「児島湾」の版間の差分

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[[画像:児島湖.jpg|thumbnail|260px|児島湖および児島湾の航空写真。締切堤防より東側が児島湾、西側が児島湖である。[[国土交通省]] [http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do 「国土画像情報(カラー空中写真)」]を基に作成。]]
 
[[画像:Kojima-bay.jpg|thumbnail|260px|児島湾大橋から西望]]
 
'''児島湾'''(こじまわん)は、[[岡山市]]にある[[湾]]。[[瀬戸内海]]の一部である。西側の一部は、[[児島湾締切堤防|締切堤防]]によって淡水湖の[[児島湖]]となった。
 
江戸時代~明治時代の[[干拓]]事業により、江戸時代以前に比べ湾の大きさはかなり小さくなっている。
 
  
==歴史==
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'''児島湾'''(こじまわん)
[[画像:Lake of Kojima.jpg|thumbnail|150px|児島湾締切堤防竣工記念切手]]
 
古くは[[児島半島]]は'''児島'''という島であった。[[奈良時代]]から始まった干拓と自然の堆積によって[[倉敷市]]・[[早島町]]方面は江戸時代初めには陸続きになり、東側に児島湾ができた。江戸時代以降、干拓が進められ児島湾はさらに小さくなった。
 
  
==湾内の港==
+
岡山県南部,児島半島の東部にある湾。近世初期は面積約 120km<sup>2</sup>であったが,現在では大部分が干拓され,残りの水域も西部は淡水化して[[児島湖]]となっている。江戸時代岡山の池田藩によって干拓工事が進められ,明治初年には 70km<sup>2</sup>に縮小した。明治以後,大阪の藤田組によって干拓が進められ,藤田村が形成された。なお第2次世界大戦後は国営により干拓が進められた。干拓地は機械を早くから取入れた先進農業地として知られている。旧児島湾沿岸には妹尾 (せのお) ,八浜 (はちはま)などの漁村が発達していた。
*[[岡山港]]
 
*[[新岡山港]]
 
*[[九蟠港]]
 
  
==橋梁==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
*[[児島湾大橋]]:[[1983年]]完成。
 
 
 
==流入する河川==
 
*[[旭川 (岡山県)|旭川]]
 
*[[百間川]]
 
*[[吉井川]]
 
 
 
==干拓事業==
 
 
 
==発行物==
 
*[[1959年]][[2月1日]]、児島湾締切堤防竣工の額面10円の[[記念切手]]が発行されている。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[高島宮]]
 
*[[速吸門]]
 
*[[藤戸]]
 
*[[亀石まつり|亀石神社]]
 
*[[珍彦]](宇豆毘古命)
 
*[[吉備津彦命]]
 
*[[桃太郎]]
 
*[[藤田伝三郎]]
 
*[[野崎武左衛門]]
 
 
 
==外部リンク==
 
* [http://www.pref.okayama.jp/soshiki/detail.html?lif_id=5965 岡山県ホームページ - 児島湾の生い立ち]
 
 
 
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{{デフォルトソート:こしまわん}}
 
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[[Category:中国地方の湾]]
 
[[Category:中国地方の湾]]

2018/12/26/ (水) 09:12時点における最新版

児島湾(こじまわん)

岡山県南部,児島半島の東部にある湾。近世初期は面積約 120km2であったが,現在では大部分が干拓され,残りの水域も西部は淡水化して児島湖となっている。江戸時代岡山の池田藩によって干拓工事が進められ,明治初年には 70km2に縮小した。明治以後,大阪の藤田組によって干拓が進められ,藤田村が形成された。なお第2次世界大戦後は国営により干拓が進められた。干拓地は機械を早くから取入れた先進農業地として知られている。旧児島湾沿岸には妹尾 (せのお) ,八浜 (はちはま)などの漁村が発達していた。



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