「ルイ12世 (フランス王)」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(ルイ12世を扱った作品)
 
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2009年8月13日 (木) 04:42 (UTC)|ソートキー=人1515年没}}
+
[[ファイル:ルイ12世(ペレアル画,ウィンザー城).jpg|サムネイル]]
{{基礎情報 君主
+
'''ルイ12世'''(Louis XII, [[1462年]][[6月27日]] - [[1515年]][[1月1日]]
| 人名      = ルイ12世
 
| 各国語表記 = Louis XII
 
| 君主号    = [[フランス君主一覧|フランス王]]
 
| 画像      = Louis XII de France.jpg
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明  =
 
| 在位      = [[1498年]][[4月7日]] - [[1515年]][[1月1日]]
 
| 戴冠日    = [[1498年]][[5月27日]]
 
| 全名      =
 
| 出生日    = [[1462年]][[6月27日]]
 
| 生地      = [[File:Pavillon royal de la France.svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[ブロワ城]]
 
| 死亡日    = [[1515年]][[1月1日]]
 
| 没地      = [[File:Pavillon royal de la France.svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[パリ]]
 
| 埋葬日    =  
 
| 埋葬地    = [[File:Pavillon royal de la France.svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[サン・ドニ大聖堂]]
 
| 配偶者1    = [[ジャンヌ・ド・フランス (1464-1505)|ジャンヌ・ド・フランス]]
 
| 配偶者2    = [[アンヌ・ド・ブルターニュ]]
 
| 配偶者3    = [[メアリー・テューダー (フランス王妃)|メアリー・テューダー]]
 
| 子女      = [[クロード・ド・フランス|クロード]]<br/>[[ルネ・ド・フランス|ルネ]]
 
| 王家      = [[ヴァロワ=オルレアン家]]
 
| 王朝      = [[ヴァロワ朝]]
 
| 王室歌    =
 
| 父親      = [[オルレアン公]][[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]
 
| 母親      = [[マリー・ド・クレーヴ (1426-1487)|マリー・ド・クレーヴ]]
 
}}
 
  
'''ルイ12世'''(Louis XII, [[1462年]][[6月27日]] - [[1515年]][[1月1日]])は、[[ヴァロワ朝]]第8代の[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]](在位:[[1498年]] - [[1515年]])。[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]の曾孫。「民衆の父」(le Père du Peuple)と呼ばれた。
+
フランス王 (在位 1498~1515) 。オルレアン公シャルル ([[シャルル・ドルレアン]] ) の子。[[シャルル8世]]の幼少期,摂政アンヌ・ド・フランス (ボージュ) に反旗を翻し (道化戦争 La guerre folle,85~88) ,敗れて捕われたが,その後シャルル8世と和解しイタリア戦争に参加。 1498年シャルル8世の死後,即位,同時にその寡婦アンヌ・ド・ブルターニュと再婚。
  
== 生涯 ==
+
99年ミラノを征服。 1508年[[カンブレー同盟]]に加入してベネチアを攻め,翌年アニャデッロで勝利を得たが,ローマ教皇の「神聖同盟」と対立,13年ノバレの敗北後フランス軍はイタリアから撤退。同時にスイス,スペイン,イングランド,神聖ローマ帝国の侵略を受け,14年イングランドと和約。国内行政としては地方慣習法の編纂,裁判,訴訟制度の改善,治水,道路の整備に尽力し,06年の全国三部会で「民衆の父」なる称号を授けられた。
シャルル5世の孫であった[[オルレアン公]][[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]と3番目の妃[[マリー・ド・クレーヴ (1426-1487)|マリー・ド・クレーヴ]]の息子として、[[ブロワ城]]で生まれる。[[イングランド王国|イングランド]]での虜囚生活が長かったオルレアン公シャルルが67歳にして得た唯一の男子であった。1465年、ルイが2歳の時に父シャルルは死去し、ルイは幼くしてオルレアン公位を継いだ。
 
 
 
1476年、[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]の娘[[ジャンヌ・ド・フランス (1464-1505)|ジャンヌ]]と王命により結婚した。後に義弟[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]に対する反乱に加担し、[[1487年]]から[[1490年]]まで投獄されたこともあるが、やがて王の信任を回復し、[[イタリア戦争|イタリア遠征]]に参加した。[[1498年]]シャルル8世が男系後継者なく急死すると、フランス王位に登った。
 
 
 
ルイ12世は[[ブルターニュ]]に対する野心から、時の[[教皇|ローマ教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]に頼み込んでジャンヌとの[[婚姻の無効|結婚を無効]]にしてもらい、シャルル8世の王妃で王太后となっていたブルターニュ女公[[アンヌ・ド・ブルターニュ|アンヌ]]と結婚した。2人は2女をもうけ、長女[[クロード・ド・フランス|クロード]]は王位継承者[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の、次女[[ルネ・ド・フランス|ルネ]]は[[フェラーラ公]][[エルコレ2世・デステ|エルコレ2世]]の妃となった。
 
 
 
シャルル8世が失敗した[[イタリア戦争]]も再開し、[[1500年]]には[[ミラノ公国]]を征服した。さらに[[ナポリ王国]]の分割にも一時は成功した。しかしナポリ王家の同族であった[[アラゴン連合王国|アラゴン王]][[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]によって間もなくフランス軍は[[南イタリア]]から武力で追放される。またフランスの[[イタリア]]介入を嫌う教皇は各国に呼びかけて[[神聖同盟 (16世紀)|神聖同盟]]を結成、[[1513年]]にフランス軍は[[ミラノ]]から追い出された。
 
 
 
[[1514年]]王妃アンヌが死去すると、ルイ12世はイングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の妹[[メアリー・テューダー (フランス王妃)|メアリー・テューダー]]と結婚したが、3ヶ月後に自身が病死した。
 
 
 
男子がいなかったため、王位は[[続柄#いとこ甥|従甥]]のアングレーム伯[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ]]が継承した。最期の言葉は、「おお、私のかわいいクロード、クロード」。野心を持って娘[[クロード・ド・フランス|クロード]]と結婚した娘婿フランソワを最後まで警戒していたという。
 
 
 
== 系図 ==
 
 
 
{{familytree/start||style=font-size:80%}}
 
 
 
{{familytree|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
 
{{familytree|border=0|CHR5| | | | | | | | | | | | | | | | | |
 
CHR5='''[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]<sup>3</sup>'''
 
}}
 
 
 
{{familytree|border=0||)|-|-|-|.| | | | | | | | | | | | | | | |}}
 
{{familytree|border=0|CHR6| |LOUDO| | | | | | | | | | | | | | | |
 
CHR6='''[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]<sup>4</sup>'''|
 
LOUDO=[[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ <br>(オルレアン公)]]
 
}}
 
 
 
{{familytree|border=0| |!| | | |)|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | | | |}} 
 
{{familytree|border=0|CHR7| |CHRDO| |JEADO| |JEADD| | | | | | | |
 
CHR7='''[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]<sup>5</sup>'''|
 
CHRDO=[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル <br>(オルレアン公)]]|
 
JEADO=[[ジャン・ドルレアン (アングレーム伯)|ジャン <br>(アングレーム伯)]]|
 
JEADD=[[ジャン・ド・デュノワ]]
 
}}
 
 
 
{{familytree|border=0| |!| | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | |}}
 
{{familytree|border=0|LOU11| |LOU12| |CHRDA| | | | | | | | | | |
 
LOU11='''[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]<sup>6</sup>'''||
 
LOU12='''[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]<sup>8</sup>'''||
 
CHRDA=[[シャルル・ドルレアン (アングレーム伯)|シャルル <br>(アングレーム伯)]]
 
}}
 
 
 
{{familytree|border=0| |!| | | |!| | | |!| | | | | | | | | | |}}
 
{{familytree|border=0|CHR8| |CLAU|y|FRA| | | | | | | | | | |
 
CHR8='''[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]<sup>7</sup>'''||
 
CLAU=[[クロード・ド・フランス|クロード]]||
 
FRA='''[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]<sup>9</sup>'''
 
}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | | |!| | | | | | | | | | |}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | |HEN2| | | | | | | | | | |
 
HEN2='''[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]<sup>10</sup>'''
 
}}
 
{{familytree|border=0| | | | | | | |!| | | | | | | | | | |}}
 
 
 
{{familytree/end}}
 
 
 
 
 
{{フランス君主}}
 
{{ナポリ王||1501年 - 1504年}}
 
{{先代次代|[[ミラノの支配者一覧|ミラノ公]]|1499年 - 1512年|[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]|[[マッシミリアーノ・スフォルツァ]]}}
 
{{先代次代|[[オルレアン公]]|1465年 - 1498年|[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル1世]]|王位に統合}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:るい12}}
 
{{DEFAULTSORT:るい12}}
 
[[Category:フランス国王]]
 
[[Category:フランス国王]]

2019/4/30/ (火) 00:04時点における最新版

ルイ12世(ペレアル画,ウィンザー城).jpg

ルイ12世(Louis XII, 1462年6月27日 - 1515年1月1日

フランス王 (在位 1498~1515) 。オルレアン公シャルル (シャルル・ドルレアン ) の子。シャルル8世の幼少期,摂政アンヌ・ド・フランス (ボージュ) に反旗を翻し (道化戦争 La guerre folle,85~88) ,敗れて捕われたが,その後シャルル8世と和解しイタリア戦争に参加。 1498年シャルル8世の死後,即位,同時にその寡婦アンヌ・ド・ブルターニュと再婚。

99年ミラノを征服。 1508年カンブレー同盟に加入してベネチアを攻め,翌年アニャデッロで勝利を得たが,ローマ教皇の「神聖同盟」と対立,13年ノバレの敗北後フランス軍はイタリアから撤退。同時にスイス,スペイン,イングランド,神聖ローマ帝国の侵略を受け,14年イングランドと和約。国内行政としては地方慣習法の編纂,裁判,訴訟制度の改善,治水,道路の整備に尽力し,06年の全国三部会で「民衆の父」なる称号を授けられた。



楽天市場検索: