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[[File:North-India-locator.png|thumb|250px|濃赤色の部分は北インドの中心部(狭義の北インド)を、ピンク色の部分は言語的・文化的に北インドの影響が強い地域(広義の北インド)を示す]]
 
[[File:Désert-du-Thar.jpg|thumb|タール砂漠([[ラージャスターン州]])]]
 
[[File:Chinkara.jpg|thumb|インド・ガゼル([[マディヤ・プラデーシュ州]])]]
 
[[File:Indian-Tourism-The-History-of-Chittorgarh-Fort1.jpg|thumb|[[アークシャルダーム寺院 (デリー)|アークシャルダーム寺院]](デリー)]]
 
'''北インド'''([[英語]]:North India または Northern India、[[ヒンディー語]]:उत्तर भारत [[ラテン文字]]転写:Uttar Bhārat]、{{lang-ur|شمالی ھندوستان}} ラテン文字転写:Shumālī Hindustān])は、[[インド]]の北半部を大まかに示す地理的概念である。'''[[ヒンドゥスターン]]'''(Hindustan)とも呼ばれる。[[文化圏]]として広く見る場合には現在のインドだけでなく、[[パキスタン]]や[[バングラデシュ]]、[[ネパール]]にもまたがる概念である(地図では黄緑色の部分)。いっぽう同じインド領内でも[[南インド]]のほか、[[北東インド]]もあまり含まれない。
 
 
 
== 地形と気候 ==
 
[[地形]]的には[[ヒンドスタン平原]]が大きな面積を占める。また[[気候]]的には[[温帯夏雨気候]]([[亜熱帯]])、[[熱帯]]の[[サバナ気候]]、[[乾燥帯]]の[[ステップ気候]]などにまたがり、北辺の[[ヒマラヤ山脈]]などは[[高山気候]]にも分類される。
 
 
 
== 民族や言語 ==
 
[[民族]]的には主に[[インド・アーリア人]]を祖とする人びとが[[居住]]しており、[[言語]]的には[[インド語派]]の[[サンスクリット語]]を起源とする言葉を大多数の者が日常的に使用しているため、[[ヒンディー語]]と[[ウルドゥー語]]を同一の言語とみた場合の[[ヒンドゥスターニー語]]が実質的に[[共通語]]として機能している([[ボリウッド]][[インド映画|映画]]で使われる言語がこれである)。
 
 
 
しかし他に同じサンスクリット起源でも[[ベンガル語]]や[[パンジャーブ語]]、[[マラーティー語]]などの言語を[[母語]]とする者も多いうえ、少数だがサンスクリット起源ではない[[指定カーストと指定部族#指定部族|部族]]の言語や[[英語]]を母語にする者もいる。
 
 
 
== 歴史と宗教 ==
 
=== 古代 ===
 
[[古代]]北インドでは[[十六大国]]と呼ばれる国が覇を競い、[[宗教]]的には[[カースト制度]]に基づく[[バラモン教]]が支配的だった。これへの批判として[[仏教]]や[[ジャイナ教]]が生まれ、十六大国のなかから抜け出した[[マガダ国]]の[[マウリヤ朝]]なかでも[[アショーカ王]]が特に仏教を厚く保護した。しかし王朝が移り変わる中でバラモン教は土着信仰を取り込んで[[ヒンドゥー教]]となり、[[グプタ朝]]や[[ヴァルダナ朝]]の時代にはヒンドゥー教のほうが仏教よりも優勢となっていた([[インドにおける仏教の弾圧]]、[[ヒンドゥー教における釈迦]]も参照)。仏教は[[タントラ教]]の影響を受け[[密教]]化したものの、むしろヒンドゥー教に吸収される結果となった。吸収を拒む一派は[[チベット]]に移り、[[チベット仏教]]を作り上げた。
 
 
 
=== 中世・近世 ===
 
その後、[[中世]]に侵入した[[ガズナ朝]]、[[ゴール朝]]そして[[デリー・スルターン朝]]、[[ムガル帝国]]と続く時代には[[イスラーム]][[王朝]]の力が強く、北インドのイスラーム化が進んでいった(しかしヒンドゥー諸勢力の抵抗も強かった)。またムガル帝国の時代には、ヒンドゥー・イスラームの双方から影響を受けた[[シク教]]が、[[パンジャーブ]]を拠点に創始された。
 
 
 
=== 近世・近代・現代 ===
 
[[西欧]]諸国はすでに[[ポルトガル]]が[[ゴア]]などに主に[[キリスト教]][[布教]]・[[貿易]]のための拠点を設けたりしていたが、1757年の[[プラッシーの戦い]]ののち[[イギリス東インド会社]]は[[ベンガル地方]]から直接統治を開始・拡大していった。そして1857年の北インドを中心とする[[インド大反乱]]を経て東インド会社は解散され、[[イギリス領インド帝国]]となった。皮肉にも、この国は漠然と「インド」と捉えられてきた地域を統一した最初の[[政体]]であった。
 
 
 
その後、1885年に結成された[[インド国民会議]]は[[マハトマ・ガンディー]]や[[ジャワハルラール・ネルー]]を得てインド独立の方向に邁進していくことになる。彼らの路線は「[[非暴力]]・不服従」だったが、ほかに[[急進派]]・武闘派だった[[スバス・チャンドラ・ボース]]、いまだ残るカースト制度を告発し旧[[不可触民]]の解放に尽くした[[ビームラーオ・アンベードカル]]の存在も忘れてはならないだろう。だが結局[[ヒンドゥー教徒]]と[[イスラム教徒]]の対立は解消されず、[[第二次世界大戦]]後の1947年に[[イギリス]]から独立した際には[[インド・パキスタン分離独立|インド・パキスタン分離]]という結果となり、ガーンディーの理想・主張は実現せず北インドは[[政治]]的に分割されることとなった。
 
 
 
なお現在も少数派宗教として[[シク教]]・[[キリスト教]]のほか、古代インド発祥の[[仏教]]・[[ジャイナ教]]などの信者も残っている。
 
 
 
== 南北インドの著しい差異 ==
 
[[日本]]や[[欧米]]をはじめ、[[海外]]の諸国ではインドというと、まず先に連想されるのは北インドの事物であることが多い(例えば[[タージ・マハル]]は北インドの[[アーグラー]]にある)。従って、わざわざ「北インド」と限定していう場合は、現代でも[[ドラヴィダ人]]・[[ドラヴィダ語族]]が大多数を占め言語的・[[文化]]的に大きく違う「[[南インド]]」への対義語という面を強調するニュアンスもある(例えば現在、ウィキペディアでは「南インド」は35言語版が存在するのに対して「北インド」は21言語版しかなく、非対称である)。[[インド料理|料理]]や[[食文化]]も北インドと南インドではかなり異なる。
 
 
 
== インド政府による狭義の「北インド」 ==
 
{{ウィキプロジェクトリンク|南アジア|[[ファイル:India_78.40398E_20.74980N.jpg|43px]]}}
 
{{ウィキポータルリンク|地理|[[画像:Gnome-globe.svg|34px|Portal:地理]]}}
 
なお狭義の「北インド」は現在のインドの行政上の区分で、[[インドの地方行政区画]]のうち[[ジャンムー・カシミール州]]、[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]、[[ウッタラーカンド州]]、[[ハリヤーナー州]]、[[パンジャーブ州_(インド)|パンジャーブ州]]、[[ラージャスターン州]]、[[ウッタル・プラデーシュ州]]、[[ビハール州]]、[[ジャールカンド州]]、[[チャッティースガル州]]、[[マディヤ・プラデーシュ州]]、そして[[チャンディーガル]]および[[デリー首都圏]]を指す(地図では濃緑色の部分。ビハールとジャールカンドの両州は[[東インド]]に含まれる場合もある)。
 
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File:Indoarische_Sprachen.png|インド・アーリア語派の分布図
 
File:Asian_Elephant_at_Corbett_National_Park.jpg|コルベット・ナショナル・パーク
 
File:Amer-fort.JPG|[[アンベール城]]
 
</gallery>
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|North India}}
 
{{Wikivoyage|en:Northern India|北インド{{en icon}}}}
 
* [[インドの地理]]
 
* [[インド文化圏]]
 
* [[ヒンドゥー文明]]
 
* [[インドの歴史]]
 
* [[南インド]]
 
 
 
{{India-stub}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:きたいんと}}
 
[[Category:インドの地理]]
 
[[Category:インドの地域]]
 

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