北前船

提供: miniwiki
移動先:案内検索
ファイル:Michinoku Maru 01.jpg
復元北前船 みちのく丸

北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称[1]。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸から下関を経由して瀬戸内海大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかうのことである。西廻り航路西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地北海道樺太)にまで延長された。

概要

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都室町幕府が開かれ、畿内が経済だけでなく政治的にも日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。

江戸時代になっても、経済面で上方京都大坂)の存在は大きかった。例年70,000石以上のを大坂で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。

一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率良く大量輸送するため、河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で、大坂市場は「天下の台所」として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船は、はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であった。18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した[2]。北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて、航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる[3]。これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。こうした不便さや海難リスク、航路短縮を狙って、播磨国市川但馬国円山川を通る航路を開拓する計画(柳沢淇園らが推進)や、由良川保津川を経由する案が出たこともあったが、様々な利害関係が介在する複数の領地を跨る工事の困難さなどから実現はしなかった。

明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見解もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。

明治維新以降の封建制の崩壊(廃藩置県)や電信郵便の登場は、各種商品相場の地域的な価格差を大きく減じさせ、一攫千金的な意味が無くなった。さらに日本全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、江戸期以降続く北前船の形態は消滅していった。

その後も北前船の船主たちは小樽や函館などを主な寄港地として、北海道のニシンを主な積み荷として北陸と北海道を結ぶ、北前船によく似た航海を明治後期頃まで行っていた。日露戦争において、ロシア海軍水雷艇が北海道沖の日本海を航行中の右近家所有の弁才船「八幡丸」を拿捕・撃沈した記録も残っている。

名称

北前とは上方の人間が北陸など日本海沿岸の北国方面を指して言う歴史的地域名称であり[4]、北国の物資を運んでくることから北前船と呼ばれた。北陸では北前船のことを「弁才船」と呼ぶが[1]、これは元々、瀬戸内海で発達した弁才船が北国と上方を瀬戸内海で結んだ西廻り航路の発達によって日本海沿岸にも進出していき全盛期の北前船の主力となったことから[4]

北前船の一年

1年1航海の場合

  • 下り(対馬海流に対して順流)
    • 3月下旬頃、大坂を出帆。
    • 4 - 5月、航路上の瀬戸内海・日本海で、途中商売をしながら北上。
    • 5月下旬頃、蝦夷が島(北海道)に到着。
  • 上り(対馬海流に対して逆流)
    • 7月下旬頃、蝦夷が島を出帆。
    • 8 - 10月、航路上の寄港地で商売をしながら南下。
    • 11月上旬頃、大坂に到着。

北陸など各地の北前船の船員は、大坂から徒歩で地元に帰って正月を迎え、春先にまた徒歩で大坂に戻ってきた。

北前船の荷

下り荷(北国方面)に関しては以下の通りである。

  • 蝦夷地の人々への飲食品(米や砂糖)、瀬戸内海各地の塩(漁獲物の塩漬けに不可欠)、日常生活品(衣服や煙草、紙、瀬戸内沿岸産の蝋燭)、製品()など。

上り荷(畿内方面)は殆どが海産物で、下り荷ほど種類は多くない。鰊粕商品作物栽培のための肥料)、数の子身欠きニシン、干しナマコ昆布干鰯など。特に昆布は大坂から薩摩藩を経て、琉球王国経由で中国()にまで密輸出された。富山藩には「薩摩組」と呼ばれる担当の部署があり、中国からは漢方薬の材料を輸入して、富山の売薬を支えた。北海道、越中国薩摩国、琉球(沖縄)、清までのルートを現代では「昆布ロード」[5]と言うことがある。

北前船の地域への影響

北前船の往来は周辺地域に大きな影響を与えた。1つは周辺農村の生産力の増加である。積荷のなかには冬の間の農閑期を利用した副業(プロト工業化)によるものもある。それらの需要が高まるにつれ、商品が優先的効率的に生産された。もう1つは造船産業の発達という可能性で、寄港地が船修理、船建造の作事を任されていたという。これらのことが周辺地域にも流通面を超えた影響を及ぼしたと思われる。また寄港地周辺では近畿の文化が伝わり、言葉・食文化等に影響がみられ、本州日本海側における文化の伝播役としての役割もあった。

北前船の寄港地

江戸期の百科に記載された大坂から奥州・田南部間の海路の地名は次のとおり[6]

大坂尼崎西宮兵庫、須磨、鳥崎、(播州)明石、江崎(えがさき)、高砂、亀島、鞍掛、室津赤穂御崎(坂越浦)、(備前)大田武(おおたふ)、牛磨津(うしまづ)、寄木崎、犬島、出崎、潮通(しおとおし)、日比、下津井、(備中)水島、(備後)白石(とも)、穴太(あぶと)、桃島、江崎、海布苅(めかり)、(安芸)野内(のうち)、多田文(ただみ)、高崎、唐船(とうせん)、日門泊(ひもんとまり)、高鳶(たかとび)、蒲刈(がまかり)、亀首(かめがくび)、加呂宇土、津和野、(周防)由宇、家室(かむろ)、上関(かみのせき)、蔵司(そうし)、室積(むろづみ)、向島、花香(はなか)、岩屋、丸尾、水崎(みさき)、(長門)本山、艫崎(へざき)、下関(しものせき)、稟受(ひんしゅ)、瀬戸崎、萩(はぎ)、須佐、江須、(石見)浜田、護府(ごふ)、猪津(いのづ)、(出雲)瓜生(うりう宇龍?)、可嘉、三保関(みほのせき)、泊(とまり)、(因幡)加留(かる)(但馬)諸崎、芝山、朝日、夕日、泰座(たいざ)、(丹後)経崎、宮津、名料、(若狭)小浜(こばま)、常上(つねかみ)、丹生浦(にううら)、立石、伊呂、(越前)敦賀、河野、米良(めら)、三国、堀切、(加賀)安宅(あたか)、本吉、宮腰、(能登)阿武屋(あぶや)、福浦、伊木須、和島(わじま)、塩津、(越後)今町、柏崎、出雲崎、新潟、瀬波(せなみ)、(出羽)鼠関(ねずのせき)、加茂、酒田、小刀津、本庄(ほんじょう)、(みなと)、舟川、栂島(とがしま)、野代(のしろ)、(奥州)津軽・深浦、鯵沢(あじがさわ)、小泊(ことまり)、今別(いまべち)、赤根沢(あかねざわ)、田南部(たなぶ)

北前船で活躍した主な船主

ファイル:北前船主久保邸.jpg
加賀市橋立港の船主久保家邸(移築)

日本海航路で海運を行った船のうち、狭義に「北前船」と呼ばれるのは日本海在地資本によるものに限る見解もある。この見解によれば、高田屋嘉兵衛のような上方資本で日本海航路で廻船を運航した場合は「北回り地船」として区別する[7]。以下では、広義の北前船に関わった船主を挙げる。

現代における北前船

太平洋戦争後、日本の経済・人口の中心が太平洋ベルトに移ったこともあり、日本海側各地域にとって、北前船はかつての繁栄の象徴として誇りの対象となっており、観光地域おこしに活用されている。関連する博物館なども多くあるほか(後述)、「みちのく丸」のように復元された帆走可能な和船もある。

石川好新田嘉一平田牧場会長)らの呼び掛けで2007年以降、「北前船寄港地フォーラム」が開かれている。2017年には文化庁により、日本遺産の一つとして「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」に、北海道から福井県までの7道県11市町が認定された[8]

北前船を主要テーマとする博物館

北前船を題材とする作品

  • 堀田善衛『鶴のいた庭』
  • 浅見光彦シリーズ『化生の海』
  • 西村道男『海商三代ー北前船主西村屋の人びと』(1964年 中公新書)
  • 堀田成雄『北前船と西村屋忠兵衞』(1963年 羽咋市郷土研究叢書)

備考

脚注

  1. 1.0 1.1 北前船コトバンク
  2. 石井(1995年a)、125頁。
  3. 石井(1995年a)、127頁。
  4. 4.0 4.1 東アジア「地中海」における 歴史生態基盤の地域性と文化交渉野間晴雄、関西大学『東アジア文化交渉研究』別冊 8、2012
  5. 読売新聞北陸支社『北前船ー日本海こんぶロード』、北日本新聞社『昆布ロードと越中ー海の架け橋』などがある。
  6. 寺島良安和漢三才図会吉川弘文館、1906年復刻(原著は1713年正徳3年))、1032-1033頁・『大坂より西国および北国に至る海路』の項
  7. 石井(1995年b)、36-37頁。
  8. [解説スペシャル]北前船で連携 訪日客誘致へ…寄港11市町 地方振興期待『読売新聞』朝刊2018年5月3日(2018年5月8日閲覧)。
  9. 石井(1995年b)、40-41頁。
  10. 富山で北前船は「バイ船(せん)」と呼ばれていて、これは「倍、倍」儲かるからだと森家では紹介される。

参考文献

  • 石井謙治 『和船 I』 法政大学出版局〈ものと人間の文化史〉、1995。ISBN 978-4588207617。
  • 同上 『和船 II』 同上〈同上〉、1995年。ISBN 978-4588207624。
  • 小納弘 『荒海の北前船』 ほるぷ出版、1982年。
  • 加藤貞仁 『北前船 寄港地と交易の物語』 無明舍出版、2002年。 ISBN 4-89544-317-5
  • 加藤貞仁 『海の総合商社 北前船』 無明舍出版、2003年。ISBN 4-89544-328-0
  • 清水金二 『北前船と日本海の時代』 校倉書房、1997年。 ISBN 4-7517-2730-3
  • 高田宏 『日本海繁盛記』 岩波新書、1992年。 ISBN 4-00-430208-0
  • 高田宏 『海と川の物語』 学陽書房、1996年。 ISBN 4-313-47007-7
  • 牧野隆信 『北前船の研究』 法政大学出版局、2005年、OD版。ISBN 4-588-92026-X

関連項目

外部リンク