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{{混同|中野浩一 (47期)}}
 
{{Otheruses|競輪選手・自転車競技選手の中野'''浩'''一|国文学者の中野'''幸'''一|中野幸一|政治学者の中野'''晃'''一|中野晃一}}
 
{{複数の問題
 
|存命人物の出典明記=2010年7月
 
|参照方法=2014-10
 
|精度=2014-10}}
 
{{Infobox 自転車競技選手
 
|選手名 = 中野 浩一<br>Koichi Nakano
 
|画像 =UCI Track World Championships 2018 116.jpg
 
|本名 = 中野 浩一<br>なかの こういち
 
|愛称 = ミスター競輪<br>ムッシュ<br>世界チャン<br>九州のハヤブサ
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1955|11|14}}
 
|国籍 = {{JPN}}
 
|身長 =
 
|体重 =
 
|所属 =引退
 
|期別 = 日本競輪学校第35期生
 
|分野 = 競輪&トラックレース
 
|役割 = 選手
 
|特徴 = 捲り→自在
 
|アマ年代 =
 
|アマ所属チーム =
 
|プロ年代 = 1975-1992
 
|プロ所属チーム = 日本競輪選手会福岡支部
 
|主要レース勝利 = [[ファイル:Jersey rainbow.svg|25px]]世界選手権・プロスプリント1977 - 1986<br>KEIRINグランプリ 1985<br>日本選手権競輪 1981<br>オールスター競輪 1979 - 1980, 1988<br>競輪祭 1978, 1980 - 1981, 1983, 1987<br>全日本選抜競輪 1988 - 1989<br>新人王 1976
 
| medaltemplates = {{MedalCompetition|[[ファイル:Arc en ciel.svg|30px]][[世界選手権自転車競技大会]]}}
 
{{MedalGold|[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1977#プロ・スプリント|1977 サンクリストバル]]|プロ・スクラッチ}}
 
{{MedalGold|[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1978#プロ・スプリント|1978 ミュンヘン]]|プロ・スクラッチ}}
 
{{MedalGold|[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1979#プロ・スプリント|1979 アムステルダム]]|プロ・スクラッチ}}
 
{{MedalGold|[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1980#プロ・スプリント|1980 ブザンソン]]|プロ・スクラッチ}}
 
{{MedalGold|[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1981#プロ・スプリント|1981 ブルノ]]|プロ・スクラッチ}}
 
{{MedalGold|[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1982#プロ・スプリント|1982 レスター]]|プロ・スクラッチ}}
 
{{MedalGold|[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1983#プロ・スプリント|1983 チューリッヒ]]|プロ・スクラッチ}}
 
{{MedalGold|[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1984#プロ・スプリント|1984 バルセロナ]]|プロ・スクラッチ}}
 
{{MedalGold|[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1985#プロ・スプリント|1985 バッサノ]]|プロ・スプリント}}
 
{{MedalGold|[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1986#プロ・スプリント|1986 コロラドスプリングス]]|プロ・スプリント}}
 
|更新日 = [[2016年]][[6月29日]]
 
}}
 
'''中野 浩一'''(なかの こういち、ラテン文字表記:Koichi Nakano。[[1955年]][[11月14日]] - )は元[[競輪選手]]・[[トラックレース|自転車競技]]選手。競輪選手登録番号8959。現在は[[公益財団法人]][[JKA]]特別顧問、[[競輪]]解説者、[[日刊スポーツ]]競輪担当評論家、[[公益財団法人]][[日本自転車競技連盟]]理事(元副会長)、スポーツコメンテーター・タレント([[浅井企画]]所属)。
 
  
[[2006年]]春に競輪選手出身者では初の[[紫綬褒章]]受章<ref name=shukan>[http://www.syukan-race.co.jp/old_site/back_number/2006/0920/topics_0920.html 『中野浩一氏紫綬褒章受章を祝う会』盛大に催される 競輪選手出身者として初の受章!], (2006年9月20日号), [[Web週間レース]]</ref><ref name=jcf>[http://jcf.or.jp/?p=5861 シクリスムエコー No.128 2006年04月号], [[日本自転車競技連盟]], 16ページ</ref>。血液型・[[ABO式血液型|B型]] 身長:172cm 体重:85kg<ref name=asaikikaku>[http://asaikikaku.co.jp/talent/profile/nakanokoichi 中野浩一], [[浅井企画]]</ref>。夫人は歌手の [[NAOMI (歌手)|NAOMI]](小久保尚美)。
+
'''中野 浩一'''(なかの こういち、ラテン文字表記:Koichi Nakano。[[1955年]][[11月14日]] -
  
[[世界選手権自転車競技大会|世界選手権]]個人スプリント10連覇<ref>[http://www.hochi.co.jp/gamble/keirin/20161127-OHT1T50123.html 【あの時・中野浩一V10の軌跡】(1)大会まであと100日、肋骨5本骨折の重傷] スポーツ報知</ref><ref>[http://www.hochi.co.jp/feature/TO001019/20161127-OHT1T50132.html 【あの時・中野浩一V10の軌跡】(2)負傷、プレッシャーを吹き飛ばし「終止符」] スポーツ報知</ref><ref>[http://www.hochi.co.jp/sports/etc/20161127-OHT1T50138.html 【あの時・中野浩一V10の軌跡】(3)世界初挑戦は3位決定戦で敗退] スポーツ報知</ref><ref>[http://www.hochi.co.jp/sports/etc/20161127-OHT1T50142.html 【あの時・中野浩一V10の軌跡】(4)今も語り草 82年シングルトンとの戦い] スポーツ報知</ref><ref>[http://www.hochi.co.jp/sports/etc/20161127-OHT1T50155.html 【あの時・中野浩一V10の軌跡】(5)ヒーローに託された競輪のイメージアップ] スポーツ報知</ref>、[[特別競輪]]12勝(GP1勝、GI11勝)、賞金王6回(歴代最多)を達成している。
+
昭和後期-平成時代の競輪選手。
  
== 経歴 ==
+
昭和30年11月14日生まれ。福岡の八女工では陸上競技選手として活躍。昭和50年日本競輪学校35期生としてデビューし,18連勝。52年ベネズエラでの世界選手権プロスクラッチで優勝。61年のコロラド大会まで10連覇を達成,「世界のナカノ」とよばれた。平成4年引退。福岡県出身。
[[福岡県]][[久留米市]]出身<ref>[[ビジネス哲学研究会]]『ビジネスに活かす一流選手の言葉』</ref>。
 
 
 
[[福岡県立八女工業高等学校]]では[[陸上競技]]を行っており、高校2年のとき、[[1972年]]に開催された[[全国高等学校総合体育大会陸上競技大会|山形インターハイ]]・[[400メートルリレー走]]の第3走者として優勝に貢献。高校3年春に右太ももの肉離れで陸上競技での大学進学を断念<ref>{{Cite web|author=西日本新聞|url=http://www.nishinippon.co.jp/nishispo/amaretsu/05.html|title=九州アマ列伝5 八女工高 中野浩一|accessdate=2013年10月21日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050207115637/http://www.nishinippon.co.jp/nishispo/amaretsu/05.html|archivedate=2005年2月7日}}</ref>。高校卒業後の進路としては、祖父が中学校の校長をしていたことから体育教諭への道や<ref>[http://www.ninomiyasports.com/archives/54198 中野浩一(競輪解説者)<前編>「親父の背中をみて育った」] SPORTS COMMUNICATIONS</ref>、[[プロ野球選手]]から転身した[[尾崎将司]]に倣って[[プロゴルファー]]になる希望を持っていた。そんな中、当時競輪選手だった父・光仁から、一度トラックレーサーに乗ってみないかと奬められ、正味3ヶ月程度の練習の末、[[日本競輪学校]]第35期生試験に合格した。
 
 
 
[[1975年]]に日本競輪学校を卒業。「35期の三羽烏」と謳われる<ref><[http://www.47news.jp/blog/OUT/%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A-%E6%96%B0%E8%81%9E%E9%85%8D%E9%81%94.html 還暦攻めの銀輪  大津在住の競輪選手 井狩さん], 2012/04/09 11:41, [[京都新聞]]</ref>。同年5月3日に[[久留米競輪場]]でデビュー。その後、デビュー戦を含めて18戦無敗の記録を作った。また「九州のハヤブサ」というニックネームが付けられた<ref name=atopi>柿原恒介 [http://www.atopinavi.com/navicontent/list?c1=special&c2=1&c3=4 あとぴナビ/スペシャルインタビュー], [[あとぴナビ]]</ref>。当時、中野に対抗するため[[フラワーライン]]のグループが形成され、全国規模に拡大。最終的には九州勢VSフラワーの戦いへと移行した。{{see also|フラワーライン}}
 
 
 
その象徴が宮杯での[[岩崎誠一]]の過度の牽制であり、[[朝日新聞社杯競輪祭|競輪祭]]での[[吉井秀仁]]の発言(決勝戦終了後、中野に対し、「ザマーミロ、あー気持ちいい」と言った<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/column/bk_number/2004/08/ima.html 月刊競輪2004年8月号 「今だから言えることVol.4 吉井秀仁」]</ref>)だった。[[1978年]]には競輪祭を制し、特別競輪10回目の出場にして初めての優勝を飾った。そして[[1980年]]に、日本のプロスポーツ選手として初めて年間賞金獲得額1億円突破を達成した<ref name=asaikikaku/>。その後、[[1981年]]の[[日本選手権競輪]]を制し、[[高倉登]]以来となる史上2人目の特別競輪3連覇を達成。[[1983年]]には史上最多の6回目の賞金王の座に就いた他、[[1985年]]に開始された[[KEIRINグランプリ'85|KEIRINグランプリ]]を制し、同レースの初代優勝者となった。
 
 
 
とりわけ最盛期ともいうべき、1970年代後半〜80年代前半にかけての中野の強さは驚異的であり、特に「浩一ダッシュ」と称された捲りは非常に鋭く<ref name=atopi/>、400mバンクを1周程度しか逃げ切れる力がない先行選手だと簡単に捲られていた。なお、競技で使った[[トラックレーサー]]はナガサワレーシングサイクル([[長澤義明]])の特製専用車<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/CO004351/20130806-OYT8T00571.html 自転車フレーム職人 長沢義明さん(65) “黄金比”の骨格 銀輪支える : 地域 ], 2013年08月03日, [[読売新聞]]</ref>。
 
 
 
一方、[[1976年]]に初めて[[世界選手権自転車競技大会|世界自転車選手権]]に参戦し、プロ・スクラッチ(現 スプリント)で4位に入った。翌[[1977年]]、準決勝で当時同種目連覇中だった[[ジョン=ミカエル・ニコルソン]]を破ると、決勝では前年の3位決定戦でストレート負けを喫した菅田を逆にストレートで下し、日本人選手として初めて同大会の優勝者となった。それ以降は毎年この種目で優勝し続け、[[1986年]]までに'''10連覇を達成'''。
 
 
 
ただ中野は競輪主催団体の方針による後援が受けられたからとはいえ、世界規模のスポーツ大会において日本人が毎年出場していた例そのものが少なかった頃の活躍だっただけに、現在海外で活躍し続ける日本人スポーツ選手の先駆者となった、
 
 
 
国内でも常にトップクラスで活躍し続け、1983年競輪祭で滝澤正光を捲って優勝したのを最後に、異例の長きに渡った競輪競走第一人者の座は降りたが、[[1988年]]には通算賞金獲得額10億円を突破<ref>[https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00008/contents/004.htm 年間総売上額、5兆7500億円! 公営ギャンブル巻き返す], 1987/12/25 [[朝日新聞]]夕刊</ref>。しかし、[[1992年]]に特別競輪の中で最後まで優勝できなかった高松宮杯競輪(現在の[[高松宮記念杯競輪]])の決勝戦2着を最後に引退した。獲得賞金総額は13億1916万2077円<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/dataplaza/guest/membrecord?SNO=008959 選手通算成績|KEIRIN.JP]</ref>。
 
 
 
== 引退後 ==
 
現役時代から[[アートネイチャー]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]に出演していた関係から、一時は自転車の[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]チーム「チームアートネイチャー」の監督も務めていた<ref>[http://www.toj.co.jp/toj2/team/cheblo.html チェブロ・アートネイチャー] - 第2回ツアー・オブ・ジャパン公式サイト</ref>。しかしアートネイチャーとの契約が切れたこともあり[[2005年]]に自毛植毛No,1のシェアを誇る[[アイランドタワークリニック]]<ref>[http://www.ilandtower-cl.com/]</ref>にて自毛[[植毛]]手術を受けた<ref>[http://www.ilandtower-cl.com/nakano/index.html 中野浩一の"自分の髪"体験記]</ref>。現在、カツラは使用していない。
 
 
 
競輪がオリンピック自転車競技の「[[トラックレース#ケイリン|ケイリン]]」として正式種目に採用された2000年の[[シドニーオリンピックにおける自転車競技|シドニーオリンピック]]では、競技の解説を務めるかたわら、ケイリンでは全レース先導誘導員を務めた。
 
 
 
[[2006年]]春の[[紫綬褒章]]を[[競輪選手]]として初めて受章<ref name=shukan/><ref name=jcf/>。競輪選手としての現役時代の活躍とともに、世界選手権プロスプリント10連覇が高く評価された。中野は「現役時代に一生懸命取り組んできたことが評価されて光栄に思います。今回の受賞は自分だけの[[名誉]]ではなく、業界の後押しもあってのこと。これからも熱い思いで[[ファン]]に愛される競輪のお手伝いができれば」と喜びを語った<ref>[https://web.archive.org/web/20060514021637/http://www.nikkansports.com/race/keirin-kyotei/p-rc-tp1-060428-0003.html 中野浩一氏に紫綬褒章、競輪選手出身で初], 2006/4/28/09:53, [[日刊スポーツ]]</ref>。現在、現役時の本拠地であった[[久留米競輪場]]では彼の功績を称え、記念競輪を「中野カップレース」と名づけて開催している。
 
 
 
[[2011年]]4月より、[[日本自転車競技連盟]]強化委員長に就任。[[2013年]]7月より同連盟副会長<ref>http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2013070200989</ref>となったが、[[2015年]][[1月]]に[[松本整]]の日本代表監督解任に関する訴訟への発言により、副会長および代表理事を辞任して理事に退いた<ref>[http://jcf.or.jp/?p=42213 (公財)日本自転車競技連盟からのご報告 ] - 2015年1月16日</ref>。[[2016年]]10月より強化委員長を再任されている<ref>[http://www.nikkansports.com/sports/news/1719416.html 中野浩一氏、東京五輪へ向け選手強化委員長に復帰] - 日刊スポーツ・2016年10月4日</ref>。
 
 
 
== 競輪での主な獲得タイトルと記録 ==
 
;[[1976年]]
 
:[[競輪祭朝日新聞社杯争奪競輪王決定戦|競輪祭(新人王)]]([[小倉競輪場]])
 
;[[1977年]]
 
:*賞金王(66,139,600円)
 
;[[1978年]]
 
:競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
 
:*賞金王(82,385,200円)
 
;[[1979年]]
 
:[[オールスター競輪]]([[岸和田競輪場]])
 
:*賞金王(92,186,200円)
 
;[[1980年]]
 
:オールスター競輪([[いわき平競輪場]])
 
:競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
 
:*賞金王(111,410,600円。日本プロスポーツ選手史上初の年間獲得賞金1億円突破)
 
;[[1981年]]
 
:[[日本選手権競輪]]([[千葉競輪場]]
 
:競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
 
:*賞金王(107,685,711円)
 
;[[1983年]]
 
:競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
 
:*賞金王(109,093,600円。史上最多の6回目の座に就く)
 
;[[1985年]]
 
:*[[KEIRINグランプリ]]([[立川競輪場]]。初代優勝者)
 
;[[1987年]]
 
:競輪祭競輪王戦(小倉競輪場。同大会最多優勝記録(5回)達成)
 
;[[1988年]]
 
:[[読売新聞社杯全日本選抜競輪|全日本選抜競輪]]([[青森競輪場]])
 
:オールスター競輪(岸和田競輪場)
 
;[[1989年]]
 
:全日本選抜競輪([[前橋競輪場]])
 
*年間賞金王6回
 
*通算出走回数1236回中1着666回
 
*優勝回数 169
 
 
 
== KEIRINグランプリ出場実績 ==
 
*[[KEIRINグランプリ'85|1985年]]……'''優勝'''
 
*[[KEIRINグランプリ'86|1986年]]……3着
 
*[[KEIRINグランプリ'87|1987年]]……2着
 
*[[KEIRINグランプリ'88|1988年]]……5着
 
*[[KEIRINグランプリ'89|1989年]]……中止
 
*[[KEIRINグランプリ'90|1990年]]……2着
 
 
 
== 世界自転車選手権 ==
 
;1976年
 
:[[イタリア]]・[[レッチェ]]大会のプロ・スクラッチ(現在は[[スプリント]]、以下スプリントと表記)種目に初参加。3位決定戦で[[菅田順和]]に敗れ4位(このときの3位決定戦において、1本目は先に中野が先取していたが、雨天のため2本目が中止となった。翌日に再度行われた同決定戦において、前日の成績はノーカウントとされたばかりか、結局菅田にストレート負けを喫した)。
 
;1977年・V1
 
:[[ベネズエラ]]、[[サン・クリストバル (ベネズエラ)|サン・クリストバル]]大会。3人マッチとなった一次予選を通過。準々決勝1本目では、相手選手の反則寸前の牽制を受けて失ったが、2、3本目を連取して準決勝に進出した。準決勝では2連覇中の[[ジョン=ミカエル・ニコルソン|ジョン・ニコルソン]](豪州)と対戦。ここでも1本目を失ったが、2、3本目をいずれも連取し、決勝に進出した。決勝は、準決勝で[[ジョルダーノ・トゥッリーニ]](イタリア)を破った[[菅田順和]]との日本人選手同士の対戦となったが、2日間にわたる戦い(1本目、中野が先取したあと雨天のため中止となり、2本目は翌日早朝開催。このときは前年と異なり、前日の成績が反映された。)で破り、[[1893年]]より開始された同大会史上初の[[日本人]]選手優勝者となった。
 
;1978年・V2
 
:[[西ドイツ]]・[[ミュンヘン]]大会。決勝では[[ディーター・ベルクマン]]([[西ドイツ]])と対戦。1本目を追い込んで制したものの、2本目はベルクマンに逃げ切りを許す。しかし先行策に出た3本目、途中でベルクマンを戦意喪失させる圧倒ぶりを見せ連覇達成。その後中野は、1982年の大会で[[ヤーヴェ・カール]](フランス)に1本目を取られるまで、全てストレート勝ちを収めていくことになる。
 
;1979年・V3
 
:[[オランダ]]・[[アムステルダム]]大会。ここでも決勝はディーター・ベルクマンとの対戦となったが、2-0 のストレート勝ちを収めて3連覇達成。そしてこの年を最後に、ベルクマンは現役を退いた。
 
;1980年・V4
 
:[[フランス]]・[[ブザンソン]]大会。予選でカポンチェッリ、準々決勝で[[堤昌彦]]を撃破。準決勝では、アマチュア時代、[[メキシコシティオリンピック|メキシコ]]・[[ミュンヘンオリンピック|ミュンヘン]]の両[[夏季オリンピック|五輪]]大会においてスプリント連覇、[[世界選手権自転車競技大会|世界自転車選手権]]アマチュア部門のスプリントを7回制し、「スプリントの神様」と称された[[ダニエル・モレロン]]([[フランス]])と対戦することになった。1、2本目ともに中野は逃げの策に出、これをモレロンが追う形となったが、モレロンはいずれも追い込み不発に終わり中野のストレート勝ち。決勝でも[[尾崎雅彦]]を破り、4連覇を達成した。そして、この大会でモレロンを破ったことに対して敬意を表し、以後フランスでは「ムッシュ・ナカノ」と呼ばれるようになった。
 
;1981年・V5
 
:[[チェコスロバキア]]・[[ブルノ]]大会。準決勝で、後に名ロードレース・スプリンターとして名を馳せることになる、[[ギド・ボンテンピ]](イタリア)に圧勝。そして、この年にプロ入りを果たしたばかりの[[ゴードン・シングルトン]]([[カナダ]])と決勝で対決することになったが、1本目を逃げ切って制し、2本目は2角付近より山おろしをかけたシングルトンを捲り切り、5連覇を達成した。
 
:しかし、決勝で敗れたとはいえ、シングルトンは準々決勝で菅田順和、準決勝で[[高橋健二 (競輪選手)|高橋健二]]をいずれも力で圧倒しており、これからさらにキャリアを積めば、もっと強くなっていくであろうという考えが中野の中にあった。ひいては、翌年の大死闘の伏線となる。
 
:また、この優勝が評価されて中野は競輪選手としては史上2人目の[[日本プロスポーツ大賞]]を受賞した。
 
;1982年・V6
 
:[[イギリス]]・[[レスター]]大会。先に行われたケイリンを制覇していたシングルトンは準決勝で[[亀川修一]]を圧倒するなど、予選道中完璧な内容で決勝進出。一方中野はこの年、競輪で落車が相次いだ<ref>[http://www7b.biglobe.ne.jp/~one-eight-k-k/16773872/ 過去91〜105 我が中野浩一]</ref>ことから不調が伝えられたが、準決勝の[[ヤーベ・カール]]戦で先に一本先取され、連続連取記録は25でストップしてしまった。何とか2、3本目を取って決勝へと駒を進めたものの、決勝戦までの過程の内容は、断然シングルトンのほうが上回っていた。また、満場のスタンドはほとんど全てシングルトンを応援していたことから、決勝前にはシングルトン有利の下馬評が伝えられた。
 
:1本目、逃げるシングルトンを中野は射程圏内に入れ、左右後方を振り返るほどの余裕をもってゴール前で完全にかわしに入ったが、かわし際にシングルトンと接触して双方転倒し、互いにゴールできなかったことからノーカウントの判定となった。ところで、中野が追い抜こうとした際、シングルトンが右ひじを出してきて進路を妨害されたとして日本選手団側は抗議に出たが却下された。そしてこのシングルトンの行為が2本目の伏線に繋がる。さらに中野だけは意識が朦朧としたままの状態がしばらく続いたという<ref>当時発行されていた自転車競技マガジンの中野浩一V10物語によると、帯同していたメカニシャンの[[長澤義明]](中野が使用していた自転車のビルダーでもある)が、「しっかりしろ!まだ負けたわけではあるまい!」と鼓舞しつつ、朦朧としている中野にビンタを見舞い、それで漸く中野の意識が少しずつ回復したと述べられている</ref>。
 
:再戦1本目、ダッシュのタイミングが遅れた中野は直線手前で踏むのを諦めたことから、シングルトンが逃げ切る。そしてもう後がなくなった<ref>この再戦1本目について、中野はレース内容すら全く覚えていないということを、後に[[ミラクルC]]などのテレビ番組で言明している</ref>。
 
:2本目、またしても逃げるシングルトンを追う形となった中野は2センターから遅めの捲りを敢行。そしてこの2本目においても中野のかわし際にシングルトンは右ひじを出してきたが、中野はこれにひっかからず、今度はシングルトンだけが転倒した。この時点で中野がタイに持ち込んだ。
 
:この判定にカナダ側が抗議に出るも却下され、そればかりかシングルトンはこの際に右ひじを骨折。3本目の競走続行不可能となり棄権。中野は薄氷を踏む思いで同種目6連覇を達成した。
 
:レース後、[[国際自転車競技連合]] (UCI) はノーカウントとなった1本目ならびに2本目のシングルトンの中野に対する行為は悪質だとして、シングルトンを事実上の永久追放処分とすることに決した。UCI主管以外の大会には出場ができたが、当然、世界自転車選手権には出場できず、その後シングルトンは現役引退を余儀なくされた。
 
:また、この年の優勝により、中野は[[ジェフ・シェーレン]](ベルギー)が1932年 - 1937年に記録した同種目の連覇に並び、翌年に新記録をかけることとなった。
 
;1983年・V7
 
:[[スイス]]・[[チューリッヒ]]大会。1回戦でティンスリー、準々決勝でライアンを破った中野は、準決勝で[[オッタヴィオ・ダッツァン]](イタリア)と対戦。1本目は捲り、2本目は逃げ切って制し、連覇新記録をかけて決勝で、前年の準決勝で1本目を奪われている[[ヤーベ・カール]](フランス)と対戦することになった。しかし1、2本目とも、いずれも逃げ切り勝ちを収め7連覇。46年ぶりに連覇記録を更新した。
 
;1984年・V8
 
:[[スペイン]]・[[バルセロナ]]大会。6月に行われた[[第35回高松宮杯競輪|高松宮杯競輪]]決勝で、[[山口健治]]に押圧されて落車し、[[鎖骨骨折]]で全治2ヶ月と診断された影響を受け、万全の体調とはいかなかったが、予選、準々決勝をいずれもストレート勝ち。準決勝は新顔の[[ディーター・ギープケン]](西ドイツ)との対戦となったが、1本目逃げ切り、2本目は追い込んで勝ち、決勝に進出した。決勝ではヤーベ・カールを下したオッタヴィオ・ダッツァン(イタリア)と対戦。1本目を捲りで仕留め、2本目は逃げ切って勝ち8連覇。ついにシェーレン、[[アントニオ・マスペス]](イタリア)と並んでいた同種目最多優勝記録をも更新し、[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]に登録されることになった。
 
:また、[[公営競技]]の選手としては初めて、[[昭和天皇]]主催の秋の[[園遊会]]の招待も受けた。さらにこの年、日本競輪学校名誉教官の称号も与えられた。
 
;1985年・V9
 
:[[イタリア]]・[[バッサノ]]大会。準決勝で、前年の[[ロサンゼルスオリンピック (1984年) |ロサンゼルスオリンピック]]のスプリントで4位に入り、プロ入り初年度の[[フィリップ・ヴェルネ]](フランス)と対戦。1本目、逃げの策に出たがゴール直前、タイヤ差交わされ先取されてしまう。1982年決勝におけるシングルトン戦以来となる、後がない展開となったが、2本目は逃げ切り。3本目はバック付近でカマシに打って出たヴェルネに対し、直線半ばで抜き去り決勝進出を決めた。そして決勝では、[[松枝義幸]]をストレートで下して9連覇を達成した。
 
;1986年・V10
 
:そして10連覇目となる舞台は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[コロラドスプリングス]]。
 
:しかし試練が待ち構えていた。
 
:5月下旬、久留米競輪場で行っていた、[[高松宮記念杯競輪|高松宮杯競輪]]直前の練習中に転倒し、[[肋骨]]などを[[骨折]](折れた骨の中には[[肺]]に突き刺さっているものもあった)する大怪我に見舞われた。一時は全治3ヶ月と診断され、[[世界選手権自転車競技大会|世界自転車選手権]]出場自体も危ぶまれた。
 
:しかし、担当した寺門敬夫医師や山本トレーナーなどの尽力の甲斐もあって驚異的な回復力を見せ、ほぼ1ヶ月程度で競走可能な状態にまで持ち込み、当時世界自転車選手権の直前に行われていた、8月の[[読売新聞社杯全日本選抜競輪|全日本選抜競輪]]への出場を予定していた。だが、またしても久留米競輪場で行われていた、同大会へ向けての直前練習の際に転倒。大事にこそ至らなかったが同じ箇所を痛めてしまい、骨折が完治しないまま中野はコロラドスプリングスの世界選手権に出場することになった。
 
:しかし中野はこの年から採用された、対戦相手を決めるために行われる200メートルフライングタイムトライアルにおいて当時の同種目プロ世界新記録となる記録(10.57秒)をたたき出し、これまでの不安を一掃した。本戦1回戦では、ローリー・ベン(豪州)を圧倒。準々決勝の[[パトリック・ダ・ロシャ]](フランス)戦では、観戦に招待した両親に向かって手を振る余裕ぶりを見せた。もちろん、ダ・ロシャ戦はストレート勝ち。準決勝のディーター・ギープケン戦もストレートで下し、決勝では、同じ日本の[[俵信之]]を下した[[松井英幸]]との対戦となった。1本目は追い込んで勝った中野だが、10連覇がかかった2本目は、バックから山降ろしをかけて松井を圧倒し、ついに10連覇達成。また、3位決定戦において俵信之がギープケンを下したことから、この年の同種目は日本勢のメダル独占となった。
 
:大会終了後、中野はこの10連覇をもってスプリントから撤退すると表明。一部の外国記者から「引退か」と質問をかけられたが、中野は「スプリントにはもう出場しないが、今度はケイリンに出たい」と表明した。
 
:そしてこの年、中野の大偉業を讃え、当時の[[中曽根康弘]]首相より「[[内閣総理大臣顕彰]]」が授与されることになった。同じく内閣総理大臣顕彰の授与者として、[[アジア大会]]・[[ハンマー投]]5連覇を果たした[[室伏重信]]([[アテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪]]・[[ハンマー投]][[金メダリスト]]の[[室伏広治]]の父)もいた。
 
 
 
1990年、[[前橋競輪場|前橋]]の開催において、日本自転車関係者のたっての希望により、中野はケイリンへの出場を果たすも予選で敗退した。
 
 
 
1991年、[[ドイツ]]・[[シュトゥットガルト]]大会にもケイリンで参加したが、決勝5着。そして、これが中野が参加した最後の世界選手権となった。
 
 
 
== 競走スタイル ==
 
以下は、[[2008年]][[11月22日]]に[[NHK衛星第一放送]]で放送された[[スポーツ大陸]]の、「世界を変えた“浩一ダッシュ”〜自転車 中野浩一〜」を参考に記した。
 
*途中までは中団に位置し、残り数百[[メートル]]あたりで全力ダッシュをかけて一番前に出て、そのままゴールまで先頭を維持し続ける「捲り」という走りを最も得意とした。スプリントV10はこの走り方により成し遂げた面が大きい('''浩一ダッシュ'''とも言われた)。[[高橋健二 (競輪選手)|高橋健二]]は'''浩一ダッシュ'''を「一瞬の爆発力。ピストの走路に中野がダッシュすると、タイヤのスリップ跡が付いた」と評している。
 
*'''浩一ダッシュ'''の秘密が、競輪学校の教材に残されている。中野の場合、踏み込む時には大きく力が加わっているが、その後は全く力が加わっていない。一流選手でも力が残る人が多いのとは対照的に、中野の切り替えの見事さが際立っている。ペダルは両足で漕ぐが、右足で下向きの力を掛けている時に左足の力も残っていると、ギアを回転させる力を殺してしまうのだ。中野が高速でペダルを踏んでも絶妙なタイミングで切り替えができたのは、実は陸上競技をしていた時の練習の賜物で「踵がお尻に当たるような、足を出す時に早く巻き込むというようなイメージで、陸上練習をやっていたのが、逆に役に立っているのかなと思う。僕の自転車に乗ってる姿を見て、なんか自転車の上で走ってるようだねっていう人もいた」と述懐している。
 
*競輪競走においてダッシュは2通りある。一つは、いわゆるスタンディングと呼ばれる全くスピードに乗っていない状態からの踏み出しで'''0発進'''と呼ばれ、[[長塚智広]]が世界有数の能力を持っている。もう一つは、ある程度スピードに乗った状態からの急加速であり、[[吉岡稔真]]の'''F1ダッシュ'''(ラジオの題名)が有名である。通常、この2つはあまり同居せず、[[長塚智広]]は並のS1選手であり、[[吉岡稔真]]は常に踏み出しで遅れをとっていたが、中野はこの2つのダッシュ力においてどちらも輪界トップであったことが驚異的な成績につながることになった。なお、ダッシュ力の持続は数百メートルの範囲であり、競輪以外での中・長距離走は苦手であることを現役時代から公言している。
 
*中野の速さのもう一つの秘密は、自転車のフレームにあった。他の選手は通常、結構ハンドルにしがみついて乗るフォームになる。それに対して、中野は全速力で走る時も、腰をサドルに乗せたままペダルを漕ぐ。しかし腰を浮かせて前に行ったほうが、ペダルに力を掛けやすい。そこで、中野の自転車を製作していた長澤義明は、その走り方の特長を最大限に生かそうと考えた。フレームの形を変え、サドルの位置を前に2cmずらした。これなら安定して強い力で漕げる。さらに中野のパワーに負けないように、フレームのパイプを肉厚にした。重くはなるが、力が逃げない。安定したペダリングで強い踏み込みができるこのフレームは、中野が世界で勝った後、わずか3年でスタンダードになっていた。
 
*競輪競走1236走中9着は僅か4回で<ref>[http://www.bs4.jp/pkh-old/onair/05.html 第5回 レジェンド中野浩一] BS日テレ 「パンサーの「競輪、はじめました。」」</ref>、うち一回は落車後の再乗車によるものである。自身も「9着を取らない」ことを相当意識しており、不利な状況でもできる限りの力を尽くしたと後のインタビューで答えている。
 
 
 
== 音楽作品 ==
 
*明日につっ走れ(1977年世界選手権金銀制覇記念盤。[[菅田順和]]が歌う「男なら」との両A面)
 
*花が散る前に(作詞:小沢忍/作曲:[[石坂まさを]]、1981年発売)
 
*愛のRhapsody(NAOMIとデュエット、アートネイチャーCMソング、カップリング曲は日本自転車振興会イメージソング「トキメキは消せない」、1997年12月10日発売)
 
 
 
== 著書 ==
 
*世界一の青春―ペダルに賭けた男の意地が爆発(1981年、[[講談社]])
 
*気分はいつもブッチギリ―自分へのチャレンジなくしてトップはない!(1984年、[[日本文芸社]])
 
*中野浩一のスポーツを撃つ!!―熱きインタビュー、トッププレーヤー12人 ロマンを探れ、感動を語れ(1993年、[[日刊スポーツ出版社]])
 
*中野浩一の競輪へ行こう。―今だから話せる選手から見た競輪のすべて(1999年、[[ゴマブックス]])
 
*競輪選手になるには(2004年、[[ぺりかん社]]、[[なるにはブックス|なるにはBOOKS]]シリーズの一つ)
 
 
 
== ゲーム ==
 
*[[中野浩一監修 競輪王]]:1994年11月18日発売。[[ココナッツジャパンエンターテイメント]]より販売。[[スーパーファミコン]]用ソフト。
 
 
 
== 出演番組 ==
 
=== テレビ ===<!--
 
単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照-->
 
*解説者
 
**[[特別競輪]](現在のGP、GI、GII)中継([[1992年]]の[[全日本選抜競輪]]より)
 
***[[KEIRINグランプリ]]中継 (NHK)
 
**[[夏季オリンピック]]・自転車競技(1996年の[[アトランタオリンピック]]より)
 
**[[世界選手権自転車競技大会トラックレース]] ([[日本放送協会|NHK]])
 
**[[UCIトラックワールドカップ]] (NHK)
 
**[[ツール・ド・フランス]]中継([[フジテレビジョン|フジテレビ]] → [[J SPORTS|SKY SPORTS]])- 1992年〜2000年?(現在の[[J SPORTS cycle road race]]の前身)
 
*レギュラー番組
 
**[[独占!!サイクルスポーツ]]([[テレビ東京]])
 
**[[風にタッチ]](テレビ東京)
 
**[[気分走快]](テレビ東京)
 
**[[THE FACE アスリートの詩]](テレビ東京)  
 
**[[ミラクルC]](テレビ東京)
 
**[[中野浩一のK-ファン]]([[広島ホームテレビ]])
 
**[[中野浩一の釣り一番]]([[九州朝日放送]])
 
 
 
=== ラジオ ===
 
*[[中野浩一のフリートーク]]([[TBSラジオ]])
 
*[[サンデー強啓 本日発売]](TBSラジオ)
 
 
 
=== テレビドラマ ===
 
*新春ドラマスペシャル / 女たちの森([[フジテレビジョン|フジテレビ]])- 1987年1月1日
 
 
 
=== 広告 ===
 
*[[アイランドタワークリニック福岡]] ([[Al-Vision]])
 
*[[日清食品]] はかたんもんらーめん(1986年)
 
*[[トクホン]]「トクホンチール」「トクホンダッシュ」
 
*[[アルペン (企業)|Alpen・SPORTS DEPO]]「アルペンIGNIO電動ハイブリッド自転車」商品CM(実際に商品に乗って出演しており、CM自体も実況と解説が声のみであるものの出演していることから、自転車競技のテレビ中継の一部分を思わせる構成となっている)
 
*[[メガネのイタガキ]]
 
*[[ACジャパン]] - [[阪神・淡路大震災]]の際はスポンサーのCM自粛により頻繁に流れた。
 
 
 
== エピソード ==
 
{{出典の明記|date=2010年5月|section=1}}
 
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=== 競技に関すること ===
 
*世界選連覇中の時代に、スプリントで他選手が中野を破った事例(3本勝負において1本目ないし2本目を取ったというケースを除く)として、[[1978年]]の[[グランプリ・ド・パリ]]決勝における、[[ルッツ・ヘスリッヒ]](1位)、[[エマヌエル・ラーシュ]](2位)があるが、このときは1本勝負の3人マッチとして行われた。なお、同レースの1対1で対戦した予選では、中野はヘスリッヒ及びラーシュに勝っている。この他、エキシビションマッチではあるが、[[1979年]]に[[阪急西宮スタジアム#西宮競輪場|西宮競輪場]]で開催された[[全日本プロ選手権自転車競技大会]](全プロ大会)で[[アントン・トカシュ]]が、同じく全プロ大会において、[[1984年]]に[[京都向日町競輪場|向日町競輪場]]で[[中武克雄]](当時、[[シマノ|島野工業]]所属)が破ったケースがある(トカシュ、中武のケースは共に、1本勝負)。また、破った選手はいずれも[[アマチュア]]の選手であったことから、こうした事例につき、スプリント種目においては当時、アマのほうがプロよりもレベルが高かったという見方をする人もいるが、グランプリ・ド・パリ以外のレースは非公式であり、その見方については疑問視される点も多い。
 
 
 
=== タレント性に関すること ===
 
*[[1990年]]の前橋の世界選手権では、自身がケイリンに出場することになっていたにもかかわらず、ケイリン以外の種目について、[[日本放送協会|NHK]]テレビ中継の解説を行った。尚、競輪中継では出場する全ての選手に君づけをする。
 
*[[オールスター競輪]]ファン投票第1位回数13回は歴代最多。また、[[1981年]]から[[1991年]]まで11年連続で同第1位となっている。
 
 
 
=== ライバル ===
 
==== 競輪におけるライバル ====
 
*中野は[[井上茂徳]]をライバルと見なしていたという<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/member/column/bk_number/2005/ima/ima_349.html 今だから言えること14回 井上茂徳], 2005年6月号, [[月刊競輪]]</ref>。
 
*[[1992年]]の[[国際競輪#ワールドグランプリ|国際競輪グランプリ]]、[[寛仁親王牌]](当時は非特別競輪扱い)で4戦連続吉岡にじかマークしながらも、吉岡についていくのが精一杯だった。西王座戦で吉岡は敗退。吉岡不在となった同年6月4日の決勝戦では、往時を彷彿させる2センター捲りを敢行して[[滝澤正光]]に迫るも、わずかに及ばず2着。翌6月5日、[[日本放送協会|NHK]]朝7時のニュースで引退が報じられた。そして後日引退記者会見を行い、17年間の競走生活にピリオドを打った。
 
 
 
==== 世界選手権におけるライバル ====
 
*モレロンは、臨時コーチとしてしばし来日した際、スプリントのイロハを中野に伝授しており、中野にとって、実質的に師匠のような存在でもあった。[[1980年]]にモレロンがプロ選手として現役復帰し、世界選の準決勝で対戦することになったが、後日、「一度現役を退いた選手に絶対に勝たせてはならない。完膚なきまでに打ちのめす。」という気持ちを持って挑んだことを述懐した中野は、小細工抜きに、1、2本目と、いずれも先行策に打って出たところ、モレロンは中野に全く歯が立たず、ストレート負けを喫し完敗。大会終了後、「中野に教えることはもう何もない。」という言葉を残し、現役を引退した。そして、モレロンを破ったことにより、フランス人は「ムッシュ・ナカノ」と称して、中野に多大な敬意を払うようになった。
 
*モレロン引退後の宿命のライバルといえば、[[ゴードン・シングルトン]]であったが、死闘を演じて6連覇を達成した1982年の世界選のときよりも、決勝でストレート勝ちを収めて5連覇を達成した1981年のときのほうがシングルトンは強かったと、6連覇達成後の記者会見で言明し、報道陣をびっくりさせた。その理由として、「去年(1981年)は、力で自分(中野本人)を倒しにいっていたことを感じたから、正直、勝つのに苦労した。しかし今年(1982年)は、自分を倒したいというよりも、世界選で勝ちたいという姿勢がありありと見えた。確かに内容的には今年のほうが苦戦したように見えるが、仮に3本目を対戦することになったとしても、絶対に負けないという自信があった。」と述べている。
 
 
 
==== その他の「ライバル」 ====
 
*中野が世界選手権で初優勝した同日に、[[王貞治]]が[[ホームラン]]世界記録に並ぶ755本目を打ち、翌日のスポーツ紙の一面は王の記事ばかりで、中野の快挙はほんの小さな扱いだった。翌年の世界選手権で中野は連覇を達成したが、帰国した日の一面は、またしても王の800号が扱われ、世間の注目を集められなかった。したがって当時、王に対するライバル心は並々ならぬものがあった<ref>参考文献:中野浩一の心はいつもブッチギリ(KKベストセラーズ)</ref>。その時、中野は「世界選手権で連覇し続けようになった」という。
 
*また獲得賞金面においても王に並々ならぬライバル心を抱いていた。当時日本プロスポーツ界で最も稼いでいたとされる(CM出演料等を除く正味の稼ぎ)、王の年俸が最高でも8000万円ほど(但し『推定』年俸のため、実際の額は不明)だったが、「王さんより先に自分が日本で初めて1億円の賞金を稼ぐ選手となる。」と明言し、日本におけるプロスポーツ選手として初めて[[1980年]]に年間獲得額1億円を達成した([[競輪#歴代賞金王|当該項目]]も参照)。
 
 
 
=== その他のエピソード ===
 
*人前で涙をほとんど見せたことがなかったが、世界選手権で10連覇したときと、引退記者会見のときにはうれし涙を浮かべた。引退記者会見の際には、「今日が一番うれしい。世界選手権で初めて優勝したときは数名程度にすぎなかったのに、今日、こんなに大勢の記者の人たち(およそ250名ほどいた<ref>週間レース1992年7月5日号より</ref>)が来てくれるとは思わなかったから。」と述べた。
 
*プロポーズの言葉は「パンツ洗ってください」<ref>1986年の婚約記者会見上での話</ref>。
 
*2008年8月8日、[[NHKラジオ]]の[[北京オリンピック]]開会式中継にゲスト出演した際、[[高所恐怖症]]であることを[[増田明美]]に再三突っ込まれた<ref>オンエア中のやりとりの中での話</ref>。
 
*[[北京オリンピックにおける自転車競技・男子ケイリン#決勝|北京オリンピック・ケイリン決勝]]では、残りあと1周付近より[[中山貴雄]]アナの実況を遮り、「[[永井清史|永井]]、詰めろ!」、「永井行け!」等と再三再四絶叫。しかしその後、[[スポーツ新聞]]等に、「(興奮した自分が恥ずかしくて)決勝のときの実況中継は二度と見たくない。」と述べた<ref>一例として、2008年に行われたふるさとダービー福井決勝戦中継において同様の話をしていた。</ref>。
 
*同姓同名の競輪選手(福岡47期・選手登録番号10234)が存在し、しかもホームバンクは同じく久留米競輪場。その選手のニックネームは「にせもん」<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/dataplaza/guest/membprofile?SNO=010234 選手プロフィール]</ref>とのこと。本家の倍の長さの選手生活を送り2016年7月8日付で引退した<ref>[http://www.daily.co.jp/horse/2016/07/10/0009271985.shtml 【競輪】中野浩一がついに引退!「ニセモノ」とやじられ35年] [[デイリースポーツ]]2016年7月10日付</ref>。
 
*[[黄金井光良]]が、41歳の年齢で迎えた1976年の立川競輪場のレースで、当時A級5班<ref>当時の競輪の選手ランク付けは、A級5班、B級2班制となっていた。</ref>だった中野が単騎であったことからそのマークについたところ、勝負どころで中野の踏み出しに全くついていけず、その後ズルズルと後退してしまった。当時黄金井はA級1班<ref>競輪選手全体で120名しかいなかった</ref>だったが、このレースを境に自分はもう、トップクラスの選手としてやっていくのはムリだと感じたという<ref>[http://urawa.cool.ne.jp/chiefambco/20000301.html 2000年3月1日付東京新聞]</ref>。 
 
*10枚所持していた[[マイヨ・アルカンシエル]]を一部知人に譲ったりしたため、現在は手元にほとんど残っていないらしい(本人談)<ref>[http://blog.goo.ne.jp/kumataro2004/e/41a7be5e0f8cff21b45dc75237fbb702 世界選手権トークショー@NHK] - Honk de Bonk 2010年5月1日付記事</ref>。
 
*現役の競輪選手として、[[日本競輪学校]]で最初に練習を行ったのは、[[久保千代志]]と中野である<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/column/bk_number/2004/05/ima.html 今だからいえること Vol.1]</ref>。
 
*[[松本整]]は、自ら懇願して中野と一緒に練習するようになったことを契機に、中野を自身の師匠のような存在として捉え、自身の引退のことについても、身内以外では、中野だけにしか事前に話していなかったことを告白している<ref>「伝説」競輪界の鉄人・松本整 - 日刊スポーツ(大阪版)2008年10月15日〜10月18日、10月21日〜10月25日 </ref>。
 
*「ミスター・赤ヘル」こと、[[山本浩二]]と親交が長い<ref>[http://www7b.biglobe.ne.jp/~one-eight-k-k/28694136/ 【172】〜【181】我が中野浩一 の【178】]</ref>。
 
*[[1985年]]の[[オールスター競輪]]では、全ての競走において、[[マイヨ・アルカンシエル]]を着用して出走した。また、同年の競輪祭初戦でも同様に着用して出走した。
 
*[[日本名輪会]]において発足時からの会員であるが、現在は公務優先のため退会している<ref>[https://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/column/tokusyu/2016/20160701.html 井上和巳のバンクのつぶやき] - [[月刊競輪]]WEB(KEIRIN.JP)・2016年7月1日</ref>。
 
*「赤い隼」と呼ばれたこともあるほど赤色が好きで、レーサーのフレームはずっと赤としており、また3番車(赤いヘルメットに赤い上着)になることにこだわりを持っていた。最後のレース、グランドスラムを賭けた高松宮杯決勝レースも3番車であった。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*[http://www7b.biglobe.ne.jp/~one-eight-k-k/81981214/ 我が世界V10男・中野浩一【1】〜【150】]
 
*[http://www7b.biglobe.ne.jp/~one-eight-k-k/25524243/ 我が世界V10男・中野浩一【151】〜【230=完】]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://asaikikaku.co.jp/talent/profile/nakanokoichi 浅井企画 所属タレントプロフィール]
 
*[http://ameblo.jp/v10-arcen/ 中野浩一 オフィシャルブログ 「輪 ワッ 和」 Powered by Ameba]
 
*[http://www.cyclingarchives.com/coureurfiche.php?coureurid=2146 プロフィール] - Cycling Archives(英語)
 
*[https://web.archive.org/web/20050207115637/http://www.nishinippon.co.jp/nishispo/amaretsu/05.html%E3%80%80%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E3%82%A2%E3%83%9E%E5%88%97%E4%BC%9D5%E3%80%80%E5%85%AB%E5%A5%B3%E5%B7%A5%E9%AB%98%E3%80%80%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%B5%A9%E4%B8%80]
 
 
 
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[[Category:日本の自転車選手]]
 
[[Category:日本の自転車選手]]

2019/4/26/ (金) 16:05時点における最新版

中野 浩一(なかの こういち、ラテン文字表記:Koichi Nakano。1955年11月14日 - )

昭和後期-平成時代の競輪選手。

昭和30年11月14日生まれ。福岡の八女工では陸上競技選手として活躍。昭和50年日本競輪学校35期生としてデビューし,18連勝。52年ベネズエラでの世界選手権プロスクラッチで優勝。61年のコロラド大会まで10連覇を達成,「世界のナカノ」とよばれた。平成4年引退。福岡県出身。



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