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{{参照方法|date=2012年12月}}
 
{{Infobox 建築家
 
|image                = Le Corbusier 1933.JPG
 
|image_size          =
 
|caption              = 1933年撮影
 
|name                = ル・コルビュジエ
 
|nationality          =  {{SUI}} / {{FRA}}
 
|birth_date          = [[1887年]][[10月6日]]
 
|birth_place          = スイス、[[ラ・ショー=ド=フォン]]
 
|death_date          = {{死亡年月日と没年齢|1887|10|6|1965|8|27}}
 
|death_place          = [[フランス]]、[[ロクブリュヌ=カップ=マルタン]]
 
|alma_mater          =
 
|practice_name        =
 
|significant_buildings= [[サヴォア邸]]<br>[[ロンシャンの礼拝堂]]<br>[[ラ・トゥーレット修道院]]
 
|significant_projects = [[チャンディーガル]]都市計画<br>[[輝く都市]]
 
|significant_design  =
 
|awards              = [[AIAゴールドメダル]]([[1961年]])<br>[[レジオンドヌール勲章]]([[1964年]])
 
}}
 
'''ル・コルビュジエ'''('''Le Corbusier<ref group="注">発音およびカタカナ表記の揺れは[[#名前の表記|名前の表記]]を参照。</ref>'''、[[1887年]][[10月6日]] - [[1965年]][[8月27日]])は[[スイス]]で生まれ、[[フランス]]で主に活躍した[[建築家]]。本名は'''シャルル=エドゥアール・ジャヌレ<ref group="注">ジャンヌレとも表記される。</ref>=グリ'''(Charles-Edouard Jeanneret-Gris)。
 
  
[[フランク・ロイド・ライト]][[ミース・ファン・デル・ローエ]]と共に「近代建築の三大巨匠」として位置づけられる([[ヴァルター・グロピウス]]を加えて四大巨匠とみなすこともある)。
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'''ル・コルビュジエ'''('''Le Corbusier'''、[[1887年]][[10月6日]] - [[1965年]][[8月27日]]
  
== 生涯 ==
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スイスの建築家,都市設計家。18歳で最初の建物を設計,パリ,ベルリンで学んだのち,1917年以降パリを中心に活躍した。1920年には前衛芸術誌『レスプリ・ヌーボー』L'Esprit Nouveauを創刊,絵画,彫刻,美術評論も試みた([[純粋主義]])。第2次世界大戦中は南フランスに移住したが,1944年パリに戻り,1946年にはアメリカ合衆国で[[国連本部ビル]]の設計に協力,1950年代以降は国際的に活躍した。ル・コルビュジエの理論と著作は建築作品と並んで大きな影響力をもち,日本からも[[前川國男]][[坂倉準三]],[[吉阪隆正]]が彼のもとに学んだ。[[機能主義建築]]の提唱者であったが,晩年はフランスの[[ノートル・ダム・デュ・オー聖堂]](1950~55,ロンシャン)に見られるような自由な造形性を示した。その他の主作品にはフランスの[[サボア邸]](1929~31,ポアシー),[[スイス学生館]](1930~32,パリ),[[ユニテ・ダビタシオン]](1947~52,マルセイユ),日本の[[国立西洋美術館]](1959,東京都[[台東区]])などのほか,アルジェリアのアルジェ(1930),ブラジルのリオデジャネイロ(1933),スペインのバルセロナ(1933),スウェーデンのストックホルム(1934),インドの[[チャンディーガル]](1950)などの[[都市計画]]がある。主著は『建築をめざして』Ver une Architecture,『都市設計』Urbanisme(1925)など。2016年,国立西洋美術館をはじめとする世界 7ヵ国に点在する代表的建築物など 17点が「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」として[[世界遺産]]の文化遺産に登録された。([[近代建築]])
ル・コルビュジエは1887年10月6日、[[スイス]][[ラ・ショー=ド=フォン]]に時計の文字盤職人の父エデゥアールとピアノ教師の母マリーの次男として生まれた<ref>{{Cite book|和書 |author = 加藤道夫 |year = 2016 |title = ル・コルビュジエが見たい! |publisher = [[洋泉社]] |page = 32 |isbn = 978-4-8003-1023-1}}</ref>。家業を継ぐために[[時計職人]]を養成する地元の装飾美術学校で彫刻と彫金を学んだが、専門的な大学教育は受けていない。ル・コルビュジエは時計職人の道を進むつもりだったが、当時時計産業は斜陽化しつつあり、さらにル・コルビュジエは視力が非常に弱く、精密な加工を必要とする時計職人としては重大なハンデを背負っていたため、徐々に別の道へ進むことを模索するようになっていった<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p15 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。
 
  
美術学校在学中の[[1907年]]に、ル・コルビュジエの才能を見いだした校長のシャルル・レプラトゥニエの勧めで、建築家のルネ・シャパラと共に最初の住宅『ファレ邸』の設計を手がけている。[[1908年]]に[[パリ]]へ行き、[[鉄筋コンクリート]]建築の先駆者である[[オーギュスト・ペレ]]の事務所に、[[1910年]]には[[ドイツ工作連盟]]の中心人物であった[[ペーター・ベーレンス]]の事務所に籍を置き、短期間ではあったが実地で建築を学んだ。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[1911年]]から半年かけて[[ベルリン]]から[[東ヨーロッパ|東欧]]、[[トルコ]]、[[ギリシャ]]、[[イタリア]]を巡る東方への旅へ出た。ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で教鞭を執った後、[[1914年]]に鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表。[[1917年]]にパリへ行き、2年ほど鉄筋コンクリート会社に勤めた。[[1920年]]に[[ダダ]]の詩人のポール・デルメ、[[ピュリスム]]の画家の[[アメデエ・オザンファン]]と共に雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(L'esprit Nouveau)を創刊。この頃からル・コルビュジエというペンネームを用いた(このペンネームは、祖先の名からつけたものである。)<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p22 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。
 
 
 
[[1922年]]に、ペレの下で働いていた従兄弟の[[ピエール・ジャンヌレ]]と共に事務所を構えた<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p24 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。[[1923年]]に『レスプリ・ヌーヴォー』に掲載された自らの記事をまとめた著作『[[建築をめざして]]』を発表し、世界中の建築家から注目を集めた。この著作の中の「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」という言葉は、彼の建築思想の代表的なものとしてよく引用される。
 
 
 
[[ファイル:Weissenhof Corbusier 03.jpg|thumb|right|[[ヴァイセンホーフ・ジードルング]]の住宅]]
 
[[1925年]]の[[パリ万国博覧会 (1925年)|パリ万国博覧会]](いわゆるアールデコ博)では装飾のない『レスプリ・ヌーヴォー館』を設計し、[[アール・デコ]]装飾の展示館が並ぶ中、異彩を放った。また1922年のサロンドートンヌでは『300万人の現代都市』を、1925年にはパリ市街を[[超高層ビル]]で建て替える都市改造案『ヴォアザン計画』を、そして[[1930年]]には『[[輝く都市]]』を発表した。これらは低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的であるとするもので、パリでは実現しなかったが、以降の[[都市計画]]の考え方に影響を与えた。[[1927年]]、[[ミース・ファン・デル・ローエ]]が中心となり、ヴァイセンホーフで開かれたドイツ工作連盟主催の住宅展([[ヴァイセンホーフ・ジードルング]])に参加し、2棟の住宅を設計した。
 
 
 
[[ファイル:9858756 be8024a407 o.jpg|thumb|right|[[サヴォア邸]]]]
 
[[1928年]]以降に開催された[[CIAM]]([[:en:Congrès International d'Architecture Moderne|Congrès International d'Architecture Moderne]]、シアム、近代建築国際会議)では、[[ヴァルター・グロピウス]]、[[ミース・ファン・デル・ローエ]]、[[ジークフリート・ギーディオン]]、[[ガブリエル・ゲヴレキアン]]らとともに参加し、中心メンバーとして活躍した。CIAMは国際的な近代建築運動の拠点になった。[[1930年]]にはイヴォンヌ・ガリと結婚し<ref name="kuresawa_p27">暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p27 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>、また同年フランス国籍を取得した<ref name="kuresawa_p27" /><ref>Renat Kuenzi 「[https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%8C%E8%AA%87%E3%82%8B%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AE%B6_%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE%E5%B7%A8%E5%8C%A0%E3%83%AB-%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8-%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%81%A7%E6%B2%A1%E5%BE%8C%EF%BC%95%EF%BC%90%E5%91%A8%E5%B9%B4/41625134 現代建築の巨匠ル・コルビュジエ、今年で没後50周年]」 2015-08-27、swissinfo.com、2017年4月26日閲覧</ref>。[[1931年]]竣工の『[[サヴォア邸]]』はル・コルビュジエの主張する「[[近代建築の五原則]]」を典型的に示し、代表作として知られる。[[1932年]]にソ連で行われた[[ソビエト宮殿]]のコンペに応募して敗退したものの、その斬新さは注目を浴び、[[丹下健三]]が建築家を志すきっかけにもなっている<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p28 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。[[1936年]]には[[ルシオ・コスタ]]の招聘を受け、ブラジルに滞在し、[[オスカー・ニーマイヤー]]と共に旧教育保健省庁舎の設計に携わった。ル・コルビュジエはドイツに協力的な[[ヴィシー政権]]に与し、ピエール・ジャンヌレはフランスの[[レジスタンス運動]]に参加したため、2人は袂を分かつことになったが、戦後再び、チャンディーガルのプロジェクトで協働した。近代建築運動に肯定的なイタリア・[[ファシスト党|ファシスト政権]]にも接近を試みており、同国が植民地化した[[エチオピア]]での都市建設に参画しようとしたが失敗している。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]後、かねてよりの主張の実践である「ドミノシステム」に基づく集合住宅『マルセイユの[[ユニテ・ダビタシオン]]』(L'unité d'habitation de Marseille)を建設([[1947年]]-[[1952年]])<!---ユニテはフランス語で「単位」と「統一」という二重の意味を持ち、--->。また[[1951年]]からはインドの新興都市[[チャンディーガル]]の顧問として都市計画および主要建築物(議会・裁判所・行政庁舎など)の設計に携わった。また、「[[モデュロール]](仏:Modulor)」の理論を提案し、建築の実践の場において機能性あるいは美学の達成への応用とした。
 
 
 
後期の代表作『[[ロンシャンの礼拝堂]]』([[1955年]]竣工)はカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、[[シェル構造]]の採用など鉄筋コンクリートで可能になった自由な造形を示している。ここでは従来主張していた近代建築の指標である機能性・合理性を超える新たな表現に達した。[[ドミニコ会]]派のカトリック信者であるル・コルビュジエは、引き続き『[[ラ・トゥーレット修道院]]』の設計についても依頼を受けた(1960年竣工)。この間に『[[国立西洋美術館]]』の基本設計のため、1955年に一度来日している<ref>「巨匠ル・コルビュジエ、最初で最後の来日」(昔の新聞探検隊)有山佑美子 朝日新聞デジタル 2016年9月7日 2017年3月21日閲覧</ref><ref>「西洋美術館 コルビュジエ作風顕著 世界遺産へ」2016年5月17日 毎日新聞 2017年3月21日閲覧</ref>。[[1961年]]には[[AIAゴールドメダル]]、[[1964年]]には[[レジオンドヌール勲章]]を相次いで受賞した。
 
 
 
[[1965年]]、南フランスのカプ・マルタンで[[海水浴]]中に[[心臓発作]]で死去。78歳没。私生活では妻イヴォンヌ(1957年10月)や愛する母マリー(1959年初頭)が相次ぎ他界し、また自身の公的記録を完成させた直後であり、[[自殺]]説もある。
 
 
 
== 業績 ==
 
[[画家]]から出発し、建築家として活動をはじめた後も画家としての制作活動を続けていた<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p71 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。
 
 
 
[[ファイル:CHF10 8 front.jpg|thumb|right|upright|10[[スイス・フラン]]札に描かれているル・コルビュジエの肖像画]]
 
歴史上の功績は、[[鉄筋コンクリート]]を利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性を信条とした[[モダニズム建築]]の提唱者ということになる。ル・コルビュジエの思想は世界中に浸透したが、[[1920年代]]の近代主義建築の成立過程において建設技術の進歩にも支えられて、とくに造形上に果たした功績が大きい。彼の造形手法は[[モダニズム]]の一つの規範ともなり、世界に広がって[[1960年代]]に一つのピークを極めた(その反動から[[1980年代]]には装飾過多、伝統回帰的な[[ポストモダン建築]]も主張された)。
 
 
 
西洋では[[組積造]]([[石積み]]・[[煉瓦#煉瓦建築|レンガ積み]])による建築が伝統的だったが、ル・コルビュジエは[[床スラブ|スラブ]]、[[柱]]、[[階段]]のみが建築の主要要素だとする'''ドミノシステム'''を考案した<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p42 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。その後の代表作『[[サヴォア邸]]』は、ル・コルビュジエの主張する「新しい建築の5つの要点([[ピロティ]]、[[屋上庭園]]、自由な平面、水平連続窓、自由なファサード)」([[近代建築の五原則]])を体現している。クック邸が5つの要点を体現した最初の作品であり、サヴォア邸でより完成度の高い実例を示した。
 
 
 
都市計画の分野でもパリ改造計画案を発表したほか、[[CIAM]] 第4回会議でル・コルビュジエらが提案した[[アテネ憲章]]([[1933年]])は、[[公開空地]]など、以後の都市計画理論に多大な影響を与えた。後には[[チャンディーガル]]などで実践している。終始モダニズムの論客として、新しいビジョンを示す論陣を張ってきた彼は、実作においては自由な芸術家としての立場を貫き、必ずしも常に論理性を重視しているとはいえない。しかし、作品の独創性や新規性により、そうした矛盾を問題視させない。晩年の[[ロンシャンの礼拝堂]](ノートルダム・デュ・オー礼拝堂)は造形を特に強調し、それまで主張していたモダニズム建築を超えた作品として注目される。
 
 
 
ル・コルビュジエの建築模型や図面、家具は、20点以上が[[ニューヨーク近代美術館]]に収蔵されている。ル・コルビュジエの代表作であるLC2 Grand Confort(大いなる快適)は、デザイン家具の歴史上、最も大きな功績を残した作品である。[[1997年]]4月から発行されている、現行の第8次紙幣の10[[スイス・フラン]]にはル・コルビュジエの肖像と作品が描かれている<ref>「[https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%83%A6%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%96%87%E5%8C%96%E9%81%BA%E7%94%A3_%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%83%AB-%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8%E3%81%AE-%E9%81%A0%E3%81%84-%E9%96%A2%E4%BF%82/42306388 スイスとル・コルビュジエの「遠い」関係]」、2016-07-18、swissinfo.com、2017年4月26日閲覧</ref>。
 
 
 
ル・コルビュジエの建築のうち、[[ドイツ]]のヴァイセンホーフ・ジードルングの住宅、[[アルゼンチン]]のクルチェット邸、[[ベルギー]]のギエット邸、[[フランス]]のラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸、ペサックの集合住宅、[[サヴォア邸]]、ナンジェセール・エ・コリ通りのアパート、[[ユニテ・ダビタシオン]]、サン・ディエ工場、[[ロンシャンの礼拝堂]]、カップ・マルタンの小屋、[[ラ・トゥーレット修道院]]、[[フィルミニのル・コルビュジエ遺産|フィルミニのレクリエーション・センター]]、[[インド]]の[[チャンディーガル]]、[[日本]]の[[国立西洋美術館]]、そして[[スイス]]のレマン湖畔の小さな家<ref>「[http://www.myswitzerland.com/ja/interests/travelpoints/villa-le-lac.html ヴィラ・ル・ラク(コルビュジエ/湖の家)]」 スイス政府観光局</ref>およびイムーブル・クラルテの計7か国17件は、[[2016年]]に開催された[[第40回世界遺産委員会]]において[[ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-]]として世界遺産に登録された<ref>「巨匠ル・コルビュジエ、最初で最後の来日」(昔の新聞探検隊)有山佑美子、朝日新聞デジタル、2016年9月7日、2017年3月21日閲覧</ref>。
 
 
 
== 名前の表記 ==
 
Le Corbusierがめずらしい名前のせいもあり、誤記もふくめさまざまな表記が見られる。「ル」を付けない表記が多く見られるほか、「コルビュジエ」の部分についても、コルビュジェ、コルブジェ、コルブジエ、コルビジエ、コルビジェ、コルビュゼ、コルビジュ、コルビュジュなどがある。フランス語の発音は{{IPA-fr|lə kɔʁbyzje|}}であるため、これにもっとも近い[[転写 (言語学)|転写]]をするなら「ル・コルビュズィエ」となる。
 
 
 
== 都市計画・構想 ==
 
ル・コルビュジエは多くの都市計画を立案しこの分野に大きな影響を与えたものの、ほとんどが計画の段階にとどまり、実現したものは1951年にインド北部に建設された新興都市[[チャンディーガル]]の都市計画のみである。ル・コルビュジエの立案した都市計画には以下のようなものがある。
 
* 1932年アルジェA計画。工業都市を念頭にロシア構成主義の理論と、ギンズバーグの線状都市理論の影響を受けて計画立案した。
 
* サンディエ小都市復興計画
 
* 第6区不良宅地再開発計画ラ・ロッシェルに参画。高層建築群の案でまとめた。
 
* 北アフリカ・ヌムール
 
* バルセロナ再整備
 
* ブラジル大学都市
 
* 小農場ラ・フェルム・ラジエゥーズ
 
* リオデジャネイロ計画
 
* モンテヴィデオ概略都市
 
* [[チャンディーガル]]
 
 
 
== 建築作品 ==
 
[[File:National museum of western art05s3200.jpg|thumb|right|国立西洋美術館、東京(1959年・基本設計)]]
 
[[File:Palace_of_Assembly_Chandigarh_2006.jpg|thumb|right|議事堂、チャンディーガル(1962年)]]
 
 
 
{| class="sortable wikitable" style="font-size:95%; line-height:1.4em;"
 
|- style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;"
 
! 名称!! 竣工年 !! 所在地 !! 国 !! 備考
 
|-
 
|  ファレ邸|| [[1907年]]  || [[ラ・ショー=ド=フォン]] || {{SWI}} || 
 
|-
 
|  ジャクメ邸 ||[[1908年]]  || ラ・ショー=ド=フォン || {{SWI}} ||
 
|-
 
|  ストッツァー邸 ||[[1908年]] || ラ・ショー=ド=フォン || {{SWI}} ||
 
|-
 
|  ジャンヌレ邸 ||[[1908年]] || ラ・ショー=ド=フォン || {{SWI}} ||
 
|-
 
|  ファーブル=ジャコ邸 ||[[1912年]] || ル・ロークル || {{SWI}} ||
 
|-
 
|  シネマ・スカラ ||[[1916年]] || ラ・ショー=ド=フォン || {{SWI}} ||
 
|-
 
|  シュウォブ邸 ||[[1917年]] || ラ・ショー=ド=フォン || {{SWI}} ||
 
|-
 
|  給水塔 ||[[1917年]] || ポダンサック || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  [[レマン湖]]の小さな家(母の家) ||[[1923年]] || コルソーヴェヴィ || {{SWI}} ||
 
|-
 
|  [[エスプリ・ヌーヴォー館]] ||[[1924年]] || パリ || {{FRA}} || [[ボローニャ]]に復元
 
|-
 
|  [[アトリエ・オザンファン]] ||[[1924年]] || パリ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  ベスヌス邸 ||[[1924年]] || [[ヴォークレソン]] || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸 ||[[1924年]] || パリ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  [[ヴォワザン計画]] ||[[1925年]] || パリ || {{FRA}} || 計画案
 
|-
 
|  ペサックの住宅群 ||[[1925年]] || ペサック || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  リプチッツ邸 ||[[1925年]] || ブローニュ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  テルニジン邸 ||[[1926年]] || ブローニュ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  ミスチャニノフ邸 ||[[1926年]] || ブローニュ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  人民の家 ||[[1926年]] || パリ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  クック邸 ||[[1927年]] || ブローニュ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  スタイン邸 ||[[1927年]] || [[ギャルシュ]] || {{FRA}} || <ref group="注">映画『オスカル Oscar』(1967年フランス、[[エドゥアール・モリナノ]]監督、[[ルイ・ド・フュネス]]主演)の撮影ロケに使われた。屋内の螺旋階段、手すりや玄関などが画面で確認できる。</ref>
 
|-
 
|  [[ヴァイセンホーフ・ジードルング]]の住宅 ||[[1927年]] || シュツットガルト || {{DEU}} ||
 
|-
 
|  ギエット邸 ||[[1927年]] || [[アントウェルペン]] || {{BEL}} ||
 
|-
 
|  プラネクス邸 ||[[1928年]] || パリ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  ムンダネウム ||[[1929年]] ||  ジュネーブ || {{SWI}} || 計画案
 
|-
 
|  [[ソヴィエトパレス]] ||[[1931年]] || モスクワ || {{RUS}}|| 計画案
 
|-
 
|  [[サヴォア邸]] ||[[1931年]] || ポワッシー || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  マンドロウ邸  ||[[1931年]] || トゥーロン郊外 || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  ヴェイゾー邸 ||[[1931年]] || カルタゴ || {{TUN}} ||
 
|-
 
|  スイス学生会館 ||[[1932年]] || パリ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  クラルテ集合住宅 ||[[1932年]] || ジュネーブ || {{SWI}} ||
 
|-
 
|  パリ[[救世軍]]本部 ||[[1933年]] || パリ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  ナンジュセール・エ・コリ通りのアパート(自邸) ||[[1934年]] || パリ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  ウィークエンドハウス ||  [[1935年]] || ラ・セル=サンクルー||{{FRA}} ||
 
|-
 
|  マテの家 ||[[1935年]] || ラ・パルミール || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  セントロソユーズ ||[[1935年]] || モスクワ || {{RUS}} ||
 
|-
 
|  ブラジル教育保健省 ||[[1936年]] || リオデジャネイロ || {{BRA}} || 共同設計<ref group="注">オスカー・ニーマイヤー、ルシオ・コスタとの共同設計。</ref>
 
|-
 
|  [[国際連合]]本部ビル ||[[1947年]] || ニューヨーク || {{USA}} || 計画案
 
|-
 
|  クルチェット邸 ||[[1949年]] || ラプラタ || {{ARG}} ||
 
|-
 
|  デュヴァル織物工場 ||[[1951年]] || サンディエ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  サラバイ邸 ||[[1951年]]  || アーメダバード || {{IND}} ||
 
|-
 
|  [[マルセイユ]]の[[ユニテ・ダビタシオン]] ||[[1952年]] || マルセイユ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  カプ・マルタンの休暇小屋 ||[[1952年]] || カプ・マルタン || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  ボートクラブ *||[[1953年]] || チャンディガール || {{IND}} ||
 
|-
 
|  ジャウル邸 ||[[1955年]] || ヌイィ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  [[ロンシャンの礼拝堂]] ||[[1955年]] || ロンシャン || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  ルゼのユニテ・ダビタシオン ||[[1955年]] || ルゼ・レ・ナント || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  高等裁判所 * ||[[1955年]] || チャンディガール || {{IND}} ||
 
|-
 
|  繊維業会館 ||[[1956年]] || アーメダバード || {{IND}} ||
 
|-
 
|  ショーダン邸 ||[[1956年]] || アーメダバード || {{IND}} ||
 
|-
 
|  コルビュジエ夫妻の墓 ||[[1957年]] || カプ・マルタン || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  [[ブリュッセル万国博覧会 (1958年)|ブリュッセル万博]]フィリップス館 ||[[1958年]] || ブリュッセル || {{SWI}} ||
 
|-
 
|  合同庁舎 * ||[[1958年]] || チャンディガール || {{IND}} ||
 
|-
 
|  美術館 * ||[[1958年]] || チャンディガール || {{IND}} ||
 
|-
 
|  サンスカル・ケンドラ美術館 ||[[1958年]] || アーメダバード || {{IND}} ||
 
|-
 
|  ベルリンのユニテ・ダビタシオン ||[[1958年]] || ベルリン || {{DEU}} || [[ベルリン国際博覧会|ベルリン国際建築博]]出展作品
 
|-
 
|  ブラジル学生会館 ||[[1959年]] || パリ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  [[ラ・トゥーレット修道院]] ||[[1959年]] || [[リヨン]]郊外 || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  美術学校と建築学校 * ||[[1959年]] || チャンディガール || {{IND}} ||
 
|-
 
|  [[国立西洋美術館]] ||[[1959年]] || 東京都台東区 || {{JPN}} || 基本設計<ref group="注">実施設計は弟子の[[前川國男]]・[[坂倉準三]]・[[吉阪隆正]]らが担当。</ref>
 
|-
 
|  議事堂 * ||[[1962年]] || チャンディガール || {{IND}} ||
 
|-
 
|  ローヌ・ライン運河にある閘門 ||[[1962年]] || ミュルーズ郊外 || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  ブリエ・アン・フォレのユニテ・ダビタシオン ||[[1963年]] || ブリエ・アン・フォレ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  [[カーペンター視覚芸術センター]] ||[[1963年]] || ケンブリッジ || {{USA}} ||
 
|-
 
|  文化会館 **  ||[[1965年]] || フィルミニ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  ル・コルビュジエ・センター ||[[1967年]] || チューリッヒ || {{SWI}} ||
 
|-
 
|  フィルミニのユニテ・ダビタシオン **  ||[[1968年]] || フィルミニ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  競技場 **  ||[[1968年]] || フィルミニ || {{FRA}} ||
 
|-
 
|  プール ** ||[[1970年]] || フィルミニ || {{FRA}}||
 
|-
 
|  開かれた手の碑 * ||[[1985年]] || チャンディガール || {{IND}} ||
 
|-
 
|  サン・ピエール教会 **  ||[[2006年]] || フィルミニ || {{FRA}} || <ref group="注">没後に着工し、工事が中断したが、2006年に完成。</ref>
 
|}
 
 
 
*<small>作品リスト中の * は1952-1959年 [[チャンディーガル]]都市計画</small>
 
*<small>作品リスト中の ** は1960-2006年 [[フィルミニのル・コルビュジエ遺産|フィルミニの建築群]]</small>
 
 
 
=== ギャラリー ===
 
<gallery widths="250px" heights="220px">
 
File:CF05.jpg|シュウォブ邸
 
File:Cors04.jpg|小さな家(母の家)
 
File:Weissenhof photo house citrohan east façade Le Corbusier & Pierre Jeanneret Stuttgart Germany 2005-10-08.jpg|ヴァイセンホーフ・ジードルングの住宅
 
File:Geneve immeuble Clarte 2011-08-02 13 55 36 PICT3664.JPG|クラルテ集合住宅
 
File:Corbusierhaus (Berlin) (6305809373).jpg|ベルリンのユニテ・ダビタシオン
 
File:Chandigarh High Court.jpg|高等裁判所(チャンディーガル)
 
File:Arch Museum 46.JPG|美術学校と建築学校(チャンディーガル)
 
File:ATMA House 186.jpg|繊維業会館(アーメダバード)
 
File:Carpenter center.jpg|カーペンター視覚美術センター
 
File:Zürich - Seefeld - Centre Le Courbusier IMG 1111 ShiftN.jpg|ル・コルビュジエ・センター
 
File:Open Hand Monument in Chandigarh.jpg|開かれた手の碑(チャンディーガル)
 
</gallery>
 
 
 
== 著作 ==
 
* 『[[建築をめざして]]』 1923年([[吉阪隆正]]訳、[[鹿島出版会]]:[[SD選書]])
 
**『建築へ』([[樋口清]]訳、[[中央公論美術出版]]、2003年、新版2011年)-新訳版
 
*『今日の装飾芸術』 1925年([[前川國男]]訳、鹿島出版会:SD選書)
 
*『住宅と宮殿』 1928年(井田安弘訳、SD選書)
 
* 『[[輝く都市]]』 1935年([[坂倉準三]]訳、SD選書)
 
* 『[[伽藍]]が白かったとき』 1937年([[生田勉]]・樋口清訳、[[岩波書店]]→[[岩波文庫]]、2007年)
 
* 『[[モデュロール]] 1・2』 1948-1955年(吉阪隆正訳、鹿島出版会:SD選書)
 
* 『エスプリ・ヌーヴォー 近代建築名鑑』 以下も全てSD選書判
 
* 『プレシジョン 新世界を拓く 建築と[[都市計画]] (上・下)』 
 
* 『四つの交通路』/『ユルバニスム』/『建築と都市』/『[[アテネ憲章]]』
 
* 『三つの人間機構』/『東方への旅』/『人間の家』(F・ド・ピエールフウ共著)
 
*『建築十字軍 アカデミーの黄昏』 井田安弘訳([[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] 1978年→SD選書、2011年)
 
*『ムンダネウム』 [[ポール・オトレ]]共著 山名善之・[[桑田光平]]訳 [[筑摩書房]] 2009年
 
*『建築家の講義 ル・コルビュジエ』 [[岸田省吾]]監訳、桜木直美訳  [[丸善]] 2006年-小著
 
*『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』 山名善之・戸田穣訳、[[ちくま学芸文庫]]、2010年-図版多数
 
*『パリの運命』林要次・松本晴子訳、彰国社、2012年-小著
 
*『輝ける都市 機械文明のための都市計画の教義の諸要素』白石哲雄監訳、[[河出書房新社]]、2016年
 
*『ル・コルビュジエ書簡撰集』ジャン・ジャンジェ編・序、千代章一郎訳註・解説、[[中央公論美術出版]]、2016年
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
=== 入門書 ===
 
* 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 「特集 ル・コルビュジエ」--生誕120年記念特集』 2007年5月号、[[青土社]]
 
* 『建築家ル・コルビュジエの教科書』 [[マガジンハウス]]・ムック(2009年、新版2016年)
 
* [[安藤忠雄]] 『ル・コルビュジエの勇気ある住宅』 [[新潮社]]〈[[とんぼの本]]〉、2004年
 
* 市川智子 『愛と哀しみのル・コルビュジエ』 [[彰国社]]〈建築文化シナジー〉、2007年
 
* 越後島研一 『ル・コルビュジエを見る-20世紀最高の建築家、創造の軌跡』 中央公論新社〈[[中公新書]]〉、2007年
 
* [[暮沢剛巳]] 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 朝日新聞出版〈[[朝日選書]]〉、2009年
 
* ジャン・ジャンジェ 『ル・コルビュジエ 終わりなき挑戦の日々』 [[藤森照信]]監修、遠藤ゆかり訳、[[創元社]] 〈[[「知の再発見」双書]]126〉、2006年
 
* 林美佐 『もっと知りたいル・コルビュジエ 生涯と作品』東京美術〈アート・ビギナーズ・コレクション〉、2015年
 
*『ル・コルビュジエが見たい!』 カラー版洋泉社新書、2016年。[[加藤道夫]]監修
 
 
 
=== 専門書 ===
 
* [[磯崎新]] 『ル・コルビュジエとはだれか』王国社、2000年
 
* [[アンドレ・ヴォジャンスキー]] 『ル・コルビュジエの手』 白井秀和訳、[[中央公論美術出版]]、2006年
 
* 越後島研一 『ル・コルビュジエ/創作を支えた九つの原型』 彰国社、2002年
 
* [[加藤道夫]]『総合芸術家ル・コルビュジエの誕生 評論家・画家・建築家』[[丸善]]出版、2012年
 
* ウイリアム・カーティス 『ル・コルビュジエ:理念と形態』 [[中村研一]]訳、[[鹿島出版会]]、1992年
 
* デボラ・ガンス(Deborah Gans) 『ル・コルビュジエ全作品ガイドブック』 [[加藤道夫]]監訳、[[丸善]]、2008年
 
* [[ビアトリス・コロミーナ]] 『マスメディアとしての近代建築:アドルフ・ロースとル・コルビュジエ』 [[松畑強]]訳、鹿島出版会、1996年
 
* 佐々木宏 『巨匠への憧憬:ル・コルビュジエに魅せられた日本の建築家たち』 [[相模書房]]、2000年
 
* 佐々木宏 『知られざるル・コルビュジエを求めて』 王国社、2005年
 
* フローラ・サミュエル(Flora Samuel) 『ディテールから探るル・コルビュジエの建築思想』 加藤道夫監訳、丸善、2009年
 
* [[彰国社]]編 『ル・コルビュジエのインド』 北田英治写真、彰国社〈建築文化シナジー〉、2005年
 
* 南明日香 『ル・コルビュジエは生きている 保存、再生そして世界遺産へ』王国社、2011年
 
* アレグザンダー・ツォニス(Alexander Tzonis) 『ル・コルビュジエ:機械とメタファーの詩学』 繁昌朗訳、鹿島出版会、2007年
 
* 東京大学工学部建築学科・安藤忠雄研究室編 『ル・コルビュジエの全住宅』 [[TOTO (企業)|TOTO]]出版、2001年
 
* [[富永譲]] 『ル・コルビュジエ建築の詩:12の住宅の空間構成』 鹿島出版会、2003年
 
* [[八束はじめ]] 『ル・コルビュジエ 生政治としてのユルバニス』 青土社、2014年
 
* 松隈洋『ル・コルビュジエから遠く離れて 日本の20世紀建築遺産』 [[みすず書房]]、2016年
 
* 山名善之『世界遺産ル・コルビュジエ作品群』 TOTO出版、2018年
 
* [[五十嵐太郎]]『ル・コルビュジエがめざしたもの 近代建築の理論と展開』 青土社、2018年
 
* 『ル・コルビュジエ読本 GA』 [[A.D.A.EDITA Tokyo]]、2014年。写真と建築家19名の論集
 
* [[高階秀爾]]・鈴木博之・[[三宅理一]]・[[太田泰人]]編 『ル・コルビュジエと日本』 鹿島出版会、1999年
 
* 『吉阪隆正集 第8巻 ル・コルビュジエと私』 [[勁草書房]]、1984年、直弟子の回想ほか
 
 
 
=== 図録・写真集 ===
 
* 「ル・コルビュジエ 日本展」 大阪市立美術館、国立西洋美術館、1960-61年-日本での最初期の紹介。
 
* 「ル・コルビュジエ展」 [[日本建築学会]]・同実行委員会編、1989-90年([[安田火災東郷青児美術館]])、小著
 
* 「知られざるル・コルビュジエ展」 [[大成建設]]主催、1991年3月([[新宿センタービル|東京国際美術館]])
 
* 「ル・コルビュジエ展」 [[毎日新聞社]]主催、[[太田泰人]]ほか編
 
*:1996-97年([[セゾン美術館]]、[[広島市現代美術館]]、[[神奈川県立近代美術館]])-大著
 
* 「ル・コルビュジエと[[国立西洋美術館]] 開館50周年記念」 展覧会図録、2009年
 
*『ル・コルビュジエ 建築・家具・人間・旅の全記録』 エクスナレッジムック、2002年
 
*『ル・コルビュジエ パリ、白の時代』 エクスナレッジムック、2004年
 
*『ル・コルビュジエ 建築とアート、その創造の軌跡』 リミックスポイント、2007年
 
*『ル・コルビュジエ 光の遺産』 林美佐/千代章一郎監修、アーキメディア、2008年
 
*『ル・コルビュジエ 機械時代における建築の叙情性』 ジャン=ルイ・コーエン、タッシェン・ジャパン、2009年
 
* 『ル・コルビュジエ ラ・トゥーレット修道院』宮本和義[写真]栗田仁[文]、バナナブックス、2007年
 
* 『ル・コルビュジエ サヴォア邸』宮本和義[写真]山名義之[文]、バナナブックス、2007年
 
* 『ル・コルビュジエ ユニテ・ダビタシオン―マルセイユ』宮本和義[写真]渡辺真理[文]、バナナブックス、2011年
 
 
 
=== 大著 ===
 
* 千代章一郎 『ル・コルビュジエの宗教建築と「建築的景観」の生成』 中央公論美術出版、2004年
 
* ジェフリー・ベイカー 『ル・コルビュジエの建築-その形態分析』 中田節子訳、鹿島出版会、1991年
 
* ジャック・リュカン監修 『ル・コルビュジエ事典』 加藤邦男監訳、中央公論美術出版 2007年
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[キュビスム]]
 
* [[モダニズム]]
 
* [[モデュロール]]
 
* 師弟関係
 
** ル・コルビュジエ→[[前川國男]]→[[丹下健三]]→[[大谷幸夫]]・[[槇文彦]]・[[磯崎新]]・[[谷口吉生]]
 
** ル・コルビュジエ→[[吉阪隆正]]→[[象設計集団]]
 
** ル・コルビュジエ→[[坂倉準三]]→[[西澤文隆]]・[[柳宗理]]
 
* [[ヤニス・クセナキス]] - 現代音楽作曲家。[[1948年]]より建築家ル・コルビュジエの下で働き、建築家として[[1958年]]の[[ブリュッセル万国博覧会 (1958年)|ブリュッセル万国博覧会]]で[[フィリップス]]館を建設する。
 
 
 
== 外部リンク == 
 
{{commonscat|Le Corbusier}}
 
* [http://www.fondationlecorbusier.asso.fr/ ル・コルビュジエ財団公式サイト]
 
* [http://www.taisei.co.jp/galerie/archive.html 大成建設 ル・コルビュジェ アーカイブ]
 
* [http://www.nou-sera.com/architect/corbusier.html ル・コルビュジエ(Le Corbusier)]
 
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/eurasia/00_chandig/chandigar.htm チャンディーガル建築案内 (日本語)]
 
* [https://web.archive.org/web/20090825202821/http://www.designdictionary.co.uk/en/lecorbusier.htm ル・コルビュジエ Le Corbusier]
 
*[http://www.myswitzerland.com/ja/about-switzerland/the-swiss-art-and-culture-scene/architecture-design-fashion/contemporary-swiss-architecture.html スイス政府観光局(日本語):スイスの近現代建築]
 
{{RIBAゴールドメダル}}
 
{{AIAゴールドメダル}}
 
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[[Category:ル・コルビュジエ|*]]
 
[[Category:ル・コルビュジエ|*]]

2019/6/12/ (水) 12:20時点における最新版

ル・コルビュジエLe Corbusier1887年10月6日 - 1965年8月27日

スイスの建築家,都市設計家。18歳で最初の建物を設計,パリ,ベルリンで学んだのち,1917年以降パリを中心に活躍した。1920年には前衛芸術誌『レスプリ・ヌーボー』L'Esprit Nouveauを創刊,絵画,彫刻,美術評論も試みた(純粋主義)。第2次世界大戦中は南フランスに移住したが,1944年パリに戻り,1946年にはアメリカ合衆国で国連本部ビルの設計に協力,1950年代以降は国際的に活躍した。ル・コルビュジエの理論と著作は建築作品と並んで大きな影響力をもち,日本からも前川國男坂倉準三吉阪隆正が彼のもとに学んだ。機能主義建築の提唱者であったが,晩年はフランスのノートル・ダム・デュ・オー聖堂(1950~55,ロンシャン)に見られるような自由な造形性を示した。その他の主作品にはフランスのサボア邸(1929~31,ポアシー),スイス学生館(1930~32,パリ),ユニテ・ダビタシオン(1947~52,マルセイユ),日本の国立西洋美術館(1959,東京都台東区)などのほか,アルジェリアのアルジェ(1930),ブラジルのリオデジャネイロ(1933),スペインのバルセロナ(1933),スウェーデンのストックホルム(1934),インドのチャンディーガル(1950)などの都市計画がある。主著は『建築をめざして』Ver une Architecture,『都市設計』Urbanisme(1925)など。2016年,国立西洋美術館をはじめとする世界 7ヵ国に点在する代表的建築物など 17点が「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」として世界遺産の文化遺産に登録された。(近代建築



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