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{{基礎情報 中国君主
 
|名      =万暦帝 朱翊鈞
 
|代数    =第14代
 
|呼称    =皇帝
 
|画像    =[[ファイル:明神宗.jpg|200px]]
 
|説明    =明神宗朝服像
 
|王朝    =明
 
|在位期間 =[[1572年]][[7月19日]] - [[1620年]][[8月18日]]
 
|都城    =北京
 
|諱      =朱翊鈞
 
|字      =
 
|小字    =
 
|諡号    =範天合道哲粛敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝
 
|廟号    =神宗
 
|生年    =[[嘉靖]]42年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]<br>([[1563年]][[9月4日]])
 
|没年    =[[万暦]]48年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]<br>([[1620年]][[8月18日]])
 
|父      =[[隆慶帝]]
 
|母      =[[孝定太后|貴妃李氏]]
 
|皇后    =[[孝端顕皇后|孝端顕皇后王喜姐]]
 
|陵墓    =定陵
 
|年号    =[[万暦]]:[[1573年]] - [[1620年]]
 
|注釈    =
 
}}
 
[[ファイル:Wanli-Emperor.jpg|thumb|250px|明神宗冕服像]]
 
'''万暦帝'''(ばんれきてい)は、[[明]]朝の第14代[[皇帝]]。[[諱]]は'''翊鈞'''(よくきん)。[[廟号]]は'''神宗'''。[[諡号]]は'''範天合道哲粛敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝'''。日本では一般的に治世の元号を取って万暦帝と呼ばれる。
 
  
== 生涯 ==
+
'''万暦帝'''(ばんれきてい)
=== 万暦の中興 ===
 
[[隆慶帝]]の第3子として生まれ、10歳(9歳という説も)で即位した。即位直後は[[内閣大学士|主席大学士]]([[中国の宰相|宰相]])[[張居正]]の手腕により、[[両税法]]にかわる[[一条鞭法]]の導入・無駄な官職の撤廃・全国的な検地・無用な公共事業の廃止などにより財政は好転し、[[満州]]の[[女真]]も[[李成梁]]により一時的に落ち着いた状態となり、内外政で大きな成果を上げた。また帝自身も幼少年期には聡明利発で、将来の大器と目されていた。
 
  
=== 堕落 ===
+
[生]&nbsp;嘉靖42(1563)
しかし[[万暦]]10年に([[1582年]])に張居正が死去し、親政を始めると一転して堕落し、寵姫鄭貴妃の偏愛による立太子問題(詳しくは[[泰昌帝]]の項を参照)が起きた。また日本の[[豊臣秀吉]]が引き起こした[[文禄・慶長の役|朝鮮の役]]においては、[[宗主国]]として[[李氏朝鮮|朝鮮]]を援助し、それ以外にも[[寧夏回族自治区|寧夏]]の[[ボハイの乱]]・[[播州区|播州]]の[[楊応龍の乱]]の鎮圧(朝鮮の役を含めて[[万暦の三征]]と呼称)などによって、軍制の腐敗と相まって財政は悪化した。
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[]&nbsp;万暦48(1620)
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中国,明の第 14代皇帝 (在位 1572~1620) 。姓名は朱翊鈞 (よくきん) 。諡は顕皇帝。廟号は神宗。[[隆慶帝]]の第3子。 10歳で即位したので,先帝の付託により大学士[[張居正]]が政治をもっぱらにした。彼は官職の整理,田地の調査など諸政の改革を行い,財政も充実した。しかし彼が没すると,帝の放漫な政治が始った。ことに長子常洛をさしおき,第3子常洵を偏愛したことから立太子問題が紛糾し,これを機に廷臣間に東林派 ([[東林党]] ) と非東林派の党争が生じた。またいわゆる万暦の三大征 (寧夏,朝鮮,貴州の兵乱) があり,特に豊臣秀吉の朝鮮の役 ([[文禄・慶長の役]] ) には膨大な戦費を費やし,国庫が窮乏したために宦官を全国に派遣し,鉱山を開き,あるいは商税を増徴したが,税吏の誅求ははなはだしく,各地で[[民変]]が起った。さらに宮中三殿の造営や満州族の興起など万暦時代は内外ともに多事であった。しかし貨幣経済の発展で商工業は繁栄し,学芸にもみるべき発展があった。
  
さらに朝廷の中では、[[顧憲成]]が復興した東林書院を中心とする[[東林党]]と、[[魏忠賢]]ら[[宦官]]勢力と結んだ非東林党の争い(党争)が激化して宦官が跋扈するようになり、また満州の女真も[[ヌルハチ]]の下で明の遠征軍を破るなど強大化して国事多難となった。
 
 
しかし万暦帝は相変わらず政治に関心を持たず、国家財政を無視して個人の蓄財に走った。官僚に欠員が出た場合でも給料を惜しんで、それを補充しないなどということを行い、このために一時期は閣僚が1人しかいない、あるいは地方長官が規定の半数しかいないなどという異常事態となった。
 
 
さらに悪化した財政への対策として(あるいは自らの貯蓄を増やすために)、全国に税監と呼ばれる宦官の徴税官を派遣して厳しい搾取を行った。この搾取に反対する民衆により税監たちがたびたび殺される事件が起こったが、万暦帝は最後まで廃止しようとはしなかった。
 
 
国家にとって不可欠な出費を惜しむ一方で、私的な事柄には凄まじい贅沢をした。例えば鄭貴妃の子である福王[[朱常洵]]を溺愛し、その結婚式のために30万両という金額を使っている(張居正が政治を執っていた十数年に国庫に積み上げた金額が400万両である)。このことで民衆の恨みを買い、後に朱常洵は蜂起した[[李自成]]軍に捕らえられた時に残忍な殺され方をしている。
 
 
後半生では25年にわたって[[後宮]]にこもり、朝政の場には全く姿を現さなかったという。その一方で[[朝鮮の役]]で突然臨朝し断固出兵を主張したときは大臣を吃驚させること少なくなかった。
 
 
== 評価 ==
 
万暦帝の治世は明の退廃と爛熟の時期であった。この時期に外国産の[[銀]]が大量に流入したことにより、経済界は好況に沸き、その影響で文化的には最盛期を迎え、[[景徳鎮]]における[[万暦赤絵]]などの陶磁器の名品が生まれた。万暦帝はこのことに気を良くしていたのだろうが、明の衰退は明らかとなっており、女真の力も増す一方であった。『[[明史]]』は「明朝は万暦に滅ぶ」と評している。
 
 
なお当時、過去の文献の修正を多々含むため毀誉褒貶の激しかった『[[本草綱目]]』の献上を受けたときに、これを絶賛して出版への便宜を与えるなど、中国[[本草学]]の発展への寄与は大きい。
 
 
[[明の十三陵]]にある万暦帝の陵墓・定陵は、[[1956年]]5月より1年かけて発掘され、公開されている。これは、中国最初の学術的古代皇帝陵墓発掘であった。遺骸毛髪から血液型がAB型であることが判明した。明代史研究、考古学研究を前進させると同時に、考古技術が未熟な中での発掘であったため、大量の文物破壊を招いた。たとえば、密封状態で保存されていた衣服など繊維製品を発掘後無造作に地上に放置したため、急速に酸化し変質・崩壊したなどである。これ以後、中国政府は21世紀の今日まで古代皇帝陵墓の発掘を許可していない。[[文化大革命]]初期の[[1966年]]8月24日、旧思想・旧文化破棄を掲げる[[紅衛兵]]らにより定陵で「批判会」が開かれ、紅衛兵の弾劾演説の後、保存されていた万暦帝の亡骸は[[孝端顕皇后]]・[[孝靖太后]]の亡骸とともにガソリンをかけられ焼却された。
 
 
== 宗室 ==
 
* [[孝端顕皇后]]王喜姐
 
**女子 栄昌公主朱軒媖 - 楊春元に降嫁した。崇禎末、公主を亡くしていた楊春元は南京へ出奔した。
 
* 皇貴妃王氏([[孝靖皇太后]])
 
**男子 泰昌帝[[泰昌帝|朱常洛]]
 
**女子 雲夢公主[[朱軒ゲン|朱軒嫄]]<ref name="実録" /> - 早世した。
 
* 皇貴妃鄭氏([[孝寧太后|孝寧太皇太后]])
 
**男子 邠哀王[[朱常ジョ|朱常漵]]<ref name="酌中志">『酌中志』</ref>  - [[産褥]]死した。
 
**男子 福恭王[[朱常洵]]
 
**男子 沅懐王{{仮リンク|朱常治|zh|朱常治}} - 夭折した。
 
**女子 寿寧公主朱軒媁 - 鍾愛された娘で冉興譲に降嫁した。傲慢な乳母が家法を振りかざして冉興譲を殴打し、公主が泣いて父母に訴えて自分も処罰された話がある。
 
**女子 雲和公主{{仮リンク|雲和公主|label=朱軒姝|zh|雲和公主}}<ref name="実録" /> - 早世した。
 
**女子 霊丘公主朱軒姚<ref name="酌中志" /> - 5月かで夭折した。
 
* 皇貴妃李氏([[孝敬太皇太后]])
 
**男子 恵王{{仮リンク|朱常潤|zh|朱常潤}}
 
**男子 桂端王[[朱常瀛]]
 
* [[周端妃|端妃周氏]]
 
**男子 瑞王[[朱常浩]]
 
* [[王栄妃 (万暦帝)|栄妃王氏]]
 
**女子 静楽公主[[朱軒キ|朱軒媯]]<ref>『静楽公主墓志銘』</ref> - 1歳で夭折した。
 
* 徳妃許氏
 
* 順妃李氏
 
**男子 永思王{{仮リンク|朱常溥|zh|朱常溥}}<ref>『大明永思王墓志銘』</ref> - 夭折した。
 
**女子 天台公主[[朱軒ビ|朱軒媺]]<ref name="酌中志" /> - 8か月で夭折した。
 
* 順妃常氏<ref name="実録">『明神宗実録』</ref>
 
* [[劉昭妃|昭妃劉氏]]
 
* [[楊宜妃|宜妃楊氏]]<ref name="実録" />
 
* 僖妃王氏<ref name="実録" />
 
* 和嬪梁氏
 
* [[李徳嬪|徳嬪李氏]]
 
**女子 仙居公主[[朱軒キツ|朱軒姞]]<ref>『仙居公主墓志銘』</ref> - 5か月で夭折した。
 
**女子 泰順公主[[朱軒姫]]<ref name="酌中志" /> - 夭折した。
 
**女子 香山公主[[朱軒トウ|朱軒嬁]]<ref name="酌中志" /> - 9か月で夭折した。
 
* 栄嬪李氏
 
* 慎嬪魏氏
 
* 敬嬪邵氏
 
* 順嬪張氏
 
* 悼嬪耿氏<ref>『悼嬪耿氏墓志銘』</ref>
 
*[[胡氏 (万暦帝の侍女)|侍御胡氏]]
 
 
==関連項目==
 
*[[市河米庵]]
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
{{明の皇帝|1572年 - 1620年||第14代}}
 
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{{DEFAULTSORT:はんれきてい}}
 
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[[Category:明の皇帝]]
 
[[Category:明の皇帝]]

2019/4/23/ (火) 10:19時点における最新版

万暦帝(ばんれきてい)

[生] 嘉靖42(1563)

[没] 万暦48(1620)

中国,明の第 14代皇帝 (在位 1572~1620) 。姓名は朱翊鈞 (よくきん) 。諡は顕皇帝。廟号は神宗。隆慶帝の第3子。 10歳で即位したので,先帝の付託により大学士張居正が政治をもっぱらにした。彼は官職の整理,田地の調査など諸政の改革を行い,財政も充実した。しかし彼が没すると,帝の放漫な政治が始った。ことに長子常洛をさしおき,第3子常洵を偏愛したことから立太子問題が紛糾し,これを機に廷臣間に東林派 (東林党 ) と非東林派の党争が生じた。またいわゆる万暦の三大征 (寧夏,朝鮮,貴州の兵乱) があり,特に豊臣秀吉の朝鮮の役 (文禄・慶長の役 ) には膨大な戦費を費やし,国庫が窮乏したために宦官を全国に派遣し,鉱山を開き,あるいは商税を増徴したが,税吏の誅求ははなはだしく,各地で民変が起った。さらに宮中三殿の造営や満州族の興起など万暦時代は内外ともに多事であった。しかし貨幣経済の発展で商工業は繁栄し,学芸にもみるべき発展があった。