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『'''ローマの休日'''』(ローマのきゅうじつ、原題:''Roman Holiday'')は、[[1953年]]製作の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]。
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『'''ローマの休日'''』(ローマのきゅうじつ、原題:''Roman Holiday''
  
== 概要 ==
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アメリカ映画。1953年作品。ウィリアム・ワイラー監督。永遠のスター、オードリー・ヘップバーンを生み出したロマンティック・コメディの名作。さる小国の王女が訪問先のローマで一日だけの「ローマの休日」を楽しみ、さまざまな思いを胸に秘めたまま王室の公務に戻っていくという物語が、太陽をいっぱいに受けた古都の名所の数々を背景に描かれる。伝統的なハリウッド・コメディのプロットに倣いながら、「別れ」で終わるラストシーンが甘くせつない余韻を残す。王女が長い髪をばっさり切り落とすヘアサロンのシーン、スクーターを暴走させて路上を大混乱させるシーンなど、名場面の宝庫でもある。ヘップバーンは本作でアカデミー主演女優賞を受賞、華々しいキャリアのスタートをきった。
[[Image:Audrey Hepburn and Gregory Peck on Vespa in Roman Holiday trailer.jpg|220px|left|thumb|ローマ市内をベスパで走るシーン]]
 
[[ウィリアム・ワイラー]]が製作・監督した。[[イタリア]]の[[ローマ]]を表敬訪問した某国の王女と、彼女が滞在先から飛び出し一人でローマ市内に出て知り合った新聞記者との、切ない24時間の恋を描いている。[[トレヴィの泉|トレビの泉]]や[[真実の口]]など、ローマの名だたる観光スポットを登場させていることでも有名である。
 
 
 
新聞記者を[[グレゴリー・ペック]]、王女を[[オードリー・ヘプバーン]]が演じている。当時新人だったヘプバーンは、本作により[[第26回アカデミー賞|1953年のアカデミー賞]][[アカデミー主演女優賞|最優秀主演女優賞]]を受賞している。
 
 
 
この他に、衣裳の[[イーディス・ヘッド]]が「[[アカデミー衣装デザイン賞|最優秀衣裳デザイン賞]]」を、また脚本の[[イアン・マクレラン・ハンター]]が「[[アカデミー原案賞|最優秀原案賞]]」をそれぞれ受賞した。
 
 
 
ただし、本作の脚本は実際には[[ダルトン・トランボ]]が執筆したものである。当時の[[マッカーシズム]]による[[赤狩り]]でトランボはハリウッドを追われていたため、名義を借用したものであった<ref>映画製作50周年を記念したデジタル・ニューマスター版(2003年)では、ダルトン・トランボの名前がクレジットされた。</ref>。アカデミー賞選考委員会は、[[1993年]]にトランボへ改めて「1953年最優秀原案賞」を贈呈している<ref>本人が亡くなっていたため、未亡人が代わりに受賞した。そしてハンターの名前は削除されている。</ref>。
 
 
 
監督のワイラーと脚本のトランボが、男女の出会いと別れという月並みなテーマを、フレームに映る全ての事実の積み上げと互いの細かい感情のやり取りから、普遍的なお伽話にまで昇華させた映画となった。
 
 
 
== ストーリー ==
 
ヨーロッパきっての古い歴史と伝統を持つ某国の'''王女アン'''は、ヨーロッパ各国を表敬訪問中であった。最後の滞在国である[[イタリア]]の[[ローマ]]で、過密なスケジュール、疲労感と自由のない生活への不満により、ついにアンはヒステリーを起こしてしまう。
 
 
 
その夜、密かに城を抜けだした王女は、直前に打たれていた鎮静剤のせいで、無防備にも路傍のベンチでうとうとし始める。そこに通りかかったのが、アメリカ人新聞記者の'''ジョー・ブラッドレー'''だった。見かねて介抱するうち、いつの間にか王女はジョーのアパートまでついて来てしまう<ref>ラジオから聞こえてくる静かなピアノ曲は[[フランツ・リスト]]の『[[巡礼の年]]』の「ゴンドラをこぐ女」である。</ref>。眠くて仕方のない王女は、詩を朗読して寝てしまう<ref>''Arethusa arose / From her couch of snows / In the Acroceraunian mountains, --'' で王女は[[ジョン・キーツ|キーツ]]と言う。ジョーに[[パーシー・ビッシュ・シェリー|シェリー]]と言われ、キーツと言い返すが、シェリーの ''Arethusa'' である。</ref>。
 
 
 
翌日の昼になって、彼女の素性に気づいたジョーは、王女の秘密のローマ体験という大スクープをものにしようと、職業を偽り、友人のカメラマンである'''アーヴィング'''の助けを得て、どうにか王女を連れ歩くことに成功する。
 
 
 
アンは、市場での散策を楽しむ。まずサンダルを買い、美容院で髪の毛を短くし、[[スペイン広場 (ローマ)|スペイン広場]]で[[ジェラート]]を食べる。その後ジョーと[[ベスパ]]に2人乗りしてローマ市内を廻り、[[真実の口]]を訪れ、[[サンタンジェロ城]]前の[[テヴェレ川]]でのダンスパーティーに参加する。その様子をアーヴィングが次々とスクープ写真を撮っていくうち、永遠の都・ローマで、自由と休日を活き活きと満喫するアン王女と新聞記者のジョーの男女仲は、次第に近づいていくのであった。
 
 
 
== キャスト ==
 
* ジョー・ブラッドレー - [[グレゴリー・ペック]]
 
* アン王女(アーニャ・スミス) - [[オードリー・ヘプバーン]]
 
* アービング・ラドビッチ - [[エディ・アルバート]]
 
* 大使 - [[ハーコート・ウィリアムズ]]
 
* ヴィアルバーグ伯爵夫人 - [[マーガレット・ローリングス]]
 
* マリオ・デラーニ - [[パオロ・カルリーニ]]
 
* プロブノ将軍 - [[トゥリオ・カルミナティ]]
 
* ヘネシー支局長 - [[ハートリー・パワー]]
 
 
 
== 日本初公開 ==
 
『ローマの休日』の日本初公開は、1954年4月27日(東京地区)であったことになっているが、正確にはそれより6日早く、4月21日に[[長崎県]][[佐世保市]]の「佐世保富士映画劇場」で先行して公開されている。なぜ東京より遥か離れた長崎県で最初の公開となったか、その事情は詳らかではない。また4月23日には[[名古屋市]]の「名古屋ミリオン座」で封切られ、28日間の興行で名古屋地区洋画興行界始まって以来の大入りとなった。他の地方都市でも、東京よりも早く公開されている。ほぼ4週間のロードショーの後に、東京では6月21日から早くも一般公開(いわゆる二番館での上映)している。この一般公開も東京よりも各地方都市の方が早かったようで、ヘップバーン旋風は必ずしも東京から地方へ流れていったのではなく、全国同時現象として1954年春に起こった<ref>吉村英夫『ローマの休日〜ワイラーとヘップバーン〜』(朝日文庫、1994年10月発行)77-79P</ref>。
 
 
 
== 評価 ==
 
2002年に[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]] (AFI) がアメリカ映画の GREATEST LOVE STORY を集めて行った「[[情熱的な映画ベスト100]]」において、『ローマの休日』は『[[カサブランカ (映画)|カサブランカ]]』『[[風と共に去りぬ (映画)|風とともに去りぬ]]』『[[ウエスト・サイド物語 (映画)|ウエスト・サイド物語]]』に次いで第4位で、『[[めぐり逢い (1957年の映画)|めぐり逢い]]』『[[追憶 (1973年の映画)|追憶]]』『[[ドクトル・ジバゴ (1965年の映画)|ドクトルジバゴ]]』『[[素晴らしき哉、人生!]]』『[[ある愛の詩]]』より上位となった。
 
 
 
また、同じAFIが2008年に行った[[10ジャンルのトップ10|ロマンティック・コメディ映画]]の部門でも第4位(トップは『[[街の灯]]』)となっている。
 
 
 
== 製作 ==
 
=== 製作決定 ===
 
本作の脚本家である[[ダルトン・トランボ]]がこの可愛い王女の独創的な物語を書き上げたのは[[1940年代]]半ば頃で、当時の映画製作会社リバティ社がこの脚本の映画化権を取得したが、取得に当たって映画監督の[[フランク・キャプラ]]が大きな役割を果たしている。1948年にリバティ社がパラマウント社に買収された後に、キャプラを監督にして製作に入ることになった。この時、キャプラが[[エリザベス・テイラー]]と[[ケーリー・グラント]]での配役を提示したが、映画製作費で会社側と折り合えず、結局キャプラは降りてしまった<ref>ベルトラン・メイエ=スタブレ著、藤野邦夫訳『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』(風媒社、2003年2月発行)66P</ref>。
 
 
 
その後、この企画はしばらく宙に浮いたままだったが、1951年初めに[[ウィリアム・ワイラー]]がこの脚本を知り、ローマでの撮影を条件に強い関心を示して、ワイラー監督でパラマウント社は製作に入ることとなった。
 
 
 
製作時にアメリカ本国では、[[ジョセフ・マッカーシー]][[アメリカ合衆国上院|上院]]議員らによる「[[赤狩り]]」と呼ばれる[[マッカーシズム]]が吹き荒れ、非米活動調査委員会での共産主義者排斥運動が行われ、映画産業でも「[[ハリウッド・テン]]」と呼ばれた人物たちがパージされた。本作の脚本家であるトランボもその一人であったため、友人の脚本家[[イアン・マクレラン・ハンター]]が、本作の脚本にその名前をクレジットした。
 
 
 
ワイラーがローマへ携えた草稿は、トランボの脚本をハンターが手直ししたものであった。ワイラーは、イギリスの作家{{仮リンク|ジョン・ダイトン|en|John Dighton}}を雇い、その草稿に磨きをかけて製作中に新たなシーンを書き加えさせた。そのため、1953年に映画が公開された時には、画面に出された脚本家のクレジットはハンターとダイトンが共有した<ref>ピーター・ハンソン著、松枝愛訳『ローマの休日を仕掛けた男〜不屈の映画人ダルトン・トランボ〜』(中央公論新社、2013年10月発行)186p</ref>。
 
 
 
=== 撮影地 ===
 
1950年代から、アメリカ映画はハリウッドを離れてヨーロッパなどで撮影するケースが増えていた。本作の舞台がローマであったことから、ワイラー監督は最初から撮影場所を現地ローマとして、スタジオを[[チネチッタ]]撮影所にする決定をした<ref>当時のアメリカの俳優や監督が、赤狩りで国内の監視を逃れて外国での撮影を好む傾向があったとする向きもあるが、主な理由は人件費の節約と現地での観光産業の協力の良さである。</ref>。
 
 
 
これは、製作費が低く抑えられたために、人件費が安く、また当時イタリア映画も好調で優秀なスタッフが揃っており、人材面での不安がなく<ref>これは別の面から言えば、ハリウッドの撮影現場で専門技術者の組合の力が極めて強く、映画製作に経費がかかり過ぎて、製作コストを抑えるには国外で製作することが多くなっていった背景があった。この後に『[[慕情]]』『[[戦場にかける橋]]』『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』などがアメリカ国外で製作され、1960年代に入るとそれが当たり前になっていった(大場正明+編集部 著『アメリカ映画主義〜もうひとつのUSA〜』(フィルムアート社、2002年10月発行)184-186P)</ref><ref>経済面からの理由としては次のような経緯もある。第二次世界大戦終戦後、アメリカ合衆国がヨーロッパの[[西側諸国|西側陣営諸国]]を支援する見地から、アメリカ映画の上映によりヨーロッパ諸国で獲得した興業収益を移出すること(すなわち、ヨーロッパ諸国から外貨を持ち出すこと)が制限された。このためハリウッドの映画会社は、ヨーロッパでの収益を通貨持ち出し以外の手段でアメリカ本国に還流させる必要が生じ、プールされたヨーロッパでの収益をヨーロッパ現地ロケの費用として消費することで「現地制作した映画作品を持ち出す」手法を活用したのである。</ref>、またアメリカの観客がヨーロッパの文化を受容しやすかった点なども海外ロケの要因にある。イタリア側も映画産業に対し協力的であった。これは観光産業が目的で、本作で紹介される名所は[[スペイン広場 (ローマ)|スペイン広場]]、[[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]、[[コロッセオ]]、[[真実の口]]など枚挙に暇がない<ref>映画が製作された当時、一般のアメリカ人にはこれらのローマの名所は知られていなかった。この作品で初めて知られるようになったと言われている。</ref>。またヨーロッパの工業製品としてスクーターの[[ベスパ]]、小型車の[[フィアット]]を登場させている。
 
 
 
何より大きな影響を持ったのは、ファッションモードが世界へ発信された点にある。繊維産業により外貨を稼ぎたかった欧米のメッセージは大きな反響を呼び、ヘプバーンも「ヘプバーンと言えば[[ジバンシィ]]」とされるほど、映画のみならずファッション革命のヒロインに成長していく。日本でもヘプバーン・サンダルなどの名前が残っている。
 
 
 
この作品の撮影に入ったのは1952年夏であったが、この年の夏はローマにおいて20世紀で最も暑い夏の一つとして記録されるほどの「地獄の夏」であった。出演者はメイクが流れ落ち、頻繁にメイクアップをしていた。街は湿気でサウナに変わったと言われている。
 
 
 
=== オードリー・ヘプバーンの起用 ===
 
[[Image:Audrey Hepburn screentest in Roman Holiday trailer.jpg|200px|left|thumb|スクリーン・テストを受けるオードリー・ヘプバーン。]]
 
この作品で最初にヒロイン候補に挙がっていたのは[[エリザベス・テイラー]]であった。しかし、監督の[[フランク・キャプラ]]が高額の製作費を要求したため、スタジオはキャプラを降板させ、代わりに[[ウィリアム・ワイラー]]に白羽の矢が立った。ヒロイン候補には[[ジーン・シモンズ]]の名前も挙がっていたが、ワイラーは「主役はスターである必要はない。アメリカ訛りのない、王女の風格のある女性が欲しい」として主役を自由にキャスティングできることを条件に、監督を引き受けた<ref>『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』66-67P</ref>。そしてヒロイン探しに頭を悩ませて、ロンドンに行き、何人かの志願者に会っている。
 
 
 
この時、オードリー・ヘプバーンはまだロンドンにいてワイラーに会っていた。この後にワイラーは、パラマウント社ロンドン支社のリチャード・ミーランド製作部長<ref>ミーランドはこのすぐ後で、彼女に[[キャサリン・ヘプバーン]]と混同されるので改名してはどうかと打診している。その時彼女は「私をお望みなら、名前も採用してください」と答えている。</ref>にオードリーの写真と報告書をニューヨークに送らせている。1951年7月頃のことであった<ref>『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』67-68P</ref>。
 
 
 
当時、オードリーは映画界では無名に近い存在で、体型も女優としては痩せすぎであったが、その彼女をロンドンのパインウッド撮影所に呼んでスクリーン・テスト<ref>1951年9月18日に行い、監督はオードリーの希望でソロルド・ディキンソン。他に俳優でライオネル・マートンとキャスリーン・ネズビットが出演し、『ローマの休日』の2つのシーンと対話を撮影した(『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』68P)</ref>を受けさせ、そのフィルムを見たワイラーがヒロインに抜擢することを決めた。この時、緊張気味にフィルムに収まっていた彼女がテスト終了を告げられて、破顔した時の笑顔がとびきり良くて魅了されたと後に語っている<ref>『シネマの手帖〜250本の名作ガイド〜』(暮しの手帖社、2009年12月発行)163P</ref>。[[グレゴリー・ペック]]も彼女の才能を認め、新人であるにもかかわらず自分と同等の[[クレジットタイトル|クレジット]]を与えることに同意した。
 
 
 
しかし、彼女にはそれ以前に声がかかって[[ブロードウェイ]]で上演される『ジジ』の主役に抜擢されており、この直後に船でニューヨークに向かった。そしてブロードウェイでおよそ6か月の公演が続き、『ローマの休日』の撮影に入ったのは主演に決まってから8か月後の1952年6月であった。
 
 
 
=== 撮影 ===
 
ワイラーの演出は非常に凝っており、同じシーンの撮影に何回も繰り返すことで有名であった。スタジオでの撮影ではワイラーの要求が多すぎて、何度もテイクを繰り返すことが多い。ところがこの作品ではローマ市内での屋外ロケが多く、制約が多すぎて、カットをわずかな回数に限定せざるを得なかった。これはオードリーにとっては幸運であった。しかし市内の観光名所や公共施設で撮影するので、騒音対策、交通整理、パパラッチ問題に悩まされて、移動のたびに見物するファンの群れにも対応せざるを得ず、暑い夏で大変な作業を要したと言われている<ref>『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』82-83P</ref>。
 
 
 
ペックとワイラーは新人ヘプバーンの女優としての力量を引き出すために腐心した。真実の口のシーンの撮影では、2人は一計を案じ、本番で真実の口に手を突っ込んだペックは、本当に手を噛みちぎられたように演じた。ヘプバーンは驚きのあまり、本気で叫び声を上げ、素のリアクションを見せた。この自然な演技は、2人を十分満足させるものであり、1テイクでOKが出た。
 
 
 
ローマ市内を2人がスクーターで走る場面は、この映画の代表的なシーンになったが、わずか3分のシーンであるのに撮影には6日間を要した。しかしペックの運転するスクーターの後ろに横座りして首にスカーフを巻いたヘプバーンの姿は、1950年代を象徴するイメージとして記憶されて映画の伝説になった<ref>『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』83-85P</ref>。
 
 
 
=== スペイン広場の時計 ===
 
[[Image:Audrey Hepburn and Gregory Peck in Roman Holiday trailer.jpg|300px|left|thumb|後景の教会の時計は11時25分を指している。]]
 
[[File:Audrey Hepburn and Gregory Peck in Roman Holiday trailer 2.jpg|thumb|200px|スペイン広場でのシーン]]
 
映画の中盤に、アン王女が市内に出て美容院で髪を短く切り、尾行してきた新聞記者ジョー・ブラッドレーが、[[スペイン広場]]で「偶然の再会」を装って、2人が語り合う場面がある。
 
 
 
上映時間にして2分にも満たないが、その時に階段下から撮ったカットで、後景に教会の鐘楼の下の時計が映っている。カットのたびに時計の針が大きく動いており、それぞれカットが何時何分に撮影されたかがわかり、ここからスペイン広場の撮影に3時間以上も費やしていたことが割り出せる。
 
 
 
まず、アン王女が広場の階段の端に座っている時にジョーが声をかける最初のカットでの時計の針は8時10分で、9秒後に同じアングルでジョーがアンの横に座ろうとしたカットでは9時15分を指し、ジョーがアンの横に座った後にアップしたカットでは11時25分、そして一緒に市内観光に行こうと合意して立ち上がったカットでは10時20分を指している。
 
 
 
同じ位置から撮影するので、この場面の最初と最後のカットをまず撮って2時間以上を要し、2人が横並びに座って会話する場面を階段下からと階段上からの2方向から撮影したので<ref>この時、ペックの肩に太陽の日差しで頭の影が映るが、階段下からだとペックの右側に影が映っているのに、階段上からのカットではペックの左側に影が映っている。</ref>、後方の時計が11時25分を指す時刻まで撮影していたことになる。
 
 
 
かつて『ローマの休日』を語る時に、必ず映画ファンの間で話題になった「スペイン広場の時計」であるが、[[デジタルリマスター]]された際にこの時計の針は修正されており、以上のことを直接には確認できなくなっている<ref>『ローマの休日〜ワイラーとヘップバーン〜』133-138P:著者は当時ビデオテープで確認したようであるが、最初の8時10分を13時40分、9時15分を14時45分、10時20分を15時50分として説明して、途中の11時25分はそのまま11時25分として述べている。そして「時計の長針短針の正確な確認がしにくい。13時40分と見ているのは8時10分かも知れない」と断っている。今日[[ハイビジョン]]で見ると、少しアップして時計の針が見やすい11時25分は正確であるが、他の時刻は長短が逆さまになっている。</ref>。
 
{{-}}
 
 
 
== 著作権問題 ==
 
本作は作品中(オープニングタイトル、エンドロールなど)に[[著作権]]表記がなかったため、公開当時のアメリカ合衆国における著作権に関する法律(方式主義)により、著作権の権利放棄とみなされ、[[パブリックドメイン]]となった。なお、同じくヘプバーン主演の『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』も同様にパブリックドメインとなった<ref>このため、[[ウィキコモンズ]]に高解像度のスクリーンショットが収録されている。</ref>。
 
 
 
[[日本]]においては、1953年([[昭和]]28年)上映の映画作品は、[[2003年]]([[平成]]15年)[[12月31日]]をもって「[[著作権法]]による[[著作権の保護期間]]が終了したもの」と解釈されたことから、[[2004年]](平成16年)1月1日以降、いくつかの会社から[[パブリックドメインDVD|格安DVD]]としてリリースされた。パラマウント・ピクチャーズは、日本では著作権が存続していると主張して、販売差し止めと損害賠償を求めて[[民事訴訟]]を起こした。[[2005年]](平成17年)7月11日、一審の[[東京地方裁判所]]民事47部は、『ローマの休日』について「著作権の保護期間は終了した」としてパラマウント・ピクチャーズの主張を全面的に退け、パラマウント側の敗訴となった。パラマウントはこの東京地裁判決を不服として、[[東京高等裁判所]]に控訴したが「戦術の見直し」を理由に、東京高裁への控訴を取り下げ、東京地裁判決が確定判決となり、『ローマの休日』は、日本でもパブリックドメインとして扱われることになった。
 
 
 
なおパラマウントが、同じ著作権の存続を理由に裁判で争っていた西部劇『[[シェーン]]』についても、一審・二審ともパラマウントは敗訴して最高裁に上告したが、[[2007年]](平成19年)[[12月18日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]が、パラマウント側の主張を退け、著作権は消滅しているとの[[確定判決]]が下されて、この著作権問題は決着した。
 
{{main|1953年問題}}
 
 
 
== 日本語吹替 ==
 
{| class="wikitable" style="text-align:center"
 
|-
 
!役名
 
!1972年4月7日<br />21:00-22:56<br />初回放送<br />[[フジテレビジョン|フジテレビ]]<br />『[[ゴールデン洋画劇場]]』<br />正味約95分
 
!1979年11月11日<br />21:00-22:54<br />初回放送<br />[[テレビ朝日]]<br />『[[日曜洋画劇場]]』<br />正味約90分
 
!1992年12月23日<br />21:00-22:54<br />初回放送<br />[[TBSテレビ|TBS]]<br />『[[水曜ロードショー (TBS)|水曜ロードショー]]』
 
!1994年1月15日<br />21:02-23:24<br />初回放送<br />フジテレビ<br />『ゴールデン洋画劇場』<br />本編ノーカット
 
!1994年1月21日発売<br />[[ビデオグラム|ソフト]]版
 
!2004年10月29日<br />21:03-23:24<br />初回放送<br />[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]<br />『[[金曜ロードSHOW!|金曜ロードショー]]』版<br />本編ノーカット放送
 
![[パブリック・ドメイン]]DVD版
 
|-
 
|アン王女||colspan="2"|[[池田昌子]]||[[笠原弘子]]||[[鈴鹿千春]]||池田昌子||[[すずきまゆみ]]||[[岡村明美]]
 
|-
 
|ジョー||colspan="2"|[[城達也]]||[[津嘉山正種]]||[[小川真司]]||城達也||津嘉山正種||[[てらそままさき|寺杣昌紀]]
 
|-
 
|アーヴィング||[[山内雅人]]||[[木村幌]]||[[大塚明夫]]||[[山野史人]]||大塚明夫||[[内田直哉]]||[[小形満]]
 
|-
 
|大使||[[千葉順二]]||[[槐柳二]]||[[大木民夫]]||[[松岡文雄]]||北村弘一||[[宮田光]]||
 
|-
 
|伯爵夫人||金子亜矢子||[[幸田弘子]]||[[池本小百合]]||[[浅井淑子 (声優)|浅井淑子]]||[[荘司美代子]]||[[谷育子]]||[[定岡小百合]]
 
|-
 
|マリオ||colspan="2"|[[広川太一郎]]||[[安原義人]]||[[江原正士]]||[[山寺宏一]]||[[清水明彦]]||
 
|-
 
|将軍||colspan="2"|[[大久保正信]]||[[北村弘一]]||大木民夫||[[丸山詠二]]||[[石森達幸]]||
 
|-
 
|支局長||colspan="2"|{{Nowrap|(登場シーンはカット)}}|| colspan="2"| [[上田敏也]] || [[中庸助]] || [[富田耕生]] || [[楠見尚己]]
 
|-
 
!colspan="8"|制作スタッフ
 
|-
 
|演出||colspan="2"|小林守夫||[[佐藤敏夫 (音響監督)|佐藤敏夫]]||松川睦||佐藤敏夫||小山悟||間瀬博美
 
|-
 
|翻訳||colspan="3"|[[木原たけし]]||森みさ||木原たけし||森みさ||岩崎純子
 
|-
 
|効果|| ||遠藤尭雄|| || || ||サウンドボックス||諸橋一男
 
|-
 
|調整||山下欽也||平野富夫|| ||荒井孝||オムニバス・<br />ジャパン||田中和成||清本百合子
 
|-
 
|選曲||colspan="2"|重秀彦|| || || || ||
 
|-
 
|スタジオ|| || || || || ||オムニバス・<br />ジャパン||
 
|-
 
|制作担当|| || || || || ||稲毛弘之||
 
|-
 
|プロデューサー|| || ||上田正人||山形淳二|| ||宮崎啓子<br />北島有子||
 
|-
 
|解説||[[前田武彦]]||[[淀川長治]]||[[宮島秀司]]||[[高島忠夫]]|| || ||
 
|-
 
|日本語版制作||colspan="2"|[[東北新社]]||東北新社<br />TBS||colspan="3"|東北新社||
 
|-
 
|{{Nowrap|再放送年}}||フジテレビ<br />1974年4月19日<br />1976年3月5日<br />2005年12月24日<br />2009年3月21日(深夜)||日本テレビ<br />1986年5月9日<br />テレビ朝日<br />1996年12月8日<br />テレビ朝日<br />2007年9月8日(深夜)||フジテレビ<br />2000年5月6日||  ||  ||  ||
 
|}
 
 
 
== エピソード ==
 
* 原題の{{Lang|en|"Roman Holiday"}}とは、[[ローマ帝国]]時代、休日に奴隷の[[剣闘士]]を戦わせる見世物を市民たちが楽しんだことから「他人を犠牲にして楽しむ」<ref>{{Cite web
 
|date=2006-08-26
 
|url=http://f.chiba-u.jp/english/documents/2006extension-handout.pdf
 
|title=千葉大学言語教育センター公開講座「生徒がこんな質問をしてきたら」
 
|format=PDF
 
|publisher=[[千葉大学]]
 
|accessdate=2009-07-23
 
}}
 
</ref>といった意味がある。したがって、設定そのものを表すのと併せて、[[ダブル・ミーニング]]となっているとする説がある<ref>{{Cite book|和書
 
|author=[[呉智英]]
 
|year=2001
 
|title=ロゴスの名はロゴス
 
|publisher=双葉社
 
|isbn=4-575-71199-3
 
}}</ref>。そして、ダブル・ミーニングこそが、本作に通底するテーマである。それは、1つの科白や1つの動作が2つの意味を持っていたり、見かけと実態が異なるということが、全編を通して頻発するからである。
 
* イギリスの女王[[エリザベス2世]]の妹[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット王女]]に関して、王女と民間人との恋の主人公として『ローマの休日』公開前に話題となったが、この恋は成就しなかった。そのため『ローマの休日』はこのことをモデルにしたのではと思われることもあるが、この映画のプロデューサーであったパラマウント社のライルズは明確に否定している。ただし、映画のプロモーションとしてこの事件が功を奏したことは否定していない。
 
* 映画の中で、[[エディ・アルバート]]が演じるカメラマンが使用する、ライターで[[紙巻きたばこ]]に火をつけるように見せかけて写真を撮る「ライター型写真機」は、日本製の「[[エコー8]]」である。
 
* グレゴリー・ペック演じる新聞記者ジョー・ブラッドレーと、支局長とのやりとりの中で、特ダネの代名詞として[[宋美齢]]の名前が挙げらている。(マダム・チャン・カイ・シェック)
 
 
 
== リメイク ==
 
1987年にはアメリカで、リメイク版のテレビ映画『[[新・ローマの休日]]』が[[キャサリン・オクセンバーグ]]を主演にして放映された。日本でも映画製作50周年を記念した2003年にデジタル・ニューマスター版のスペシャルDVDが販売された。
 
 
 
== 映画に登場した名所 ==
 
[[File:Audrey Hepburn and Gregory Peck at the Mouth of Truth Roman Holiday trailer.jpg|thumb|250px|「真実の口」:ここでのペックの演技は撮影時に全く台本にない、オードリーを驚かせるアドリブであったと言われる。]]
 
[[Image:Palazzo_Barberini,_Roma.jpg|thumb|200px|バルベリーニ宮殿<br />(クアットロ・ファンターネ通りに面した門)]]
 
[[Image:Roma - palazzo della galleria colonna.jpg|thumb|200px|コロッナ宮殿]]
 
* [[フォルム・ロマヌム]]([[セプティミウス・セウェルスの凱旋門|セプティミウス凱旋門]])
 
* [[トレヴィの泉]]
 
* [[スペイン広場 (ローマ)|スペイン広場]]
 
* [[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]([[G.ロッカ]])
 
* [[コロッセオ]]
 
* [[真実の口]](劇中で、グレゴリー・ペックが手を差し入れた一連の演技はアドリブである)
 
* [[サンタンジェロ城]]
 
* [[テヴェレ川]]
 
* [[コロンナ宮殿]](2階:[[勝利の柱の部屋]])
 
* [[バルベリーニ宮殿]](現国立絵画館、クアットロ・ファンターネ通りに面した門)
 
* [[ヌオーヴァ教会修道院時計塔]]
 
* [[トラヤヌスの記念柱]]
 
* [[ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂]]
 
* [[ヴェネツィア広場]]
 
* [[ボッカ・ディ・レオーネ通り]](青空市場)
 
* [[ポポロ広場]]
 
* [[サンタ・マリア・イン・モンテサント教会]]
 
* [[サンタ・マリア・イン・ミラーコリ教会]]
 
* [[ポポロ門]](フラミニオ門)
 
* [[共和国広場]]
 
* [[サンタ・マリア・イン・コスメディン教会]]
 
* [[フォルトゥーナの神殿]]
 
* [[サン・ピエトロ大聖堂]]([[バチカン市国]])
 
* [[パラッツォ・ブランカッチョ]](現国立オリエント博物館)
 
 
 
== 「ローマの休日」を題材にした作品 ==
 
* '''ドラマ'''
 
** 『ローマの休日』([[1993年]](平成5年)、[[TBSテレビ|TBS]][[Japan News Network|系列]]スペシャルドラマ、出演:[[田村正和]]、[[安田成美]]ほか)
 
* '''漫画'''
 
** 『ローマの休日』[[水野英子]]([[1963年]](昭和38年)発表の漫画化作品。祥伝社より単行本発売)
 
** 『[[9番目のムサシ#その他の人物|9番目のムサシ]]』[[高橋美由紀]]
 
*** 第2シリーズ「ミッション・ブルー」第4巻・「MISSION3」西アジア ダージェ王国皇太子アラム・アーレイ・アージェリア
 
** 『[[COMBINATION]]』[[聖りいざ]]
 
*** 第1巻・「FILE3」パミス国第1王女 プリンセス・アーリエ・ヤスコ・エレオノーラ
 
** 『[[シティハンター]]』[[北条司]](週刊少年ジャンプにて連載。集英社)
 
*** 第15巻「ハーレム地獄の巻」「TOKYOデート・スクランブルの巻」「王女誘拐!?の巻」「告白のエアポートの巻」セリジナ公国アルマ王女
 
** 『[[パタリロ]]』
 
*** 「王女様の一日」パタリロ!93、23巻6話目
 
* アニメ
 
** 『[[サイボーグ009 (アニメ)|サイボーグ009]]』(1979年版)
 
*** 第27話「美しく生きよ! 愛しき王女」モナミ王国キャサリン王女
 
** 『[[シティーハンター2]]』
 
*** 第10話・第11話「モッコリ殺し!? 王女の高貴なオーラ 前編・後編」セリジナ公国アルマ王女(原作15巻収録エピソードのアニメ化)
 
** 『[[ストライクウィッチーズ2]]』
 
*** 第5話「私のロマーニャ」 ロマーニャ公国第一公女 マリア・ピア・ディ・ロマーニャ(Maria Pier Di Romagna) :[[米澤円]]
 
* '''舞台'''
 
** ミュージカル『ローマの休日』初演:1998年10月1日~10月28日・[[青山劇場]]ほか、脚本:堀越真、演出:[[山田和也]]、アン王女:[[大地真央]] ジョー・ブラッドレー:[[山口祐一郎]]ほか、1998年度[[芸術祭]]賞受賞<ref>2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」</ref>。
 
** 演劇「ローマの休日」初演:2010年4月27日~5月9日・天王洲銀河劇場(東京)ほか、脚本・演出:[[マキノノゾミ]] 脚本:鈴木哲也。
 
::{| class="wikitable"
 
|+主要キャスト
 
!&nbsp;!!2010年!!2012年!!2017年
 
|-
 
!アン王女
 
|[[朝海ひかる]]||[[荘田由紀]]・[[秋元才加]]||朝海ひかる
 
|-
 
!ジョー・ブラッドレー
 
|colspan='3'|[[吉田栄作]]
 
|-
 
!アーヴィング
 
|colspan='3'|[[小倉久寛]]
 
|}
 
:* タカラヅカ・シネマティック『ローマの休日』初演:2016年6月 - 8月・[[中日劇場]]、[[赤坂ACTシアター]]、[[梅田芸術劇場]]メインホール、
 
::* [[宝塚歌劇団]][[雪組]]公演として、選抜メンバーにて上演。脚本・演出は[[田渕大輔]]、主演は[[早霧せいな]]<ref name="natalie160226">{{cite web|url=http://natalie.mu/stage/news/177645|title=宝塚歌劇団雪組「ローマの休日」の主な配役が発表|publisher=ステージナタリー|date=2016-02-26|accessdate=2016-02-26}}</ref>。
 
:::; キャスト
 
:::* ジョー・ブラドリー - [[早霧せいな]]
 
:::* アン王女 - [[咲妃みゆ]]
 
:::* アービング・ラドビッチ - [[彩凪翔]]・[[月城かなと]](梅田芸術劇場公演のみ<ref name="natalie160226"/>)
 
:::* マリオ・デ・ラーニ - 月城かなと・彩凪翔(梅田芸術劇場公演のみ<ref name="natalie160226"/>)
 
* '''戯曲'''
 
** 『[[レディ・アンをさがして]]』([[1989年]](平成元年))
 
*  パロデイ
 
** ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!  「ナン魔くん」で原田知世をアン王女役にしパロデイにした。
 
** とんねるずのみなさんのおかげです 石橋がペック、木梨がカメラマン、中山美穂がアンでパロデイにした。
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Roman Holiday (film)}}
 
* {{Wayback
 
| url  = http://www.roman-holiday.jp/
 
| date  = 20130203020112
 
| title = 公式サイト
 
}}{{ja icon}}
 
* {{Allcinema title|25599|ローマの休日}}
 
* {{Kinejun title|9840|ローマの休日}}
 
* {{Movie Walker|mv33398|ローマの休日}}
 
* {{Eigacom title|50969|ローマの休日}}
 
* {{Eigacom title|76248|ローマの休日 製作50周年記念デジタル・ニューマスター版}}
 
* [http://www.ntv.co.jp/kinro/before200805/before200602/lineup/2004/1029/index.html ローマの休日] - [[金曜ロードSHOW!|金曜ロードショー]](2006年8月4日放送分)
 
* {{Amg movie|41976|Roman Holiday}}
 
* {{imdb title|id=0046250|title=Roman Holiday}}
 
 
 
{{ウィリアム・ワイラー監督作品}}
 
  
 +
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[[Category:1953年の映画]]
 
[[Category:1953年の映画]]

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ローマの休日
Roman Holiday
監督 ウィリアム・ワイラー
脚本 ダルトン・トランボ
ジョン・ダイトン
原案 ダルトン・トランボ
製作 ウィリアム・ワイラー
出演者 グレゴリー・ペック
オードリー・ヘプバーン
エディ・アルバート
音楽 ジョルジュ・オーリック
撮影 アンリ・アルカン
フランク・F・プラナー
編集 ロバート・スウィンク
配給 パラマウント映画
公開 アメリカ合衆国の旗 1953年8月27日
日本の旗 1954年4月21日(佐世保
上映時間 118分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
製作費 $1,500,000(見積値)[1]
興行収入 アメリカ合衆国の旗 $5,000,000[1]
世界の旗 $12,000,000[1]
配給収入 2億8404万円[2] 日本の旗
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ローマの休日』(ローマのきゅうじつ、原題:Roman Holiday

アメリカ映画。1953年作品。ウィリアム・ワイラー監督。永遠のスター、オードリー・ヘップバーンを生み出したロマンティック・コメディの名作。さる小国の王女が訪問先のローマで一日だけの「ローマの休日」を楽しみ、さまざまな思いを胸に秘めたまま王室の公務に戻っていくという物語が、太陽をいっぱいに受けた古都の名所の数々を背景に描かれる。伝統的なハリウッド・コメディのプロットに倣いながら、「別れ」で終わるラストシーンが甘くせつない余韻を残す。王女が長い髪をばっさり切り落とすヘアサロンのシーン、スクーターを暴走させて路上を大混乱させるシーンなど、名場面の宝庫でもある。ヘップバーンは本作でアカデミー主演女優賞を受賞、華々しいキャリアのスタートをきった。



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  1. 1.0 1.1 1.2 Roman Holiday (1953) - Box office / business” (英語). IMDb. . 2011年5月18日閲覧.
  2. 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)113頁