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[[画像:March 2011 The Aizu-Wakamatsu Castle.jpg|thumb|200px|若松城]]
 
'''会津藩'''(あいづはん)は、[[陸奥国|陸奥]](後の[[岩代国|岩代]])[[会津郡]]を中心に現在の[[福島県]]西部と[[新潟県]]および[[栃木県]]の一部を治めた[[藩]]。藩庁は[[若松城]]([[会津若松市]])。最大版図は陸奥国[[北会津郡]]、[[耶麻郡]]、[[河沼郡]]、[[大沼郡]]及び[[越後国]][[東蒲原郡]]、[[下野国]][[塩谷郡]]の一部([[三依村]])。
 
  
== 歴史 ==
+
'''会津藩'''(あいづはん)
=== 戦国時代 ===
 
[[画像:Gamo Ujisato.jpg|thumb|200px|会津の基礎を作った蒲生氏郷]]
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[会津]]地方は後の[[会津若松市|会津若松]]である'''黒川'''を本拠とする戦国大名の[[蘆名氏|蘆名家]]の領国であった。蘆名氏は会津守護を自称して勢威をふるったが、後継者争いや家臣団の権力闘争など内紛を繰り返して次第に衰微し、[[天正]]17年([[1589年]])6月5日に[[蘆名義広]]が[[摺上原の戦い]]で[[伊達政宗]]に大敗して{{Sfn|野口|2005|p=10}}、義広は実家の[[常陸国|常陸]][[佐竹氏|佐竹家]]を頼って落ち延び、ここに蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に入り{{Sfn|野口|2005|p=11}}、政宗は黒川を新たな本拠とした。
 
  
天正18年([[1590年]])7月に[[小田原征伐]]で[[後北条氏|北条家]]を滅ぼした[[豊臣秀吉]]は、8月9日に会津黒川に入って[[奥州仕置]]を行なう。政宗は小田原征伐に参陣していたものの、前年の合戦が秀吉の出した[[惣無事令]]違反と見なされて会津地方及び周辺地域は政宗から没収された{{Sfn|野口|2005|p=12}}。秀吉は仕置において検地や[[刀狩]]、寺社政策など諸事を定めて帰洛し{{Sfn|野口|2005|p=12}}、会津には[[蒲生氏郷]]が42万石で入部することとなった{{Sfn|野口|2005|p=14}}。後に検地と加増で氏郷は92万石{{Sfn|野口|2005|p=14}}を領有することになる。
+
江戸時代,[[陸奥国]]会津地方 (福島県) を領有した藩。鎌倉時代以来この地は[[蘆名氏]]の領地であったが,伊達政宗によって滅ぼされ,小田原征伐後は蒲生氏郷,慶長3 (1598) 上杉景勝がこの地を領した。関ヶ原の戦い後,氏郷の子蒲生秀行が再封,寛永4 (1627) 年加藤嘉明がこれに代り,40万石を領したが,その子明成のとき[[会津騒動]]が起り,同 20年除封され,代って3代将軍徳川家光の弟保科正之が出羽山形より移され,23万石を領した。3代正容 (まさかた) 以後[[保科氏]]は代々[[松平氏]]を称し,家門として重きをなし幕末に及んだ。江戸城溜間詰。正之は将軍家綱を補佐して幕政に参与する一方,藩政の基礎を固める施政に努め,名君と称せられた。5代容頌 (かたのぶ) は,家老田中玄宰を用いて藩政改革を行い,殖産興業をはかり,藩校日新館を起し,軍制を改めた。9代容保 (かたもり) は,文久2 (1862) 年,京都守護職となり,一橋慶喜とともに公武合体を推進した。[[文久三年八月十八日の政変]]では尊攘派と抗争し,元治1 (64) 年には[[禁門の変]]で長州軍と抗戦した。[[鳥羽・伏見の戦い]]に敗れてのちは[[奥羽越列藩同盟]]の中心となり[[会津戦争]]を起し,若松の鶴ヶ城にこもって敗北,子容大 (かたはる) は明治1 (68) 年陸奥斗南 (となみ) 藩3万石に減封され,廃藩。
 
 
氏郷は[[織田信長]]にその非凡な才能を評価されて信長の次女・[[相応院 (蒲生氏郷正室)|相応院]]を正室に迎えることを許され、信長没後は秀吉に従い[[伊勢国|伊勢]]松坂に12万石の所領を得ていた人物である{{Sfn|野口|2005|p=13}}。秀吉も氏郷の才能を認め、[[東北地方|東北]]の伊達政宗や[[関東地方|関東]]の[[徳川家康]]を抑える枢要の地に大領を与えて入部させたのである{{Sfn|野口|2005|p=14}}。
 
 
 
氏郷は黒川を'''若松'''と改め<ref group="注釈">氏郷が出世の端緒となった伊勢松ヶ島(松坂)以来、「松」は縁起の良い字として採用された。</ref>、故郷の[[近江国|近江]]日野から商人や職人を呼び寄せ{{Sfn|野口|2005|p=15}}。、城下町の建設、武家屋敷を分離させた町割、黒川城を新たに7層の[[天守]]を持つ城を築いて現在の会津若松の基盤を築いた{{Sfn|野口|2005|p=15}}<ref group="注釈">会津[[若松城]]は鶴ヶ城ともいわれるが蒲生家の家紋は舞鶴紋であるため名づけられた。</ref>。
 
 
 
[[文禄]]4年([[1595年]])2月7日に氏郷は死去した{{Sfn|野口|2005|p=16}}。嫡子の[[蒲生秀行 (侍従)|蒲生秀行]](数え13歳)が跡を継ぎ、家康の娘振姫([[正清院]]) を正室に娶わせた{{Sfn|野口|2005|p=17}}。だが蒲生家中で重臣間の内紛が起こるようになり、[[慶長]]3年([[1598年]])1月、秀吉は家中騒動を理由にして秀行を[[宇都宮藩|宇都宮]]12万石へ減封した{{Sfn|野口|2005|p=17}}{{Sfn|坂本|2011|p=13}}{{Sfn|糠澤|2011|p=12}}。ただし秀行の母、すなわち氏郷の正室が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが姫が尼になって貞節を守ったことを不愉快に思った説{{Sfn|野口|2005|p=17}}{{Sfn|坂本|2011|p=13}}、秀行が家康の娘(三女の振姫([[正清院]]))を娶っていた親家康派のため[[石田三成]]が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説{{Sfn|坂本|2011|p=13}}もある。
 
 
 
=== 上杉家の時代 ===
 
[[画像:Uesugi Kagekatsu.jpg|thumb|200px|上杉景勝]]
 
代わって[[越後国|越後]][[春日山城|春日山]]から[[上杉景勝]]が入部した{{Sfn|野口|2005|p=19}}。領地は蒲生旧領と[[出羽国|出羽]]庄内に[[佐渡国|佐渡]]を加えた120万石であった{{Sfn|糠澤|2011|p=13}}。景勝は戦国時代に「軍神」の異名をとった[[上杉謙信]]の養子(実は甥、生母が謙信の姉[[仙桃院]])である{{Sfn|野口|2005|p=19}}。しかし入部から間もない8月18日に秀吉が死去し{{Sfn|野口|2005|p=19}}、次の覇権を狙って徳川家康が台頭する。これに対抗しようと[[豊臣氏|豊臣家]][[五奉行]]の[[石田三成]]は[[上杉氏|上杉家]]の[[家老]]である[[直江兼続]]に接近し、直江は景勝と慶長4年([[1599年]])8月に会津に帰国すると、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た{{Sfn|野口|2005|p=20}}。景勝・兼続主従は慶長5年([[1600年]])2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に[[神指城]]の築城を開始した{{Sfn|野口|2005|p=21}}。しかしこの軍備増強は隣国[[越後国|越後]]の[[堀秀治]]や[[出羽国|出羽]]の[[最上義光]]らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える[[藤田信吉]]が出奔して[[江戸]]に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて[[会津征伐]]を開始した{{Sfn|野口|2005|p=21}}。
 
 
 
[[画像:Naoe Kanetsugu02.jpg|thumb|200px|上杉家家老の直江兼続]]
 
神指城築城は6月まで続けられたが、家康率いる討伐軍が江戸にまで来たため中止し、[[白河城]]の修築が急がれた{{Sfn|野口|2005|p=22}}。7月、[[下野国|下野]][[小山城 (下野国)|小山]]で石田三成らの挙兵を知った家康は{{Sfn|野口|2005|p=22}}、次男の[[結城秀康]]や娘婿の蒲生秀行らを[[宇都宮城]]に牽制として残し、8月に西上を開始した{{Sfn|野口|2005|p=23}}。直江兼続は家康を追撃しようとしたが、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した{{Sfn|野口|2005|p=23}}。9月15日、[[関ヶ原の戦い]]で石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった{{Sfn|野口|2005|p=23}}。景勝は11月に家康と和睦するために重臣の[[本庄繁長]]を上洛させて謝罪させ、自らも慶長6年([[1601年]])8月8日に結城秀康に伴われて[[伏見城]]において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが、会津など90万石を没収して出羽[[米沢藩|米沢]]30万石へ減封した{{Sfn|野口|2005|p=23}}。
 
 
 
[[画像:Kouzashi castle site.JPG|thumb|200px|神指城跡周辺]]
 
 
 
=== 蒲生家の時代 ===
 
慶長6年(1601年)8月24日、景勝に代わって関ヶ原の戦いで東軍に与した蒲生秀行が60万石で入部した{{Sfn|野口|2005|p=24}}。この加増は東軍の中ではトップクラスであり、正室が家康の娘ということが作用したといわれる{{Sfn|野口|2005|p=24}}。秀行は執政に[[津川城]]代2万石の[[岡重政]]を任命したが、これが原因で以前から続いていた家中内紛が再燃した{{Sfn|野口|2005|p=24}}。特に[[三春城]]代の[[蒲生郷成]]に至っては、岡と激しく対立して、遂には出奔するほどだった{{Sfn|野口|2005|p=25}}。
 
 
 
慶長16年([[1611年]])8月21日には[[会津地震]]が藩内を襲った{{Sfn|野口|2005|p=25}}。震源地は柳津町滝谷付近でマグニチュードは7と推定、若松城天守の石垣が崩れ、天守は傾き、城下町では2万戸余が倒壊、死者は3700名に上り、山崩れのために23の村が没したという。秀行は家中内紛と地震のためか、この地震の翌年5月14日に30歳で死去した{{Sfn|野口|2005|p=26}}。
 
 
 
跡を継いだのは秀行と振姫の間に生まれた長男の[[蒲生忠郷|忠郷]]で、忠郷は[[寛永]]元年([[1624年]])に将軍[[徳川家光|家光]](従兄弟)、[[大御所 (江戸時代)|大御所]][[徳川秀忠|秀忠]]を[[江戸]]屋敷に招くなど幕府との関係を強化した{{Sfn|野口|2005|p=26}}。一方、会津領内の産金は蒲生家再封時代に全盛期を迎え、280万両の採掘が行なわれた{{Sfn|野口|2005|p=27}}。
 
 
 
しかし忠郷は寛永4年([[1627年]])に25歳で若くして急死する{{Sfn|野口|2005|p=27}}。忠郷には子がおらず会津蒲生家は[[改易]]となったが{{Sfn|糠澤|2011|p=14}}、母が徳川家康の娘であるため、同母弟で出羽[[上山藩]]主の[[蒲生忠知|忠知]]を当主として[[伊予松山藩|伊予松山]]へ24万石で減封されて蒲生家の存続は許された{{Sfn|野口|2005|p=27}}。しかし忠知もこの7年後に子が無いまま30歳で急死している{{Sfn|野口|2005|p=27}}。
 
 
 
=== 加藤家の時代 ===
 
[[画像:Katō Yoshiaki.jpg|thumb|right|200px|加藤嘉明]]
 
寛永4年(1627年)、忠知と入れ替わりで[[伊予松山藩|伊予松山]]から[[加藤嘉明]]が倍の加増の40万石で入部した{{Sfn|野口|2005|p=27}}{{Sfn|糠澤|2011|p=15}}。嘉明は豊臣秀吉の下で[[賤ヶ岳の戦い#賤ヶ岳の七本槍|賤ヶ岳の七本槍]]の1人に数えられ、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]では水軍の将として活躍し、関ヶ原の戦いでは本戦で東軍の将として武功を立てた勇将である。この抜擢は縁戚の蒲生家に代わる奥羽の鎮守に信頼に足る人物は誰かと迷っていた大御所秀忠が最初は[[藤堂高虎]]を選ぼうとしたが、高虎が辞退して嘉明を推挙したため、秀忠は嘉明を会津に加増して入れたという。ただし所領が倍増されたとはいえ、既に嘉明は65歳の高齢の上、伊予松山で藩政の基礎を固めていたことに加えて、温暖な瀬戸内から寒冷の会津盆地への移封はうれしいことではなかったといわれる{{Sfn|野口|2005|p=28}}。
 
 
 
嘉明は積極的に藩内の整備を行ない、[[白河街道]]の整備、蒲生氏郷が名づけた日野町、火玉村を「火」を連想させることから甲賀町、福永村と改名するが、道半ばで寛永8年([[1631年]])に死去した{{Sfn|野口|2005|p=28}}。
 
 
 
第2代藩主は嫡子の[[加藤明成|明成]]が継ぐ{{Sfn|野口|2005|p=28}}。だが寛永13年([[1636年]])の[[江戸城]]手伝い普請における堀の開削費用、蒲生秀行時代の地震で傾いていたままだった自らの居城若松城の天守を5層へ改める工事、出丸工事など多額の出費が相次ぎ、加藤家の財政は逼迫した{{Sfn|野口|2005|p=29}}。このため加藤家は領民にかける年貢を厳しく取り立て、寛永19年([[1642年]])から翌年にかけて飢饉が藩を襲った際、農民2000人が土地を捨てて他藩に逃げる騒動にまで発展した{{Sfn|野口|2005|p=29}}。また明成は、その激しい気性から嘉明の時代からの[[家老]]である堀主水との対立を引き起こし、寛永16年([[1639年]])4月には堀が一族300余人を引き連れて若松城に向けて発砲し、橋を焼き、芦野原の関所を突破して出奔して激怒した明成が血眼になって主水を追うという御家騒動([[会津騒動]])にまで発展した{{Sfn|野口|2005|p=30}}。主水は幕府に嘆願してまで[[高野山]]に逃げ込んだ。明成は主水の身柄引き渡しを求め{{Sfn|野口|2005|p=30}}、寛永18年([[1641年]])進退に窮した主水は高野山を下りて3月に江戸に赴き、城の無断改築や関所の勝手な新設など7か条を挙げて、明成を幕府に訴えでた{{Sfn|野口|2005|p=31}}。しかし将軍家光自らの裁断により、主に非があるのは認めたが、それを諌めずあるいは自らの生命をもって諫死せず、主家に叛いて訴え出るのは義に外れており、非は主水にあるとして、主水の身柄は明成に引き渡され、激しい拷問が行なわれて主水は殺害された{{Sfn|野口|2005|p=31}}。
 
 
 
寛永20年([[1643年]])5月、明成は幕府に会津40万石を返上し、幕府はこれを受けて加藤家から所領を没収して改易としたが、明成の嫡子[[加藤明友|明友]]に[[石見国|石見]][[吉永藩]]1万石を与えて家の存続は許した{{Sfn|野口|2005|p=31}}{{Sfn|糠澤|2011|p=23}}。この際に加藤家の支藩[[二本松藩]]も改易されており、幕府は会津騒動や悪政が原因で改易したとされている{{Sfn|糠澤|2011|p=23}}。
 
 
 
=== 会津松平家の時代 ===
 
[[ファイル:Hoshina Masayuki.jpg|thumb|180px|会津松平家初代の保科正之]]
 
==== 保科正之の時代 ====
 
加藤氏改易後の寛永20年([[1643年]])、[[出羽国|出羽]][[山形藩]]より3万石加増の23万石で[[保科正之]]が入部し{{Sfn|野口|2005|p=34}}{{Sfn|野口|2005|p=40}}、以後会津藩は[[会津松平家]](保科家)の支配が定着する。会津松平家は幕末までに[[内高]]は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の[[水戸藩]]より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。また、南山御蔵入領5万石も預かり地として任されたが、実質的には会津藩領同様に扱われており{{Sfn|野口|2005|p=41}}、実質28万石といってよかった(28万石では御三家の水戸藩を超えてしまうことからの配慮のためであるとされる){{Sfn|野口|2005|p=34}}。
 
 
 
保科正之は第2代将軍徳川秀忠の落胤で、第3代将軍[[徳川家光|家光]]の異母弟である{{Sfn|野口|2005|p=35}}。家光の信頼を受けて幕政に重きをなした。家光没後、11歳の嫡子[[徳川家綱|家綱]]が第4代将軍になると、正之は叔父として後見を務めた{{Sfn|野口|2005|p=43}}。正之は[[大老]]として江戸で幕政を統括したため、会津に帰国したのは[[正保]]4年([[1647年]])と晩年の数年間のみであった{{Sfn|野口|2005|p=43}}。この間、正之は幕政において[[明暦の大火]]における対策で敏腕を発揮しているが{{Sfn|野口|2005|p=47}}、藩政でも手腕を発揮して正之の時代に会津藩の藩政はほぼ確立された。なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を保科家の血を引く[[保科正貞]]に譲って、徳川一門として認められており{{Sfn|野口|2005|p=40}}、正之は幕府より葵紋の使用と松平姓を称することを許されていたが、正之は保科家の恩義と家臣に対する心情を思いやって辞退した{{Sfn|野口|2005|p=57}}。
 
 
 
==== 保科から松平への改姓 ====
 
正之の没後、藩主の座は子の[[保科正経|正経]]、そしてその弟の[[松平正容|正容]]が継いだ{{Sfn|野口|2005|p=56}}。正容の時代に姓を松平に改めて葵紋の使用も許され、名実共に徳川一門としての会津松平家が誕生した。この時、歴代藩主の通字も保科家の「正」から「容」に改められることになった{{Sfn|野口|2005|p=56}}。家格は[[親藩]]・[[御家門]]で、家紋は[[会津葵]]を用いた。旗印は漢字1文字で「會」である。
 
 
 
==== 財政危機 ====
 
第4代藩主の[[松平容貞|容貞]]の時代である[[寛延]]2年([[1749年]])に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津藩最大の百姓一揆が勃発する{{Sfn|野口|2005|p=87}}。藩は鎮定する代わりに年貢減免、首謀者の処刑と入牢などを行っている{{Sfn|野口|2005|p=88}}。[[宝暦]]年間における会津藩の財政事情は借金が36万4600両であり、毎年4万2200両の返済を迫られていたが財政的に返済は困難であり{{Sfn|野口|2005|p=88}}、藩は農政改革や年貢を[[定免法]]に改定するなどして対応するが財政は好転せず、かえって藩の借金を40万両に増やすことになった{{Sfn|野口|2005|p=89}}。[[明和]]4年([[1767年]])には財政再建を任されていた井深主水が俸禄や借金問題から藩を捨てて逃亡するという事件まで起こっており{{Sfn|野口|2005|p=91}}、その後も手形の発行などを繰り返すという自転車操業状態で藩の借金は総額57万両にも及び{{Sfn|野口|2005|p=92}}、会津の藩財政は実質的に破綻しているに近かった。
 
 
 
==== 田中玄宰の藩政改革 ====
 
第5代藩主[[松平容頌|容頌]]は財政危機に対処するため、家老の[[田中玄宰]]を登用した。玄宰は保科正之の名家老と称された[[田中正玄]]から数えて6代目にあたる人物である{{Sfn|野口|2005|p=86}}。玄宰は殖産興業政策の導入と農村復興、教育の革新による有為な人材の登用や役人の不正の処罰、教化主義による刑罰制度の改正など大規模な藩政改革を断行して成功させた。
 
 
 
==== 会津松平家の血の変遷 ====
 
田中玄宰の晩年、彼を用いた容頌の死後、跡を継いだ[[松平容住|容住]]が早世し、わずか3歳の[[松平容衆|容衆]]が第7代藩主になるという事態になった{{Sfn|野口|2005|p=112}}。玄宰は自らも老齢で容衆を見守ることはできず、また容衆が夭折することで会津松平家が断絶することを恐れ、[[水戸徳川家]]の出身で[[美濃国|美濃]][[高須藩]]の養子になった[[松平義和]]の三男等三郎を容住の側室の子として貰い受けることで対処した{{Sfn|野口|2005|p=112}}。容衆は玄宰の死から14年後に20歳で嗣子に恵まれずに死去したため、玄宰により生前に万一の事態のために用意されていた等三郎が[[松平容敬|容敬]]として第8代藩主を継ぐこととなった{{Sfn|野口|2005|p=113}}。このため保科正之の血統は断絶したが、会津藩は断絶の危機を免れた{{Sfn|野口|2005|p=113}}。なお、容敬も継嗣に恵まれなかったため、甥の[[松平容保|容保]]を婿養子にして跡を継がせている{{Sfn|野口|2005|p=157}}。
 
 
 
==== 戊辰戦争 ====
 
[[ファイル:Matudaira Katamori.jpg|thumb|180px|松平容保]]
 
[[File:Flag of Aizu early Meiji Bakumatsu.svg|right|thumb|180px|会津藩の軍旗にある會文字]]
 
第8代容敬は養子藩主であったが、英明な藩主で[[親政]]して改革を行ない{{Sfn|野口|2005|p=153}}、幕末における会津藩の基礎を築き上げている。容敬は[[嘉永]]5年([[1852年]])2月に死去し、容保が第9代藩主を継いで{{Sfn|野口|2005|p=153}}{{Sfn|野口|2005|p=157}} 幕末の動乱期を迎えた。[[安政]]6年([[1859年]])、北方警備のため徳川幕府から[[根室]]・[[紋別]]を譲渡される。[[文久]]2年([[1862年]])閏8月に容保は[[京都守護職]]となり{{Sfn|野口|2005|p=159}}、更に[[新撰組]]を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派[[志士]]の取り締まりや京都の治安維持を担った。文久3年、友好関係にあった薩摩藩と連携して、朝廷に強い影響力を持っていた[[長州藩]]を[[八月十八日の政変]]で追放する。その後に行われた参預会議では、薩摩藩主・[[島津久光]]が提案する公武合体論に賛同するなどしたが、久光と[[将軍後見職]]・[[徳川慶喜]]の対立によって会議は瓦解した。当時、容保は京都守護職を退いていたが、会議崩壊後に復職し、容保の実弟で[[京都所司代]]に任命された[[松平定敬]](桑名藩主)、[[禁裏御守衛総督]]に任命された徳川慶喜と連携して、政局を動かすほどの立場となった([[一会桑政権]])。一方で、西南雄藩の国政参加も阻止した為、これまで友好関係にあった薩摩藩とも対立するようになった。[[元治]]元年8月、昨年追放された長州藩が挙兵した為、会津藩も出陣して京都で睨み合いとなる([[禁門の変]])。会津藩は蛤御門で長州藩兵と戦い、敵の突破を阻止した。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御[[宸翰]]<small>(ごしんかん)</small>」を孝明天皇より賜った{{Sfn|野口|2005|p=162}}。
 
 
 
変後、長州藩の処分を求めて、二度の[[長州征伐]]を主導した。完全な武力討伐となった第二次長州征伐では京都の守備を担当する。しかし、出兵した幕府軍は各地で長州軍に撃破され、さらに将軍[[徳川家茂]]が大阪城で病没する事態に見舞われる。不利を判断した徳川慶喜によって停戦となったが、征討側の城と領土が逆に占領されるなど事実上の敗戦となった。慶応2年12月(1867年1月)に[[孝明天皇]]が崩御、慶応3年10月14日の[[大政奉還]]により江戸幕府が消滅。慶応3年12月9日には薩摩藩・尾張藩・越前藩・土佐藩・芸州藩の五藩による政変が起こり、[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]が発令されて新政府が誕生した。従来の親幕府派であった公家が排除され、王政復古前に復権した長州藩が新政府に加わるなど、今度は会津藩が追放される形となり、大阪城に退いた。そのやり方は皮肉にも、かつて長州藩を追放する為に起こした八月十八日の政変と同じ物であった。慶応4年、[[鳥羽・伏見の戦い]]([[戊辰戦争]])が勃発すると、桑名藩や旧幕府軍とともに薩長を中心とする新政府軍と戦ったが敗北。この戦の結果、[[朝廷]]は会津藩を「[[朝敵]]」とした。その後の東北戦線において、会津藩は[[奥羽越列藩同盟]]の支援を受け、[[庄内藩]]と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い([[会津戦争]])に敗北して降伏した。近年では、列藩同盟総裁中将の役職に松平容保が就いていたとする説もある<ref>会津若松市観光公社『えっ!?会津が首都??』。</ref>。なお、戊辰戦争の直前及び交戦中には[[庄内藩]]とともに、当時の[[プロイセン王国]]に対して、駐日代理[[公使]][[マックス・フォン・ブラント]]を通じて[[蝦夷地]](北海道)に持つ所領の割譲を提案し、その見返りとして兵器・資金援助や軍事介入を得ようとしていたことが分かっている<ref group="注釈">ただし普仏戦争の直前で余裕がなかったことから[[オットー・フォン・ビスマルク]]によって拒否されている。</ref><ref>2011年2月7日の朝日新聞朝刊10面</ref><ref>「戊辰戦争中の会津、庄内両藩 蝦夷地所領 プロイセンに提示 資金か軍隊派遣と引き換えに」『[[読売新聞]]』朝刊2017年5月17日文化面</ref>。
 
 
 
降伏により、会津藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は[[鳥取藩]]預かりの禁錮刑となった。明治2年([[1869年]])に容保の嫡男[[松平容大|容大]]は家名存続が許され、陸奥国斗南(現在:[[青森県]][[むつ市]])に[[#斗南藩|斗南藩]]を立てた{{Sfn|野口|2005|p=197}}。また、藩士数名はカリフォルニアに移民した。一方、[[廃藩置県]]を前に、会津藩の旧領は明治政府民政局による直轄地とされ、若松城下に明治政府民政局が設置された。明治4年7月14日(1871年新暦[[8月29日]])の廃藩置県では、会津地方は[[若松県]]となったものの、明治9年([[1876年]])[[8月21日]]には[[福島県]]1876年以前(旧の[[二本松藩]]など)と[[磐前県]](旧の[[磐城平藩]]と[[相馬中村藩|中村藩]])と合併され、福島県に入れられた。
 
 
 
=== 戊辰戦争後 ===
 
容保の家系からは初代[[参議院議長]]の[[松平恒雄]]・[[雍仁親王妃勢津子]]父子、[[福島県知事一覧|福島県知事]]の[[松平勇雄]]や、現:徳川宗家当主[[徳川恒孝]]が出ている。
 
元白虎隊兵士の [[山川健次郎]]は戦後に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への国費留学生に選抜され、 [[イェール大学]]で[[物理学]]の学位を取得して帰国している。帰国後に日本人として初の物理学教授になった後に東京帝国大学(東京大学の前身)に登用された。その後に理科大学長・総長、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、私立明治専門学校(九州工業大学の前身)総裁、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵中学校・高等学校の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任するなど重用された<ref>『「明治150年」を強調』朝日新聞2018年1月23日 </ref>。
 
 
 
== 福祉 ==
 
会津藩は日本初となる老齢[[年金]]制度を創設した藩であった{{Sfn|野口|2005|p=45}}。開始されたのは[[寛文]]3年([[1663年]])で保科正之の時代であり、正之は藩内の90歳以上の老人に対して金銭ではなく米で1日5合、年間では約1石8斗、米俵で4俵半(約270キログラム)を支給した{{Sfn|野口|2005|p=45}}。当時の会津藩で90歳以上の高齢者は町人で男子は4人、女子は7人、村方では140人と合計すると155人以上おり決して少ない負担ではない{{Sfn|野口|2005|p=45}}。また正之は支給すべき者が高齢なため、歩行できたりする健常者は自ら支給を受け取りに来るよう命じたが、健常者でない者は子や孫が受け取りに来ることも認めていた{{Sfn|野口|2005|p=45}}。
 
 
 
== 危機管理 ==
 
保科正之は凶作による飢饉に備えて明暦元年([[1655年]])に社倉制度を開始した{{Sfn|野口|2005|p=44}}。これは藩で米を7000俵余り買い入れて各代官に預け、翌年から通常よりかなり低率の2割の利子で困った百姓に貸し付け、その利子で年々蓄えるべき米を増やして凶作の備えとしたのである{{Sfn|野口|2005|p=44}}。また実際に飢饉が起こり、病人や工事人足、新田開発者や火災被害者などには無償で提供する例もあった{{Sfn|野口|2005|p=44}}。保科正之は各村に社倉と呼ばれる倉を創設して収納し、備蓄米は最大で5万俵になり、領内の23箇所に社倉が建設された{{Sfn|野口|2005|p=44}}。
 
 
 
== 江戸時代以前の若松城主 ==
 
=== 蒲生家 ===
 
91万9千石(1590年 - 1598年)
 
{| class="wikitable" border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3"
 
|- style="background:#eee"
 
! 代
 
! 氏名
 
! よみ
 
! 官位・官職
 
! 在任期間
 
! 備考
 
|-
 
! style="background:#eee"|1
 
|[[蒲生氏郷|氏郷]]
 
|うじさと
 
|[[正四位|正四位下]]<br>[[参議]]
 
|[[天正]]18年 - [[文禄]]4年<br>[[1590年]] - [[1595年]]
 
|
 
|-
 
! style="background:#eee"|2
 
|[[蒲生秀行 (侍従)|秀行]]
 
|ひでゆき
 
|[[従三位]]<br>[[飛騨国|飛騨守]]・[[侍従]]
 
|文禄4年 - [[慶長]]3年<br>1595年 - [[1598年]]
 
|先代の次男
 
|}
 
 
 
=== 上杉家 ===
 
120万石(1598年 - 1601年)
 
{| class="wikitable" border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3"
 
|- style="background:#eee"
 
! 代
 
! 氏名
 
! よみ
 
! 官位・官職
 
! 在任期間
 
! 備考
 
|-
 
! style="background:#eee"|1
 
|[[上杉景勝|景勝]]
 
|かげかつ
 
|[[従三位]]<br>[[参議]]
 
|[[慶長]]3年 - 慶長6年<br>[[1598年]] - [[1601年]]
 
|
 
|}
 
 
 
== 歴代藩主 ==
 
=== 蒲生家 ===
 
[[外様大名|外様]] - 60万石(1601年 - 1627年)
 
{| class="wikitable" border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3"
 
|- style="background:#eee"
 
! 代
 
! 氏名
 
! よみ
 
! 官位・官職
 
! 在任期間
 
! 前藩主との続柄・備考
 
|-
 
! style="background:#eee"|1
 
|[[蒲生秀行 (侍従)|秀行]]
 
|ひでゆき
 
|[[従三位]]<br>[[参議]]
 
|[[慶長]]6年 - 慶長17年<br>[[1601年]] - [[1612年]]
 
|再封
 
|-
 
! style="background:#eee"|2
 
|[[蒲生忠郷|忠郷]]
 
|たださと
 
|従三位<br>参議
 
|慶長17年 - [[寛永]]4年<br>1612年 - [[1627年]]
 
|先代の長男
 
|}
 
 
 
=== 加藤家 ===
 
外様 - 40万石 (1627年 - 1643年)
 
{| class="wikitable" border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3"
 
|- style="background:#eee"
 
! 代
 
! 氏名
 
! よみ
 
! 官位・官職
 
! 在任期間
 
! 前藩主との続柄・備考
 
|-
 
! style="background:#eee"|1
 
|[[加藤嘉明|嘉明]]
 
|よしあき
 
|[[従四位|従四位下]]<br>[[馬寮|左馬頭]]
 
|[[寛永]]4年 - 寛永8年<br>[[1627年]] - [[1631年]]
 
|
 
|-
 
! style="background:#eee"|2
 
|[[加藤明成|明成]]
 
|あきなり
 
|従四位下<br>[[式部省|式部少輔]]・[[侍従]]
 
|寛永8年 - 寛永20年<br>1631年 - [[1643年]]
 
|先代の長男
 
|}
 
 
 
=== 会津松平(保科)家 ===
 
[[親藩]] - 23万石(1643年 - 1868年)
 
{| class="wikitable" border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3"
 
|- style="background:#eee"
 
! 代
 
! 氏名
 
! よみ
 
! 官位・官職
 
! 在任期間
 
! 前藩主との続柄・備考
 
|-
 
! style="background:#eee"|1
 
|[[保科正之|正之]]
 
|まさゆき
 
|[[正四位|正四位下]]<br>[[肥後国|肥後守]]
 
|[[寛永]]20年 - [[寛文]]9年<br>[[1643年]] - [[1669年]]
 
|
 
|-
 
! style="background:#eee"|2
 
|[[保科正経|正経]]
 
|まさつね
 
|[[従四位|従四位下]]<br>[[筑前国|筑前守]]
 
|寛文9年 - [[天和 (日本)|天和]]元年<br>1669年 - [[1681年]]
 
|先代の四男
 
|-
 
! style="background:#eee"|3
 
|[[松平正容|正容]]
 
|まさかた
 
|正四位下<br>肥後守
 
|天和元年 - [[享保]]16年<br>1681年 - [[1731年]]
 
|先代の弟<br>初代正之の六男<br>'''松平'''に改姓
 
|-
 
! style="background:#eee"|4
 
|[[松平容貞|容貞]]
 
|かたさだ
 
|従四位下<br>肥後守
 
|享保16年 - [[寛延]]3年<br>1731年 - [[1750年]]
 
|先代の三男
 
|-
 
! style="background:#eee"|5
 
|[[松平容頌|容頌]]
 
|かたのぶ
 
|正四位下<br>肥後守
 
|寛延3年 - [[文化 (元号)|文化]]2年([[享保]]元年)<br>1750年 - [[1805年]]
 
|先代の長男
 
|-
 
! style="background:#eee"|6
 
|[[松平容住|容住]]
 
|かたおき
 
|従四位下<br>肥後守
 
|文化2年<br>1805年
 
|[[松平容詮]]の長男
 
|-
 
! style="background:#eee"|7
 
|[[松平容衆|容衆]]
 
|かたひろ
 
|従四位下<br>肥後守
 
|文化3年 - [[文政]]5年<br>[[1806年]] - [[1822年]]
 
|先代の次男
 
|-
 
! style="background:#eee"|8
 
|[[松平容敬|容敬]]
 
|かたたか
 
|正四位下<br>肥後守
 
|文政5年 - [[嘉永]]5年<br>1822年 - [[1852年]]
 
|[[美濃国|美濃]][[高須藩|高須藩主]][[松平義和]]の三男
 
|-
 
! style="background:#eee"|9
 
|[[松平容保|容保]]
 
|かたもり
 
|[[正三位]]<br>[[参議]]
 
|嘉永5年 - [[慶応]]4年<br>1852年 - [[1868年]]
 
|先代の甥<br>美濃高須藩主[[松平義建]]の六男
 
|-
 
! style="background:#eee"|10
 
|[[松平喜徳|喜徳]]
 
|のぶのり
 
|従四位下<br>若狭守
 
|慶応4年<br>1868年
 
|水戸藩主・徳川斉昭の十五男、徳川慶喜の実弟
 
|}
 
 
 
== 家老 ==
 
=== 会津松平家時代 ===
 
*[[西郷氏#三河西郷氏|西郷氏]](1700石・藩主一門・筆頭家老) 称:保科姓
 
:保科正勝([[保科正俊]]の次男)
 
:-正近-正長=[[西郷近房]]([[西郷元次]]の次男・正近の外孫)
 
:近方-近張-近致=近義-近寧-[[西郷近光|近光]]-[[西郷近思|近思]]-[[西郷頼母|保科近悳(西郷頼母)]]=[[西郷四郎]](会津藩士・志田貞二郎の三男)
 
*田中氏(会津藩内2000石)
 
:[[田中正玄]]…[[田中玄宰|玄宰]]…玄良-[[田中玄清|玄清]]
 
*[[神保氏]](重臣)
 
:[[神保内蔵助]] - [[神保修理|修理]]
 
*[[横山氏]]
 
:横山常元=[[横山常守#父・常徳|常徳]](横山常明の二男・常元の甥)=[[横山常守|常守]](常徳の養子・常道の遺子)
 
 
 
== 斗南藩 ==
 
[[ファイル:Matsudaira Kataharu.jpg|thumb|180px|松平容大]]
 
'''斗南藩'''(となみはん)は、[[明治]]2年([[1869年]])11月3日に松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した、[[盛岡藩#七戸藩|七戸藩]]を挟む形で現青森県の東部にあった藩である。
 
 
 
会津藩を没収された[[会津松平家]]は、改めて元[[盛岡藩]](南部藩)領に設置された旧[[三戸県]]5万2,339石の内、[[北郡]]・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられて立藩した(旧三戸県の残部は[[江刺県]]に編入)<ref>[http://opac.ndl.go.jp/recordid/00001094242/jpn/ 野口信一著『会津えりすぐりの歴史』平成22年6月歴史春秋社]</ref>。斗南藩に与えられた村数、石高は、明治4年に青森県から大蔵省へ送られた文書によると以下の通りである。
 
{|class="wikitable sortable" style="text-align:right;font-size:small"
 
|+斗南藩の石高<ref>『青森県史 第8巻』 161頁</ref>
 
!郡名
 
!村数
 
!石高(石.斗升合)
 
|-
 
|align=left|二戸郡||12||3,969.416
 
|-
 
|align=left|三戸郡||50||22,048.680
 
|-
 
|align=left|北郡||46||8,729.369
 
|-style="background:lightgrey;"
 
|align=left|総計||108||34,747.465
 
|-
 
|}
 
 
 
但し旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれたのは翌年の明治3年([[1870年]])1月5日のことである。当初は三戸藩と称していたが、明治3年6月4日付の七戸藩宛書簡に「猶々藩名斗南藩と唱ヘ候間、以来ハ右藩名ニ而及御懸合候」とあり、名称を斗南藩と改めた。[[柴五郎]]によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったもので、この説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士[[秋月悌次郎]]が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとも解釈される<ref>『野辺地町史 通説編第二巻』 48頁</ref>。また葛西富夫は、「南、すなわち[[明治政府|薩長政府]]と斗(闘)う」という意味が隠されているという口伝を紹介している<ref>[http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001212250/jpn/ 葛西富夫著『斗南藩史』昭和46年8月斗南会津会]</ref>。同年4月18日、南部に移住する者の第一陣として倉沢平治右衛門<ref>[http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001209430/jpn/ 『五戸町誌下巻』五戸町誌刊行委員会]</ref> の指揮のもと第一陣300名が八戸に上陸した。藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、[[五戸]]に向かった。旧五戸代官所が最初の藩庁になり、後に現在の[[青森県]][[むつ市]]田名部の[[円通寺 (むつ市)|円通寺]]に移った。また[[北海道 (令制)|北海道]][[後志国]]の[[歌棄郡|歌棄]](うたすつ)・[[瀬棚郡|瀬棚]]・[[太櫓郡|太櫓]](ふとろ)及び[[胆振国]][[山越郡|山越]]の計4[[郡#日本の郡|郡]]も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人であった。明治3年閏10月までには旧会津藩士約2万人の内、4,332戸1万7,327人が斗南藩に移住したが、若松県内で帰農した者約2,000人を始めとし、残りは族籍を平民に移した。
 
 
 
斗南藩の表高は3万石、内高は3万5,000石であったが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高(現石)は7,380石に過ぎなかった<ref>『秩禄処分顛末略』 229頁</ref>。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じた。とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられ、その時の体験は[[柴五郎]]によって語られている。
 
<!--旧会津藩士は着替える服もなく、みすぼらしい格好で[[シラミ]]がわき、草の根や木の皮までも食していたことから、下北地方では「会津のゲダガ(毛虫)」と侮蔑されていた。下北半島では、斗南藩士の子[[柴五郎]]が凄絶な言葉で叱咤されたことを記憶している。「ここは戦場なるぞ。戦場なれば犬肉なりとて食らうものぞ。やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと。薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ!生き抜け!生きて残れ!会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ!ここはまだ戦場なるぞ!」と。こうして犬肉を手にしたが、食料に事欠いていた他の斗南藩士に分けてくれと泣きつかれ、肉の半分を持ち帰らせた。犬の肉は塩茹でにして食したものの、四、五日もすると臭いが鼻につき、喉を通らなくなるが、他に食べるものはない。我慢して20日ほど食い続けたら、兄嫁は頭髪が抜け落ち、薄禿げになったという。
 
 
 
斗南藩士の妻娘はさらに悲惨であった。病臥の家族を養うため、売春婦や妾として糊口をしのいだが、仲間から糾弾され「生活の糧に肉体は売っても、魂までは売りませぬ」と慟哭したという。-->
 
その後、斗南藩は明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で斗南県となり、その際斗南県少参事[[広沢安任|廣澤安任]]らによる明治政府への建言により、同年9月4日に[[弘前藩|弘前県]]・[[弘前藩#黒石藩|黒石県]]・[[盛岡藩#七戸藩|七戸県]]・[[盛岡藩#八戸藩|八戸県]]・[[松前藩#館藩|館県]]との合併を経て青森県に編入され斗南の地名は消滅した。また、二戸郡の一部は[[岩手県]]に編入された。青森県発足時点では、会津からの移住人員1万7,327人の内3,300人は既に他地域への出稼ぎで離散してしまっており、青森県内には1万4,000人余の斗南藩士卒族が残留していた<ref>『会津若松史』 240頁</ref>。その後も廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年(1874年)末までには約1万人が会津に帰郷している。当地に留まった者では、明治5年(1872年)に広沢らが日本初の民間洋式牧場が開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、[[北村正哉]](元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)[[子爵]]となり、[[華族]]に列した。
 
 
 
*藩主:[[松平容大]](まつだいら かたはる)〔従五位 知藩事〕
 
 
 
== 藩邸及び江戸での菩提寺 ==
 
[[文政]]年間の[[江戸藩邸]]は上屋敷は和田倉御門内にあり、中屋敷は源助丁海手に、下屋敷は三田綱坂にあった。また江戸での菩提寺は下谷の[[臨済宗大徳寺派]]寺院の円満山[[広徳寺 (練馬区)|広徳寺]]<ref group="注釈">現在は練馬区へ移転している。</ref>で[[加賀藩]]や[[常陸国]][[谷田部藩]]も江戸での菩提寺として使用していた。
 
 
 
== 領地 ==
 
=== 会津藩(幕末) ===
 
* [[陸奥国]]([[岩代国]])
 
** [[河沼郡]] - 181村(ほか[[天領|幕府領]]67村を預かる)
 
** [[会津郡]] - 309村
 
** [[大沼郡]] - 57村(ほか幕府領104村を預かる)
 
** [[耶麻郡]] - 242村(ほか幕府領68村を預かる)
 
** [[安積郡]]のうち - 11村
 
* [[下野国]]
 
** [[塩谷郡]]のうち - 6村([[真岡知県事]]に編入)
 
* [[越後国]]
 
** [[魚沼郡]]のうち157村(ほか幕府領79村を預かる。[[柏崎県]]に編入)
 
** [[三島郡 (新潟県)|三島郡]]のうち4村(柏崎県に編入)
 
** [[蒲原郡]]のうち221村(一部を[[越後府|新潟県]]、[[村上県]]、[[黒川県]]、[[三日市県]]、[[新発田県]]、[[村松県]]に分割編入)
 
** [[岩船郡]]のうち59村(村上県に編入)
 
* [[蝦夷地|東蝦夷地]]([[根室国]]。いずれも[[開拓使]]直轄領に編入)
 
** ネモロ場所([[目梨郡]])
 
** ネモロ場所([[標津郡]])
 
* [[蝦夷地|西蝦夷地]]([[北見国]]。いずれも開拓使直轄領に編入)
 
** モンベツ場所([[紋別郡]])
 
** モンベツ場所([[常呂郡]])
 
** シャリ場所([[斜里郡]])
 
 
 
上記のほか、京都守護職の役知領が[[河内国]][[河内郡 (大阪府)|河内郡]](8村)、[[讃良郡]](13村)、[[茨田郡]](1村)、[[交野郡]](8村)、[[若江郡]](6村)、[[和泉国]][[南郡]](4村)、[[日根郡]](15村)にあり、河内国内は[[河内県 (日本)|河内県]]、和泉国内は[[堺県]]に編入された。
 
 
 
=== 斗南藩(廃藩時) ===
 
* [[陸奥国]]
 
** [[二戸郡]] - 16村
 
** [[三戸郡]] - 67村
 
** [[北郡]] - 48村
 
* [[後志国]]
 
** [[太櫓郡]]
 
** [[瀬棚郡]]
 
** [[歌棄郡]]
 
* [[胆振国]]
 
** [[山越郡]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references group="注釈"/>
 
=== 引用元 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
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== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|editor=[[阿部猛]]|others=西村圭子|title=戦国人名事典コンパクト版|publisher=[[新人物往来社]]|date=1990-09|isbn=4-404-01752-9}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[村山和夫]]|title=高田藩|series=シリーズ藩物語|publisher=現代書館|date=2008-03|isbn=978-4-7684-7112-8}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[野口信一]]|title=会津藩|series=シリーズ藩物語|publisher=現代書館|date=2005-06|isbn=4-7684-7102-1|ref={{SfnRef|野口|2005}}}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[糠澤章雄]]|title=二本松藩|series=シリーズ藩物語|publisher=現代書館|date=2010-04|isbn=978-4-7684-7120-3|ref={{SfnRef|糠澤|2011}}}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[坂本俊夫]]|title=宇都宮藩・高徳藩|series=シリーズ藩物語|publisher=[[現代書館]]|date=2011-09|isbn=978-4-7684-7128-9|ref={{SfnRef|坂本|2011}}}}
 
*『藩史総覧』 [[児玉幸多]]・[[北島正元]]/監修 [[新人物往来社]]、[[1977年]]
 
*『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Aizu Domain}}
 
* [[白虎隊]]
 
* [[玄武隊]]
 
* [[朱雀隊]]
 
* [[青龍隊]]
 
* [[幼少隊]]
 
* [[日新館]]
 
* [[什 (会津藩)]]
 
* [[会津藩の北方警備]]
 
* [[溝口派一刀流]]・[[大東流合気柔術]] - 会津藩ゆかりの武術
 
* [[若松コロニー]] - [[アメリカ合衆国]]最初の日本人のコロニーだったといわれる場所
 
* [[松平保男#稚松会]] - 稚松会は会津藩ゆかりの高等武官の団体
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[[国立公文書館]][https://web.archive.org/web/20100210152855/http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/index.html デジタル・ギャラリー]「[http://jpimg.digital.archives.go.jp/jpg_prg/jgmWeb?%TmpFileDisp%env=jpeg2k_images/ezu/kuniezu_tenpo/052_mutsu.env 天保国絵図 陸奥国(会津領)]」
 
 
 
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会津藩(あいづはん)

江戸時代,陸奥国会津地方 (福島県) を領有した藩。鎌倉時代以来この地は蘆名氏の領地であったが,伊達政宗によって滅ぼされ,小田原征伐後は蒲生氏郷,慶長3 (1598) 上杉景勝がこの地を領した。関ヶ原の戦い後,氏郷の子蒲生秀行が再封,寛永4 (1627) 年加藤嘉明がこれに代り,40万石を領したが,その子明成のとき会津騒動が起り,同 20年除封され,代って3代将軍徳川家光の弟保科正之が出羽山形より移され,23万石を領した。3代正容 (まさかた) 以後保科氏は代々松平氏を称し,家門として重きをなし幕末に及んだ。江戸城溜間詰。正之は将軍家綱を補佐して幕政に参与する一方,藩政の基礎を固める施政に努め,名君と称せられた。5代容頌 (かたのぶ) は,家老田中玄宰を用いて藩政改革を行い,殖産興業をはかり,藩校日新館を起し,軍制を改めた。9代容保 (かたもり) は,文久2 (1862) 年,京都守護職となり,一橋慶喜とともに公武合体を推進した。文久三年八月十八日の政変では尊攘派と抗争し,元治1 (64) 年には禁門の変で長州軍と抗戦した。鳥羽・伏見の戦いに敗れてのちは奥羽越列藩同盟の中心となり会津戦争を起し,若松の鶴ヶ城にこもって敗北,子容大 (かたはる) は明治1 (68) 年陸奥斗南 (となみ) 藩3万石に減封され,廃藩。



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