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{{基礎情報 武士
 
| 氏名 = 井伊直弼
 
| 画像 = Ii Naosuke.jpg
 
| 画像サイズ = 250px
 
| 画像説明 = 「井伊直弼像」 [[狩野永岳]]筆 彦根城博物館蔵 万治元年 (1860年)
 
| 時代 = [[江戸時代]]末期
 
| 生誕 = [[文化 (元号)|文化]]12年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]([[1815年]][[11月29日]])
 
| 死没 = [[安政]]7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[1860年]][[3月24日]])
 
| 改名 = 鉄之介→鉄三郎([[幼名]])→ 直弼
 
| 別名 = [[雅号]]:埋木舎、柳王舎、宗観<br />[[愛称|渾名]]:井伊の赤鬼
 
| 戒名 = 宗観院柳暁覚翁
 
| 墓所 = [[豪徳寺]]([[東京都]][[世田谷区]])
 
| 官位 = [[従四位|従四位下]][[侍従]]兼[[玄蕃寮|玄蕃頭]]、[[近衛府|左近衛権少将]]、[[掃部寮|掃部頭]]、左近衛権中将、[[従四位|従四位上]]、[[正四位|正四位上]]
 
| 幕府 = [[江戸幕府]][[大老]]
 
| 主君 = [[徳川家慶]]→[[徳川家定|家定]]→[[徳川家茂|家茂]]
 
| 藩  = 近江[[彦根藩]]主
 
| 氏族 = [[井伊氏]]
 
| 父母 = 父:[[井伊直中]]、母:[[君田富|お富の方]]<br />養父:''[[井伊直亮]]''
 
| 兄弟 = [[井伊直清|直清]]、[[じょう姫|穠姫]]、[[井伊直亮|直亮]]、[[井伊中顕|中顕]]、[[中川久教]]、[[内藤政成]]、[[松平勝権]]、[[井伊直元|直元]]、[[内藤政優]]、'''直弼'''、[[内藤政義]]
 
| 妻  = [[正室]]:'''[[貞鏡院|昌子]]'''([[松平信豪]]女)<br />[[側室]]:千田静江(千田高品の養女、秋山正家の娘)、西村里和(西村本慶の娘)
 
| 子  = '''[[井伊直憲|直憲]]'''、[[井伊直咸|直咸]]、[[井伊直安|直安]]、[[井伊直達|直達]]、[[松平千代子|弥千代]] ([[松平頼聰]]室)、待子([[青山幸宜]]室)
 
| 特記事項 =
 
}}
 
'''井伊 直弼'''(いい なおすけ)は、[[幕末]]の[[譜代大名]]。[[近江国|近江]][[彦根藩]]の第15代[[藩|藩主]](16代藩主、13代当主という数え方もある<ref group="注釈"  name="note">ノートページ参照</ref>)。幕末期の[[江戸幕府]]にて[[大老]]を務め、[[日米修好通商条約]]に調印し、[[開国#日本の開国|日本の開国]]近代化を断行した<ref name=hikae>{{Cite |和書|others=[[山本博文]]監修|title=江戸時代人物控1000|date=2007|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-626607-6|page=22-23}}</ref>。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが([[安政の大獄]])、それらの反動を受けて暗殺された([[桜田門外の変]])。
 
  
[[幼名]]は'''鉄之介'''(てつのすけ)、のち、'''鉄三郎'''(てつさぶろう)。[[諱]]は'''直弼'''(なおすけ)。[[雅号]]には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎<!--(?みどりのや?)-->、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、[[字体#異字体|異字体]]:[[wikt:无|无]]根水)がある。大獄を行って以降は'''井伊の赤鬼'''(いいのあかおに)の[[愛称|渾名]]でも呼ばれた。
+
'''井伊 直弼'''(いい なおすけ)
  
== 生涯 ==
+
江戸時代末期の幕府大老。彦根藩主直中の 14男。部屋住みの頃,文武を修業。国学者長野主膳に師事。嘉永3 (1850) 年,長兄直亮の死後彦根藩主となる。掃部頭。ペリー来航に際しては開国主義を幕府に進言,また[[将軍継嗣問題]]では血統論から紀伊の徳川慶福を推し,攘夷派の一橋慶喜を推す水戸斉昭 ([[徳川斉昭]] ) と対立した。老中堀田正睦らの要請で,安政5 (58) 年4月大老に就任。条約勅許を得ようと朝廷に圧力をかけ,また同年6月,専断をもって日米修好通商条約 ([[安政五ヵ国条約]] ) の調印を断行。これに反対する水戸派や攘夷浪士らを大量処罰したため ([[安政の大獄]] ) ,同7年桜田門外で水戸浪士団に斬殺された。 ([[桜田門外の変]] )  
=== 家督相続まで ===
 
[[文化 (元号)|文化]]12年([[1815年]])10月29日、第13代藩主(14代藩主、11代当主という数え方もある<ref group="注釈"  name="note"/>)・[[井伊直中]]の十四男として[[近江国]][[犬上郡]](現在の[[滋賀県]][[彦根市]]金亀町)の[[彦根城]]の二の丸で生まれる。母は側室のお富。
 
  
兄弟が多かった上に[[庶子]]であったこともあり、養子の口もなく<ref group="注釈">もっとも、全くなかったわけではない。[[延岡藩]]の後継候補として弟(後の[[内藤政義]])とともに候補として名前が挙がったことはある。</ref>、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間を300俵の[[部屋住み]]として過ごした。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
この間、近江市場村の医師である[[三浦北庵]]の紹介で、[[長野主膳]]と師弟関係を結んで[[国学]]を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、[[埋木舎]](うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らした。この頃熱心に[[茶道]](石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも[[和歌]]や[[鼓]]、[[禅]]、兵学、[[抜刀術|居合術]]を学ぶなど、聡明さを早くから示していた。
 
 
 
ところが[[弘化]]3年([[1846年]])、第14代藩主で兄の直亮の[[世子]]であった[[井伊直元]](直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定する。
 
 
 
嘉永3年([[1850年]])11月21日、直亮の死去を受け[[家督]]を継いで藩主となる。嘉永5年([[1852年]])、[[丹波亀山藩]]主[[松平信豪]]の次女・昌子([[貞鏡院]])を娶った。
 
 
 
=== 幕末の動乱の中で ===
 
彦根藩時代は[[藩政改革]]を行い、名君と呼ばれた。また、江戸城では[[溜詰]]として、[[将軍継嗣問題]]と[[日米修好通商条約]]調印問題をめぐり存在感を示す。
 
 
 
嘉永6年([[1853年]])、[[黒船来航]]に伴う江戸湾([[東京湾]])防備に活躍したが、[[老中]]首座の[[阿部正弘]]がアメリカの要求に対する対策を諮問してきた時には、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と[[開国]]を主張している(ただし、直弼はもともとは[[鎖国]]論者であり、彼の開国論を「政治的方便」とする説もある([[#人物・逸話|後述]]))。
 
 
 
阿部正弘は、幕政を従来の譜代大名中心から[[雄藩]]([[徳川斉昭]]、[[松平春嶽|松平慶永]]ら)との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。斉昭はたびたび[[攘夷]]を強く唱えた。しかしこれは、溜詰の筆頭であり、また自ら開国派であった直弼としては許しがたいものであった。直弼ら溜詰諸侯と阿部正弘・徳川斉昭の対立は、[[日米和親条約]]の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。このため斉昭は阿部に、開国・通商派の老中・[[松平乗全]](直弼とは個人的に書簡をやり取りするほど親しかった)、[[松平忠固]]の2名の更迭を要求した。
 
 
 
安政2年([[1855年]])8月4日、阿部はやむなく両名を老中から退けた。直弼は猛烈に抗議し、溜詰の意向を酌んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫った。阿部はこれまたやむなく溜詰の[[堀田正睦]](開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立はひとまず収束したが、これは乗全、忠固の罷免に対して直弼を筆頭とする溜詰諸侯が一矢報いた形といえる。
 
 
 
安政4年([[1857年]])6月17日に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜詰の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。さらに直弼は第13代将軍・[[徳川家定]]の継嗣問題で[[紀伊藩]]主の徳川慶福を推挙し、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]を推す[[一橋派]]の徳川斉昭との対立を深めた。
 
 
 
=== 大老就任 ===
 
松平忠固や[[水野忠央]](紀州藩付家老、[[紀伊新宮藩|新宮藩]]主)ら[[南紀派]]の政治工作により、安政5年([[1858年]])4月23日、直弼は[[大老]]に就任した。大老就任の直接のきっかけは、4月21日、[[孝明天皇]]からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が戻り、将軍[[徳川家定]]に復命した際、堀田は[[松平春嶽]]を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定は「家柄からも人物からも大老は井伊直弼しかいない」と言ったため、急遽直弼を大老とするよう将軍周辺が動いた。4月22日には将軍側近の[[薬師寺元真]]が直弼邸を訪問し、大老就任を説得している<ref name="koyo">「公用方秘録」</ref>。
 
直弼は勅許なしの条約調印に反対であった。6月中旬、清で[[アロー号事件]]が休戦となったことをきっかけにハリスが神奈川沖まで軍艦でやってきて即時調印を要求し、それを受けて6月18日に行われた幕閣会議でも、直弼と若年寄[[本多忠徳]]のみが勅許を得てからの条約調印を主張した。急ぎ勅許を得る間、ハリスとの交渉を引き延ばすよう交渉するため、下田奉行の[[井上清直]]と[[目付]]の[[岩瀬忠震]]をハリスのもとに派遣したが、即刻の調印を目指していた井上・岩瀬は、やむを得ない場合は調印していいかと直弼に尋ねると、直弼は「その場合は致し方ないが、できるだけ引き延ばすように」と回答。これを受け、井上・岩瀬は調印の承諾を得たとみなして、ハリスのもとに行くとその日のうちに調印した<ref name="koyo"/>。こうして、[[孝明天皇]]の勅許を得られぬまま、6月19日にポーハタン号上で[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]との間に[[日米修好通商条約]]が調印される。これが違勅調印であるとして、一橋派から攻撃を受ける。家定の継嗣問題では同月25日に徳川慶福を後継に決定し、慶福は名を[[徳川家茂]]と改めて同年12月1日、征夷大将軍(第14代)の宣下を受けた。
 
 
 
直弼の対応に憤った水戸藩士らが朝廷に働きかけた結果、孝明天皇は、安政5年8月8日、[[戊午の密勅]]を幕府の他、[[水戸藩]]にも下して幕府政治を非難した。これは、幕府の立場から見ると、江戸時代の幕藩体制を無視した行為であり、社会秩序の崩壊につながる行為である。
 
 
 
前代未聞の朝廷の政治関与に対して、幕府は厳しい態度で取り調べを進める。長野主膳からの報告により、直弼は戊午の密勅の首謀者を[[梅田雲浜]]と断じ、[[京都所司代]][[酒井忠義 (若狭国小浜藩主)|酒井忠義]]に捕縛させ、[[安政の大獄]]の端緒を開いた。直弼はまた、無勅許調印の責任を自派のはずの堀田正睦、松平忠固に着せて両名を閣外に逐いやった。代わって[[太田資始]]、[[間部詮勝]]、松平乗全の3名を老中に起用し、[[尊皇攘夷]]派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようとした。さらに、水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じる中で、武力による倒幕など反体制的な行為の計画が露見したことから、多数の[[志士]]([[橋本左内]]、[[吉田松陰]]、[[頼三樹三郎]]など)や公卿・皇族([[中川宮朝彦親王]])らを捕縛し厳しい取り調べを行った。また、無断で江戸城に登城した一橋派の一橋慶喜、徳川斉昭、松平慶永らを処罰し、直弼の意に背いてハリスと条約調印した岩瀬忠震や[[川路聖謨]]、[[水野忠徳]]、[[永井尚志]]らを左遷した。そして、閣内でも直弼の方針に反対した老中・[[久世広周]]、[[寺社奉行]]・[[板倉勝静]]らを免職にした。更に太田資始、間部詮勝の両老中も罷免し孤立を深めた。
 
 
 
=== 桜田門外の変 ===
 
[[画像:Hikone-castle-Ii-Naosuke-statue.jpg|250px|thumb|彦根城金亀児童公園にある井伊直弼銅像]]
 
[[File:Ii Naosuke statue at Kamonyama park.JPG|250px|thumb|[[掃部山公園]]にある井伊直弼銅像]]
 
{{see also|桜田門外の変}}
 
 
 
こうした政策は尊王攘夷派など反対勢力から強い反感を買った。安政6年([[1859年]])12月、直弼は[[若年寄]]の[[安藤信正]]を水戸藩主・[[徳川慶篤]]の下に派遣し、戊午の密勅の返納を催促した。この催促は数度にわたって続けられ、遂に慶篤は父の斉昭と相談の上、勅を幕府に返納することにした。ところが水戸藩の士民(特に過激派)が激昂して勅の返納を阻止あるいは朝廷に直接返納すべきとして混乱する<ref group="注釈">12月20日に水戸城で大評定が開かれ、士民は勅の江戸降下を阻止しようと水戸から江戸の要路に潜伏した。</ref>。
 
 
 
安政7年(1860年)1月15日、直弼は安藤信正を老中に昇進させ、この日に登城した慶篤に対して重ねて勅の返納を催促した。そして1月25日を期限として、もし遅延したら違勅の罪を斉昭に問い、水戸藩を[[改易]]するとまで述べたという<ref>吉田常吉 『井伊直弼』 吉川弘文館 P381</ref>。
 
これが水戸藩の藩士を憤激させるのに決定的となり、2月に水戸藩を脱藩した[[高橋多一郎]]や[[関鉄之介]]らによって直弼襲撃の謀議が繰り返された。水戸藩脱藩浪士らの不穏な動きは幕府も関知はしており、2月下旬にはかつて水戸藩邸に上使として赴いたことがある[[松平信発]]が直弼を外桜田邸に訪ね、脱藩者による襲撃の恐れがあるため、大老を辞職して彦根に帰り、政情が落ち着いてから出仕すべきと勧めた。また辞職・帰国が嫌ならば従士を増やして万一に備えるように述べるも、直弼は受け入れなかった<ref group="注釈">直弼は人は各々天命があり、刺客が果して余を斃そうとすれば、たとえいかほど戒心しても乗ずべき隙があり、そもそも従士の数は幕府の定めるところで大老がこれを破れば他の諸侯に示しがつかないと述べた。</ref><ref group="注釈">井伊家の従士・萩原吉次郎の証言によると、井伊家では安政6年(1859年)までは主君の身を守るために警護を密かに増やしていたが、直弼がこれを知って安政7年(1860年)に廃したという。</ref>。
 
 
 
3月3日5ツ半(午前9時)、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。供廻りの[[徒士]]、[[足軽]]、草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた時、関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士の[[有村次左衛門]]の計18名による襲撃を受けた。最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠を守ろうとした者も刺客に切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねた。[[享年]]46(満44歳没)。この事件を[[桜田門外の変]]と呼ぶ。
 
 
 
この日、彦根藩側役の[[宇津木翼|宇津木左近]]は、直弼の駕籠を見送った後、机上に開封された書状を発見した。それには、水戸脱藩の浪士らが襲撃を企てている旨の警告が記されており、宇津木が護衛を増派しようとしたとき、凶報がもたらされた。
 
 
 
墓所は井伊家の[[菩提寺]]である[[豪徳寺]]([[東京都]][[世田谷区]])。また茨城県[[水戸市]]所在の妙雲寺には直弼の慰霊碑が建てられている。また、当時彦根藩の飛び地領であった[[下野国]]佐野(現在の[[栃木県]][[佐野市]])の[[天応寺]]でも祀られている。直弼が襲われた場所でその血が染みこんだ土をその家臣たちは俵に詰めて彦根に運び、天寧寺([[彦根市]])に納め、後世そこに供養塔を建てた。混乱を恐れた幕府によって暗殺は秘密裡とされ、表向きには直弼は負傷によりしばらく休養とされた。そのため墓所に記された没日も実際の3月3日とは異なり、表向きは3月28日を命日としている。直弼は3月晦日に大老職を正式に免じられ、閏3月晦日にその死を公表された。
 
 
 
跡を次男・[[井伊直憲]]が継いだが、これも3月10日に幕府に嫡子とする旨を届けながら4月28日に至ってようやく家督相続を許されるほどであった。なお、文久2年、[[文久の改革]]で反直弼派であった一橋派が政権をとると、彼らは直弼の政治を咎め、[[文久]]2年([[1862年]])11月20日、幕命により彦根藩は10万石減封されている。
 
 
 
== 人物・逸話 ==
 
{{複数の問題|ソートキー=人1860年没
 
|section = 1
 
| 出典の明記 = 2012年4月
 
| 独自研究 = 2012年4月
 
}}
 
* 部屋住みの時代に[[国学]]、曹洞宗の[[禅]]、絵、和歌、兵学・[[抜刀術|居合]]・[[槍術]]などの[[日本武術|武術]]、[[茶道|茶の湯]]、[[能楽]]などの多数の趣味に没頭していた。特に居合では[[新心流居合術|新心流]]から新心新流を開いた。[[茶道|茶の湯]]では「宗観」の名を持ち、[[石州流]]の中に一派を確立した。著書『[[茶湯一会集|茶湯一會集]]』巻頭には有名な「'''[[一期一会]]'''」がある<ref group="注釈">この言葉につながる意味内容は[[利休七哲]]の[[山上宗二]]が著した「[[山上宗二記]]」にある。四字熟語「一期一会」を直弼以前に使ったことは確認できない。</ref>。[[能楽]]方面では新作[[狂言]]「鬼ヶ宿」の制作や、廃曲となっていた「狸の腹鼓」の復曲(いわゆる「彦根狸」)を試みるなど、狂言作者としての才能も持っていた。大蔵流茂山家再興に力を貸し、名跡[[茂山千五郎]]は彼が名付けた。
 
* 直弼が開国を唱えたり条約に調印したのは水戸や薩摩などの有力諸侯による幕政への介入に対抗するための一時の方策であり、直弼自身は江戸幕府が国政の実権を回復した後に幕府とこれを支える親藩・譜代大名が主体となって攘夷を行うべきと考えていた、一貫した攘夷論者であったとする説が[[石井孝]]によって唱えられている<ref group="注釈">長野主膳が直弼にあてた意見書の中で「現在となっては開国も仕方がないが、外国人を一定の場所(居留地)に閉じ込めて厳しく監視して商売を規制して、出て行くならそれで良し、報復するなら打ち払うべきである」と趣旨を述べ、直弼自身も安政5年1月に堀田正睦に出した書簡の中で「外国人の説に感服して一歩ずつ譲歩するのは嘆かわしく」「皇国風と異国風の区別を弁えるべきである」と忠告を寄せている。また、[[徳川将軍家]]に代々仕える[[茶坊主]]で強硬な保守・攘夷の論説を唱えていた[[野村休成]]を直弼が終始庇護したのに対して、通商条約締結間際になって、阿部や堀田が登用した多くの開明派官僚を一橋派・南紀派を問わずに追放している。更に、安政5年11月29日に間部詮勝を通じて関白九条尚忠に、自分の本意は「従来の国法(鎖国)に復することである」と述べている。</ref>。この見解によれば、安政の大獄による有力諸侯や攘夷派の処罰も、直弼が条約締結の裏で進めていた攘夷(鎖国への回帰)も、「幕府の権威回復による旧体制への回帰」という路線上にある方針であるとされている。
 
* 彦根市と水戸市は、明治百年を契機に歴史的わだかまりを超え、[[1968年]]に「親善都市」提携を行った。当時の彦根市長[[井伊直愛]]は直弼の曾孫である。
 
 
 
[[File:Ii Naosuke Portrait by Ii Naoyasu.jpg|thumb|180px|right|『井伊直弼画像』。[[:ja:井伊直安|井伊直安]](井伊直弼の三男。[[:ja:越後国|越後国]][[:ja:与板藩|与板藩]]第10代藩主)の作。[[:ja:豪徳寺|豪徳寺]](東京都世田谷区)所在。世田谷区指定有形文化財(歴史資料)]]
 
* 肖像画は上述の[[狩野永岳]]の作と、直弼の四男・[[井伊直安]]の作(豪徳寺蔵、世田谷区指定有形文化財(歴史資料)<ref name="bunkazai">[http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00129093.html せたがやの文化財 井伊直弼画像]</ref>)が知られている。肖像彫刻には、暗殺の翌年京都の仏師・福田曾平に作らせた木造([[井伊神社]]蔵、彦根城博物館[[寄託]])や、 豪徳寺所蔵の銅像(世田谷区指定有形文化財(歴史資料)<ref name="bunkazai"/>)のほか、根城金亀児童公園や横浜市の[[掃部山公園]]内などに、開国断行を顕彰して元藩士らにより銅像が建てられている。
 
* 安政の大獄で死罪となった[[吉田松陰]]は、彦根藩主就任当時に藩政改革を行った直弼を「名君」と評している。彦根に帰国した際に、まだ自分が期待に応えていないのに領民が総出で温かく出迎えてくれることを恥じて直弼が詠んだ歌「掩ふべき袖の窄きをいかにせん行道しげる民の草ばに」を、松陰は兄の[[杉梅太郎]]宛書簡に記し、直弼を領民に対する哀れみの心を持った領主であると賛辞を贈った<ref>[http://www.hikone-150th.jp/special/naosuke22/001344.php 井伊直弼と開国150年祭『直弼二十二景~井伊直弼にまつわる22の風景~ 第二十二景 彦根城天主』]</ref>。
 
* 藩主に就任した直弼は亡兄・直亮の遺命であると称して藩金15万両を士民に分配した。これは直弼が愛民と施しを忘れないようにするために行なったとされ、藩主に就任した頃の直弼にはこのような優しさがあった([[井伊家史料]])。
 
* 暗殺される直前の3月3日早朝、彦根藩邸に水戸藩浪士の襲撃を密告する投書があった。しかし直弼は供揃えを厳重にすることなく出発して変にあったという。なお、直弼の戒名は生前の直弼が考えていたものであるという([[吉田常吉]]の「井伊直弼」より)。
 
*徳川慶喜の晩年の回想録である「昔夢会筆記」には、直弼のことを「'''才略には乏しいが、決断力のある人物'''」と評している。
 
 
 
== 官歴 ==
 
* [[弘化]]3年([[1846年]])12月16日:[[従四位|従四位下]][[侍従]]兼[[玄蕃寮|玄蕃頭]]に叙任。
 
* [[嘉永]]2年([[1849年]])12月16日:[[近衛府|左近衛権少将]]に任ぜられる(玄蕃頭兼任)。
 
* 嘉永3年([[1850年]])12月27日:玄蕃頭から[[掃部寮|掃部頭]]に遷任(権少将如旧)。
 
* [[安政]]2年([[1855年]])12月16日:左近衛権中将に転任し、掃部頭は従前通り兼任する。
 
* 安政4年([[1857年]])12月16日:[[従四位|従四位上]]に昇叙。左近衛権中将掃部頭は留任。
 
* 安政6年([[1859年]])12月15日:[[正四位|正四位上]]に昇叙。左近衛権中将掃部頭は留任。
 
 
 
== 井伊直弼が出演した作品・行事 ==
 
{{see also|桜田門外の変#題材とした作品}}
 
[[画像:Centenary of Japanese Ports.JPG|thumb|150px|日本開国百年記念切手]]
 
;切手
 
*日本開国百年記念 (1958年)
 
;博覧会
 
*[[井伊直弼と開国150年祭]] (2008年)
 
;小説
 
*『[[花の生涯]]』([[舟橋聖一]]著、1953年)
 
*「井伊直弼」([[徳永真一郎]]著、『幕末閣僚伝』収録、1982年)
 
*『[[巨人伝説]]』([[野口武彦]]著、2010年)
 
;戯曲
 
*『井伊大老』『大老』([[北条秀司|北條秀司]]作、1956年3月初演)
 
;映画
 
*『[[花の生涯 彦根篇 江戸篇]]』([[1953年]]・[[松竹]]、演:[[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎]])
 
*『[[柘榴坂の仇討|柘榴坂の仇討』]](2014年・[[松竹]]、演:[[中村吉右衛門 (2代目)|中村吉右衛門]])
 
;
 
;テレビドラマ
 
*『[[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]]』([[1963年]]・[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[尾上松緑 (2代目)|二代目尾上松緑]])
 
*『[[花の生涯 (1974年のテレビドラマ)|花の生涯]]』([[1974年]]・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、演:[[平幹二朗]])
 
*『[[花の生涯 井伊大老と桜田門]]』([[1988年]]・[[テレビ東京]][[新春ワイド時代劇|12時間超ワイドドラマ]]、演:[[北大路欣也]])
 
* 『[[西郷どん (NHK大河ドラマ)|西郷どん]]』 ([[2018年]]・[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[佐野史郎]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references group="注釈" />
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 母利美和 『井伊直弼』 吉川弘文館 ISBN 4642062866
 
* 石井孝 「井伊直弼と幕府の開国組織」(新人物往来社 編『日本の組織図事典』(新人物往来社、1988年 )) ISBN 4404015070
 
* 『世界人物逸話大事典』([[角川書店]])
 
* 彦根城博物館編『井伊直弼のこころ―150年目の真実―』(彦根城博物館、2014年)http://hikone-castle-museum.jp/book/897.html
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Ii Naosuke}}
 
* [[埋木舎]]
 
* [[SIDOOH/士道]]
 
* [[ひこにゃん]]
 
* [[近江牛]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://rekiaru.onishi-lab.jp/011.html 井伊直弼が見た彦根を歩く]
 
* [http://hikone-castle-museum.jp/history/naosuke.php/ 井伊直弼の大老政治について]
 
* [http://hikone-castle-museum.jp/collection/collection10 井伊直弼ゆかりの作品]
 
 
 
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井伊 直弼(いい なおすけ)

江戸時代末期の幕府大老。彦根藩主直中の 14男。部屋住みの頃,文武を修業。国学者長野主膳に師事。嘉永3 (1850) 年,長兄直亮の死後彦根藩主となる。掃部頭。ペリー来航に際しては開国主義を幕府に進言,また将軍継嗣問題では血統論から紀伊の徳川慶福を推し,攘夷派の一橋慶喜を推す水戸斉昭 (徳川斉昭 ) と対立した。老中堀田正睦らの要請で,安政5 (58) 年4月大老に就任。条約勅許を得ようと朝廷に圧力をかけ,また同年6月,専断をもって日米修好通商条約 (安政五ヵ国条約 ) の調印を断行。これに反対する水戸派や攘夷浪士らを大量処罰したため (安政の大獄 ) ,同7年桜田門外で水戸浪士団に斬殺された。 (桜田門外の変 )  



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