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{{基礎情報 君主
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'''ルートヴィヒ1世'''([[ドイツ語]]:'''Ludwig I''', [[778年]] - [[840年]][[6月20日]]
| 人名      = ルートヴィヒ1世
 
| 各国語表記 = <span lang="de">Ludwig I</span>
 
| 君主号    = [[フランク・ローマ皇帝|ローマ皇帝]]
 
| 画像      = Ludwik I Pobożny.jpg
 
| 画像サイズ = 230px
 
| 画像説明  =
 
| 在位      = [[814年]] - [[840年]]
 
| 戴冠日    =
 
| 別号      =
 
| 全名      =
 
| 出生日    = [[778年]]
 
| 生地      = [[フランク王国]]
 
| 死亡日    = [[840年]][[6月20日]]
 
| 没地      = [[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]近く
 
| 埋葬日    =  
 
| 埋葬地    = 聖アルヌルフ修道院
 
| 継承者    =
 
| 継承形式  =
 
| 配偶者1    = [[エルマンガルド・ド・エスベイ]]
 
| 配偶者2    = [[ユーディト・フォン・アルトドルフ]]
 
| 配偶者3    =
 
| 配偶者4    =
 
| 配偶者5    =
 
| 配偶者6    =
 
| 配偶者7    =
 
| 配偶者8    =
 
| 配偶者9    =
 
| 配偶者10  =
 
| 子女      = [[ロタール1世]]、[[ピピン1世 (アクィタニア王)|ピピン1世]]、[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]、[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]] ほか
 
| 王家      = [[カロリング家]]
 
| 王朝      = [[カロリング朝]]
 
| 王室歌    =
 
| 父親      = [[カール大帝]]
 
| 母親      = ヒルデガルド
 
| 宗教      = [[カトリック教会]]
 
| サイン    =
 
}}
 
[[File:Louis Ier le Pieux ou le Débonnaire.jpg|thumb|right|200px|ルートヴィヒ(ルイ)1世 ]]
 
'''ルートヴィヒ1世'''([[ドイツ語]]:'''Ludwig I''', [[778年]] - [[840年]][[6月20日]])は、中世西欧の[[フランク・ローマ皇帝|西ローマ皇帝]]<ref>『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ルートウィヒ1世(敬虔王) </ref>(在位:814年 - 840年)。[[フランク王の一覧|フランク王]]。[[カール大帝]]の三男で、大帝死後も唯一生存していた嫡出の男子である<ref name="N83">成瀬、p. 83</ref>。[[フランス語]]では'''ルイ1世'''({{lang-fr|'''Louis I<sup>er</sup>'''}})、「'''ルイ敬虔王'''('''敬虔帝''')」({{lang-de|'''Ludwig der Fromme'''}}、{{lang-fr|'''Louis le Pieux'''}})とも呼ばれる。
 
  
== 生涯 ==
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[[カロリング朝]]時代のアキタニア王 (在位 781~814) ,西ローマ皇帝 (在位 814~840) 。ルイ1世 (敬虔王) とも呼ばれる。[[カルル1世 (大帝) ]]の子。 813年父王との共治となった。信仰あつく教会や修道院は栄えたが,政治的には無能で,再婚したユディトに左右された。彼女との間に生まれたカルル (のちの西フランク王カルル2世〈禿頭王〉) にシュワーベン地方を与えようとし,前夫人との間の3人の子であるロタール1世,アキタニア王ピピン,ルートウィヒ2世 (ドイツ王) に分割してあった領土の再分割を企て,子供らの反乱にあって敗れ,廃位されたが,830年復位。さらに同じ事件を繰り返して,廃位されたが,834年に復位。復位後もカルルのために領土拡張をはかったため,内紛とノルマン侵入の混乱のうちに没した。
=== 治世の始まり ===
 
父・カール大帝の領有した大帝国は当初3分割され、三男のルートヴィヒは[[アキテーヌ地域圏|アクィタニア]]のみ相続する予定であったが{{refnest|瀬原、p. 39<ref group="注釈">806年2月6日の「帝国分割令(Divisio regnorum)」による。</ref>}}、長兄の[[カール少年王 (フランク王)|カール]]と次兄の[[ピピン (イタリア王)|ピピン]]が亡くなり、兄弟はルートヴィヒ以外みな早逝してしまったために帝国全土を単独相続することとなった。[[813年]]に父の共同皇帝とされたが、翌年に父が没するとフランク国王の地位を継承するとともに、単独の皇帝として統治をはじめた。
 
 
 
信仰心はきわめて厚かったが<ref name="I218">五十嵐、p. 218</ref>{{refnest|group="注釈"|皇帝より修道士となることを望んでいたという<ref name="N83"/>。}}、政治的に凡庸<ref name=N84>成瀬、p. 84</ref>で優柔不断な性格だったと伝わる。カール大帝は庶民感覚を忘れなかった人で、多くの歌物語を蒐集して記録させたが、ルートヴィヒ1世はキリスト教的ではないとして焼却してしまっている。また、華美な生活を嫌い、宮廷に残っていた姉妹たち{{refnest|group="注釈"|いずれも正式な結婚をせず<ref>五十嵐、p. 135</ref>、不品行の噂があった<ref>柴田、p. 163</ref>。}}を皆修道院に追いやり、政治顧問をつとめていた父カール大帝の従兄弟ら(コルビー修道院長アーダルベルトおよびボッビオ修道院長ヴァラ{{refnest|group="注釈"|ヴァラは後にルートヴィヒの息子らの反乱の指導者となる<ref>成瀬、p. 42</ref>。}})を引退させた<ref name=N84 /><ref name=S40>瀬原、p. 40</ref>。そして代わりにアクィタニア統治時代に知り合った、ベネディクト戒律を厳格に実施し教会改革を進めようとしていたアニアーヌ修道院長ベネディクト(修道士ヴィティツァ)を政治顧問とした<ref name=N84 /><ref name=S40 /><ref name="I218"/>。
 
 
 
=== 帝国の分割 ===
 
[[817年]]には[[アーヘン]]の王宮の一部が崩壊し破損したことを、死の訪れをあらわす神の意志と判断し<ref name="N84">成瀬、p. 84</ref>{{refnest|group="注釈"|817年4月9日(聖木曜日)の出来事であった<ref name="S164">柴田、p. 164</ref>。}}、「帝国計画令(Ordinatio imperii)」{{refnest|group="注釈"|帝国整序令<ref name="N84">成瀬、p. 84</ref>、帝国継承令<ref name="S40">瀬原、p. 40</ref>、帝国分割令<ref name="S164">柴田、p. 164</ref>などとも訳される。}}を発布した。「帝国計画令」では、帝国の領土をフランク族の伝統にしたがって3人の息子に分け与えることとし、長男の[[ロタール1世|ロタール]]には[[イタリア]]を含む広範な領土の、次男の[[ピピン1世 (アクィタニア王)|ピピン]]には[[アキテーヌ地域圏|アクィタニア]]の、三男の[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ]]には[[バイエルン公国|バイエルン]]の統治を委ねることとして、ロタールを共同皇帝とし、下の2人を副帝として皇帝の統制に従うことを定めた<ref name=N84 /><ref name=S40 /><ref>五十嵐、p. 218-219</ref>。フランク王国の慣習である分割相続の[[慣習]]と帝国の統一の保持<ref>五十嵐、p. 219</ref>の両方を実現しようという妥協的な計画であった。また、この「帝国計画令」では、813年にすでにイタリア王位を与えられていた兄ピピンの遺児[[ベルナルド (イタリア王)|ベルンハルト]]の存在が無視されており、これに不満を抱いたベルンハルトは反乱を起こし、[[818年]]に処刑され、イタリアはロタールのものとなった<ref>成瀬、p. 88</ref>。
 
 
 
こうした経緯の中、[[819年]]にルートヴィヒは[[古ヴェルフ家|ヴェルフ家]]の[[ユーディト・フォン・アルトドルフ|ユーディト]]と再婚、[[823年]]には四男となる末子[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル]](フランス語。ドイツ名ではカール)が誕生した。ルートヴィヒ1世はユーディトの懇願により<ref name=I220>五十嵐、p. 220</ref><ref name=S164>柴田、p. 164</ref>、末子シャルルにも王国を分け与えようとし、829年のヴォルムスの帝国会議でロタールの合意のもと<ref name=N86>成瀬、p. 86</ref>、ロタールの領地からアレマニア、アルザス、ラエティアおよびブルグントの一部をシャルルに与える決定をした<ref name=I220 />。シャルルには[[ベルナール・ド・セプティマニー]]が後見役につき、母ユーディトおよびその兄弟とともに、領地の統治を行うこととなった<ref name=S42>瀬原、p. 42</ref>。しかし、この領土分割は他の息子ロタール、ピピン、ルートヴィヒの反発を買うこととなり、三兄弟はかつて政治顧問をつとめたコルビーのヴァラの下に集まった<ref name=S42 />。[[830年]]4月14日、ブルターニュ遠征への不満をきっかけにロタールを中心としてクーデターが決行され、ロタールは父ルートヴィヒを廃位し帝位につき<ref name=S164 />、ユーディトとその兄弟は修道院に送られた<ref name=S42 />。しかし、今度はロタールの独裁を恐れた次男ピピンと三男ルートヴィヒが同盟を結んで父ルートヴィヒを復権させ<ref name=S164 />、[[831年]]2月、アーヘンの帝国議会で新たな帝国分割案が決められた{{refnest|group="注釈"|ロタールはイタリアのみ、帝国の主要部分はピピンとルートヴィヒの兄弟で分割し、シャルルにはアレマニアを中心とする領域を与えるというものであった<ref name="S42">瀬原、p. 42</ref>。}}。[[833年]]6月、再び皇帝ルートヴィヒと三兄弟は対立し、皇帝はロタールに捕えられた<ref name=S43>瀬原、p. 43</ref>。しかし同年12月、皇帝支持者らは皇帝の解放を要求し、ロタールがイタリアに押しこめられ<ref name=S43 />、翌[[834年]]2月には皇帝ルートヴィヒは解放され、復権を果たした<ref name=S164 />。[[837年]]、ロタールの合意のもと、末子シャルルには[[フリースラント]]から[[マース川]]までの地域およびブルゴーニュが与えられることとなった。さらに翌[[838年]]、次男ピピンが死去し、[[839年]]にヴォルムスにおいて、ピピンの息子らの相続権が取り消され<ref name=S43 />{{refnest|group="注釈"|アクィタニア人はピピンの息子ピピン2世の継承を支持し、ピピン2世はアクィタニア王を名乗り続ける<ref>柴田、p. 165</ref>。}}、帝国の大半はロタールとシャルルとで分割され、三男ルートヴィヒはバイエルンのみ相続することが決定された。これに対し、三男ルートヴィヒはアレマニアを含むライン川右岸(東側)を要求し、父皇帝に再び反乱を起こした<ref name=N86 />。皇帝はこの反乱を鎮圧するため出兵したものの、840年6月20日、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]近くで死去した<ref name=N86 />。彼の死後、兄弟間の抗争は武力衝突にまで発展し、王国の分裂の原因をつくることとなった([[ヴェルダン条約]]の項を参照)。
 
 
 
分裂後に成立した三男ルートヴィヒの国は[[東フランク王国]]と呼ばれ、後に[[神聖ローマ帝国]]の一部となった。また、四男シャルルの国は[[西フランク王国]]となり、後の[[フランス王国]]につながる。長男ロタールの継承した[[中部フランク王国]]は、ロタールの死後にさらに分割されることとなる。
 
 
 
=== ルイ王 ===
 
フランスではこのルイ敬虔王と同名の王を多く輩出、[[カペー朝]]の[[ルイ9世 (フランス王)|聖王ルイ]]の9世などはこのルイ敬虔王を1世と数えての数字である。[[ヴァロワ朝]]以降もルイ王がおり、特に[[絶対王政]]で有名な[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ太陽王]]が14世として君臨した[[ブルボン朝]]は[[ルイ王朝]]と言われるほどルイ王が多い。
 
 
 
== 子女 ==
 
[[794年]]、[[エルマンガルド・ド・エスベイ]](780年 - 818年)と結婚。
 
*アルヌルフ(794年 - ?)
 
*[[ロタール1世]](795年 - 855年) - [[フランク・ローマ皇帝|皇帝]]、[[中部フランク王国|中部フランク]][[フランク王の一覧|王]]
 
*[[ピピン1世 (アクィタニア王)|ピピン1世]](797年 - 838年) - [[アキテーヌ地域圏|アクィタニア]]王
 
*アデライド(799年)
 
*ロトルーデ(800年 - ?) - オーヴェルニュ伯ジェラール([[ポワティエ家]]祖)と結婚
 
*ヒルデガルド(803年 - 857年?) - オーヴェルニュ伯ジェラール(ポワティエ家祖)と結婚
 
*[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]](804年 - 876年) - [[東フランク王国|東フランク]][[フランク王の一覧|王]]
 
[[819年]]、[[ヴェルフ (ユーディトの父)|アルトドルフ伯ヴェルフ]]([[古ヴェルフ家|ヴェルフ家]]出身)の娘[[ユーディト・フォン・アルトドルフ|ユーディト]](795年 - 843年)と再婚。
 
*ギーゼラ(820年 - 874年) - フリウーリ辺境伯エーバーハルト([[ウンルオッホ家]])と結婚。[[ベレンガーリオ1世]]の母。
 
*[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]](823年 - 877年) - 皇帝、[[西フランク王国|西フランク]][[フランク王の一覧|王]]
 
 
 
以下の庶子がいる。
 
* アルパイス(793年頃 - 852年) - [[パリ伯]]ベゴン1世([[ジラール家]])と結婚
 
* アルヌール(794年頃 - 841年頃) - サンス伯(817年 - 841年頃)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|3}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[成瀬治]] 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 [[山川出版社]]、1997年
 
* 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
 
* 五十嵐修 『地上の夢キリスト教帝国 - カール大帝の〈ヨーロッパ〉』 講談社〈講談社選書メチエ 224〉、2001年
 
* 柴田三千雄 他 編 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年
 
 
 
{{先代次代|[[カロリング朝|フランク]][[フランク王の一覧|国王]]|814年 - 840年|[[カール大帝]]|[[ロタール1世]]<br />ピピン4世<br />[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]<br>([[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]])}}
 
{{神聖ローマ皇帝}}
 
{{フランク王}}
 
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[[Category:フランク王国の君主]]
 
[[Category:フランク王国の君主]]

2019/4/30/ (火) 01:41時点における最新版

ルートヴィヒ1世ドイツ語Ludwig I, 778年 - 840年6月20日

カロリング朝時代のアキタニア王 (在位 781~814) ,西ローマ皇帝 (在位 814~840) 。ルイ1世 (敬虔王) とも呼ばれる。カルル1世 (大帝) の子。 813年父王との共治となった。信仰あつく教会や修道院は栄えたが,政治的には無能で,再婚したユディトに左右された。彼女との間に生まれたカルル (のちの西フランク王カルル2世〈禿頭王〉) にシュワーベン地方を与えようとし,前夫人との間の3人の子であるロタール1世,アキタニア王ピピン,ルートウィヒ2世 (ドイツ王) に分割してあった領土の再分割を企て,子供らの反乱にあって敗れ,廃位されたが,830年復位。さらに同じ事件を繰り返して,廃位されたが,834年に復位。復位後もカルルのために領土拡張をはかったため,内紛とノルマン侵入の混乱のうちに没した。



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