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'''佐治 敬三'''(さじ けいぞう、[[1919年]][[11月1日]] - [[1999年]][[11月3日]])は、[[日本]]の[[実業家]]。元[[サントリー]]会長。基礎科学研究を熱心にサポートした実業家としても知られる。
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'''佐治 敬三'''(さじ けいぞう、[[1919年]][[11月1日]] - [[1999年]][[11月3日]]
  
== 経歴 ==
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実業家。[[洋酒]]メーカーの草分けである寿屋([[サントリーホールディングス]])の創業者[[鳥井信治郎]]の二男に生まれたが母方の養子となる。1942年大阪帝国大学理学部を卒業後学者を志すが,実兄が急死したため 1945年寿屋に入社。[[ウイスキー]]「トリス」の大量生産販売体制を整えると,全国の都市の歓楽街に「トリスバー」を展開してサラリーマン層へのウイスキーの普及に努め,第1次洋酒ブームを巻き起こした。一方で「酒は文化」の考えのもと,編集長に[[開高健]]を起用した PR誌『洋酒天国』を創刊するなど,広告・マーケティング主導の経営戦略の先鞭をつけた。1961年社長に就任。1963年社名をサントリーに変更,ビール事業に進出すると事業を飛躍的に拡大させた。1985年から大阪商工会議所会頭を務めた。[[サントリー美術館]][[サントリーホール]]などを開設,サントリー文化財団を設立して学芸賞や音楽賞を設けるなど出版・文化事業にも貢献した。みずからも音楽や俳句をたしなみ,油絵はプロ並みであった。1990年サントリー会長。1976年藍綬褒章,1986年フランス芸術文化勲章,1989年勲一等瑞宝章,1990年[[レジオン・ドヌール勲章]]を受章。
{{年譜のみの経歴|date = 2016年5月}}
 
* 1919年11月1日 サントリー創業者の[[鳥井信治郎]]の次男として大阪で生まれる。
 
*: 小学校の時に母方の縁者<ref>敬三は自伝(「へんこつ なんこつ 私の履歴書」)などで佐治家を「母方の縁者」としているが、母である鳥井クニは香川県の下級士族、小崎家の出であって、佐治家と小崎家には関係はない(「佐治敬三 夢、大きく膨らませてみなはれ」小玉武著、「佐治敬三と開高健 最強のふたり」北康利著)</ref>と養子縁組をして「佐治」姓となったが、そのまま大阪の実父母のもとで暮らした。
 
* [[1942年]]4月 [[大阪帝国大学理学部]]卒業
 
* [[1945年]] サントリーの前身である壽屋に入社
 
* [[1946年]] 壽屋(現[[サントリー|サントリーホールディングス]]株式会社)の全額出捐により、財団法人 食品化学研究所を設立、初代所長に着任。
 
* [[1961年]] 壽屋代表取締役社長に就任
 
* [[1963年]] 壽屋からサントリーに社名を変更
 
* [[1971年]] [[関西公共広告機構]]を設立(現在の[[ACジャパン]])
 
* [[1976年]] [[藍綬褒章]]を受章
 
* [[1979年]] 食品化学研究所を財団法人サントリー生物有機科学研究所と改称
 
* [[1980年]] 生物有機科学研究所理事長に着任し、日本で初めて[[ポストドクトラルフェロー|ポストドクトラルフェローシップ]]を開始した。
 
* [[1985年]] [[大阪商工会議所]]会頭に就任
 
* [[1986年]] フランス[[芸術文化勲章]]を受章
 
* [[1987年]] [[大阪バイオサイエンス研究所]]設立に諮問委員として関与した。
 
* [[1988年]]2月 [[東北熊襲発言]]による舌禍騒動を起こす。
 
* [[1989年]] [[勲一等]][[瑞宝章]]を受章
 
* [[1990年]] サントリー代表取締役会長に就任
 
* 1990年 フランス[[レジオンドヌール勲章]]を受章
 
* 1999年11月3日 [[大阪府]][[吹田市]]で[[肺炎]]のため80歳にて死去
 
 
 
== 家族・親族 ==
 
佐治敬三は[[工学者]]・[[平賀譲]]の三女と結婚したが、長男の[[佐治信忠|信忠]]を出産直後に妻が21歳で早世。その後元[[住友銀行]]頭取・[[大平賢作]]の娘と再婚した。先妻との間に生まれた信忠はサントリー代表取締役社長を経て、現在は会長を務める(サントリーは現在でも非上場企業であり、[[同族経営]]である)。また後妻との間に生まれた娘は[[チェリスト]]の[[堤剛]]に嫁いだ。
 
 
 
== エピソード ==
 
* [[ACジャパン]](旧:公共広告機構)の発起人として知られる。文化事業にも多く取り組んでいた。
 
* [[ダイキン工業]]3代目社長の[[山田稔 (実業家)|山田稔]]、[[森下仁丹]]2代目社長の[[森下泰]]とは親友だった。佐治は森下の葬儀委員長を務めて、告別式で弔辞を読んでいる。上記を含めた多くの実業家や、他に[[文化人]]との親交も多い。
 
* [[宝塚歌劇団]]の創団歌としても名高い「すみれの花咲く頃」を愛唱していたことで知られる。
 
* 大相撲・若貴兄弟の[[タニマチ]]として知られ、[[花田虎上|若乃花]]夫妻の媒酌人を務めたり[[貴乃花光司|貴乃花]]を自社製品のCMに起用したことがある。兄弟の父親である[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]も藤島親方時代の1980年代前半に自社製品のCMに起用されており、おそらく兄弟の角界入り前から縁があると思われる。
 
* [[サントリーホール]]設計に際して、ホール形式(ヴィンヤード形式)の決定は、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]の助言を受けた佐治がその場で発した「ほな、そうしましょ」の一言で決まった<ref>[http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/699 カラヤンが驚いた 佐治敬三の「ほな、そうしましょ」]([http://jbpress.ismedia.jp/ JBpress])</ref>。
 
* 文化貢献の一方、[[東北熊襲発言]]では佐治の見識を疑われる事態となった。
 
 
 
== 著書 ==
 
*『へんこつなんこつ――私の履歴書』日本経済新聞社、1994年
 
**(新装版『へんこつなんこつ――私の履歴書』日経ビジネス人文庫、2000年、『[[私の履歴書]]・経済人』第29巻、[[日本経済新聞社]]、2004年)
 
 
 
== 脚注 ==
 
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[[Category:サントリーの人物]]
 
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2018/10/7/ (日) 02:23時点における最新版

さじ けいぞう
佐治 敬三
生誕 1919年11月1日
大阪府
死没 (1999-11-03) 1999年11月3日(80歳没)
大阪府
職業 実業家
著名な実績 サントリー社長、会長
ACジャパン創設者

佐治 敬三(さじ けいぞう、1919年11月1日 - 1999年11月3日

実業家。洋酒メーカーの草分けである寿屋(サントリーホールディングス)の創業者鳥井信治郎の二男に生まれたが母方の養子となる。1942年大阪帝国大学理学部を卒業後学者を志すが,実兄が急死したため 1945年寿屋に入社。ウイスキー「トリス」の大量生産販売体制を整えると,全国の都市の歓楽街に「トリスバー」を展開してサラリーマン層へのウイスキーの普及に努め,第1次洋酒ブームを巻き起こした。一方で「酒は文化」の考えのもと,編集長に開高健を起用した PR誌『洋酒天国』を創刊するなど,広告・マーケティング主導の経営戦略の先鞭をつけた。1961年社長に就任。1963年社名をサントリーに変更,ビール事業に進出すると事業を飛躍的に拡大させた。1985年から大阪商工会議所会頭を務めた。サントリー美術館サントリーホールなどを開設,サントリー文化財団を設立して学芸賞や音楽賞を設けるなど出版・文化事業にも貢献した。みずからも音楽や俳句をたしなみ,油絵はプロ並みであった。1990年サントリー会長。1976年藍綬褒章,1986年フランス芸術文化勲章,1989年勲一等瑞宝章,1990年レジオン・ドヌール勲章を受章。



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