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{{中国の歴史}}
 
{{中国の歴史}}
'''三国時代'''(さんごくじだい)は、[[中国]]の時代区分の一つ。広義では[[黄巾の乱]]の蜂起([[184年]])による漢朝の動揺から[[西晋]]による中国再統一([[280年]])までを指し、狭義では[[後漢]]滅亡([[220年]])から晋が天下を統一した[[280年]]までを指し、最狭義では三国が鼎立した[[222年]]から蜀漢が滅亡した[[263年]]までを指す。当項目では広義の三国時代について記載する。
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'''三国時代'''(さんごくじだい)
  
[[229年]]までに[[魏 (三国)|魏]](初代皇帝:[[曹丕]])、[[蜀漢|蜀(蜀漢)]](初代皇帝:[[劉備]])、[[呉 (三国)|呉]](初代皇帝:[[孫権]])が成立し、中国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、[[陳寿]]が著した『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』、[[明|明代]]に書かれた『[[三国志演義]]』及びさらに後世の三国時代を扱った書物によって広く知られている。
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中国,後漢滅亡後,三国時代の[[魏]][[呉]],蜀 ([[蜀漢]]) の三国が鼎立した時代。[[黄巾の乱]]を契機として後漢王朝の支配力はまったく失われ,各地に群雄が起ったが,華北を平定した[[曹操]],江南に拠る[[孫権]],蜀 (四川) に入った[[劉備]]による三国鼎立の大勢が次第に輪郭を明らかにしてきた。延康1 (220) 年曹操が死亡するとその子丕 () が跡を継ぎ,後漢の献帝の譲りを受けて即位し,国号を魏といった。これが魏の文帝である。翌年劉備は成都で帝位につき,国号を漢といった (普通それを蜀,蜀漢という) 。孫権もまた黄竜1 (229) 年建業で皇帝の位につき,国号を呉といった。ここに三国鼎立が確立した。のち魏王朝の実権は司馬氏に移り,司馬昭は景元4 (263) 年漢を滅ぼした。昭の子炎 ([[武帝]]) は泰始1 (265) 年魏の皇帝の譲りを受けて[[晋]]の国を建て,ここに三国時代は幕を閉じた。帝は大康1 (280) 年呉を滅ぼし,天下を統一した。この時代は豪族勢力の進展が著しく,天下が3つに分裂したのもこれと関連がある。三国ともに財力を確保するため屯田に力を注ぎ,兵力確保のため兵士の家に永代兵役の義務を負わせる制度を設けた。魏の[[九品官人法]]の設定,清談の流行などはこの時代において特に注目されるものである。
 
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== 歴史 ==
 
=== 前史 ===
 
後漢朝は創立当初から地方豪族の力が強く、経済力を持った彼らは中央政府に一族を官僚として送り込み、また皇帝の后に一族の娘を送り込むことで[[外戚]]となり、さらに大きな勢力を誇った。しかし[[159年]]に外戚の[[梁冀]]が[[宦官]]の力を借りた[[桓帝 (漢)|桓帝]]に誅殺された後は、宦官が中央を牛耳るようになり、そのことに豪族たちは強い不満を抱いていた。宦官は本来生殖能力を喪失した男性であるが、養子をとることにより世襲貴族となることを志向する者も現れ(魏の祖となった[[曹操]]の祖父である[[曹騰]]はその一例である)、豪族層の反感をかきたてた。
 
 
 
豪族たちは宦官勢力を濁流と呼び、自分たちを清流と呼んで宦官たちを非難した。これに対して宦官たちは[[党錮の禁]]([[禁錮]]、当時の用語で公職停止を意味する)と呼ばれる弾圧を行った。一方では悪政が続く中で民衆の生活は窮迫し、これらの民衆は[[張角]]が教祖として率いる[[太平道]]([[道教]]の源流の一つとされる宗教団体)に救いを求めるようになった。
 
 
 
多くの民衆を吸収した太平道は、[[184年]]についに反乱を起こす([[黄巾の乱]])。宦官はこの乱の発生に困惑する。宦官たちには軍の指揮は出来ないので、どうしても豪族たちを起用する必要がある。朝廷は[[霊帝 (漢)|霊帝]]の皇后[[霊思何皇后|何氏]]の兄である[[何進]]を[[大将軍]]とし、党錮の禁を解いて[[皇甫嵩]]・[[朱儁]]らを将軍に任じて鎮圧に当たらせた。官軍の奮戦により黄巾軍を何度か撃破し、途中で張角が病死したこともあり、同年のうちに鎮圧は成功した。しかし鎮圧後も中央政府の悪政は変わらず、民衆の不満も豪族たちの不満も解消されないままであり、各地に黄巾の残党が散らばったことで反乱は続いた。
 
 
 
この頃、西の[[雍州]]・[[涼州]]で[[韓遂]]・[[辺章]]・王国らが[[羌]]族や[[テイ (民族)|氐]]族とともに後漢に反逆し、後漢の[[張温]]・皇甫嵩・[[董卓]]らと激しい戦いを繰り広げた。
 
 
 
[[霊帝 (漢)|霊帝]]の時代、[[劉焉]]は地方の支配力が弱くなっていることを理由に[[刺史]]の代わりに[[州牧]]を置くことを提案した。また、劉焉も[[益州]][[刺史|牧]]となった。
 
 
 
=== 戦乱の幕開け ===
 
その中、[[189年]]に皇帝の霊帝が崩御する。その後継を巡って[[霊思何皇后|何皇后]]が生んだ劉弁と、霊帝の母の董太后に養育された劉協の間で後継争いが起こるが、何皇后側が勝利し、劉弁が皇帝に即位した([[少帝弁]])。後継争いに勝利したことで宦官勢力を押さえ込んだ[[何進]]は、名門の出身である[[袁紹]]に唆されて宦官誅滅を謀るが、逆に宦官に殺される。これを見た袁紹や袁術たちは宮中に入り込んで宦官を虐殺し始めた。この混乱の中で少帝弁と陳留王劉協は宮廷の外へと連れ出され、何進の呼びかけに応えて[[洛陽]]へやってきていた西涼の[[董卓]]により保護される。朝廷の実権を手中にした董卓は洛陽に暴政を布き、少帝を廃して陳留王を皇帝につけた([[献帝 (漢)|献帝]])。
 
 
 
[[190年]]、これに反対する[[刺史]]・[[太守]]などの[[軍閥]]たちは各地で反董卓の軍を挙げて、連合して董卓を攻めた([[陽人の戦い#反董卓連合軍|反董卓連合軍]])。連合軍と董卓軍は何度か激突するが、董卓は洛陽に火をかけて焦土とした上で、西の[[長安]]へと引き揚げ、長安に都を移した。[[袁術]]の部将の[[孫堅]]が洛陽を制圧した。
 
 
 
この時点での後の三国の創始者たちの動向であるが、魏の創始者である曹操は連合軍には参加しており、自前の兵力は少なかったが、[[鮑信]]と手を組んで、董卓軍に果敢に挑んだものの、大敗した。蜀漢の創始者である[[劉備]]は連合軍の中の[[公孫サン|公孫瓚]]の配下の一武将に過ぎなかった。呉の創始者である[[孫権]]の父の[[孫堅]]は、荊州刺史の王叡や南陽太守の張咨を殺害するなど傍若無人を極めていたが、袁術の配下に収まってからは[[陽人の戦い]]で董卓軍を破り、董卓の武将である[[華雄]]を討ち取り、洛陽を制圧するなど、目立つ活躍を見せた。
 
 
 
袁紹は董卓により擁立された長安の献帝に対抗すべく、[[幽州]]の[[劉虞]]の擁立を計画したが、袁術はこれに強く反対している。劉虞自身も皇帝になるのを拒否している。
 
 
 
この頃、中国北部では[[韓馥]]から[[冀州]]を奪い取った袁紹と幽州に割拠する[[公孫サン|公孫瓚]]が対立し、中国中部では[[豫州]]と[[荊州]][[南陽郡]]で袁術とその配下になっていた孫堅が勢力を広げていた。中国南部では荊州で[[劉表]]が、益州では劉焉が勢力を拡大していた。
 
 
 
袁術の配下の孫堅は豫州刺史であったが、191年、袁紹は[[周昂]](または[[周キン|周昕]])を豫州刺史として派遣したので、孫堅と孫堅の主である袁術は周昻(または周昕)と豫州を奪い合うこととなった。これにより反董卓連合軍は完全に崩壊して袁術と袁紹の対立が激化し、それぞれ群雄と盟約を結び対抗した。袁紹と同盟したのが曹操・劉表・周喁など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚・[[陶謙]]などである。
 
 
 
[[192年]](191年、193年の説もある)、袁紹の意を受けた荊州の劉表が袁術の背後を襲い、袁術の命令で孫堅が劉表を攻めたが、劉表の部下の[[黄祖]]のために戦死した([[襄陽の戦い]])。孫堅の軍は[[孫賁]]が継いで袁術のもとに帰還した。
 
 
 
192年1月、董卓軍の[[牛輔]]は[[李カク (後漢)|李傕]]・[[郭シ|郭汜]]・[[張済 (後漢の武将)|張済]]に命じて、[[中牟]]で袁術派に寝返っていた[[朱儁]]を破らせ、[[兗州]][[陳留郡]]・[[豫州]][[潁川郡]]の諸県を攻略させ、李傕・郭汜らは行く先々で略奪・殺戮・誘拐を行った。
 
 
 
董卓は銅貨の[[五銖銭]]を改鋳して[[貨幣]]価値を落としたため、経済混乱([[インフレーション]])を招いた。
 
 
 
[[192年]]4月、董卓は[[司徒]]の[[王允]]と部下の[[呂布]]により殺された。董卓の勢力は部下の李傕・郭汜らに引き継がれた。李傕・郭汜らは王允・呂布を破り、献帝を手中に収め、後漢政府の事実上の統率者となったが、暴政を布いたので[[三輔]]は荒廃した。
 
 
 
=== 曹操の台頭 ===
 
[[ファイル:Cao Cao scth.jpg|thumb|180px|曹操]]
 
[[ファイル:Eastern Han in 191 to 192.png|thumb|180px|192年群雄割拠図]]
 
[[ファイル:Eastern Han in 197 to 198.png|thumb|180px|198年群雄割拠図]]
 
192年、曹操は[[兗州]][[刺史|牧]]となり、兗州で[[青州 (山東省)|青州]]から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を自分の配下に納めて、急激に勢力を拡大した。
 
 
 
[[193年]]、袁術が正式な兗州刺史[[金尚]]を伴って曹操の兗州を攻めたが、青州兵を得て兵力が整っていた曹操に大敗し、さらに劉表に背後を絶たれたため、本拠地の南陽郡を捨て、[[揚州 (古代)|揚州]]の[[寿春]]に落ち延び、寿春を本拠地として割拠した。
 
 
 
193年、劉虞は公孫瓚を攻めるが、公孫瓚に敗れ、捕らえられて処刑された。
 
 
 
193年、曹操は父の曹嵩や弟の[[曹徳]]を[[陶謙]]の配下が殺したとして、敵討ちのために[[徐州]]の陶謙を攻めて大勝したが、通過した地域で多くの人を虐殺した。
 
 
 
[[194年]]、曹操の親友の[[張バク|張邈]]と部将の[[陳宮]]が呂布を迎え入れて、曹操に反逆し、曹操の領地である兗州の大半は呂布のものとなった。しかし、曹操の部下の[[荀イク|荀彧]]・[[夏侯惇]]・[[程昱]]らが曹操の本拠地を守り抜き、曹操は呂布との激戦の末に兗州から呂布を駆逐し、兗州を取り返した。呂布は徐州刺史の劉備を頼り、劉備の保護を受けた。
 
 
 
194年、[[馬騰]]・韓遂・劉焉らが長安の李傕を攻めたが、[[樊稠]]・郭汜らに大敗した。
 
 
 
194年、劉焉は死去し、劉焉の子の[[劉璋]]が益州牧となった。
 
 
 
[[195年]]、袁術の庇護下にあった[[孫策]]は、父の孫堅の服喪が明けたため、袁術のもとに出仕して[[馬日磾]]の上表により懐義校尉に任命され、江東へと進出して[[揚州 (古代)|揚州]]刺史[[劉ヨウ (揚州牧)|劉繇]]を破った。また同時期に呉郡太守[[許貢]]を破り、呉郡・丹陽郡一帯に勢力を築いた。その後も孫策は揚州の諸勢力に勝利し、急速に勢力を拡大していった。
 
 
 
[[196年]]、呂布が[[徐州]]から劉備を追い出し、徐州を支配した。その後、劉備は呂布に攻められて敗走し、曹操のもとに身を寄せた。
 
 
 
196年、李傕・郭汜らは内紛を起こし、献帝は[[楊奉]]らとともに東に逃亡して、洛陽に入った。
 
 
 
196年、曹操は荀彧・[[董昭]]らの計略に従い、献帝を曹操の拠点である[[許昌市|許]]に連れていった。曹操は献帝を道義的・政治的な後ろ盾として使い、政略を有利に進めていった。以後、許は許都と呼ばれる。196年、曹操は[[屯田]]制を開始している。
 
 
 
[[197年]]、袁術は皇帝を自称するが、このことで袁術は求心力を失い、部将の離反を招き、その勢力は急激に衰えていった。孫策はこれを契機に袁術からの独立を決意し、完全な自立勢力となった。
 
 
 
曹操は呂布・袁術などを滅ぼし、曹操に反逆した劉備を追い散らして河南から[[山東省|山東]]までの地域を統一する。一方、袁紹も公孫瓚を滅ぼして、[[河北省|河北]]・[[山西]]を領有し、曹操と袁紹とがにらみ合う状態となった。両雄は[[200年]]の黄河南岸の白馬・官渡などで激突する([[官渡の戦い]])。序盤は曹操が袁紹の部将の[[顔良]]・[[文醜]]を討ち取り、優位に立つ。しかし、曹操軍本体と袁紹軍本体の戦いで、兵力に勝る袁紹軍が勝利し、曹操は官渡の砦に篭城した。袁紹は[[豫州]]の諸郡に対し、味方になるよう誘いをかけ、曹操軍の後方に劉備らを派遣し、荒らし回らせると、曹操は本拠地の豫州の支配の維持さえ困難となり、窮地に陥った。しかし、袁紹軍から投降してきた[[許攸]]の計略を用いて、曹操が袁紹の兵糧庫を奇襲してこれを焼き払ったことをきっかけに、曹操の大勝利に終わり、中原での覇権を確固たるものとした。
 
 
 
[[202年]]、袁紹が病死すると、曹操はしばらくは袁紹の息子の[[袁譚]]・[[袁尚]]らを滅ぼすことに費やし、黒山賊の[[張燕]]を降伏させ、[[汝南袁氏|袁氏]]に味方した袁紹の甥の[[高幹]]や[[烏桓]]族を攻め下し、袁紹の旧勢力を吸収した曹操は圧倒的な大勢力となり、南下に乗り出す。
 
 
 
=== 三国鼎立へ ===
 
[[画像:Sanguo map.jpg|300px|thumb|三国時代・要図(262年):{{legend|yellow|魏}}{{legend|red|蜀漢}}{{legend|green|呉}}]]
 
[[208年]]、[[荊州]]の[[劉表]]が死去すると、曹操は南征を開始した。その頃、荊州では劉表の後継者争いが起こっており、長男の[[劉琦]]を支持する側と、次男の[[劉琮]]を支持する側に分かれていた。劉琮の方が優勢であり、結局劉琮が荊州[[州牧|牧]]に就いた。荊州では曹操軍が到来したと知ると、劉琮は[[王粲]]の勧めもあり曹操に帰順した。曹操は[[新野県|新野]]の劉備を攻めようとした。しかし、劉備軍はいち早く撤退したので曹操は[[軽騎兵|軽騎]]をもって追撃し、[[当陽県]]の[[長坂の戦い|長坂]]でこれを大いに撃破した。だが、劉備軍の被害はいたって少なく、彼らは[[長江|江東]]の孫権と同盟して曹操軍と対峙するに至った。[[周瑜]]は部将[[黄蓋]]の進言を採用して、佯降を偽装して接近に成功した黄蓋が、曹操軍の船団に火を放つと忽ち燃え広がり。曹操軍を[[火計]]で破った。周瑜が劉備と再度合流して追走すると、曹操は[[曹仁]]と[[徐晃]]を江陵の守備に、[[楽進]]を襄陽の守備に残し、自らは北方へ撤退した(「呉主伝」)。
 
 
 
戦後、劉備は劉表の長子の[[劉琦]]を上表して荊州刺史に擁立、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合し、徐州を追い出されて以来、初めて確固たる基盤を得た。敗れた曹操は北へ引き返して、以後は南征を控えて華北の経営と軍事力の回復を中心に行うことになる。孫権は劉備とともに荊州を攻め取った。孫権は南郡を獲得した、劉備は武陵・長沙・桂陽・零陵の大部分を獲得した。ほどなくして劉琦が死去したため、劉備自ら荊州牧となった。その後、劉備は京城で孫権と会見し、赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話した。[[周瑜]]を失った呉は「劉備と協調して曹操に対抗すべきだ」という[[魯粛]]の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与えることとし、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。
 
 
 
[[210年]]、孫権は[[交州]]刺史の[[歩隲|歩騭]]を派遣して、交州の実質的な支配者である[[士燮 (交阯太守)|士燮]]を服属させた。
 
 
 
この頃、曹操は長江周辺を孫権に奪われるのを恐れて、長江周辺の住民を北方に移住させようとした。だが、強制移住を嫌がった長江周辺の十数万人の住民が、長江を渡って江東(呉)に移住した。
 
 
 
西の雍州・涼州には多くの[[羌]]族が住み、豪族たちが割拠していたが、韓遂と[[馬騰]]・[[馬超]]親子が彼らの盟主であった。曹操の部下の[[鍾ヨウ|鍾繇]]・[[張既]]は韓遂・馬騰・馬超を後漢と曹操に服属させた。しかし、[[211年]]、韓遂・馬超ら豪族連合は曹操に対して反逆し、東征し、[[潼関]]まで進出したが、曹操に大敗した([[潼関の戦い]])。その後、曹操軍の[[夏侯淵]]らが韓遂・馬超ら雍州・涼州の豪族の勢力を壊滅させ、雍州・涼州を平定した。これで曹操は河北・中原地域を完全に領有することとなった。
 
 
 
[[213年]]、曹操は軍を濡須口に進め、孫権も自ら軍を率いて防衛にあたった。[[呂蒙]]、[[甘寧]]の活躍もあって、曹操はしばらく対峙したあと撤退した。([[濡須口の戦い|濡須口の戦い・第一次戦役]])。
 
 
 
[[213年]]、董昭の発案により、曹操は魏公となり、[[216年]]には曹操は魏王となった。
 
 
 
[[214年]]、劉備は[[張松]]・[[法正]]・[[ホウ統|龐統]]の謀略を用いて、劉焉の子の益州刺史の[[劉璋]]を攻め降し([[劉備の入蜀|入蜀]])、荊州に加えて益州も領有した。
 
 
 
同じ頃、孫権は[[呂蒙]]、[[甘寧]]、[[凌統]]らと出陣し、廬江郡の皖城を奪取した。
 
 
 
劉備が益州を奪取した後、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡を要求したが、劉備は[[涼州]]を手に入れてから荊州を再分割しようと答えた<ref>『三国志』蜀書 先主伝「孫權以先主已得益州、使、使報、欲得荊州。先主言須得涼州、當以荊州相與權忿之、乃遣呂蒙、襲奪長沙、零陵、桂陽三郡」</ref>。そこで業を煮やした孫権は怒り、長沙・桂陽・零陵を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、[[呂蒙]]を派遣し、長沙・桂陽・零陵を攻略させた。そこで、劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになった。
 
 
 
[[215年]]、このような劉備と孫権の険悪な情勢の中で、曹操は[[漢中郡|漢中]]にいた[[五斗米道]]の[[張魯]]への攻撃を開始し降伏させた([[陽平関の戦い]]) 。このことに危機感を抱いた劉備は魯粛の取り成しもあり、長沙・桂陽を孫権に割譲し和解した。荊州統治の係争が一応の解決を見て、孫権は10万の大軍を率いて[[合肥]]城を攻め、撤退時に[[張遼]]らの追撃を受けたが、呂蒙・凌統らが懸命に孫権を守った([[合肥の戦い]])。荊州を巡る一連の紛争は両者の間に大きな禍根を残すことになった。
 
 
 
ここで三国鼎立の形が定まった。
 
 
 
=== 三国争覇 ===
 
[[216年]]、曹操は自ら軍を率いて孫権征討に赴き、翌[[217年]]、孫権は曹操に降伏した([[濡須口の戦い|濡須口の戦い・第二次戦役]])。
 
 
 
[[219年]]、劉備は自ら漢中に出兵して、これに従軍した[[黄忠]]や[[趙雲]]の奮闘もあり、守将の夏侯淵を討ち漢中を奪った([[定軍山の戦い]])。この地を獲った劉備は漢中王を名乗る。この称号はかつて[[劉邦]]が漢中([[漢中市|南鄭]])の地で漢王を名乗ったことに倣ったものと思われる。
 
 
 
荊州の劉備領を守備していたのは[[関羽]]で、その頃の関羽は荊州北部の曹操領に対して猛烈な攻撃をかけ、曹操の部将の[[于禁]]が率いる七軍を壊滅させ、[[樊城]]・[[襄陽市|襄陽]]を包囲した([[樊城の戦い]])。一時は曹操すらうろたえて遷都を考えたほどであった。そこで曹操は、孫権に[[長江]]南部の領有を認める条件で孫権と同盟を結び、孫権に劉備を攻撃するよう求めた。かねてより荊州問題で関羽に不信感を抱いており、また呂蒙の進言もあったため、孫権は荊州攻略を呂蒙に命じた。関羽は、[[呂蒙]]・[[陸遜]]の策にはまり、孫権に捕らえられて処刑され、南郡・武陵・零陵は孫権の領有するところとなった。この戦いの結果、劉備たちと対立することが確定的となったために孫権は曹操に対して形式的ではあるが、臣従した(孫権は部下の提言もあり、一時は劉備との対立をそらすため、関羽の首を曹操の元へ送ることで打倒曹操を掲げる計画を立てたが、逆に劉備の怒りを増大させることになり対立は深まった)。
 
 
 
[[220年]]に曹操が死に、後を継いだ曹丕はついに献帝より[[禅譲]]を受けて皇帝(文帝)となり、魏を建国した。これを聞いた劉備も対抗して[[221年]]に皇帝に即位、漢の後継者と称した(蜀(蜀漢)の創設)。
 
 
 
皇帝となった劉備だったが、長年の部下である関羽と魏攻略の足がかりとなる荊州を失った怒りは激しく、孫権に対する復讐戦を企図し、反対する者を遠ざけて出兵に踏み切った。蜀漢軍は最初のうちは連戦連勝であったが、呉の陸遜の策にはまり大敗([[夷陵の戦い]])、劉備は退却し白帝城で病死した。その後を[[劉禅]]が継ぎ、諸葛亮が丞相として蜀漢の内外政を一手に引き受けることになる。
 
 
 
蜀漢に大勝した呉は、長江南部の地域に確固とした基盤を築いたことから、魏に対して従属的な姿勢をとる必然性もなくなり、[[元号]]を[[黄武]]と定め、独立色を明確にした。さらに劉備亡き後の蜀と同盟し、再び魏に対抗するようになった。
 
 
 
魏の文帝は内政面に意を砕き、新しく[[九品官人法]]を施行した。この法は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]末期まで適用されることとなる。また、[[222年]]に[[濡須口の戦い|魏は3方向から呉を攻め]]、呉を苦しめたが、疫病が流行したため退却した。
 
 
 
その後も文帝は、連年にわたり呉へ出兵を繰り返すも、[[徐盛]]らの奮戦により全て撃退された。[[226年]]に40歳で死去、[[曹叡]](明帝)が後を継いだ。
 
 
 
蜀漢の諸葛亮は魏に対する[[北伐#蜀の北伐|北伐]]作戦を最終目標とし、そのための足場固めのために[[225年]]には南征を行い、蜀漢に反逆した[[雍ガイ|雍闓]]・[[高定]]の反乱を鎮圧した。
 
 
 
2年後の[[227年]]に諸葛亮は[[出師の表]]を奉り、北伐を決行した。この戦いは7年間・5度に及び、諸葛亮は魏の[[曹真]]・[[張コウ (曹魏)|張郃]]・[[司馬懿]]・[[郭淮]]らと戦い、武都・陰平の2郡を獲得し、張郃を討ち取った。[[234年]]の最後の北伐の最中、陣中で諸葛亮は病に倒れ没した。その後の蜀漢は一旦は消極的な政策をとり、大規模な軍事侵攻作戦を実行しなかったが、[[姜維]]が軍権を握ると北伐を繰り返し国力を消耗した。
 
 
 
[[228年]]、呉の[[周魴]]が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の[[曹休]]を石亭に誘い出した。呉の陸遜は[[朱桓]]・[[全琮]]を率いて曹休と戦い、大勝した([[石亭の戦い]])。
 
 
 
呉では[[229年]]に孫権が皇帝を名乗り、一時代に1人だけの名目だった皇帝が同時に3人並ぶことになった。この時、呉と蜀漢は魏を打倒した暁の魏領分配を決めている<ref>徐州、豫州、幽州、青州は呉が、并州、涼州、冀州、兗州は蜀漢が支配するものとし、司隷は函谷関を境界線として、東は呉、西は蜀漢が占めるとした。</ref>。
 
 
 
[[230年]]に呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出したという記録があり(夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかった)、これは[[台湾]](夷州)と[[沖縄諸島]](亶州)ではないかと考えられているが、[[日本]]ではないかとも考えられている。
 
 
 
この頃、呉の[[呂岱]]は交州に出兵して、この地の独立勢力の士氏一族を滅ぼして、この地を呉の直轄とし、南海交易の利益を占めた。
 
 
 
[[234年]]から3年間、呉の[[諸葛恪]]・[[陳表]]・[[顧承]]らは揚州の非漢民族である[[山越]]を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士を6万人徴兵した。
 
 
 
[[235年]]、魏の幽州刺史の[[王雄 (三国)|王雄]]の命令を受けた[[韓龍]]は、[[鮮卑]]族の[[軻比能]]を暗殺した。
 
 
 
=== 司馬氏の台頭 ===
 
呉軍を撃退し諸葛亮の北伐を防いだ魏の司馬懿は、その軍功と権力から周囲に警戒されるようになる。この時期に[[遼東]]には公孫氏勢力が独立していたが、呉と結んで魏に対抗するようなそぶりを見せたために魏の中央は司馬懿に対して討伐を命じ、[[238年]]、これを滅ぼした。その翌年の[[239年]]、[[倭]]の[[卑弥呼]]の特使が魏に訪れた([[魏志倭人伝]])。また、魏は遼東を完全に支配下に置くことで東の[[高句麗]]と国境を接するようになり、のちの[[244年]]には武将・[[カン丘倹|毌丘倹]]が高句麗首都を陥落させている。
 
 
 
[[239年]]、曹叡は早世し、養子の[[曹芳]]が魏の皇帝となった。曹叡は死去するに際して司馬懿と皇族の[[曹爽]]に曹芳の後見を託したが、後に司馬懿は曹爽とその取り巻きに権力を奪われ、閑職へと追いやられた。これに対して司馬懿は[[249年]]に息子の[[司馬師]]らと共にクーデターを起こして曹爽一派を殺害し、権力を掌握した([[高平陵の変]])。完全に魏を牛耳った司馬懿だが、旧主の曹操に倣って帝位の簒奪は行わないまま[[251年]]に死去した。
 
 
 
その後の権力は司馬師に受け継がれ、司馬師が死ぬと[[司馬昭]]に受け継がれる。この間、[[255年]]の毌丘倹の乱([[寿春三叛#毌丘倹・文欽の乱|毌丘倹・文欽の乱]])や[[257年]]の[[諸葛誕]]の反乱([[寿春三叛#諸葛誕の乱|諸葛誕の乱]])などの司馬氏支配の魏中央政府への反乱が何度か起きるが、司馬氏に対する有効な打撃力とはなり得ず、鎮圧されていった。諸葛誕の反乱は、魏軍26万と諸葛誕・呉軍20万が1年にわたり激突した大戦であった。
 
 
 
呉では、孫権が[[皇太子]]の[[孫和]]と孫和の弟の[[孫覇]]の両人をほぼ同等に処遇したため、立太子を期待する孫覇派と廃太子を防ごうとする孫和派の対立を招いた。孫権が決断を欠いたため、対立は泥沼化し、[[吾粲]]が処刑され、陸遜が憤死するなど、国力を衰退させた。この問題は、[[250年]]、孫和が廃太子され、七男の[[孫亮]]を皇太子に立てることで決着した。孫覇は自害を命じられ、多くの孫和派と孫覇派の人物が誅殺されたり、追放された([[二宮事件]])。
 
 
 
[[252年]]に孫権は死去し、孫亮が10歳で皇帝となると、[[太傅]]・[[大将軍]]の諸葛恪が呉の政権を握った。諸葛恪は252年に孫権の死後を狙って侵攻してきた魏の[[胡遵]]・諸葛誕に大勝して声望を得るが、翌年の魏への侵攻は失敗に終わり、疫病で多くの兵士が亡くなった。これで落ちた声望を回復するために国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った皇族の[[孫峻]]による[[クーデター]]が起き、諸葛恪は殺され、孫峻が[[丞相]]となり呉の政権を握った。
 
 
 
孫峻は自分の権勢のためだけに独裁政治を行った。[[256年]]に孫峻が病死すると、孫峻の従弟の[[孫チン|孫綝]]が権力を握り、孫峻同様の独裁政治を行った。257年、魏で諸葛誕の反乱が起きると、諸葛誕と手を結んで魏を攻めるが、失敗に終わった。孫綝の影響力が低下したことを見た孫亮は孫綝の排除を図るが、逆に孫綝により廃位され、孫権の六男の[[孫休]]が代わりに擁立され皇帝となった。孫休は孫綝がクーデターを計画していると聞くと、[[張布]]・[[丁奉]]らと対策を練り、孫綝を捕らえ、処刑した。
 
 
 
蜀漢では、255年に姜維が魏を攻めて魏の雍州刺史の[[王経]]に大勝したが、256年の[[段谷の戦い]]で大敗し、蜀漢の国力を疲弊させた。[[258年]]以降、蜀漢では[[宦官]]の[[黄皓]]が政治を乱し、皇帝の[[劉禅]]は遊び呆けていた。蜀漢を滅ぼす機会と見た司馬昭は[[鍾会]]・[[トウ艾|鄧艾]]らを派遣して、[[263年]]に蜀を滅ぼした([[蜀漢の滅亡]])。
 
 
 
[[264年]]、鍾会が姜維と共に益州で独立しようと反乱を起こしたが、失敗し、混乱の中で鍾会・鄧艾ら魏将や姜維ら蜀将が討たれた。この混乱に乗じて呉の[[歩協]]・[[陸抗]]らが[[羅憲]]が守る永安城を攻めたが、羅憲は永安城を堅守し、魏の[[胡烈]]が羅憲の援軍に派遣されると、呉軍は撤退した。
 
 
 
蜀の滅亡後に魏に降伏した[[霍弋]]は南中都督に任じられ、呉の交州の[[交阯郡]]・[[九真郡]]・[[日南郡]]を制圧した。
 
 
 
=== 西晋による中国統一 ===
 
司馬昭は[[265年]]に死去し、息子の[[司馬炎]](武帝)が後を継ぐ。司馬炎は魏の[[曹奐]]からの禅譲を受けて、魏が滅び、[[西晋]]が建国された。その後、司馬炎はしばらくは内部を固めることに時間をかけた。
 
 
 
[[264年]]、呉の皇帝の孫休が病死し、[[孫晧]]が皇帝に即位したが、暴政を行い、呉の政治は乱れた。
 
 
 
[[270年]]、[[鮮卑]]の[[禿髪樹機能]]らが西晋に反乱を起こし、西晋の[[秦州]]刺史・胡烈や涼州刺史・[[牽弘]]を討ち取った。禿髪樹機能の反乱は羌族ら他の民族も参加する大規模なものだったが、[[277年]]、西晋の[[司馬駿]]・[[文鴦]]が禿髪樹機能を降伏させた。[[279年]]、禿髪樹機能は再び西晋に反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の[[馬隆]]に滅ぼされた。
 
 
 
[[271年]]、呉の[[虞シ|虞汜]]・[[陶璜]]らは交州の西晋軍を破り、交阯郡・九真郡・日南郡を制圧した。
 
 
 
[[272年]]、[[歩闡]]が呉に背き、西晋に寝返ったが、呉の陸抗がこの反乱を鎮圧した([[西陵の戦い]])。
 
 
 
[[279年]]、西晋の司馬炎は呉に出兵し、[[280年]]に[[呉の滅亡 (三国)|呉を滅ぼし]]、ついに中国統一を実現した。ここをもって三国時代は終わった。
 
 
 
統一後の武帝はまったく堕落し、女色に耽って政治を省みず、上級官僚の間では現実の政治を無視した清談が流行した。さらに武帝は、地方分権を図り一族を地方の王として任命し、大きな権力を与えたため、死後には後継者[[恵帝 (西晋)|恵帝]]が無能なために后一族らと司馬一族による権力争い([[八王の乱]])が起こった。この乱で国力を消耗した晋は[[劉淵]]による漢([[前趙]])の建国とその侵攻によって晋は統一から30年で崩壊し([[永嘉の乱]])、再び中国は分裂状態に逆戻りすることとなった。
 
 
 
=== 曹氏のその後 ===
 
曹奐の以降も晋、宋の二王の後として存続していた様子がある。子孫は魏の滅亡から200年以上、二王の後として'''陳留王'''を相続した。
 
 
 
曹奐の子の名は不明だが、[[325年]]、曹操の玄孫である[[曹勱]]が[[東晋]]によって陳留王に封じられ、[[358年]]死去した。[[363年]]子の[[曹恢]]が跡を継いだが、[[378年]]死去。<ref>『[[晋書]]』「帝紀第八」。</ref>[[383年]]子の[[曹霊誕]]が跡を継いだ。<ref>『[[晋書]]』「帝紀第九」。</ref>曹霊誕は[[408年]]死去した。<ref>『[[晋書]]』「帝紀第十」。</ref>[[420年]]、[[劉裕]]が東晋から禅譲を受け[[宋_(南朝)|宋]]となったが、劉裕に禅譲を勧める上奏に、陳留王[[曹虔嗣]]が名を連ねている。<ref name="anime">『[[宋書]]』「本紀第六」。</ref>曹虔嗣は同年死去し。<ref>『[[宋書]]』「本紀第三」。</ref>弟の[[曹虔秀]]が跡を継いだ、[[462年]]死去し。<ref name="anime">『[[宋書]]』「本紀第六」。</ref>子の[[曹銑]]が跡を継いだ。曹銑は[[473年]]死去した。<ref>『[[宋書]]』「本紀第九」。</ref>[[479年]]、[[蕭道成]]が宋から禅譲を受け[[斉_(南朝)|斉]]となったが、蕭道成に禅譲を勧める上奏に、陳留王の[[曹粲]]が名を連ねている。同年8月、曹粲は王位を除かれた。<ref>『[[南史]]』「斉本紀上第四」。ただし、陳留は前年4月に蕭道成の封地となったという記述もある。また、『[[南斉書]]』には記述無し。</ref>
 
 
 
=== 劉氏のその後  ===
 
その後、劉禅は先祖代々の土地である[[幽州]]の安楽県で'''安楽公'''に封じられた。元の皇太子である長男の[[劉セン|劉璿]]には先立たれていたため、後継者を決めることになったが、次男の[[劉瑤]]を差し置いて、六男の[[劉恂]]を後継にしようとしたため、旧臣の[[文立]]に諌められた。[[271年]]に65歳で死亡した。[[西晋]]によって、思公と[[諡]]された。
 
 
 
安楽公を継いだ劉恂は、道義を失う振る舞いをたびたび行い、旧臣の[[何攀]]達に諫言されたという。最後は[[永嘉の乱]]に巻き込まれ、劉恂も含めて一族皆殺しにされた。ただ、従孫の[[劉玄 (成漢)|劉玄]](弟・[[劉永 (蜀漢)|劉永]]の孫)だけが生き延びて、[[成漢]]を頼ったという<ref>『[[三国志]]』「蜀書四」。</ref>。
 
 
 
=== 孫氏のその後  ===
 
呉が晋に降伏すると、晋の武帝(司馬炎)は詔勅を出し、孫皓を帰命侯に封じた。太子であった[[孫瑾]]は中郎に任命され、子のうちで王に封じられていたものについては郎中に任命した。284年に孫皓は42歳で死去し、河南県において葬られた(『呉録』)。それ以外に、傍系の[[孫惠]]・[[孫秀]]・[[孫楷]]・[[孫丞]]らは西晋に仕官した。
 
 
 
孫皓の子の[[孫充]]は、八王の乱に際して反乱軍から呉王に祭り上げられた後に殺された。また、子の[[孫璠]]は東晋の元帝に対して謀反を起こしたが、鎮圧され殺された。他の子の状況は不明。東晋以後、孫晷・定夫人で歴史上有名である。
 
 
 
== 三国時代の政治 ==
 
=== 魏の政治 ===
 
[[196年]]、魏の基礎を作った[[曹操]]は[[棗祗]]・[[韓浩]]らの提言を採用し、[[屯田]]制を開始している。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。屯田制は当初は難航したが、次第に[[任峻]]らの尽力などにより軌道に乗った。[[官渡の戦い]]の時点では曹操軍は[[兵糧]]の確保に難航している。屯田制により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来た。魏の初代皇帝の[[曹丕]]も[[冀州]]の兵士5万戸を[[河南郡]]に移した。
 
 
 
曹操は降伏させた[[烏桓]]族を中国の内地に住まわせ、烏桓の兵士を軍隊に加入させた。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。
 
 
 
曹操は勢力圏の境界付近に住む住民や[[テイ (民族)|氐]]族を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにする為である。三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。
 
 
 
[[郷挙里選]]の科目の一つの[[孝廉]]には[[儒教]]知識人が主に推挙されたが、曹操勢力の幹部である[[荀イク|荀彧]]・[[荀攸]]・[[賈ク|賈詡]]・[[董昭]]・[[鍾ヨウ|鍾繇]]・[[華キン|華歆]]・[[王朗]]らが孝廉に推挙されている。曹操自身も孝廉に推挙されている。[[川勝義雄]]は「荀彧の主導で、曹操の元に多くの名士(主に儒教的知識人)が集まり、やがて名士は武将を抑えて曹操政権内で大きな権力を持った。魏公国が出来た後は、政府の(文官系の)重要官職は名士によって占められた」としている<ref name="川勝義雄著『魏晋南北朝』">川勝義雄著『魏晋南北朝』([[講談社学術文庫]])</ref>。
 
 
 
[[220年]]、魏の[[皇帝]]の曹丕は、[[陳羣]]の意見を採用し、[[九品官人法]]という官吏登用法を始めた(従来の官吏登用法は[[郷挙里選]]が有名)。九品官人法では官僚の役職を最高一品官から最低九品官までの9等の官品に分類する。また、[[郡]]の中正官が官僚候補を評価して、一品から九品までの郷品に分類する。この郷品を元に官僚への推薦が行われ、新人官僚は最初は郷品の四品下の役職に就く。例えば郷品が二品ならば六品官が官僚としての出発点(起家官と呼ばれる)となる。その後、順調に出世していけば最終的には郷品と同じ官品まで出世し、それ以上の官品へは通常は上れない。司馬懿が魏の実権を握ると、中正官の上に、郡よりも広い地域を管轄する州大中正を導入した。魏から[[司馬氏]]の[[西晋]]へ移行したころから、郷品は本人の才能より親の郷品が大きく影響するようになり、郷品の[[世襲]]が始まり、[[貴族]]層が形成されるようになった。
 
 
 
曹丕は後漢における宦官の弊害を教訓とし、宦官が一定以上の官職に就けないようにした。また、外戚や皇帝の親族の弊害も考慮し皇后の政治参加を禁止するなどして一族に大権を持たせることをほとんどしなかったが、その結果司馬氏の権力に対抗できる者が居なくなり滅亡の一因となった。
 
 
 
=== 呉の政治 ===
 
呉の皇帝の[[孫権]]は[[236年]]に[[五銖銭]]500枚、[[238年]]に五銖銭1000枚の価値を持つ貨幣を発行し、貨幣経済の充実に努めた。
 
 
 
揚州の非漢民族である[[山越]]は反逆し続け、何度も反乱を起こしてきた。呉は山越を何度も討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士としての資質の高い者を大量に徴兵した。[[諸葛恪]]や[[陸遜]]や[[賀斉]]らが山越討伐で多大な功績を挙げている。
 
 
 
魏の[[鄧艾]]は「呉の名家・豪族はみな私兵を所有し、軍勢・勢力を頼れば、独立できる力を持っている」と述べている。
 
 
 
[[川勝義雄]]は「呉の将軍は親子兄弟間で兵の世襲が認められていた。この制度は世兵制と呼ばれている。呉の将軍達は世襲を許された私兵的な屯田軍を持ち、未開発地域で厳しい軍政支配を行っていた。屯田軍は土地開発([[開拓]])の尖兵であった」としている<ref name="川勝義雄著『魏晋南北朝』" />。
 
 
 
=== 蜀漢の政治 ===
 
蜀(蜀漢)の初代皇帝になる[[劉備]]は、[[諸葛亮]]らに蜀の法律である[[蜀科]]を制定させ、法制度を充実させた。蜀科は厳しい内容であったが、公平であったと言われている。
 
 
 
劉備は[[劉巴]]の提案に従い、[[五銖銭]]100枚の価値の貨幣を作り、貨幣制度を整備した。
 
 
 
益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を図り塩府校尉(司塩校尉)を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。[[王連 (蜀漢)|王連]]は司塩校尉として多大な功績を挙げた。また、殖産興業に努め、絹(錦)の生産奨励と魏呉への輸出が行われた。
 
 
 
諸葛亮が益州南部の[[雍ガイ|雍闓]]・[[高定]]らの反乱を平定した後、異民族の多い益州南部に租税を課した。
 
 
 
蜀漢は後漢の後継王朝という名目で成立したため、官制のほとんどは後漢に倣っていた<ref>『蜀志』[[李厳]]伝では李厳への弾劾文が載せられており、そこでは車騎将軍[[劉琰]]、征西大将軍[[魏延]]に次いで[[前後左右将軍]]である[[袁綝]]、[[呉懿]]、[[高翔]]、[[呉班]]らが列挙されている。九品官人法では前後左右将軍より高位の征南将軍劉巴、征西将軍姜維らが出てくるのはその後である。</ref>。そのため宦官の専横を防ぐことができず衰退の一因となった。
 
 
 
== 国際関係 ==
 
=== 北方 ===
 
[[鮮卑]]の[[檀石槐]]が[[モンゴル高原]]の覇者になると、モンゴル高原は元[[東胡]]の鮮卑・[[烏桓]]の支配するところとなったが、檀石槐が死去すると、鮮卑は部族ごとに分かれて抗争するようになった。[[207年]]、曹操が[[袁氏]]に味方した烏桓の[[トウ頓|蹋頓]]を攻め下すと、烏桓の大半は[[魏 (三国)|魏]]に吸収されていった。鮮卑の[[軻比能]]の部族が急速に力をつけて、鮮卑の他の部族や烏桓とともに、たびたび魏に侵攻したが、[[曹彰]]・[[田豫]]・[[牽招]]・[[梁習]]・[[秦朗]]らに撃退された。[[235年]]、軻比能は魏の幽州刺史の[[王雄 (三国)|王雄]]の命令を受けた韓龍に暗殺された。
 
 
 
=== 西方 ===
 
後漢後期、[[羌]]族がたびたび西方で後漢に反逆した為、後漢は[[西域]]の支配を維持できなくなった。180年代後半、雍州・涼州で、[[韓遂]]・辺章・王国・[[馬騰]]らが羌族や[[氐]]族とともに後漢に反逆し、後漢の[[皇甫嵩]]・[[董卓]]・[[張温]]らと激闘を繰り広げた([[涼州の乱]])。後漢政府を掌握した曹操は[[鍾ヨウ|鍾繇]]・[[張既]]を派遣して、韓遂・馬騰を服従させることに成功するが、[[211年]]、韓遂・[[馬超]]ら豪族連合は羌族や氐族とともに曹操に対して反逆し、東征し、[[潼関]]まで進出したが、曹操に敗れた([[潼関の戦い]])。その後、曹操軍の[[夏侯淵]]らが韓遂・馬超ら雍州・涼州の豪族の勢力を壊滅させ、雍州・涼州を平定した。その後も羌族らはたびたび反乱を起こした。
 
 
 
[[222年]]、[[鄯善]]・[[亀茲]]・[[ホータン王国|于闐]]の王が魏に使者を派遣し、献上品を送った。これにより魏と西域との交流が再開し、魏は[[戊己校尉]]を設置した。
 
 
 
270年代、鮮卑の[[禿髪樹機能]]が羌族ら他の民族とともに西晋に反乱を起こし、雍州・涼州を危機に陥れたが、[[277年]]、西晋の[[司馬駿]]・[[文鴦]]が禿髪樹機能を降伏させた。[[279年]]、禿髪樹機能は再び西晋に反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の[[馬隆]]に滅ぼされた。
 
 
 
=== 東方 ===
 
[[238年]]、魏の[[司馬懿]]が[[遼東]]の[[公孫淵]]を滅ぼすと、魏は[[楽浪郡]]と[[帯方郡]]も攻め取った。[[242年]]、[[高句麗]]が魏に反逆すると、[[244年]]、魏の[[カン丘倹|毌丘倹]]が高句麗王の[[東川王|憂位居]]に勝利し、高句麗の都を破壊した。翌年も毌丘倹は高句麗を攻めて、勝利し、憂位居を追って、[[沃沮]]に侵攻して打ち破り、[[しゅくしん|粛慎]]の南の境界まで到達したが、憂位居には逃れられ、高句麗を滅ぼすことはできなかった。
 
 
 
[[魏志倭人伝]]によれば「倭人は帯方郡(現在の北朝鮮南西部にあたる地域)の東南、大海の中に在る。山島に依って国や邑(むら)を為している。旧(もと)は百余国あった。漢の時、朝見する者がいた。今は交流可能な国は三十国である。……」などとある。[[卑弥呼]]を女王とする[[邪馬台国]]はその中心とされ、三十国のうちの多く(二十国弱=対馬国から奴国まで)がその支配下にあったという。卑弥呼は238年以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。248年には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史[[張政]]が派遣されている。
 
 
 
=== 南方 ===
 
後漢末の混乱の中、後漢の[[交阯]][[太守]]の[[士燮 (交阯太守)|士燮]]とその一族が[[交州]]を支配し、権勢をふるった。
 
 
 
[[210年]]、[[呉 (三国)|呉]]の[[孫権]]が[[歩隲|歩騭]]を交州[[刺史]]として派遣すると、士燮とその一族は孫権の支配下に入った。士燮は毎年、香・真珠・翡翠・象牙・犀の角などの珍宝やバナナや椰子などの珍しい果物を孫権に送った。[[226年]]、士燮が死去すると、呉の[[広州 (広東省)|広州]]刺史の[[呂岱]]と交州刺史の[[戴良]]は、呉に反逆した士燮の息子の[[士徽]]を討伐して、交州を平定した。さらに呂岱は南方の国々に役人を送り、呉の宣伝を行うと、[[扶南]]・[[林邑]]・[[堂明]]の王達は呉に使者を送り、貢ぎ物を献上した。
 
 
 
蜀の滅亡後に魏に降伏した[[霍弋]]は南中都督に任じられ、交州の[[交阯郡]]・[[九真郡]]・[[日南郡]]を制圧した。[[271年]]、[[虞シ|虞汜]]・[[陶コウ|陶璜]]らは交州の西晋軍を破り、交阯郡・九真郡・日南郡を取り戻した。
 
 
 
== 後世への影響 ==
 
=== 人口減少 ===
 
この時代の前後に起きた中国大陸の人口の激減は、後の時代に大きな影響を与えた<ref>[[橋本萬太郎]]編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社)pp.86-88</ref>。
 
 
 
当時の記録を見る限りでは、黄巾の乱から続く一連の戦乱、虐殺、農民の離農、悪天候や疫病などにより、中国大陸の人口は大きくその数を減らしている。例えば、後漢末の[[桓帝 (漢)|桓帝]]の[[永寿 ()|永寿]]3年([[157年]])に5648万<ref>『[[晋書]]』「地理志」に「1067万7960戸 5648万6856人」とある。</ref>を数えた人口が、三国時代には818万人の半ばになっており、およそ7分の1になるまでの減少である<ref>『晋書』「地理志」に呉の[[赤烏]]5年([[242年]])のときに53万2千戸 240万人、『[[通典]]』「食貨七」に魏の[[景元]]4年([[263年]])のときに66万3423戸 443万2881人、同書に蜀の[[炎興]]元年(263年)のときに28万戸 94万人とある。ただし『晋書』「地理志」や『[[通典]]』「食貨七」によると、晋の[[太康 ()|太康]]元年([[280年]])には245万8969戸 1616万3863人にまで戸籍上の人口が回復している。</ref>。
 
 
 
数値が減った理由として、上述の要因の他に、屯田民は地方官ではなく典農官の管轄であったため郡県の人口統計に上がらなかった、流民が戦乱を避けて流浪中に豪族の私民になり戸籍を外れた、など統計漏れが増えた可能性も指摘されている。しかしそれでも、大陸の統一が崩れてから再統一がなるまでに、それ以前の中国史上の前例である秦末(楚漢の攻防)や前漢末(赤眉・緑林の乱)とは比較できないほど時間を要していることや<ref>橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社)p.90</ref><ref>秦末や前漢末の戦乱は、統一が敗れてから再び統一がなるまで、足掛け5年程度の期間で済んでいるが、三国時代は80年の期間、大陸の分裂が続いた。これは、人口激減による国力の大規模低下が一因ではないかとされている。また、三国時代直後に到来した[[五胡十六国時代]]においては、大陸の再統一まで実に300年の時間がかかっており、これもこの時代の人口激減の傍証とされることが多い</ref>、この時代の少し後に大陸周辺異民族の大規模な集団移住([[五胡十六国]])が起きていることから、やはり、数値は額面どおりではないにしても、相当程度の人口減少と人口希薄地帯の登場が起こった、とする見方もある<ref>橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社)pp.86-88</ref>。
 
 
 
また、中国において最初の発音記号であるとされる[[反切]]が登場したのもこの時期であり、漢民族人口の激減の為、言語・発音の混乱が起こり、その為に、為政上、文化保存上、なんらかの対応処置が必要になったのであろうと分析する説もある<ref>橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社)pp.90-92</ref>。また、地理志などの公式統計以外にも、例えば三国末期や西晋初頭の史書中に見られる各国政府高官([[皇甫謐]](晋)や陳羣(魏)、[[朱照日]](呉)等)の発言においても、「10分の1になってしまうほどの全国的な人口減少」などといった当該現象を示唆する箇所が複数あり<ref>魏を例に挙げれば、上にも出した陳羣のほか、同時代([[曹叡|明帝]]期)に[[杜恕]]というものが「魏は10州の地を領しているが、戦乱の疲弊により、戸口を計れば昔の1州にも満たない」という内容の上書を行っている。さらに、もともと人口が少なくこれに悩まされ続けた呉に至っては、西暦230年に夷州と亶州(どちらも正確な比類地は不明ながら台湾もしくは琉球、亶州は日本であるという説もある)に兵1万を送り人狩りを実施したとされる。ただし結果は、亶州にはたどり着けなかった上、夷州で数千人を捕まえたのと引き換えに兵の9割を失うという惨憺たるものであったとされる。</ref>、これらの記述も激減の傍証として使われることが多い<ref>橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社)pp.86-87</ref>(ただし、「10分の1」というのは、大幅な戸数の減少を意味する脚色で、実際には規定上郡県の戸籍には掲載されない屯田民の方が戸籍民よりも多く、彼らを含めればそこまでの戸数の減少はなかったとする見方もある<ref>[[藤家礼之輔]]『漢三国両晋南朝の田制と税制』(東海大学出版会)pp.148-152。なお、藤家は咸熙元年(264年)に屯田民を統括していた典農官が廃止され(『三国志』魏志陳留王紀)、[[泰始]]2年(266年)に各地で農官が廃止されて郡県が設置された(『晋書』武帝紀、なお地理志より同年に8郡が新設されたことが知られる)際に数十万戸から百万戸近い屯田民は戸籍に編入されたことが、魏末期から晋の太康年間にかけての戸数回復の主な要因とする。</ref>)。
 
 
 
なお、前漢末に発生した[[王莽]]の混乱前における人口数は[[平帝 (漢)|平帝]]の[[元始 ()|元始]]2年([[2年]])において5959万余<ref>『漢書』「地理志」に「1223万3062戸 5959万4978人」とある。ただし『後漢書』「郡国志」内での『帝王世紀』の引用では同年「1323万3612戸 5919万4978人」との記載がある。</REF>であり、王莽の混乱とその平定後、後漢に入った[[建武中元]]2年([[57年]])は2100万程度<ref>『後漢書』「郡国志」の注に「427万9634戸 2100万7820人」とある。</ref>で半分以下まで激減、その後持ち直し後漢末にようやく前漢末の水準より少し少ない程度に戻っている。
 
 
 
=== 文化 ===
 
曹丕・[[曹植]]兄弟は詩人としても有名で、曹植は「詩聖」と称されるなど高く評価され、曹丕は文学論である『[[典論]]』を著作し、中国文学界に大きな影響を与えた。また、蜀の諸葛亮の『[[出師表]]』は名文として高く評価され、今日でも有名である。
 
 
 
魏の[[何晏]]・[[王弼 (三国)|王弼]]らが「[[老荘思想|玄学]]」を創始し、[[老荘思想]]を発展させた。また、[[竹林の七賢]]は[[清談]]を行い、[[老荘思想]]に大きな影響を与えた。
 
 
 
蜀・西晋に仕えた[[陳寿]]は歴史書の『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』を著作した。『三国志』は高く評価され、後に[[正史]][[二十四史]]に認定されている。3世紀ごろの日本について書かれたとされる『[[魏志倭人伝]]』は、『三国志』中の「魏書」に書かれている東夷伝の倭人の条の略称である。この時代に書かれた歴史書は他に[[韋昭]]らが著した『[[呉書]]』、[[王沈 (西晋)|王沈]]が著した『[[魏書 (曖昧さ回避)|魏書]]』、[[魚豢]]が著した『[[魏略]]』などがある。
 
 
 
[[1984年]]、呉の[[朱然]]の墓から世界最古の[[名刺]]が出土している。
 
 
 
魏の[[相国]]・[[太尉]]となった[[鍾ヨウ|鍾繇]]は書道家としても評価が高く、[[楷書]]の発展に大きな影響を与えた。他にも[[皇象]]・[[邯鄲淳]]・[[胡昭]]などが書道家として活躍した(「[[中国の書道史#三国(隷楷過渡時代)]]」「[[中国の筆跡一覧#三国]]」「[[中国の書家一覧#三国]]」)
 
 
 
魏の[[馬鈞]]は[[指南車]]や水転百戯と呼ばれる水で動く[[からくり]]人形の雑技団・楽隊を作った。
 
 
 
魏の[[劉徽]]は『[[九章算術]]』の注釈のなかで、[[円周率]]を計算して、3.1416という近似値を得ている(「[[円周率の歴史]]」参照)。
 
 
 
== 歴代皇帝 ==
 
=== 魏(曹魏) ===
 
* [[曹騰|高帝]](曹騰、曹嵩の養父、漢の宦官で[[大長秋]])
 
* [[曹嵩|太帝]](曹嵩、曹操の父、漢の[[太尉]])
 
* [[曹操|武帝]](曹操、[[216年]]魏王即位)
 
# [[曹丕|文帝]](曹丕・在位[[220年]]-[[226年]])
 
# [[曹叡|明帝]](曹叡・在位226年-[[239年]])
 
# [[曹芳|斉王]](曹芳・在位239年-[[254年]])
 
# [[曹髦|高貴郷公]](曹髦・在位254年-[[260年]])
 
# [[曹奐|元帝]](曹奐・在位260年-[[265年]])
 
 
 
=== 漢(蜀漢) ===
 
# [[劉備|昭烈帝]](劉備・在位[[221年]]-[[223年]])
 
# [[劉禅|懐帝]](劉禅・在位223年-[[263年]])
 
 
 
=== 呉(東呉) ===
 
* [[孫堅|武烈帝]](孫堅、孫権の父、漢の破虜将軍)
 
* [[孫策|長沙王]](孫策、孫権の兄、漢の討逆将軍)
 
# [[孫権|大帝]](孫権・在位[[229年]]-[[252年]](国家成立は[[222年]]))
 
# [[孫亮|会稽王]](孫亮・在位252年-[[258年]])
 
# [[孫休|景帝]](孫休・在位258年-[[264年]])
 
# [[孫皓|帰命侯]](孫晧・在位264年-[[280年]])
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[魏晋南北朝表]]
 
* [[漢代の地方制度]]
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
<references/>
 
== 参考文献 ==
 
* [[陳寿]]・[[裴松之]] 『正史 [[三国志]]』 [[今鷹真]]・[[井波律子]]訳、[[ちくま学芸文庫]]。
 
*『[[三国志演義]]』 井波律子訳、[[ちくま文庫]]。[[立間祥介]]訳、[[徳間文庫]]
 
  
 
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三国時代(さんごくじだい)

中国,後漢滅亡後,三国時代の,蜀 (蜀漢) の三国が鼎立した時代。黄巾の乱を契機として後漢王朝の支配力はまったく失われ,各地に群雄が起ったが,華北を平定した曹操,江南に拠る孫権,蜀 (四川) に入った劉備による三国鼎立の大勢が次第に輪郭を明らかにしてきた。延康1 (220) 年曹操が死亡するとその子丕 (ひ) が跡を継ぎ,後漢の献帝の譲りを受けて即位し,国号を魏といった。これが魏の文帝である。翌年劉備は成都で帝位につき,国号を漢といった (普通それを蜀,蜀漢という) 。孫権もまた黄竜1 (229) 年建業で皇帝の位につき,国号を呉といった。ここに三国鼎立が確立した。のち魏王朝の実権は司馬氏に移り,司馬昭は景元4 (263) 年漢を滅ぼした。昭の子炎 (武帝) は泰始1 (265) 年魏の皇帝の譲りを受けての国を建て,ここに三国時代は幕を閉じた。帝は大康1 (280) 年呉を滅ぼし,天下を統一した。この時代は豪族勢力の進展が著しく,天下が3つに分裂したのもこれと関連がある。三国ともに財力を確保するため屯田に力を注ぎ,兵力確保のため兵士の家に永代兵役の義務を負わせる制度を設けた。魏の九品官人法の設定,清談の流行などはこの時代において特に注目されるものである。


脚注


先代:
後漢
中国の歴史
次代:
西晋


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