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{{Infobox 人物
 
|氏名=井深 梶之助
 
|ふりがな=いぶか かじのすけ
 
|画像=Ibuka.JPG
 
|画像サイズ=180px
 
|画像説明=
 
|生年月日={{生年月日と年齢|1854|7|4|死去}}
 
|生誕地=[[File:Japanese crest Aizu Aoi.svg|23px]] [[会津藩]]
 
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1854|7|4|1940|6|24}}
 
|死没地={{JPN}} [[東京府]]
 
|別名=清佶
 
|職業=[[小姓]]、[[牧師]]、[[教育者]]
 
|出身校=[[日新館]]、[[修学館]]、[[東京一致神学校]]
 
|親=父:井深宅右衛門
 
|配偶者=水上 せき子<br />大島はな
 
}}
 
  
'''井深 梶之助'''(いぶか かじのすけ、[[嘉永]]7年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]([[1854年]][[7月4日]]) - [[昭和]]15年([[1940年]])[[6月24日]])は、[[日本]]の[[牧師]]。[[日本基督教会]]の指導者。[[明治学院]]の2代目総理、[[キリスト教青年会|日本基督教青年会同盟]]委員長を務めた。
 
  
== 生涯 ==
+
'''井深 梶之助'''(いぶか かじのすけ、[[嘉永]]7年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]][[1854年]][[7月4日]]) - [[昭和]]15年([[1940年]][[6月24日]]
=== 会津時代 ===
 
[[会津藩|会津藩士]]井深宅右衛門(禄高550石)の長男として生まれた。幼名は清佶である。代々小姓を出している家柄であった、井深は最後の会津藩主[[松平容保]][[小姓]]であった。慶応4年(1968年)15歳の時[[白虎隊]][[年少組]]の斥候として[[会津戦争]]に加わる。また小姓として松平容保の側で、[[山川健次郎]][[高木盛之輔]][[高峰秀夫]]らと共に戦った<ref>[[星亮一]]『会津白虎隊』成美堂出版、1996年、273-274頁。</ref>。
 
  
敗戦後、会津藩士たちと共に猪苗代で謹慎生活を送る。1869年(明治2年)の年の初め、藩士は東京に護送されることになったが、井深は老幼女子に行くように命じられ、河辺郡水谷地村(現、[[喜多方市]])帰り、親族と共同生活をする。
+
プロテスタントの教育家。明治学院教授、同学院総理。東京・麹町(こうじまち)教会牧師。会津藩校日新館学頭の長男として、藩命を受けて洋学を学ぶべく横浜ブラウン塾に入り、入信。受洗して横浜バンドの一人となる。東京一致神学校(明治学院の前身の一つ)、北米ユニオン神学校を卒業。ヘボンの後任として明治学院総理となり、キリスト教主義教育に尽力した。法定学校における宗教教育の停止をねらう文部省訓令に反対し、抗議するなど、ときには教育行政と対立しつつ、キリスト教主義学校における聖書講義、礼拝執行の方針を貫いた。数次にわたり日本基督(キリスト)教大会議長、世界キリスト教大会日本代表などを務めた。
 
 
明治2年4月、塩川町に藩校[[日新館]]が仮の建物で再開される。井深は舎弟の勝治と共に通学する。7月に井深は、校長中[[弥次衛門]]に、校内に寄宿していた生徒の世話係に命じられる<ref>守部(2013)63-64頁。</ref>。
 
 
 
=== 横浜時代 ===
 
明治2年(1868年)10月に日新館校長中根弥次衛門より、洋学修業辞令を受ける。明治3年(1870年)4月13日の早朝水谷地村を出発する。横浜に着くが洋学を学ぶ方法が分からず、父親のつてで東京に滞在する。東京の[[土佐藩]]洋学塾で学ぶが、[[1871年]]1月(明治4)に退学する。その時たまたま横浜の修文館で[[学僕]]を置く話を聞いたので、横浜の修文館まで行き学僕志願の旨を伝えた。たまたま、[[桑名藩]]出身の知り合いが学僕をしていたので、斡旋してもらい学僕になった。学僕は教室の掃除や教員の給仕などを行い、報酬として寝室と三度の食事が与えられた。井深の学力に応じて授業の出席を許された。
 
 
 
修文館では[[アメリカ合衆国長老教会]]の宣教師[[サミュエル・ロビンス・ブラウン|S.R.ブラウン]]が一人で英語教育を担っていた。ブラウンに出会い、正規の英語を学ぶ<ref>『横浜開港と宣教師たち』有隣堂(2009)、55-56頁。</ref>。ブラウンに[[ジェームス・カーティス・ヘボン|J・C・ヘボン]]の診療所で行われていたバイブルクラスに紹介されて、出席するようになる<ref>守部(2013)66頁。</ref>。
 
 
 
[[1873年]](明治6年)1月5日、19歳の時ブラウン宣教師から[[受洗]]<ref>『日本キリスト教史年表』教文館、1988年、35頁。</ref>。
 
 
 
1873年(明治6年)3月に修文館が火事になった頃、井深は会計係を罷免され学費に窮すると、ブラウンが好意により月謝と食費を負担した。1874年(明治7年)にブラウンが修文館を辞任することになると、井深と[[松平定敬]]ら約10名の生徒により、ブラウンの自宅で私塾を開くことになった。これが[[ブラウン塾]]と呼ばれることになる<ref>現在の[[明治学院]]</ref>。ブラウン塾で[[神学]]を学ぶ。1877年(明治10年)[[東京一致神学校]]が開校されると第一期生になり、[[植村正久]]、[[三浦徹 (牧師)|三浦徹]]、[[瀬川浅]]らと共に学ぶ<ref>『長老・改革教会来日宣教師事典』</ref>。
 
 
 
旧会津藩の家老の娘との縁談話が持ち上がるが、相手も[[キリスト教徒|キリスト者]]でなければならないと主張して、彼女を[[フェリス女学院]]に入学させ、洗礼を受けることになったが、この縁談は成立しなかった。
 
 
 
=== 牧師時代 ===
 
明治12年([[1878年]])に教師補に任職を受け。翌年の明治12年(1979年)[[12月24日]]の朝に[[植村正久]]が、昼に井深梶之助が、夜に[[田村直臣]]が按手礼を受け[[日本基督一致教会]]の牧師となった。
 
 
 
明治13年(1880年)1月より、[[麹町教会 (長老派)|麹町教会]](現、[[日本基督教団]][[高輪教会]])牧師に就任する。同年4月に元幕臣の娘、水上せき子(21歳)と結婚。井深は26歳だった。同年5月に[[東京YMCA|東京青年会]](会長[[小崎弘道]])が設立されたときに、田村直臣、植村正久らと共に役員に選ばれた<ref>高橋昌郎2003年、129頁。</ref>。
 
 
 
明治14年(1881年)から[[東京一致神学校]]の助教授になる。
 
 
 
明治16年(1883年)5月に数回に亘ってに開催された[[第三回全国基督教信徒大親睦会]]で日本基督一致教会の代表として副議長に選出された<ref>高橋昌郎2003年、128頁。</ref>。
 
[[Image:The 3rd conference of Japanese Chirstian in 1883.jpg|thumb|250px|弟三回全国基督信徒大親睦会の記念写真、井深は前から3列目の左から3人目]]
 
 
 
明治19年(1886年)に明治学院創立理事会が開かれて、日本人理事として井深が選出される。白金の用地購入など設立のための業務を担当する。
 
 
 
明治20年(1887年)に明治学院が設立されると、井深は教授に就任する。
 
 
 
[[文語訳聖書]]の旧約聖書にヘボン、[[グイド・フルベッキ]]、[[フィリップ・ファイソン|P・K・ファイソン]]、[[松山高吉]]、植村正久らと共に協力して、明治21年(1888年)に完成する<ref>中村敏2009年、164頁。</ref>。
 
 
 
明治22年(1889年)には初代明治学院総理ヘボンの元で、副総理に就任する。{{要出典範囲|date=2014年11月28日|[[山縣有朋]]内閣の宗教教育の規制に対して、[[信教の自由]]を主張した}}。
 
 
 
=== 明治学院総理時代 ===
 
明治23年(1890年)に米国留学し、[[ニューヨーク]]の[[ユニオン神学校]]で[[教会史]]を学ぶ。明治24年(1891年)9月に帰国し、同年11月初代総理[[ジェームス・カーティス・ヘボン|J・C・ヘボン]]の後を継いで、[[明治学院]]の第2代目総理に就任する<ref>高橋昌郎2003年、58頁。</ref>。
 
 
 
明治31年(1898年)3月妻せき子が死去する(享年39)。明治32年(1899年)に[[井深花|大島はな]]と再婚する。
 
 
 
明治37年(1904年)5月16日、[[芝公園]][[忠魂祠堂会館]]で開催された[[大日本宗教家大会]]に[[本多庸一]]、[[海老名弾正]]、[[小崎弘道]]らと共に参加する。また、アメリカに渡り、元在日宣教師[[ジョージ・ウィリアム・ノックス|G・W・ノックス]]の自宅で、[[ウィリアム・インブリー]]と共に明治学院の将来について語り合った<ref>『長老・改革教会来日宣教師事典』163頁。</ref>。
 
 
 
明治37年から明治38年の間に日本基督教会のミッションからの独立論議の問題が発生した。植村正久が日本の教会の独立を主張してミッションと対立したのである。井深はミッションと植村たち日本基督教会牧師との調停役に奔走した。しかし、ミッションとの関係は冷え切っていた。途中で始まった、日露戦争によりミッションとの関係が好転した。また、本多庸一と一緒に欧米を訪問し、日露戦争について日本の立場を説明するため遊説をして回る。
 
 
 
明治38年(1895年)3月4日本多庸一と基督青年大会創立50年記念[[世界基督教青年大会]]に、日本のキリスト教会の代表として出席するために[[フランス]]に向けて出発する<ref>『日本キリスト教史年表』51頁。</ref>。
 
 
 
また、同年4月に[[芝三田惟一館]]で開催された[[宗教家懇談会]]で結成された[[日本宗教家協和会]]の発起人に本多庸一、小崎弘道、[[海老名弾正]]、[[江原素六]]、[[平岩愃保]]、[[元田作之進]]らプロテスタント代表の一人として名を連ねる<ref>高橋昌郎2003年、192頁。</ref>。
 
 
 
明治39年(1906年)の日本基督教会の第20回大会で、井深と[[ウィリアム・インブリー]]、植村正久の三人は「協力ミッション法」を決議した。ここに、日本基督教会とミッションとの関係が修復された。
 
 
 
明治44年([[1911年]])~[[大正]]4年(1915年)まで[[基督教教育同盟会]](現・[[キリスト教学校教育同盟]])の第2代理事長をつとめる。
 
 
 
[[1914年]](大正3年)から、[[1917年]](大正6年)まで行われた[[全国協同伝道]]の総委員長に選ばれ、東部の部長植村正久と西部の部長宮川経輝と共に、大規模な伝道活動を行った。その結果大正期のキリスト教会は大きく飛躍した。
 
 
 
大正10年(1921年)に明治学院の総理を辞任して、名誉総理になる。大正13年(1924年)には明治学院を退職する。
 
 
 
大正10年(1921年)に[[警醒社]]より出版された『信仰三十年基督者列伝』の中で、キリスト教への入信にの経緯が、植村正久、[[内村鑑三]]、[[新渡戸稲造]]、小崎弘道、海老名弾正、[[押川方義]]らと共に記される<ref>中村敏2009年、170頁。</ref>。
 
 
 
昭和9年(1934年)6月に[[脳溢血]]で倒れてからは、臥しがちになる。昭和15年(1940年)に東京府で死去する。
 
 
 
== 栄典 ==
 
* [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]<ref>『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。</ref>
 
 
 
== 親族 ==
 
梶之助の父・[[井深宅右衛門|宅右衛門]]は、知行550石で学校奉行([[日新館]]館長)を務め、戊辰戦争では第二遊撃隊頭として越後方面で戦った。梶之助は叔父が[[近藤勇]]から譲られた銃<ref>『戊辰落日』「光芒」所収の井深の談話</ref>を持ち父と共に実戦に参加し1人を討ち取っている。梶之助の弟は[[衆議院議員]]の[[井深彦三郎]]、[[姪]]に[[ハンセン病]]者に仕えた[[看護婦]]、[[井深八重]]がいる。次男の健次は[[陸軍軍医学校#陸軍軍医学校長|陸軍軍医学校長]]を務めた陸軍軍医中将、ソニー創業者の1人[[井深大]]は一族、妹は[[真野文二]]、長女は[[荒川文六]]に嫁ぐ。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 参考文献 ==
 
* [[中村敏]] 『日本キリスト教宣教史』[[いのちのことば社]],2009年
 
*中村敏『著名人クリスチャンの結婚生活』  ファミリー・フォーラム・ジャパン
 
*『井深梶之助とその時代』明治学院
 
* [[綱淵謙錠]] 『戊辰落日』文藝春秋
 
*『大衆人事録 東京篇(第13版)』1939年
 
*高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館2003年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[植村正久]]
 
*[[片岡健吉]]
 
*[[坂本直寛]]
 
*[[山田平左衛門]]
 
 
 
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井深 梶之助(いぶか かじのすけ、嘉永7年6月10日1854年7月4日) - 昭和15年(1940年6月24日

プロテスタントの教育家。明治学院教授、同学院総理。東京・麹町(こうじまち)教会牧師。会津藩校日新館学頭の長男として、藩命を受けて洋学を学ぶべく横浜ブラウン塾に入り、入信。受洗して横浜バンドの一人となる。東京一致神学校(明治学院の前身の一つ)、北米ユニオン神学校を卒業。ヘボンの後任として明治学院総理となり、キリスト教主義教育に尽力した。法定学校における宗教教育の停止をねらう文部省訓令に反対し、抗議するなど、ときには教育行政と対立しつつ、キリスト教主義学校における聖書講義、礼拝執行の方針を貫いた。数次にわたり日本基督(キリスト)教大会議長、世界キリスト教大会日本代表などを務めた。