、17世紀における科学的発見や進歩はむしろキリスト教的な世界観・自然観から現れてきたものとみなすことができる<ref name="kume_219"/>。[[ケプラーの法則|ケプラーの三法則]]の発見は神のもたらした調和的秩序を確信するところから生まれてきたものであったし、ニュートンの[[万有引力]]の発見もまた地上・天体の双方の運動を統合的にとらえる視点、宇宙を神の被造物ととらえる観点から生まれてきたのである<ref name="kume_219"/><ref group="*">ニュートンは宗教的にはユニテリアンの信仰に立っていたため、高い名声と権威を誇っていたものの、生前、公的な栄典とは無縁であった。[[#デイヴィス|デイヴィス(2000)]]</ref>。教義と学説の対立があったとしても、宗教そのものが否定されたわけではなく、宗教者と科学者が対立したわけではない<ref name="kume_219"/>。
 
 
 
とはいえ、科学の進展にともない、17世紀から18世紀にかけては、科学史家[[村上陽一郎]]が指摘するところの「真理の聖俗革命」と称されるべき現象が進行する<ref name="kume_219"/>。すなわち、真理の相対化と知識の世俗化である<ref name="kume_219"/>。自然を神の本質の必然的な表現とみて自然の営みの必然性を追究し、それを神ならぬ人間が発見していくと、逆説的ではあるが、自然から神の存在を棚上げすることにつながる<ref name="kume_219"/>。[[ルネ・デカルト]]らの[[合理主義哲学]]における「[[機械論]]的自然観」もキリスト教的な自然観に内在しており、そこからの必然的な帰結ともいえるのであった<ref name="kume_219"/>。そして、その場合の神とは、聖書に記された神ではなく、[[理神論]]的な神であった。
 
 
 
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ファイル:Galileo-sustermans2.jpg|[[ガリレオ・ガリレイ]](1564-1642)
 
ファイル:Johannes Kepler 1610.jpg|caption = Portrait of Kepler by an unknown artist, 1610|[[ヨハネス・ケプラー]](1571-1630)
 
ファイル:William_Harvey.jpg|[[ウイリアム・ハーベー|ウイリアム・ハーヴェイ]](1578-1657)
 
ファイル:Robert Boyle 0001.jpg|[[ロバート・ボイル]](1627-1691)
 
ファイル:Christiaan Huygens-painting.jpeg|[[クリスティアーン・ホイヘンス]](1629-1695)
 
ファイル:13 Portrait of Robert Hooke.JPG|[[ロバート・フック]](1635-1703)
 
ファイル:GodfreyKneller-IsaacNewton-1689.jpg|[[アイザック・ニュートン]](1643-1727)
 
</gallery>
 
 
 
==== 近代哲学のはじまり ====
 
{{See also|経験論|合理主義哲学|モラリスト}}
 
実験・観察の重視は哲学の刷新をもたらした。イングランドの[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]は世俗的な知識を重視し、『[[ノヴム・オルガヌム]]』において「[[知識は力なり]]」と唱えて、[[スコラ学|スコラ哲学]]において特徴的な[[演繹法]]とあらゆる偏見や先入観(「[[4つのイドラ]]」)を排し、自然に対する真摯な観測を出発点とする[[帰納法]]を方法論とする[[経験論]]哲学を創始した<ref name="sekiya_119">[[#関家|関家(1985)pp.119-127]]</ref>。これは、科学革命の進展と軌を一にする思想上の大転換であった<ref name="sekiya_119"/>。イングランドの[[トマス・ホッブズ]]や[[ジョン・ロック]]、アイルランドの[[ジョージ・バークリー]]、スコットランドの[[デイヴィッド・ヒューム]]、フランスの[[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック]]らは、経験論につらなる哲学者である。
 
 
 
フランスの[[ルネ・デカルト]]は、すべてのものをいったん疑い、疑いの余地のあるものはすべて排除するという「[[方法的懐疑]]」を哲学の革新の出発点に置き、「[[我思う、ゆえに我あり]]」という命題にたどりついた<ref name="sekiya_127">[[#関家|関家(1985)pp.127-135]]</ref><ref name="hase_391">[[#長谷川4|長谷川(1997)pp.391-396]]</ref>。この命題は、スコラ哲学などの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光([[理性]])」を用いて真理を探求していこうとするところから得られたもので、デカルトはこれを哲学の第一原理としたのであった<ref name="sekiya_127"/><ref name="hase_249">[[#長谷川3|長谷川(1997)pp.249-250]]</ref>。デカルトは、アリストテレス的な[[目的論]]的自然観に対し、ニュートンによって切り開かれた力学的な自然観を代置し、すべての伝統と権威を否定したうえで人間理性のみを信頼すべきものとし、これを真理探究の究極的な手段であると唱えて、ヨーロッパ近代思想に多大な影響をおよぼした<ref name="sekiya_127"/><ref name="hase_249"/>。オランダの[[バールーフ・デ・スピノザ]]、「[[モナド (哲学)|モナド]]論」を唱えたドイツの[[ゴットフリート・ライプニッツ]]らは、デカルトにつらなる[[合理主義哲学]](大陸合理論)の哲学者として知られる。
 
 
 
「神の存在証明」を試みたデカルトは、宗教的には理神論の立場に立っていたが、これに対しては[[ブレーズ・パスカル]]からの批判がある。数学・自然科学の分野でも大きな足跡をのこしたパスカルは、『[[パンセ]]』のなかで「デカルトを赦すことはできない。彼はその哲学体系のなかで、できれば神なしですませたいと考えたはずだ」と述べている<ref name="kume_219"/>。彼は、カトリックの立場に立つ神学者でもあり、宗教的には[[ジャンセニスム]]の立場に立っていた。フランスにおいて[[ミシェル・ド・モンテーニュ]]やパスカルの思想的立場は「[[モラリスト]]」と総称される。
 
 
 
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ファイル:Michel-eyquem-de-montaigne 1.jpg|[[ミシェル・ド・モンテーニュ]](1533-1592)
 
ファイル:Somer Francis Bacon.jpg|[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]](1561-1626)
 
ファイル:Frans_Hals_-_Portret_van_René_Descartes.jpg|[[ルネ・デカルト]](1596-1650)
 
ファイル:Blaise Pascal Versailles.JPG|[[ブレーズ・パスカル]](1623-1662)
 
ファイル:Gottfried Wilhelm von Leibniz.jpg|[[ゴットフリート・ライプニッツ]](1646-1716)
 
ファイル:George_Berkeley.jpg|[[ジョージ・バークリー]](1685-1753)
 
ファイル:David Hume.jpg|[[デイヴィッド・ヒューム]](1711-1776)
 
ファイル:Etienne_Bonnot_de_Condillac.jpg|[[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック]](1714-1780)
 
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==== 寛容思想の展開 ====
 
近世ヨーロッパでは宗教改革によって教会の多元化が進行し、相次ぐ宗教戦争への反省のなかから、[[寛容]]の思想が広がっていった<ref name="wts">[[#渡辺笹川|渡辺信夫・笹川紀勝(1988)pp.255-256]]</ref>。「国際法の父」と称されたフーゴー・グローティウスは、人類最初の契約なるものの存在を想定し、その契約によって人間は自然状態を放棄したものとみなした<ref name="baubérot_28">[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.28-29]]</ref>。グローティウスによれば、自然権はまずもって人間のもつ社会性に由来し、「たとえ神が存在しなくても」自然権は価値を有していると唱えた<ref name="baubérot_28"/>。彼のこうした考えは、ヴェストファーレン条約調印に向けて大きな影響力をもった<ref name="baubérot_28"/>。
 
 
 
[[清教徒革命]]期にフランスに亡命したイングランドの[[トマス・ホッブズ]]は[[機械論]]的世界観の先駆的哲学者の一人であり、人工的国家論と[[社会契約説]]を唱えた<ref name="baubérot_28"/><ref name="sekiya_180">[[#関家|関家(1985)pp.180-187]]</ref>。ホッブズによれば、人間は自然状態にあっては利己心と自己防衛の本能から「万人の万人に対する闘争」というべき戦争状態に陥り、そこにおける相互の恐怖心から免れるために、人為的ではあるが制限されることのない権力を君主にあたえた<ref name="baubérot_28"/><ref name="sekiya_180"/>。主著『[[リヴァイアサン]]』に示されたこの思想は、結果的に[[絶対主義]]を擁護することにつながったが、「人間の生存」はすべての義務に先行する自然権であると説いて[[王権神授説]]を明確に否定し、ロックやルソーにつらなる[[社会契約説]]の嚆矢として大きな意味をもっている<ref name="baubérot_28"/><ref name="sekiya_180"/>。キリスト教の分裂とその結果として生じた多様な意見は、世俗権力と宗教権力の分裂に終止符を打ったのである<ref name="baubérot_28"/>。
 
 
 
オランダの[[バールーフ・デ・スピノザ]]は、「思想の自由」を称賛し、自著『{{仮リンク|神学・政治論|en|Tractatus Theologico-Politicus}}』において、「宗教的信仰実践と敬虔さの外的形状は、平和と国家の有用性—に基づき定められる」と主張した<ref name="baubérot_28"/>。同書ではまた、聖書が歴史的に成立した文書である以上、その解釈も歴史的になされるべきであるという考えにもとづいて聖書解釈をおこない、近代[[聖書学]]の成立に道をひらいた<ref name="kume_229">[[#久米|久米(1993)pp.229-231]]</ref>。ユダヤ人共同体から追放された彼であったが、無神論者の疑いをかけられながらも思索を続けられたのもオランダならではのことであった。ただし、『神学・政治論』は1670年に禁書処分にされ、主著『[[エチカ (スピノザ)|エチカ]]』も生前は出版されなかった<ref name="kume_229"/>。
 
 
 
ドイツでは、[[ザミュエル・フォン・プーフェンドルフ]]がグローティウスやホッブズの影響を受けた世俗的[[自然法]]論を唱えた。プーフェンドルフはしかし、自然状態は完全な闘争状態ではなく家族結合のような社会関係を想定した。プーフェンドルフに影響を受けた[[クリスティアン・トマジウス]]は多数の著作を著し、[[ライプツィヒ大学]]では自然法を[[ドイツ語]]で講じたため、後世[[クリスティアン・ヴォルフ]]と並んで「ドイツ啓蒙主義の父」と称された<ref name="sakaguchi_163">[[#阪口1|阪口(2001)pp.163-165]]</ref>。ライプツィヒを離れたトマジウスはプロイセン公フリードリヒ(プロイセン王[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]])によって領内の[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]に大学を設立するよう命じられた<ref name="sakaguchi_163"/>。こうして1694年に創設された[[ハレ大学]]は教派を越えた学問研究の中心となり、ドイツ啓蒙主義の拠点となった<ref name="sakaguchi_163"/><ref name="nishik44">[[#西川1|西川(2009)pp.44-48]]</ref>。[[ルター派]]の[[フィリップ・シュペーナー]]らは硬直化した教会を内部から刷新するドイツ[[敬虔主義]]の運動をはじめていたが、シュペーナーは多くの敬虔主義者たちをハレ大学に集めたため、ここでは初期啓蒙哲学と敬虔主義の合流がみられた<ref name="sakaguchi_163"/><ref name="nishik44"/>。敬虔主義(ピエティスム)とは、特定の教理を遵守することではなく、個人の敬虔な内面的心情に信仰の本質をみるという立場であり、民衆教育や慈善活動にきわめて熱心に取り組んだ<ref name="nishik44"/><ref group="*">ハレ大学はのちに{{仮リンク|アウグスト・ヘルマン・フランケ|en|August Hermann Francke}}の指導のもとヨーロッパ規模のモラル・リフォーム運動の一大中心地へと発展した。[[#西川1|西川(2009)p.46]]</ref><ref group="*">[[1770年代]]から19世紀初頭にかけては、[[イマヌエル・カント]]をはじめ、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]、[[フリードリヒ・シェリング]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]らが現れて、ドイツの哲学がヨーロッパの思想界をリードした。[[#阪口1|阪口(2001)p.165]]</ref>。
 
 
 
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ファイル:Mierevelt grotius 1608.jpg|[[フーゴー・グローティウス]](1583-1645)
 
ファイル:Thomas Hobbes (portrait).jpg|[[トマス・ホッブズ]](1588-1679)
 
ファイル:Spinoza.jpg|[[バールーフ・デ・スピノザ]](1632-1677)
 
ファイル:Samuel von Pufendorf.jpg|[[ザミュエル・フォン・プーフェンドルフ]](1632-1694)
 
ファイル:Philipp_Jakob_Spener.jpg|[[フィリップ・シュペーナー]](1635-1705)
 
ファイル:Christian_Thomasius.jpg|[[クリスティアン・トマジウス]](1655-1728)
 
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===== ロジャー・ウィリアムズの政教分離思想 =====
 
[[ファイル:Roger Williams statue by Franklin Simmons.jpg|right|thumb|160px|[[ロジャー・ウィリアムズ]](1603-1683)]]
 
[[1631年]]に[[ニューイングランド]]の[[マサチューセッツ湾植民地]]へ移住した牧師[[ロジャー・ウィリアムズ]]は宗教的寛容の思想を説き、また、アメリカ最初期の[[バプテスト教会]]を創設した人物である<ref name="iga24"/><ref name="baubérot_22"/>。マサチューセッツで迫害を受けてそこを逃れた彼は、[[1636年]]、現在の[[ロードアイランド州]][[プロビデンス (ロードアイランド州)|プロビデンス]]において、同じ境遇の友人たちとともに新しい植民地を建設することを構想した<ref name="baubérot_22"/>。ウィリアムズは[[ユダヤ教徒]]も対象に含めた[[信教の自由]]を実現すべく[[1644年]]に本国政府から[[特許状]]を取得し、北米植民地ではじめて[[信仰の自由]]と[[政教分離]]を保障する自治領植民地、[[ロードアイランド植民地]]を成立させた<ref name="iga24"/>。そこでは、「公共の事項」における[[多数決]]原則と「[[良心の自由]]」を定めた憲法が制定された<ref name="baubérot_22"/>。また、「分離の壁」という用語を用いて政教関係を説明し、ロードアイランドでは実際に聖職者に対して公的資金を投入することなく、安定したかたちで教会と政府の分離が実現している<ref name="baubérot_22"/>。
 
 
 
ウィリアムズにとって、国家は「本質的に市民的」なものであって、一方、教会は「信徒たちの結社であり、医師会や同業者組合と同じ性質」のものだとしており、[[ジョン・ロック]]ものちに同様の見解を示した<ref name="baubérot_22"/>。彼にとって、信教の自由は、[[異教徒]]である[[ネイティブ・アメリカン]]やユダヤ人、あるいは、[[無神論]]者をも含むすべての人のものだったのである<ref name="baubérot_22"/>。万人に有効な市民法は宗教的規範からは明確に区別されるべきだという彼の政教分離思想は、[[多文化主義]]的な[[風土]]において実験的に試みられ、後世、[[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]]らに引き継がれて改良されることとなった<ref name="baubérot_22"/>。
 
 
 
===== ロックの寛容論 =====
 
[[ファイル:John Locke.jpg|right|thumb|160px|[[ジョン・ロック]](1632-1704)]]
 
[[ジョン・ロック]]は[[1686年]]から[[1689年]]にかけて亡命先の[[オランダ]]で『{{仮リンク|寛容についての書簡|en|A Letter Concerning Toleration}}』を書いた(公表は1689年)。ロックは、[[1683年]]の冬、[[アムステルダム]]で[[レモンストラント派]]の知識人{{仮リンク|フィリップ・ファン・リンボルヒュ|nl|Philipp van Limborch}}と出会い、意気投合した<ref name="sakurada63"/>。同書簡は、ロックとファン・リンボルヒュのあいだの友情と意見交換の末に生まれたものである<ref name="sakurada63"/>。ロックはそこで、聖書にかかわる議論と政治哲学的な考察とを関連づけながら、「市民政府にかかわるものと宗教に属するもの」を分けることの必要性、すなわち政教分離の思想を示し、「前者と後者の権利を分ける正確な境界線」を示すことが不可欠であると主張した<ref name="baubérot_29">[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.29-32]]</ref>。
 
 
 
ロックによれば、国家は「市民の利益の確立、維持、促進のためにのみ樹立される人間の社会」なのであって、それゆえ法が人びとの財産と健康を保持しようとするならば、それを回避してはならず、人びとが健康で豊かになろうという意志を有するならば、それを妨げることはできないとする<ref name="baubérot_29"/>。これについて国家は人民に必要な措置を外的に講じなくてはならない<ref name="baubérot_29"/>。「内面的信念」に支配されるところの宗教領域は、こうした外的措置の原動力にはならないし、その能力も持たないとロックは指摘する<ref name="baubérot_29"/>。ロックにあっては、宗教はすでに個人の問題と考えられており、教会の多元性はすでに前提条件として想定されているのである<ref name="baubérot_29"/>。ロックはまた、教会を出入り可能な[[結社]]としてみており、[[ムスリム]]や[[ユダヤ教徒]]もまた、その信仰する宗教を理由に国家から排除されてはならないとした<ref name="baubérot_29"/>。ロックは、同時期にオランダに亡命していた[[ピエール・ベール]](詳細後述)ら亡命ユグノー知識人と親交を結んだが、[[ナントの勅令]]廃止の衝撃から、国家と教会の完全な分離と、教会はその構成員の自発的な集まりであるべきだと考えた<ref name="nishikawa066"/>。
 
 
 
ロックは、新女王とともにイングランドに帰国するまで、オランダの地で『[[統治二論]]』『[[人間悟性論]]』『教育に関する考察』などを執筆した<ref name="sekiya_180"/>。『統治二論』では名誉革命を支持し、[[ロバート・フィルマー]]の王権神授説を批判し、ホッブズ同様[[社会契約説]]を軸として国家論を展開し、そのなかで[[抵抗権]]も唱えて[[アメリカ独立戦争]]や[[フランス革命]]に影響をあたえた<ref name="sekiya_180"/>。
 
 
 
一方でロックは、ベールや[[ロジャー・ウィリアムズ]]とは異なり、無神論を認めようとはしなかった<ref name="baubérot_29"/>。ロックは[[1695年]]に『キリスト教の合理性』を著し、思考する者は同時に信仰する者でもあるというところから論を起こした<ref name="porter_47">[[#ポーター|ポーター(2004)pp.47-60]]</ref>。ロックによれば、全知全能の神の存在や、その神に従い、崇敬する義務があるといった宗教における中心教義は、[[理性]]や[[経験]]に照らしてこれらに合致しているのであり、そうした前提に立てば、[[キリスト教徒]]であることは合理的な責務である<ref name="porter_47"/>。しかし、合理的なキリスト教徒は、伝統的な信仰に関して、理性ゆえにためらいをおぼえる部分まで受容すべき理由はないのであり、最小限度にそぎ落とされた、有識者が安心して信用できる範囲の「合理的な宗教」を理性をもって信仰すべきであるとした<ref name="porter_47"/>。
 
 
 
===== ピエール・ベールの寛容論 =====
 
[[ファイル:Pierre Bayle by Louis Ferdinand Elle.jpg|right|thumb|160px|[[ピエール・ベール]](1647-1706)]]
 
上述したように、フランスでは「太陽王」ルイ14世が[[ガリカニスム]]にもとづいて[[1685年]]にナント勅令を廃棄し、プロテスタント信仰を禁ずると、50万人ともいわれるカルヴァン派([[ユグノー]])が国外へ逃れ、そこでは宗教的寛容や信教の自由をめぐる議論が活発化した<ref name="hukusima"/><ref name="goto">[[#後藤正英|後藤正英(2007)]]</ref>。オランダの[[ロッテルダム]]に亡命したカルヴァン派の[[ピエール・ベール]]は[[フォンテーヌブロー勅令]]の直後、『〈強いて入らしめよ〉というイエス・キリストの御言葉に関する哲学的注解』を刊行し、「迷える良心」は人間の自由の表現であるとして、信仰の強制や宗教的迫害を正当化するガリカニスムを批判した<ref name="hukusima"/><ref name="nozawa">[[#野沢|野沢(1999)]]</ref>。ベールはしかし、一方ではカトリック教徒を装って偽名で小冊子『亡命者への忠告』を発表し、年来の同僚であり論争相手でもある、王権打倒を唱えるプロテスタント強硬派の{{仮リンク|ピエール・ジュリュー|fr|Pierre Jurieu}}を批判している<ref name="hukusima"/><ref>C.L.A.A.P.D.P.著L’Avis important aux réfugiées sur leur prochain retour en France 『フランスへの近き帰国につき、亡命者に与うる重大なる忠告』</ref>。ベールは、ジュリューの[[千年王国]]説的な[[予言]]は当たらなかったし、[[無政府状態]]や[[共和主義]]は深刻な災いをもたらすと批判して、ユグノーは自分たちのために寛容を要求するが、カトリックに対して信仰の自由を認めないのかと疑問を発して改革派への反省を促した<ref name="hukusima"/>。彼は、自らの肉親もフランス国内で迫害されている現実を見すえながら、[[迷信]]の打破に努め、宗教と道徳の分離を図った<ref name="nishikawa066"/><ref name="hase_391"/>。彼の代表的著作『{{仮リンク|歴史的批評的辞典|fr|Dictionnaire historique et critique}} 』([[1697年]])では、歴史、道徳、科学、神学にかかわる無数の問題に対する疑念や[[ジレンマ]]が強調され、従来の権威にゆさぶりをかけている<ref name="hase_391"/><ref name="porter_17">[[#ポーター|ポーター(2004)pp.17-33]]</ref>。[[懐疑主義]]をものごとを考察する基本とした『歴史的批評的辞典』は、ベールの死後も次々と版を重ねて18世紀前半までに9版まで刊行された<ref name="nishikawa066"/>。特にフランスでは新思想を求める読者に競うように読まれ、[[英語]]や[[ドイツ語]]による全訳版も出版されて、その影響は全ヨーロッパにおよび、18世紀の啓蒙思想に多大な影響を与えた<ref name="nishikawa066"/>。[[ヴォルテール]]はこの書を「啓蒙思想の宝庫」と評している。彼は宗教におけるあらゆる束縛を拒否する革新的な思想家であり、[[無神論]]もまた社会的紐帯の妨げにならないとする普遍的寛容を主張したのである<ref name="baubérot_28"/>。
 
 
 
==== ヴォルテールの反教権主義 ====
 
[[ファイル:D'après Maurice Quentin de La Tour, Portrait de Voltaire, détail du visage (château de Ferney).jpg|160px|right|thumb|[[ヴォルテール]](1694-1778)]]
 
[[ヴォルテール]]は3年間のイギリス亡命生活ののち『{{仮リンク|哲学書簡|fr|Lettres philosophiques}}』([[1734年]])を著し、そのなかで[[ロンドン証券取引所]]において国教会の信者も非国教徒、カトリック教徒も、[[ユダヤ人]]や[[ムスリム]]にいたるまで対等の立場で取引している光景を描き、また、[[議会主権]]のイギリスでは、さまざまな党派が平穏に活動し、[[理神論]]者も存在が許されているとして自国と比較してのイギリスの国制、市民的自由、[[信教の自由]]を称え、[[ジョン・ロック]]が果たした思想的役割を高く評価した<ref name="porter_35">[[#ポーター|ポーター(2004)pp.35-45]]</ref><ref name="baubérot_32">[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.32-35]]</ref>。[[経済活動の自由]]は信仰の自由とともに歩むものであり、これによりはじめて平和と繁栄が実現されるのだと彼は主張したのである<ref name="porter_35"/>。一方で彼は、自身の著作『{{仮リンク|ルイ14世の世紀|fr|Le Siècle de Louis XIV}}』([[1751年]])のなかで人類の「4つの幸福な時代」として、[[ペリクレス]]と[[プラトン]]に代表される[[古代ギリシア]]、[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]と[[ガイウス・ユリウス・カエサル|ユリウス・カエサル]]に代表される[[古代ローマ]]、[[メディチ家]]の[[ルネサンス]]時代、そしてフランスのルイ14世の時代を挙げている<ref name="takayanagi_080"/>。これらと対照的なのが「信仰の時代」であり、これを悲惨で遅れた[[暗黒時代]]とみなした<ref name="takayanagi_080"/>。
 
 
 
ヴォルテールもまたロック同様、寛容を説き、少なくとも当初は無神論にも反対した<ref name="porter_47"/><ref name="baubérot_32"/>。彼は宗教がなぜ必要なのかについて、「法は表に現れた犯罪に目を光らせ、宗教は隠れた犯罪に目を光らせるから」と述べている<ref name="baubérot_32"/>。ただし、ヴォルテールがよりどころにしたのは、自身の[[歴史哲学]]であって、「かつてはおそらく必要であった」不寛容な勅令が、もはや必要ではなくなっているとみなした<ref name="baubérot_32"/>。というのも、いまや「[[理性]]」が社会の前面に現れ、人びとを「[[啓蒙]]」しているからである<ref name="baubérot_32"/>。あるいはまた、ヴォルテールはヨーロッパの歴史を一種の例外とみる歴史観を持ち合わせていた<ref name="baubérot_32"/>。彼によれば、「ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人、[[中国人]]、[[日本人]]」などはみずから寛容であることを示してきたのであり、不寛容さはむしろキリスト教、とりわけ教皇権至上主義者や[[イエズス会]]士、下層民などのカトリック信仰とともにあると考えた<ref name="baubérot_32"/><ref group="*">[[ファイル:Montesquieu 1.png|160px|right|thumb|[[シャルル・ド・モンテスキュー]](1689-1755)]] ヴォルテールが世界最高の文明は中国だと断言したのに対し、ヨーロッパ諸国歴訪の体験と読書による知識によって法制度と風土、経済、宗教、習俗との関係を明らかにした法社会学の祖[[シャルル・ド・モンテスキュー]]は、[[1748年]]に有名な『[[法の精神]]』を著しており、そのなかで中国についても論じているが、中国にはおびただしい貧困が蔓延しており、人びとは専制体制下にあると記している。[[#大久保2|大久保(1997)p.334]]。<br />専制支配に反対する点ではモンテスキューは他のフィロゾーフたちと同じであったが、彼は、貴族、聖職者、高等法院、都市など特権をもつ中間の社団組織を活性化させることによって国王権力の濫用を抑止し、個人の自由の確保を主張した。[[#長谷川4|長谷川(1997)pp.393-394]]。<br />同著は、[[立法権]]、[[行政権]]、[[司法権]]のいわゆる「[[三権分立]]」の理論を提唱したことで知られ、これはとくにアメリカ合衆国の成立とその国制に大きな影響をあたえた。</ref>。
 
 
 
[[1761年]]、宗教対立の続いていた[[トゥールーズ]]において、新教徒のジャン・カラスがカトリックに改宗した息子を殺害した疑いで死刑判決を受けた{{仮リンク|カラス事件|fr|Affaire Calas}}が発生した<ref name="hukusima" /><ref name="Calas">[[#小林善彦|小林善彦(1964)pp.269-331]]</ref><ref name="kouchi135">[[#香内|香内(1999)p.135]]</ref>。[[1763年]]、69歳となっていた老ヴォルテールは『{{仮リンク|寛容論|fr|Traité sur la tolérance}}』を著すなど精力的に再審運動を展開している<ref name="baubérot_32"/><ref name="hase_396">[[#長谷川4|長谷川(1997)pp.396-401]]</ref>。世人の関心を喚起する目的で3年間に書いた手紙の数は約500通におよび、そのうちの何通かは国王の側近にも達した<ref name="hase_396"/>。『寛容論』では狂信や偏見が人類に与えてきた害を告発し、イギリスにおいてカトリックが享受している寛容さに着想を得て、フランスのプロテスタントに対しても「理性の精神」に信頼して寛容を発揮しようとはたらきかけた<ref name="baubérot_32"/><ref name="hase_396"/>。[[1765年]]、国王諮問会議は判決無効を宣告し、カラスは無罪になったとともに名誉回復がなされた<ref name="kouchi135"/><ref name="hase_396"/>。
 
 
 
ヴォルテールの説く寛容は、ロックの唱えた政教分離の理論化ではなく、反教権主義と[[ガリカニスム]]の方向性を有しており、イエズス会の廃止という主張をともなっていた<ref name="baubérot_32"/>。ヴォルテールは当初ローマ教皇とイエズス会と[[司祭]]に対し敵愾心を燃やし、イングランドの平和的な[[クエーカー]]教徒(フレンド派)を称賛していたが、やがてキリスト教全般に対し攻撃を加えるようになった<ref name="porter_47"/>。
 
 
 
==== 百科全書派の世俗主義 ====
 
{{See also|百科全書|百科全書派}}
 
[[啓蒙主義]]は、「啓蒙の時代」と対置するところの「暗黒の時代」を、[[ゴシック]]的な事物や聖職者の狂信的姿勢とに結びつけて、これを批判した<ref name="takayanagi_080"/>。かれら啓蒙主義哲学の人びとはみずからを[[フィロゾーフ]](哲学者)と自称していた<ref name="porter_1"/>。彼らは理性を武器とはしたが、必ずしも理性がすべてであると信じるような合理主義者ではなかったし、かといって感情・信仰・直観・権威などを前にして判断を停止してしまうような非合理主義者でもなかった<ref name="porter_1"/>。かれらは何よりも「批判者」であったし、かれらがもっとも心に期したのは真の「人間科学」を追究することであった<ref name="porter_1"/><ref name="porter_17"/>。思想運動としての啓蒙主義が批判したのは、17世紀に強化されたキリスト教信仰と[[王権神授説]]にもとづく専制政治であり、あわせて権威への盲従や無批判な伝統墨守、迷信や無知、不寛容なども批判の対象とした<ref name="hase_391"/>。
 
 
 
フィロゾーフのなかで[[ドゥニ・ディドロ]]と[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]の2人は[[1751年]]から[[1772年]]まで『[[百科全書]]』の監修と編纂にたずさわった<ref name="porter_1"/><ref name="hase_396"/>。『百科全書』は啓蒙思想の精神をもっとも広く普及させた書物であり、項目の執筆者としては監修者自身を含め150人以上の人びとがこれに参加した<ref name="hase_396"/>。執筆に参加したフィロゾーフは「[[百科全書派]]」と呼ばれている。『百科全書』は、婉曲なかたちではあるがキリスト教と教会を批判して寛容を唱え、フランス産業振興のために経済活動の自由を訴えるなど、啓蒙主義の主な主張が盛り込まれている<ref name="hase_396"/>。
 
 
 
ディドロは当初は理神論の立場にあったが、壮年期には神の存在を全面的に否定する徹底した[[無神論]]の立場に立ち、その著作のために監獄生活を送った経験をもつ思想家である<ref name="hase_391"/>。彼は、[[唯物論]]の先駆的存在で、政治的にはヴォルテール同様、啓蒙専制主義の支持者であった<ref name="hase_391"/>。ダランベールは、『百科全書』の「序文」において、新しい時代には、その必要にふさわしい新しい思考方法が必要であると説き、学芸の復活、理念の再生、理性と「良き趣味」への回帰を読者に呼びかけた<ref name="takayanagi_080"/><ref name="porter_47"/>。フィロゾーフたちは、古代の再発見によってこれから新たなる黄金時代が訪れるものと確信していたのである<ref name="takayanagi_080"/>。ただし、ダランベール自身は、途中で監修から手を引き、その後はディドロひとりで監修にたずさわった<ref name="hase_396"/>。
 
 
 
ドイツ出身の[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]もまた百科全書派における無神論者として知られ、宗教的な圧政から人類を解放することをめざした<ref name="porter_47"/>。彼によれば、宗教とは「科学の幼稚な先行者」にすぎず、未開の精神の持ち主こそが[[霊魂]]と[[天使]]、[[悪魔]]と[[魔女]]などの[[幻想]]を信じるのであり、円熟した理性はそうしたものは一切存在しないと唱えた<ref name="porter_47"/>。存在するものすべてが自然であり、その自然も[[自然法則|科学法則]]によって規則正しく運動する物体の物質的な体系だと彼は主張した<ref name="porter_47"/>。『精神論』を著した[[クロード=アドリアン・エルヴェシウス]]もまた無神論者であった<ref name="hase_391"/><ref group="*">デカルト、ヴォルテール、エルヴェシウスはいずれもイエズス会系の学校で学んでいる。</ref>。『精神論』は反カトリック的であるとしてパリ大司教ボーモンから弾劾を受けた。
 
 
 
このように、フィロゾーフにはたしかに無神論者もいたが、そのほとんどはキリスト教徒でもなく、無神論者でもない「理神論」の立場に立っており、その多くは世俗化された絶対王政を支持し、現実の社会秩序と政治秩序を認めたうえでの改革主義者であった<ref name="hase_391"/>。百科全書派のなかでも過激な立場にあった数学者の[[ニコラ・ド・コンドルセ]]は、自分たちフィロゾーフが「真理の発見ではなく、真理を広める」ことに関心をいだく集団だと述べている<ref name="takayanagi_080"/>。ここにおいて宗教から解放された真理の存在が主張され、それを普及させて人びとを解放することが目標とされる<ref name="takayanagi_080"/>。ここで、宗教を社会から排除しようとする戦闘的な[[世俗主義]]が出現したのである<ref name="takayanagi_080"/>。
 
 
 
<gallery>
 
ファイル:Louis-Michel_van_Loo_001.jpg|[[ドゥニ・ディドロ]](1713-1784)
 
ファイル:Alembert.jpg|[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]](1717-1783)
 
ファイル:Claude Adrien Helvétius.jpg|[[クロード=アドリアン・エルヴェシウス]](1715-1771)
 
ファイル:D'Holbach.jpg|[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]](1723-1789)
 
ファイル:Nicolas de Condorcet.PNG|[[ニコラ・ド・コンドルセ]](1743-1794)
 
</gallery>
 
 
 
==== ルソーの市民宗教論 ====
 
[[ファイル:Jean-Jacques Rousseau (painted portrait).jpg|160px|right|thumb|[[ジャン=ジャック・ルソー]](1712-1778)]]
 
ホッブズ、ロックにつづき、その2人とは異なる内容の[[社会契約説]]を展開した[[ジャン=ジャック・ルソー]]は、ホッブズの重視する社会秩序とロックの重視する[[自由]]とを両立させようとした<ref name="baubérot_35">[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.35-39]]</ref>。そこで彼は、社会関係の土台となる[[結社]]の協約を、契約する当事者相互の合意だけではなく、「市民の宗教」の上にも基礎づけたのである<ref name="baubérot_35"/>。ルソーは、[[1762年]]の『[[社会契約論]]』最終章において宗教を3つに分け、「聖職者の宗教」(カトリック)は「ひとびとに2つの法体系、2人の首長、2つの祖国を与えて、人々を矛盾した義務に従わせ、人々が信者と市民の役割を使い分けるように仕向ける」として否定し、[[古代ギリシア]]や[[古代ローマ]]にみられた「市民の宗教」は神への礼拝と法への愛とを結びつけ、祖国を熱愛の対象とする「よき宗教」だが、自国民以外に対して排他的で不寛容なこともあるとし、さらに純粋な福音の宗教としての「人間の宗教」において人間はすべて互いに兄弟となるが市民たちの心を国家からも引き離してしまうので、社会的精神に反するとして批判した<ref name="yanagihara">[[#柳原|柳原(2009)pp.227-251]]</ref>。
 
 
 
ルソーはすでに[[1756年]]に「市民の宗教」の着想を得ており、これはヴォルテールにあてた書簡によって確かめられている<ref name="baubérot_35"/>。彼はこの書簡において、「それぞれの国家には1つの道徳的法典、すなわち一種の市民的信仰告白」が存在しており、それは、積極的には各人が認める義務がある社会的な行為基準を含み、あるいは消極的には「不信心者としてではなく、謀叛人としてはねつけなければならない狂信的な」行為基準を含んでいるとし、したがって、「この法典と折り合える宗教はすべて認められるが、それと折り合いのつかないような宗教はすべて放逐される」としている<ref name="baubérot_35"/>。言い換えれば、「市民の宗教」とは、[[宗教]]的な方法で課されるところの[[世俗]]的な[[道徳]]の教義である<ref name="baubérot_35"/>。そして、「各人がこの法典そのもの以外に少しも宗教をもたないのは自由」であると述べて、「市民的信仰告白」さえなされれば無神論に立つことも許容するのである<ref name="baubérot_35"/>。これはもはや特定の地域の特定宗教ではなく、政治的関係そのものといってよい<ref name="baubérot_35"/>。「社会的な道徳律」に照らして異端的であったり、それに対して無神論的であったりすれば追放されることも甘受しなければならないとした<ref name="baubérot_35"/>。それゆえに「市民的信仰告白」は義務であり、歴史的宗教の方は任意なのである<ref name="baubérot_35"/>。
 
 
 
[[個人主義]]・分離主義的なロックの思想に対してルソーの思想はいっそう社会的・包括的である<ref name="baubérot_35"/>。ルソーは「宗教が国家の基盤の役割を果たすことなくして、決して国家が建設されたことはない」という歴史的な原理を提示し、ロックにおいては国家と宗教を分離したうえで、国家権力の制限における定義が示されたが、ルソーは人民による社会的信仰への同意が必要であるとした<ref name="baubérot_35"/>。ルソーは、「市民の宗教」における「教義」を「つよく、かしこく、親切で、先見の明あり、めぐみ深い神の存在、死後の生、正しい者にあたえられる幸福、悪人にくわえられる刑罰、社会契約および法の神聖さ」と列記しており、「不寛容」に関しては「自由を大事にしない人たちに自由を与えるべきではない」として、不寛容者は「それ故に国家から追い出されるべきなのである」とした<ref name="baubérot_35"/>。ルソーは神学的不寛容と市民的不寛容とを区別することを拒んだのである<ref name="baubérot_35"/>。
 
 
 
=== フリーメイソンの広がり ===
 
{{See also|フリーメイソン}}
 
[[ファイル:Anderson'sConstitutions.jpg|thumb|left|300px|アンダーソン憲章(1723年)]]
 
教派や国籍を超えた[[友愛団体]]として知られる[[フリーメイソン]]は宗教的寛容と政治的中立を大原則としている<ref name="nishikawa076">[[#西川|西川(2009)pp.76-77]]</ref>。フリーメイソンの起源には諸説あるが、もともとは[[城塞]]や[[教会]]の建築にたずさわった「自由な[[石工]]」の集団だといわれている<ref name="baubérot_39">[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.39-41]]</ref>。[[16世紀]]以降、イギリスではフリーメイソンの会所(ロッジ)では石工とは無関係な人びとの入会も認められたといわれているが、この結社が大発展を遂げたのは、[[1717年]]6月に[[ロンドン]]市内の4つの会所が合同集会を開いてロンドン大会所({{仮リンク|グランドロッジ・オブ・イングランド|en|Premier Grand Lodge of England}})を結成したことにはじまる<ref name="nishikawa076"/><ref name="baubérot_39"/>。ロンドン大会所の結成にスコットランド[[長老教会]]牧師の{{仮リンク|ジェームズ・アンダーソン (フリーメイソン)|en|James Anderson (Freemason)|label=ジェームズ・アンダーソン}}とフランス生まれのユグノー亡命者[[ジョン・デサグリエ|ジャン=テオフィル・デザギュリエ]]が深くかかわっていることも察せられるように、異教派共存を求めるプロテスタント諸派の融和の精神と重なり合う部分が大きく、こののち、他のヨーロッパ諸国へも急速に広がっていった<ref name="nishikawa076"/>。フランスには[[1720年代]]に伝わり、当初はフランス政府も禁止したが、[[親王]]たちまでメンバーとなって、やがて黙認されるようになった<ref name="hase_378">[[#長谷川4|長谷川(1997)pp.378-382]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Freimaurer Initiation.jpg|350px|right|thumb|[[フリーメイソン]]入会の[[儀式]]([[1745年]]、[[パリ]])]]
 
[[1723年]]、ジェームズ・アンダーソン牧師は「フリーメイソン憲章」を編纂しているが、ここでは宗教多元性が受け入れられており、フリーメイソン会員は「愚かな無神論者でもないし、無宗教の自由思想家でもない」と謳われ、「善良で忠実」でありさえすれば各人が自由に独自の信条をもってもよいと規定した<ref name="baubérot_39"/>。[[1738年]]のフリーメイソン憲章では、造物主としての神の存在を信じること以上の信仰は求めないとされた<ref name="baubérot_39"/>。[[ローマ教皇]]は、この[[結社]]の理神論的な性格と秘儀の義務が反カトリック的であるとして、1738年と[[1751年]]の2回にわたってフリーメイソンに加入したカトリック教徒を[[破門]]する旨の教書を発した<ref name="baubérot_39"/>。しかし、カトリックの国々においてもフリーメイソンの広がりを押しとどめることを防ぐことはできなかった<ref name="baubérot_39"/>。パリにはいくつもの支部が結成され、会合では人類の[[幸福]]実現の方法をめぐって議論がなされた<ref name="hase_378"/>。ナント勅令の廃止以後、公共生活から完全に締め出されてしまった[[ユグノー]]にとっては、フリーメイソン会所は自身の社会性を回復し、教派的差別を乗り越える社交空間を意味していた<ref name="nishikawa076"/>。[[ヴォルテール]]がフリーメイソンの会員であったことは周知の事実であり、カラス事件においてカラスの名誉回復がすみやかにおこなわれた背景にはフリーメイソンとのかかわりがあるとの指摘もある<ref name="nishikawa076"/>。[[1773年]]、フランスではグラントリアン(大東社)が創設されており、その庇護者はのちに[[オルレアン公]]となる[[ルイ・フィリップ2世 (オルレアン公)|ルイ・フィリップ]]であった<ref name="baubérot_39"/>。[[1789年]]時点でのフランスのフリーメイソン会員は約5万人と推定されている<ref name="hase_378"/>。
 
 
 
ドイツにおける最初のフリーメイソンは[[1737年]]に[[ハンブルク]]で設立されたものであるが、すぐに北ドイツ一帯に広がり、中部から南部へも拡大した<ref name="sakaguchi_158">[[#阪口3|阪口(2001)pp.158-160]]</ref>。ドイツでもカトリック教会はフリーメイソンを禁圧したが、しかしここでは[[バイエルン選帝侯領]]を中心に「[[イルミナティ]](光明会)」と呼ばれるフリーメイソンの一分派を生じた<ref name="sakaguchi_158"/>。
 
 
 
人類の幸福のための科学・技芸の推進を主たる目的としていたフリーメイソンは、[[卸売]]商人、[[企業家]]、[[小売業|小売店主]]、[[自由業]]、[[職人]]の[[親方]]といった人びとに広がり、彼ら中小の[[ブルジョアジー]]が啓蒙主義に接触していくうえで大きな助けとなった<ref name="baubérot_39"/>。ただし、平の職人や[[下僕]]、[[俳優]]などは排除されていた<ref name="hase_378"/>。一方でフリーメイソンは開明的・啓蒙的な君主や貴族をも惹きつけていた<ref name="baubérot_39"/>。プロイセン国王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]は[[ベルリン]]の会所のロッジ長であった<ref name="baubérot_39"/>。イギリスの[[イーフレイム・チェンバーズ]]は、『百科事典』(''Cyclopaedia'' [[1728年]])の編纂者であると同時にフリーメイソン会員でもあったが、各国のフリーメイソン会員は当初はチェンバーズの百科事典を翻訳し、フランスではこれに刺激されて上述の『百科全書』刊行につながった<ref name="baubérot_39"/>。フリーメイソンの活動はまた改革派教会再建運動とも連動していた<ref name="nishikawa076"/>。各国のフリーメイソン会員は、会員相互の交流によって、啓蒙思想にふれ、政教分離論にもとづく宗教的寛容の思想を育てていった<ref name="nishikawa076"/>。「啓蒙の世紀」は、たんに偉大な思想家や文化人が活動したというのにとどまらず、「読書協会」など身分を越えて関心を同じくするサークルや教派を越えて同一の信条をもつフリーメイソンなどの広がりによって広く人びとの間に新しい思想や文化がもたらされた<ref name="sakaguchi_158"/>。18世紀が「協会の世紀」とも称される所以である<ref name="sakaguchi_158"/>。
 
 
 
=== 啓蒙専制君主たちの諸改革 ===
 
{{See also|啓蒙専制君主}}
 
上述したように、[[プロイセン王国]]ではユグノー派を受け入れており、宗教多元的な国家となっていた<ref name="baubérot_45">[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.45-48]]</ref>。敬虔なカルヴァン派の信仰の持ち主であった「軍人王」[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]は[[1730年]]、ユダヤ人基本法を発して在住ユダヤ人の権利を制限した<ref name="goto"/>。軍事国家プロイセンの強大化に尽力した彼はおよそ学芸に無関心な無骨な王であったが、先代が創設した[[ハレ大学]]に国家経営学の[[講座]]を設け、[[行政]][[官僚]]の養成に努めている<ref name="doi_442">[[#土肥1|土肥(1997)pp.442-447]]</ref>。18世紀のプロイセンは、国家規模に不釣り合いな軍隊をヨーロッパで最も高い税金と「プロイセンの倹約」によって維持し、活用して成果を上げたが、一方で無制限ともいえる移民を受け入れており、実のところ、軍国主義と博愛主義は密接に関連しあっていた<ref name="haffner66"/>。18世紀のプロイセンは19世紀のアメリカのように、ヨーロッパ各地から迫害、軽侮、軽蔑を受けた人たちの避難所となっていたのであり、他のドイツ諸邦や伝統的なヨーロッパの大国とは異なる人工国家の要素をもっていた<ref name="haffner66"/>。
 
 
 
[[ファイル:Friedrich_Zweite_Alt.jpg|thumb|right|160px|[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]](1712-1786)]]
 
父「軍人王」とは対照的に学芸に関心深く、[[ヴォルテール]]とも親交のあった[[啓蒙専制君主]]で「哲人王」と称されたのが、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]](フリードリヒ大王)である<ref name="doi_447">[[#土肥1|土肥(1997)pp.447-453]]</ref>。王子時代に{{仮リンク|ラインスベルク|en|Rheinsberg}}で書いた『[[マキャヴェリ駁論|反マキャヴェッリ論]]』([[1739年]])のなかの「君主は国家第一の下僕」の一節が特に有名で、彼は同著で[[社会契約説]]にもとづく国家理論を展開している<ref name="doi_447"/>。父「軍人王」が国家を世襲財産とみなす家産制的な国家観に立っていたのに対し、フリードリヒは国家を[[契約]]によって成り立つ永続的な組織とみなし、支配者は国家の[[福利]]に奉仕するものであるという国家観を表明した<ref name="doi_447"/>。即位後は、[[ポツダム]]に[[ロココ]]風の典雅な宮殿、[[サンスーシ宮殿]]を建て、自らも設計にたずさわった<ref name="doi_447"/>。ここには、ヴォルテール、[[ルネ・デカルト]]、[[ピエール・ベール]]、[[ジョン・ロック]]などの著作をふくむ3,000冊以上の蔵書からなる[[図書室]]もあった<ref name="doi_447"/>。[[フランス語]]で「憂いなし(サンスーシ)」と名づけられたこの宮殿には、多くの[[フランス人]]学者が招かれ、フリードリヒはフランス語で彼らと語らった<ref name="doi_447"/>。[[1750年]]、彼は改定特権規則基本法で、[[ユダヤ人]]の[[権利]]と資格を6つの級に区分している<ref name="goto"/>。1級は一般的特権、2級は正規保護、3級は臨時保護、4級はコロニー公務員、5級は恩情による居住許可、6級は保護状を持つユダヤ人の使用人であり、国家にとって有用かどうかによって格差が設けられた<ref name="goto"/>。キリスト教徒に対しては、「みな同じ国の民である」と述べ、寛容策によって[[臣民]]の統合を図った<ref name="baubérot_45"/>。大王の治下、プロイセンは民族国家ではなく単なる国家、いわば「理性国家」であり、万人に開かれ、万人に平等の[[権利]]そして平等の[[義務]]があるとされたのである<ref name="haffner66"/>。フリードリヒ大王が[[1745年]]に[[シュレージェン|シュレージェン地方]]を、[[1772年]]にポーランドの一部を併合したときには新しく臣民となったカトリック教徒に対し、[[信教の自由]]と[[市民権]]とを保障している<ref name="baubérot_45"/>。
 
 
 
フリードリヒ2世の後継者である[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]は[[1788年]]、家臣の任命にあたってその信仰する宗教を問わないとする勅令を公布したが、政治的には一貫せず、父とは異なり啓蒙思想を弾圧した<ref name="baubérot_45"/>。
 
 
 
プロイセンの宗教寛容策は周囲にも影響をおよぼした<ref name="baubérot_45"/>。[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]]はドイツにおけるカトリックの本拠地のひとつであったが、[[1777年]]にプロテスタントの[[プファルツ選帝侯領]]を併合するに際し、その宗教的諸権利の行使を保障した<ref name="baubérot_45"/>。
 
 
 
[[ファイル:Georg Decker Joseph II.jpg|160px|left|thumb|[[ヨーゼフ2世]](1741-1790)]]
 
[[ハプスブルク帝国]](オーストリア)では、女帝[[マリア・テレジア]]が啓蒙主義に関心を示さなかったのに対し、その後を継いだ長子の[[ヨーゼフ2世]]は母の宿敵だったプロイセンのフリードリヒ大王を崇拝し、「啓蒙主義の申し子」と呼ばれた<ref name="doi_458">[[#土肥1|土肥(1997)pp.458-463]]</ref>。彼は「[[ヨーゼフ主義]](ヨセフスムス)」と呼ばれる一連の宗教政策を展開した<ref name="baubérot_45"/>。これは従来、教会儀礼をみずから先頭に立って執り行ってきた[[ハプスブルク家]]の姿勢からは大きな転換であり、カトリック教会の帝国への従属をめざした国家による反教権主義の表明であった<ref name="baubérot_45"/><ref name="doi_458"/>。ヨーゼフ2世は観想修道会の廃止を命じ、閉鎖した約700におよぶ[[修道院]]の財産は[[学校]]創設や[[慈善事業]]の基金に充てられた<ref name="baubérot_45"/><ref name="doi_458"/>。「[[迷信]]」と戦うためには聖職者にも近代教育を授ける必要があるとして「一般神学校」を[[大学]]の管轄の下に創設し、さらに、[[ウィーン]]に2,000人収容可能の[[総合病院]]を開設した<ref name="baubérot_45"/><ref name="doi_458"/>。ヨーゼフ2世は[[1781年]]、あらゆる信教の自由を認める画期的な{{仮リンク|宗教寛容令|en|Patent of Toleration|de|Toleranzpatent}}を発し、帝国に宗教多元性を打ち立てている<ref name="baubérot_45"/>。これにより、プロテスタントや[[東方正教会]]を含む公認宗教の制度が創出され、各教派はすべて学校を開設する権利をもち、また、あらゆる就業機会においてカトリック信者と同等の平等性が確立された<ref name="baubérot_45"/>。これはユダヤ人をも対象に含むものであり、[[同化政策]]を目的としたものであったが、実際にユダヤ教徒の待遇もおおいに改善された<ref name="goto"/><ref name="baubérot_45"/>。[[1783年]]には、[[民事]]における[[結婚]]と[[離婚]]が可能となっている<ref name="baubérot_45"/>。彼は、フリードリヒ大王に象徴されるドイツ諸君主の[[フランス文化]]崇拝の風潮のなかにあって、例外的に[[ドイツ語]]で話し書き、ドイツ文化を愛好した<ref name="doi_458"/。しかし、ハンガリー地域へもドイツ語を強制したため、[[ハンガリー人]]の民族感情はこれに反発し、各地で[[暴動]]や[[一揆]]が頻発した<ref name="doi_458"/>。ヨーゼフは1781年に[[農奴解放令]]を発布しているが、その改革はいずれも性急で、成果をあげるための訓練も欠いていたと評される一方、[[死刑]]の廃止など現代からみても先進的な取り組みがなされたのも事実であった<ref name="doi_458"/>。
 
 
 
[[ファイル:Catherine II by J.B.Lampi (1780s, Kunsthistorisches Museum).jpg|160px|right|thumb|[[エカチェリーナ2世]](1729-1796)]]
 
[[ロシア帝国]]では、ヴォルテールや[[シャルル・ド・モンテスキュー]]の愛読者でもある女帝[[エカチェリーナ2世]]が臣民に対し法典を授けようと、[[1767年]]、貴族や商人、国有地農民など各身分の代表を集めて{{仮リンク|新法典編纂委員会|ru|Уложенная комиссия}}を開いた<ref name="baubérot_45"/><ref name="doi_466">[[#土肥1|土肥(1997)pp.466-473]]</ref>。開催の際に読み上げられた彼女の統治理念が「{{仮リンク|訓令 (エカチェリーナ2世)|en|Nakaz|ru|Наказ Екатерины II|label=訓令}}(ナカース)」である<ref name="baubérot_45"/><ref name="doi_466"/>。訓令(ナカース)は全体の4分の3がモンテスキュー『[[法の精神]]』や[[チェーザレ・ベッカリーア]]『[[犯罪と刑罰]]』など啓蒙思想家からの引用で占められていた<ref name="doi_466"/>。しかし、新法典の編纂は、編纂委員会がこのような作業に慣れておらず、[[露土戦争 (1768年-1774年)|露土戦争]]も差し迫っていたので、そのまま立ち消えとなった<ref name="doi_466"/>。エカチェリーナは、[[1773年]]、「すべての宗教に対する寛容と、(ロシア正教会の)主教の、非正教会の信仰問題への干渉禁止」と命名された勅令を発した<ref name="baubérot_45"/>。しかし、彼女はこの不干渉を実際には守ることなく、[[カトリック教会]]や[[東方典礼カトリック教会]](東方帰一教会、ユニアト)の聖職者たちに対し、[[ローマ教皇庁]]とかかわりをもつことを禁じた<ref name="baubérot_45"/>。その一方で、ユダヤ教徒に対しては[[1786年]]に一定程度の権利を認め、[[1788年]]には「イスラーム宗教会議」を設立した<ref name="baubérot_45"/>。[[ドゥニ・ディドロ]]と親交を結ぶなど、当初は「帝位の啓蒙家」たるべく努め、[[ロシアの農奴制]]に対しても批判的で農民に同情的態度をとってきたエカチェリーナであったが、[[プガチョフの反乱]]を機に貴族帝国の強化を図り、その鎮圧には厳しい態度で臨んだ<ref name="doi_466"/>。
 
 
 
啓蒙専制主義は、政教分離を推し進める際の強権的な手法を代表している<ref name="baubérot_45"/>。啓蒙専制君主は、教会を独自の権力とはもはや見なさず、君主によって支配され、統制される組織であると主張し、それゆえにこそ、彼らは宗教一般がもつ多元性に対してみずからは相対的に寛容であることを示し得たのである<ref name="baubérot_45"/>。
 
 
 
=== フランス絶対王政の変質 ===
 
フランスでは、数多くの[[啓蒙思想家]]が現れたにもかかわらず[[絶対王政]]はほとんど「啓蒙」的様相をみせなかった<ref name="baubérot_45"/>。晩年の「太陽王」[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は、[[ジャンセニスム]]を排斥した[[1713年]]の「ウニジェストゥス」(ウニゲニトゥス、「(神の)独り子」の意味)と通称される[[教皇勅書]]の方針を施行したが、[[パリ高等法院]]はこれに反対した<ref name="price_085"/>。[[エリート]]層に多いジャンセニストは不安な状態にあり、プロテスタントへの迫害も引き続きおこなわれた<ref name="baubérot_45"/><ref name="takazawa24"/>。
 
 
 
[[ファイル:LouisXV-Rigaud1.jpg|200px|right|thumb|フランス国王[[ルイ15世]](1710-1774)
 
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「最愛王」と謳われた国王も、治世後半はひじょうに不人気であった<ref name="takazawa24"/>。]]
 
[[1715年]]、ルイ14世が死去し、わずか5歳の[[曾孫]][[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]が王位についた<ref name="takazawa24">[[#高澤|高澤(2006)pp.24-28]]</ref>。[[摂政]]となったのはルイ14世の[[甥]]で、自由思想家([[リベルタン]])として知られる[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]であった<ref name="takazawa24"/>。パリ高等法院は幼帝即位に際してオルレアン公が摂政の地位につくよう骨を折り、これにより高等法院は先王によって剥奪されていた王令登録権と建白権とを回復した<ref name="takazawa24"/>。高等法院が拒否すれば、王令は法としての効力をもつことができなくなったのであり、「太陽王」のもとで押さえつけられていた高等法院は強力な権限を奪回し、以後、革命期までさまざまな局面で王権と対立した<ref name="takazawa24"/><ref name="hayashida233">[[#林田|林田(2001)pp.233-238]]</ref>。同様に、[[貴族]]もしだいに発言力を復活させ、[[官僚]]機構も強大化する一方、国王は政治に疎くなり、華麗な[[宮廷]]の社交生活に浸るようになって、フランス絶対王政は全体として沈滞ぶりが目につくようになった<ref name="takayanagi_085"/>。[[1723年]]、ルイ15世は[[成年]]に達して摂政時代は終わり、以後半世紀におよぶ長い治世がつづくこととなるが、事実上の[[宰相]]の地位にあった[[アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー]]の支えもあって、治世前半はある程度の安定性がみられた<ref name="hayashida233"/><ref name="price_107">[[#プライス|プライス(2008)pp.107-111]]</ref>。[[1730年]]、フランス王権は反ジャンセニスムの「ウニジェストゥス」回勅を「教会と国家の法」とするよう高等法院に強要したが、ジャンセニスム的傾向をもつ一部の聖職者とパリ高等法院法官たちのなかには回勅採用の方針以来、王権にたいする不満がつのっていた<ref name="takazawa24"/><ref name="hayashida233"/><ref name="price_107"/>。ジャンセニスムは18世紀に入るとエリート層のみならず民衆層にも熱狂的な支持者を増やしており、それゆえジャンセニスム問題はさまざまな不平や不満を反王権というかたちで吸収し、結晶化させる役割を果たしたのである<ref name="takazawa24"/>。
 
 
 
[[1743年]]にフルーリーが死去して本格的な国王親政がはじまったが、当初人びとがルイ15世にいだいていた期待はすぐに失望に変わった<ref name="takazawa24"/>。[[1740年]]に始まった[[オーストリア継承戦争]]で、フランス軍は軍事的には優位に立っていたにもかかわらず、1748年の[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]では得るところがほとんどなかったからである<ref name="takazawa24"/>。宮中にあっても国王の愛人[[ポンパドゥール夫人]]が国政に介入し、宮廷が権力をめぐる派閥抗争の場になったことも不評であった<ref name="hayashida233"/>。[[1746年]]、反ジャンセニスム派の[[クリストフ・ド・ボーモン]]がパリ大司教となると、彼の命令で「ウニジェストゥス」を受け入れない者には[[終油]]の[[秘蹟]]を拒否する事件が続発した<ref name="hayashida233"/>。これに対し、高等法院は国王政府の宗教政策を[[弾劾]]し、激しい政治対立が生じた<ref name="hayashida233"/><ref name="price_107"/>。
 
 
 
[[ファイル:PopeClement-XIV.JPG|160px|left|thumb|ローマ教皇[[クレメンス14世]](1705-1774)]]
 
18世紀半ばのフランスでは、「[[世論]]」の登場によって、政治の構造が変化しつつあった<ref name="hayashida233"/>。従来、王権はいわば「公共性」を独占してきたが、この時期になって、国家から自律した新しい公共空間が[[印刷物]]の増加や[[情報]]伝達のネットワークの形成、社会的結合関係の変化などによって形成されていき、重要性を増していたのである<ref name="hayashida233"/>。ボーモンは[[1754年]]、高等法院から[[流罪]]の処分を受けた。上述の[[1760年代]]のカラス事件もまた、ヴォルテールが新しい公共空間というべき「世論」に強くはたらきかけた結果の逆転無罪であった。[[1763年]]、パリ高等法院はウルトラモンタニズムを主張してきた[[イエズス会]]を、事実上、フランス国内から追放した<ref name="takayanagi_085"/>。なお、イエズス会に対する批判は、[[啓蒙主義]]が一定の影響力をもった他の諸国でも同様であり、[[1773年]]、教皇[[クレメンス14世 (ローマ教皇)|クレメンス14世]]はやむなくイエズス会の解散を命令している<ref name="takayanagi_080"/>。
 
 
 
王権と高等法院の対立は宗教問題に限らなかった<ref name="hayashida233"/>。[[1749年]]、国王政府の開明官僚は特権身分の課税をねらいとする20分の1税の新設など財政改革を進めようとしたが、既得権益の保護に努める高等法院や特権階級の妨害によって成果をあげることができなかった<ref name="hayashida233"/><ref name="price_107"/>。当時のフランスには[[最高裁判所]]の役割を果たす法院が合計13、財政問題を審議する法院が25あり、高等法院の官職を購入した者たちは罷免されることがなかった<ref name="price_107"/>。高等法院は建白権によって法令に対する反対意見を表明することができ、登録拒否によって王令の執行を遅らせることができた<ref name="price_107"/>。[[1756年]]に始まった[[七年戦争]]では、長年ライバル関係にあった[[ハプスブルク家]]からヨーゼフ2世の妹[[マリー・アントワネット]]を王子ルイ・オーギュスト(のちの[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]])の妃に迎えてオーストリアと同盟を結び([[外交革命]])、新興プロイセンと仇敵イギリスを相手に戦ったが、これはフランスにとって各地で敗れ、[[植民地]]を奪われるなど、惨憺たる結果に終わった<ref name="takazawa24"/><ref name="price_107"/>。[[1766年]]、ルイ15世は、[[修道院]]改革を目的とした5人の大司教と5人の俗人から成る宗務委員会を発足させている<ref name="takayanagi_085"/>。しかし、この宗務委員会は、ルイ16世時代の[[1788年]]、教皇庁の許可も所属[[司教]]の同意もない状態で9つの[[修道会]]の解散を命じ、他の修道会も衰退の一途をたどっていった<ref name="takayanagi_085"/>。一方、フランス国内の[[司教]]はすべて貴族出身であり、地方の僧侶の生活は一切顧みられなかったので、聖職者のなかにも貧困層が広がっていた<ref name="takayanagi_085"/>。革命の際には、フランスの教会は貴族階級との長年の込み入った関係のために大損壊の被害をこうむった<ref name="takayanagi_085"/>。
 
 
 
オーストリア継承戦争と七年戦争の不首尾によって王の威信は深く傷ついたが、同時に、この2つの戦争によって財政状況も悪化の一途をたどった<ref name="takazawa24"/>。大法官{{仮リンク|ルネ=ニコラ・ド・モプー|fr|René-Nicolas de Maupeou|en|René Nicolas Charles Augustin de Maupeou}}は、[[1771年]]より司法官職の売官制廃止や高等法院管区の分割などによって高等法院の再編成に取り組んでいる<ref name="takazawa24"/><ref name="hayashida233"/>。これは反抗的な高等法院を馴致させて近代的官吏へと転身させることを目的としたものであったが、[[1774年]]、モプーに一定の支持をあたえていたルイ15世が没すると、モプーは失脚し、高等法院改革は挫折した<ref name="takazawa24"/><ref name="hayashida233"/>。
 
 
 
=== イギリスの変化 ===
 
{{See also|グレートブリテン王国|イギリス帝国|イギリス商業革命|近世から近代にかけての世界の一体化|第2次百年戦争|産業革命}}
 
[[ステュアート朝]]成立以来、イギリスでは[[イングランド王国]]と[[スコットランド王国]]の同君連合の形態がとられてきたが、[[アイルランド]]やスコットランドでは[[名誉革命]]によってフランスに亡命したジェームズ2世を正統な君主とみなす[[ジャコバイト]]による反体制運動がさかんで、国内的な脅威となっていた<ref name="kawak222">[[#川北3|川北(1998)pp.222-226]]</ref>。そのため、イングランドとスコットランドの両国を合わせて一国とするための交渉がなされ、[[1707年]]、[[合同法 (1707年)|合同法]]が発効して「[[グレートブリテン王国]]」が成立した<ref name="kawak222"/>。[[1714年]]、[[アン (イギリス女王)|アン女王]]が継嗣のないままに死去し、[[1701年王位継承法|1701年イングランド王位継承法]]にしたがって[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯]]のゲオルクが[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]として即位した<ref name="kawak222"/>。ジョージ1世は即位時すでに54歳で、イギリスの政治事情にも通じておらず、[[英語]]も話せなかったために議会にはほとんど出席せず、[[ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)|ジェームズ・スタンホープ]]ら有力閣僚に行政をゆだねたので、国政は[[内閣]]によって指導されるようになった<ref name="kawak222"/>。
 
 
 
フランスでは政教分離化(ライシテ化)のプロセスが優先したのに対し、イギリスでは世俗化のプロセスが優先した<ref name="baubérot_65">[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.65-66]]</ref>。イギリスでは[[名誉革命]]後より、王室財政と国家財政の分離が進み、[[1694年]]にはウィリアム3世の母国[[オランダ]]からの資本をもとに[[イングランド銀行]]が創設されるなど、「財政革命」が進展していた<ref name="kawak226">[[#川北3|川北(1998)pp.226-232]]</ref>。[[ロンドン]]の[[シティ (ロンドン)|シティ]]には、[[国債]]や[[抵当証券]]の本格的な取引市場が成立し、土地ではなく[[金融]]・[[有価証券]]に基礎をおく「証券ジェントルマン」と呼ばれる階層を出現させた<ref name="kawak226"/>。[[1720年]]、投機ブームによって生じた[[株価]]の急騰と暴落は[[南海泡沫事件]]と呼ばれて経済的混乱を招いたが<ref group="*">南海泡沫事件でとくに損害の大きかったのはフランスであった。</ref>、翌[[1721年]]、[[ロバート・ウォルポール]]が[[第一大蔵卿]]に就任して閣議を主催、他の閣僚を統制して実質的な[[イギリス首相]]として議会の支持をもとに混乱を収拾、[[議院内閣制|責任内閣制]]の基礎を成した<ref name="kawak226"/>。ウォルポールは対外的には平和戦略をとり、国内的には反対派の[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]を「ジャコバイト」として攻撃することで強力な政治基盤をつくっていった<ref name="kawak226"/>。
 
 
 
{|class="wikitable" cellspacing="0"
 
!局面||欧州での戦争||北米での戦争||その他の係争||講和条約・戦後処理
 
|-
 
|1||[[大同盟戦争|プファルツ継承戦争]]([[1688年]]~[[1697年]])||[[ウィリアム王戦争]]([[1689年]]~1697年)||-||[[ライスワイク条約]](1697年)
 
|-
 
|2||[[スペイン継承戦争]]([[1701年]]~[[1713年]])||[[アン女王戦争]]([[1702年]]~1713年)||-||[[ユトレヒト条約]](1713年)・[[ラシュタット条約]](1714年)
 
|-
 
|3||[[オーストリア継承戦争]]([[1740年]]~[[1748年]])||[[ジョージ王戦争]]([[1744年]]~1748年)||[[カーナティック戦争|第1次カーナティック戦争(1744年~1748年)]]||[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]](1748年)
 
|-
 
|4||[[七年戦争]]([[1756年]]~[[1763年]])||[[フレンチ・インディアン戦争]]([[1755年]]~1763年)||[[プラッシーの戦い]]([[1757年]])||[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]](1763年)・[[フベルトゥスブルク条約]](1763年)
 
|-
 
|5||-||[[アメリカ独立戦争]]([[1775年]]~[[1783年]])||-||[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]](1783年)
 
|-
 
|6||[[フランス革命戦争]]~[[ナポレオン戦争]]([[1792年]]~[[1815年]])||-||-||[[ウィーン議定書]](1815年)
 
|}
 
 
 
しかし、「ウォルポールの平和」は18世紀のイギリスにあっては例外的であって、この世紀はむしろ、たび重なる対仏戦争の繰り返し([[第2次百年戦争]])であり、しかも、これらの戦争はアメリカの独立をのぞいて全てイギリス側が勝利した<ref name="kawak226"/>。イギリスが戦争に勝利しつづけたのには、戦費調達能力にすぐれていたことに理由が求められる<ref name="kawak232">[[#川北3|川北(1998)pp.232-237]]</ref>。つまりは「財政革命」の成功がその根本的な要因であった<ref name="kawak232"/>。18世紀のイギリスは後世「財政・軍事国家」と称されるほど重い[[租税]]が課されていたが、フランスのように徴税請負人には頼らず、国家官僚による効率的な徴税がなされ、さらに、納税者各階層の利害を反映した[[イギリス議会]]からの保障が付されていた<ref name="kawak232"/>。議会による保障は、なおも世界金融の中心となっていた[[アムステルダム]]の資金がイギリス市場に大量に流入することも可能にしており、したがって、英仏戦争の勝敗は少なからずオランダ資本がフランスにではなくイギリス(グレートブリテン王国)に流れたという事実に由っていたのである<ref name="kawak232"/>。
 
 
 
18世紀の[[イギリス史]]は「[[イギリス帝国|大英帝国]]」形成の歴史であり、[[植民地]][[貿易]]の爆発的な発展の歴史でもあって、その過程で「[[イギリス商業革命]]」と呼ばれる変化が生じた<ref name="kawak232"/>。これはイギリス人の生活様式を一変させ(「[[生活革命]]」)、[[13植民地]]でも生活における「イギリス化」、すなわち、アメリカにおける生活革命をも招いた<ref name="kawak232"/>。[[七年戦争]]前後からは、いわゆる「[[産業革命]]」が進行して社会構造も大きく変化していった<ref name="kawak237">[[#川北3|川北(1998)pp.237-243]]</ref>。
 
 
 
=== アメリカ的伝統の創出と合衆国の成立 ===
 
[[ジョン・ロック]]、[[ヴォルテール]]、[[シャルル・ド・モンテスキュー]]、[[ジャン=ジャック・ルソー]]らヨーロッパにおける啓蒙思想は、[[政教分離]]を規定した世界初の憲法、[[アメリカ合衆国憲法]]に大きな影響力をあたえた<ref name="baubérot_35"/><ref name=ce608>[[#キ事典政教分離|「政教分離」『キリスト教大事典』(1963)pp.608]]</ref>。
 
 
 
[[アメリカ合衆国]]は、「[[新大陸]]」に新しい政治的権威の創設という壮大な歴史的実験を成功させたが、それは同時に憲法規定によって政治と宗教を分離するという実験でもあった<ref name="morim98">[[#森本2|森本・高柳(2009)pp.98-102]]</ref>。ただしこの分離は、宗教に対する警戒感や無関心からではなく、むしろ宗教の自由な実践のためになされたものであった<ref name="morim98"/>。国家と宗教のあいだに築かれた「分離の壁」([[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]])は、啓蒙主義的な理神論と敬虔な[[プロテスタント]]諸派の同盟の結果だったのである<ref name="morim98"/><ref name="baubérot_50">[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.50-53]]</ref><ref name="nomu224">[[#野村文子|野村文子(2005)pp.224-233]]</ref>。
 
 
 
==== 「大覚醒」とその社会的影響 ====
 
{{See also|大覚醒|リバイバル (キリスト教)|第一次大覚醒}}
 
独立前の北米大陸で起こった最も大きな宗教的な出来事として、「[[大覚醒]]」」と称される信仰復興の動きが挙げられる<ref name="morim94">[[#森本2|森本・高柳(2009)pp.94-98]]</ref>。[[リバイバル (キリスト教)|信仰復興]]([[リバイバル]])とは、衰退した信仰の炎をもう一度燃え立たせようとする営為であり、それが地域集団的に生み出す一種の熱狂である<ref name="morim94"/>。その後の[[アメリカ史]]でも[[第二次大覚醒|第二次]]・[[第三次大覚醒|第三次]]、あるいは[[第四次大覚醒|第四次]]と周期的に繰り返されてきた「大覚醒」であるが、後世の人びとが「[[第一次大覚醒]]」と呼んで規範としたのは[[1730年代]]頃より起こって[[1740年代]]にきわめて活発化した信仰復興運動であった<ref name="morim94"/>。
 
 
 
[[ファイル:Jonathan Edwards.jpg|160px|right|thumb|[[ジョナサン・エドワーズ (神学者)|ジョナサン・エドワーズ]](1703-1758)]]
 
[[イェール大学]]出身で[[ノーサンプトン (マサチューセッツ州)|ノーサンプトン]](現、[[マサチューセッツ州]])の牧師だった[[ジョナサン・エドワーズ (神学者)|ジョナサン・エドワーズ]]は[[1734年]]以降、信仰の衰退を嘆いて[[ジャン・カルヴァン]]の教えに立ち戻り、超越的な神にただ身を委ねることによってのみ、人間は堕落した現今の境遇から脱して救済されうると説き、これはすでに制度的に確立して安定期に入り、[[礼拝]]も形式的なものとなっていた[[会衆派]]の人びとの信仰を震撼させた<ref name="iga60">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.60-63]]</ref>。エドワーズは、[[ジョン・ロック]]の認識論の影響を受け、人は[[知性]]よりもむしろ[[連想]]を通じて神の存在を直観すると考えた<ref name="iga60"/>。彼は会衆派の牧師として、自身の[[回心]]の体験を生々しく語り、平信徒に対して、そこでの深遠な力のはたらきを強く訴えた<ref name="iga60"/>。『[[怒れる神の御手の中にある罪人]]』や『聖なる超自然の光』はこうしたリバイバル説教として有名であり、彼の説教では多くの会衆が[[気絶]]や卒倒など激しい反応を示したといわれている。ノーサンプトンの教会では回心を経験する平信徒が相次ぎ、その評判を聞きつけた牧師や平信徒が彼の教会に訪れたことで運動は[[ニューイングランド]]一帯に広がっていった<ref name="iga60"/>。ジョナサン・エドワーズはまた『[[ヨハネの黙示録]]』の研究者としても著名であり、千年至福(ミレニアリズム)を唱えている<ref name="nomu224"/><ref group="*">かれのミレニアリズムにおける立場は「[[後千年王国説]]」であった。なお、ピューリタニズム研究者のペリー・ミラーは「アメリカにおいて、『黙示録』に関する最も偉大な芸術家は、もちろん、ジョナサン・エドワーズである」と記している。[[#野村文子|野村文子(2005)p.224]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:George Whitefield (head).jpg|140px|left|thumb|[[ジョージ・ホワイトフィールド]](1714-1770)]]
 
エドワーズと並んで第一次大覚醒の牽引力となったのが、[[イングランド国教会]]の牧師[[ジョージ・ホワイトフィールド]]である<ref name="morim94"/><ref name="iga60"/>。[[1739年]]以降、13回にわたって北アメリカの地を訪れたホワイトフィールドは、[[地獄]]のありさまを生々しく思い浮かべられるよう人びとに語って聞かせるなど、その透き通った声と身振り手振りを交えた雄弁な説教によって、その場に何千と集まった聴衆を興奮の渦に巻き込んだ<ref name="morim94"/><ref name="iga60"/>。南部の[[ジョージア植民地]]からニューイングランド北端の現在の[[メイン州]]まで、{{仮リンク|中部植民地|en|Middle Colonies}}も含めて巡回したホワイトフィールドの説教は各地で多数の回心者を生み、大覚醒の運動を全植民地規模に広めた<ref name="morim94"/><ref name="iga60"/>。[[マサチューセッツ湾植民地]]では、ホワイトフィールドの説教を聞いて回心した[[農家]]の息子{{仮リンク|アイザック・バッカス|en|Isaac Backus}}が[[再洗礼派]]の信仰に目覚めて[[1756年]]に[[バプテスト教会]]を創設している<ref name="iga60"/>。この運動は、回心の体験を支えに独学で教義を学び、精力的に布教するバッカスのような多数の巡回牧師を生んだのである<ref name="iga60"/>。
 
 
 
大覚醒の運動は会衆派や[[長老派]]の教会に甚大な影響をおよぼし、既成の教会を支持する旧派と回心体験を重視する新派の分裂を招いた<ref name="iga60"/>。旧派の人びとは、大覚醒における救済の歓喜や絶望の悲嘆といった大げさな感情表現、阿鼻叫喚の様相を呈する礼拝、[[痙攣]]や引き付けなど激しい身体的反応、それらが普段の日常生活をおよぼす悪影響などを指摘した<ref name="morim94"/>。この運動の牽引役となった牧師や説教師のなかには節度のある者も少なくなかったが、そうでない者も多数ふくまれていたのである<ref name="morim94"/>。一方、新派の人びとは、既存の教会や牧師の権威を否定し、自発的な[[結社]]としてニューイングランドだけで100以上、中部にあってもおそらくほぼ同数の教会をあらたに創設した<ref name="iga60"/>。大覚醒にたずさわった人びとは[[フロンティア]]への布教を重視したので、故郷を後にして新天地に赴いた、繋がりに飢えた人びとがキリスト教的伝統や共同体への帰属をあらためて確認する場となった<ref name="morim94"/>。かれらのなかにはエドワーズのように先住民布教に熱心に取り組む人もあれば、[[黒人奴隷]]の参加も認めて{{仮リンク|南部植民地|en|Southern Colonies}}の奴隷制社会に挑戦する者もあった<ref name="iga60"/>。ニューイングランドでは回心体験を重視する新派に多くの女性が参加したが、[[ニューポート (ロードアイランド州)|ニューポート]]の{{仮リンク|サラ・オズボーン (宗教家)|en|Sarah Osborn|label=サラ・オズボーン}}もそうした一人であり、[[1741年]]から自宅で女性のための集会をひらき、[[1765年]]には黒人奴隷の参加も認め、その頃には彼女の集会の参加者は300人に達していた<ref name="iga60"/>。
 
 
 
[[ファイル:Map of territorial growth 1775.jpg|right|thumb|270px|イギリス領アメリカ(北米13植民地):濃い赤色部分
 
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ニューハンプシャー(NH)、マサチューセッツ(MASS)、ロードアイランド(R)、コネチカット(CONN)はニューイングランド植民地、ニューヨーク(NY)、ニュージャージー(NJ)、ペンシルヴェニア(PA)、デラウェア(DEL)は中部植民地、メリーランド(ML)、ヴァージニア(VA)、ノースカロライナ(NC)、サウスカロライナ(SC)、ジョージア(GA)は南部植民地に分類される。
 
]]
 
大覚醒運動については、「大規模で総合的な覚醒」「理性の時代の[[アナクロニズム]]」「アメリカ思想の主流」「精神上の[[地震]]」「ピューリタンから[[ヤンキー]]へ」など多様な立場からの毀誉褒貶がある<ref name="nomu224"/>。近年では「大覚醒」という歴史事象そのものが従来あまりに過大視されてきたことに対する見直しがなされている<ref name="morim94"/>。基本的にはどの植民地のどの教派であっても、地域ごとに割り振られた教会の制度を維持し、一般信徒の信仰生活を指導することが最大の関心事だったのであり、これは、国教会の教区制度が持ち込まれたヴァージニアなど南部植民地、[[ルター派]]、[[カトリック]]、[[クエーカー]]が混在した中部植民地、会衆派が事実上の公定宗教であった北部のニューイングランド、いずれの地域であっても大きな違いはなかった<ref name="morim94"/>。大覚醒の運動は、このような多元的な素地に上乗せされた多元化現象ともみなすことができる<ref name="morim94"/>。ただし、大覚醒が既存の宗教ばかりでなく、さまざまな社会的権威に対しても批判的な姿勢を打ち出し、一般信徒が自身の信仰とその信仰を共有する人びととの連帯を重視するようになったことは重要で、従来、各植民地、そして各植民地におけるそれぞれの[[カウンティ]](郡)やタウンは自治的である反面、相互の交流に乏しかったのに対し、大覚醒はそうした各植民地間の垣根を越えて、文化的なきずなを醸成することにつながったのである<ref name="iga60"/>。そしてまた、自らの信仰を重視して既成の宗教的・社会的権威を否定することは、イギリス本国の権威に対しても自主性を主張することにもつながった<ref name="iga60"/>。
 
 
 
一方、ヨーロッパで興起した[[啓蒙主義]]の思想は滔滔と新大陸に流れ込んでおり、そこにおける[[合理主義]]もまた[[知識人]]や[[文化人]]、[[エリート]]層に広く浸透していた<ref name="nomu224"/>。そのため、政治的指導者の多くが[[理神論]]に立つような状況にあったが、ここにおいて、大覚醒の敬虔主義者たちと理性重視の啓蒙主義者たちは、まったく正反対といってよい宗教上の見解に立脚しながらも「[[信教の自由]]」というただ一点において共闘関係が成立した<ref name="nomu224"/>。それが両者にとって共通の目的たりえたからであり、[[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]]が[[ヴァージニア信教自由法]]を作成するにあたって、宗教指導者たちの意見を参照したことはよく知られている<ref name="nomu224"/>。
 
 
 
==== 独立戦争の始まりとヴァージニア権利章典 ====
 
{{See also|アメリカ独立戦争|ヴァージニア権利章典}}
 
[[ファイル:Boston Tea Party Currier colored.jpg|thumb|320px|left|ボストン茶会事件(1773年)
 
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1846年の[[リトグラフ]]]]
 
[[1763年]]2月の[[フレンチ・インディアン戦争]](ヨーロッパでは[[七年戦争]])の終結後、イギリス本国政府は植民地政策を転換し、従来の「有効なる怠慢」の政策を改めて、植民地への介入を強化する方針に転じた<ref name="iga74">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.74-78]]</ref>。また、莫大な戦費に苦しんだ本国が植民地の人びとにもそれを負担させようとして課税を強化した<ref name="iga74"/>。この課税に対する反対運動が[[アメリカ独立戦争]]の起点となった<ref name="iga74"/>。[[1765年]]、イギリス本国の第一大蔵卿[[ジョージ・グレンヴィル]]は大衆課税である[[印紙法]]の制定に踏み切ったが、13植民地は「[[代表なくして課税なし]]」と主張して同法に反対、これを撤回させた<ref name="iga85">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.85-92]]</ref>。しかし、本国議会は[[1773年]]、[[茶法]]を制定し、インド支配拡大にともなう財政負担にあえぐ[[イギリス東インド会社]]に、アメリカでの茶貿易の独占権をあたえた<ref name="iga85"/>。このとき、それに抗議する人びとが[[ボストン]]港に停泊する東インド会社の船を襲撃して茶箱を海に投げ込む、いわゆる「[[ボストン茶会事件]]」が起こり、植民地と本国の対立は決定的なものとなった<ref name="iga85"/>。反イギリス勢力に厳しい報復措置を取ろうとする本国政府に対し、13植民地の代表は[[1774年]]、[[大陸会議]]を開いてこれに抗議し、各植民地間の連携をかためて本国に対抗した<ref name="iga92">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.92-94]]</ref>。各植民地では植民地協議会が召集されて大陸会議の決定を承認し、大陸同盟が実行に移された<ref name="iga92"/>。[[ペンシルベニア植民地|ペンシルヴェニア植民地]]の協議会は、西部地域のスコッチ・アイリッシュらの支持をすでに獲得していた<ref name="iga92"/>。[[フィラデルフィア]]では1774年、[[クエーカー]]教徒、国教会の信徒、スコッチ・アイリッシュの3集団が集まり、抗議運動の連帯を固めたが、これには職人・小売商の団体やドイツ系、[[バプテスト]]教徒も参加した<ref name="iga92"/>。
 
 
 
[[1775年]]、ボストン郊外の[[レキシントン (マサチューセッツ州)|レキシントン]]と[[コンコード (マサチューセッツ州)|コンコード]]で本国軍との武力衝突がおこると、フィラデルフィアで第2次大陸会議がひらかれた<ref name="iga95">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.95-97]]</ref>。[[ジョージ・ワシントン]]が植民地軍総司令官に任命された一方、[[ジョン・ディキンソン (政治家)|ジョン・ディキンソン]]ら穏健派はなおもイギリス政府との和解を追求し、平和の象徴をその名に冠した「[[オリーブの枝請願]]」を本国に対して提出することについて同意を得たが、[[ジョージ3世]]は請願を受け取ることすら拒否し、北米が反乱状態にあると宣言、翌年1月にはドイツ人傭兵隊の北米派兵に踏み切った<ref name="iga95"/>。こうして、植民地人がいだいていた国王への期待も失われ、[[アメリカ独立戦争]]が本格化した<ref name="iga95"/>。
 
 
 
[[ファイル:George Mason.jpg|thumb|right|160px|[[ジョージ・メイソン (4世)|ジョージ・メイソン]](1725-1792)]]
 
[[1776年]][[6月12日]]、[[ヴァージニア権利章典]]が公布された。[[ジョージ・メイソン (4世)|ジョージ・メイソン]]を主たる起草者とするこの文書は、近代的な意味での最初の権利章典、[[権利章典 (アメリカ)|アメリカ権利章典]]の先駆けであり、6月29日採択の[[ヴァージニア憲法]]はじめ他の連邦国家の州法もこれに倣って作成された<ref name="baubérot_50"/>。
 
::''第1条'' 全ての人は生まれながらにして等しく自由で独立しており、一定の生来の権利を有している。それらの権利は、人々が社会のある状態に加わったときに、いかなる盟約によっても、人々の子孫に与えないでおいたり、彼らから奪うことはできない。すなわち、財産を獲得して所有し、幸福と安全を追求し獲得する手段と共に生命と自由を享受する権利である。
 
::''第2条'' あらゆる権力は人民に与えられそれ故に人民から得られる。行政官は人民の被信託者であり僕であって、常に人民に従うものである。
 
::''第16条'' 宗教、あるいは創造主に対する礼拝とその方法は武力や暴力によってではなく、理性や確信によって指示を与えられるものである。それゆえに全ての人は等しく良心の命じるままに従い、信教の自由をおびる権利を有する。他の者との間にキリスト教的自制、愛情および慈善を実行することは、あらゆる者の相互の義務である。
 
 
 
ヴァージニア権利章典では、以上のように[[自然権]]、[[社会契約説]]にもとづいた[[主権在民]]、[[良心の自由]]・[[信教の自由]]が明記された<ref name="baubérot_50"/>。
 
 
 
==== アメリカ独立宣言と州法の制定 ====
 
{{See also|アメリカ独立宣言|州の憲法 (アメリカ合衆国)}}
 
1776年[[6月7日]]、ヴァージニア植民地代表の[[リチャード・ヘンリー・リー]]は大陸会議に「独立の決議」を提案し、[[6月10日]]、これにもとづき、[[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]]、[[ジョン・アダムズ]]、[[ベンジャミン・フランクリン]]、[[ロジャー・シャーマン]]、[[ロバート・リビングストン]]の5名で構成される独立宣言起草委員会が発足した<ref name="iga98">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.98-101]]</ref>。起草の中心となったのはアダムズ委員の強い推薦を受けたジェファーソンで、フランクリンとアダムズがこれをわずかに修正して委員会案とした<ref name="iga98"/>。[[7月1日]]、リーの独立決議案に9植民地が賛意を表明、翌2日には[[サウスカロライナ植民地|サウスカロライナ]]、[[デラウェア植民地|デラウェア]]、[[ペンシルベニア植民地|ペンシルヴェニア]]が賛成にまわり、[[ニューヨーク植民地]]を除く12植民地で独立が正式に決定した<ref name="iga98"/>。一方、[[アメリカ独立宣言]]委員会案は[[7月4日]]、大陸会議における若干の修正を経たうえで正式に採択された<ref name="iga98"/>。[[7月9日]]、植民地政府からの訓令で独立に賛成するのを禁じられていたニューヨークが独立に賛成したことで、独立宣言には「全会一致の」という言葉を付加することが可能となった<ref name="iga98"/>。アダムズはのちにこれを回顧して「13の時計が同時に鳴った」と形容している<ref name="iga98"/>。彼は、政治・宗教・習慣も相互に異なる[[13植民地]]が、イギリス帝国からの独立を連帯して決定したことを人類史上の快挙とみなしていたのである<ref name="iga98"/>。
 
 
 
[[ファイル:Declaration of Independence (1819), by John Trumbull.jpg|400px|left|thumb|「独立宣言への署名」]]
 
独立宣言は、[[基本的人権]]や[[革命権]]の主張を述べた前文、国王ジョージ3世の暴政28か条と本国議会・本国人への非難を述べた本文、檄文の意味も込めて独立を宣言した後文、の3部分からなっており、このうち特に「すべての人間は平等に造られている」ことを高らかに唱え、不可譲の[[自然権]]として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文がアメリカ独立革命の理論的根拠を要約した部分として著名である<ref name="iga98"/>。独立宣言では、自然権の究極的な賦与者として「自然の神」という非聖書的な言葉が選ばれており、ここでは、限定の少ない万人向けの信仰表現として[[理神論]]的な神が含意されているのであり、この表現を受け入れることのできないキリスト教徒は少なかっただろうと考えられる<ref name="morim98"/>。いずれにせよ「奪いがたい権利」を「神」が与えたと明示したことで、神は[[人権|人間の権利]]の創造主であるとみなされ、それゆえ人間の権利は奪いがたく「神聖」なものとなったのである<ref name="baubérot_50"/>。また、ここにおける自然法理論が、[[名誉革命]]を思想的に正当化した[[ジョン・ロック]]の自然法理論から強い影響を受けたこともよく知られている<ref name="iga98"/>。ロックにあっては、個人の権利の内容は「生命、自由、財産」であったが、ジェファーソンが「財産」の部分を「幸福の追求」に変更したことで、独立宣言は[[財産権]]にとどまらない、時代を超える意味と価値を付与されたと評しうるのである<ref name="iga98"/>。ただし、この宣言では奴隷解放論者であるジェファーソンが法文の原案に盛り込んだ[[奴隷売買]]に関する厳しい禁止規定が最終的には取り除かれており、暗い現実との乖離もみられる<ref name="baubérot_50"/>。
 
 
 
ヴァージニア権利章典やアメリカ独立宣言の制定過程のなかで、それぞれの邦においても[[州の憲法 (アメリカ合衆国)|州憲法]]の制定が始まった<ref name="iga102">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.102-110]]</ref>。実際的に自治領植民地であった[[ロードアイランド州|ロードアイランド邦]]と[[コネチカット州|コネチカット邦]]を除く11の邦で憲法があらたに制定された<ref name="iga102"/>。[[成文憲法]]は、今日ではどこの国家においても当然のことのように考えられているが、元来は植民地人が[[イングランド議会]]の主権を制限するために主張されたものであった<ref name="iga102"/>。各植民地が独立して[[アメリカ合衆国の州|州]](邦)となり、邦政府を樹立しようとしたときに、植民地時代の基本法に基づく邦ごとの統治の伝統やキリスト教信仰に由来する[[契約]]観念を背景として憲法を成文化し、みずからの拠り所としたもので、いずれの邦にあっても[[共和政]]を導入した点では、アメリカ独立は確かに「革命」と称するにふさわしい内実をもっていた<ref name="iga102"/>。また、いずれの邦でも、成文憲法が人民主導によるものであることを明らかにするために憲法制定会議の召集や起草委員会の設置、住民の[[批准]]投票など、各種の制定手続きが周到に用意された<ref name="iga102"/>。
 
 
 
最古の州(邦)憲法は[[ヴァージニア憲法]]であるが、ここでは1776年5月に召集された植民地協議会が大陸会議の代表に対する訓令を採択したとき、邦憲法の制定も同時に決議され、ジョージ・メイソンによる権利章典案(上述)に引き続いて邦政府機構案が[[6月24日]]に報告された<ref name="iga102"/>。両者は[[ヴァージニア州|ヴァージニア邦]]最初の正式な憲法として[[6月29日]]に採択されたが、同時に世界初の成文憲法でもあった<ref name="morim98"/>。ここでは、教会と国家の分離を定めており、1776年の[[デラウェア州憲法 (1776年)|デラウェア邦憲法]]や{{仮リンク|ニュージャージー州憲法 (1776年)|en|History of the New Jersey State Constitution#Constitution of 1776|label=ニュージャージー邦憲法}}でも政教分離が規定され、翌1777年には[[ノースカロライナ州|ノースカロライナ邦]]と[[ジョージア州|ジョージア邦]]でも適用された<ref name="baubérot_50"/>。
 
 
 
アメリカ独立革命は、ペンシルヴェニアでは内部革命が実現し、[[ニューヨーク州|ニューヨーク邦]]ではそれが穏健派によって押しとどめられ、[[マサチューセッツ州|マサチューセッツ邦]]ではイギリスに対する抗議運動においては急進派であった[[ジョン・アダムズ]]や[[サミュエル・アダムズ]]が、州憲法のなかでも最も保守的な憲法を制定することに尽力した<ref name="iga102"/>。ヴァージニアでは権利章典の整備がなされたものの、その適用は白人男子に限定されて黒人奴隷の制度は維持された<ref name="iga102"/>。このように、アメリカ独立革命は邦(州)によって内容と性格を異にしていた<ref name="iga102"/>。
 
 
 
==== 公定教会の廃止とヴァージニア信教自由法の制定 ====
 
{{See also|ヴァージニア信教自由法}}
 
啓蒙主義や共和主義の立場は、信教の自由や良心の自由を個人の権利のなかでも核心的なものと位置づけていたが、信教の自由にとって最大の問題とみなされたのは、特定の教派が国家の保護を受ける公定教会として特権を有し、それ以外の教派を弾圧することであった<ref name="iga129">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.129-132]]</ref>。北米の独立13邦においては、その成り立ちからして信教の自由を植民地建設の目的にしたロードアイランド邦や[[ペンシルベニア州|ペンシルヴェニア邦]]以外にも、[[ニュージャージー州|ニュージャージー邦]]や[[デラウェア州|デラウェア邦]]には公定教会がなかった<ref name="iga129"/>。
 
 
 
[[ファイル:ThomasJefferson-Painting.jpg|160px|right|thumb|[[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]](1743-1826)]]
 
独立前のヴァージニアでは、イングランド国教会が公定教会として認められ、独立後は本国から分離して改称・再編成され「プロテスタント監督派教会」として特権的地位があたえられていた<ref name="iga129"/><ref name="akashi_507">[[#明石紀雄|明石紀雄(1988)p.507]]</ref>。この制度は、[[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]]や[[ジェームズ・マディソン]]ら合理主義を奉じる[[理神論]]者や「不服従派」と称された非国教徒たち([[長老派]]、[[バプテスト]]、[[メノナイト]]など)によって廃止が求められていた<ref name="morim98"/><ref name="akashi_507"/>。ジェファーソンはアメリカ独立宣言の起草後早々とヴァージニアに帰郷し、[[1779年]]から[[1781年]]までは[[バージニア州知事|ヴァージニア邦知事]]を務めた<ref name="morim98"/>。1779年、ジェファーソンは自身が起草した[[ヴァージニア信教自由法]]を邦議会に上程した。知事時代のジェファーソンはまた[[ヴァージニア大学]]を設立し、この大学は合衆国では宗教的原理からは完全に分離された初の大学となった。
 
 
 
独立戦争は、[[ベンジャミン・フランクリン]]の外交活動などにより、イギリスと長年争ってきたフランスをはじめヨーロッパ諸国がアメリカ独立支持にまわった<ref name="iga114">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.114-121]]</ref>。[[1781年]]、イギリス軍が[[ヨークタウンの戦い]]で致命的な敗北を喫したことにより事実上の戦闘状態は終結し、[[1783年]]9月には[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]が結ばれ、イギリスは「[[アメリカ合衆国]]」の独立を承認、[[ミシシッピ川]]以東の地を譲渡した<ref name="iga114"/>。
 
 
 
ジェファーソンはマディソンの協力を得て「信教自由法」の実現をめざした<ref name="morim98"/>。[[1784年]]にヴァージニアで成立した宗教結社法人法は、プロテスタント監督派教会が、国教会の[[不動産]]と[[教区]]制の継承を認める権限をめぐっての立法であったが、マディソンはこの法律に対し、ヴァージニア人の反対の声が高まるのを待って撤廃の動きを開始した<ref name="iga129"/>。マディソンは「請願と抗議」と題する請願書において、信仰の自由は「理性と信心」によってしか導かれることのできない、個人の内面の問題であり、政治的に強制してはならないと主張した<ref name="iga129"/>。この請願の署名者は1万人以上に広がり、長老派、バプテスト派、[[クエーカー]]、少数の[[カトリック]]に加え、[[メソディスト]]や監督派の一部も含まれていた<ref name="iga129"/>。[[1785年]]、宗教結社法人法は撤廃され、翌[[1786年]]1月19日、ジェファーソン起草の信教自由法がヴァージニア邦議会において可決、成立した<ref name="iga129"/>。これは、ジェファーソンが駐仏公使として[[パリ]]に赴き、アメリカを離れていた時期のことであった。
 
 
 
信教自由法では、「何人も宗教儀礼に献金したり、足繁く教会に通ったりすることを強制されない」と定め、また、「すべての人は、いかなる形であれ、どの人の市民的権利に影響を当てることなく、宗教問題について、信念を表明し、議論する自由を有する」と明記している<ref name="baubérot_39"/> これは、キリスト教を中心にすえた従来の[[寛容]]論をさらに一歩進め、公定教会そのものの廃止を含んでいた<ref name="morim98"/>。公定教会が存在する限り、少数派の[[信教の自由]]は保障されないというのが、ジェファーソンやマディソンの主張であった<ref name="morim98"/>。さらに、「信教の自由」というとき、特定の教会・教派の特権的地位を認めないというのが従来の捉え方であったが、ここでは「宗教の信仰は万人が保有する[[平等]]の権利であり、万人は良心の命ずるままにそれを信ずる自由を有する」と規定し、個人の自由な宗教実践のためにこそ必要であるという積極的な意味合いが付加された<ref name="akashi_507"/>。「分離の壁」の言葉はジェファーソンが[[ロジャー・ウィリアムズ]]から影響を受けたもので、こうした積極性は、自身『[[クルアーン]]』の英語訳を所有するなどキリスト教以外の宗教にも関心を寄せ、この法の制定にあたり、敬虔主義的な宗教指導者たちともよく話し合ったこととも深いかかわりがある<ref name="baubérot_22"/><ref name="morim98"/><ref name="nomu224"/>。
 
 
 
公定教会を置かない動きは州(邦)憲法の制定過程においていっそう進展し、[[ジョン・ジェイ]]らが主導権を発揮した{{仮リンク|ニューヨーク州憲法|en|New York Constitution}}の場合には、イングランド国教会やオランダ改革派が公定教会の地位を剥奪された<ref name="iga129"/>。[[ノースカロライナ州]]や[[サウスカロライナ州]](1790年)もそれにつづいたが、ニューヨークにあってはカトリック教徒や[[ユダヤ教徒]]に対しても平等な[[選挙権]]が保証されたことが注目される<ref name="iga129"/>。
 
 
 
==== アメリカ合衆国憲法の成立 ====
 
{{See also|フィラデルフィア憲法制定会議|アメリカ合衆国憲法|権利章典 (アメリカ)}}
 
[[ファイル:James Madison, by Charles Willson Peale, 1783.png|160px|left|thumb|「合衆国憲法の父」[[ジェームズ・マディソン]](1751-1836)]]
 
独立宣言を発布し、ヴァージニア憲法はじめ各邦の憲法が制定され、パリ条約によって国際的に独立の承認を得たものの、合衆国自体はまだ国家ではなく、正確には国家の連合体であったので、特に憲法をもつことなく、独立13邦全体にかかわる法令としては[[ジョン・ディキンソン (政治家)|ジョン・ディキンソン]]らによって[[1777年]]に起草された[[連合規約]](大陸会議での批准を経て[[1781年]]に発効)しかなかった<ref name="akashino82">[[#明石紀雄2|明石紀雄(1999)pp.82-84]]</ref><ref name="saitohm495">[[#斎藤真|斎藤真(1988)p.495]]</ref>。しかし、この[[大陸会議#第2次大陸会議|連合議会]]体制のもとで、アメリカ社会は[[紙幣]]の濫発による[[インフレーション]]が起こり、各邦は財政難に陥り、[[1786年]]8月から[[1787年]]1月にかけてマサチューセッツで [[シェイズの反乱]]が勃発するなど政治的・経済的な安定性を欠いていた<ref name="saitohm495"/><ref name="iga121">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.121-128]]</ref>。ここに、[[列強]]間にあって独立を保持し、財政・[[通貨]]・信用上の混乱を収束し、国内的にも政治的・経済的安定を確保するため、「より完全な連邦」の形成が必要との見方が強まった<ref name="saitohm495"/><ref name="iga121"/>。その中心となって活動したのが、ヴァージニア邦の[[ジェームズ・マディソン]]であり、彼は連邦憲法を制定して13邦を1つの国家にまとめる連邦政府構想をいだいた<ref name="saitohm495"/><ref name="iga148">[[#五十嵐|五十嵐(1998)pp.148-152]]</ref>。マディソンの提案で開かれた1786年9月の{{仮リンク|アナポリス会議|en|Annapolis Convention (1786)}}では、ニューヨーク、ニュージャージー、デラウェア、ペンシルヴェニア、ヴァージニアの5邦の代表しか集まらず、会議も3日しか続かなかった<ref name="iga148"/><ref name="akashino84">[[#明石紀雄2|明石紀雄(1999)pp.84-89]]</ref>。ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、ノースカロライナ4邦代表は間に合わず、ペンシルヴェニアは出席を見送った<ref name="iga148"/><ref name="akashino84"/>。ニューヨーク邦の代表[[アレクサンダー・ハミルトン]]は、ここで翌年に全邦代表が集まって連合規約改正に関して話し合うことを提案し、規約改正のみを討議する条件で了承された<ref name="akashino84"/>。このような情勢のなか、上述のシェイズの反乱は諸邦に大きな衝撃をもたらし、連合の強化や中央政府樹立があらためて強い関心を呼び、また、実際に民兵隊をマサチューセッツに派遣した邦もあった<ref name="iga148"/>。
 
 
 
{| class="wikitable" style="margin: 0 0 1em 1em; font-size: small;" align=right
 
|+ 憲法の批准
 
|-
 
! rowspan=2 | &nbsp;
 
! rowspan=2 | 日付
 
! rowspan=2 | 邦
 
! colspan=2 | 投票
 
|-
 
! 賛成
 
! 反対
 
|-
 
| align="right" | 1
 
| [[1787年]][[12月7日]]
 
| [[デラウェア州|デラウェア邦]]
 
| align="right" | 30
 
| align="right" | 0
 
|-
 
| align="right" | 2
 
| [[1787年]][[12月12日]]
 
| [[ペンシルベニア州|ペンシルヴェニア邦]]
 
| align="right" | 46
 
| align="right" | 23
 
|-
 
| align="right" | 3
 
| [[1787年]][[12月18日]]
 
| [[ニュージャージー州|ニュージャージー邦]]
 
| align="right" | 38
 
| align="right" | 0
 
|-
 
| align="right" | 4
 
| [[1788年]][[1月2日]]
 
| [[ジョージア州|ジョージア邦]]
 
| align="right" | 26
 
| align="right" | 0
 
|-
 
| align="right" | 5
 
| [[1788年]][[1月9日]]
 
| [[コネチカット州|コネチカット邦]]
 
| align="right" | 128
 
| align="right" | 40
 
|-
 
| align="right" | 6
 
| [[1788年]][[2月6日]]
 
| [[マサチューセッツ州|マサチューセッツ邦]]
 
| align="right" | 187
 
| align="right" | 168
 
|-
 
| align="right" | 7
 
| [[1788年]][[4月28日]]
 
| [[メリーランド州|メリーランド邦]]
 
| align="right" | 63
 
| align="right" | 11
 
|-
 
| align="right" | 8
 
| [[1788年]][[5月23日]]
 
| [[サウスカロライナ州|サウスカロライナ邦]]
 
| align="right" | 149
 
| align="right" | 73
 
|-
 
| align="right" | 9
 
| [[1788年]][[6月21日]]
 
| [[ニューハンプシャー州|ニューハンプシャー邦]]
 
| align="right" | 57
 
| align="right" | 47
 
|-
 
| align="right" | 10
 
| [[1788年]][[6月25日]]
 
| [[バージニア州|ヴァージニア邦]]
 
| align="right" | 89
 
| align="right" | 79
 
|-
 
| align="right" | 11
 
| [[1788年]][[7月26日]]
 
| [[ニューヨーク州|ニューヨーク邦]]
 
| align="right" | 30
 
| align="right" | 27
 
|-
 
| align="right" | 12
 
| [[1789年]][[11月21日]]
 
| [[ノースカロライナ州|ノースカロライナ邦]]
 
| align="right" | 194
 
| align="right" | 77
 
|-
 
| align="right" | 13
 
| [[1790年]][[5月29日]]
 
| [[ロードアイランド州|ロードアイランド邦]]
 
| align="right" | 34
 
| align="right" | 32
 
|}
 
[[1787年]]5月、[[フィラデルフィア憲法制定会議|フィラデルフィア会議]]が開かれた。マディソンは、[[主権]]を有する州間の連合をどのような形態にするのが最善か、[[共和国]]が広大な領土においていかにして可能かを考究するため、フランス駐在のジェファーソンに連合にかかわる古今の著作を送ってくれるよう依頼し、開催目前の1787年4月には「政治制度の欠陥」と題する覚書を作成した<ref name="iga148"/>。マディソンはまた、ジョージ・ワシントンの出席を不可欠と考え、彼に丁寧に働きかけて承諾を得るなど、周到な準備をおこなった<ref name="iga148"/>。フィラデルフィア会議には、ペンシルヴェニア代表として[[ベンジャミン・フランクリン]]も参加した<ref name="iga148"/>。アメリカ独立の功労者2人が参加し、議長にワシントンが選出されたことによって会議は順調に進行した<ref name="akashino82"/><ref name="iga148"/>。当初、連合規約改正のみを話し合うための会議であったが、マディソンはもとより合衆国憲法の制定をめざしていた<ref name="iga148"/><ref name="akashino84"/>。合衆国憲法は、ジョン・ロック、モンテスキュー、ルソーの思想を参考にし、憲法制定権力者として[[人民主権]]を前提とし、政府は人民より一定の権限を[[信託]]されたものであるとみなして[[共和主義]]・[[民主主義]]の原理が立てられ、さらに、権力の集中は人民の自由にとって危険であるから機能的には[[三権分立]]、地理的には[[連邦制]]というかたちで分散を図るという構造となっている<ref name="saitohm495"/>。同年[[9月17日]]、ジェームズ・マディソン起草による連邦憲法案が採択された<ref name="saitohm495"/>。[[1788年]]6月、9州の承認を得て発効し、[[1789年]]1月には最初の[[アメリカ合衆国大統領選挙]]がおこなわれてワシントンが初代大統領に就任、ここにアメリカ合衆国が名実ともに国家として統一された<ref name="saitohm495"/><ref name="akashino84"/>。
 
 
 
合衆国憲法は、第6条3項に「いかなる宗教的条件も、合衆国の公的職務や任務に就任するために必要とされることはない」として公職就任者に「宗教上の審査」を課してはならない旨を規定し、宗教的帰属と市民的帰属を明瞭に分離した<ref name="morim98"/><ref name="baubérot_50"/>。ここでは神や特定宗教はまったく参照されておらず、それゆえ、合衆国憲法が政教分離に基づく最初の憲法とされる<ref name="baubérot_50"/>。[[クエーカー]]など宗教上の信条によって新国家への忠誠や憲法遵守の宣誓を拒む人びと、あるいは、宣誓そのものが宗教的性格をもつ行為であるとしてそれを忌避する理神論的ないし無神論的傾向の人びとに対しては、宣誓の代わりに簡単な宣言をおこなうか「確約」するという別の選択肢が用意された<ref name="morim98"/><ref name="baubérot_50"/>。すなわち、宣誓を維持しつつも[[信教の自由]]の尊重による免除が導入されたのであった<ref name="baubérot_50"/>。
 
 
 
合衆国憲法の批准に際しては、マディソンのみならずアレクサンダー・ハミルトンや[[ジョン・ジェイ]]ら[[連邦主義者]](フェデラリスト)が新聞紙上で賛成の論陣を張ったが、各州の自治を重視する「反フェデラリスト」たちは、基本的自由や権利を保障した「権利の章典(ビル・オヴ・ライツ)」がともなっていないことを訴え、批准に反対していた<ref name="akashino84"/>。そこで、修正条項としてマディソンが中心となって[[権利章典 (アメリカ)|権利の章典]]12条を作成し、1789年の第1回[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]で提案した<ref name="akashino84"/>。修正条項は[[アメリカ合衆国上院|上院]]・[[アメリカ合衆国下院|下院]]で採択され、さらに批准のため各州にまわされ、うち10条が1791年12月に成立した(修正条項10条)<ref name="akashino84"/>。
 
 
 
[[権利章典 (アメリカ)#修正第1条|修正条項第1条]]は、以下のとおりである。
 
{{quotation|
 
: [[アメリカ合衆国議会|合衆国議会]]は、[[国教]]を樹立、または[[宗教]]上の行為を自由に行なうことを禁止する法律、言論または[[報道の自由]]を制限する法律、ならびに、市民が平穏に集会しまた苦情の処理を求めて政府に対し請願する権利を侵害する法律を制定してはならない。
 
}}
 
ここにおいて、「国教樹立の禁止」と「信教の自由な実践」が明示されている<ref name="morim98"/><ref name="baubérot_50"/>。初代大統領となったワシントンもまた、クエーカー、カトリック、ユダヤ教徒に対しても、容認としての「寛容」ではなく、権利としての「信教の自由」を語って、連邦権力の動向を心配していた人びとを安心させた<ref name="morim98"/>。宗教を非国教化する本条項は、各州政府にも広がっていき、1833年のマサチューセッツ州を最後にすべての州で採用された<ref name="baubérot_50"/><ref group="*">国教樹立禁止条項と宗教の自由実践条項とが相互に深くかかわっていることは当然であるとしても、両者関係は必ずしも自明ではなく、[[20世紀]]後半に[[合衆国最高裁判所]]の憲法判断が頻繁に求められた際には、両規程の簡潔さや曖昧さはしばしば[[判例]]上の不整合や不統一をもたらした。[[#森本2|森本・高柳(2009)p.102]]</ref>。
 
 
 
アングリカン・チャーチ(かつてのイングランド国教会)は、非国教化の道を歩み、衰退を余儀なくされたものの、以上みてきたように、成文憲法における分離が独立後早い段階でおこなわれたことから正面衝突することなく、[[政教分離]]は独立宣言に由来する市民宗教と共存することができた<ref name="morim98"/><ref name="baubérot_50"/>。すなわち、[[メイフラワー号]]の巡礼父祖たちによるアメリカの建国神話を祝う「[[感謝祭]]」によって市民宗教の表明がなされているわけである<ref name="baubérot_50"/>。感謝祭の創設はアメリカ文化への宗教の浸透と自発的[[結社]]の形成における宗教の役割によって説明されている<ref name="baubérot_50"/><ref group="*">13植民地独立後も、その北方のカトリックが支配的であった土地ではイギリス人の占領が続いた。ここでは、カトリック教徒が公職につくことを認めるため、[[ケベック法]](1774年)によってアメリカよりも早い段階で宗教審査の誓いが停止され、カトリックの位階制度を廃止したうえで旧司教の監督権を認めた。その後やってきた他の宗教はいずれも信教の自由が認められた。独立戦争に際し、13州の国教徒は、アングリカンチャーチが公定教会として認められていたカナダへ流れた。[[1791年]]の法律ではカナダを、プロテスタントで[[英語]]を話す「上カナダ」とカトリックで[[フランス語]]を話す「下カナダ」に分け、信教の自由が維持された。ここは国教はなく、政教分離もないが「中立という選択」が成り立ちうる地になった。[[#ボベロ1|ボベロ(2014)pp.52-53]]</ref>。
 
 
 
==== 合衆国憲法の影響 ====
 
合衆国では以上のような歴史的経過から、国教ないし国教会というかたちではなく、国家の支配下にない[[自由教会]]というかたちで政教分離が進展し、[[教派]](デノミナーション)あるいは[[分派]](セクト)という形態をとっており、個人が自発的な[[意志]]と[[良心]]の決断によって参加する同志的な[[宗教団体]]となる<ref name="furuya502">[[#古屋|古屋(1988)pp.502-503]]</ref>。したがって合衆国では大小多数の教派・分派が活動し、そこにいわば宗派間の[[自由競争]]が存在し、教会員獲得のための伝道集会やリバイバル集会がさかんに開かれる<ref name="furuya502"/>。自由教会は、アメリカ史においてしばしば社会の現状を批判し、改革を訴える社会的機能を果たしてきた<ref name="furuya502"/>。19世紀末葉から20世紀にかけての「[[社会的福音]]」の運動、20世紀後半の[[公民権運動]]、[[ベトナム反戦運動|ヴェトナム反戦運動]]などはそうした事象の代表的な例である<ref name="furuya502"/>。
 
 
 
一方、合衆国憲法は[[フランス革命]]はじめヨーロッパ諸国の政治や政策、[[ラテンアメリカ]]諸国の独立などにも大きな影響をあたえた。
 
 
 
== フランス革命と政教分離 ==
 
[[アンシャン・レジーム]](「旧体制」)における[[カトリック教会]]は、[[国教]]としてフランスの王権と一体化しており、文化の面でも行政の面でも[[ブルボン朝]]による[[絶対王政]]を支えていた<ref name="tanigawa_289">[[#谷川|谷川(2001)pp.289-290]]</ref>。フランス全土に網の目のように張り巡らされた[[教区教会]]は、[[1667年]]の{{仮リンク|ルイ法典|fr|Code Louis}}(民事王令)以降、[[教区司祭]]のもと洗礼証書・婚姻証書・埋葬証書の認証というかたちで[[戸籍]]業務を一手に担い、教区内住民の生誕、[[結婚]]、[[死]]や[[葬送]]に関する一切の記録を納めていた<ref name="tanigawa_289"/><ref name="kudoh_50">[[#工藤|工藤(2007)pp.50-55]]</ref><ref name="tanig_65">[[#谷川3|谷川(2006)pp.65-66]]</ref>。王から発せられる命令も[[ミサ]]の[[祭壇]]から教区の人びとに告知された<ref name="tanig_65"/>。教会組織はまた、民衆向けの[[医療]]、[[福祉]]、[[教育]]などの機能もはたしており、人びとの日常生活に深く入り込んで王政による臣民統合を基礎づけるものとなっていた<ref name="tanigawa_289"/><ref name="tanig_65"/><ref group="*">アンシャン・レジーム期のフランスの教会は、施療院や捨て子養育院を経営し、貧民救済事業をおこなったほか、教区ごとに小さな学校(プチト・ゼコール)を設け、民衆の子弟に読み・書き・計算を教え、よきカトリック信者となるべき作法を伝授した。[[#谷川3|谷川(2006)pp.65-66]]</ref>。一方、カトリック教会は、教区民の助言者であり、[[告解]]やミサを通じて信者の生活規範を点検する道徳統制者でもあり、また、常に信者本人や家族に対して日々の信仰生活のありようを問い、その[[冠婚葬祭]]に際して宗教的な証しを求めた<ref name="kudoh_50"/><ref name="tanig_65"/>。[[プロテスタント]]の信徒はといえば、カトリック教会の台帳には登録されなかったため、たとえば結婚については正式なものとは認められず、したがって、正式な[[夫婦]]でない男女から生まれた子どもたちもまた社会的には[[私生児]]として扱われた<ref name="kudoh_50"/>。そして、洗礼証書(現代でいう出生証書)のない死者の埋葬には、しばしば大きな困難がともなったのである<ref name="kudoh_50"/>。プロテスタントや[[ユダヤ教徒]]は「不法に」ではなく、いわば「合法的に」差別されていた<ref name="kudoh_50"/>。その状態に変化の兆しがみられたのは、国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の名においてプロテスタント諸派に[[信仰の自由]]と戸籍が与えられた[[1787年]]のことであり、ここにみられる「宗教の相対化」はしたがって後述するフランス革命の所産ではなく、「啓蒙の世紀」が培ったものであったといえる<ref name="kudoh_50"/>。
 
 
 
=== 憲法制定国民議会と1791年憲法体制 ===
 
{{See also|人間と市民の権利の宣言|1791年憲法|聖職者民事基本法}}
 
[[ファイル:Prise de la Bastille.jpg|250px|thumb|right|「バスティーユ襲撃」({{仮リンク|ジャン=ピエール・ウーエル|en|Jean-Pierre Houël}}画)]]
 
一方、[[1780年代]]のフランスの国家財政は疲弊の極に達していた<ref name="price_091">[[#プライス|プライス(2008)pp.91-95]]</ref><ref name="takayanagi_087">[[#高柳|高柳(2009)pp.87-94]]</ref>。[[ジャック・テュルゴー|テュルゴー]]、[[ジャック・ネッケル|ネッケル]]によって試みられた財政改革は停滞し、後を引き継いだ[[シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ|カロンヌ]]、[[エティエンヌ=シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌ|ブリエンヌ]]らの改革も不調に終わって再びジャック・ネッケルが財務総監に任命された<ref name="price_091"/>。[[1789年]]5月、国王ルイ16世は財政問題の抜本的な立て直しのために3身分(聖職者326人、貴族330人、平民661人)の代表計1,318人による[[全国三部会]]を[[ヴェルサイユ]]に召集し、事態の改善をめざした<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_137">[[#プライス|プライス(2008)pp.137-139]]</ref><ref group="*">教会内部の分裂を反映して、第一身分(聖職者)議員326人のうち220人は下位の聖職者すなわち教区司祭であった。貴族出身の[[司教]]や[[修道院長]]、上位聖職者、[[修道士]]など教会組織の支配層は少数であった。[[#プライス|プライス(2008)p.138]]</ref>。しかし貴族たちは新しい租税制度に反対し、一般総会の開催を国王に求めた<ref name="takayanagi_087"/>。[[アベ・シェイエス]]をはじめとする[[第三身分]](平民)は自分たちこそがフランス国民の代表者であると主張し、みずからの会議を[[国民議会]]と称し、憲法が制定されるまではどんな圧力があっても議会を解散させないと誓い合って[[立憲王政]]をめざした<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_143">[[#プライス|プライス(2008)pp.143-145]]</ref>。これに第一身分(聖職者)議員の大部分と[[自由主義]]を支持する第二身分(貴族)の議員が合流し、1789年[[7月9日]]、[[憲法制定国民議会]]が発足した<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_143"/>。事態が急展開をみせたのは[[7月14日]]のことである。政府が外国人[[傭兵]]をかき集めてパリ駐屯隊を強化する方針を定めたという噂が流れ、また、[[7月11日]]に財政問題を唯一解決できるとみなされていた穏健改革派のネッケルが罷免されたという情報に接したパリの群衆が激怒し、この日、[[バスティーユ牢獄]]を襲撃して、武器を奪い、ここを占拠した<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_143"/>。まもなく騒動はフランス全土におよび、後世「大恐怖」と称される[[パニック]]状態が農村各地に広がった<ref name="price_143"/>。貴族の邸宅は農民たちによって襲われ、土地台帳は奪われて焼き捨てられた<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_143"/>。国民議会は、[[オノーレ・ミラボー]]らの主導のもと、大恐怖に対応するため改革を急ぎ、[[8月4日]]、封建的特権の廃止(有償)を宣言した<ref name="price_149">[[#プライス|プライス(2008)pp.149-154]]</ref>。議会はまた、[[8月26日]]、[[十分の一税|十分の一教会税]]の廃止を決議し、憲法前文として、[[ラファイエット]]らの起草による「[[人間と市民の権利の宣言]]」が採択され、[[自由]]と[[平等]]、[[国民主権]]、[[言論の自由]]、[[私有財産]]の不可侵などの諸原則がここに示された<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_149"/>。いわゆる「フランス人権宣言」である。
 
 
 
[[ファイル:Declaration of Human Rights.jpg|left|200px|thumb|1789年8月26日「人間と市民の権利の宣言」
 
----
 
「[[モーセの十戒]]」の図像学的な伝統にならい2枚の石版に記されていることが注目される<ref name="kudoh_50"/>。]]
 
フランス人権宣言では、国家は「人の消滅することのない[[自然権]]を保全する」という世俗的目的のための「政治的団結」であるとされ、フランス国家はここにおいて、真理への奉仕や神の喜捨にではなく、自由で平等な「[[個人]]」の意思のうえに基礎づけられた<ref name="hibino_270"/>。ここにおける「個人」とは、信教の自由という権利を有し、宗派にかかわりなく平等であることを保障された、世俗的な存在として想定された自律的な個人であった<ref name="hibino_270"/>。ここに、国家と宗教の関係について「中立化」という方向づけが明確になったのである<ref name="hibino_270"/>。とはいえ、この段階では、フランスの国会と教会はまだ必ずしも分離されていなかった<ref name="takayanagi_087"/>。
 
 
 
十分の一教会税の廃止は、これまで自弁で維持してきた[[聖堂]]や[[学校]]、[[神学校]]、[[病院|施療院]]、[[孤児院|捨て子養育院]]、貧民救済などの諸事業にかかわる財産の一切を放棄し、国庫に全面的に依存することを意味しており、教会はまた、9月末には教会が所有する金銀製の聖器や[[装飾品]]などの類も[[礼拝]]の[[儀式]]に必要なものを除いてすべて国庫に供出することに同意した<ref name="tanig_66">[[#谷川3|谷川(2006)pp.66-67]]</ref>。国民議会は、1789年10月より教会の組織再編を審議しはじめ、これはカトリック聖職者の自治およびその排他的権利にとっては脅威となった<ref name="price_154">[[#プライス|プライス(2008)pp.154-157]]</ref>。
 
 
 
1789年[[11月2日]]、[[フリーメイソン]]会員で啓蒙思想の影響を強く受けた[[オータン]]司教の[[タレーラン・ペリゴール]]が憲法制定国民議会に対し、[[修道院]]を含む全教会財産の没収と国有化を提案した<ref name="takayanagi_087"/><ref name="tanig_66"/><ref name="price_154"/>。議会はこれを採択し、国家が祭式費用と聖職者の給与を負担することを決めた<ref name="takayanagi_087"/>。教会所有地は、フランス王国の2割に達していただろうと考えられ、その資産総額は約30億フランに達した<ref name="tanig_66"/><ref name="hukui_251">[[#福井2|福井(2001)pp.251-254]]</ref>。接収した土地の一部は1890年5月と7月に出された政令にもとづいて売却された<ref name="hukui_251"/>。教会財産の国有化は、かつてプロテスタントの君主が自領でおこなった改革であったが、革命前後の混乱と税金不払いの拡大のため、財政状況のさらなる深刻化から非常措置もやむをえないとされたからであった<ref name="price_154"/><ref name="hasegawa_247">[[#長谷川|長谷川(2002)pp.247-248]]</ref>。これによりフランス国内の[[司教]]と司祭は、神聖で特別な立場から[[国家公務員]]という立場となり、すべて一定額以上の租税負担を負うことのできる有権者(「能動市民」)によって選ばれる身分となった<ref name="takayanagi_087"/><ref name="hasegawa_247"/>。[[1790年]]3月には財政悪化がさらに進行したため、見積もられた国有資産となった教会領を担保とする5パーセントの[[利子]]付き債券「[[アッシニア]]」の発行が決定された<ref name="price_154"/><ref name="hukui_251"/>。教会に関する国民議会の当初方針は、道徳的基盤としての教会の存続を脅かすことではなく、聖書者および聖職者による教育・慈善事業の国家管理であった<ref name="price_154"/>。しかし、かねてより無益で費用がかかりすぎるとして多方面より批判があった[[観想修道会]]などについては廃止が決定された(1790年[[2月13日]]と[[1792年]][[8月18日]]の法令)<ref name="price_154"/>。これにより実体のともなわない男子修道会の統廃合が進んだが、教育や医療にかかわるものについては除外された<ref name="tanig_66"/>。修道僧の強制的な[[還俗]]も含むこの措置は世俗権力による宗教そのものへの侵害を意味したが、ほとんど抵抗なく実施された<ref name="tanig_66"/>。
 
 
 
[[ファイル:Decret de l'Assemblée National qui supprime les Ordres Religieux et Religieuses.jpg|250px|right|thumb|1790年2月13日の聖職者の終身誓約と[[修道会]]の廃止をうけて自由を喜ぶ修道士<ref group="*">この当時の修道院生活は極めて厳しいものであったので、多くの者が解放を喜んだ。</ref>。]]
 
 
 
2月13日の法令では、行政は教区聖職者の組織体系にまでは干渉していなかった<ref name="tanig_66"/>。しかし、1790年[[7月12日]]、行政権力の力で教会の粛正と再編を図る[[聖職者民事基本法]](聖職者市民法)が議会を通過した<ref name="takayanagi_087"/><ref name="tanig_67">[[#谷川3|谷川(2006)pp.67-69]]</ref>。従来135あった司教区は新たに導入された県にあわせて83に削減され、18名いた大司教も10名までとされた<ref name="tanig_67"/>。市町村の小教区も人口にあわせて再編された<ref name="tanig_67"/>。聖職者の[[位階]]も単純化され、すでに有名無実化していた役職・聖職禄は全廃された<ref name="tanig_67"/>。また、修道誓願の禁止、観想修道会の禁止、聖職服の禁止などが定められた<ref name="takayanagi_087"/>。教区司祭と司教は、適性や資格が審査されたのち、行政単位ごとに選挙集会の選挙において俗人によって選ばれることとなった<ref name="price_154"/><ref name="tanig_67"/>。つまり、これは行政改革の原則が教会組織にまで拡大されたことを意味している<ref name="price_154"/><ref name="tanig_67"/>。聖職者民事基本法の本質は、教会は国家と[[市民社会]]に従属しなければならないとするものであり、一面では[[ガリカニスム]]の論理的帰結でもあったが、これは、[[ローマ教会]]としては到底受け入れがたいものであった<ref name="price_154"/><ref name="tanig_67"/><ref name="fukui_277">[[#福井|福井(1996)pp.277-279]]</ref><ref name="shibata_120">[[#柴田|柴田(1961)pp.120-123]]</ref>。当初[[ローマ教皇]]の[[ピウス6世]]は態度を保留していたものの、すべてのフランスの聖職者が公務員として革命政府に忠誠の誓いをたてなければならない(1790年[[11月17日]]の法令)と定められるや、[[1791年]]3月から4月にかけてこの法令の内容を公然と非難しつづけた<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_154"/>。多くのフランスの聖職者たちは当初、教会の民主化を喜んで受け入れたものの、135名の司教のうち宣誓に応じたのはタレーラン含めて7名のみであり、教区で直接信徒に接する司祭や助祭は約半数近くに相当する2万4,000名あまりが宣誓を拒否した<ref name="tanig_67"/>。全体の5割強が国家への忠誠を誓ったものの、ローマ教皇がこのような態度を鮮明にすると、宣誓を撤回した聖職者も少なくなかった<ref name="price_154"/>。また、教皇がどのような意見がわからないまま不本意ながら聖職者民事基本法に署名したルイ16世は、のちに教皇の見解に接したとき暗澹たる表情を示していたという<ref name="hasegawa_247"/>。
 
 
 
[[ファイル:Moyen de faire prêter serment.jpg|thumb|left|250px|議会の命令で聖職者に宣誓を強制しようとする様子を描いた風刺画(1791年)]]
 
フランスの教会はタレーランに指導された「憲法派教会」と宣誓を拒否した正統教会に分裂した<ref name="takayanagi_087"/>。信仰心の篤い地域では、宣誓僧は無資格僧とみなされ、「[[イスカリオテのユダ|ユダ]]、裏切り者」と罵倒され、宣誓拒否僧は聖人扱いされることも多く、しばしば宣誓拒否僧自身が反革命を煽動したこともあったのに対し、革命派の勢力が盛んだった都市部などでは宣誓を渋る僧に対して民衆が圧力をかけ決断を強制するようなこと少なくなかった<ref name="tanig_67"/>。「宣誓か縛り首か」を迫られた聖職者もあれば、宣誓拒否をしたために、槍や鎌をもった群衆によって「異端」宣言され、追放された聖職者もいた<ref name="tanig_67"/>。こうしたフランス全土におよぶ深刻な教会分裂は[[1801年]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]によるカトリック教会の復興まで続いた<ref name="takayanagi_087"/>。ピウス6世にしたがって宣誓を拒否した聖職者に対する弾圧は伝統的な宗教生活にとっては致命的なものであったが、一方では[[ヴァンデの反乱]](後述)をはじめとする反革命に大きな力をあたえる契機ともなった<ref name="takayanagi_087"/><ref name="tanig_67"/>。国家が反聖職者的、反宗教的な諸法を次々に制定すると、カトリックの伝統を支持する地域住民の多くは、神と彼らを仲介する存在として長らく機能してきた教区司祭を守ろうとし、アンシャン・レジームの復興を強く希求するようになった<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_154"/>。こうして教会内部での抗争は激化したが、過激派が勢いを得た革命政府は1791年に[[ローマ教皇庁]]と断交し、当時教皇領だった[[アヴィニョン]]と{{仮リンク|コンタ・ヴネサン|fr|Comtat Venaissin}}を占領した<ref name="takayanagi_087"/>。
 
 
 
憲法制定国民議会は、1791年 [[9月3日]]、フランス初の憲法([[1791年憲法]])を可決し、これはまもなく国王ルイ16世によって承認された<ref name="price_161">[[#プライス|プライス(2008)pp.161-164]]</ref>。この憲法は、教会を国家権力のもとにおき、権力の世俗化を図ることを一つの特徴としていた<ref name="kawakita_041">[[#川北|川北(1997)pp.41-55]]</ref>。これに先立つ新しい地方行政制度や[[ギルド]]の廃止を定めたル・シャプリエ法、上述したアッシニアの発行、聖職者民事基本法、あるいは、そのほか行政や財産に関する法令が次々と成立したが、1791年憲法とこれら一連の法令にもとづく体制を1791年憲法体制という<ref name="fukui_277"/><ref name=ref name="shibata_120"/><ref name="kawakita_041"/>。ここでは、権力の世俗化とともに[[ギルド]]などの社団的な中間権力をなくして権力の一元化が推し進められた<ref name="kawakita_041"/>。1791年憲法では、税の支払能力によって能動市民と受動市民とに分け、能動市民による[[制限選挙]]によって選ばれた議員による、[[一院制]]の新しい議会をひらくことが定められた<ref name="fukui_277"/><ref name=ref name="shibata_120"/><ref name="price_161"/><ref group="*">能動市民は25歳以上のフランス人男性で、1年以上同一地に居住し、3日分の労賃にあたる[[直接税]]を支払う能力のある市民であり、受動市民には民事上の諸権利はあたえられたものの[[参政権]]は付与されなかった。女性や奉公人、使用人、[[植民地]][[奴隷]]は能動市民に含まれなかった。[[#谷川3|谷川(2006)pp.53-54]]</ref>。こうした[[自由主義]]的な立憲君主制が軟着陸するためには、国王側の協力が条件となっていたが、革命側からすれば、これは不確実なものと理解されていた<ref name="shibata_120"/>。議会が[[二院制]]論をしりぞけ、立法機関の行政機関に対する優位を強調して国王拒否権に難色を示したのも、[[宮廷]]に対する疑念からであった<ref name="shibata_120"/>。国王一家が[[パリ]]を脱出し、その日のうちに[[ヴァレンヌ]]で捕捉された1791年[[6月20日]]の事件([[ヴァレンヌ事件]])は、国民を見捨てようとした国王夫妻に対するこうした疑念を押しひろげ、それはときに激しい嫌悪をともなうものだったのである<ref name="hasegawa_248">[[#長谷川|長谷川(2002)pp.248-251]]</ref>。
 
 
 
=== 共和政フランスと反キリスト教運動 ===
 
{{See also|フランス革命期における非キリスト教化運動|九月虐殺|理性の祭典|最高存在の祭典|共和暦|ローマ共和国 (18世紀)}}
 
国民議会は制限選挙が実施されたことでその目的を終え、[[1791年]][[9月30日]]、[[立法議会]](立法国民議会)に引き継がれた<ref name="price_161"/>。この議員の選挙では、国民議会議員の再選が禁じられていたので、新人ばかりの顔ぶれとなった<ref name="price_161"/>。議会では、立憲君主政の定着をはかる[[フイヤン派]]といっそうの民主化を求める[[ジロンド派]]が対立した。立法議会は、フランス国内の反革命運動を支援する外国との開戦を主張するジロンド派、また、それとは逆に敗戦によって革命の終結をもくろむ国王周辺の双方の意向におされ、[[1992年]][[4月20日]]、国境地帯の亡命者とこれを支持する外国の軍勢に対し軍事行動をとることを可決した<ref name="price_161"/>。これは事実上、[[オーストリア]]に対する[[宣戦布告]]となった([[フランス革命戦争]])<ref name="price_161"/>。これを受けてオーストリアと同盟した[[プロイセン]]軍がフランスに侵入、[[将校]]の大半が亡命していた[[フランス軍]]は弱体化しており、戦況は初めフランス不利であったが、危機を感じたパリの民衆と全国から駆け付けた[[義勇軍]]が[[テュイルリー宮殿]]を襲撃して国王を監禁、立法議会に対して、普通選挙制によって選ばれた議員から成る新しい国会([[国民公会]])の開設と新憲法の制定を約束させた([[8月10日事件]])<ref name="price_161"/>。パリではこののち、9月2日より「[[九月虐殺]]」と呼ばれる大量殺戮が起こり、それは全国化して3名の司教と200名以上の司祭が憤激する暴徒によって殺害される惨事となった<ref name="tanig_69">[[#谷川3|谷川(2006)pp.69-71]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Exécution de Louis XVI Carnavalet.jpg|300px|right|thumb|「[[コンコルド広場]]でのルイ16世の処刑」(作者不詳、18世紀)]]
 
保守派が逃亡してジロンド派が多数派となった立法議会は、さらに[[領主]]貢租の無償廃止や宣誓拒否聖職者の国外追放などを決めたが、過激化したパリの民衆はジロンド派への圧力を強めた<ref name="price_164">[[#プライス|プライス(2008)pp.164-168]]</ref>。立法議会解散直前の[[9月20日]]、議会は住民の民事的身分を認証する役務を教区教会から地方自治体に移した<ref name="kudoh_50"/><ref name="tanig_69"/>。結婚は役所に届け出ることが正規の手続きとされ、[[離婚]]の可能性が認められた<ref name="kudoh_50"/><ref name="tanig_69"/>。これにより、離婚を認める世俗の法とそれを認めないカトリック教会の法は、婚姻に関する限り相容れないものとなった<ref name="kudoh_50"/><ref name="tanig_69"/>。なお、この日は[[ヴァルミーの戦い]]で国民を主体とするフランス軍が革命後、初めて勝利した日でもあった<ref name="price_164"/><ref group="*">義勇兵を主体とするフランス軍が初めてプロイセンに勝利した戦いで、プロイセン側でこの戦闘を目撃した[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]が「ここから、そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」と述べたことで知られる。</ref>。
 
 
 
国王の逃亡や対外戦争の開始など緊張のつづく政治局面において、人びとの聖職者に対する視線もまた厳しいものになっていったが、戸籍の世俗化と離婚に関する法令は「憲法派教会」の存立基盤を揺り動かす意味合いさえ有していた<ref name="tanig_69"/>。教区簿冊すなわち戸籍簿の管理によってかろうじて自身の立場を維持していた憲法派・宣誓派の僧たちはもはや公務員的な役割さえ失うこととなった<ref name="tanig_69"/>。また、離婚法の制定は、カトリックで禁じられていた離婚・[[再婚]]を可能にしたばかりではなく、僧侶の結婚さえ合法化するものであり、教会法はもはや打ち捨てられたに等しかった<ref name="tanig_69"/>。
 
 
 
[[1792年]][[9月21日]]、男子普通選挙にもとづく[[国民公会]]がひらかれ、[[9月22日]]、王政の廃止が宣言されてフランス共和国が成立した<ref name="price_164"/>。ローマ教皇によって[[聖別]]されてきた王政は否定された<ref name="kudoh_50"/>。[[1793年]][[1月21日]]、祖国に対する裏切りの罪で裁判にかけられた国王ルイ16世は[[シャルル=アンリ・サンソン]]の手によって、ついに断頭台の露と消えた<ref name="price_164"/>。これは、アンシャン・レジームとの決別を示す最後の象徴であったのと同時に、ヨーロッパの君主たちに対する挑戦でもあった<ref name="price_164"/>。フランス軍のオーストリア領ネーデルラント(いまの[[ベルギー]])占領に対し、英蘭両国がこれを脅威とみなしたところから、1793年2月、国民公会はオランダとイギリスに対しても宣戦布告した<ref name="price_164"/><ref name="fukui_258">[[#福井2|福井(2001)pp.258-260]]</ref>。[[2月24日]]には独身者に対する一般兵役義務が課せられ、フランス国民軍が成立した<ref name="fukui_258"/>。30万規模の新規徴兵は、しかし、一方では農民の武装反乱を引き起こした<ref name="fukui_258"/>。こののち、[[マクシミリアン・ロベスピエール]]を中心とする[[ジャコバン派]]独裁がはじまり、[[サン・キュロット]]たちの意向に配慮した国民公会によって「国民の敵」に対する恐怖政治が展開された<ref name="price_164"/>。欧州で孤立無援の情勢となったフランスでは、国内にいる共和国の敵をどうしても殲滅しなければならないと考えられたのであり、一方で食糧危機がきわめて深刻化していた経済事情もこれに拍車をかけた<ref name="price_168">[[#プライス|プライス(2008)pp.168-172]]</ref><ref group="*">食糧危機の原因は、増強されたフランス軍兵士の糧食が増えて従来の食糧供給のシステムが破綻したことに加え、民衆騒擾、紙幣と化したアッシニア濫発にともなう[[インフレーション]]、さらに不作が重なったことなどである。戦争によって海外市場が失われて国民の購買力が低下し、[[失業率]]が高まったことがこれに拍車をかけた。[[#プライス|プライス(2008)p.170]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Fête de l'Etre suprême 2.jpg|300px|left|thumb|「[[最高存在の祭典]]」({{仮リンク|ピエール=アントワーヌ・ドゥマシー|en|Pierre-Antoine Demachy}})]]
 
「恐怖政治」の時期には、多くの聖職者が処刑され、追放された<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_168"/>。教会は閉鎖され、多くの建造物は破壊されて[[美術品]]も売りに出された<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_168"/>。こうした「[[フランス革命期における非キリスト教化運動|非キリスト教化運動]]」(反キリスト教運動、キリスト教否定運動)が特に激しかったのは1793年秋から[[1794年]]春にかけてであった<ref name="price_168"/>。この運動は、[[知識人]]の反宗教感情と国民一般の反教権主義とが結びついたもので、宣誓を拒否する聖職者は「反革命的狂信者」と断罪された<ref name="price_168"/>。一方で、市民道徳と人間性回復の一環として「理性」と「最高存在(至高存在)」の崇拝が導入された<ref name="bunkacho"/><ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_168"/>。これらは「革命的宗教」ないし「革命的諸宗教」とも称される<ref name="ozouf_43">[[#オズーフ1|オズーフ「革命的宗教」(1999)pp.43-62]]</ref><ref group="*">「革命的諸宗教」は[[アルフォンス・オラール]]の用語である。オラールによれば、革命的な諸信仰はジャコバン独裁期の相次ぐ政治的必要に応え、競合する政治集団によって執り行われた国防目的の方便にすぎなかったし、政治対立の目的でもあり手段でもあるところの人為的創設物でしかなかったので、複数形でしか語りえないものであった。それに対し、[[アルベール・マチエ]]の考える「革命的宗教」では自然発生的な創設が想定され、いわば、18世紀の哲学のうえに咲いた遅咲きの花であるとする。宗教に関しても、マチエは[[エミール・デュルケーム]]の思想から発想を得て「個人を社会に統合する規範の総体としての宗教」という考え方を提示した。[[#オズーフ1|オズーフ「革命的宗教」(1999)pp.43-62]]</ref>。1793年[[11月10日]]、[[ジャコバン派#エベール派(矯激派)|エベール派]]の主導によって[[ノートルダム聖堂]]で「哲学」の名において「[[理性の祭典]]」がとりおこなわれた<ref name="price_168"/><ref name="ozouf_43"/><ref name="tanig_74">[[#谷川3|谷川(2006)pp.74-76]]</ref>。この祭典は以後、数か月にわたってパリの各教会はじめ諸県の主要都市においてくりひろげられ、無神論的でアナーキーな性格をもつものであった<ref name="tanig_74"/>。これに対し、[[1794年]][[5月7日]]の[[法令]]に基づいて[[6月8日]]に[[テュイルリー宮殿]]や[[シャン・ド・マルス公園]]を中心に「[[最高存在の祭典]]」が挙行された<ref name="kudoh_50"/><ref name="price_168"/><ref name="tanig_74"/>。その中心となったのは[[ジャコバン派#ロベスピエール派|ロベスピエール派]]であり、理神論的性格をもつものであった<ref name="ozouf_43"/><ref name="tanig_74"/>。しかし、これらは宗教を否定していながらも実際には完璧な宗教儀式の外観を呈していたとも評される<ref name="kudoh_50"/>。1793年11月、国民公会によって定められた[[共和暦]](フランス革命暦)は、[[イエス・キリスト]]の降誕を[[紀元]]とする従来の[[グレゴリウス暦]]に代わって採用された<ref name="kudoh_50"/><ref name="price_168"/><ref name="ozouf_78">[[#オズーフ1|オズーフ「共和暦」(1999)pp.78-95]]</ref>。革命前から暦の改変を提案していたのは{{仮リンク|シルヴァン・マレシャル|en|Sylvain Maréchal}}ただひとりだったが、共和暦は[[1806年]]まで公式に使用された<ref name="kudoh_50"/><ref name="ozouf_78"/><ref group="*">当初は1789年7月14日を記念日として「自由元年」とする発想が生まれるが、1792年の8月10日事件後はこれに「平等元年」という考えが付け加わる。ここでさまざまな論争が起こるが、結局、1792年[[9月22日]]の共和政宣言の日がたまたま[[秋分の日]]にあたっていたところから、自然と歴史の両方に依拠してその日が新しい暦の開始点となった。[[#オズーフ2|オズーフ「共和暦」(1999)pp.78-95]]</ref>。各月を等しく30日に、1日を等しく10時間にすることもおこなわれた<ref name="ozouf_78"/>。地名もまた、[[サンテチエンヌ]]がアルムヴィル(武装せる都市)に、[[サントロペ]]がエラクレス([[ヘラクレス]])に改称されるなど、宗教色の強い地名は改名させられた<ref name="tanig_71">[[#谷川3|谷川(2006)pp.71-73]]</ref>。これらはいずれも、日常生活から宗教を取り除く試みであった<ref name="price_168"/>。
 
 
 
1793年11月、コミューンの活動家たちに連行された{{仮リンク|パリ大司教|en|Archbishop of Paris}}の{{仮リンク|ジャン=バティスト=ジョゼフ・ゴベル|en|Jean-Baptiste-Joseph Gobel}}は[[国民公会]]の演壇に立って僧職の離脱を宣言し、彼の[[ミトラ (司教冠)|ミトラ]](司教冠)は赤い「[[フリジア帽|自由の帽子]]」に取り換えられた<ref name="tanig_69"/>。彼は、みずからの叙任状と十字架、司教用の[[杖]]と[[指輪]]を壇上に置いて「革命が成った以上は自由と平等の宗教以外に国民的な宗教はもはや不要である」と述べた<ref name="tanig_69"/>。聖職者議員たちは次々とこれにしたがった<ref name="tanig_69"/>。僧職離脱を拒否してキリスト教の信仰告白をおこなった勇気ある議員は{{仮リンク|アンリ・グレゴワール|en|Henri Grégoire}}司教だけであった<ref name="tanig_69"/>。これ以降、聖職放棄は地方へも急速に波及し、憲法派僧すなわち教区僧2万6,542人のうち半数強にあたる1万3,000人ないし1万5,000人が聖職放棄の強制に応じた<ref name="tanig_69"/>。非教区僧を加えた聖職者全体は1万6,000人から2万人におよぶと考えられており、教区聖職者はアンシャン・レジーム期の4分の1に落ち込んで、立憲教会体制はこうして内側から切り崩された<ref name="tanig_69"/>。聖職放棄には妻帯の強制をともなうことも少なくなかった<ref name="tanig_69"/>。僧侶の独身は「カトリック的偏見の産物」とみなされ、聖職者と市民を隔てる障壁と考えられた<ref name="tanig_69"/>。およそ6,000名の僧が教会法では許されない妻帯に手を染めた<ref name="tanig_69"/>。こうした聖職放棄や妻帯は国家への忠誠宣誓以上に人びとのあいだに聖職者への抜きがたい不信感を植え付けることとなった<ref name="tanig_69"/>。
 
 
 
[[ジョゼフ・フーシェ]]によって1793年10月に発せられた墓地令では、[[共同墓地]]から十字架さえ撤去されて、死者を見守るのはただ「死は永遠の眠りである」と記された墓碑銘だけとなった<ref name="tanig_71"/>。[[死生観]]さえも世俗化され、以後、死と葬送は私事の領域へと移っていくこととなる<ref name="tanig_71"/>。共同墓地や教会から刈りだされた十字架は火刑の薪となり、[[告解]]の場もまた焼却されるか、哨舎に転用された<ref name="tanig_71"/>。
 
 
 
革命初期におこなわれた教会の銀器や装飾品・祭具の没収が没収され、由緒ある教会・修道院も破壊されて蔵書などが失われた。[[鐘楼]]の鐘も没収され、祖国フランスの防衛のための[[砲弾]]として改鋳された<ref name="tanig_71"/>。聖人像はいたるところで首を刈られたり、引きずりおろされていた<ref name="tanig_71"/>。[[イコノクラスム]](聖像破壊)や[[ヴァンダリズム]](文化破壊)と称される「民衆的暴力」が顕現した<ref name="tanig_71"/>。神を冒涜するかのような[[火刑]]や[[マスカラード]](仮装行列)がしばしば民衆の熱狂を誘い、聖人像やローマ教皇をかたどった人形が火あぶりにされ、[[聖書]]やミサ典書、祭壇布といった従来神聖視されてきた諸物が焼かれ、聖職放棄僧の叙任状と一緒に火にくべられた<ref name="tanig_71"/>。
 
 
 
[[ファイル:GuerreVendée 1.jpg|right|thumb|200px|「ヴァンデの反乱:ショレの民衆蜂起」({{仮リンク|ポール=エミール・ブティニー|fr|Paul-Émile Boutigny}}画)]]
 
こうした運動は、国民公会が派遣した議員が主導して行われたため、その徹底の度合いは派遣議員の熱意や地域性によるところがきわめて大きかった<ref name="price_168"/>。すでに教会の権威が低下していた中部の諸地域やパリ周辺、[[ノルマンディ]]、[[ローヌ川]]沿岸地域などでは宗教的習慣がいっそう弱まったものの、一方では、伝統の無視とそれに対する攻撃に反発をつのらせ、聖職者が以前もまして崇敬されるようになった地域も少なくなかった<ref name="price_168"/>。民衆運動やジャコバン派は革命を反革命勢力から守りぬく決意を固めていたが、一方では、反革命の動きも顕著となった<ref name="price_174">[[#プライス|プライス(2008)pp.174-178]]</ref>。当初は亡命貴族、そして民衆の側からも反革命運動が激化・拡大していった<ref name="price_174"/>。公的役割をになうプロテスタントが増加したことに対する反発や怖れ、極端なキリスト教否定運動に対する反発、重税や[[徴兵]]、食糧や[[馬]]の徴用、革命政府の土地政策に対する不満などがその要因であった<ref name="price_174"/>。1793年3月に起こった[[ヴァンデの反乱]]では大多数の市民が教会の祭壇を守るために立ち上がった<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_174"/>。[[ヴァンデ県|ヴァンデ地方]]の民衆反乱は当初3万人規模を擁する大規模なもので、93年末にはほぼ鎮圧されたが、ヴァンデ、[[ブルターニュ]]、ノルマンディなどの西部地方では、その後も[[1795年]]ころまで「{{仮リンク|シュアヌリ|en|Chouannerie}}(フクロウ党)」と呼ばれる[[ゲリラ]]組織がつくられ、地域住民からの支持を受けて政府軍への抵抗をつづけた<ref name="price_174"/>。
 
 
 
1794年7月の[[テルミドールのクーデター]]によってジャコバン派の独裁は倒れ、1795年11月に国民公会が解散、同月、[[ポール・バラス]]、[[ジョゼフ・フーシェ]]、[[ラザール・カルノー]]らによる[[総裁政府]]が発足した<ref name="price_180">[[#プライス|プライス(2008)pp.180-184]]</ref>。1795年[[10月4日]]にパリの王党派が武装蜂起した際、砲兵隊を率いて注目された若き将校が[[ナポレオン・ボナパルト]]であった<ref name="fukui_265">[[#福井2|福井(2001)pp.265-267]]</ref>。ナポレオンは、鎮圧後、国内軍司令官に大抜擢され、以後、バラスの配下として活躍した<ref name="fukui_265"/>。1796年3月、総裁政府はナポレオンをイタリア方面軍司令官に任命し、[[イタリア戦役 (1796-1797年)|第一次イタリア戦役]]が開始された<ref name="kitahara_335">[[#北原2|北原(2008)pp.335-340]]</ref>。ナポレオンの軍はイタリア北部を席巻し、1796年[[5月10日]]の[[ロディの戦い]]でオーストリア軍を破り、15日には[[ミラノ]]に入城して旧[[ミラノ公国]]の領域を制圧した<ref name="kitahara_335"/>。ミラノにはロンバルディア行政府が設置され、北イタリアでのパトリオット(愛国派)やジャコビーノ(イタリア・ジャコバン派)の活動の中心となった<ref name="kitahara_335"/>。6月、ナポレオンは[[教皇国家]]北部の{{仮リンク|レガツィオーネ|it|Suddivisioni amministrative dello Stato Pontificio in età contemporanea}}に侵入して[[ボローニャ]]と[[フェラーラ]]を占領、[[モデナ公国]]から分離した[[レッジョ]]、[[モデーナ]]も支配して、そこに「チスパダーナ連合」を結成させ、のちに[[チスパダーナ共和国]]を建国させた<ref name="kitahara_335"/>。連戦連勝のナポレオンは総裁政府からの自立を強め、みずからの手でイタリア政策を推し進めて自身の政治的立場を強化した<ref name="kitahara_335"/>。[[1797年]]6月にはロンバルディアに[[チザルピーナ共和国]]を樹立してチスパダーナ共和国をこれに併合している<ref name="takayanagi_087"/>。ときのローマ教皇[[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]]はナポレオンに対し強く抵抗したが、ナポレオンは[[1798年]]、教皇領全体を占領して[[ローマ共和国 (18世紀)|ローマ共和国]]を発足させた<ref name="takayanagi_087"/><ref name="kitahara_340">[[#北原2|北原(2008)pp.340-344]]</ref>。ナポレオン軍はさらに[[バチカン]]を占領して、ピウス6世は[[トスカーナ]]に亡命したため、ここにローマにおける教皇の世俗支配は崩壊した<ref name="kitahara_340"/>。
 
 
 
=== コンコルダ体制とナポレオンの帝国 ===
 
{{See also|コンコルダ|帝国代表者会議主要決議|フランス民法典|ナポレオン1世の要理書}}
 
革命政府は上述のように組織的にフランスの[[世俗|世俗化]]を推し進め、[[フランス革命期における非キリスト教化運動|非キリスト教化運動]]においては革命的信仰創設の最後の試みであった{{仮リンク|敬神博愛教|fr|Théophilanthropie|en|Theophilanthropy}}も不調に終わって<ref name="ozouf_43"/>、[[1799年]]ころまでに国民の多数はカトリックの復興を望むことが明らかになった<ref name="takayanagi_087"/><ref name="price_174"/>。教皇[[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]]は、1799年8月、フランスでの幽閉中に[[ヴァランス (ドローム県)|ヴァランス]]で没し、[[1800年]]3月、ピウス6世の友人であったジョルジョ・キアラモンティ[[枢機卿]]が[[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]]として新教皇に選出された。フランスでは1799年[[11月9日]]から10日にかけて、総裁政府は打倒され、将軍[[ナポレオン・ボナパルト]]が権力を掌握した([[ブリュメールのクーデター]])<ref name="uwag_78">[[#上垣|上垣(2006)pp.78-81]]</ref>。[[12月22日]]には新しい憲法([[共和暦8年憲法]])が発布され、ナポレオンが第一統領として強力な執政権をにぎる[[統領政府]]が成立した<ref name="uwag_78"/>。執政官ナポレオンはオーストリアやイギリスとの戦争状態を終結させ、フランスに10年ぶりの平和をもたらす一方、亡命者の帰国を促し、全般的な[[恩赦]]を布告するなど国民の和解に務めた。
 
 
 
[[ファイル:Gérard - Signature du Concordat entre la France et le Saint-Siège, le 15 juillet 1801.jpg|250px|left|thumb|「コンコルダの署名」([[フランソワ・ジェラール]]画)]]
 
ナポレオンはまた、フランス革命によって生じた宗教的分裂を解決するため、カトリック教会との和解を試みた<ref name="takayanagi_087"/><ref name="uwag_78"/>。[[第二次対仏大同盟#イタリア・スイス戦役 (1799-1800年)|第二次イタリア戦役]]によって得た北イタリアでの軍事的優勢を背景として、[[1801年]][[7月15日]]、ナポレオンはローマ教皇ピウス7世とのあいだに[[コンコルダ]](政教協約)を結んだ<ref name="takayanagi_087"/><ref name="uwag_78"/>。政教協約を結んだナポレオン側の目的としては、宗教に社会の管理の一端を担わせること、カトリック教徒に新政体を容認させること、王党派から[[統領政府]]に反対する根拠を奪うことなどがあげられる<ref name="price_184">[[#プライス|プライス(2008)pp.184-187]]</ref>。政教協約はカトリックを国家の宗教([[国教]])としては承認せず、「フランス国民の多数の宗教」であるとし、司教はフランス政府が指名し、教皇によって[[教会法]]上任命されるように規定し、教会は広い分野で国家の統制に服すべきこととされた<ref name="bunkacho"/><ref name="takayanagi_087"/><ref name="uwag_78"/><ref name="price_184"/>。在俗聖職者は国家からの俸給を受けることになり、代わりに教皇は革命によって没収された教会財産の返還を求めないことに同意した<ref name="takayanagi_087"/><ref name="uwag_78"/>。ただし、国家が聖職者の損害を弁償することは約束された<ref name="takayanagi_087"/>。政教協約によって教会は「[[良心の自由]]」を保障し、カトリックとプロテスタントの2宗派(カルヴァン派とルター派)を公認宗教とすること、各宗派間で法的平等を共有することを認めさせられた<ref name="takayanagi_087"/><ref name="uwag_78"/>。1806年には[[ユダヤ教]]も公認宗教と認められ、ユダヤ教徒はこれによりキリスト教徒と同一の権利をもつこととなった<ref name="uwag_78"/>。コンコルダの締結は、啓蒙思想の流れを汲む学者や政治家から批判されたが、実際には、帝政期を含めてフランス政府はあらゆる宗教権力から自立しており、その意味では非宗派的であり、少なくとも革命期の宗教政策を否定するものではなかった<ref name="uwag_78"/>。カトリック教徒も多くはこれを歓迎した<ref name="price_184"/>。これが、宗教基盤そのものを脅かす国家と教会の対立を終わらせることができるだろうと期待されたからであった<ref name="price_184"/>。革命期に廃止された修道会については、1800年末以降、個別に認可をあたえるかたちでの復活を認めたが、実際に認可されたのは教育や看護にあたる[[女子修道会]]が中心であり、[[イエズス会]]は復活が許されなかった<ref name="uwag_78"/>。以上、政教協約のこのような内容は、[[1814年憲章]]、[[1830年憲章]]、[[1848年憲法]]のいずれにおいても維持され、[[1905年]]の[[政教分離法]]までローマとフランス国家との関係を基本的に規定することとなった<ref name="bunkacho"/><ref name="takayanagi_087"/>。
 
 
 
なお、ナポレオンは政教協約締結直後「基本条項」を付加し、国家が教会に与えることを約束した譲歩のいくつか(国家による聖職者の損害弁償など)について、これを撤回した<ref name="takayanagi_087"/>。この経過をとおしてフランス教会の当事者は、世俗主義的かつ反カトリック的となったフランス政府を信用しなくなり、[[ローマ教皇庁]]への傾斜を強めるようになった<ref name="takayanagi_087"/>。こうしてフランスのカトリック教会には、従来の[[ガリカニスム]]に対抗してユルトラモンタニスム([[ウルトラモンタニズム]]、教皇至上主義)を主張する聖職者たちもしだいに増えていった<ref name="takayanagi_087"/>。
 
 
 
[[ファイル:Italy c 1810.png|180px|right|thumb|1810年のイタリア
 
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フランス直轄領、イタリア王国、ナポリ王国はいずれもナポレオンの統制下にあったが、シチリア王国とサルディーニャ王国では英国の影響が強かった。
 
]]
 
イタリアでは[[1802年]]1月、チザルビーナ共和国が[[イタリア共和国 (1802年-1805年)|イタリア共和国]]に改組された<ref name="kitahara_340"/>。大統領にはフランスの第一統領ナポレオン・ボナパルトが就任し、副大統領には[[ミラノ]]貴族の{{仮リンク|フランチェスコ・メルツィ・デリル|en|Francesco Melzi d'Eril}}が任命された<ref name="kitahara_344">[[#北原2|北原(2008)pp.344-347]]</ref>。大統領府は[[ミラノ]]に置かれた。[[1803年]]9月、イタリア共和国はカトリックを国教としたうえで[[信教の自由]]を認め、司教の任命権を国家が有するという内容の[[政教協約]]をローマ教皇と結んだ<ref name="kitahara_344"/>。イタリア共和国は、1805年3月、ナポレオンを王とする[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]]に移行した<ref name="kitahara_340"/>。一方、イタリア半島北西部では、フランス共和国(のち帝国)が1802同年9月には[[トリノ]]の[[ピエモンテ州|ピエモンテ]]、1805年3月[[リーグレ共和国]]、1807年以降は[[エトルリア王国]]、[[パルマ公国]]、[[教皇国家]]を次々と併合してフランス直轄領とし、南イタリアでは[[1806年]]、ブルボン王家がナポリを去って[[シチリア島]]に逃れ、ナポレオン一族を君主とする新生[[ナポリ王国]]が成立した<ref name="kitahara_340"/>。こうしてイタリア半島は、フランス帝国領、イタリア王国、ナポリ王国にほぼ三分割され、それぞれフランスの強い影響を受けることとなった<ref name="kitahara_340"/>。
 
 
 
こうしたフランスのヨーロッパにおける軍事的優勢は1793年にしかれた一般兵役義務によって国民軍が成立したことによっていた<ref name="sakaguchi_168">[[#阪口1|阪口(2001)pp.168-170]]</ref>。徴兵制は、兵力のいわば無尽蔵な供給を可能とし、[[傭兵]]よりも費用が安く、脱走の心配も少なく、食糧の現地補給方針とあいまって高い機動力を可能とした<ref name="sakaguchi_168"/>。フランス国民軍を率いたナポレオンは、第一次イタリア戦役ののち[[アルプス山脈]]越えをおこない、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]と抗争した<ref name="sakaguchi_168"/>。
 
 
 
[[ファイル:Titelseite des Reichsdeputationshauptschlusses vom 25. Februar 1803.jpg|left|180px|thumb|1803年2月25日の帝国代表者主要決議]]
 
神聖ローマ帝国(ドイツ)の[[帝国クライス]]軍は撃破され、結局オーストリアは1797年の[[カンポ・フォルミオ条約]]および1801年の[[リュネヴィル条約]]によってフランスの[[ライン川]]左岸地域([[ラインラント]])の領有を認めることとなった<ref name="sakaguchi_168"/>。ライン左岸が[[神聖ローマ帝国]]から離脱することにより多くのドイツ諸侯が領土を失うこととなり、その補償を帝国内で行うことが決められた<ref name="sakaguchi_168"/>。補償内容を決定するにあたり、ドイツ皇帝が独断でそれを行う権利はないものの、帝国議会で審議するにはあまりに時間がかかりすぎると予想されたところから、[[1801年]][[11月7日]]、[[レーゲンスブルク]]の[[帝国議会 (神聖ローマ帝国)|帝国議会]]に代表者会議が設置された。ナポレオンのラインラント支配はルイ14世以来の「再統合政策」の継続と完成を意味しており、明白にフランスの領土拡張の意図の賜物であったが、こうした国家利害の考え方は領土の取引というかたちでドイツの全諸領邦に強い影響をあたえた<ref name="sakaguchi_168"/>。神聖ローマ帝国全体としてみた場合、帝国議会と帝国最高法院は、国内的ないし国際的な圧力への反応を調整する働きが評価されて1790年代には再び活性化したものの、結局のところ、有力諸侯とくに[[プロイセン王国]]とオーストリアの二大国には帝国をどうしても維持していこうという熱意に欠けていた<ref name="wilson_51">[[#ウィルソン|ウィルソン(2005)pp.51-55]]</ref>。近隣の弱小領邦を維持しようというよりはむしろそれを犠牲にしてフランスや[[ロシア帝国|ロシア]]と和解する道を選んだ<ref name="wilson_51"/>。1802年から[[1803年]]にかけての帝国代表者会議では、そのことがいっそう鮮明になったのである<ref name="wilson_51"/>。
 
 
 
1803年[[2月25日]]、[[帝国代表者会議主要決議]]が成立した<ref name="sakaguchi_168"/>。その結果、ドイツでは[[マインツ大司教|マインツ]]以外の全教会領が接収され、領邦司教の領土が世俗権力の下に置かれる[[世俗|世俗化]]が進んだ<ref name="sakaguchi_168"/>。また、帝国騎士は全てが地位を失い、帝国都市や小侯国など112におよぶ帝国等族の所領がとりつぶされ、帝国都市は6つに減少、すべては大中の諸領邦に併合されて[[陪臣化]]の傾向が顕著になった<ref name="sakaguchi_168"/>。ドイツの領域は大幅に再編成され、神聖ローマ帝国は約40の中規模の邦国の集合体となったが、世俗化と陪臣化は帝国を切り崩すのに大きな影響力をもっており、実際、帝国はほとんど有名無実化した<ref name="sakaguchi_168"/>。ここに「ドイツの自由」という[[ヴェストファーレン条約]]以来のドイツの国制の原則は完全に破綻した<ref name="sakaguchi_168"/>。
 
 
 
[[ファイル:Jacques-Louis David, The Coronation of Napoleon edit.jpg|right|360px|thumb|「[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠]]」([[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]画)]]
 
フランスでは1802年8月のナポレオンの終身統領就任ののち、1804年5月には元老院決議によって帝政([[フランス第一帝政]])が成立した<ref name="uwag_81">[[#上垣|上垣(2006)pp.81-84]]</ref>。[[世襲制]]を含めた帝政移行は人民投票にかけられ、99パーセントの賛成で[[批准]]された<ref name="uwag_81"/><ref name="fukui_274">[[#福井2|福井(2001)pp.274-280]]</ref>。同年12月2日、パリのノートルダム大聖堂で、ローマ教皇ピウス7世を招いての聖別式が挙行された<ref name="uwag_81"/><ref name="fukui_274"/>。法的には元老院決議と人民投票による批准があれば帝政そのものの実現は可能であったが、ナポレオンはみずからを[[カール大帝]](シャルルマーニュ)になぞらえ、フランス君主政の伝統にもとづいた壮大な儀式をおこなうことによって帝政に威厳をあたえようとしたのであり、ピウス7世は、ナポレオンに皇帝冠を授けるためにパリに赴いたのであった<ref name="takayanagi_087"/><ref name="uwag_81"/>。しかし、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら皇帝冠をかぶり、皇后となるジョゼフィーヌにはナポレオンが冠を授け、これを画家ダヴィドに描かせた<ref name="fukui_274"/>。これは、教会を政治の支配下におく意志のあらわれとされる。第一帝政期の政教関係を特徴づけたのは、ここに象徴的にみられるナポレオン1世とピウス7世のあいだの葛藤であり、フランスは近代における国家と教会の対立の典型例となった<ref name="takayanagi_087"/>。
 
 
 
1804年3月、のちに「[[ナポレオン法典]]」とよばれる民法典が発布された<ref name="fukui_274"/>。ここでは法の前での平等、信仰や労働の自由、[[私的所有権]]の絶対と契約の自由が規定された<ref name="fukui_274"/>。1806年5月1日、皇帝となったナポレオンは「[[皇帝要理書]]」と通称されるカトリック[[要理書]]を発布した<ref name="takayanagi_087"/>。その起草はダストロとジョフレの両師が中心になっておこなわれ、皇帝とその後継者への忠誠義務を付加した<ref name="takayanagi_087"/>。ナポレオンはこうして秩序回復のために教会を復活させ、国内の教区を再編成し、政府中央の官吏・統率が宗教分野におよぶよう努めたが、ピウス7世は皇帝要理書(ナポレオン1世の要理書)の公認を拒んだ<ref name="takayanagi_087"/>。なお、1806年、フランスでは共和暦が正式に廃されグレゴリウス暦が完全なかたちで復活しており、「共和国」の呼称も1807年まで[[公文書]]に使用された<ref name="uwag_81"/>。
 
 
 
{| border="0" cellpadding="1" cellspacing="2" style="margin:5px; width:20%; border:solid 1px #bbb; float:right;"
 
|-
 
| [[File:Franz I (II) half-length portrait in Austrian uniform.jpg|150px]]||[[File:Niederlegung Reichskrone Seite 1.jpg|115px]]
 
|-
 
| colspan="2" style="text-align: left;" |<small>最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(左)と退位宣言書(右)</small>
 
|}
 
帝国代表者会議主要決議で特に領土を多く獲得したドイツの領邦にはプロイセン、[[バーデン (領邦)|バーデン]]、[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]]、[[ヴュルテンベルク]]があったが、西南ドイツの中規模国家となったバーデン、バイエルン、ヴュルテンベルクほか計16邦は、1806年7月、ナポレオン1世を保護者とし、[[マインツ大司教]]の[[カール・テオドール・フォン・ダールベルク]]を総裁とする[[ライン同盟]]を結成し、帝国議会に対して正式にドイツ帝国からの離脱を表明した<ref name="sakaguchi_168"/>。ドイツの弱小領邦にとっては、フランスに編入されるかドイツの周辺の大領邦に併合されるかしか道が残されておらず、今や選択肢は連邦主義しかのこっていなかったのである<ref name="wilson_51"/>。1804年以来「[[オーストリア皇帝]]」の称号を用いていた神聖ローマ皇帝[[フランツ2世]](オーストリア皇帝としてはフランツ1世)は、ライン同盟の帝国離脱を受けて1806年[[8月6日]]、ドイツ皇帝の退位と神聖ローマ帝国の解散を宣言した<ref name="sakaguchi_168"/>。これは、ナポレオンが神聖ローマ帝国の解体に乗り出した結果ともいえるが、一方でナポレオンが神聖ローマ皇帝となってヨーロッパに君臨しようとする野心を棄てていないことに対し、フランツ側が機先を制した結果とも考えられる<ref name="sakaguchi_168"/><ref name="barraolough_326">[[#バラクロウ|バラクロウ(1973)pp.326-332]]</ref>。いずれにせよ、ここに10世紀後半以来850年有余つづいてきた神聖ローマ帝国はその長い歴史を閉じた<ref name="sakaguchi_168"/>。
 
 
 
これに前後して、オーストリアは1805年12月の[[アウステルリッツの戦い]](三帝会戦)、プロイセンは1806年10月の[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]でそれぞれフランス帝国軍に敗れた<ref name="sakaguchi_171">[[#阪口2|阪口(2001)pp.171-173]]</ref><ref name="hukui_280">[[#福井2|福井(2001)pp.280-285]]</ref>。反撃の機会をうかがっていたオーストリアはスペインの反ナポレオン蜂起を契機に、1809年フランスに宣戦布告したが、1809年7月の[[ヴァグラムの戦い]]で大敗した<ref name="sakaguchi_171"/><ref name="hukui_280"/>。プロイセンは[[ティルジットの和約]]、オーストリアは[[シェーンブルンの和約]]をフランスと結び、フランスへの屈服を余儀なくされた<ref name="sakaguchi_171"/>。これによってドイツの勢力図は、
 
# フランスに併合された地域(ラインラント、北ドイツ)
 
# ライン同盟
 
# ナポレオンの従属国([[ヴェストファーレン王国]]、[[ベルク大公国]])
 
# ナポレオンと同盟関係にあるプロイセン・オーストリア
 
 
 
に塗り替えられ、ここにナポレオンのドイツ支配が決定的なものとなった<ref name="sakaguchi_171"/>。
 
 
 
ラインラントでは、かつてこの地に独立していた97の聖俗諸侯領が一挙に取り壊され、フランス的な地方自治制度がもたらされ、身分制の廃止、[[法の下の平等]]、領主制の廃止、[[ナポレオン法典]]の適用などフランス革命のすべての成果が直接もちこまれた<ref name="sakaguchi_174">[[#阪口2|阪口(2001)pp.174-181]]</ref>。ヴェストファーレン王国やベルク大公国でもナポレオン法典が適用され、1807年制定の{{仮リンク|ヴェストファーレン憲法|en|Constitution of the Kingdom of Westphalia}}はドイツ最初の憲法となった<ref name="sakaguchi_174"/>。プロイセンの場合は、1807年に不名誉な[[ティルジットの和約]]を強いられ、国民の総力を国家に結集する体制をつくることが国内的に求められたため、[[ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン]]と[[カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク]]らを中心とする抜本的な自由主義諸改革([[世界の一体化#プロイセン改革|プロイセン改革]])の進展がみられた<ref name="sakaguchi_174"/>。ライン同盟の加盟国であるバーデン、バイエルン、ヴュルテンベルクの場合は、歴史的伝統も信仰する宗教も異なる多くの多様な旧領邦国家を併合し、支配領域を数倍に増やしたため、国家と社会の体制をまったく新しく、しかも独力で整えていかなければならなかった<ref name="sakaguchi_174"/>。[[バイエルン王国]]では1808年に憲法が制定され、身分制の廃止、法の下の平等、財産権の保護、信仰と出版の自由などが規定された<ref name="sakaguchi_174"/>。これは、ヴェストファーレン憲法を除けばドイツ人による初めての憲法であった<ref name="sakaguchi_174"/>。バーデンとヴュルテンベルクでは、[[内閣制度]]の導入や[[領主裁判権]]の破棄、身分制の廃止、思想や信仰の自由が保障された<ref name="sakaguchi_174"/>。プロイセン改革とライン同盟諸国の改革はその後のドイツ史に与えた影響が大きく、いずれの地域でも政教分離の進展がみられた<ref name="sakaguchi_174"/>。
 
 
 
ナポレオンと教皇ピウス7世の関係は、ナポレオンの離婚問題と[[大陸封鎖令]]に関連して再び悪化した。1808年、フランスは再度教皇領を占領して帝国直轄地とし、1809年、ティブル県とトラジメーヌ県を置いたのに対し、同年、教皇はナポレオンを[[破門]]に処した<ref name="price_184"/>。それに対し、ナポレオンは教皇逮捕で応じ、1809年から1814年まで中部イタリアの[[サヴォーナ]]に幽閉、のちフランス国内に移し、新しい政教協約に署名するよう圧力をかけた。[[1813年]]、ピウス7世は、いわゆる「フォンテーヌブローの政教協約」に署名した<ref name="takayanagi_087"/>。しかし同年、[[ライプツィヒの戦い]]でプロイセン・オーストリア・ロシアを中心とする同盟軍がナポレオンを破り、1814年にはパリ入城を果たした<ref name="hukui_280"/>。これにより、教皇はローマに帰還し、ただちに「フォンテーヌブローの政教協約」の無効を宣言した<ref name="takayanagi_087"/>。第一帝政と教皇庁との争いはナポレオンの失脚によって終焉をむかえたのである<ref name="takayanagi_087"/>。
 
 
 
== 国民国家と政教分離 ==
 
アメリカとフランスの革命を契機として政教分離思想が普及し、19世紀のヨーロッパではそれにもとづいた制度的再編がなされた<ref name="watanabe"/>。
 
 
 
アメリカでは独立以来、[[政教分離原則]]が確立し、[[信教の自由]]が合衆国憲法によって保障され、人びとの宗教活動は国家の支配下にない[[自由教会]]によってになわれることとなった<ref name="furuya502"/>。そこでは、宗教が制度的にほぼ完全に国政から分離されているため、しばしば「[[大覚醒]]」の運動が起こり、伝道集会やリバイバル集会が社会問題を取り上げて革新を訴えるなど、かえって宗教が政治に大きな影響をおよぼすという現象がみられる<ref name="furuya502"/>。
 
 
 
フランス革命は「単一にして不可分」の近代[[国民国家]]をヨーロッパの地に生み出した歴史的大事件であった<ref name="tanig_90">[[#谷川4|谷川(2006)pp.90-91]]</ref>。封建制度下では地域によって法も慣習も言語も異なり、その生活は多様であったが、フランス革命は、一国の政治や法が経済・文化を含めた人びとの生活全体を規定する新しい社会の始まりであった。ナポレオン帝政における集権的官僚機構の再編や[[徴兵制]]による軍の国家独占、統一民法典の編纂などにみられるフランスの政治統合はいずれも革命期に土台がつくられたものであった<ref name="tanig_90"/>。換言すれば、革命は[[絶対王政]]的な国制を解体して[[身分制]]的な特権と[[社団]]的な社会編成にもとづく国家から、市民的平等と[[国民主権]]を軸とする[[立憲制]]的な国民国家への転換であった<ref name="tanig_90"/>。そして、それは[[公民]]としてのフランス国民を創出しようとした文化統合における試行錯誤の営みであり、「習俗革命」の試みでもあったが、その試みは革命後も長くつづいた<ref name="tanig_90"/>。フランスにおける文化統合は一般に[[フランス第三共和政|第三共和政]]において完成したと評価される<ref name="tanig_90"/>。
 
 
 
フランス革命は一国の変革にとどまらず、ヨーロッパ各地でナショナリズムを引き起こし、[[自由主義]]・[[民主主義]]の運動を後押しする革命神話を提供した。バイエルン・プロイセンの改革、[[ベルギー]]の独立、イタリア・ドイツの統一などはフランス革命とナポレオン支配を抜きにしては語れない<ref name="tanig_90"/>。さらに、アメリカ独立とフランスの両革命は[[ハイチ革命]]をはじめとして[[大西洋]]をはさんだ[[ラテンアメリカ]]諸国の独立に影響をおよぼし、「[[大西洋革命]]」と呼ばれる広範な影響をおよぼした<ref name="tanig_90"/>。19世紀は、人びとが「国民」に変わっていく世紀になったのである。
 
 
 
フランスでは、[[フランス第三共和政|第三共和制]]のもとで国家の非宗教化・中立化([[ライシテ]])が進み、[[1905年]]、[[政教分離法]](教会国家分離法)が施行された<ref name="bunkacho"/>。
 
 
 
=== ウルトラモンタニズムの復活 ===
 
{{See also|ウルトラモンタニズム}}
 
[[ファイル:Jacques-Louis_David_018.jpg|180px|right|thumb|ローマ教皇[[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]](1742-1823)]]
 
革命期の[[ローマ教皇]]は、[[ピウス6世]]も[[ピウス7世]]も同じようにフランス革命軍やナポレオンの軍から屈辱的な扱いを受けた。フランス革命軍はドイツ、[[スペイン]]、イタリアに攻め入り、各地の教会に大打撃を与え、それぞれの社会を混乱に陥れたが、一方では[[ローマ教皇庁]]にとって予期せぬ好結果をもたらした面もなくはなかった<ref name="takayanagi_108">[[#高柳|高柳(2001)pp.108-112]]</ref>。革命以前にあって[[ガリカニスム]]の本拠であったフランスでは、誰しも革命の荒波を押しとどめることができなかったため、ガリカニスムそのものの脅威は教皇庁の前から消え去った<ref name="takayanagi_108"/>。ナポレオン軍はドイツに侵入して[[ケルン大司教|ケルン]]はじめ[[ラインラント]]の[[領邦]][[司教]]の領域を俗権下に置いて世俗化を敢行したが、その結果、[[ヨハン・ニコラウス・フォン・ホントハイム]]によって唱えられて18世紀のドイツのカトリック界で一世を風靡した{{仮リンク|フェブロニウス主義|en|Febronianism}}(教会を国家権威に従属させようとするガリカニスムに似た思想)の基盤はかえって弱まり、それが結果としてドイツの司教たちの教皇庁に対する依存度を強めた<ref name="takayanagi_108"/>。フランスでは、革命にともなう社会変動によって[[聖職者]]階級は絶対王政下で与えられていた社会的地位、特権、経済的優遇措置のすべてを失った。しかし一方では、彼らを政治に結びつけ、ガリカニスム的体制を支えてきたすべての要因は消失し、世俗主義的政権こそカトリック信仰の前に立ちはだかる唯一最大の敵であることが誰の目にも明らかに認識されるようになったのである<ref name="takayanagi_108"/>。
 
 
 
かくして、カトリック教徒のなかでは[[ウルトラモンタニズム]]と呼ばれるローマへの回帰がしだいに強まった<ref name="takayanagi_108"/>。ウルトラモンタニズムは、[[世俗主義]]や俗人主義、あるいは[[唯物論]]、さらには[[社会主義]]や[[共産主義]]など増大しつつある信仰への脅威に対して、カトリックの信徒が一致団結してあたらなければならないという気運から生まれた草の根的な広がりをもつ運動となった<ref name="takayanagi_108"/>。ローマ教皇だけが上記のような脅威に対抗しうる指導力をもっているとみなされ、したがって、カトリック諸教会の[[典礼]]様式、規律、習慣をローマ教会のそれに統一すること、ローマ教皇の首位権のもとで高度に中央集権化された教会体制を実現していくこと、教会は社会全体の救済に責任と権限をもち、世俗国家の干渉を受けないようにすることが必要であると考えられた<ref name="takayanagi_108"/>。この運動は当初、低位の聖職者や一般信徒のあいだから湧き上がってきたものであるが、やがて19世紀中葉以降はヨーロッパ社会を動かす大きな力のひとつとなっていった<ref name="takayanagi_108"/>。
 
 
 
ピウス7世は幽閉から解き放たれると、1789年以降壊滅状態にあった教会再興への強い意欲を示し、教皇庁の再建と教会の権威を復活させるため、精力的に行動した<ref name="takayanagi_108"/>。[[教皇国家]]を回復し、ナポレオン失脚後の[[ウィーン会議]]では、各国の代表にヨーロッパ安定のために保守的・王政的秩序の復活が肝要であることを訴え、[[1814年]]には解散させられていた[[イエズス会]]の復興を命じた<ref name="takayanagi_108"/>。国内の宗教問題に対して管轄権を主張していた各国の政府とは政教協約を締結して教会の権益を最低限守り、外交交渉を進めて、時代の趨勢と折り合いをつけながら教会の影響力を温存した<ref name="takayanagi_108"/>。ドイツでは、プロイセン主体のゆるやかな連邦となりつつある情勢のなか、単一の政教協約を結ぶのはかえってローマへの依存を低減させ、全カトリック教会が統一ドイツの支配下に置かれる布石になってしまうものと判断して、[[1817年]]には[[バイエルン]]、[[1824年]]には[[ハノーファー]]など、地域ごとの政府と政教協約を結ぶ方針をとった<ref name="takayanagi_108"/>。一方で、領内のカトリック教徒を服従させようとするプロテスタントのプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]とも[[1821年]]に政教協約を結んだ<ref name="takayanagi_108"/><ref name=nc593>[[#新カトリック大事典3|「政教条約」『新カトリック大事典3』(2002)pp.593-595]]</ref>。
 
 
 
=== ベルギー独立と1831年ベルギー憲法 ===
 
{{See also|ベルギー独立革命}}
 
[[ファイル:Wappers - Episodes from September Days 1830 on the Place de l’Hôtel de Ville in Brussels.JPG|350px|left|thumb|「1830年9月の光景」(1835年、[[フスタフ・ワッペルス]]画)]]
 
現在の[[ベルギー]]にあたる低地地方南部は、[[フランス第一共和政|第一共和政]]期の[[フランス革命戦争]]において、対オーストリア戦に勝利したフランスに占領され、[[カンポ・フォルミオ条約]]によって、フランスへの併合が決まった<ref name="kawahara_369">[[#河原|河原(1998)pp.369-379]]</ref>。[[フランス第一帝政|ナポレオン帝政]]の時代には、[[フランス帝国]]は低地地方北部の[[オランダ]]をも占領し、低地地方全体がフランスの支配下に入った<ref name="Sat305">[[#佐藤弘幸|佐藤弘幸(1998)pp.305-308]]</ref>。[[1815年]]の[[ウィーン会議]]では「正統主義」が掲げられ、低地地方南部は北部とともに[[オラニエ=ナッサウ家]]当主を国王とする[[ネーデルラント連合王国|オランダ王国]]の一部となった<ref name="kawahara_369"/>。
 
 
 
[[1830年]]、低地地方南部では[[ブリュッセル]]を中心にオランダからの独立をめざす[[ベルギー独立革命]]が起こった<ref name="kawahara_369"/>。[[宗教]]や[[言語]]の相違も革命の原因のひとつであったが、それ以上に、北部オランダの経済支配と[[自由貿易]]政策に対する南部の不満が大きな理由として考えられる<ref name="kawahara_369"/>。1830年[[9月26日]]、{{仮リンク|シャルル・ロジェ|fr|Charles Rogier}}ら急進派自由主義者を中心に臨時政府が樹立され、[[10月4日]]、ベルギー国家の独立が宣言されるとともに、団体形成・信教・[[教育]]・[[出版]]の自由が掲げられた<ref name="kawahara_369"/>。1830年[[11月10日]]、憲法制定国民議会が招集され、[[11月18日]]、代議制君主国家として独立することを宣言した<ref name="kawahara_369"/>。同月、英仏普墺露の[[五国同盟|ヨーロッパ五強国]]が[[ロンドン]]に集まり(ロンドン会談)、プロイセンとロシアは独立に難色を示したものの、イギリス・フランス・オーストリアはベルギー独立を強く支持して新国家が国際的に承認された<ref name="kawahara_369"/>。国王には[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]の[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド]](1世)が即位した。南部独立をなかなか認めなかったオランダは、[[1839年]]になってようやく[[ロンドン条約 (1839年)|ロンドン条約]]を批准したが、ベルギーとフランスの同盟を恐れ、新国家が[[永世中立国]]となることを条件にその独立を認めた<ref name="kawahara_369"/>。新生ベルギー国家ではカトリック教徒が多数派を占めたが、国王となったレオポルド1世はプロテスタントで[[フリーメイソン]]会員であった。
 
 
 
[[1831年]][[2月7日]]制定の{{仮リンク|ベルギー憲法|en|Constitution of Belgium}}(1831年憲法)は、アメリカ独立とフランス革命の諸原則の影響を受けた、きわめて[[自由主義]]的性格の強い憲法典であり、[[財産権]]の不可侵、信教・[[礼拝]]・意見表明の自由、および、教育・出版・[[結社]]・言語選択の社会的自由が保証された<ref name="kawahara_380">[[#河原|河原(1998)pp.380-381]]</ref>。この憲法では、教会と国家の分離も明示され、これは政教分離を規定した[[成文憲法]]としてはアメリカ合衆国憲法に次ぐ歴史を有している<ref name=ce608/><ref name="kawahara_380"/>。
 
 
 
=== 統一国家イタリア・ドイツの成立と政教関係 ===
 
{{main|イタリア統一運動|ローマ問題|ドイツ帝国|文化闘争}}
 
[[ファイル:With Victor Emmanuel.jpg|thumb|right|300px|「テアーノの会見」(1870年頃。{{仮リンク|セバスチャーノ・ディ・アルベルティ|it|Sebastiano De Albertis}}画)
 
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1860年10月、[[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]は南イタリアのテアーノで[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]の軍隊と出会い、帽子を振りながら彼に近づいて「イタリア最初の国王万歳」と叫んだ。2人はこのあとかたく手を握ったといわれるが、これを「{{仮リンク|テアーノの握手|it|Incontro tra Giuseppe Garibaldi e Vittorio Emanuele II}}」と呼んでいる。]]
 
[[ウィーン体制]]以降、とくに[[1830年代]]以降のイタリアでは、[[政治]]、[[文学]]、[[思想]]、[[科学]]などいたるところで「イタリア(人)」意識の高揚がみられ、宗教界でも[[1846年]]に[[ローマ教皇]]に即位した[[ピウス9世]]は教会国家の諸改革に着手、さらに北イタリアにおけるオーストリア支配の現状にも遺憾の意を表明して「ナショナルな教皇」という印象をあたえた<ref name="kitaha216">[[#北原4|北原(1999)pp.216-227]]</ref>。しかし、[[1848年革命]]とそれにつづく{{仮リンク|第1次イタリア独立戦争|it|Prima guerra di indipendenza italiana|en|First Italian War of Independence}}で、ピウス9世がカトリックの長としてオーストリアとの戦争には加われないことを声明すると、イタリア統一を願う人びとのあいだには失望が広がった<ref name="kitaha228">[[#北原4|北原(1999)pp.228-233]]</ref>。以降、[[イタリア統一運動]]を主導したのは、憲法と議会を唯一存続させていた[[サルディーニャ王国]]であった<ref name="kitaha240">[[#北原4|北原(1999)pp.240-244]]</ref>。首相[[カミッロ・カヴール]]が自由主義的諸政策によって近代化を進め、反教権主義と世俗化を推進し、フランスの[[ナポレオン3世]]の協力を得てオーストリアから[[ロンバルディア]]などを得ることに成功した<ref name="kitaha240"/><ref name="kitaha245">[[#北原4|北原(1999)pp.245-254]]</ref>。さらにイタリア南部地方も「[[青年イタリア]]」の[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]が[[ナポリ王国]]を征服して[[サルディーニャ王]][[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]に献上、これらをもとに[[1861年]]、民族国家、[[イタリア王国]]を発足させた<ref name="kitaha240"/><ref name="kitaha245"/>。イタリア王国は、[[1870年]]の[[普仏戦争]]に際しては[[教皇領]]をも併合し、ここに[[イタリア統一]]が完成した<ref name="kitaha259">[[#北原4|北原(1999)pp.259-261]]</ref>。
 
 
 
1869年から1870年にかけては、ローマのサン・ピエトロ大聖堂において[[第1バチカン公会議]]が開かれ、ここではローマ教皇の無謬性([[教皇不可謬説]])と、公会議よりも教皇その人が優越すること([[教皇首位説]])とが宣言された<ref name="fulbrook195"/>。ウルトラモンタニズムの方針がこうして打ち出されたものの、教皇領併合によって俗界権力を失ったピウス9世は自らを「{{仮リンク|バチカンの囚人|en|prisoner in the Vatican}}」と呼び、イタリア政府との対決姿勢を崩さなかった。[[1871年]]5月、イタリア政府は{{仮リンク|教皇保障法|en|Law of Guarantees}}を制定し、教皇の地位の保証と[[年金]]の支給、そして{{仮リンク|チッタ・レオニーナ|en|Leonine City}}(現在の[[バチカン市国]]の地域)における[[ローマ教皇庁]]の統治と独立を一方的に定め、これに対し、教皇ピウス9世は即座に拒絶の回勅を発したた<ref name="kitah420">[[#北原3|北原(2008)p.420]]</ref><ref name="moritetsu224">[[#森田鉄郎|森田鉄郎(1976)pp.224-227]]</ref>。[[1874年]]には「{{仮リンク|ノン・エクスペディト|en|Non Expedit}}」(「ふさわしくない」の意)を宣言し、イタリアの全カトリック教徒に対して、国政選挙への立候補と投票を禁じた<ref name="kitah420"/><ref name="moritetsu224"/>。
 
 
 
教皇権力と断絶し、[[世俗主義]]を打ち出したイタリア政府は教皇への配慮ぬきにイタリア全土に修道院・宗教団体廃止法を施行し、教会の土地を没収して売却し、そこから利益を得た<ref name="moritetsu224"/>。土地購入者は[[地主]]層に限られ、[[小作農]]に分配されることはなかった<ref>[[#ダガン|ダガン(2005)pp.191-192]]</ref>。聖俗両権力のこのような断絶は、[[1929年]]に教皇庁と[[ファシスト党|ファシスト政権]]との間に[[ラテラノ条約]]が締結されるまで50年以上続いた。
 
 
 
[[ファイル:Reichsgründung1871-AW.jpg|thumb|300px|left|『ドイツ帝国の誕生』(1877年。{{仮リンク|アントン・フォン・ヴェルナー|de|Anton von Werner}}画)
 
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[[フランス]]・[[ヴェルサイユ宮殿]]の{{仮リンク|鏡の間|fr|Galerie des Glaces}}で[[ドイツ皇帝]]として宣言される[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]。中央やや右寄りの白い軍服姿の男性が[[ドイツ帝国]]の宰相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]である。
 
]]
 
ドイツでは、統一の主導権をめぐって[[プロイセン王国]]と[[オーストリア帝国]]の対立が存在していたが、この対立はすでに[[ドイツ関税同盟]]を結成し、経済力で優位に立っていたプロイセン側が「[[小ドイツ主義]]」を掲げて勝利した<ref name="tanigaw143">[[#谷川5|谷川(1999)pp.143-160]]</ref>。プロイセンは首相[[オットー・フォン・ビスマルク]]の指導のもと、[[普墺戦争]]、[[普仏戦争]]の両戦争でオーストリアとフランスをあいついでやぶり、[[1871年]]、[[ドイツ帝国]]成立を宣言した<ref name="tanigaw143"/><ref name="haffner246">[[#ハフナー|ハフナー(2000)pp.246-269]]</ref>。帝国は大小22の国家と3自由都市からなる[[連邦制]]で、プロイセン王がドイツ皇帝を兼ねた<ref name="haffner246"/>。[[帝国議会 (ドイツ帝国)|ドイツ帝国議会]]は男子[[普通選挙]]で選出されたが[[内閣制度]]は採用されなかった。帝国宰相となったビスマルクは、「[[ビスマルク外交]]」と称される巧妙な外交でフランスを孤立させ、国内的には産業を保護、育成して[[工業化]]を推進した<ref name="tanigaw143"/>。
 
 
 
ビスマルクは政治的には真正の保守主義者であったが、それ以上に現実主義者であって、必要とあれば自由主義者や民主主義者とも妥協し、提携できる人物であったと評される<ref name="haffner246"/>。ドイツの政治思潮は1870年代後半には自由主義から保守主義へと転換していくが、それはビスマルクが[[1871年]]から[[1876年]]にかけておこなった「[[文化闘争]]」と称される反教権主義的・反カトリック的な諸政策と結びついて展開した<ref name="fulbrook195">[[#フルブルック|フルブルック(2005)p.195]]</ref>。ビスマルクは自由主義者たちと提携し、「文化闘争」をカトリック教会の反近代主義的迷妄を打ち破り、国民文化を守るための戦いであると主張し、プロイセン支配に抵抗する南ドイツのカトリック教徒や[[ポーランド人]]などの少数派をおさえて国民意識の育成を図ったのである<ref name="fulbrook195"/>。
 
 
 
上述したように、第一回バチカン公会議は1870年、ローマ教皇の無謬性を宣言し、自由主義的な政治体制・経済体制を批判した。ドイツ国内では、[[国民自由党 (ドイツ)|国民自由党]]はルター主義の立場から、急進的自由主義者たちは近代科学主義の立場からこれに反発した<ref name="hayashi105">[[#林健太郎|林(1971)pp.105-106]]</ref>。カトリック教徒のあいだでも意見の衝突が起こり、[[ミュンヘン大学]]の[[ヨハン・イグナツ・フォン・デリンガー]]は教皇不可謬説を批判して教皇から破門され、[[復古カトリック教会]]に合流した<ref name="hayashi105"/>。オランダ起源のこの教会は、この問題を機にスイスやオーストリアへも広がった。ビスマルクは、カトリックの教理については無関心だったが、教会内の内紛が聖職者の任免問題に発展するにおよんでこれに介入し、1871年の教壇条例、1872年の学校監督法によって学校教育におけるカトリック教会の監督権の排除を図った<ref name="hayashi105"/>。この時点ではビスマルクの反教権政策は政教分離の立場からする防衛戦の様相を呈していた<ref name="hayashi105"/>。
 
 
 
[[ファイル:PortretOttovonBismarck.jpg|160px|thumb|right|[[オットー・フォン・ビスマルク]](1815-1898)]]
 
1870年12月、ドイツで[[中央党 (ドイツ)|カトリック中央党]]が結成された<ref name="fulbrook195"/><ref name="hayashi105"/>。中央党は、オーストリアが除外されたためプロテスタントが支配的となったドイツ帝国にあって少数派となったカトリック信者の利害を代表する政党であったが、ビスマルクはこの党を統一ドイツに対する反政府勢力の震源地とみなして「帝国の敵」と呼んだ<ref name="fulbrook195"/><ref name="hayashi105"/>。実際、中央党は、統一主義に対する連邦主義、旧プロイセンに対する西南ドイツ、国民自由党の支持母体である大資本に対するところの中産階級や労働者など広汎で多様な勢力を引きつけ、ポーランド人、新領土となったエルザス([[アルザス]])・ロートリンゲン([[ロレーヌ]])の人びと、ヴェルフ派(ハノーファー王朝復辟派)などのマイノリティも中央党との提携を図った<ref name="hayashi105"/>。
 
 
 
ビスマルクは[[1873年]]に五月諸法を制定し、聖職者の養成や認定、カトリック系教育機関の管理を教会から帝国の監督下へ移し、帝国内の[[イエズス会]]の活動を禁止し、また、出生・死亡・[[結婚]]など[[戸籍]]事務を国家へ移譲、さらに不服従の[[牧師]]・聖職者の国外追放などを断行した<ref name="fulbrook195"/><ref name="hayashi105"/>。これ以降の「文化闘争」は強圧的・攻撃的な性格のものとなり、信教・良心の自由を侵害するものを含んでいたが、ドイツの自由主義者たちは、{{仮リンク|エドゥアルト・ラスカー|de|Eduard Lasker}}など少数の例外を除いてビスマルクの反カトリック政策を支持ないし追認した<ref name="fulbrook195"/><ref name="hayashi105"/>。反カトリック的諸法に抵抗した多くの聖職者は追放され、あるいは投獄された<ref name="fulbrook195"/><ref name="hayashi105"/>。しかし、このような弾圧はかえって中央党の議席を飛躍的に伸ばす結果となり、ルター派とプロイセン国家の結合を重んじる保守勢力のなかにも反対者を生んだ<ref name="fulbrook195"/><ref name="hayashi105"/><ref group="*">カトリック中央党は[[1945年]]に特定宗派から離れた[[ドイツキリスト教民主同盟]](CDU)にすがたを変え、西ドイツ創成期の数十年にわたって中心的役割をになった。</ref>。ビスマルクはカトリックの指導者{{仮リンク|ルートヴィヒ・ヴィントホルスト|de|Ludwig Windthorst}}と和解し、[[1879年]]、文化闘争は終結した<ref name="fulbrook195"/>。
 
 
 
イタリアとドイツでは、このようにウルトラモンタニズムとの激しい闘争をともなう緊張関係を通じて統一国家を形成し、そのなかで近代化と政教分離を図っていったのである。
 
 
 
=== フランス第三共和政とライシテ ===
 
{{See also|フランス第三共和政|ライシテ|政教分離法}}
 
ウィーン会議後のフランスの政体は、[[ブルボン家]]の[[フランス復古王政|復古王政]]([[1814年]]-1830年)、[[オルレアン家]]の[[七月王政]]([[1830年]]-1848年)、[[1848年革命]]後の[[フランス第二共和政|第二共和政]]([[1848年]]-1852年)、[[ナポレオン3世]]による[[フランス第二帝政|第二帝政]]([[1852年]]-1870年)と目まぐるしい転変を繰り返し、いずれの政権も比較的短命に終わった。[[1871年]]の[[パリ・コミューン]]とその後の政治的空白ののち、[[ジュール・フェリー]]をはじめとする[[フランス第三共和政]]初期の政治家たちは、しばしば共和主義への「信仰」を語り、教育の現場や国会・地方議会など、公的な場において宗教はこれに介入しないという大原則を打ち立てない限り、議会政治に基づく共和政の存続すら危ぶまれると考えた<ref name="kudoh_200">[[#工藤|工藤(2007)pp.200-202]]</ref>。第三共和政は、しばしばフランス革命原理の制度的な定着をもたらしたと評されるが、とりわけ共和主義的世界観をもった公民を育成する「習俗革命」は最も困難な課題とされた<ref name="tanigawaminoru179">[[#谷川5|谷川(1999)pp.179-185]]</ref>。実際には、革命後の市民的連帯感の育成に関しても、決して共和主義的思潮がこれを独占したのではなく、むしろ[[修道士]]や[[修道女]]のコングレガシオン(集会)が[[学校]]や[[病院]]、地域住民の[[福祉]]のために精力的に活動を展開したことによって、おおいに担われていた<ref name="kudoh_200"/>。しかし、フランスのカトリック教会は[[絶対王政]]の支柱であったばかりでなく、19世紀にあっても、カトリック主流派がつねに王党派に加担してきたことも事実であった<ref name="tanigawaminoru179"/>。そういうなかで、国家が「宗教からの自由」を確保するために、国民は宗教活動について一定の制限を受け、ある種の不自由さえ受け入れることさえ要請されたのである<ref name="kudoh_200"/>。これが、[[フランス第四共和政|第四共和政]]、[[フランス第五共和政|第五共和政]]の憲法にも謳われた「[[ライシテ]]」(''{{lang-fr-short|laïcité}}'')の原則である<ref name="kudoh_200"/>。
 
 
 
[[ファイル:Julesferry.jpg|thumb|140px|left|[[ジュール・フェリー]](1832-1893)]]
 
穏健共和主義者の[[ジュール・フェリー]]は、[[1881年]]から翌年にかけて[[初等教育]]の場にあって「無償・義務・世俗化」原則を導入するフェリー法を成立させた<ref name="tanigawaminoru179"/><ref name="minoru350">[[#谷川|谷川(2001)pp.350-353]]</ref>。フェリー法以前は、聖職者身分証さえあれば[[公立学校]]の教壇に立つことも許容されていたのに対し、この法律では正規の[[教員免許状]]をもたない聖職者は公立学校の教壇に立てないこととしたのである<ref name="minoru350"/>。[[1880年]]のカミーユ・セー法における女子中等教育の世俗化、[[1881年]]の[[高等師範学校 (フランス)|セーヴル女子高等師範学校]]の開設など、いずれもカトリックの青少年への影響力を削ぐ政策であり、共和政の安定のためにはフランスの地方農村になお根強くのこる[[司祭]]の道徳的影響力を掘り崩し、師範学校卒業の教師に取って代わらせることが必要と考えられた<ref name="tanigawaminoru179"/><ref name="minoru350"/>。公立学校における宗教教育は全面的に禁止され、教室の壁からキリスト像が撤去され、[[マリアンヌ]]像に替えられたところもあった<ref name="tanigawaminoru179"/>。教育内容も、[[フランス語]]を[[国語]]として普及させて「単一にして不可分な共和国」のための前提とし、聖史にかわって国史([[フランス史]])や[[地理]]を教授し、[[理科]]や[[算数]]の学習によって「迷信」を払拭して、祖国愛と科学的世界観を備えた公民の育成に努めた<ref name="tanigawaminoru179"/><ref name="minoru359">[[#谷川|谷川(2001)pp.359-361]]</ref>。また、1880年には「日曜労働の自由」を承認したが、これはキリスト教の[[安息日]]に反するものであり、[[1884年]]のナケ法も、[[1816年]]に復古王政下でカトリックの教義に反するとして廃止されていた[[離婚]]を再び合法化するものであった<ref name="minoru350"/>。1880年以降、フェリーは無認可[[修道会]]に解散命令を発し、全国で約2万人におよぶ修道士・修道女を追い立てて、多くの修道会系私立学校を閉鎖に追い込んだ<ref name="tanigawaminoru179"/>。これらの反教権的政策を素直に受け入れた地域もあったが、信仰心の厚い地域では強い軋轢をもたらし、抵抗のはげしい地域ではしばしば流血事件に発展して小規模な宗教戦争の様相を呈したところもあった<ref name="tanigawaminoru179"/>。フェリーら共和派の政策は、以上のような反教権主義と共和主義的自由、植民地拡張を3つの柱としていた<ref name="minoru350"/>。[[国歌]]や[[国旗]]、国史、記念日など[[フランス革命]]の伝統が重んじられ、[[帝国主義]]に関してはドイツとの対立とを避けながらも[[普仏戦争]]の敗戦で傷ついた「フランスの栄光」をヨーロッパの外で実現しようというものであった<ref name="minoru350"/><ref name="minoru353">[[#谷川|谷川(2001)pp.353-359]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Leo XIII..jpg|150px|right|thumb|ローマ教皇[[レオ13世]](1810-1903)]]
 
1880年代後半にはいると穏健共和派による[[議会主義]]的な体制は大衆運動の高揚によって動揺した<ref name="minoru353"/>。将軍[[ジョルジュ・ブーランジェ]]を中心とする反議会主義的な政治運動はドイツに対する報復の主張と熱狂的な愛国主義に支えられ、[[1889年]]の[[ブーランジェ将軍事件]]の原因となった<ref name="minoru353"/>。
 
 
 
[[1890年代]]にはいると、共和政と教会との対立抗争は小康状態となった<ref name="minoru362">[[#谷川|谷川(2001)pp.362-364]]</ref>。これには、ローマ教皇[[レオ13世]]が「[[レールム・ノヴァールム]]」と称される回勅を発して、カトリック教会が近代社会に[[適応]]し、同時に[[資本制]]がもたらす社会問題に正面から向き合うことを表明して、フランスの共和政に対しては「反対」ではなく「ラリマン(加担)」する政策を打ち出したこともおおいにあずかっていた<ref name="minoru362"/>。しかし、[[1894年]]、[[フランス陸軍]]参謀本部の将校[[アルフレド・ドレフュス]]大尉がドイツの[[スパイ]]容疑で告発される[[ドレフュス事件]]が起こり、かれがアルザス出身の[[ユダヤ人]]であったことから、[[ジャーナリズム]]を中心に反ユダヤ主義的[[世論]]が興るとともに、それに対して[[自然主義文学]]の作家[[エミール・ゾラ]]が[[フェリックス・フォール]]大統領への[[公開質問状]]「[[私は弾劾する]]」を[[新聞]]紙上で発表して[[再審]]要求がなされるなど国論を二分する[[冤罪事件]]に発展した<ref name="minoru362"/>。[[1899年]]、ドレフュスは再審の結果、有罪判決が下されたうえで大統領令によって[[特赦]]されるという政治決着がはかられ、ようやく世論は沈静化した<ref name="minoru362"/><ref group="*">結局、ドレフュスに無罪判決がくだされたのは[[1906年]]のことであった。</ref>。ドレフュス事件は、今後も自由と民主主義を擁護するか否か、あるいは共和政を今後も存続させるか否かをめぐって一大政治闘争の様相を呈し、フランス国内に徹底的な政界再編が必要であることを示した<ref name="minoru362"/>。
 
 
 
[[ファイル:Émile Combes (1835–1921).jpg|140px|left|thumb|エミール・コンブ(1835-1921)]]
 
[[1902年]]のフランス総選挙は、[[急進党]]、民主共和同盟、社会主義者らの「[[左翼ブロック]]」の圧勝に終わり、急進共和主義者の{{仮リンク|エミール・コンブ|fr|Émile Combes}}が首相に就任した<ref name="nagai_164">[[#長井|長井(2006)pp.164-165]]</ref>。[[1880年代]]の「宗教戦争」の旗手はフェリーであったが、[[1900年代]]の旗手はコンブであった<ref name="minoru364">[[#谷川|谷川(2001)pp.364-367]]</ref>。教皇庁の「ラリマン」政策に乗じて修道会は復活を遂げていたが、コンブは反教権主義の諸政策を推し進め、就任後まもなく多数の無認可学校と無認可修道会を閉鎖した<ref name="minoru364"/>。前任者である[[ピエール・ワルデック=ルソー]]は、無認可修道会の解散令を含む結社法をすでに前年に成立させていたものの寛容な運用をはかっていたのに対し、コンブは内務大臣と宗教大臣を兼ね、この法律の厳格な適用に踏み切ったのである<ref name="minoru364"/>。1902年に無認可修道系の学校で閉鎖されたのは約3,000、解散を命じられた無認可修道会は300におよび、[[1903年]]には、認可申請してきた修道会のうち135会派の申請を却下した<ref name="minoru364"/>。こららの措置によって1880年代同様、2万人におよぶ修道士・修道女が追われたのである<ref name="minoru364"/>。強制閉鎖にたいする抵抗には[[軍隊]]も出動させるなど、反教権政策は苛烈で徹底したものであった<ref name="minoru364"/>。[[1904年]]7月には修道会教育基本法を成立させ、認可修道会を含めたすべての修道会士を教団から排除している<ref name="nagai_164"/><ref name="minoru364"/>。これにより、私立であっても修道聖職者が教育にかかわることが全面的に禁止された<ref name="minoru364"/>。2,400近い教育施設が閉鎖され、いくつかは[[ベルギー]]や[[イタリア]]などに移転している<ref name="nagai_164"/><ref name="minoru364"/>。同年、フランスはバチカンとの外交関係を断絶している<ref name="minoru364"/>。コンブ自身は、かつて[[神学]]を専攻し、修道会系[[コレージュ]]で教授した経験をもっており、信者からは悪魔と罵られ、教皇庁からも断罪されたが、フェリー法に始まった教育の世俗化は法的にはここで完結した<ref name="minoru364"/>。ただし、修道会系の学校は、私立世俗校の体裁で認可を受け、実際には聖職者が運営するというスタイルで、そののちも存続した<ref name="minoru364"/>。
 
 
 
[[ファイル:1904 - Séparation Eglise Etat.jpg|right|350px|thumb|[[ノートルダム大聖堂]]前での示威行動(1904年)]]
 
[[政教分離法]]は1904年11月に上程されたが、[[1905年]]1月にコンブ内閣が総辞職し、後任の{{仮リンク|モーリス・ルーヴィエ|fr|Maurice Rouvier}}内閣によって1905年12月に成立した<ref name="nagai_164"/><ref name="minoru364"/>。この政教分離法によって、フランス国家および地方公共団体の宗教予算は一切廃止となり、信仰は完全に私的領域に限定されることとなった<ref name="minoru364"/>。聖職者の政治活動は禁止され、宗教的祭儀における公的性格も剥奪されることとなった<ref name="minoru364"/>。教会財産の管理と組織運営は信徒会に委ねられた<ref name="minoru364"/>。これによって、19世紀の政教関係を100年余にわたって規定してきたナポレオン1世とローマ教皇の間で結ばれた1801年のコンコルダ(政教協約)、すなわち、カトリックを「フランス国民の多数の宗教」と認め、フランス革命中にカトリック協会が受けた損害を聖職者に俸給を支払うことによって補償するとした協定は破棄され、16世紀以来のガリカニスム体制も最終的には解体された<ref name="minoru364"/><ref name="price282">[[#プライス|プライス(2008)pp.282-286]]</ref>。これは、伝統的に国家と強く結びついてきたフランスのカトリック教徒にとっては容易に承認できることではなかったので、翌年の財産目録作成の際には[[バリケード]]をつくるなど激しい抗議行動を展開した<ref name="nagai_164"/><ref name="minoru364"/><ref name="price282"/>。ローマ教皇[[ピウス10世]]も、政教分離法を掠奪法であると称して猛然と非難し、信徒会の結成も否認した<ref name="minoru364"/>。
 
 
 
教区教会による抗議行動は全国化し、前回を上回る激しさで攻囲戦が展開されたので、政府は軍を派遣せざるをえなくなったが、これには軍の一部からも反発も出て、それ以上の強硬策がとれなくなった<ref name="minoru364"/>。[[1907年]]には信徒会の設置義務を緩和し、コンブが執念をもやした修道会教育禁止法も厳格な適用が見送られるようになった<ref name="minoru364"/>。こうして政教分離法は骨抜きにされた部分もあったが、しかし、その制度的枠組みがもつ意味は決して軽いものではなかった<ref name="minoru364"/>。この法律により、フランス革命期に始まって1世紀以上におよんだ、共和派とカトリックとの文化統合をめぐる闘争に一応の決着がつき、1905年以降、[[ライシテ]](非宗教性)の国家原理はナチ占領期の一時期([[ヴィシー政権]])を除いて、現在まで一貫してフランス共和国の法的枠組みをかたちづくっているからである<ref name="minoru364"/>。
 
 
 
=== アジア諸国の欧化と政教分離の広がり ===
 
[[近代]]は、欧米において[[身分制]]社会を[[自由主義]]社会、すなわち能力や富の量によって階層化された社会につくりかえるために、[[ナショナリズム]]に基づく[[国民国家]]の形成が推し進められた時代であった<ref name="mitani_11">[[#三谷山口|三谷(2000)pp.11-16]]</ref>。とりわけ[[19世紀]]は、その前後の世紀と比較すると、地球上に一つの世界ができたこと、言い換えれば「世界の一体化」が進み、ヨーロッパ文明からみて「[[極東]]」に位置する中国や日本までが強制的に単一の[[世界市場]]に組み込まれた点に際立った特徴をもっている<ref name="mitani_9">[[#三谷山口|三谷(2000)pp.9-11]]</ref>。[[交通革命]]・輸送革命によって地球そのものも「小さく」なったが、「[[世界の一体化]]」は必ずしも「世界の均質化」をもたらしたのではなく、そこでは欧米への従属をともなう新たな多様性が形成された<ref name="mitani_11"/>。非西洋世界はしばしば世界市場、[[キリスト教]]、[[西洋文明]]に対し抵抗を試みたが、そこでは支配する者とされる者、優勢な者と劣勢な者という関係が新たに生じた<ref name="mitani_11"/>。非西洋の諸社会の多くは西洋支配を余儀なくされ、西洋支配を免れた場合でも西洋側が策定したルールに従うことが求められた<ref name="mitani_11"/>。ただし、19世紀における西洋世界の構成原理そのものは多様性を要求していた<ref name="mitani_11"/>。西洋世界は文化的にはキリスト教と[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ|ローマ文明]]の系譜を引く点で共通した要素を引き継いでいると同時に、他方では国民国家という多元的競争のシステムを内包しており、そこでは国家をひとつの単位とする個性の追求が求められたのであった<ref name="mitani_11"/>。文化的・芸術的には[[ロマン主義]]、政治思想的にはナショナリズムというかたちで現れた国家単位の個性の追求は、西洋の圧力から身を守ろうとする非西洋国家にあっても利用可能なものだったため、西洋支配を免れるために西洋化・近代化を進めようとする動きがあらわれた<ref name="mitani_11"/>。
 
 
 
==== アジア諸国の欧化のはじまり ====
 
{{See also|タンジマート|洋務運動|チャクリー改革|明治維新}}
 
[[ファイル:Kanun-i Esasi.jpg|thumb|right|200px|1876年の[[オスマン帝国憲法]](通称「ミドハト憲法」)]]
 
 
 
[[オスマン帝国]]にあっては、強まる西洋諸国の圧迫のなか、[[1839年]]に開明派官僚の[[ムスタファ・レシト・パシャ]]によって「[[ギュルハネ勅令]]」が発せられ、これを端緒として「[[タンジマート]]」と呼ばれる近代化に向けた諸改革が進められた<ref name="yamauchi163">[[#山内|山内(1996)pp.163-165]]</ref><ref name="nagata289">[[#永田|永田(2002)pp.289-294]]</ref>。この勅令は、必ずしも近代的な立憲思想にもとづくものとはいえないが、[[ムスリム]]・非ムスリム([[ズィンミー]])にかかわらず、全ての帝国臣民には[[法の下の平等]]があたえられること、また、帝国は全臣民の[[生命]]・[[名誉]]・[[財産]]を保障することなどを繰り返し述べているところに[[1789年]]の[[フランス人権宣言]]の影響が認められ、従来の[[イスラーム]]的な[[神権政治]]からの脱却が図られた<ref name="yamauchi163"/><ref name="nagata289"/>。[[裁判]]を公開することや[[スルタン]]自身も「法」に違反しないことを宣言するなど、スルタンの権力のうえに「法の力」が存在することを認めている点などでも画期的な意味をもっており、ここに始まったタンジマートは非西洋における最初の近代化の試みである<ref name="yamauchi163"/><ref name="nagata289"/>。[[1876年]]には、オスマン帝国が西欧型の[[法治国家]]であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた「[[オスマン帝国憲法]]」(通称「ミドハト憲法」)が制定された。
 
 
 
タンジマート諸改革は、[[1860年代]]前半に始まった[[清国]]の[[洋務運動]]、1860年代後半以降の[[タイ王国]]の[[チャクリー改革]]や[[日本]]の[[明治維新]]などアジアの「欧化」の先駆けとなった<ref name="yamauchi163"/><ref name="nagata289"/>。明治維新後の近代日本は、開国和親の方針のもと、西洋のルールを受け入れ、そのうえで「[[殖産興業]]」・「[[富国強兵]]」を掲げ、工業化と新たな「国民文化」の創造に継続的な努力を注ぎ、近代的な諸法典の整備と[[条約改正]]に尽力して強国化の道を歩み、最終的には欧米主要国と対等な地位を築いた点で稀有な事例といえる<ref name="mitani_11"/>。
 
 
 
==== 政教分離原則の広がり ====
 
{{See also|政教分離原則|ライクリッキ}}
 
[[明治時代]]の日本にあっては、[[1872年]]の欧州視察団(団長は[[梅上沢融]])に加わり、海外教状視察の任にあった[[浄土真宗]]の僧侶[[島地黙雷]]は、渡欧中の[[パリ]]において先に政府が提示していた国民教化原則に対して批判建白書を出し、帰国後は政教分離・信教の自由の主張のもと、政府が進めようとしていた神道国教化政策に抵抗して[[大教院]]分離運動を推進した<ref name="yamaguchi25">[[#山口|山口(2013)pp.25-71]]</ref>。一方、[[1868年]]の[[五榜の掲示]]によって[[江戸幕府]]のキリシタン禁圧政策を踏襲していた新政府は、[[1871年]]に派遣された[[岩倉使節団]]による視察を兼ねた条約改正予備交渉において、欧米諸国の立場がキリスト教解禁を[[条約改正]]の条件とするものであることを知り、国内にあっては啓蒙家[[中村正直]]の1872年の建白などもあって、帰国後の[[1873年]]、従来の禁止令を廃止した<ref name="yamaguchi25"/>。大教院は[[1875年]]に[[教部省]]によって解散されたが、黙雷は新政府が維新直後に掲げた[[神仏分離令]]を逆手にとって、神仏分離を推し進めるためには教部省そのものの廃止が必要であると訴え、[[1877年]]、教部省が廃止された<ref name="yamaguchi25"/>。[[1889年]]に発布された[[欽定憲法]]、[[大日本帝国憲法]]においても「[[信教の自由]]」が明記された<ref name="wts"/>。
 
 
 
[[20世紀]]に入り、上述のフランスの[[政教分離法]](1905年)とそのなかの[[ライシテ]]原則は、国際社会に対しても広汎な影響をあたえた。[[1910年10月5日革命]]によって王政が倒れた[[ポルトガル]]では、[[テオフィロ・ブラガ]]による[[ポルトガル第一共和政]]が成立したが、ここでは[[イエズス会]]などすべての[[修道会]]が廃止され、国内の教会財産は没収された<ref name="kin97">[[#金七|金七(2011)p.97]]</ref>。翌[[1911年]]、政教分離法を施行してローマ教皇庁と断交し、[[ブラジル]]とフランスの憲法を範とする1911年憲法を採択した<ref name="kin97"/>。
 
 
 
[[1917年]]の[[ロシア革命]]によって[[社会主義]]政権が成立し、[[ロシア内戦]]に勝利した[[ソビエト社会主義共和国連邦]]でも政教分離原則が採用された<ref name=ce608/>。ただし、ここにおける政教分離は、宗教に対する敵対ないし非友好の関係に立つ分離であり、政治に対する宗教の発言や学童・生徒に対する宗教教育も禁じられた<ref name=ce608/>。このような姿勢は[[中華人民共和国]]など、のちに成立する他の[[共産党]]政権でも維持・継承された<ref name=ce608/>。
 
 
 
ドイツでは、[[1918年]]に[[ドイツ帝国]]が崩壊して[[ヴァイマル共和政]]が成立し、[[1919年]]制定の[[ヴァイマル憲法]]137条では「国の教会(Stasstskirche)は存在しない」と規定され、宗教団体設立の自由と個人の宗教の自由も保障された<ref name="bunkacho"/>。しかし、教会は引き続き「公法上の社団」とされ、[[教会税]]徴収権を有し(137条)、公立学校で宗教は正規科目とされた(149条)<ref name="bunkacho"/>。この規程は1949年の[[ドイツ基本法]]140条でも採用され、ドイツでは現在でも信教の自由が保障される一方、宗教団体には社団の地位が与えられ、徴税権も認められている<ref name="hatsu"/>。このように、ひと口に政教分離といっても、そのあり方は国によりさまざまである。
 
 
 
ライシテの原則は、[[1922年]]の[[トルコ革命]]にも影響をあたえた。その過程で生まれたのが「[[ライクリッキ]](''laiklik'')」と呼ばれる[[トルコ共和国]]([[1923年]][[10月29日]]建国)独自の[[政教分離原則]]である<ref name=ko2008>[[#小泉2008|小泉(2008)]]</ref>。建国の父、[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]はこの原則をフランスのライシテ原則を参考にして形成し、[[1937年]]にはこの原則を含む一連の「ケマル主義」を確立させた<ref name=ko2008/>。ライクリッキ原則は、現行の第三共和政憲法である[[1982年]]憲法においても継承されており、そこでは、宗教的自由(第24条第1項)、国家の非宗教性(第24条第4項および第5項)が定められている<ref name=ko2011>[[#小泉2011|小泉(2011)]]</ref>。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]後、日本では政教分離について厳格な規定をもつ[[日本国憲法]]が施行された<ref name="wts"/>。この憲法は、アメリカ合衆国憲法の影響を受け、それに類似しつつもいっそう厳格に国家と宗教の関係を規律している<ref name="wts"/>。欧米諸国から独立した[[アジア]]・[[アフリカ]]諸国でもまた、政教分離規定や制度に関しては旧宗主国のそれを引き継いだ国が多い。とくに[[マリ共和国]]や[[セネガル]]などのフランス語圏では、住民の多くはムスリムであるが、その憲法では明確に政教分離原則が規定されている<ref name=ko2008/>。一方で、キリスト教やイスラームのなかでは[[原理主義]]的な動きもまた顕著となっており、[[1979年]]には[[ルーホッラー・ホメイニー]]師を宗教指導者とする[[イラン革命]]がおこった。世俗と宗教の戦いは今もつづいているのである。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="*"|3}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|3}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
=== 一般書籍 ===
 
* {{Cite book|和書|author=ピーター・H. ウィルスン|translator=山本文彦|year=2005|month=2|title=神聖ローマ帝国 1495‐1806|series=ヨーロッパ史入門|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000270977|ref=ウィルスン}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[コーシュ・カーロイ]]|translator=[[田代文雄]](監訳)、[[奥山裕之]]・[[山本明代]]|year=1991|month=9|title=トランシルヴァニア その歴史と文化|publisher=[[恒文社]]|isbn=4-7704-0743-2|ref=コーシュ}}
 
*{{Cite book|和書|author=R. W. スクリブナー、C. スコット・ディクソン|translator=森田安一|year=2009|month=2|title=ドイツ宗教改革|series=ヨーロッパ史入門|publisher=岩波書店|isbn=978-4ー00-027203-2|ref=スクリブナー}}
 
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* {{Cite book|和書|editor=[[南塚信吾]](編)|year=1999|month=3|title=ドナウ・ヨーロッパ史|publisher=山川出版社|series=新版 世界各国史19|isbn=4-634-41490-7}}
 
** {{Cite book|和書|author=[[戸谷浩]]|editor=南塚(編)|chapter=第3章 ハプスブルクとオスマン|year=1999|title=ドナウ・ヨーロッパ史|isbn=4-634-41490-7|ref=戸谷}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[森田鉄郎]]|translator= |editor=|year=1976|title=イタリア民族革命—リソルジメントの世紀|publisher=[[近藤出版社]]|asin=B000J9FBTC|ref=森田鉄郎}}
 
* {{Cite book|和書|editor=森田安一(編)|year=1998|month=4|title=スイス・ベネルクス史|publisher=山川出版社|series=新版 世界各国史14|isbn=4-634-41440-6}}
 
** {{Cite book|和書|author=森田安一|editor=森田(編)|chapter=I スイス|year=1998|title=スイス・ベネルクス史|isbn=4-634-41440-6|ref=森田}}
 
** {{Cite book|和書|author=[[斎藤絅子]]|editor=森田(編)|chapter=II ベネルクス 第一部 歴史としてのベネルクス|year=1998|title=スイス・ベネルクス史|isbn=4-634-41440-6|ref=斎藤絅子}}
 
** {{Cite book|和書|author=[[佐藤弘幸]]|editor=森田(編)|chapter=II ベネルクス 第二部 オランダ|year=1998|title=スイス・ベネルクス史|isbn=4-634-41440-6|ref=佐藤弘幸}}
 
** {{Cite book|和書|author=[[河原温]]|editor=森田(編)|chapter=II ベネルクス 第三部 ベルギー・ルクセンブルク|year=1998|title=スイス・ベネルクス史|isbn=4-634-41440-6|ref=河原}}
 
* {{Cite book|和書|author1=[[三谷博]]|author2=[[山口輝臣]]|title=19世紀 日本の歴史—明治維新を考える—|year=2000|month=3|publisher=放送大学教育振興会|series=|isbn=4-595-87254-2|ref=三谷山口}}
 
* {{Cite book|和書|editor=森田安一(編)|year=1999|month=1|title=スイスの歴史と文化|publisher=刀水書房|isbn=4887082355}}
 
** {{Cite book|和書|author=[[斎藤泰]]|editor=森田(編)|chapter=帝国国制における原スイス永久同盟|year=1999|month=|title=スイスの歴史と文化|isbn=4887082355|ref=斎藤泰}}
 
* {{Cite|和書|author=[[山内昌之]]|editor=|title=世界の歴史20 近代イスラームの挑戦|publisher=[[中央公論社]]|series=|year=1996|month=12|isbn=4-12-403420-2|ref=山内}}
 
* {{Cite book|和書|author=山口輝臣|title=島地黙雷:「政教分離をもたらした僧侶」|year=2013|month=1|publisher=山川出版社|series=日本史リブレット|isbn=978-4-634-54888-6|ref=山口輝臣}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[渡辺克義]]|title=物語 ポーランドの歴史 - 東欧の「大国」の苦難と再生|year=2017|month=7|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=978-4-12-102445-9|ref=渡辺克義}}
 
 
 
=== 事典・百科事典 ===
 
* {{Cite book|和書|author=|chapter=コンコルダート|editor=[[日本基督教協議会]]文書事業部・キリスト教大事典編纂委員会(編)|title=キリスト教大事典|year=1963|month=6|publisher=[[教文館]]|isbn=4-7642-4002-5|ref=キ事典コン}}
 
* {{Cite book|和書|author=|chapter=政教分離|editor=日本基督教協議会文書事業部・キリスト教大事典編纂委員会(編)|title=キリスト教大事典|year=1963|month=6|publisher=教文館|isbn=4-7642-4002-5|ref=キ事典政教分離}}
 
* {{Cite book|和書|author=|chapter=政教協約|editor=上智学院新カトリック大事典編纂委員会(編)|title=新カトリック大事典III シヤーハキ|year=2002|month=8|publisher=[[研究社]]|isbn=978-4767490137|ref=新カトリック大事典3}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[ジークフリート・シュタインベルク]]|translator=成瀬治|editor=フランク・B・ギブニー(編)|chapter=三十年戦争|year=1973|month=7|title=[[ブリタニカ国際大百科事典]]8 ゴヤ—シバ|publisher=[[ティビーエス・ブリタニカ]]|ref=シュタインベルク}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[飯坂良明]]|translator=|editor=フランク・B・ギブニー(編)|chapter=信教の自由|year=1973|month=11|title=ブリタニカ国際大百科事典10 ショク—セイウ|publisher=ティビーエス・ブリタニカ|ref=飯坂良明}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[ジェフリー・バラクロウ]]|translator=石川澄雄|editor=フランク・B・ギブニー(編)|chapter=神聖ローマ帝国|year=1973|month=11|title=ブリタニカ国際大百科事典10 ショク—セイウ|publisher=ティビーエス・ブリタニカ|ref=バラクロウ}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[斎藤真]]|chapter=アメリカ合衆国[政治]|editor=平凡社(編)|year=1988|month=3|title=[[世界大百科事典]]1 ア—アンニ|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=斎藤真}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[古屋安雄]]|chapter=アメリカ合衆国[宗教]|editor=平凡社(編)|year=1988|month=3|title=世界大百科事典1 ア—アンニ|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=古屋}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[香内三郎]]|chapter=カラス事件|editor=平凡社(編)|year=1988|month=3|title=世界大百科事典6 カヘナ—キス|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=香内}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[中村賢二郎]]|chapter=三十年戦争|editor=平凡社(編)|year=1988|month=3|title=世界大百科事典11 サ—サン|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=中村賢二郎1}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[渡辺信夫]]・[[笹川紀勝]]|chapter=信教の自由|editor=平凡社(編)|year=1988|month=3|title=世界大百科事典14 ショオ—スキ|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=渡辺笹川}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[日比野勤]]|chapter=政教分離|editor=平凡社(編)|year=1988|month=3|title=世界大百科事典15 スク—セミ|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=日比野}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[明石紀雄]]|chapter=バージニア信教自由法|editor=平凡社(編)|year=1988|month=4|title=世界大百科事典22 ヌ—ハホ|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=明石紀雄}}
 
* {{Cite book|和書|author=中村賢二郎|chapter=アウクスブルクの和議|editor=小学館(編)|year=1984|month=11|title=[[日本大百科全書]]1 あ—あん|publisher=[[小学館]]|isbn=4-09-526001-7|ref=中村賢二郎2}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[今野國雄]]|chapter=共同生活兄弟会|editor=小学館(編)|year=1985|month=11|title=日本大百科全書6 かれ—きよう|publisher=小学館|isbn=4-09-526-006-8|ref=今野}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[山野一美]]|chapter=政教分離|editor=小学館(編)|year=1987|month=1|title=日本大百科全書13 すけ—せん|publisher=小学館|isbn=4-09-526-013-0|ref=山野}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[田中浩]]|chapter=フィルマー|editor=小学館(編)|year=1988|month=11|title=日本大百科全書20 ふ—へか|publisher=小学館|isbn=4-09-526020-3|ref=今野}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[松村赳]]|chapter=フィルマー|editor=[[貝塚茂樹]]・堀米庸三(監修)、[[相賀徹夫]](編)|title=[[万有百科大事典]] 9 世界歴史|edition=初版|year=1975|publisher=小学館|ref=松村1}}
 
 
 
=== 雑誌論文 ===
 
* {{Cite journal|和書|author=[[明石欽司]]|title=国際法学説における『ウェストファリア神話』の形成(一)〜(三)|year=2007|publisher=[[慶應義塾大学]]法学研究会|journal=法学研究|volume=第80巻6-8号|naid=120005775028|ref=明石欽司}}
 
* {{Cite journal|和書|author=[[伊藤義明]]|title=激動のトランシルヴァニア:トランシルヴァニア侯国とトリアノン条約の時代|date=2006-03-23 |publisher=[[作新学院大学]] |journal=作新学院大学紀要 |volume=16号 |naid=110006000080|ref=伊藤義明}}
 
* {{Cite journal|和書|author=[[倉塚平]]|title=ミカエル・セルヴェトゥスの思想形成|year=1966|month=8|journal=政經論叢|volume=35巻1号|publisher=|naid=120001439109|ref=倉塚}}
 
* {{Cite journal|和書|author=[[後藤正英]]|title=近代ユダヤ教と宗教的寛容 ―啓蒙主義的排外主義という逆説をめぐって|year=2007|month=3|journal=一神教学際研究|volume=3号|publisher=[[同志社大学]]一神教学際研究センター|naid=110006602460|ref=後藤}}
 
* {{Cite journal|和書|author=[[小泉洋一]]|title=トルコの政教分離に関する憲法学的考察――国家の非宗教性と宗教的中立性の観点から―|date=2008-03-10|publisher=[[甲南大学]]|journal=甲南法学|volume=48(4)|naid=110007119662|ref=小泉2008}}
 
* {{Cite journal|和書|author=小泉洋一|title=トルコにおけるライクリッキの原則と憲法裁判所:2008年の二判決におけるライクリッキ|date=2011-03-30|publisher=甲南大学|journal=甲南法学|volume=51(3)|naid=120005577035|ref=小泉2011}}
 
* {{Cite journal|和書|author=[[小林善彦]]|title=カラス事件:十八世紀フランスにおける異端と寛容の問題|editor=|year=1964|month=|publisher=[[学習院大学]]文学部|journal=研究年報|volume=10号|naid=110007563267|ref=小林善彦}}
 
* {{Cite journal|和書|author=[[初宿正典]]|title=現代ドイツにおける宗教と法|editor=日本法哲学会(編)|year=2002|month=|journal=法哲学年報|publisher=[[有斐閣]]|naid=40005997998|ref=初宿}}
 
* {{Cite journal|和書|author=[[福島清紀]]|title=『寛容』概念に関する試論|editor=[[富山国際大学]]|year=2009|month=3|journal=富山国際大学国際教養学部紀要|volume=5号|publisher=[[富山国際大学]]|naid=|ref=福島}}
 
* {{Cite journal|和書|author=[[柳澤伸一]]|title=スイス誓約同盟とシュヴァーベン同盟|date=2006-02-28 |publisher=[[西南女学院大学]] |journal=西南女学院大学紀要 |volume=10号 |naid=110004866386 |ref=柳澤}}
 
* {{Cite journal|和書|author=[[柳原邦光]]|title=アメリカとフランスの市民宗教論の比較|year=2009|month=3|publisher=[[鳥取大学]]地域学部地域文化学科|journal=地域学論集|volume=第5巻3号|naid=120001442311|ref=柳原}}
 
 
 
== 文献案内 ==
 
{{Collapse top|bg=#ccc|1=文献案内}}
 
{{Collapse top|bg=#fff|1=各国史全般}}
 
<div class="references-small">
 
* [[松谷健二]] 著『東ゴート興亡史』白水社、1994年[2003年中公文庫]
 
* {{cite book |和書 |author=玉置さよ子 |authorlink=玉置さよ子 |year=1996 |publisher=[[創研出版]] |title=西ゴート王国の君主と法 |isbn=978-4915810084 |ref=harv}}
 
* アズディンヌ・ベシャウシュ 著、藤崎京子 訳『カルタゴの興亡』知の再発見双書、1994年。
 
* 松谷健二 著『ヴァンダル興亡史』白水社、1995年[2007年中公文庫]。
 
* {{Cite book|和書|author=青山吉信 |title=先史〜中世 |date=1991 |publisher=山川出版社 |isbn=4634460106 |series=世界歴史大系, イギリス史 |volume=1 |ref=harv}}
 
* [[今井登志喜]] 著『イギリス社会史』上下、[[東京大学出版会]]、1953年。
 
* {{cite book |和書 |author=ベーダ・ヴェネラビリス |authorlink=ベーダ・ヴェネラビリス |translator=[[長友栄三郎]] |year=1965 |publisher=[[創文社]] |title=イギリス教会史 |isbn=978-4423460078 |ref=harv}}
 
* {{cite book |和書 |author=J・R・H・ムアマン |translator=[[八代崇]]ほか |year=1991 |publisher=[[聖公会出版]] |title=イギリス教会史 |isbn=978-4882740636 |ref=harv}}
 
* [[村岡健次 (歴史学者)|村岡健次]] ほか編著『イギリス近代史 宗教改革から現代まで』[[ミネルヴァ書房]]、1986年。
 
* [[樺山紘一]] ほか編『世界歴史大系 フランス史』1〜3、山川出版社、1995年。
 
* {{Cite book|和書|author=森田安一 |title=スイスの歴史と文化 |date=1999 |publisher=刀水書房 |isbn=4887082355 |ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author=森田安一 |title=スイス・ベネルクス史 |date=1998 |edition=新 |publisher=山川出版社 |isbn=4634414406 |series=世界各国史, 14 |ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author=川口博 |authorlink=川口博 |title=身分制国家とネーデルランドの反乱 |date=1995 |publisher=彩流社 |isbn=4882023709 |ref=harv}}
 
* [[南塚信吾]] 著『新版世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年。
 
* {{Cite book |和書 |editor=北原敦 |editorlink=北原敦 |year=2008 |title=新版世界各国史15 イタリア史 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4634414501 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=クリストファー・ダガン |authorlink=クリストファー・ダガン |year=2005 |title=ケンブリッジ版世界各国史 イタリアの歴史 |publisher=[[創土社]] |isbn=978-4789300315 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=高山博 |authorlink=高山博 |year=1993 |title=中世地中海世界とシチリア王国 |publisher=[[東京大学出版会]] |isbn=978-4130261067 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |author=Henry Bernard Cotterill |year=1915 |title=Medieval Italy during a Thousand Years: A Brief Historical Narrative with Chapters on Great Episodes and Personalities and on Subjects Connected with Religion, Art and Literature |publisher=[[:en:George G. Harrap and Co.|George G. Harrap]] |ref=harv}}
 
* {{Cite book |author=Edward Hutton |authorlink=:en:Edward Hutton (writer) |year=1913 |title=Ravenna a Study |publisher=[[:en:E. P. Dutton|E. P. Dutton]] |isbn=978-0554137117 |ref=harv}}
 
* {{cite book |和書 |author=フィリップ・コンラ |authorlink=フィリップ・コンラ |translator=[[有田忠郎]] |year=2000 |publisher=[[白水社]]〈[[文庫クセジュ]]〉 |title=レコンキスタの歴史 |isbn=978-4560058237 |ref=harv}}
 
* {{cite book |和書 |author=芝修身 |authorlink=芝修身 |year=2007 |publisher=[[書肆心水]] |title=真説レコンキスタ |isbn=978-4902854299 |ref=harv}}
 
* {{cite book |和書 |editor=[[関哲行]]ほか |year=2008 |publisher=[[山川出版社]] |title=世界歴史大系 スペイン史 |volume=1~2 |isbn=978-4634462045 |ref=harv}}
 
** {{Cite book |和書 |author=関哲行 |author2=立石博高 |author3=中塚次郎 |title=古代--近世 |date=2008 |publisher=山川出版社 |isbn=9784634462045 |series=世界歴史大系 スペイン史 |ref=harv}}
 
* {{cite book |和書 |author=レイチェル・バード |translator=狩野美智子 |year=1995 |publisher=彩流社 |title=ナバラ王国の歴史 |isbn=978-4882023678 |ref=harv}}
 
* [[デビッド・バーミンガム]] 著、[[高田有現]]・[[西川あゆみ]]訳『ケンブリッジ版世界各国史 ポルトガルの歴史』創土社、2002年。
 
* {{cite book |和書 |author=D・W・ローマックス |translator=[[林則夫]] |year=1996 |publisher=[[刀水書房]] |title=レコンキスタ |isbn=978-4887081802 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |author=Roger Collins |authorlink=:en:Roger Collins |year=2004 |title=Visigothic Spain 409-711 |publisher=[[:en:Wiley-Blackwell|Blackwell Publishing]] |isbn=0-631-18185-7 |ref=harv}}
 
* {{cite book |editor=Knut Helle |editorlink=:en:Knut Helle |year=2003 |publisher=[[:en:Cambridge University Press|Cambridge University Press]] |title=The Cambridge History Of Scandinavia |volume=1 |isbn=978-0521472999 |ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author=井上浩一 |authorlink=井上浩一 (歴史学者) |title=生き残った帝国ビザンティン |date=2008 |publisher=講談社 |isbn=9784061598669 |series=講談社学術文庫, [1866] |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=尚樹啓太郎 |authorlink=尚樹啓太郎 |year=1999 |title=ビザンツ帝国史 |publisher=[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] |isbn=978-4486014317 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=渡辺金一 |authorlink=渡辺金一 |title=中世ローマ帝国 |year=1980 |publisher=[[岩波書店]]〈[[岩波新書]]〉 |isbn=978-4004201243 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=ジュティス・ヘリン |authorlink=ジュティス・ヘリン |title=ビザンツ 驚くべき中世帝国 |year=2010 |translator=[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]] |publisher=[[白水社]] |isbn=978-4560080986 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |editor=Jonathan Shepard |editorlink=:en:Jonathan Shepard |year=2009 |title=The Cambridge History of the Byzantine Empire |publisher=[[:en:Cambridge University Press|Cambridge University Press]] |isbn=978-0521832311 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |author=Warren T. Treadgold |url=http://www.slu.edu/x19414.xml |year=1997 |title=A History of the Byzantine State and Society |publisher=[[:en:Stanford University Press|Stanford University Press]] |isbn=978-0804724210 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=南雲泰輔 |authorlink=南雲泰輔 |year=2016 |title=ローマ帝国の東西分裂 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4-00-002602-4 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=ブライアン・ウォード・パーキンス |authorlink=ブライアン・ウォード・パーキンス |title=ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ |year=2014 |translator=南雲泰輔 |publisher=[[白水社]] |isbn=978-4560080986 |ref=harv}}
 
* [[大原祐子]] 著『世界現代史31 カナダ現代史』山川出版社、1981年。
 
</div>
 
{{Collapse bottom}}
 
 
 
{{Collapse top|bg=#fff|1=キリスト教史}}
 
* [[上智大学]]中世思想研究所 編訳・監修『キリスト教史』1〜11、[[講談社]]、1990年[1996年 平凡社ライブラリー版を参照]。
 
** {{Cite book|和書|author=ジャン・ダニエルー |translator=上智大学中世思想研究所 |title=初代教会 |date=1996 |publisher=平凡社 |isbn=4582761631 |series=平凡社ライブラリー, 163 . キリスト教史 |volume=1 |ref=harv}}
 
** {{Cite book|和書|author=H・I・マルー |translator=上智大学中世思想研究所 |title=教父時代 |date=1996 |publisher=平凡社 |isbn=4582761682 |series=平凡社ライブラリー, 168 . キリスト教史 |volume=2 |ref=harv}}
 
** {{Cite book|和書|author=M・D・ノウルズ |translator=上智大学中世思想研究所 |title=中世キリスト教の成立 |date=1996 |publisher=平凡社 |isbn=4582761747 |series=平凡社ライブラリー, 174 . キリスト教史|volume=3 |ref=harv}}
 
* [[水垣渉]] ほか編『キリスト論論争史』[[日本キリスト教団出版局]]、2003年。
 
* [[J・B・デュロゼル]] 著、[[大岩誠]]ほか訳『カトリックの歴史』[[白水社]]、1967年。
 
* [[小田垣雅也]] 著『キリスト教の歴史』[[講談社学術文庫]]、1995年。
 
* [[出村彰]] ほか編『聖書解釈の歴史』日本キリスト教団出版局、1986年。
 
* {{Cite book |和書 |author=鈴木宣明 |year=1994 |title=福音に生きる |publisher=[[聖母の騎士社]]<[[聖母文庫]]> |isbn=4-88216-117-6 |ref=harv}}
 
* [[R・W・サザーン]] 著、[[上条敏子]]訳『西欧中世の社会と教会』八坂書房、2007年。
 
* 出村彰・[[荒井献]] 監修『総説キリスト教史』1〜3、日本キリスト教団出版局、2006年。
 
* {{Cite book |和書 |editor=橋口倫介 |editorlink=橋口倫介 |year=1983 |title=西洋中世のキリスト教と社会 |publisher=[[刀水書房]] |isbn=4-88708-048-4 |ref=harv}}
 
* [[アウグスト・フランツェン]] 著、[[中村友太郎]]訳『教会史提要』[[エンデルレ書店]]、1992年。
 
* [[加藤隆]] 著『一神教の誕生』講談社現代新書、2002年。
 
* {{Cite book |和書 |author=M・パコー |year=1985 |title=テオクラシー |translator=[[坂口昂吉]]・[[鷲見誠一]] |publisher=創文社 |isbn=978-4423493458 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |last=William |first=Barry |authorlink=:en:William Francis Barry |year=1902 |title=The Papal Monarchy from St. Gregory the Great to Boniface VIII |publisher=[[:en:T. Fisher Unwin|T. Fisher Unwin]] |ref=harv}}
 
* {{Cite book |author=J.Derek Holmes |year=1983 |title=A short history of the Catholic church |publisher=[[:en:Burns & Oates|Burns & Oates]] |isbn=978-0860121268 |ref=harv}}
 
* {{cite book |和書 |author=山代宏道 |year=1996 |publisher=溪水社 |title=ノルマン征服と中世イングランド教会 |isbn=978-4874403914 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal |和書 |author=[[阪西紀子]] |title=異教からキリスト教へ:北欧人の改宗を考える |date=2004-04-01 |publisher=一橋大学 |journal=一橋論叢 |volume=131 |number=4 |naid=110007642792 |pages=304-315 |url=http://hdl.handle.net/10086/15228 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal |和書 |author=橋本龍幸 |title=西ゴートの改宗とビザンツ |date=1988-09-20 |publisher=愛知学院大学 |journal=人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要 |volume=3 |naid=110001056119 |pages=11-35 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal |和書 |author=橋本龍幸 |title=六世紀のフランクとビザンツの理念的関係 : トゥールの儀式に関するグレゴリウスの叙述意識をめぐって |date=1994-09-20 |publisher=愛知学院大学 |journal=人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要 |volume=9 |naid=110001056172 |pages=59-85 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=J・A・ユングマン |translator=石井祥裕 |year=1997 |title=古代キリスト教典礼史 |publisher=平凡社 |isbn=978-4766413977 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=エティエンヌ・トロクメ |year=2004 |title=聖パウロ |translator=[[加藤隆]] |publisher=[[白水社]]<[[文庫クセジュ]]> |isbn=978-4560508817 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=保坂高殿 |year=2003 |title=ローマ帝政初期のユダヤ・キリスト教迫害 |publisher=[[教文館]] |isbn=978-4764272255 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=保坂高殿 |title=ローマ帝政中期の国家と教会 |year=2008 |publisher=[[教文館]] |isbn=978-4-7642-7272-9 |ref=harv}}
 
* [[大澤武男]] 著『ユダヤ人とローマ帝国』講談社現代新書、2001年。
 
* {{Cite book |和書 |author=宮谷宣史 |authorlink=宮谷宣史 |year=2004 |title=アウグスティヌス |publisher=[[講談社]]<[[講談社学術文庫]]> |isbn=978-4061596719 |ref=harv}}<!--<ref group="*">初版は1981年に「人類の知的遺産」シリーズ第15巻として講談社から出版された。</ref>-->
 
* {{Cite book |author=Harold Samuel Stone |url=http://www.shimer.edu/aboutshimercollege/HaroldStone.cfm |year=2002 |title=St. Augustine's Bones: A Microhistory |publisher=[[:en:University of Massachusetts Press|University of Massachusetts Press]] |isbn=978-1558493872 |ref=harv}}
 
* {{cite book |和書 |author=印具徹 |year=1981 |publisher=[[中央出版社]] |title=聖アンセルムス |isbn=978-4805647011 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=瀬戸一夫 |year=2008 |title=時間の思想史 アンセルムスの神学と政治 |publisher=[[勁草書房]] |isbn=978-4326101764 |ref=harv}}
 
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{{Collapse top|bg=#fff|1=キリスト教教義}}
 
* ジャン・ピエール・トレル 著、渡邉義愛 訳『カトリック神学入門』白水社、1998年。
 
* 日本カトリック司教協議会諸宗教部門 編『諸宗教対話 公文書資料と解説』[[カトリック中央協議会]]、2006年。<!--<ref group="*">第二バチカン公会議以降進められた諸宗教対話の姿勢に関する、教会の公文書の抜粋と解説。</ref>-->
 
* 教皇庁教理省 著、和田幹男 訳『宣言 主イエス』カトリック中央協議会、2006年。<!--<ref group="*">2000年にイエス・キリストと教会の救いの唯一性と普遍性について、諸宗教の影響や科学などによって信仰が相対化されるべきでないと述べた宣言。少なからず反響のあった本宣言の、和田幹男による全訳と概説である。</ref>-->
 
* 教皇ヨハネ・パウロ2世 回勅、石脇慶總 ほか訳『聖霊 生命の与え主』ペトロ文庫、2005年。
 
* E・スキレベークス 著、伊藤庄治郎 訳『救いの協力者聖母マリア』聖母文庫、1991年。<!--<ref group="*">一部に教義を超えた独自の見解を展開しているものの、マリア神学、マリア論の全体がよく俯瞰されている著作。</ref>-->
 
* [[日本カトリック司教協議会]][[社会司教委員会]] 編『信教の自由と政教分離』カトリック中央協議会、2007年。
 
* {{Cite book |和書 |author=アリスター・マクグラス |translator=[[神代真砂実]] |year=2002 |title=キリスト教神学入門 |publisher=[[教文館]] |isbn=978-4764272033 |ref=harv}}<!--<ref name="mcgrath" group="*">A・E・マクグラスはオックスフォード大学神学部歴史神学教授。『キリスト教思想史入門』は『キリスト教神学入門』および『宗教改革の思想』と一部記述が重複する。</ref>-->
 
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{{Collapse top|bg=#fff|1=グレゴリウス改革}}
 
* {{Cite book |和書 |author=瀬戸一夫 |authorlink=瀬戸一夫 |year=2003 |title=時間の民族史 教会改革とノルマン征服の時間史 |publisher=[[勁草書房]] |isbn=978-4326101436 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=野口洋二 |authorlink=野口洋二 |year=1978 |title=グレゴリウス改革の研究 |publisher=[[創文社]] |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=井上雅夫| authorlink=井上雅夫|title=西洋中世盛期の皇帝権と法王権 |year=2012 |publisher=[[関西学院大学出版会]] |isbn=978-4-86283-112-5 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=A・フリシュ |authorlink=A・フリシュ |translator=[[野口洋二]] |year=1972 |title=叙任権闘争 |publisher=[[創文社]] |isbn=4-423-49314-4 |ref=harv}}
 
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{{Collapse top|bg=#fff|1=マリア信仰}}
 
* [[竹下節子]] 著『聖母マリア <異端>から<女王>へ』講談社選書メチエ、1998年。
 
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{{Collapse top|bg=#fff|1=異端}}
 
* クルト・ルドルフ 著、[[大貫隆]] ほか訳『グノーシス 古代末期の一宗教の歴史と本質』岩波書店、2001年。
 
* 甚野尚 著『世界史リブレット20 中世の異端者たち』山川出版社、1996年。
 
* D・クリスティ・マレイ 著、野村美紀子 訳『異端の歴史』[[教文館]]、1997年。
 
* ルネ・ネッリ 著、柴田和雄 訳『異端カタリ派の哲学』[[法政大学出版局]]、1996年。
 
* [[原田武]] 著『異端カタリ派と転生』[[人文書院]]、1991年。
 
* 西川杉子 著『ヴァルド派の谷へ』山川出版社、2003年。
 
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{{Collapse top|bg=#fff|1=宗教改革}}
 
* {{Cite book|和書|author=アリスター・マクグラス |translator=[[高柳俊一]] |title=宗教改革の思想 |date=2000 |publisher=教文館 |isbn=476427194X |ref=harv}}<!--<ref name="mcgrath" group="*" />-->
 
* [[小泉徹]] 著『世界史リブレット27 宗教改革とその時代』山川出版社、1996年。
 
* [[マックス・ウェーバー]] 著、[[大塚久雄]] 訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年[改訳版、1997年 第25刷 参照]。
 
* 金子晴勇 著『宗教改革の精神 ルターとエラスムスの思想対決』講談社学術文庫、2001年。
 
* 永田諒一 著『ドイツ近世の社会と教会』ミネルヴァ書房、2000年。
 
* I・ジョン・ヘッセリンク 著、廣瀬久允 訳『改革派とは何か』教文館、1995年。
 
* [[ジョルジュ・リヴェ]] 著、[[二宮宏之]]・[[関根素子]] 訳『宗教戦争』白水社、1968年[1998年 第10刷 参照]。
 
* [[木崎喜代治]] 著 『信仰の運命 フランス・プロテスタントの歴史』岩波書店、1997年。
 
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{{Collapse top|bg=#fff|1=法制史}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[勝田有恒]] |author2=[[森征一]]|author3=[[山内進]] |title=概説西洋法制史 |date=2004 |publisher=ミネルヴァ書房 |isbn=9784623040643 |ref=harv}}
 
* 吉野悟 著『ローマ法とその社会』近藤出版社、1976年。
 
* ピーター・スタイン 著、[[屋敷二郎]]監訳『ローマ法とヨーロッパ』ミネルヴァ書房、2003年。
 
* {{Cite book|和書|author=山田信彦 |title=スペイン法の歴史 |date=1992 |publisher=彩流社 |isbn=488202215X |ref=harv}}
 
* [[水林彪]] ほか編『新体系日本史 2 法社会史』山川出版社、2001年。
 
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{{Collapse top|bg=#fff|1=中世史}}
 
* ハンス・K・シュルツェ 著、千葉徳夫 ほか訳『西欧中世史事典』ミネルヴァ書房、1997年。
 
* ハンス・K・シュルツェ 著、五十嵐修 ほか訳『西欧中世史事典II』ミネルヴァ書房、2003年。
 
* [[アンリ・ピレンヌ]] 著、中村宏 ほか訳『ヨーロッパ世界の誕生』[[創文社]]、1960年。
 
* 堀米庸三 編『世界の名著67 ホイジンガ』中公バックス、1979年。
 
* ヨーロッパ中世史研究会 編『西洋中世史料集』東京大学出版会、2000年。
 
* 樺山紘一 ほか編『[[岩波講座世界歴史|岩波講座(新)世界歴史7 ヨーロッパの誕生]]』[[岩波書店]]、1998年。
 
* 堀米庸三 ほか編『岩波講座(旧)世界歴史10 中世4』岩波書店、1970年。
 
* 堀越孝一 編『新書ヨーロッパ史・中世編』[[講談社現代新書]]、2003年。
 
* 菊池良生 著『神聖ローマ帝国』講談社現代新書、2003年。
 
* 江村洋 著『ハプスブルク家』講談社現代新書、1990年。
 
* {{Cite book|和書|author=五十嵐修 |title=地上の夢キリスト教帝国 : カール大帝の「ヨーロッパ」 |date=2001 |publisher=講談社 |isbn=4062582244 |series=講談社選書メチエ, 224 |ref=harv}}
 
* [[阿部謹也]] 著『阿部謹也著作集』2、8、10、[[筑摩書房]]、1999年。
 
* 堀米庸三 著『中世国家の構造』[[日本評論社]]、1948年。
 
* [[増田四郎]] 著『西洋中世世界の成立』講談社学術文庫、1996年。
 
* 増田四郎 著『西洋中世社会史研究』岩波書店、1974年。
 
* ラウール・マンセッリ 著、大橋喜之 訳『西欧中世の民衆信仰』[[八坂書房]]、2002年。
 
* {{Cite book|和書|author=J・ル・ゴフ |translator=池田健二 ,菅沼潤 |title=中世とは何か |date=2005 |publisher=藤原書店 |isbn=4894344424 |ref=harv}}<!--<ref group="*">[[アナール学派]]の泰斗がインタヴューに答える形で自身の考える西欧中世像について述べている。</ref>-->
 
* J・ル・ゴフ 著、桐村泰二 訳『中世西欧文明』[[論創社]]、2007年。
 
* J・ル・ゴフ 著、加納修 訳『もうひとつの中世のために』白水社、2006年。
 
* エリザベス・ハラム 編、川成洋 ほか訳『十字軍大全』[[東洋書林]]、2006年。
 
* {{cite book |和書 |author=エドマンド・キング |authorlink=エドマンド・キング |translator=[[吉武憲司]] |year=2006 |publisher=[[慶應義塾大学出版会]] |title=中世のイギリス |isbn=978-4766413236 |ref=harv}}
 
* マルク・ブロック 著、堀米庸三 ほか訳『封建社会』岩波書店、1995年。
 
* 佐藤彰一 ほか編著『西欧中世史 〔上〕』ミネルヴァ書房、1995年。
 
* 江川温 ほか編著『西欧中世史 〔中〕』ミネルヴァ書房、1995年。
 
* 朝治啓三 ほか編著『西欧中世史〔下〕』ミネルヴァ書房、1995年。
 
* {{Cite book |和書 |author=レジーヌ・ル・ジャン |authorlink=レジーヌ・ル・ジャン |translator=[[加納修]] |year=2009 |title=メロヴィング朝 |publisher=[[白水社]]〈[[文庫クセジュ]]〉 |isbn=978-4560509395 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |author=Ian Wood |url=http://www.leeds.ac.uk/history/staff/ian_wood.htm |year=1995 |title=The Merovingian Kingdoms, 450-751 |publisher=[[:en:Longman|Longman]] |isbn=978-0582493728 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=橋本龍幸 |year=1997 |title=中世成立期の地中海世界—メロヴィング時代のフランクとビザンツ |publisher=[[南窓社]] |isbn=978-4816502002 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |editor=長谷川博隆 |year=1985 |title=ヨーロッパ—国家・中間権力・民衆— |publisher=名古屋大学出版会 |isbn=978-4930689382 |ref=harv}}
 
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{{Collapse top|bg=#fff|1=思想史}}
 
* {{Cite book |和書 |author=ハンナ・アレント |translator=[[志水速雄]] |year=1994 |title=人間の条件 |publisher=[[筑摩書房]]<[[ちくま学芸文庫]]> |isbn=978-4480081568 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=M・I・フィンリー |translator=[[柴田平三郎]] |year=2007 |title=民主主義―古代と現代 |publisher=[[講談社]]<[[講談社学術文庫]]> |isbn=978-4061598102 |ref=harv}}
 
* [[本村凌二]]・[[中村るい]] 著『古代地中海世界の歴史 ('04)』放送大学教育振興会、2004年。
 
* {{Cite book |和書 |author=アリストテレス |authorlink=アリストテレス |year=1971 |title=[[ニコマコス倫理学]] |translator=[[高田三郎]] |publisher=[[岩波書店]]<[[岩波文庫]]> |volume=<上><下> |ref=harv}}ISBN 978-4003360415,ISBN 978-4003360422[2006年 第45刷 参照]。
 
* {{Cite book |和書 |author=金子晴勇 |authorlink=金子晴勇 |year=2008 |title=ヨーロッパ人間学の歴史 |publisher=[[知泉書館]] |isbn=978-4862850348 |ref=harv}}
 
* [[南原繁]] 著『&lt;新装版&gt;政治理論史』東京大学出版会、2007年。<!--<ref group="*">旧版の初版は1962年。</ref>-->
 
* {{Cite book|和書|author=半澤孝麿 |authorlink=半澤孝麿 |title=ヨーロッパ思想史における「政治」の位相 |date=2003 |publisher=岩波書店 |isbn=4000023977 |ref=harv}}
 
* [[碧海純一]] ほか編『法学史』東京大学出版会、1976年。
 
* {{Cite book |和書 |author=藤原保信 |author2=飯島昇藏 |title=西洋政治思想史 |date=1995 |publisher=新評論 |volume=1 |isbn=4794802536 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=シェルドン・S・ウォーリン |authorlink=シェルドン・ウォリン | |year=1994 |title=西欧政治思想史―政治とヴィジョン |translator=[[尾形典男]]・[[佐々木武]]・[[佐々木毅]]・[[田中治男]]・[[福田歓一]]・[[有賀弘]]・[[半沢孝麿]] |publisher=[[福村出版]] |isbn=978-4571400162 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |editor=R・W・ディヴィス |translator=[[鷲見誠一]]・[[田上雅則]] |year=2007 |title=西洋における近代的自由の起源 |publisher=[[慶應義塾大学法学研究会]] |isbn=978-4766413977 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=アリスター・マクグラス |translator=[[関川泰寛]]・[[神代真砂実]] |year=2008 |title=キリスト教思想史入門―歴史神学概説 |publisher=[[キリスト新聞社]] |isbn=978-4873955148 |ref=harv}}<!--<ref name="mcgrath" group="*" />-->
 
* {{Cite book |和書 |author=クラウス・リーゼンフーバー |year=2003 |title=中世思想史 |translator=[[村井則夫]] |publisher=[[平凡社]]<[[平凡社ライブラリー]]> |isbn=978-4582764857 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=クラウス・リーゼンフーバー |translator=[[酒井一郎]]ほか |year=1988 |title=中世における自由と超越―人間論と形而上学の接点を求めて |publisher=[[創文社]] |isbn=4-423-10083-5 |ref=harv}}
 
* クラウス・リーゼンフーバー 著『中世哲学の源流』創文社、1995年。
 
* クラウス・リーゼンフーバー 著『中世における理性と霊性』知泉書館、2008年。
 
* {{Cite book |和書 |author=J・B・モラル |translator=[[柴田平三郎]] |year=2002 |title=中世の政治思想 |publisher=[[平凡社]]〈[[平凡社ライブラリー]]〉 |isbn=978-4582764345 |ref=harv}}<!--<ref group="*">[[1975年]]に[[未來社]]から刊行されたものの新版。</ref>-->
 
* {{Cite book |和書 |author=マルクブロック |translator=[[井上泰男]]ほか |year=1998 |title=王の奇跡―王権の超自然的性格に関する研究/特にフランスとイギリスの場合 |publisher=[[刀水書房]] |isbn=978-4887082311 |ref=harv}}
 
* [[エルンスト・H・カントローヴィチ]] 著、小林公訳『王の二つの身体』[[平凡社]]、1992年。
 
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{{Collapse top|bg=#fff|1=日本における政教分離}}
 
* {{Cite book |和書 |author=高木博志 |authorlink=高木博志 |year=2006 |title=近代天皇制と古都 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=4-00-022550-2 |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=小川原正道 |authorlink=小川原正道 |year=2014 |title=日本の戦争と宗教 1899-1945 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4-06-258569-9 |ref=harv}}
 
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{{Collapse top|bg=#fff|1=その他}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[大西直樹]]ほか|year=2006|title=歴史のなかの政教分離: 英米におけるその起源と展開|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4779111518}}
 
* {{Cite journal|和書|author=高橋康浩 |title=政教分離の意味するもの(<特集号>プロジェクト) |date=2006-03-31 |publisher=新潟大学 |journal=人文科學研究 |volume=118 |naid=110004785960 |pages=Y45-Y55 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=長岡徹 |title=政教分離原則の正当性(平松毅教授退任記念論集) |date=2004-12-30 |publisher=関西学院大学 |journal=法と政治 |volume=55 |number=4 |naid=110004476162 |pages=675-708 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=大塚和夫 |title=イスラーム世界と世俗化をめぐる一試論(<特集>イスラームと宗教研究) |date=2004-09-30 |publisher=日本宗教学会 |journal=宗教研究 |volume=78 |number=2 |naid=110002826612 |pages=617-642 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=久保田泰夫 |title=<論文>ロージャー・ウィリアムズの政教分離論 : 主著『信仰上の理由による迫害の血塗れの教義』(1644)を巡って |date=1997-03-31 |publisher=東京工芸大学 |journal=東京工芸大学芸術学部紀要 |volume=3 |naid=110000485311 |pages=57-69 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=中谷猛 |title=トクヴィルにおける共和政と宗教問題--市民宗教との関連において |date=2005 |publisher=立命館大学法学会 |journal=立命館法學 |volume=2005 |number=2 |naid=40007124747 |pages=1033-1055 |url=http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2008/09.KIMURA.pdf||ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=木村武雄 |title=欧州と社会システム - 史的展開を中心に - |date=2008 |publisher=筑波学院大学 |journal=筑波学院大学紀要 |volume=3 |naid=110006981701 |pages=87-99 |url=http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2008/09.KIMURA.pdf||ref=harv}}
 
*{{Cite web|author=工藤庸子|url=http://kudo-yoko.com/blogengine/wp-content/uploads/2009/05/090330_laicite.pdf|title=「フランスの政教分離」|language=日本語 |accessdate=2010年1月29日 }}
 
*{{Cite web|author=今西一|url=http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/2901/1/%E6%AD%B4%E7%A0%94822_45-47.pdf|title=「近代史部会(2006年度歴史学研究会大会報告批判)」(歴史学研究/歴史学研究会編2006 小樽商科大学学術成果コレクション)|language=日本語 |accessdate=2010年1月29日 }}
 
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== 関連項目 ==
 
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* [[叙任権闘争]]
 
* [[宗教改革]]
 
* [[八十年戦争]]
 
* [[国王至上法]]
 
* [[宗教戦争]]
 
* [[アウクスブルクの和議]]
 
* [[コンフェッショナリズム]]
 
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* [[ユグノー戦争]]
 
* [[ナントの勅令]]
 
* [[三十年戦争]]
 
* [[ヴェストファーレン条約]]
 
* [[ポリティーク]]
 
* [[ガリカニスム]]
 
* [[ペンシルベニア植民地|ペンシルヴェニア植民地]]
 
 
 
{{col-break}}
 
* [[啓蒙思想]]
 
* [[理神論]]
 
* [[ヴァージニア信教自由法]]
 
* [[権利章典 (アメリカ)]]
 
* [[フランス革命]]
 
* [[聖職者民事基本法]]
 
* [[フランス革命期における非キリスト教化運動]]
 
 
 
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* [[政教分離原則]]
 
* [[コンコルダート]]
 
* [[政教分離法]]
 
* [[ライシテ]]
 
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== 外部リンク ==
 
* [https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0-169842 コトバンク「コンフェッショナリズム」]
 
* [https://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%82%AD-142606 コトバンク「モナルコマキ」]
 
* [http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/shumu_kaigai/pdf/h20kaigai.pdf 海外の宗教事情に関する調査報告書(平成20年3月)] -[[文化庁]]
 
 
 
{{政教分離の歴史}}
 
{{キリスト教 横}}
 
 
 
{{デフォルトソート:よおろつはにおけるせいきようふんりのれきし}}
 
[[Category:政治史]]
 
[[Category:宗教の歴史]]
 
[[Category:テーマ史]]
 
[[Category:キリスト教の歴史|せいきようふんりのれきし]]
 
[[Category:教皇権の歴史|せいきようふんり]]
 
[[Category:君主制]]
 
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[[Category:法制史]]
 
[[Category:政教分離]]
 

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